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    <title>ガブリエラブックス</title>
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    <description>女性が求める愛の形を描いた『ティーンズラブ文庫』の決定版レーベル、ガブリエラ文庫。</description>
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    <dc:creator>Color Me Shop!pro</dc:creator>
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    <title>【9月30日発売】没落回避に監視役の貴公子を利用したはずが、逆に甘く囲い込まれて離してくれません【本体1300円+税】</title>
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<content:encoded><![CDATA[
<div class="btn_toshop"><a href="https://www.amazon.co.jp/dp/4815543976/"_blank"><img src="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/etc/btn_amazon.png?20140512153023" alt="amazonで購入"></a></div><div class="book_cap">
●著：春瀬湖子
●イラスト：森原八鹿
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543976
●発売日:2026/9/30</div>

<p><span class="f130 black">荒んだ領地を立て直すために婿を取ったら有能な上に相性抜群だった件<br /></span>

お人よしの両親のせいで領地の存続が危ういため、一時的に爵位を継ごうとする伯爵令嬢イエッタ。未婚の令嬢という点に難色を示す国王と宰相に焦れて、宰相の息子ヴェルクを婿にくれと言ったら、監視役兼婿として受け入れられることに。
やってきた彼はイケメンで有能。領地経営を手伝うのなら見返りを示せと言うヴェルクに「じゃあ、おっぱい揉む？」と口走ったら、俄然その気になってしまい!?

</p><img src="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/etc/gab_otameshiyomi_banner.png?cmsp_timestamp=20180420182727"><br />



序章　まさかまさかの没落の危機!?



カイゼル伯爵家は決して裕福ではないけれど貧乏というほどではなく、私は穏やかな両親と少し年の離れた可愛い弟と仲良く暮らしていた。
今はもう亡くなってしまったが、祖母がカイゼルの領地を治めていた頃からの貯蓄もあったし、大好きな祖母に連れられて行った領地の湖の景色は本当に美しく、この領地の中で大好きな場所のひとつだった。
祖母の代わりに父が領主となってからは貯蓄こそ減ったが、それでも盆地ゆえに農作物も安定した生産ができている。
七歳下の弟は、領地をよりよくするための勉強がしたいと隣国の全寮制の学園へと進学し、まだ十二歳だというのに日々勉学に励んでいた。
また、領民との関係だってうまくいっている。
多少お人好しすぎる両親のことが懸念点というくらいの、ごくごく平凡で幸せな家。そんな伯爵家の長女として生を受けた私、イエッタ・カイゼルは、将来弟の治めるカイゼルの領地でのんびりスローライフをしようなんて、その時までは思っていたのだ。
「……え、隣の領地にまた支援？　ウチにそんな余裕あった？」
「うん、そうなんだ。なんでもクラーセンでは冷害が酷かった影響が出てるらしくて……」
「れ、冷害!?　ウチにはそんな被害出てないわよ!?　しかも三年連続じゃない！」
「大変だよねぇ、可哀想に」
（いやいやいや、あり得ないでしょ！）
これは人助けだよ、とどこか誇らしげに笑う父に血の気が引く。
「隣の領地よ、カイゼルの領地と離れてないけど!?　絶対騙されてるから！」
「局地的な冷害だったのかなぁ」
私の指摘に不思議そうな顔をした父は、それでも、と再び口を開いた。そしてどこか言い聞かせるように私の瞳をじっと見つめる。
「だけどもしこれが本当で、領民が飢えたら大変じゃないか。貸したお金はいつか返ってくるよ、何よりこれでみんなが救われるんだ」
「そうよ、イエッタ。お父さんは人助けをしたの」
（いやいやいや、何回目なの!?）
ほのぼのとした雰囲気を漂わせながら、笑い合う両親にゾッとする。確かに局地的に冷害が出ることがないとは言わない。言わないけれど、確かめもせずカイゼルの備蓄を当たり前のように減らしていくなんてあり得ない。
ウチがものすごく裕福で余裕のある領地だったら話は変わったのだろうが、平々凡々なこの領地は決して他者を無条件に援助し続けられるほどの蓄えはないのだ。
「帳簿、帳簿を見なきゃ……」
「おぉ、イエッタも経営に興味があるのかい？　ウチの子供たちは優秀だなぁ」
（嬉しそうにしてる場合じゃないから、お父様ッ）
にこにこと笑顔を浮かべる父に内心文句を言い、慌てて帳簿を確認する。
カイゼル伯爵家を継ぐのは男児である弟だが、七歳年の離れている弟が成人するまで少しでもサポートしようと一通りの経営は私も学んでいた。そのお陰で、この両親の行き当たりばったりなお人よし領地経営に一層不安を覚える。
（ま、まずいわ）
ブルブルと震えながら過去の帳簿も確認すると、今年に入ってすでに支援は四回目。これでは穏やかな両親、ではなくカモにされている両親ではないか。
しかも今回の支援で我が領の備蓄をすべて使ったらしく、収支はプラマイゼロ、むしろマイナスになりそうだ。このままでは次年度に国へ納める税金は支払えない。ギリギリまで節約し、次年度をなんとかやり過ごしても、父がこのままでは再来年にはもっと大きな収支のマイナスが出てしまう。
マイナス収支の先に待っているのは、当然だが領地を治める能力なしの烙印だ。
（このままじゃ弟のレフィが帰ってくるまでに没落しちゃう……！）
まだ幼い弟が早々に留学を決めたのは、成人してすぐにこのお人好しすぎる父から爵位を継ぎ、この没落との綱渡り状態を解消したかったからかもしれないと今更ながらに理解する。
（ごめんね、お姉ちゃん、両親の雰囲気に流されて危機感が足りなかったかも）
この両親に任せていては弟が戻ってくる頃にはもう没落してカイゼル伯爵家はないだろう。今更気づいたその事実、だが、まだ間に合う。
「私が今すぐカイゼル伯爵家を継ぐわ」
（レフィが爵位を継ぐまで、私がこの領地を守らなきゃ！）
意を決し、私は両親へそんな宣言をしたのだった。
第一章　手際がいいのは最初から
弟のレフィが正式に爵位を継ぐまで、私が爵位を継ぎカイゼルの家と領地を守る。
そう決意し、両親へその宣言をしたまでは順調だった。むしろマイペースな両親は、突然爵位を継ぎたいと言い出した私に対し、呑気にも娘の成長だと喜んだくらいである。
――だが、まさかここで躓くとは！

「まだカイゼル伯爵は若く健康だ。いますぐ爵位を、それも令嬢が継ぐ必要性はないと感じるが？」
（必要性があるから申請を出してんのよ！　この頭でっかち！）
苛立ちをどうにか押し殺し、神妙な顔を取り繕う私の前に座っているのはこの国の陛下だ。その横には宰相も控えている。まさかそれほど大きくないカイゼルの爵位譲渡問題に、陛下まで立ち会ってもらうなんていささか大げさにも思えるが、爵位の譲渡には陛下の承認がいるのだから仕方ない。
「まだ令嬢には婚約者もいないだろう。それなのにいきなり爵位を継ぐのは……」
陛下が戸惑ったように、自身の隣に立つ宰相へと視線を投げる。宰相はというと、私が提出した申請書へと目を通していた。
「条件としてはすべて満たしております」
話が進まないことに思わず口を挟むと、宰相が生意気だと私を咎めるように申請書をパシンと指先で弾き、ジロリと睨んでくる。さすが宰相、という威圧に一瞬怯みかけるが、ここで負けては弟が戻るまでの間に没落だ。私はゴクリと唾を呑み、深呼吸をして宰相の方へと視線を向けた。
代々宰相として国に仕えるペイルマン侯爵家。陛下の右腕として長年仕えるこの方が頷きさえすれば、きっと陛下は承認してくださるはず。ちゃんと家督を継げる人物だと認めてもらえるよう、ここで冷静さを欠くわけにはいかない。
「女性の爵位継承は認められております。それに私は現伯爵の実子で血筋も問題なく、また爵位を継ぐのに結婚の有無は関係なかったはずですが」
「生半可な覚悟で継げるものではない。爵位を継げば当然だがそれ相応の責任が課せられるのだ、陛下の気遣いだとわからないのか？」
「気遣いだとおっしゃるのなら、提出した申請書を承認ください。覚悟もないのにここまで単身で乗り込みなどしないでしょう」
「婚期が遅れると、女性はなかなか相手が見つかりづらくなっていくと思うが？」
（まだ言うか！）
淡々と言い合いをする私と宰相の間で陛下が視線を彷徨わせる。
確かに特別重要な立地でもなく、領地としても大きくない。政治的に使えるような特産品もないカイゼルの領地の事情など、陛下は知らなくて当然だ。
書類上では今までも問題なく領地は治められており、重税を課すようなこともしていないため領民からの嘆願書なども出ていないはず。そして当主を引退するには父はまだ若すぎるというのもわかる。
（でもそれだと、あと数年で没落なのよ！）
領地が問題なく回っているように見えるのはあくまでも書類上だけで、改めて帳簿を確認すると祖母が残してくれた貯蓄は底をついていた。
現状は豊作だった年の備蓄を行き当たりばったりで吐き出すという、綱渡り経営である。
他の領地にさえ援助しなければ、もしくは援助の回数か量を減らせば、盆地ゆえに安定した気候を保てる我が領が食糧不足になるなどの問題も起こらず、次年度の税金もちゃんと国へ納められるだろう。父が問題なだけで。
（このまま父に任せていたら、来年の税金は払えないわ）
領民に足りない税を多く払わせるのは絶対避けたい。
だがこんな我が家の事情は、陛下と同じくやり手のペイルマン宰相であっても知らないだろう。
今まで目立った問題を起こしたことのないカイゼルの領地に、まさか没落の危機が訪れているとは考えていないはず。そうなれば、現状私の訴えは未婚で成人したての小娘が遊び半分で領地経営に興味を持っただけ。
一度爵位を継承すれば先代へ権利を戻すことはできない。実弟が留学中なのも未成年だということも提出した書類には記載があるので、今継げば最低あと六年は私が当主を務めなければならないということを理解しての心配なのだろう。
（六年後の私は二十五歳、確かに結婚適齢期を過ぎているものね）
婚約者がいれば話は変わるのだろうが、さすがに領地経営と結婚相手探しを同時にするのは厳しい。もし私が結婚したいと考えを変えた時、領地への対応が疎かになることを懸念する気持ちは痛いほどわかる。わかるが、ここで負けるわけにはいかないのだ。
（結婚、せめて私に結婚相手がいれば！）
誰でもいい。未婚で、婚約もしていなくて、ついでに弟への爵位継承がいつになるかも正式に決まっていないため、相手は爵位を継ぐ予定のない次男か三男。もしくは我が領のように当主が健在で、まだまだ爵位を継ぐ予定のない令息。
必死に考えを巡らせ、脳内でそんな都合のいい相手を思い浮かべる。
「爵位を継ぐにしても、結婚相手を見つけてからでいいのではないか？」
（それだと遅いのよ）
諭すようにそう言われるが当然頷くわけにはいかない。
しかし必死に誰かいないかを考えてみても、ちょうどいい相手は思いつかなかった。
黙り込む私を催促するように陛下が咳払いをし、それを合図に宰相が捲っていた書類を閉じて腕に抱える。ダメだ、このままだと却下を宣言されてこの話が終わってしまう！
（本当に誰もいないの!?　この際愛ある結婚じゃなくていいから！　私がちゃんと当主として仕事をこなせるか監視する目的の結婚でもいいから！）
そこまで考え、ハッとする。そうだ、本当の夫婦のように愛を育む必要などないのだ。
「では、これにてこの話は――」
「私が結婚していればいいんですよね!?」
勢いよく顔を上げた私がふたりの方を見上げる。完全に話を畳もうとしていた宰相は、まだ粘ろうとする私へ少し呆れた表情を浮かべつつももう一度向き直ってくれた。そんな宰相へ、私は真剣な視線を送る。
「私に、息子さんをください！」
しんと静まり返った部屋に、私の声だけが反響していた。
（ペイルマン侯爵家は子息がふたり！　しかも婚約者はふたりともいなかったはずよ）
宰相という立場がある侯爵の子息たちの結婚相手は慎重に吟味される。結婚という縁ひとつで派閥に偏りが出てしまうからだ。だがそれは、今の私には都合がいい。
「私が結婚していないことも懸念点のひとつなんですよね？　ならば私の結婚相手として、ペイルマン侯爵家のご子息をください。もちろん長男を、なんて言いません」
（さすがに次期侯爵を指名したら、私が玉の輿狙っているみたいだものね）
ペイルマン侯爵家の長男は次期宰相に指名されるのでは、と噂されるほど優秀な人物で、すでに王城の官僚としても働き始めているという。
対して次男の噂はあまり聞かないが、次男が優秀かどうかはどちらでもよかった。
（宰相の息子、その肩書だけでいいもの）
「私がちゃんと領地を守れるのかが心配なら、監視役としてご子息を派遣してください。私を好きなだけ見張っていただいて結構です。ご自身の息子なら、気兼ねなくなんでも聞けますよね？」
「一体何を」
「それにカイゼルは領地も小さく、伯爵位ではありますが影響力の少ない平々凡々な貴族です」
突然の申し出に宰相だけではなく陛下も唖然とする。そんな彼らに私は追い打ちとばかりに口を開いた。
「だからこそ我が家と縁続きになっても、派閥の偏りに影響が出ることはないでしょう」
「つまり次男のヴェルクを、伯爵となる君の婿によこせということか？」
「明け透けに言えばそうです。あ、ですが私は弟が成人したタイミングで伯爵位を譲るつもりでおりますので、婚姻期間はその間だけでも構いません」
「ふむ、爵位はその期間で必ず譲るということで間違いないのかな？」
（どうしてそこを気にするのかしら）
それほどまでに女性が当主であることに不満を持っているのかと内心苛立った私だが、ふとペイルマン侯爵家の当主は目の前にいる宰相本人ではなく、彼の妻だったと思い出す。そしてここまで遠回しにやめるよう説得されていた理由を察した。
（あー、自分の奥様と私を比べてるんだわ）
侯爵家の当主をしながら息子ふたりを育て、宰相である自分を支える優秀な妻をそばで見ている彼だからこそ、突然爵位を継ぎたいと実績もなく、婚約者もいない小娘が乗り込んできたことに不安を覚えたのだろう。
「ご安心ください、弟は立派な当主となるべく爵位を継ぐため隣国まで留学をしております。そのため、私が当主を務めるのは弟が戻ってくるまで。ご子息にご負担を強いるのもその期間のみです」
「なるほど」
「それに、もし私の領地経営に問題が発生した場合、すぐに管理状況を確認できる方が都合がいいのではないでしょうか？」
「それはまぁ……、確かにそうだが」
「ご子息の結婚も、私という防波堤があれば変な派閥に狙われることもないでしょう」
ここぞとばかりに言葉を重ねる。そのお陰か、それとも爵位継承があくまでも弟が戻ってくるまでの期間限定と聞き安心したのか、最終的には一度顔合わせをし、次男であるヴェルクが了承するならばという条件でこの結婚が成立したのだった。

　　　　　　　　◇◇◇

それから三日。
カイゼル伯爵家の応接室で私と対面するのは、ペイルマン侯爵家の次男であるヴェルクだ。約束通り顔合わせに来た彼は淡い金の髪を輝かせ、ルビーのような真っ赤な瞳をにんまりと細めてこちらを眺めている。口元には人好きのする笑みを浮かべ、整った顔は令嬢たちが騒ぎそうなものだった。だが、どこか軽薄そうに見えるのはなぜなのか。
「本日はご足労おかけし申し訳ありません。早速ではありますが、結婚の合意書へ私側はもうサインを済ませてますので、了承いただけるならサインをお願い致します」
説明をしながら事前に準備していた書類を彼の前へと差し出す。王城へ呼び出されたあとすぐに準備しておいて本当に良かった。
（まさかこの速度で会いに来られるとは思っていなかったもの）
奇襲かと思うほど迅速な対応に、残念ながら家の中まで取り繕う余裕がなかったことを悔やむ。だが、まだなんとか踏みとどまっているお陰で目も当てられないほどみすぼらしいという状況ではなかったことにホッとした。
内心焦っている私とは対照に、ヴェルク本人はにっこりと笑顔を浮かべ出された紅茶に口をつけている。
どこか楽し気な様子だが、それと同時に私を品定めするような瞳に思わず息を呑んだ。
彼自身が私に興味を持っていないことはその視線からも明白である。それでもここにやって来たのは、きっと宰相から言いつけられたからに違いない。
（もし断られたら、ここで目標が潰えるわね）
夢のスローライフという目標どころか家ごと潰えてしまう。
せめて彼に気に入ってもらえるような目を引く容姿であればよかったのに、と思いつつ父譲りの平凡な緑の瞳と母に似た焦げ茶のストレートな髪は、残念ながらどちらかといえば地味な部類だ。いや、もし私の見た目が多少整っていたところで、彼の方が美しそうではあるけれど。
「なんか、熱烈なプロポーズしてくれたんだって？」
くすりと笑いながらそんなことを言われ、口の端がピクリとひきつる。
「別にプロポーズってわけじゃ……」
「えー？　息子さんを私にください！　って父上と陛下の前で宣言したって聞いたけど。しかも俺をご指名で」
（指名とかしてないわよ、長男じゃなくて構わないって言っただけなんだから）
まぁ逆に言えばそれは次男を指名したと言えなくはないか、と考え直し、反射的に出かけた文句をグッと抑えてなんとか口角を上げる。ムスッとしていては、うまくいく交渉もうまくいかない。
「……期間限定で構いません。弟がカイゼル領を継ぐまでの代理を務める期間だけ婚姻を継続していただければそれ以上は求めません」
「あ、敬語やめてー？　俺たち夫婦になるかもなんだし」
私の話を無視し、笑顔で小首を傾げるヴェルクに今度は目元が痙攣したかのように引きつるが、苛立ちを表に出してはまずい。私はここぞとばかりに満面の笑みで両手を可愛らしくパチンと叩いた。
「ぜひ夫婦になっていただきたいです！　それにヴェルク様としても、伯爵家で過ごすのんびりとした生活は悪くないはずですよ。お家的にも結婚相手は当たり障りのない我が家はピッタリですし、六年間は拘束してしまう形にはなりますが、婚姻中も離縁後もヴェルク様には自由にしていただければと思っていますっ！」
「敬語ー」
渾身のかわいこぶりっこを一言で流したヴェルクがあまりにも憎らしく見えて舌打ちしそうになったが、それだけはなんとか堪え、私は目の前に座る彼へジトッとした視線を向けた。
「……とにかく頷いてくれない？　そっちだって次男で爵位は継がないんだし、私との結婚は悪くないと思うわよ。もちろん爵位を譲渡したあとは離縁してもらってもいいし。どうせその顔ならいろんな令嬢に追い回されてるんでしょ？　でも侯爵家の立ち位置的に結婚相手はかなり慎重にならなきゃいけない問題なんだから、私はいい壁になると思うけど」
「へぇ、それが素なんだ」
「悪い？」
「いや、なんか男らしくて嫌いじゃないけどね」
（令嬢に男らしいって、全然褒め言葉じゃないんだけど）
だが彼の中で好感度が上がったのならなんでもいいか、と思い直し、こういう考えがそう言われる所以かと思わず目を細める。
「とにかく六年間は結婚相手に悩まされなくてもいいのはかなりのメリットじゃないかしら。六年もあれば情勢も変わるかもしれないし、政治的に選べなかった令嬢と秘密の恋とか楽しむのもいいと思うわよ」
「というかそもそもなんだけどさ、なんで離縁前提？」
「え」
不思議そうに問われ、目を見開く。なんでと言われても、これは監視を兼ねた結婚だからだ。他意はない。
「政略結婚なんだから、愛がなくて当然じゃない。私がこの結婚に求めているのは爵位を継ぐ条件に既婚であることを求められたからだもの。目的を達成したあとは自由にしていいと思うのは当然じゃない？」
「でもさ、離縁しちゃうとイエッタ嬢がかなり損じゃない？　死別ではない離縁なんて婚約破棄以上の醜聞だと思うけどな」
「死別ではない……って、つまり私に貴方を殺せと？」
「全く言ってないけど。大丈夫？　敬語外したらどんどん素どころか雑な面が出まくってるけど」
「敬語外してって言ったのはそっちよ」
「敬語を外してであって、仮面を外してじゃなかったんだけどなぁ」
少し考え込む素振りをし、突然あははとヴェルクが笑い出す。そしてスッと目を細め口元に手を当てた。
「政略結婚って元々こんなもんだよね。それなのに君が提示するのは俺に対してのメリットばかりだけど――、離縁の醜聞を覚悟してまでどうしても今継ぎたい理由って、なにがあるのかな？」
じっと私へと向けられる視線が冷たく感じ、じわりと冷や汗が滲む。
一瞬で纏う空気が張り詰めたのを感じ、ごくりと唾を呑んだ。
（さすが宰相閣下の息子ってことね）
長男ばかり噂の的になっていたが、やはりその血筋は本物ということなのだろう。
宰相に対してもわざわざ『監視役』という役割を提示したせいで、逆にそこから何かあると気づかれたのかもしれない。
「夫婦になるなら、後出しはダメだよねぇ？」
「夫婦になってからこそ伝えられる事情もあるんじゃないかしら」
「ふぅん。まぁ、それはそうか」
あっさりと引いてくれたことに安堵しつつ、僅かに居心地の悪さを感じる。
（没落問題に巻き込んでるのよね、騙し討ちすぎて詐欺で訴えられたりしないかしら）
ふとそんな不安が頭を過り、経済的に余裕がないことだけでも伝えておくべきかと迷っていると、ヴェルクが机に準備していたペンを握る。そして躊躇うことなく結婚合意書にサインをした。
てっきりもっと粘られるかと思っていたので、渡された書類に思わず目を瞬かせていると、クスリと小さくヴェルクが笑みを溢す。
「これで俺たちは運命共同体だ。で、どんな問題を抱えてる？」
「後悔しない？」
「そこは後悔させない、とか言ってほしいとこだけど。まぁ、部外者状態の俺に家の内情を伝えられないってのはその通りだしね。あとなんか面白そうだから乗ってあげる」
（何にも面白い要素はなかったはずだけど）
一体どの会話に面白さを感じ取ったのかはわからないが、結果的に合意してくれたのならこっちのものである。私はふぅ、と小さく深呼吸をしてから口を開いた。
「ヴェルク様って、帳簿は読める？」
「ん？　読めるよ」
（まぁ、宰相を担う一家だものね。帳簿くらい読めるか）
聞きようによっては失礼な発言だったが、ヴェルクは気にならなかったらしい。もしかしたら私と同じで細かいことはあまり気にしないタイプなのかもしれない。
「じゃあ、これを」
相手が誠意を見せてくれたのだから、私側が出し惜しみするのはおかしいだろう。
そう考え、思い切って我が家の直近の帳簿をヴェルクへ渡すと、少し不思議そうな顔をしながらパラリと捲る。そして思い切り吹き出した。
「あー、なーるほどね？　ふぅん、あはは、確かにこれはあの執着と粘りになるか」
「この件が表沙汰になったら、どうなることか……」
「シンプルに没落だよねぇ」
クックッと笑みを溢しつつ、あっさりとそう断言する。はじき出されたその結論に、私も小さく頷き同意を示した。
「領地が赤字になれば商人も寄りつかなくなるわ。利益の出ない相手と商売を続ける理由なんてないし、取引先がなくなれば収益は回収できない。それどころか売るはずだった作物や加工品は在庫として積み上がるだけ。現金にできなきゃ、国への税金が支払えないわ」
「税金が払えなきゃ、そう遠くない未来に屋敷が差し押さえられ、領地も返納され王家の管轄になるねぇ」
「そうなのよ！　このままじゃ弟が戻ってくるまでに没落……あぁあ、農作物で直接納税ができれば！」
「まぁ、そういう交渉もなしではないけど――」
ヴェルクがじぃっと見ていた帳簿を閉じ、机へと置く。
「だからこその期間限定、ねぇ。実際に弟クンが戻ってきた時、その地位をそんなにあっさりと手放す理由はなんだろうと思っていたんだけど……。確かに、その座に執着がないならあの言葉たちは真実だったってことだ」
「当たり前でしょ。こんなめんどうな仕事、本当だったらしたくないんだから！」
「そのわりには必死だったみたいだけど？」
「なによ、そこまでじゃないわよ。まぁ、弟は可愛いし、この地は……私の育った地でもあるからね。両親のことも嫌いじゃないのよ、むしろ人としては尊敬できるわ」
（当主でいるには、少しばかりずる賢さが足りないだけ）
善人が誰にとっても善人とは限らない。父のその善意は私たち家族と領地にとっては毒で間違いないのだ。
そしてそんな父のような善人ばかりではないのも、この世の理だろう。
（ヴェルク様が私にとっての善人であるといいけれど）
領地の現状を知ったからこそ、彼がこれからどう行動するのかは注意が必要だ。今からの彼は、夫であり私の監視役になるのだから。
「だからまぁ、娘として。巻き込んで悪いんだけど、これは私がやるしかないから仕方なくよ」
「それにしては鬼気迫る武神のようだった、って聞いたけどね」
（どんなよ!?）
宰相と陛下にはあの日の私がそのように見えていたのかと思わずげんなりする。
なかなか不名誉な称号ではあるが、それでもなんとかカイゼルの領地は首の皮一枚繋がりそうで同時に心から安心はした。
あとは私が頑張るだけだ。
「というわけで、申し訳ないんだけどお金がなくて大々的なお披露目はできないの。書類上だけの結婚でいいかしら」
「婚約式も結婚式もなしってこと？」
「帳簿見たでしょ。それに離縁するってわかってるのに大々的なお披露目をしてもねぇ。ドレス代ももったいないし」
婚約期間をすっ飛ばして婚姻合意書にサインをしてもらったのだ。今から婚約者としてお披露目するのもおかしいし、だからといって大々的な結婚式をする余裕はカイゼルの領地にはない。
侯爵家にとっても、監視役としてという側面ありの結婚なのだからわざわざ他の家に知らしめる必要もないだろう。
「それだけど、なんでイエッタ嬢はそんなに離縁したいんだ？」
「私っていうよりヴェルク様の方じゃない？　正直その見た目なら選び放題じゃない。私みたいな地味な伯爵令嬢より、もっと釣り合う令嬢はいくらでもいるでしょう？」
「思ったより俺の見た目の評価が高いようで」
「いいものはいいと評価するタイプなの」
そう言い切り、目の前に置いた紅茶を一口啜る。すっかり冷めてしまってはいたが、第一段階をクリアした安堵感からかいつもより美味しく感じ――
「へぇ。でも俺、離縁する気はないんだよねぇ」
というヴェルクの言葉に思い切り紅茶を吹き出した。もったいない。
「ど、ど、どうして!?」
「そもそも離縁にあんまりメリットを感じなかったし。情勢が変わっていることに賭けて好きな人を作るより、イエッタ嬢を好きになる方が健全じゃない？」
「いや……それはまぁ、そうかもしれないけど」
動揺したまま机に置かれた帳簿とヴェルクを見比べる。
（帳簿も読める、宰相一家の次男。一時的でも女当主の婿として身を置くことを了承してくれる相手、か）
確かにこれだけの好条件だ。私としても、このまま婚姻を継続してくれる方がありがたい。
「わかったわ。離縁をしなかった場合、付き合わせたお詫びにちゃんとヴェルク様にもスローライフを約束する」
「スローライフねぇ」
「何よ、文句ある？　スローライフは最高よ、ゆったりお昼寝しながら気ままに過ごすの」
「できるといいけどね？」
少し含みを持たせたような言い方に疑問を覚える。だが、まずはこの没落の危機を乗り越えなければスローライフどころではないかと思い直した。
「その未来のために結婚したんだから、やるのよ」
「うん。頑張ってね」
「……え？」
完全に他人事な発言にポカンと口を開く。
「手伝う気はない感じ？」
「手伝うことは提示された条件になかったでしょ？　俺に提示された条件は、監視役として結婚することだけじゃなかったっけ」
「で、でも離縁しないなら没落しないよう協力するべきじゃない？　ヴェルク様だって困るでしょう」
「俺は困らないよ。没落したら、その報告を父上にしつつ実家に帰るだけだし」
（こ、コノヤロウ！）
平然とそんなことを言われ、苛立ちを覚える。けれど言っていることは正論だ。
（でも、こうなったら手伝ってほしいわよね）
表向き我が家の帳簿は、備蓄を涸らしたとはいえまだマイナスにはなっていない。
だが、現金化ができないせいで納税もできず、新たな何かを購入することもできず、お金を作ろうとしても売るべき備蓄が空。それゆえに遠くない未来の没落に足を踏み入れてしまった。
その状況を、帳簿を軽く見ただけでヴェルクは断言した。彼が宰相一家の次男であるということを除いても、判断能力と未来を見通す力が彼本人にあるのだろう。
（私はお父様の性格と今までの流れを見てたからそれがわかったけど、ヴェルク様は直近の帳簿しか見ていないもの）
長男の評判に隠れてしまっているようだが、彼がかなり優秀なのは間違いない。そして優秀な人材と知ってしまったなら、是が非でも協力してほしいと思うのは当然の流れだった。
「手伝うメリット、俺にないよねぇ。それとも何か手伝えばご褒美でももらえるのかな？」
「メリット……ご褒美……」
領地経営を学びはしたが、それでも弟の補佐をできればという程度。父よりはうまくやる自信があるが、だからといって弟が戻るまでに領地を立て直し潤せるかと考えれば、私だけでは力不足かもしれない。そんな不安の、足りない部分を補ってくれるかもしれない人材なのだ。
離縁しないならその能力を借りられると思ったのだが、さすがにその考えが甘すぎたらしい。力を借りたいのなら、彼に利益を提示しなければ。
（何か、ヴェルク様を頷かせるメリットってないかしら）
資産はペイルマン侯爵家の方が圧倒的に多い。将来のスローライフだって、我が家じゃなくとも次男の彼なら兄が継いだ家でどうとでもできる。
カイゼルの領地で採れるものが珍しい鉱石なら、その希少性で釣れたかもしれないが、我が領の特産品は珍しくもない農作物だ。
（我が家にあって侯爵家にはないもの……はないから、私にあって、彼にないもの……）
私が持っていて、ヴェルクが持っていないものは何だ。何か、何か――
ぐるぐると脳内に答えの出ない悩みが駆け巡る。答えが見つからない焦りと、今何か言わなければ、という状況が私を血迷わせたのだろうか。
「あ、じゃあ、おっぱい揉む？」
「……は？」
「え？」
（な、何を言ってるの、私！）
完全に今口にすべきではない単語が自分の口から飛び出し、一気に顔が熱くなった。
「ちがっ、間違えたの、その、ヴェルクになくて私にあるのってこの膨らみくらいかなって思いついちゃった結果、口が滑ったというか」
「うはっ、あはっ、あはは！　あー、焦りすぎて呼び捨てになってるし」
「ヴ、ヴェルク様！　に！　膨らみはないから！」
「いや、全然呼び捨てでいいよ。ふはっ、結婚するんだし俺もイエッタって呼ぼうかな」
「とにかく今のはその、間違いなの。持っているものと持っていないものを考えてたら口が滑っただけなの！」
ヒィヒィと息も絶え絶えになりながら笑い続けるヴェルクに私は冷や汗が止まらない。やらかした。もう完全にやらかした。
「あー、確かに俺にその膨らみはないもんな？」
笑いすぎて涙まで出たのか、自身の目尻を指先で拭いながら彼の視線が私の胸の膨らみの方へ下がる。その視線の動きを察知し、私は両腕で守るように腕を交差させた。
「さ、最低！」
「えー？　いやいや、ここで俺を変態扱いするのはさすがに酷くない？　提案したのイエッタだよねぇ？」
「そ、それはそうなんだけど……」
完全にバカなことを口走ったと後悔で頭を抱えたくなっていると、どうしてか対面に座っていたヴェルクが私の隣へと座り直した。
「体で籠絡するってことだ？」
「だからその、他！　他のを考えるから！　時間をちょうだい!?」
「時間がなかったから俺をくれって言ったんじゃなかったっけ。そもそも俺、イエッタの正当な夫だしねぇ」
「待――、んっ」
突然唇が塞がれ、思わず目を見開く。
完全に悪ノリしたヴェルクに口づけられていると気づき、私の体が硬直した。
「あれ。口づけも初めてだった？」
「なっ、なっ」
「あ、俺も初めてだから安心してー？　俺の見た目で寄ってきてるのかハニートラップ仕掛けられてるのか見極めるのが面倒で、近寄ってくる令嬢は全員無視してたんだよね」
（それはそれでどうなのよ）
思わず内心文句を言う。口に出さなかったのは、再び口が彼の唇で塞がれたからだった。
「やっ、んんっ」
「イエッタの口の中めちゃくちゃ熱いな」
ふっと彼の吐息が頬に触れ、すぐにまた唇が重ねられる。唇の隙間をなぞるようにヴェルクの舌先が触れ、開けてほしいというようにつつかれた。
けれど、口づけなんてしたことがないせいでどうすればいいかわからず戸惑ってしまう。なんとか目は閉じたものの、口を開けた後はどうすればいいのか、呼吸の仕方だってわからないのだ。
「体、ガチガチだな」
「そんなの当たり前で――ひゃっ！」
ひとり言のようにヴェルクがそんな言葉を呟いたと思ったら、彼の手のひらが私の胸をそっと覆う。そのままむにゅりと服の上から揉み込まれた。
「あっ、んうっ」
初めて誰かに触れられるという感覚に驚き思わず声を上げると、その隙を狙ったようにヴェルクの舌が口腔内へと入ってくる。
歯列をなぞられ、窄めた舌先で上顎をくすぐられたと思ったら、どうすればいいかわからず奥に引っ込めたまま固まっていた私の舌に触れた。
「はは、こっちもガチガチなんだ。あんな提案してきたのに」
（だからそれは間違いなのに！）
抗議しようとしてもすぐにヴェルクが角度を変えて口づけるせいで何も言えない。結局私の文句は口の中に消えるだけだった。
「舌、伸ばせる？」
「ん、こう……？」
「そう。上手」
クスッと彼が笑った気配がしたと思ったら、伸ばした舌が彼の舌に絡められる。
くちゅりと小さな水音を溢しながら舌先が擦り合わされ、根本から扱くように動かされるとゾクゾクとした快感にピクリと肩が跳ねた。
「この先行投資って、どこまでもらっていいの？」
「ひぁっ!?」
やわやわと軽く揉む程度だったヴェルクの手が、乳房を握るように力強く動き小さな叫び声を上げる。服の上からだというのに先端があるあたりを何度も彼の手のひらが蠢き、乳房を持ち上げるように揉まれるとじぃんと先端が反応した。
（こんなの、知らないのに）
むにむにと私の胸を揉みしだきながらヴェルクがじっと私を見つめる。その視線から逃れたくて思わず顔を背けると、顔を近づけたヴェルクが私の耳たぶをガジガジと甘噛みした。
「止めないと、まだいいって思っちゃうけど？」
「んっ、あっ、きゃっ！」
ぬるりと耳穴に舌が入れられた瞬間、ぐっとドレスの胸元が引き下ろされる。




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    <dc:date>2026-09-08T16:50:12+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ガブリエラブックス</dc:creator>
    <foaf:topic><foaf:Image rdf:about="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/product/193427440_th.jpg?cmsp_timestamp=20260908165012" /></foaf:topic>
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  <item rdf:about="https://gabriella.media-soft.jp/?pid=193419539">
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    <title>【9月30日発売】公爵様の初恋の人探しは絶対詐欺！と疑う私に公爵様は本気なようです【本体1300円+税】</title>
    <description></description>
<content:encoded><![CDATA[
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●著：千石かのん
●イラスト：御子柴リョウ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543969
●発売日:2026/9/30</div>

<p><span class="f130 black">公爵の初恋の人探しを高みの見物するはずが、隣の変なイケメンがまさかの公爵本人で!?<br /></span>

春の女神に仕える治療師フレデリカは条件に合致するからと公爵アルベルトの『初恋の人』探しに強制参加させられた。詐欺を疑い人目に付かない場所で様子を窺っていた彼女だが、使用人を装っていた公爵を見破り、初恋の人に指名されてしまう。
「君が可愛くて柔らかくて小さいのがいけない」
いきなりキスしてくるアルベルトを拳で殴るフレデリカ。だが彼は動じず幸せそうに愛を囁いてきて――!?

</p><img src="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/etc/gab_otameshiyomi_banner.png?cmsp_timestamp=20180420182727"><br />



プロローグ



「お兄ちゃんはどこが悪いの？」
神殿の敷地内にある療養院の一室で、窓際に置かれた椅子に座り、外を眺めていた少年がフレデリカの呼びかけに振り返った。
肩まであるやや青み掛かった黒髪がさらりと揺れ、春の日差しの中、大きな銀色の瞳が真っ直ぐにこちらを映す。
白い肌が不健康さを表すようにやや青ざめ、線の細さと相まってどこかはかなげで消えてしまいそうな様子に、フレデリカは少し不安を覚えた。
現在八歳の彼女は、三年前に春の女神からの祝福を受け、治療の奇跡が使えるようになった。
まだまだ子供だが大人の治療師顔負けの修行をし、最近では依頼人の病や怪我の治療を独りで担当することも多い。
なので、それなりに人が持つ生命力のようなものを感じ取れるようになってきてはいたが。
「さむいの？」
青白い肌と銀色の瞳。それが氷と雪で出来た人形のように見えて、歩み寄ったフレデリカは小さな手で彼の頬に触れ、真っ直ぐに銀の瞳を覗き込んだ。
ひんやりとした感覚が掌に広がり、フレデリカは更に不安になる。
だが温かな指先で頬を包まれた少年は、ぽかんとフレデリカを見上げるだけだ。
「それともどこか痛い？」
ぺたぺたと陶器のようにすべすべな貌を触り、どこもかしこも冷たいことに不安を覚える。
「お兄ちゃん、だいじょぶ？」
あまりに無反応なので、遠慮なく覗き込めばサクランボのような赤の唇が震えながら開いた。
「君は……温かいね」
ぎこちなく持ち上がった少年の手がそっとフレデリカの手首に触れる。細められた銀色の瞳を覗き込みながら、フレデリカは笑った。
「うん。フレディねぇ、春の女神さまのしゅくふく？　があるから温かいんだよ」
得意げに宣言した後、そのままもにもにと少年の頬を揉む。
されるがままの少年が面白くて、けらけら笑いだすと無表情だった少年の目尻が下がり、ふにゃふにゃの笑い顔になっていく。
「なんで俺の頬を揉むの？」
「おにんぎょさんみたいだから。かたくてちべたい」
えへへ、と笑い返して更に揉むと、そっと少年が目を閉じた。
「お兄ちゃん、きれいだねぇ」
ゆっくりと手を離すと、頬がピンク色に染まったかんばせが露わになった。
先程の人形めいた冷たさが消え、今にも花開きそうな華やかさが漂っている。
「おねーさんみたい」
ほうっと溜息交じりに呟けば、ぱっと目を開けた少年が苦笑した。
「お兄さんね」
「きれいなお兄さんー」
再びけらけら笑いだすフレデリカに、少年は苦笑すると深く息を吐く。それに、はっとフレデリカが身を強張らせた。
「ごめんね、ぐあい悪いよね」
「え？」
療養院に来る人は皆具合が悪い人だ。少年は身体が冷たく血の気が無い。線が細く、今にも天の神の御許に召されそうなほど生気が薄いのだ。
いつまでも座ったままで話をしていてはいけないと、フレデリカは戸惑う少年の手首を掴んで立たせる。それから壁際に添えられた寝台に寝るよう指示した。
「今は寝る。食べる。いいですか？」
こちらを見上げる少年に強引に布団をかぶせ、人差し指を立てたフレデリカが念を押した。彼はクスクス笑うと、「はあい」と返事をくれた。
「君は何をしてくれるの？」
ここに会いに来た時点でなにか治療師としてやることがあったのだろう、と示唆されて、フレデリカはふむ、と腕を組んだ。
「はじめは何が悪いのか『もんしん』するんだけど……お兄ちゃんは……」
改めて彼を「見る」。
「……お兄ちゃん、ふしぎなものに好かれてるねぇ」
そう告げると、はっと彼が息を呑んだ。
「……わかるの？」
「わかるー」
「……それが俺の不調の原因？」
恐る恐る尋ねられて、フレデリカは目を細めて首を傾げた。
「……わかんない」
「……わかんないかー」
小さく笑う少年に、でもフレデリカは自信満々に答えた。
「でもだいじょぶ。フレディがちゃんと治してあげるからね」
いいこいいこ、と布団に押し込めた少年の額を撫で、それからフレデリカはぴょん、と飛び跳ねるようにベッドから離れた。
「おじいちゃんに説明してくるから、お兄ちゃんは寝ててね」
ひらひらと手を振り、フレデリカは大急ぎで部屋を出た。
それから神殿の神官長を務める祖父の元へと飛んでいき、少年の様子を語って聞かせる。
少年はやはり、なにものかの影響を受けており、その力のせいなのか身体が酷く冷たかった。そして背中に赤い痕がある……。
だが原因となりそうな「なにものかの影響」に触れることなく癒してほしいと、少年を連れてきた男性に言われ、不思議に思いながらもフレデリカは少年の身体を癒していった。
一緒に過ごしたのは恐らく半年くらいだろうか。
秋の気配が近づく頃、フレデリカは元気になった少年とお別れをした。
その別れの際に少年と何かあったのだが……今では全く覚えていない。
だが二十六歳になったフレデリカは時折思い出すことがある。
あの風変わりな、線の細い少年は今でも元気に生きているのだろうか、もしかして彼は神からの祝福を受けていたのではないだろうか、と……──。
第一章　特殊詐欺にはご用心
スキンヘッドに厳つい顔、筋骨隆々の体躯を備えたジェット・ヘリオトロープは、その外見からは想像もつかないが、バウンディア峡谷神殿の神官長だ。
春の女神を祀るそこで、三人の神官と二人の巫女をまとめ、癒しの力を備えた治療師二人のマネジメントも務める彼は、孫であるフレデリカ・ヘリオトロープにとって頼もしい祖父であると同時に厳しい存在でもある。
なにせ、「出張治療に出かけた際は三倍の報酬をぶんどってこい」と言い、それをフレデリカが八歳の時から徹底しているのだから。
「ただいま〜」
定期的に呼び出されている、もはやお得意様状態のルーエンブルク伯爵家から帰ってきたフレデリカは元気よく、神殿敷地内に立つ平屋のドアを開けた。
毛先がほんのりとピンク色に染まったクリーム色の金髪に、春の空色と同じ瞳を持った彼女は、一張羅のワインレッドのデイドレスの裾と、金糸で刺繍がされた白いショールをなびかせながら意気揚々と室内に踏み込んだ。
どっしりとした梁が天井を支える、石造りの平屋にフレデリカはジェットと二人で暮らしている。
亡くなった母の実家で、ここに越してきてもう二十年以上が経過していた。
「おう、伯爵から毟り取ってきたか？」
ちょうど午後のお勤めを終えたジェットがお茶のポットを持ったまま居間へと出てきた。厨房と一続きになったリビングと、その奥にフレデリカの部屋とジェットの部屋、客間がある。
お風呂とトイレは別にあるが、細い回廊で繋がっていた。
焼き立てカップケーキとともに現れた祖父と一緒に、ダイニングテーブルにつく。
「今日の報酬」
甘い香りに誘われて、一つ手に取りながら布の袋に収められた硬貨を祖父の方に押しやった。
「金貨五枚に銀貨二十三枚。よくやった」
市井で暮らす家族が二か月は暮らせる金額に、ジェットは満足気に頷いた。
依頼人から提示された報酬金額は金貨四枚だった。それをうまい具合に交渉して金貨一枚と銀貨二十三枚を上乗せしてゲットできたのはフレデリカの手腕である。
「伯爵家側が仲介料と称してだいぶぼったくろうとしてたから、姑息な真似をするなら考えがあるって言ってね」
普段、依頼人からの料金の三割を仲介料と称してルーエンブルク伯爵家が持っていくのだが、今回依頼人に確認を取った金額の半分を持っていこうとしていたので制裁としてこちらが八割、受け取るよう交渉したのだ。
向こうは渋い顔をしていたが、そもそもフレデリカ達ヘリオトロープ家には、隣の領地の伯爵に仕事を紹介してもらう必要はない。
他の領地と契約するだけだと淡々と説明すると、黙って八割を寄越してきたのだ。
「なんだ、勝手に自滅しただけか」
紅茶を淹れながら呆れたようにジェットが呟く。
「そうとも言うー」
もぐもぐとカップケーキを頬張っていると、祖父はふんと鼻を鳴らした。
「まあいい。金はあるところからじゃんじゃん使ってもらわんとな」
神殿と療養院の運営はほぼ寄付金に頼っている。
だが療養院にやってくる患者は貧しい者が多く、寄付と言っても農作物や反物、家具、工芸品なんかが大半だったりするのだ。
それらももちろん運営には欠かせないが、色も思想もなく、欲しいものに化けるのが金だ。
なので持っているところからありがたく頂戴するのがジェットのポリシーなのである。
「……そういや、今日治療したのはどこのお大臣だったんだ？」
お菓子は食べるのも作るのも趣味という、これまた外見を裏切る特技を持つ祖父がカップケーキにかぶりつきながら尋ねてきた。
「ん〜……グレンダル伯爵夫人かな？　はじめましての方で膝が痛くて困ってるって」
手を翳し、炎症を起こしているのがわかったので即座に「修復」し、微かに曲がっていた骨も綺麗に真っ直ぐに治したのである。
「喜んで帰ってたよ」
「今後のアドバイスもちゃんとしたのか？」
「うん。なるべく運動してくださいねって」
その時のことを思いだし、フレデリカが鼻を鳴らす。
「その時のルーエンブルク伯爵ったらさぁ」
馬車に乗って帰ろうとする夫人にそうアドバイスした時、見送りに出ていた仲介役の伯爵が微かに眉間にしわを寄せたのを思い出したのだ。
後ろにきっちりと撫でつけた薄い金色の髪と冷酷そうな細面。
昔はイケメンだったと思わせる顔つきだが、今は肌は色白く突き出た頬骨と細い顎が神経質そうな性格を物語っていた。
「健康になってしまったら金がとれないじゃないか、って不満がありありと出てたよ」
手に付いたカップケーキのくずを払い落とし、紅茶をあおって立ち上がる。そのまま厨房の水桶で食器を洗いながら、フレデリカは苦い思いを噛み締めた。
「患者さんを人として見てないの、丸わかり」
吐き捨てるように言えば、同じようにカップを持って隣にきたジェットが幾分和らいだ声で言う。
「そうだな。我々も金払いがいい相手からは集金してるが……また来てほしくて中途半端な真似をすることは死んでもやらないものな」
そんなのは治療師とは呼べない。
「……お前は伯爵とは違うよ」
優しい声がそう言い切り、力いっぱい握り締めていたヘチマのスポンジを取り上げられた。
顔を上げると、祖父の澄んだ青色の瞳が間近にあり、フレデリカは詰めていた息を吐き出した。
「うん」
そう。自分はあの伯爵とは違う。病を得たフレデリカの母を、使いものにならないからとあっさり「ルーエンブルク伯爵」とは違う。
ちらりと隣の祖父を見上げる。鼻歌混じりに食器を洗い始めるジェットが「正しい感覚」の持ち主で本当によかった。
（伯爵と同じ血が流れているというだけで嫌なのに……四分の一はおじいちゃんと同じだからと納得できている）
だから自分は間違えない。絶対に、伯爵のようにはならない。
生物学上の父である伯爵に対して抱いているのは恨みや憎しみではない。そういった感情はジェットのお陰で持たずに済み、単なる金払いの良い「依頼人」で収まっている。
今後もそれでいい。伯爵を父と呼ぶ日なんて、天が裂けても来ないだろう。
「おお、そうだそうだ、フレデリカ。お前に縁談が来てたぞ」
心の底にわだかまりそうだったもやもやした思いを払拭し、自分はヘリオトロープの娘だ、と再度認識を改めていたところにトンデモナイ爆弾を落とされて、フレデリカは目を見張った。
「はあ!?」
やや大きめの声が漏れる。
口を開けたまま固まるフレデリカを他所に、食器を拭き上げたジェットが大股で居間へと戻り、壁際の食器棚の引き出しから一通の手紙を取り出した。
「これだ」
「既に封が切られてるじゃないの」
やや呆れてそう返せば、ジェットは誇らしげに宛名を示してみせた。
「宛名はわしになっておる」
「……じゃあおじいちゃん宛ての縁談じゃない」
「んなわけあるか。つべこべ言わずに中を見ろ」
半眼で祖父を眺めながら、フレデリカは立派な拵えの封筒から真っ白で繊細な紙を引き出した。

ジェット・ヘリオトロープ様
この度ミストヘイズ公爵、アルベルト・マーキス閣下の花嫁を選ぶべく、閣下の『初恋の人』探しを実施いたします。
つきましては、ジェット殿の血縁であらせられるフレデリカ嬢が下記の条件に該当いたしますので、是非とも王都にあるミストヘイズ邸までいらしていただけますと幸いです。

【初恋の人の条件】　癒しの奇跡が使える、または医療の知識がある治療師──

そこまで読んでフレデリカは呆れた顔でジェットを見上げた。
「これって、春の女神に仕える神殿の巫女なら誰でも当てはまるじゃないの」
なんなんだこれは。巫女を集めてどうする気だ。初恋の人って胡散臭くないか？
早くも眉間にしわを寄せるフレデリカに、ジェットは自信満々に胸を張った。
「そうでもないぞ。ミストヘイズ公爵は現在二十八歳。その彼が初恋だというから幼少期か少年期の相手だろう」
その時期に知り合った現役治療師となると……。
「え？　めっちゃ年上じゃないの？」
思わずのけ反るフレデリカに、「話を最後まで聞け」とジェットが目をギラギラさせた。
「公爵閣下が求めているのは三十代までの女性だ。ということは、仮に十歳の頃に出会った相手に恋をしたとして……十八年前。その頃、十二歳くらいで治療師として名を上げていたものは少ない」
「……そうかなぁ」
確かにその頃、フレデリカは既に治療師として療養院で働いていたがバウンディア峡谷神殿は、その名の通り峡谷の入り口にあるため、僻地の部類として数えられ、巫女もそんなにいなかった。
一方、王都付近の春の女神の神殿には若い巫女や神官が大勢いると聞く。
治療の奇跡が使える者がどれくらいいるかはわからないが、片田舎の神殿でも、フレデリカが治療の奇跡を使えるのだからきっと大勢いるだろう。
というか、そもそもの問題として、ミストヘイズ公爵と自分に幼い頃接点があるのだろうか。
ふと、可愛らしい黒髪おかっぱ頭の、色白だった少年を思い出す。
知らず、彼女の手が首から下がっている「お守り」に触れた。
ブラウスの下、飾りひもの付いた紺色の袋の中には不思議な色合いの宝石が嵌った指輪があった。
いつから下げているのか覚えていないが、多分、母から貰った物だろう。そしてこの「お守り」とセットで思い出すのが──……黒髪おかっぱ頭の少年なのだ。
「……ちなみに、そのミストヘイズ公爵様の外見の特徴はわかる？」
彼なのだろうかと考え込みながら尋ねると、ジェットはいそいそと身を乗り出した。
「ミストヘイズの領地は東の国境沿い、『霧の森』から溢れる魔物の討伐を任されている武門の一族だ。その当主たる公爵閣下は、血気盛んな領地の騎士や拳闘家を束ねるに相応しい容貌だと聞く」
「……なるほど、筋骨隆々な……おじいちゃんみたいな容姿ってことね」
胡乱気な眼差しでジェットを見る。
「筋肉は裏切らないからな」
詰襟で袖と裾の長い黒衣の下には、割れた腹筋が潜んでいる。
「だが、公爵はお前が想像するようなマッチョではないぞ。細マッチョだ」
「………………へぇ」
割とどうでもいい内容で、やる気のない返事が漏れた。
ジェットはまだ何か話しているが、フレデリカは半分以上聞き流した……というか。
「おじいちゃん、なんでそんなに詳しいのよ」
いつの間にか筋トレの話になっているジェットに無理やり尋ねると。
「同じマッチョだからな！」
聞かなきゃよかった。
そうだ、お前も一緒に腹筋するか？　と目を輝かせて訊いてくる祖父を適当にあしらい、フレデリカは手紙をダイニングテーブルに置くとさっさと自室へと戻る。
祖父の趣味が筋トレなように、フレデリカにも趣味がある。
今日はもう自分の仕事は終わったので、これからは趣味の時間だ。
祖父を完全に無視して部屋へと足を踏み入れたフレデリカは、すぐに縁談のことも、ミストヘイズ公爵のことも、そしてあの線が細く儚げな印象だった少年のこともすっかり忘れてしまうのであった。


公爵家からの手紙が届いてから二週間後。
まだ夜も明けぬ暗い中、たたき起こされたフレデリカは眠い目をしたまま、鞄を手渡す祖父を恨めし気に見上げた。
「ねえおじいちゃん……私、寝たのついさっき──」
「公爵閣下が馬車を用意してくださったのだ。断ることなんぞできん」
ふんす、と鼻息荒く訴えるジェットに、フレデリカは遠い目をする。
問題の手紙が届いてから今日まで、公爵家の「初恋の人探し」に関する話題は、ヘリオトロープ家では出なかった。
なので結局フレデリカは該当ではない、とジェットが考えていると納得していたのに。
「おじいちゃん……絶対詐欺だって」
これはもう、フレデリカの本心だった。
「だって、王都には春の女神の神殿が大きいもので三つもあって、合わせて何百人もの巫女が仕えているっていうよ？　候補者はその中の誰かだって」
なんで辺境の神殿の、更には巫女でもない治療師が初恋の人なのか。
「きっと処女を集めて売り飛ばすんだよ。王都は危険だよ。孫がそんな目にあっていいの？」
「馬鹿を言うな。逆に詐欺だとしてなんでこんな辺境の巫女でもない治療師をわざわざ迎えにくるんだ？　それもこんな夜明け前に」
「それは」
おじいちゃんがお年寄りだからだ。
だがそれを言うとジェットは怒る。確かに同年代よりは元気で頭もしっかりしているが、王都や領地の流行には疎いし知識が古いことも多い。
バウンディアの街で出会う若者や奥様達、治療に来る人たちからフレデリカ達は情報収集をする。
お買い得商品から最新の流行ファッション。そして巷で蔓延する犯罪行為。
王都で流行っているものの情報も、ちょっとは遅いが手に入る。
だがジェットがそういった話題に触れる機会があるかといえば……ほぼない。
「あのね、おじいちゃん。今王都では家を出た息子を騙る手紙で、自分の困窮している状況を書いて心配した親御さんが指定の場所にお金を送っちゃう詐欺が流行ってるのよ」
がし、とジェットの逞しい肩を掴んで訴える。
「おじいちゃん、これはその部類に該当しない？」
くわっと目を見開き、力いっぱい訴える。必死な形相で祖父を見上げれば、彼はすっと眼光鋭い眼差しを細くすると、唇の片側を引き上げた。
「仮にそうだとしても、だ。わしの孫のお前なら詐欺集団から金を毟り取ってこれるだろ」
「ええぇ……」
げんなりするフレデリカの背中を押して、ジェットは家の外へと導く。
確かにそこに、小さなランタンを御者席にぶら下げた、紺色の馬車が一台止まっていた。
「ミス・ヘリオトロープ！　お迎えに上がりましたッ」
お仕着せ姿の御者が一歩前に出て勢いよくお辞儀をした。だがその仕草は使用人というよりも騎士のような、武の者を思わせるものでフレデリカは思わずのけ反ってしまった。
「きんにく……」
上着の前ボタンが今にも弾け飛びそうなのが暗がりでもよくわかる。振り返るとジェットが何故か感心したようにうんうん頷いていた。
「さあ、どうぞ。ミスター・ヘリオトロープ、責任を持ってお嬢様を我がミストヘイズ邸までお送りいたしますゆえ」
びしっと背筋を伸ばし、はきはき告げる御者に「よろしく頼みます」とこれまた武の者のようなお辞儀をし、ジェットはフレデリカににやりと笑って見せた。
これが詐欺だと思うか？　と言外に問われているようで、フレデリカは肩を竦めて首を振ると覚悟を決めて馬車へと乗り込む。
（もしこれが詐欺でも……そうね、詐欺師の拠点がわかったことになるから、ここを王都警察に売れば案外報奨金が貰えるかもしれない）
転んでもただで起きるつもりはない。
よっしゃ、と気合を入れ直して椅子に腰を下ろし、フレデリカは衝撃を受けた。
（ざ、座面がふかふか!?）
伯爵家に呼ばれて向かう際、寄越される馬車は一頭立て二輪馬車でいわゆる「辻馬車」という市街地を大急ぎで走る馬車だった。
混雑を避けるために軽量化されたそれは客車に二人も乗ればぎゅうぎゅうで、なおかつ椅子はただの木製で硬い。
伯爵家にも立派な紋章付きの二頭立て四輪馬車があったりするが、平民となり下がったフレデリカの迎えには、使い古された辻馬車しか来ない。
フレデリカもそれを疑問視しておらず、なんなら早いだけで乗り心地の悪いその中でも爆睡できるくらいには神経が図太い。
そのため、公爵家から寄越された二頭立て四輪馬車におののいてしまう。
「少し急ぎますが不具合があったらすぐにお申し付けください」
にかっと白い歯を煌めかせて告げる御者が、扉を閉める前に客車の中にランプを吊るしてくれた。ごくごく小さなそれでも室内を照らすには十分で、金と緑で装飾された豪華な内部をフレデリカはまじまじと眺めた。
（手の込んだ詐欺だなぁ）
詐欺である、という認識は外せない。ここまでして治療師を集めて何をする気なのだろうか。
静かに走り出した馬車の中、フレデリカは到着までじっくりと今回の申し出の本意を考えようと沈思黙考する。
だがそれも五分が限界で、一頭立て二輪馬車でも爆睡できるフレデリカが、ふかふかな椅子と乗り心地の良い二頭立て四輪馬車に抗えるはずもなく。
また夜明け前ということも手伝ってあっという間に眠りの淵を転がり落ちていくのであった。

　　　　　　　　◆◇◆

王国東の外れ。隣国との国境に近いミストヘイズ公爵領は、冬の女神に愛された土地として王都でも有名だった。
広大な領地には大森林が広がり、その奥にある「白橡の湖」は、伸ばした自身の手の指が見えないほどの濃い霧が立ち込め、更には魔物が生息する地として恐れられていた。
そのため、当主の公爵は代々、溢れ出る魔物討伐に日々を費やし、魔湖である「白橡の湖」の浄化に尽力していた。だが奮闘虚しく、ついに魔湖に竜が棲み付きだした。
現当主、アルベルト・マーキスも五歳から騎士として鍛錬を始め、九歳の時には従騎士となり立派な戦力となっていた。
だがそれがいけなかった。
子供ながら戦場に立ち、次期当主として領地の騎士たちから期待を掛けられていたアルベルトは当時とても綺麗でたおやかな容姿を持っていた。
肩まである艶やかな黒髪に、銀色の大きな瞳は澄んでいて、領民が崇める冬の女神のよう。
肌も雪のように真っ白で、美少年の片鱗を見せる彼に目を付けたのは……何を隠そう当の「冬の女神」自身だったのだ。
ある日、討伐作戦中のミストヘイズ騎士団本隊が、濃い霧の中で立ち往生する事態が発生した。その時、後続部隊との連携をとるため、伝令に選ばれたのがアルベルトだった。
自分にとってほぼ庭のような大森林は、視界不良でも大体の位置がわかる。
そのため、難なく後続部隊と合流して本隊へと引き返せたのだが……問題はそこからだった。
（おかしい……）
何度も目的の方向へと歩くのだが、その度に同じ場所に戻ってくる。自分がつけた目印が何度も目に入るのだから間違いない。
こういう時、魔物が張り巡らせた罠に足を突っ込んでいると知っていたアルベルトは、この空間を閉じているであろう魔術媒介を探し出し、たたき割る決心をした。
注意深く周囲の様子と気配に気をつけて再度歩き続けていると、やたらと不自然にねじ曲がった樹を発見した。
おそらくそれがこの地の空間を歪めている存在だろう。
アルベルトは腹に力を込めると、その樹を一刀のもとに切り倒した。途端、周囲を覆っていた霧が晴れ、冬枯れた木立の合間に真っ白な衣を身にまとった、銀の髪の女性を見つけた。
瞬かない星のような、凍った冷たさを誇る銀の眼差しがじっとアルベルトを見ている。
雪のように青白い肌を持ち、何より、長い銀色の髪が特徴的な女性は……一目見ただけで人ではないとわかった。
反射的に逃げようとするが、魔物よりもずっと高位の存在に魅入られていては動けない。
そうこうするうちに、アルベルトは冬の女神から「祝福」を授けられたのである。

この力は偉大で、アルベルトが振るう剣には常に「氷の魔法」が付与され、更には巨大な氷の壁を作り出して領地への魔物の侵入を抑えることができるようになった。
だがその代償は「冬の女神に気に入られ続ける」ことで、しばらくアルベルトは美少年風の装いを余儀なくされていた。
だがそれらの防御をもってしても敵わない魔物が、ミストヘイズ騎士団の前に立ちふさがった。
歴戦の猛者が次々と倒れ、父公爵も負傷して退去せざるを得なかった。
主を護りつつ後退する騎士たちと、その支援を担う従騎士たち。
残され、緊張して青ざめるアルベルトたち若い騎士の目の前に現れたのは、周囲の枯れた木々を踏み倒し、鱗を青紫に輝かせ、口元に眩い夕日の金を思わせる火花を漂わせた、巨大な竜だった。
（──紫竜……）
雷や稲妻の素とされるその竜を前に、アルベルトは震える。
ベテラン騎士が倒れたのは感電によるものだと気付いたが、対処できるかといえば違う。
それでもアルベルトは従騎士たちを「自領の今後を担う存在」として重要視していたので、彼らを護るべく剣を抜いた。
氷で雷を止めることができるか、など今まで考えたこともなかったが紫竜が雷撃を行うより先に氷漬けにしてしまえば問題ないだろう。
震える従騎士たちに退避を叫びながら、アルベルトは紫竜が電撃を放つ瞬間を見極めた。
閉じた口の端がバチバチと火花を散らす。
　転瞬、網目状の雷撃が空気を走り、アルベルトは咄嗟に地に伏せた。
雷は通りやすい部分を目掛けて走っていく。
背の高い木々を通過し、何人かが倒れる中、がばりと身を起こしたアルベルトは真っ直ぐに紫竜に向かって走った。
奴の巨大な眼差しが自身を捕えるより前に、アルベルトは剣を振るって大地に氷を走らせると足元から一気に凍り付かせようとした。
だが彼が持つ魔力は巨大な竜を凍り付かせるには足りず、喉元辺りで視界が真っ暗になった。
（駄目だ……！）
バキバキと破砕音がし、大地に倒れ込んだアルベルトの身体を衝撃が走り──……。
次に目が覚めたのは、真っ白な天井と壁、そしてのどかな日差しが差し込む病室だったのである。

　　　　　　　　◆◇◆

春の女神の神殿で治療師の少女と共に過ごした日々は、十八年経った今でもアルベルトの心の中に明るい日差しのように居座っていた。
可愛い少女で、アルベルトのことを「おにいちゃん」と呼んでちょこちょこ後ろをついてきた。
本人曰く、「おにいちゃんはまだ体調がよくないので、フレディがみまもるの」ということだったが、彼女の治療の奇跡のお陰で、体力回復のための外遊び中に具合が悪くなることはなかった。
従騎士として鍛えていたし、少女よりも体力がある方だと思うのだが、彼女は常に、どういうわけか元気いっぱい、エネルギー満タンな存在だった。
理由はただ一つ。彼女の祖父がムキムキのマッチョだったからだ。
（筋トレが趣味だったな……フレディは）
王都へと向かう馬車のなかで、アルベルトは外を眺めながら小さく笑う。
八歳の少女は従騎士のアルベルトと同等の身体能力を発揮し、木に登り川を難なく渡り、岩を飛び越え……非常に身体能力が高かった。
故に遊ぶのがとても楽しかったのだ。それと同時にアルベルトの容姿を少女は酷く心配していた。
青白い肌に線の細い体格はフレディにとっては「脆弱」な部類に入っていたのだろう。
比べる対象がマッチョ神官では仕方ない部分もあるが、彼女が心配そうに何回もアルベルトを振り返るのを見て一念発起した。
自分に足りないのはそう……筋肉だ。
フレディとの再会を誓って、領地へと戻ったその日から、アルベルトは美少年な外見をかなぐり捨てる決意をする。
冬の女神を祀る神殿からはクレームの嵐だったが、当の女神からの制裁は特になく、アルベルトは歳を重ねるごとに男性らしい外見へと変貌を遂げていった。
ただムキムキマッチョになることだけはやめてくれと両親……とりわけ母親から頼まれ、不承不承、腹筋が六個に割れる程度で留めるようにしている。
ただそれでも美少年からの変貌はすさまじく、先代公爵夫人は、周囲が狂犬と呼ぶくらい、やんちゃな若者へと様変わりした息子に力いっぱい嘆いていた。
「今の俺を見て、フレディはどう思うかな」
馬車の中で長い脚を組んで座るアルベルトは、どこかうっとりした様子で窓の外に目を細める。
おかっぱだった黒髪は、サイドを短く刈り上げたツーブロックで、やや長めの前髪を後ろに流しているため、一見爽やかでありながらもワイルドさが見える。
体型は細マッチョで、領地では魔物相手に日々暴れ回るため、騎士というよりは傭兵のような粗野な雰囲気が溢れている。
そう、全体的に街のちょっとやんちゃなお兄さんっぽいのだ。
だが紛れもなく公爵閣下で、その強さはぴか一。社交界には魔物討伐で忙しく顔を出していないが、顔立ちが端正なこともあり令嬢たちの間でちょっとした話題になっていた。
というのも、公爵という地位にいながら未婚で若い人物はそういない。
しかも容姿端麗との噂があれば、お近づきになろうと画策する令嬢や婦人は多くなる。
だがアルベルトはただ一人、幼少期に出会った初恋の『フレディ』こそが自分の伴侶であると決意していた。
そのため、怪我を治して領地に戻ってから幾度となくフレディの元へと手紙を送った。
だがそのどれもが、「宛先不明」で返送されてきたのだ。
まだ十代だったアルベルトは理由がわからず、自分が搬送された神殿の名称や場所を父公爵に何度も確認した。
場所はあっている。だが手紙はそのまま返ってくる。
何故だと両親に詰め寄れば、二人は顔を見合わせて苦々しく切り出したのだ。
手紙が届かないことが、全ての理由だと。
「ふざけんなって話だよなぁ」
気付けば凶悪な顔で低く呟いていて、正面に座る副官に呆れたような声でたしなめられていた。
「閣下、先代公爵夫妻も閣下の純粋なお心がお相手に届くよう、全力を尽くされていました。だが相手は国家の法や権力の及ばない神殿です」
アルベルトのお目付け役でもあり、引退した先代公爵の側近でもあったヴァイスに窘められ、思わず舌打ちしてしまう。
五十歳を超えてもなお、逞しい体躯とロマンスグレーと呼んでもいい髪、上品な髭を持つ彼は、穏やかな口調で話すがその実、魔物を前にした際には苛烈な行動に出る人物でもあった。
ようは怒ると怖いのだ。
「知ってるけどさぁ。神殿側が俺とフレディが接点を持つことを嫌ったってことだろ？」
それは何故なのか。
「……金の卵を産むガチョウを手放す馬鹿はいないということでしょうか」
淡々と答えるヴァイスに、はん、と小さく鼻で笑う。
「神殿がネックだったわけじゃあなさそうだけどな」
あの筋骨隆々マッチョマンな神官が、孫娘が金になりそうだからと外界との接点を全てシャットアウトするとは思えない。というか、彼は幼かったアルベルトにとても親切だったのだ。
効果的な筋トレと鶏ハムの作り方を教えてくれたし。
「ま、だからこそ、排除すべきがどこなのかわかった」
にんまりと、ニワトリを前にした狼のような好戦的な笑みを浮かべてアルベルトが言う。
「あれから十八年が過ぎた。俺だって効果的な方法くらい考え出せる」
得意げに顎を上げたところで、呆れかえった溜息をヴァイスから貰った。
「初恋の人探し、なんて……閣下以外には思いつかないでしょうねぇ」
過分に嫌味が混じっているが、本人は気付かないし気にしない。
「そう褒めるな」
「……褒め言葉に聞こえましたか」
「とにかく、我が家の家令から『ジェット・ヘリオトロープ氏』宛てに出した手紙は返送されてはこなかった」
つまりは初めてあの神殿に、アルベルトからの手紙が届いたということだ。
ボロボロの封筒に誤字だらけの住所氏名。滲んだインクの手紙を手にした者は、「療養院への救済依頼だろう」と考えたはずだ。
その中には立派な拵えの、家紋が押された本物の手紙が入っていることなど気付かずに。
あのころと比べてずいぶんと監視体制が甘くなったとそう思う。
十八年で「フレディ」との関係が変わったということだろうか。
「加えて念には念を入れヘリオトロープ嬢以外の令嬢や金持ちの娘なんかも一応募ったと」
「万が一、俺とフレディの間を隔ててた連中に疑いを持たれても困るからな」
招待状を送ったのはフレディただ一人。あとは協力者を介して新聞や王都の舞踏会等で事前に噂を流した。ミストヘイズ公爵がいよいよ花嫁探しに本腰を入れ出した、と。
「フレデリカ様お一人お呼びになるだけでよかったかと思いますがね」
呆れかえるヴァイスの一言に、かっと目を見開いたアルベルトが堂々と宣う。
「そんなの恥ずかしいじゃないか！」
「…………童貞の考えることはよくわかりませんね」
半眼で呟く失礼過ぎるヴァイスを、しかしアルベルトは咎めない。
「純愛と呼んでくれ。俺の全て……全部をフレディに捧げると決めたんだ」
目を閉じ、うっとりと呟くアルベルトの脳内ではめくるめくあんなことやこんなことが繰り広げられている。
ただ相手がどんな容姿に育ったのか見当もつかないので、思い描くのは理想の女性なのだが。
「……よくいえば純愛なのでしょうが……変態チックでもありますね」
遠い眼差しで呟くヴァイスから、アルベルトは以前夜伽の話を持ち込まれたことがあった。
彼曰く、アルベルトの愛が重すぎて受け取る側のフレディに多大なる負担をかけることになってしまうから、多少は経験を積んで欲望と愛をコントロールできるようになれと言われたのだ。
だがその提案にアルベルトは頷かなかった。
自分の「初めて」はフレディに捧げる。未熟な所為で彼女の身体に負担を掛けるのだと言われれば、「指南書を寄越せ」と堂々と要求した。
一応、娼館に金を払って見られても平気な連中の様子を見学させてもらったし。多分、大丈夫だ。
「彼女は俺を見分けてくれるだろうか」
馬車の窓に凭れかかりながら、憂える表情で悩ましげにつぶやく。
その姿はやんちゃな外見と相まって何とも言えない、凄絶な色気を醸し出している。だが悲しいかな同乗するのは五十を過ぎたおっさんで。
「拗らせた性癖のせいで逃げられないようにせいぜい気を付けるんですね」
「逃がすわけないだろ」
真顔で答えるアルベルトに、自分を死ぬ瀬戸際まで追いやった紫竜討伐を未だに諦めず、日々鍛錬と作戦立案を怠らない執念深さを垣間見て、ヴァイスは呆れたように口を閉ざした。
そんな二人を乗せた馬車は、やがてミストヘイズ公爵家の王都にある別邸へと滑り込んで行った。



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    <title>【8月28日発売】聖騎士様に引くほど溺愛されてましたが、国に別れさせられたので可愛い娘と生きていきます【本体1300円+税】</title>
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元子爵令嬢ファロウは聖騎士アヴィールに嫁ぎ、溺愛されていた。だが邪神討伐で彼が瀕死の重傷を負い、聖女である王女が秘術により同衾して彼を救ったと知らされる。
王家から離縁を迫られ、彼が目覚める前に身を引く形になったファロウ。愛するアヴィールの子どもを身ごもっていた彼女は、家族にも知らせず静かな村で愛娘と暮らしはじめるも、アヴィールは彼女を探し出し──!?

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第一章　邪神討伐



「今夜もきっと、お帰りは遅いわよね」
よく磨かれた窓ガラスに手を当てると、ひんやりとした夜の空気をガラス越しに感じた。
ファロゥ・ミランは夜の闇に溶けてしまいそうな濃い茶色の髪を凝視し、異質なほど青い瞳に射返されため息をつく。
聖騎士であるアヴィール・ミランを夫に持つファロゥの『夜』の始まりは遅い。
訓練や事務処理、会議で夫の帰宅が遅いからである。
それまでにファロゥは家宰と共に家のことを取り仕切り、苦手な社交に勤しみ、食事をして湯浴みをしてもゆっくりと自分の時間を持つことができている。
（……まあ、それもアヴィール様次第なのだけれど）
早く帰宅したり、仕事が非番だったりするときはすべての予定をキャンセルして夫婦の時間となってしまうこともよくある。
しがない子爵家の娘として生を受けたファロゥは、急に降って湧いた見合いで名門ミラン家のアヴィールと結婚した。
ファロゥはなぜか出逢った時からアヴィールに溺愛されている。
周囲が引くほどファロゥを想い、彼女のためならなんでもすると言って憚らず、職を辞して側にいると宣言したほど愛妻家（？）で、新婚時は、王城のお偉方が『なんとかアヴィールを仕事に来させてくれ』と頭を下げに来たほどである。
騎士団長と一緒に大司教にまで頼まれてしまっては、ファロゥは拒否することができなかった。
ゆえにファロゥは『毎日仕事に勤しむアヴィール様素敵！』とか『アヴィール様が立派な聖騎士であられてわたしも鼻が高いですわ』と夫の意識を仕事に向けさせる言葉を日々口にしなくてはならなかった。
それ自体は自分が思っていることを口に出すだけなので問題はないのだが、それによってアヴィールの気分が異様に高揚してしまい、場合によっては仕事が手に付かなくなってしまうという問題を孕んでいる。
夫を称えつつ、過剰に興奮させないようにする匙加減が非常に難しい。
ファロゥはため息をついて夜空を見上げる。
濃い藍色の空には女神がおわす月宮殿が見えていた。
日によって見え方を変える月宮殿は、現在細く銀鈎のような姿をしている。

このドラント国は月の女神を信仰しており、その女神の代弁者として聖女が存在する。
現在はドラント国王女のルーチェが聖女の資格を有し、彼女の強い月聖力は人々に女神の素晴らしさを伝えていた。
そんな聖女の盾となり剣となるのが聖騎士であるアヴィールだ。
歴代の聖騎士の中でもアヴィールは最も強いと言われており、一時は聖女の夫候補として名を挙げられていた。
聖騎士が聖女の伴侶となることはよくあることだが、しかしそれを固辞してまでアヴィールはファロゥを選んだ。
分不相応だと断ろうとしたファロゥを目力と果てのない愛情表現で黙らせたのである。
アヴィールの妻であることに苦労はあるが幸せでもあり、おおむね満足しているが、どうしても納得できないこともある。
「どうしてわたしなのかしら……」
「それは君が君だからだ！　愛する我が妻ファロゥ！」
寝室の扉が激しい音とともに開け放たれた。
物思いに耽っていたファロゥは驚きのあまり短い悲鳴をあげる。
「ひゃ!?　ア、アヴィール様？」
ぼんやりしていて出迎えを疎かにしてしまったと焦っていると、考えを読んだようにアヴィールが笑う。
「無防備な君の姿を見たくてこっそり帰ってきたのだが、君が不穏なことを口にするものだから我慢できなかった」
スタスタと速足でファロゥがいる窓際までくると、オロオロしているファロゥの手を掴んだ。
「君はまだ私の愛を疑っているのか」
「あ、いいえ……そういうわけでは」
銀鈎の少ない月光でもキラキラと輝く金の髪に目を奪われていると、美しくも強い光を放つ緑の瞳と視線が絡む。
生命の息吹を感じるようなアヴィールの瞳は、冷たく冴えるファロゥの青い瞳とは対極にあるように感じられる。
妙な居た堪れなさを感じて視線を逸らそうとすると「逸らすな」と言われた。
「な……」
どうしていつも先読みをするようなことを言うのかと尋ねようとしたが、その唇がアヴィールのそれによって塞がれる。
「あ、むぅ……っ、ふ、ぁ……っ、アヴィ、……っ」
名を呼ぶのを妨害するように舌が絡められ、強く吸われるとファロゥは身体が光の粒になって霧散してしまう心地になる。
「ファロゥ、私は君を愛している――君だけを愛しているんだ」
密かに囁くとアヴィールは再び唇を重ね、思うさまファロゥを貪る。
アヴィールの舌技はどこがどうなっているのかファロゥにはわからない。
どこもかしこもビリビリと刺激され、甘く蕩かされてしまう。
自分で立っていられなくなり、アヴィールのシャツにしがみついてなんとか身体を支えると、腰に手が回された。
「……いい香りがする。風呂上がりのファロゥは格別だ」
「匂いなんて」
嗅がないでほしいと言葉尻を濁すが、アヴィールはどこ吹く風だ。
「ファロゥのすべてが私に力を与えてくれる……わかるだろう？」
そう言ってアヴィールは腰に回した手に力を籠める。
そうすると押し付けられた腰がアヴィールの隠し切れない昂りを伝え、ファロゥは顔を真っ赤にする。
いくら夫婦でも、このようにあけすけに欲望を晒されることにはいつまで経っても慣れない。
「あ、アヴィール様……」
ファロゥが生唾を呑むと、静かな寝室に予想以上にその音が響いて緊張していることを自覚させられる。
「ふふ……、いつまで経っても初心な気持ちでいる我が妻よ。今夜もたっぷり愛させてくれ」
今度は軽く唇を合わせられ、ファロゥはぎこちなく頷くことしかできなかった。
アヴィールは服を脱ぐのが速い。
まるで躊躇いというものを感じさせない。
一度尋ねたことがあったが、彼は『騎士団などの大所帯かつ男所帯では誰もそんなことを気にしない』からだと説明した。
しかしファロゥは違うと思っている。
（アヴィール様は身体に自信があるから、躊躇なく脱げるのだわ）
鍛え抜かれた騎士の身体というものは、芸術品のように美しい。
乏しい月明りでも、まるで光を発するようにアヴィールの裸体は浮き上がって見える。
それが眩しくてファロゥはいつも目を覆うか、きつく閉じるかしてしまう。
しかし。
「ファロゥ、こっちを見て。これから君を抱く男をしっかりと見るんだ」
アヴィールはそれを許してくれない。
視線すら自由にならず、恐る恐る瞼を押し上げたファロゥはそろそろと視線をアヴィールに向ける。
途端に目に入ったのは、天を突かんばかりに雄々しく立ち上がるアヴィールの男根だ。
それを見た瞬間、ファロゥは自分の下腹部がキュンと鳴いたのがわかった。
「……っ」
毎夜のように抱かれ刻みつけられた快楽を欲しがって、勝手に身体が疼いてしまうのだ。
「さあ、おいでファロゥ。服を脱がせてあげよう」
いかにも親切そうな声に導かれ、ファロゥは覚束ない足取りでベッドまで歩いた。

アヴィールは、脱がしながらゆっくりと交わるのが好きらしく、ファロゥはいつも翻弄されてしまう。
湯も使いゆったりとしたネグリジェとガウンを身に纏っているのだから、すぐにはだけることができるのにそれをしないのは、『そういうシチュエーション』が好きだからに違いない。
（せ、性癖……っていうことなの？）
覆い被さるような姿勢で首筋や耳に口付けを落としながら、ガウンの襟元をずらすアヴィールは合わせ目から手を差し入れファロゥの豊かな乳房を揉みしだく。
「あぁ……っ」
来るとわかっている刺激にも具に反応してしまう淫らな身体が恥ずかしく、ファロゥは唇を噛む。
どこもかしこも美しいアヴィールに、淫らな妻だと呆れられたくないのだ。
しかしそんな慎ましい妻を見て、アヴィールは不満があるように眉を顰める。
「ファロゥ、唇を噛んでは駄目だ。血が出てしまうだろう？」
「で、でも……唇を閉じないと……」
淫らな声が出てしまう、とは口に出せずファロゥは押し黙る。
強く噤もうとしてうっかり突き出てしまった唇に、アヴィールは愛おしそうに自らのそれを重ねた。
「ああもう、我が妻は可愛いが過ぎる。いっそ食べてしまいたい」
「た、食べるって……きゃ！」
アヴィールはファロゥのガウンの襟を大きく左右に割り開くと、薄いネグリジェの上から乳房に甘噛みをする。
歯を立てているわけではないので痛くはないが、むず痒くてファロゥは腰をくねらせる。
「こら、大人しく食べられていなさい」
「だって……、あんっ」
白く柔らかいところを吸ったり舐めたり甘噛みしたりと、好き勝手するくせに肝心のところに触れないアヴィールの意地悪さに、ファロゥは不満を募らせる。
（わざと避けている……）
愛撫によって胸の尖りがツンと上を向いて震えている。
ネグリジェを押し上げて主張しているそれが目に入らないわけないのに、アヴィールはそれに触れない。
「アヴィール様……」
はしたない願いを口にしそうになったファロゥは、ギリギリのところで思い留まり唇を噛む。
しかしそれをじっと見られていたことに気付き、身体を強張らせる。
「あっ……」
「唇を噛んでは駄目だと言っただろう？　私の妻に傷をつけることは、たとえ君であっても許しがたいな」
そう言うとアヴィールはファロゥの唇をフニフニと触ったあと、口の中に指先を潜り込ませた。
「ふぁ、あ、あふ……っ」
「さあ、指を『私』だと思って愛撫して」
アヴィールの声音は柔らかかったが有無を言わせない強さがある。
ファロゥはそろそろとアヴィールの指に舌を這わせた。
彼女の夫の手は、美しく手入れされている。
それは美意識が高いからではなく、妻のためである。
「君の身体に入れるものだ。綺麗にして当然だろう？」
指が綺麗だと褒めたときにそう言われ、意味が分からず小首を傾げたファロゥはしばらく考えたあと、言葉の意味が分かって顔を真っ赤にした。
これから新床だというタイミングで聞くにはあまりに刺激的で生々しく、場繋ぎのために口にしたことでとんでもない蛇を出してしまったと後悔したことを思い出す。
「なに？　なにを考えているの？」
心ここにあらずのまま一心に指を舐めていると口を開かされ口蓋を擽られた。
「ふぁ、あっふ……、あ、ひーうさ、あ……」
噛んではいけないと舌足らずな言葉になったが、アヴィールはファロゥよりもファロゥのことを知っているように目を細める。
「そうだね、私のことを考えているんだよね……わかるよ、ファロゥ」
アヴィールの優しい声に心の澱が溶けたような心地になったファロゥも緊張の糸を緩めた。
そのとき腰の緊張感が緩和され、アヴィールの右手がファロゥのガウンの腰紐を解いたのがわかった。
「あっ」
乳嘴に刺激を与えられないうちに本格的な交わりの予感が過り、ファロゥは身を捩る。
すでにファロゥの下腹部は誤魔化しようがないほどに濡れていて、それを指摘されたくないという気持ちが働いたのだ。
だが、一介の貴族令嬢だったファロゥが騎士畑を渡り歩いてきたアヴィールに敵うわけがない。
手繰り寄せられたネグリジェの裾から侵入したアヴィールの手は意外とむっちりとしたふとももを愛おしそうに撫でる。
「私のことを想って、ここを濡らしたの？　可愛いね」
図星を指されてまた顔に熱が集まるのがわかった。
ファロゥはぎこちなく舌を動かしながら意図的に視線を逸らし足を開く。
早く、触れてほしかったのだ。
「アヴィール様……、わ、わたし……っ」
いくら夜を重ねても、自分から触れてほしいと口にするのは勇気がいる。
意地が悪いときはファロゥがおねだりするまで触れてくれないときもあるが、今夜はそうでないらしく、アヴィールは軽く頷いて手を上に滑らせる。
少しかさついた大きな手のひらがファロゥの鼠径部に触れ、そして動きを止めた。
「――ファロゥ、きみ……」
大きく喉仏が上下して言葉を探したアヴィールに、ファロゥは視線を泳がせる。
ファロゥは下着をつけていなかった。
「……だって、すぐ脱いでしまうじゃないですか」
言うが早いかアヴィールはファロゥの膝を大きく開かせた。
「きゃあ！」
あまりに性急な動きに声をあげたファロゥは頭を起こして夫を見た。
しかしアヴィールではなく、彼の雄槍と目が合った。
いや、そこに目はないので正確ではないが、それでもファロゥは目が合ったような気がした。
「ファロゥは私を煽るのが上手だ。このアヴィール・ミラン、その期待に全力で報いようじゃないか」
「あ、いえ！　そこまでしていただかなくても……っ、あ、ああー！」
散々焦らされていた乳嘴を口に含まれファロゥが悶えると、アヴィールはその隙をつくようにあわいに指を這わせる。
すっかり濡れそぼつ襞を擽り、指先がぬくりと潜り込むとファロゥの細腰が浮く。
「ふぁ、あ、あふ……っ、どっちもなんて……っ」
敏感になった乳嘴を吸われる感覚と、蜜洞を擽る指の感覚はファロゥを混乱させるのに充分だ。
身体の中を快楽が暴れまわり息を荒らげると、アヴィールが胸から顔をあげ唇を舐めた。
「まあ、そう言わず私に身を任せなさい」
色気が滲む夫の表情に、ファロゥは息を呑んだ。
ファロゥとて初心なばかりではない。
長くはないが短くもない結婚生活の中で、アヴィールの愛につむじまでどっぷりと浸かった生活をしているのだ。
指を迎え入れた隘路は刺激を受けるたびに収縮するが、蕩けてもっと太く大きいものを受け入れる準備が整いつつある。
「あぁ、ほらここ……君はここが好きだろう？」
指の腹で押されると腰がわななき、好きだ、その通りだと子宮が鳴く。
「あっ、あぁ……っ、好きです……、アヴィール様ぁ、好き……っ」
腰を揺らしてもっともっとと強請る愛妻に、アヴィールは機嫌よさそうに口角をあげた。
「ふふ、素直だね。私も大好きだよ、ファロゥ。でも、もっと好きなところがあるだろう？」
アヴィールは涼しげな視線の奥に隠し切れない欲を孕んでいる。
それがすべて真っ直ぐ自分に向けられていることを、ファロゥは肌で感じた。
「ええ、ええ……！　奥に欲しいの……っ、アヴィール様のが欲しいの……っ」
さきほどからビクビクと震え、先端から涎を流している屹立が欲しくて仕方がない。
　些か性急にアヴィールの指が引き抜かれ、蜜洞が寂しさに収縮すると、熱く情欲にまみれた剛直が蕩け切ったあわいにあてがわれた。
「もっと君をトロトロにしてからと思っていたけれど、大丈夫そうだね」
くぷくぷと浅瀬で遊ぶように馴染ませると、ゆっくりと腰を進める。
「あ、あぁ……っ、アヴィール様……っ」
感じ入ったような艶声に名を呼ばれて、アヴィールはゆっくりと抽送を始めた。
ぐちゅぐちゅと蜜をかき混ぜるような音と、皮膚を叩く打擲音、そしてファロゥの甘く喘ぐ声が寝室に満ちる。
「ファロゥ、……ファロゥ！　ああ、愛している、君だけをずっと……っ！」
「アヴィール、さま……っ、わたしも、わたしも……っ」
打ち付ける腰の速度が上がり、ファロゥは必死にアヴィールにしがみつく。
もっと深く繋がりたいとファロゥの脚がアヴィールの腰に絡みつくと、息をつめたアヴィールが隘路の最奥を突いた。
奥を捏ねるようにされたファロゥは堪えきれずに極まる。
「ひぁっ、ああ――っ、あ……う、ん、あぁ……っ」
隘路がぎゅううう、と陽物を食い締め、アヴィールが奥歯を噛みしめ腰を押し付けた。
「う、く……っ」
限界まで耐えていた欲望が解放され、ファロゥの隘路を白く満たしていく。
びゅくびゅくと数回迸りを感じたファロゥは事後の浮遊感の中に、どこか確信めいたものが混じっているのを夢うつつで感じていた。

事後、交わった姿のままベッドで抱き合っていると、遠慮がちに扉がノックされた。
「旦那様、奥様……起きていらっしゃいますか」
執事の声に苛立ったように舌打ちをしたアヴィールだったが、ファロゥが宥めるように手を撫でると機嫌を直してガウンを手に取る。
「どうした」
返答があったことにほっとしたらしい執事は一呼吸おいてから「騎士団から緊急の呼び出しだとのことです」と告げる。
扉越しにも緊張が伝わり、ファロゥも眉を顰め慌ててガウンを羽織った。
「アヴィール様……」
聖騎士であるアヴィールが呼び出されるということは、ただ事ではない事態が起きたということを意味する。
アヴィールに危険があるのではないかと思ったファロゥがベッドから下りて寄り添うと、力強く肩を抱かれた。
「大丈夫、そんなに心配することはない。私はアヴィール・ミランだぞ？」
幼子をあやすように肩を叩かれたファロゥは、夫を安心させるためになんとか苦心して口角を上げ、夫を見送った。

その後まんじりともせず夜が明けると、アヴィールが呼び出された理由がわかった。
「じゃ、邪神……ですか？」
驚きの声を上げたファロゥに、義父であるベニート・ミラン侯爵は重々しく頷く。
息子であるアヴィールの夜中の出動を知って情報を集めようとした矢先、王城からの呼び出しで説明を受けたという。
「そうだ。恐れ多くも月の女神の恩恵を拒否した、北の禍森の邪神の封印に異常が見られ、人が襲われたらしい」
悪しきものを封印する禍森は東西南北に存在するが、その中でも北の禍森は最も凶悪な邪神が封印されているといわれている。
そのことは、ドラント国の者ならば幼いころから繰り返し教えられることだ。
「で、でも……アヴィール様は大丈夫なのですよね？」
夫を信じていないわけではないが、改めて『邪神』と言われると、そのおどろおどろした雰囲気に圧倒されてしまい、ファロゥは弱気になる。
「当然だ。ドラント国の聖騎士は邪神なんぞ、ものともせぬ。それに今回は王女殿下……聖女様が同行されるそうだ。恐らく邪神を封印ではなく消滅させるおつもりなのだろう。安心して帰りを待つといい」
義父の力強い肯定はファロゥの不安を取り除いてくれた。
しかし、待つのは辛かった。
北の禍森までは通常片道三週間ほどかかるらしい。
今回は聖女同行ということで、さらに日数がかかる可能性がある。
そこからサクッと邪神を討伐できればいいが、そう安直に考えることはできないだろう。
討伐に一週間は見積もるとしてそこからまたさらに三週間費やしてようやくの帰還となる。
アヴィールたちが討伐に出て一月が過ぎ、二月が過ぎようかというころファロゥ宛に王城から召喚状が届いた。
「至急、しかも極秘って……どういうことかしら」
「使者殿が待っておられます。奥様、お早くお支度を」
そう家宰に促されファロゥは目を剥く。
これでは連行と変わらない。
それほどまでに至急なのだと思うと、背筋がひやりとする。
（まさか、アヴィール様になにかあったのでは……、いえ、そんなことはないわ）
震えそうになる手をぎゅっと握り、ファロゥは最低限失礼のないよう身嗜みを整え使者の馬車に乗り込んだ。
その際使者として遣わされてきた伯爵夫人が妙に不憫そうな視線を寄越したことが不吉に思えて仕方がなく、失礼とは承知していたがファロゥはずっと窓の外を睨んでいた。
王城に到着すると通された部屋にはすでに義両親が待っていた。
「お義父様、お義母様！」
これまでの不安な気持ちが一斉に吹き出し、涙腺が緩みそうになる。
「ファロゥさん、落ち着いて」
そう言って肩を抱いた義母の顔色も悪い。
自分だけが不安なのではないと気付いたファロゥは、ぐっと目に力を入れ奥歯を噛みしめる。
（わたしはアヴィール様の妻なのだから、情けない姿は晒せない……っ）
自分に言い聞かせながら、王族の到着を待つ。
しばらくして現れた国王は王妃と大司教、そして騎士団長を従えていた。
この国の意思決定でもするかのような面々に緊張が高まる。
「急に呼び出してすまないな、楽にしてくれ」
国王は自らも座りながら着席を促す。
（楽にって……どう考えても楽にできるわけないメンツなのですが……）
それどころか不安はどんどん積み重なり、ファロゥは耐え難い緊張に叫び出したくなっていた。
『どうして呼ばれたのですか？　アヴィール様はご無事なのですか？』
そう国王を問い詰めたい衝動をなんとか抑える。
それはミラン家一同の総意であるらしく、無言の圧を感じてか国王が口を開く。
「――聖女並びに聖騎士たちの邪神討伐の件だが」
突然核心を突く国王の言葉にファロゥの肩が大きく震えた。
（お願い、不吉なことを仰らないで……！）
切実な祈りが女神に届いたのか、国王は「討伐は成ったと報告が来た」と告げた。
「で、では……！」
ミラン侯爵が喜びの滲む声で尋ねる。
もしかしたら帰還の時期を知らせるために呼び出されたのかという希望が胸に灯る。
だが、国王は無慈悲な言葉を紡ぐ。
「しかし討伐の際にアヴィール卿が瀕死の怪我を負い、それを聖女……我が娘ルーチェが『聖女の癒し』を使い治療したとのことだ」
瀕死、のところで気絶しそうになったファロゥだったが、すぐに治療されたと聞きなんとか意識を繋ぐ。
「あ、ああ……、アヴィール様は、生きて……いらっしゃる？」
国王への直問は無礼にあたるが、そこまで考えが及ばなかった。
ファロゥのギリギリの気持ちを理解してくれたのか、国王はゆっくりと頷き「聖騎士は生きておる」と断言した。
「ああ……！　ありがとうございます！　女神様……！」
ファロゥは緊張の糸と共に涙腺が切れて泣き出してしまう。
（よかった！　生きている、アヴィール様は戻ってくる……！）
この喜びを分かち合おうと涙に濡れた顔を上げ、義両親を見たファロゥは息を止めた。
なぜか義両親の顔は青褪め、汗をかいているのだ。
「お義父様、お義母様……？　どうされたのですか？　あ、もしかして怪我や後遺症などを気にしているのですか？　大丈夫です、なにがあってもわたしがアヴィール様をお支えします……」
一生苦楽を共にすると誓った妻なのだからと言おうとしたが、ミラン侯爵に遮られる。
「陛下、ルーチェ王女殿下が『聖女の癒し』を……使われたというのは本当ですか」
必死に動揺を隠しなんとか口にした、という義父の態度にファロゥは眉を顰めた。
一般に『聖女の癒し』というのはその名の通り、聖女が女神の月聖力を用いて傷や病をいやす秘儀であると伝わっている。
むやみやたらに使えるものではないらしいが、瀕死の傷を負ったアヴィールに使ってくれたというのならありがたいことだ。
感謝こそすれ、そのような怖い顔で国王に確認をするようなことではないような気がしたのだ。
「――左様。ゆえにその方らをここに呼んだのだ。アヴィール・ミランの妻ファロゥよ、アヴィールと離縁してくれるな？」
感情の揺らぎがない国王の言葉を、ファロゥはすぐに理解することができなかった。
「え……？」
思わず漏れた声は、相手が国王であることが抜け落ちてしまった、純粋な疑問の音だった。
「陛下、今ここでそれを決めるのは、あまりにも……」
侯爵が苦しそうに言葉を絞り出すが、国王は繰り返す。
「しかしアヴィールには妻と離婚しルーチェを娶ってもらわねばならぬ。我が国は重婚を許していないのでな」
確かにドラント国は女神のように妻を一途に愛すことを至上としているため、たとえ王族であろうと公的に妾を持つことは推奨されていない。
しかしその裏で離婚や再婚は許されているのは、人の心の揺らぎを許容した女神の慈悲であると捉えられている。
「直接告げられたのは、陛下のお慈悲ですよ」
大司教は気遣いながらも国王の言葉を肯定するようなことを言った。
なにがなんだかわからないファロゥは、目眩を感じて頭を押さえた。
「り、離縁……わたしと、アヴィール様が……？」
口にした言葉があまりにも現実感に乏しくて、ファロゥの視界が回転し、端の方から帳が落ちる。
「ファロゥさん!?」
隣に座っていた義母の焦ったような声が遠ざかっていくのを聞きながら、ファロゥは意識を手放した。

次にファロゥが瞼を開けたとき、豪奢な天蓋の裏の見事な彫刻が目に入った。
どうやらやたらと豪華なふかふかのベッドに寝かされているようだと気付いたファロゥは、ゆっくり瞬きをする。
すぐに義母が気付いて声を掛けてきた。
「ファロゥさん、気が付いたのね」
「お義母様……」
義母の顔には心配の表情が張り付き、目が真っ赤に充血している。
上体を起こそうとしたファロゥを支えてくれ、労わるように背を撫でた。
「突然のことでびっくりしてしまったわよね、当然だわ」
親身になってファロゥに寄り添ってくれているものの、どこか距離を感じる。
（どうしてかしら。腫れ物に触るような……）
そう考えてさきほどまでのことを鮮明に思い出した。
「あっ、御前……陛下の御前だったのに……っ」
無礼にも引見中に気を失うなんてと立ち上がろうとすると、義母がベッドに押し留めるように肩を押す。
「大丈夫よ、陛下はもう退室されたわ」
「そもそも陛下は可否を訊ねたわけではないのだろう」
少し離れたところに座っていたミラン侯爵が口を開く。
その声音は常よりも低く、彼が怒っているのだと知れる。
「あ、すみません。陛下の御前でとんだ失態を……」
反射的に謝罪をするが、侯爵は首を振る。
「違う、ファロゥは悪くない……君は『聖女の癒し』を知らないのだろう。だから陛下の言ったことがよくわからなかった」
そうだろう、と念を押され言い返そうとしたファロゥだったが、言葉を飲み込む。
確かにあのときの義両親は様子が変だった。
ファロゥの知る『聖女の癒し』とは、聖女が持つ月聖力で病人や怪我人を癒すものだ。
そう簡単にできない秘術だということは知っている。
（もしかして……わたしが知らない秘密があるの？）
顔を上げると義父が頷いた。
「『聖女の癒し』というのは、聖女の身体を覆っている女神の恩恵すべてをもって癒す秘儀……つまり互いに一糸まとわぬ姿で深く交わり、月聖力を分け与える行為のことだ」
「えっ？」
（今なにか、とてつもなく卑猥な言葉が聞こえた気がしたのですが……？）
聞き間違いかと思ったが、義母も神妙な顔をしていることから義父が場にそぐわない冗談を口にしたわけではないとわかった。
「え、だって……それってもう……」
もうセックスじゃないですか、と言いかけたがファロゥはなんとか言葉を飲み込んだ。
義両親と話す話題としては最も適当ではないうちの一つだろう。
「――そうだ。今代の聖女ルーチェ様は未婚の王族であられる。このことが公になればこの先どんな問題が起きるか……わかるだろう」
確かに未婚に関して貞淑純潔を重んじるこの国において、人助けとはいえ結婚前に性行為があったとなればまともな婚姻は望めないに違いない。
もしそれを許容する相手がいたとしても、聖女が負わなければならない不利益は大きいだろう。
となれば原因となった相手に責任を求めることは当然の帰結。
「……だから陛下はわたしとアヴィール様を離縁させて、聖女様と結婚させる、と？」
そして、それは可否の確認ではなく――決定事項なのだ。
「こんなことは到底容認できるものではない。だが」
侯爵は葛藤をなんとか飲み込もうとしている。
ファロゥにも、その苦悩は伝わる。
金銭で解決できるのであれば、いくらでも払う覚悟を持っていた。
しかし消えゆく命と聖女の純潔、どちらも取り返しのつかない、そして不可逆性の事象を今からどうにかすることは月の女神の力をもってしても不可能。
（確かに、可否を問うような問題ではないのね……）
この問題を正しく理解したファロゥは、心が折れるのを感じ、強く唇を噛みしめた。
その瞬間『唇を噛んではいけないよ』とアヴィールに言われた気がして泣きそうになる。
邪神討伐に行く直前の閨で愛されたことを思い出す。
これからはその思い出を胸に抱いて生きていかねばならない。
「でも、わたし……もう逢えないとしても、アヴィール様が生きてくださっていた方がずっとずっといいと思います……っ、死んでしまうよりずっといい……！」
愛しているから。
愛された証があるから。
そう言うとファロゥは耐え切れず、大粒の涙をぼろぼろと零した。
「ファロゥ、すまない。この通りだ」
義父は深く頭を下げる。
息子の妻に対する深すぎる愛情を知っている彼としても、苦渋の決断なのだろう。
すぐ隣で声を殺して泣く義母の声を聞いていると自分もまた泣けてきて、ファロゥは嗚咽が漏れないように奥歯を噛みしめた。

命の危険がなくなったとはいえアヴィールはすぐに帰還できる状態ではないそうで、その隙にファロゥはミラン家から去り、修道院に行くことにした。
義両親は止めたが、もしもアヴィールが王都に帰還した時、まだファロゥがその辺をうろうろしていたら彼が罪悪感を覚えるかもしれないし、と断る。
だが本当はアヴィールに疎ましがられたくなかったのが本音だ。
それに聖女ルーチェとの仲睦まじいところを見たくない。
（だって、聖女様はとても美しくて女性らしくて……）
聖女の婿候補に挙がっていたアヴィールが、どうして自分を妻に望んだのかよくわからないままのファロゥは、アヴィールが『やっぱり聖女のほうがよかった』と思うことに耐えられそうにない。
豊かに輝く金の髪に、大きく魅力的な瞳、そして冬の冷たい北風すら春風に変えてしまうような慈悲深い微笑みは、女であるファロゥですらポ〜っとなってしまうのだ。
正常な男であるアヴィールが好きにならないわけがない。
「でも、挨拶くらい……あの子だってあなたが嫌いでこうなったわけじゃないのだし」
義母はなんとか引き留めようとするが、ファロゥは眉を下げ固辞する。
「お義母様、わたしが耐えられそうにないのです。本当にすみません」
不義理を何度も謝罪し、ファロゥは旅立った。
離縁にあたり、ファロゥはミラン侯爵家と王家からそれぞれ多額の見舞金を受け取った。
手切れ金とは言えず『見舞金』とした当たり苦しさが見て取れたが、それくらい苦々しい気持ちがあってもおあいこだろう。
馬車の振動に身を任せたファロゥは、ゆっくりと流れる景色をぼんやりと眺めた。
王都のあちこちにはアヴィールとの思い出が染みついている。
「……駄目ね、感情的になっているわ」
離縁の話が出てからというもの、ファロゥは目眩や疲労感、嘔吐に悩まされた。
精神的なものだろうと考え医者にはかからなかったが、もし今後も続くようなら診察してもらったほうがいいのかもしれない。
「これからは、一人なのだし……」
何気なく呟いた言葉に胸を締め付けられて、ファロゥはまた緩みそうになった涙腺を引き締めるように目の縁に力を籠める。
しかし、もう泣いてもいいんじゃないの？　という気持ちになり、一人きりの馬車の中で子どものように声をあげて泣いた。




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    <dc:creator>ガブリエラブックス</dc:creator>
    <foaf:topic><foaf:Image rdf:about="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/product/192922068_th.jpg?cmsp_timestamp=20260804161159" /></foaf:topic>
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    <title>【8月28日発売】男爵令嬢のおもいがけない相続婚　法務官な侯爵令息と交わす甘い愛の手続き【本体1300円+税】</title>
    <description></description>
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●著：佐木ささめ
●イラスト：蜂 不二子
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543945
●発売日:2026/8/28</div>

<p><span class="f130 black">法務官侯爵令息様が言う通り!?
全てを解決するには愛がある結婚が近道です<br /></span>

男爵令嬢マグノリアは、姉の駆け落ちと父の急逝により、家を継ぐことになるが遺言状の兼ね合いで相続できない事態に。そんな彼女の相談に乗ったのが学園時代の先輩で法務官のガスパルだった。
「どうか私と結婚してください」
彼は解決策として自分との結婚を提示し、昔から彼女を想い続けていたことを明かす。身分差の恋に戸惑いつつも彼の一途な愛にマグノリアの心は動かされ、甘く結ばれて!?

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第一章



墓地に併設された教会でマグノリアは放心していた。
目の前にあるのは父親の棺だ。もともと心臓を患っていたけれど、まさか突然の発作で亡くなるとは夢にも思っていなかった。
まだ四十六歳なのに、神の庭に召されるのは早すぎる。
マグノリアはいまだに醒めない夢を見ているようだった。
「――お嬢さま、領地の者が参りました」
ハッとして振り向くと、老年の執事が憔悴した表情で立っている。いつも冷静な顔を崩さない彼も、いきなり主人を失って動揺が隠しきれていない様子だ。
「ええ、そうね……、お別れをしなくては」
マグノリアの父親はコロンヌ男爵家当主なので、小さいながらも領地を国王から賜っている。領地の管理を任せている家臣たちは、当主の訃報に泡を食って駆けつけただろう。
コロンヌ家は爵位は低いけれど歴史は古く、建国から続く名家ともいえる。
そのため領地は王都にほど近い土地を下賜されており、家臣たちは当主が亡くなった当日に馳せ参じることが可能だったようだ。
代官や執政官らが、青ざめた顔で教会に集まり始める。彼らは棺で眠る領主を見て、マグノリア同様、呆然としていた。
代官のドバリーが、故人に花を手向けてからマグノリアに話しかける。
「お悔やみ申し上げます、マグノリアお嬢さま。あの、ヴァイオレットお嬢さまは寝込まれていらっしゃるのですか？」
コロンヌ家の長女、ヴァイオレットがこの場にいないのは不自然である。母親のコロンヌ男爵夫人は六年前に亡くなっているため、喪主はヴァイオレットが務めるべきだ。
とはいえ貴族女性は失神しやすいので、父親の急逝にショックを受けて寝込んでいると考えるのはおかしくない。
「お姉さまは……そう、そうね、寝込んでいらっしゃるわ」
その言い方にドバリーは首を傾げているが、忠実な家臣はすぐにうなずいた。
「突然のご不幸では当然ですね。マグノリアお嬢さまが対応してくださるだけでも、我々は助かります」
いや、マグノリアも可能なら寝込んでしまいたいし、本音では何もかも放り投げて泣きたかった。けれど父の子どもは自分とヴァイオレットしかいない以上、姉が不在なら己が葬儀を取り仕切るしかない。
「しかしこれから男爵家はどうなるのでしょう。ヴァイオレットお嬢さまはまだ未婚なのに」
「……それは葬儀を終えてから決めます。今は父を悼んでちょうだい」
「そうでございますね」
神妙な顔つきで頷いたドバリーは、執事に「何か手伝うことはないか」と聞いている。最も指摘されたくないこと……跡取り問題から逃げられたマグノリアは小さく息を吐き出した。
しかしいつまでも先送りにはできない。爵位継承は当主の死後、なるべく早く決めねばならない最優先事項だ。コロンヌ家は跡取り娘のヴァイオレットが婿を迎えて、夫に当主を務めてもらうことが決まっていた。
だというのに。
――どうしよう。お姉さまが婚約者以外の男性と駆け落ちしてしまったなんて、こんなときに言えないわ。
ヴァイオレットがショックで寝込んでいるなど大嘘だ。姉は屋敷のどこにもいない。
これからどうすればいいのか……
マグノリアは教会の女神像を見上げながら途方に暮れていた。

　　　　　　　　　　　　　　　　§

コロンヌ男爵家の長女ヴァイオレットは、猛烈な面食いだ。顔さえよければ内面は重視しないという、貴族の跡取り娘としてはふさわしくない性格をしている。しかも夢見がちで能天気なうえ、妄想好きで精神年齢も低い。
彼女を知る者の多くは、「お花畑令嬢」と呼んでいた。これは、「脳の中に花が咲いているように、何も考えていない空っぽな令嬢」という意味らしい。
それでも求婚者が絶えなかったのは、創世の女神もかくやという、当代随一の美貌のおかげだった。
父親のコロンヌ男爵は、長女の性格や思考が貴族夫人にそぐわないと気づいたとき、次女のマグノリアを跡取り娘にしようと考えた。姉と違って妹はしっかり者で、成績も王立貴族学園で常に上位を収めている。
この国――オブラン王国は長男が爵位と財産を相続するが、女子しか生まれなかった場合は女性にも爵位継承権が認められる。そして跡取り娘は長女でなくても、次女でも三女でも構わない。それは当主が決めればいい。
しかしマグノリアは自身の爵位継承に反対した。重責を負いたくないということではなく、コロンヌ家の名誉のためだ。
なぜならマグノリアが跡取り娘になれば、ヴァイオレットは嫁に出ることになる。けれど彼女は女主人としての責務……家政を取り仕切り社交をして家を盛り立てるなど、絶対に不可能だった。
王立貴族学園での成績も、妹と違って入学してから卒業までずっと学年最下位だ。だというのに顔のいい男子生徒を取り巻きにして、女王のように振る舞っていた。
ヴァイオレットを貴族ではなく裕福な平民に嫁がせたとしても、妻として差配するどころか、美形俳優の尻を追いかけ回すだろう。嫁ぎ先の迷惑でしかない。
ならば婿を取り、爵位継承者として夫に尊重され、実家で自由気ままに暮らさせた方がいいのではないか。実家にいるなら何もしなくても家臣がフォローできる。
幸いにもヴァイオレットの美しさに魅入られた信奉者は多いので、「それでいい」と言ってくれる心の広い殿方は一人ぐらいいるはずだ。
そういった事情があって、コロンヌ家の跡取り娘はヴァイオレットだった。
しかし婚約者候補の中に、ヴァイオレットのお眼鏡にかなう美男子はいなかった。極度の面食いである彼女は、『わたくしの美しさにつり合う殿方じゃなければ、結婚しませんわ』と堂々と言い切ったぐらいだ。
ヴァイオレットの意思を無視して婚約者を決めても、彼女なら結婚式当日に逃げ出すか、結婚式の誓いで、『わたくしはこの方と結婚しません！』とでも叫ぶだろう。
どうしたものか……とコロンヌ男爵とマグノリアが悩んでいた一年程前、ジャメ男爵家の次男ラファエルがヴァイオレットに一目ぼれした。
彼はヴァイオレットより二歳年下だが、彼女もまたラファエルの容姿を好ましいと受け入れた。
父親がジャメ家に縁談を申し込んだところ、ジャメ男爵は大喜びで了承した。商会を営むジャメ家は先代が爵位を金で買った新興貴族で、歴史あるコロンヌ家とのつながりは喜ばしいことだった。
けれど、次男のラファエルは自由奔放に育ったのもあって、当主になる自覚がなかなか生まれなかった。そこでマグノリアが補佐につき、姉夫婦に代わって領地運営を担うことを提案した。
ラファエルは当主教育にうんざりしていたため、義妹になるマグノリアが面倒な仕事を引き受けてくれると喜んだ。
もちろん跡取り娘のヴァイオレットも反対などしない。彼女も領地運営にかけらも興味がないので。
コロンヌ家は長女が爵位を継承し、次女が家の実権を握ることで円満に解決した。……かのように見えた。
十日前、ヴァイオレットがラファエル以外の男性と駆け落ちするまでは。

　　　　　　　　　　　　　　　　§

「――マグノリアお嬢さま」
呼びかけられたマグノリアは我に返り、声がした方へ視線を向ける。心配そうな顔をした執事がそこにいた。
「あ、えっと、ごめんなさい、ボーッとして……」
「無理もございません。領地の者たちは屋敷に移しました。お嬢さまもお戻りください。少しは休んでくださいませ」
「……いえ、今日はお父さまのそばにいるわ」
オブラン王国では人が亡くなると、教会で故人をしのぶお別れ会が行われ、翌日か翌々日に葬儀をする。マグノリアは明日も父のそばにいるつもりだったが、衛生局から「明日中にミサを行い、埋葬するように」との通達があった。
九月初頭の今はだいぶ暑さも和らいでいるが、それでも日中は汗ばむ程度には気温が高い。腐敗を避けるために仕方がないとはいえ、明日には父親と会えなくなるなんて。
……姉が置き手紙一つで男と姿を消してから、コロンヌ家は目が回るほど忙しかった。
父親は怒り心頭のジャメ男爵に頭を下げ続け、婚約破棄の賠償などの後始末に奔走していた。そしてマグノリアは、姉の代わりにラファエルと結婚するしかないと覚悟していた。
しかし彼は話し合いの席で、『ヴァイオレットより不細工な女など妻にしたくない！』と暴言を吐いたのだ。紳士の風上にも置けない侮辱で、彼の父親はさすがに顔色を失っていた。
まあそのおかげでジャメ男爵の怒りが収まったうえ、暴言を詫びる意味で賠償金が減額されたから、マグノリア的には助かった。
しかし父親にしてみれば、長女の駆け落ちという醜聞に加えて、次女までも淑女としての尊厳を傷つけられたのだ。父親はショックのあまり発作を起こして倒れ、そのまま帰らぬ人になった……
マグノリアはガランとした教会の内部を見回す。
父親は貴族の当主でありながら高慢なところはなく、温厚な性格で人付き合いもよく、親しい友人は多かった。しかし今はヴァイオレットの醜聞が社交界に広まってしまい、関係者以外の参列者はいない。
領地の人間は醜聞を知らないが、王都に来た以上は隠せないだろう。マグノリアはため息が止まらなかった。
すでに母を亡くし、姉は行方不明で、父は急死。
マグノリアは一人ぼっちになってしまった。
あふれそうになる涙を必死にこらえて執事に向き直る。
「あなたも屋敷に行きなさい。お客さまのお世話をお願い」
「私も旦那さまのそばにおります」
「いいえ、お父さまのことで使用人たちも不安に思っているでしょう。わたくしだけでなく執事までここにいたら、みんな困ってしまうわ。あなたが采配して」
お願い、と言えば、執事は迷いながらもうなずいた。
「ここで夜を明かすのは感心しません。必ず屋敷に戻ってお休みください」
屋敷を守る警備兵の一部を教会によこすので、帰りは兵士と共に戻ること、と念を押して執事は教会を出て行った。
その際、もう日が落ちかけているため、虫の侵入を防ぐために大扉が閉められる。
父親と二人きりになったマグノリアは椅子に崩れ落ちた。
……ひどく疲れた。考えることが山のようにあるけれど、放心して頭が動いてくれない。
マグノリアはぼんやりと座り込んだまま、何も考えられずに棺を見つめ続けていた。
それからどれほどの時間が経過したのか。
ふと、大扉がノックされる音でマグノリアは我に返った。目を開けたまま寝ていたのかしらと思ったとき、キィッ、とかすかな音を立てて扉が開く。
振り向けば背の高い、男性らしき影が入ってきた。
教会関係者がランプに火をつけてくれたようで、教会内は真っ暗闇というわけではないが、その光は弱々しく日中のような明るさはない。
心もとない光の中、革靴の音を立てて大きな影が近づいてくる。
それをマグノリアが怖いと思わないのは、彼の手に白バラの花束があると気づいたからだ。この国では故人へ白バラを手向けるのが伝統である。どうやら参列者らしい。
しかし近づいてきた人を見てマグノリアは目を見開いた。
まるで夜空に輝く星のような金色の髪に、明るくて鮮やかな青い瞳の美男子だ。一分の隙もない完璧な美貌の持ち主で、無表情なのもあって見ていると心がざわめいてくる。
神に愛された美しさとは、こういう人のことを言うのだろう。男性なのに美人と形容したくなる。
――いえ、それよりも、誰？
そう思った直後、その人をもう少し若くした頃の顔を思い出した。
「ダレイラクさま……」
貴族学園時代の先輩、ダレイラク侯爵令息のガスパルではないか。
意外過ぎる人物の登場に、マグノリアは口を半開きにして呆けるという、淑女にあるまじき醜態をさらしてしまう。
「久しぶりだ。コロンヌ男爵令嬢」
「あ、はい、お久しぶりです……」
本当に久しぶりだ。なにせ彼が学園を卒業してから一度も会ったことがなかったので。
――何年振りかしら？　ダレイラクさまってわたくしより二歳年上だから、六年ぶりよね。
王立貴族学園は十二歳になる年に入学し、十八歳で卒業する学び舎だ。爵位を持つ家に生まれた子は全員、入学が義務付けられている。
マグノリアもそこで青春の時間を過ごし、歴史研究部で上級生のガスパルと出会った。
といっても、親しかったわけではない。
オブラン王国の貴族社会は、公爵、侯爵、伯爵が属する高位貴族と、子爵、男爵、準貴族が属する下位貴族に分かれており、学園でも両者の交流は多くなかった。
しかもガスパルは名門ダレイラク侯爵家の一人息子で嫡男だ。婚約者がいないのもあって高位貴族の令嬢たちから大人気で、彼と親しくすれば彼女らに攻撃を受ける恐れがあった。
そのため部活の先輩と後輩として、節度ある関わり方しかしなかった。部室以外でガスパルと話したことは一度もないし、特にかわいがられたわけでもない。
だからこそ、ここに彼が来たことは意外だった。
「ダレイラクさま。お忙しい中、わざわざお越しいただきありがとうございます。あの、父とはどういったご関係だったのでしょうか？」
「コロンヌ男爵と深い交流はない。ただ、私は法務官をしているから訃報を知りやすい立場にいる。学生時代の後輩の父君が亡くなったとあれば、弔うのは当然だ」
「なるほど、ありがたいことです」
なんて義理堅いのだろう。自分が逆の立場だったら、名門侯爵家の権威に気後れして弔問は控えると思うのに。
まあ、社交界への影響力もない男爵家が相手なら、遠慮することはないのかもしれない。
気持ちが軽くなったマグノリアは、ガスパルを棺へと導く。
彼は故人に花を手向け、目を閉じて祈りを捧げた。
その姿を見守るマグノリアは不思議な気分になる。
今日は寂しいお別れ会だった。父との最後の別れを惜しんでくれたのは、使用人と領地の者たちだけ。つまり一族の人間、身内だけになる。
ヴァイオレットの醜聞が人々の記憶から薄れていけば、再び他家と交流をすることはあるだろう。けれど親を亡くして失意のどん底にいるとき、こうして駆けつけてくれたのは彼だけ。
ガスパルは義理で弔ってくれたのだろうが、彼が悲しみを分かち合ってくれたことで、ようやくマグノリアも父の死を悼むことができた。
醒めない夢が、やっと醒めてくれた。
――お父さま……もっとそばにいてほしかった。領地運営だって教えていただきたいことがあるのに、どうしてこんな早く……
このときガスパルが祈りを終えて振り向いた。彼は珍しいことに目を見開いて驚いている様子だ。常に冷静で感情を揺らすことのない人だったのに、硬質な雰囲気まで薄くなっている。
どうしたのだろうと思ったら、ガスパルがハンカチを取り出してこちらの頬を軽く押さえた。
そのときになってようやく、自分が泣いていることに気がつく。
「あ……、申し訳ありません……」
「親の葬儀で泣くのはおかしなことではない。それよりも許しなく淑女に触れて申し訳ない」
ガスパルが頭を下げるから慌ててしまう。
「いえ、紳士のたしなみの範疇ですから……」
「そう言ってもらえると助かる。こういうとき優しく抱き締めて慰めるべきだと思うのに、私がその権利を有していないのがもどかしい」
「……は？」
一瞬、何を言われたか分からない混乱と驚きで涙が引っ込んだ。
「婚約者ではない男が触れたら、女性には恐怖だろう？」
「え、あ、はい、そうですね……」
ガスパルに触れられて恐怖や嫌悪感は覚えなかったが、それを言ったら「あなたなら触れてもいいです」との意味になりそうで押し黙る。
――それよりもダレイラクさま、私がその権利を有していないのがもどかしいって、まるでわたくしのことを……まさかね。
彼の卒業以来、会うことはおろか手紙のやり取りさえなかったのだ。そんな相手が男爵令嬢風情に懸想するなど、うぬぼれだと笑われても反論できない。
それが分かっていながらドキドキしてしまう自分が情けなかった。
――だって殿方はいつもお姉さまをちやほやして、わたくしのことは見向きもしなかったから。
自分の顔が赤くなっているように感じられ、慌ててハンカチを取り出すと目元を押さえてうつむく。話を変えようと必死に話題を探した。
「えっと、父の死はあまりに急だったので、慌ただしくて、初めて涙が出ました……」
「つらかっただろう。確か君の母君は在学中に亡くなられていたから、一人で何もかも対応しなくてはいけなかったはずだ」
マグノリアに姉がいることをガスパルは知っているはずなのに、「一人で」と言い切ったことでヴァイオレットの醜聞を知っているのだと気がついた。
知っていながら来てくれたことに胸が熱くなる。
同時に頭の痛い問題を思い出して、マグノリアの顔から、すんっと表情が抜け落ちた。
「そうなのです、泣いている場合ではありません」
「だろうな」
そこでガスパルが椅子に座るよう勧めてきたため、侯爵令息を立たせたままだったと気づいて急いで腰を下ろす。
ガスパルはマグノリアの隣に、一人分の間隔を空けて座った。
「私は法務省に務めているから、コロンヌ男爵が遺言書を遺していることは知っているんだ。跡取り娘だった姉君が消えて父君が亡くなられて、爵位継承は困難を極めるだろう」
「はい……」
オブラン王国では相続時の骨肉の争いを避けるため、当主は遺言書を法務省に預けるのが慣例だ。当主に万一のことが起きた際、爵位と財産を嫡男、または跡取り娘に相続させる意思を法的に表すのだ。
これは後継者が未成年だった場合、親族が財産をかすめ取るのを防ぐためである。遺言書を残しておけば、後継者以外が遺産に手を付けた時点で横領だ。ハンカチ一枚、銀食器一つでさえ、後継者以外の所有を排除できる。
そしてコロンヌ男爵は、『相続人を長女ヴァイオレットに指名する』との遺言書を遺していた。つまり失踪したヴァイオレットを探し出し、爵位を継いでもらわねばならない。
ガスパルはこのことを指摘していた。
「姉君の消息は分かったのか？」
「探させていますが、手掛かりはつかめていません。それに見つかったとしても、姉の性格では帰ってこないでしょう」
マグノリアとヴァイオレットは一歳違いなので、ガスパルも王立学園でヴァイオレットの噂を……お花畑令嬢だと聞いたことがあるはずだ。
予想通りガスパルは腕組みをして難しい表情になっている。
「しかし貴族である以上、家を継ぐのは義務でもある」
「姉に一般常識が通じるなら、わたくしも苦労しませんわ……」
すんっと鼻をすすりながら呟けば、ガスパルは気まずそうに視線をそらした。
マグノリアは目尻ににじんだ雫をハンカチで吸い取る。
「お恥ずかしいことです。国王陛下の臣民でありながら貴族の責務を果たさないなど」
しかも六年ぶりに会ったガスパルに、家の恥をぐちぐちと漏らしている。貴族は足の引っ張り合いが常套手段であるから、親しくもない相手に弱みを見せることは危険なのに。
たぶん自分は、ヴァイオレットの醜聞がありながら弔問に来てくれたことがうれしくて、ほんの少し寄りかかりたかったのだろう。
「気にするな、お家騒動はどこの家でも一度は起きる。しかも今の君は頼れる家族がいないから不安だろう。……婚約者はいないのか？」
「おりません」
マグノリアは二十二歳で、結婚適齢期のギリギリだ。しかしヴァイオレットが結婚相手をえり好みしたため、なかなか婚約者が決まらず、マグノリアは後回しにするしかなかった。
婚約者がいればここまで心細いことはなかったかもしれない。
そう思っていたらガスパルが、「そうか」と声を漏らした。なんとなくホッとしているように感じられて不思議だ。
このとき教会の裏手から馬の嘶きが聞こえてくる。それがやたらと力強い印象で、我が家の馬とは違うような気がした。
「ああ、私の馬だな。コロンヌ家の兵士に預けておいたのだが、気性が荒くて手こずっているのだろう」
「馬車で来られたのではないのですか？」
「馬に乗った方が早い」
よく花束なんて持ちながら乗馬ができたわね、と感心する。
この辺りで潮時だと思ったのか、ガスパルが立ち上がった。
「コロンヌ嬢、法律に関わることなら私も力になれる。何かあったら遠慮なく相談してほしい」
ガスパルが懐から、二つ折りの小さなカードを取り出して渡してくる。そこには王城における彼の身分が記されていた。
――法務省司法行政局審議官。確かかなり上の部署よね。さすが秀才。
学園時代、彼は入学から卒業まで首席の座を奪われたことはないと聞いている。
ガスパルを呼び出したい、または連絡を取りたいときは、この部署にメッセージを送ってほしいとのことだった。
マグノリアは素直に礼を述べてカードを受け取る。
コロンヌ家には顧問弁護士がいるし、侯爵令息に相談など恐れ多いので、これを活用することはないだろう。
それでもマグノリアを励ましたいとの配慮を感じて、救われたような気持ちになった。

　　　　　　　　　　　　　　　　§

お別れ会の翌日に葬儀を終えると、マグノリアはすぐさま相続手続きに入った。
法務省に預けてある父の遺言書を改めて確認したところ、当然だが相続人にヴァイオレットが指名されている。
そのほか、資産の一部をマグノリアに遺すなども記されていたが、それは今、どうでもいい。
重要なのは爵位である。
オブラン王国の法律だと爵位には領地が付属しており、領地だけを売ったり割譲することは許されていない。つまり爵位を継承する者は領地をも運営する義務を背負う。
その運営者が、現在のコロンヌ家には存在しないことになる。
一刻も早く新たな領主を立てなければならない。
今はまだいい、年間領地政策は毎年代わり映えがないため、代官や執政官は領主の指示がなくても、つつがなく領地を治めてくれる。
それが可能なのはコロンヌ領が小さい土地であることと、港から王都へと続く主要街道が通っているおかげで、大した産業もないのに収入が途絶えないからだ。
領都ヴァラスは、商隊や兵士が王都に入る前の最後の休憩地として栄えており、領政は豊かだ。
大半の領民が領都で働いているのもあって、ここさえ守っていれば安泰という、領主にとって治めやすい土地である。
そのため街の治安や生活基盤の維持、公共公益施設の保守などに力を入れている。
コロンヌ家は最古参となる家門の一つなので、さすがにいい土地を賜っているのだ。初代男爵には感謝してもしきれない。
だとしても領主がいない状況のまま平穏が保てるのは、もって一年ぐらいだろう。
人は善人ばかりではない。統治者がいなければ汚職などの政治的腐敗が始まり、やがて治安が悪化して盗賊などが跋扈する。
そうなれば旅人は領都を避けるだろうから、コロンヌ領のような土地はあっという間に没落するだろう。
ヴァイオレットを探し出して爵位を継承させることができないなら、マグノリアが相続人になるしかない。
だがそれには遺言書が妨げになっている。
ここからどう動けばいいかさっぱり分からないため、マグノリアは顧問弁護士のアロシュを呼び出すことにした。
彼とは先々代からの付き合いがあり、全幅の信頼を寄せている老弁護士だ。気のいいおじいちゃん先生で、マグノリアのことは赤ん坊の頃から知ってくれている。
しかし訪れたのは二十代後半の青年で、見知った顔ではなかった。
「初めまして、お嬢さま。アロシュ弁護士事務所を継いだ、ガストン・ボルデと申します」
「アロシュ弁護士はどうなさったの？」
「彼は老齢ですからねぇ。私に事務所を譲って引退されました」
マグノリアはすぐさま令嬢の仮面を貼りつける。
貴族の顧問弁護士を長年務めている彼が、挨拶もなしに引退するなどあり得ない。というか引退するとも聞いていない。
アロシュは子どもがいないため、養子をとって事務所を継がせるといっていたが、目の前の男の家名はアロシュではない。
――まさか乗っ取られたの？　弁護士なのに？
内心で渋い表情になったマグノリアは、お茶を出す執事に目配せする。事務所を調査しろとの意思は伝わったようで、執事は小さくうなずくと静かに応接間を出て行った。
「さて、今回のご相談は相続についてでしたね。遺言書の写しを拝見しましたが、難しい状況ですねぇ」
「わたくしが聞きたいのは、姉が戻ってこなかった場合のことです。わたくしが相続人になるための方法を教えてください」
「そうですねぇ、こういう場合はお姉さまを勘当して相続人から外すか、お姉さまが相続放棄するか、などが妥当です」
「勘当は当主しかできないのでは？」
「はい、そして相続放棄は本人しかできないため、これも難しい。なのでマグノリアお嬢さまができるのは、失踪宣告制度を利用するか、相続欠格者の手続きをするしかありません」
失踪宣告とは、行方が分からない者を法的に死亡したものとみなす制度のことだ。
「そんな、お姉さまを死んだことにするなんて」
「普通はためらいますよねぇ。それに失踪宣告は、行方不明になってから七年が経過しないと認められません」
「七年も待てないし、生きているかもしれない人を死んだことにはできないわ」
「それでしたら、相続欠格者の手続きをお勧めします。マグノリアお嬢さまが、『姉は貴族の義務を放棄したため、相続人としてふさわしくない』と裁判所へ訴えるのです。認められれば、お姉さまは相続権を失うことになります」
ただ、相続人ではない者がこれの手続きすれば、爵位と財産を狙ったお家騒動と疑われやすい。特に裁判所は遺言書……当主の遺志を優先するため、マグノリアの主張を簡単には認めない。
本当にヴァイオレットは行方不明なのか、もしかしたらマグノリアによって監禁されているのではないか。そういった懸念を一つ一つ潰して、間違いなくマグノリアの主張が正しいと時間をかけて調査するという。
「……まあそうでしょうね」
「三、四年ほどお姉さまを探して、それでも見つけられなかったら、裁判所もお嬢さまの主張を認めるでしょう。相続欠格者の手続きも、すんなり通ると思いますよ。そうなれば貴族社会も非難しないでしょうし」
マグノリアは膝の上に置いた扇を握り締める。
それでは困るのだ、領地が荒れていくのを、ただ見ていることしかできない。
唇をかみしめるマグノリアを、ボルデは悠然と眺めつつ鞄から書類を取り出した。
「お嬢さまが心配されているのは領地のことでしょう。ご安心ください、私がお嬢さまの代理人となってなんとかしましょう」
「……は？」
テーブルに置かれたのは?委任状?と記されただけの紙だ。誰にどのような権限を任せるか、いつまで有効とするか、そういった重要事項は何も書かれていない。
白紙委任状だ。
「……どういうことですか」
「今、コロンヌ男爵家は当主がおらず、今後数年は当主不在が続きます。しかしお嬢さまは正統なるコロンヌ家の継承者。当主でなくても領地の方々はお嬢さまの指示に従うでしょう」
それはマグノリアも分かっている。代々コロンヌ家に仕える家臣は忠実なので、マグノリアの事情を考慮し、領主代理として認めてくれるだろう。
しかしそれでは駄目なのだ。国王に承認された爵位保持者でないと、領主の公印を押すことができない。正式な領主でなければ、いつか必ず支障をきたす。
それに議会の出席が認められず、国に関わることが何一つできない。
「お嬢さま、よく考えてください。ここにサインをくださったら、私が代理人として領地を今よりもっと豊かにしてみせます。私は司法だけでなく会計も学んでいますので、素人のお嬢さまよりずっと適任ですよ」
領主は領地を適切に治めるだけでなく、国王陛下の忠臣である。
そのことを全く考えていないボルデのニヤついた顔を見て、マグノリアはこめかみに青筋が浮かぶのを感じた。
――この弁護士、わたくしが若い娘で家族がいないからって、舐めたまねを。
男性優位の社会において、若い娘はどうしても軽視される。
爵位継承でも跡取り娘は女当主にならず、婿養子を取って夫に爵位を預け、当主を名乗ってもらうのが大半だ。
まだまだ女性の地位は低い。それゆえに貴族令嬢でありながら、こうして平民の弁護士にまで見くびられている。
マグノリアを、何もできない泣くだけの小娘と侮っているから。
しかしマグノリアは泣き寝入りするような性格ではない。貴族の矜持は常に抱いており、お花畑な姉に振り回されてきたのもあって理不尽な仕打ちに耐性ができている。
これでも歴史あるコロンヌ男爵令嬢なのだ。
マグノリアは扇を半分開いてすぐに閉じると、壁際に控えている侍女に扇の先端を向ける。これは警備兵を呼んできてほしいという合図だった。
侍女が音もなく応接間を出て行くと、マグノリアは背筋を伸ばす。
「ボルデさん、平民でしかないあなたが、貴族相手に白紙委任状のサインを求めるなど、身の程知らずの愚行だと分かっているのかしら？」
あえて平民と強調してやれば、「これは手厳しい」とボルデは笑っているが、唇の端が引きつっている。
「それは持って帰りなさい。あと、コロンヌ男爵家はアロシュ弁護士事務所との顧問契約を打ち切ります」
「なっ、何を言うんです！　お嬢さまは知らないでしょうけどっ、コロンヌ家と我が事務所は切っても切れない関係なんですよ！　それを勝手に終わらせるなど亡きお父さまが嘆かれます！」
その言葉にマグノリアの忍耐が切れた。マグノリアは決して短気ではないし、それどころか姉の尻拭いを続けてきたため我慢強い方だ。が、許せないこともある。
扇を開いて顔の下半分を隠すと、喚き散らす男の目を射抜いた。
「――おまえ程度がわたくしの父を語るなど万死に値する。無礼者が」
あえて低い声で言い放てば、さすがにボルデもまずいと気がついたらしい。
この直後、入り口の扉が開いて三人の警備兵が入ってきた。
「この者を追い出して。二度と屋敷に入れないように」
「そんなっ、お嬢さま！」
騒ぎ立てるボルデが、警備兵たちに容赦なく引きずり出されていく。扉が閉められて男の声が聞こえなくなると、マグノリアは大きく息を吐いた。
「……やっぱり夫が欲しいわ」
父親も男兄弟もいない若い令嬢が矢面に立つのは、まだまだ社会が受け入れてくれないのだ。
――でもわたくしが爵位を継いだら、女当主になっちゃうのよね。
跡取り娘は夫を当主にするが、それは結婚した後に爵位を継承した場合に限る。
もしマグノリアが未婚のまま爵位を継ぐと、当主になってくれる夫がいないため、マグノリアが女男爵になってしまうのだ。
その後に結婚した場合は、夫へ爵位を預けることが不可能になる。
これは女王の夫が国王になれないのと同じで、一度当主になったらその地位は不動なのだ。
ではなぜ、夫がいる跡取り娘は、夫を当主にできるかといえば、これはオブラン王国が血縁以外へ爵位継承を認めていないことに由来する。
婿は血縁ではないが、次代の血縁を生み出す者だ。それゆえに跡取り娘と婚姻している間は血縁と見なされた。
――それって屁理屈じゃない。だったら女当主の夫も血縁と見なされるから、爵位を渡すことだってできるはずよ。まあそれを認めちゃったら王配殿下はどうなるんだって揉めるから、認められないのは分かるけど。
自分が爵位を継ぐ前に結婚できれば、夫を当主にできるのに……とため息を漏らしたとき執事が戻ってきた。アロシュ弁護士事務所の調査を手配したとのこと。
「それよりもお嬢さま、これは白紙委任状ではありませんか。何があったのですか？」
ボルデの愚行を簡潔に話すと、執事は怒りをあらわにした。
「不届き者が……」
「ついてないわね。そうだわ、書斎に法令集はあるかしら？　我が家のようなケースはどう対処すればいいか調べないと」
「ありますが、簡略版になります。やはりプロに相談した方が確実です」
「……家の恥をそうそう漏らせないわ」
信頼関係のない弁護士に家の事情を話す勇気はない。
今から弁護士を探そうとしても、ボルデのような者は他にもいるはずだから、それを見抜く自信がマグノリアにはなかった。
――こういうときのために顧問契約を結んでいるというのに、アロシュ先生がいないなんて。ここ最近は本当に運がないわ。
アロシュ以外にマグノリアを軽視せず、親身に相談に乗ってくれる弁護士など――
『法律に関わることなら私も力になれる。何かあったら遠慮なく相談してほしい』
不意に教会での会話を思い出した。薄暗闇に浮かび上がる端整な顔と、こちらを案じる美しい瞳も。
――いたわ、信頼できる司法関係者が。
いやでも、六年間も没交渉のうえ、はるか雲の上の方を頼るなど本当にいいのだろうか。社交辞令として告げただけかもしれない。
それでも今は他に頼れる人がいない状況だ。
そして一刻も早く相続問題を解決しないといけない。
マグノリアは恥を忍んでガスパルに手紙を送ることにした。すると間を置かずに返事が来て、休日にコロンヌ家へ来てくれるという。
マグノリアは猛烈に焦った。
こちらは頭を下げて相談する側で、しかも相手は名門侯爵家の嫡男だ。ガスパルを動かすなど、とんでもないことだと再び手紙を送ったが、断られてしまった。
もしかしたら男爵家の令嬢風情を、家に招きにくいのかもしれない。
申し訳ないがガスパルに屋敷まで来てもらうことにした。




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    <title>【7月30日発売】乙女ゲームに転生中！　王太子と結婚しないと死ぬのですが、何故かその弟が爆速で距離を詰めてきます【本体1300円+税】</title>
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●著：月神サキ
●イラスト：針野シロ
●発売元:三交社
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●ISBN:978-4815543938
●発売日:2026/7/30</div>

<p><span class="f130 black">犬猿の仲の王太子を攻略するはずが、第二王子の愛に絡め取られました!?<br /></span>

ヒロインのルートに応じて決まる相手と結ばれなければ死ぬ乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまったリラ。彼女の相手はモラハラクズの婚約者である王太子だった。
死にたくないので結婚して速攻離婚しようと渋々彼に媚び始めるリラだが、同じく兄を嫌う、第二王子サフィールが彼女を心配し事情を聞いてくる。「見ているだけしかできないことが悔しい」彼の隠れた気持ちを知り心を揺らすリラは!? 

</p><img src="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/etc/gab_otameshiyomi_banner.png?cmsp_timestamp=20180420182727"><br />



序章　乙女ゲームに転生した。



「……最悪だ」
自室のベッドから身体を起こした私――リラ・アメティストは深い息を吐き出した。
ブランディア大陸の中央部にあるダイヤモンド産出国として有名なアルジャン王国、その国のアメティスト公爵家に娘として生まれた私は、今年十八歳になる。
背中まで長さのある金髪と、紫色の瞳が特徴の狐顔。性格はすこーしきつめだけれど友人もいて、社交界でもそれなりに上手くやれてきた。
わりと人生楽しく過ごしてきたのだ。
そんな私が、目覚めるや否やベッドの上で項垂れているのには海よりも深い理由があった。
「ここ、ゲームの世界……」
周囲に誰もいないことを確認し、両手で顔を押さえる。
目が覚めた時、唐突に思い出したのだ。
私が元日本人で、何故か転生して今ここにいるということを。
しかもその世界は乙女ゲーム『ブルーシエルに煌めいて』の世界だというとんでもなさすぎる事実を。
「うわああ……よりによって、ブルーシエル？」
乙女ゲーム『ブルーシエル』はＲ18指定。
ヒロインと悪役令嬢のダブル主人公ものとして知られ、ヒロインがエンディングを迎えた相手によって、悪役令嬢の攻略キャラが決まるというゲームである。しかもその決められた攻略キャラと結ばれなければ、もれなく悪役令嬢は死ぬ。
攻略キャラを選べるのは、実質ヒロインだけというクソ仕様なゲームなのである。
「……これで私がヒロインに転生していたとかなら、まだマシなんだけど……」
己の金髪を手に取る。鏡を見なくても十八年間、見続けた自分の顔はよく知っていた。
「悪役令嬢リラ・アメティスト……」
ベッドに両手を突き、項垂れる。
なんの因果か、私が転生したのはダブル主人公のひとりである悪役令嬢リラだった。
とはいえ、悪役令嬢といってもタイトルに銘打っているだけで、本当に悪役なわけではない。
当時、悪役令嬢ものがやたらと流行っていたので、その方が売れるだろうとゲーム会社がヒロインのひとりの属性を「悪役令嬢」にしただけなのだ。
だが！
「攻略キャラが選べないリラに転生とか、運が悪すぎない？」
これならモブにでも転生した方がマシというものである。
己が結ばれるキャラを選べないとか酷すぎる。
「えー……私、誰を攻略しないといけないの？」
「攻略なんてしない！」と逃げるのは不可能だ。何せ、指定されたキャラと結ばれなければ死んでしまうのだから。
死にたくないのなら、ゲームのルールに従うより他にないのである。
「この世界はゲームじゃないとか言って無視するのもありかもだけど……万が一違った場合、死ぬしかないというのがね……」
絶対に嫌だと首を横に振る。
「となると、私が取れる手段は指定キャラと結ばれる……つまりは結婚することだけど……そういえば……つい最近、ノワール公爵令息のフリュオが、ルージュという名前の男爵令嬢と結婚したって噂になっていたわね」
話を聞いた時は「おめでたいわね〜」くらいのものだったが、今は違う。
何せルージュというのはヒロインの名前で、その彼女が『フリュオ・ノワール公爵令息』と結婚したのなら、すでに私の相手も決まっているということなのだから。
「ヒロインが公爵令息ルートを選んだ場合……悪役令嬢リラは誰を攻略することになるんだっけ……たしか王太子……ん？　ということは、カネルぅ!?　冗談でしょ!!」
自分の相手となる人物を思い出し、死ぬほど渋い顔になった。
攻略キャラ『カネル・アルジャン』。
銀髪と青い瞳が特徴のこの国の第一王子かつ王太子で、大変不本意なことに私、リラの婚約者でもあった。
容貌は悪くない。ワイルド系の男前だ。背も高く体つきもがっしりした見栄えのする男で、剣の腕前も一流。
ただ彼は性格に難があり、それがもう最悪なのだ。
そう、カネルは女好きのモラハラクズ野郎なのである。
「あのクズ野郎と結婚？」
有り得ないと呟く。
カネルとは現在一応婚約関係ではあるが、ほとんど破綻状態にあると言ってもいい。
私はクズな彼が大嫌いだし、カネルはカネルで、毎日のように違う女性を侍らせているからだ。
私に対しても「もう少し胸が大きければオレ好みだった」とか「お前のような可愛げのない女は願い下げだ」とか「いずれ婚約など破棄してやる」とかとにかく暴言三昧。
私も気が弱い方ではないので毎度言い返していたところ、今では犬猿の仲になってしまった。
「王家が決めた婚約だから我慢していたけど、いつかは上手いことやって破談に持っていこうと企んでいたのに……よりによってカネルが攻略相手とか……」
悔しさから唇を噛みしめる。
腹が立ち過ぎてちょっと唇から血が出てしまった。それほどに私はカネルという男が嫌いなのである。
できれば彼と結婚なんてしたくない。
だが、ゲームはもう始まっていると思うのだ。
たぶん猶予は殆どない。
「だって、今日のこれだってたぶんそういうことでしょ？」
頭に手を当てる。
右側頭部にたんこぶができていた。
実は記憶を取り戻すことになったのは、ほんの数時間前、玄関ロビーから二階に続いている大階段より派手に落ちたのが切っ掛けだった。
頭から落ちたので「あ、死んだ」と思ったし、今思い出しても死んでもおかしくない結構な事故だったと思う。
そして気絶から目覚めたのが今で、私はこうして頭を抱えているというわけだ。
前世の記憶を思い出したからこそ分かるのだが、あれはヒロインがハッピーエンドを迎えて一ヶ月以上経った今も、一向に王太子ルートを攻略しようとしない私に対する世界からの警告だったのではないだろうか。
さっさと攻略を開始しろ。
でなければ、バッドエンドと見做し、この世から追放するぞという脅しである。
「この世界怖すぎじゃない？」
何故だろう。
何の確証もないのに、これが真実だという確信があった。
「うーん、うーん、うーん」
王太子を攻略するのは死ぬほど気が進まないが、放置すればたぶん（絶対）死ぬ。
説明はできないけど、そんな予感がヒシヒシとするのだ。
直感と言い換えてもいい。
そんな中、悩みに悩んだ私が出した結論は「とりあえず結婚（ゲームクリア）して、その後速やかに離婚する」というものだった。
クリアしてしまえば、その後は勝手にしても大丈夫だろうという考えだ。
問題を先送りにしたとも言えるが、現状をなんとかしなければならないのだから間違ってはいないと思う。
ただ、この「ブルーシエル」というゲーム、確かに前世でプレイした記憶もクリアした記憶もあるのだけれど、いまいち内容を覚えていないのが問題だった。
何せプレイしたのが前世である。
詳細まで覚えている方がおかしいし、そもそもの話、前世でも私は王太子が嫌いだったのだ。
嫌いなキャラのルートを覚えているか？　答えはノーだし、なんなら彼のルートをプレイしていなかった気さえしている。
「どんな話だったかなあ。確か、性格の捻じ曲がったカネルを更生させて良い国王へと導く……みたいな流れ？　は？　あの男を更生？　どうやったって無理でしょ」
ゲーム内容を覚えていないので、更生方法も分からない。
それなら自分でなんとかしろという話だろうが、あの男のために骨を折るのが無理だ。
良い国王とかどうでもいい。そのあと別れるのだから、とにかく結婚できればいいのだ。
カネルと最速で結婚するための方法を考える。
彼とは婚約者なわけだが、今の状態では、正直結婚がいつになるやも分からない。ゆっくり関係を改善させて……みたいな手はすでにバッドエンドが迫っている現状、使えない。
「業腹ではあるけど……媚びを売る、か」
カネルは単純な人間だ。
自分に反抗する者を嫌い、従順な者を好む傾向が強い。
だから彼に何を言われても逆らわず「好き好き」言って媚びを売り、結婚してもいいと思ってもらうのが手っ取り早いと判断した。
ものすごくストレスは溜まるだろうけど、死ぬよりはマシだ。……たぶん。
「絶対に結婚したら、即離婚してやる……」
なんでこんなことにと思いながらも己に言い聞かせていると、たんこぶがズキズキと痛み出した。
「痛っ……」
「お嬢様、失礼致します。まあ、お目覚めになっていたのですか！　よかった！」
こぶを押さえていると、様子を見にきたメイドが部屋の中へと入ってきた。私を見て、嬉しげな声を上げる。そんな彼女に告げた。
「ごめんなさい……悪いけどお医者様を呼んできてくれるかしら？　ちょっと頭がズキズキして」
「まあ大変！　今すぐ、お医者様をお呼びします！」
慌ただしく部屋を出て行くメイドを見送る。すぐに外がガヤガヤし始めた。私が目覚めたことを聞きつけたのだろう。
いまだズキズキと痛むこぶを押さえながら溜息を吐く。
大嫌いな男と結婚というスーパーハードミッション。達成できるかは分からないが、やらなければ死ぬのだからやるしかない。
不本意だがやれることはしようと決め、ベッドに潜った。



第一章　持つべきものは友だった。



たんこぶができている他は特に問題なしと医者に診断を受けた私は、念のため一週間の療養と安静を告げられた。
私としてはすぐにでもカネル攻略を開始したいところだが、打った場所が場所だけに油断は禁物。
言われたとおり一週間、ベッドの上の住人として大人しく過ごした。
そして療養期間が終わり、心身共に回復した私は、満を持して王城へ登城した。
カネルの婚約者である私は、二週間に一度は登城し、彼と会うことが義務づけられているのである。
これは婚約者と交流を深めようという目的なのだが、大失敗だと思う。
何せ、カネルを知れば知るほど、彼を嫌いになるから。
とはいえ、彼を攻略しなければならなくなった現状、確実に会える方法があるのはありがたい。
ちなみに日時を指定してくるのはカネルで、今日に至っては、今朝いきなり「午後、登城しろ」という連絡がきた。
私が頭を打って療養していたことは知っているだろうにその件について一切触れていないだけでなく、突然過ぎる呼び出し。
相変わらず性格が最悪過ぎてこめかみが引き攣ったが、攻略のためだと怒りを堪えた。
もらった手紙はグチャグチャに握り潰したけど、そこはご愛敬である。
「こちらでお待ちください」
侍従が私を案内したのは、関係者以外は立ち入れない中庭だ。
カネルは私を自分の部屋に入れることを嫌がるので、会う時はほぼ確実と言っていいほど外なのだ。
中庭にテーブルを出してお茶会をしたり、ガゼボに座って話したりとその時によって変わるが、今日はお茶会の準備はされていなかった。
軽く散歩して解散という感じだろう。
気に食わない婚約者などそんな扱いで十分だという考えが透けて見える。
中庭ではちょうど薔薇が見頃を迎えており、とても華やか。赤や黄色、ピンクに白と色とりどりで美しい。
言われたとおりカネルが来るのを待つ。しかし「待て」と言われてから三十分以上が経っても、彼は一向に姿を見せなかった。
「は〜、お茶を出す気すらないのも笑えるけど、遅刻までするとか、あいつどういう神経してんの」
案内してきた侍従もいなくなったので、遠慮せず毒づく。
「来いと言ってきたのはそっちのくせに、待たせるとか信じられないんだけど」
とはいえ、こういうことも多々あるのだ。
すでに帰りたい気持ちではあったが、攻略のためと堪える。
更に三十分待って、ようやくカネルが現れた。
「なんだ、いたのか」
「……殿下」
王族に対する礼を取り、許しを得てから顔を上げる。
二週間ぶりに見た彼は、相も変わらず見た目だけは抜群だった。
まず、非常に華やかな雰囲気があり、顔つきも精悍で整っている。
長身で姿勢も綺麗、鍛えているから体つきもいい。
ただ、着ているジュストコールは金糸をふんだんに使った光沢ある派手なもので、今日は夜会かとツッコミを入れたくなるほど無駄に華美だった。
アクセサリーもこれでもかというほど着けており、指輪だけで五つはある。
とにかく派手好きなのだ、カネルという男は。
「まだ待っているとは思わなかったぞ。痺れを切らして帰ったと予想していたのだがな」
「……帰れと言われたわけでもありませんので」
初っ端からカチンとくる言葉を投げつけられた。
どうやらカネルはわざと遅刻してきたらしい。
己の思惑通りに事が運ばなかったことが気に入らないのだろう。カネルは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「帰っていれば『どういうことだ』と言って、婚約を破棄でもしてやろうかと思っていたのに」
「まあ、そんな悲しいことを言わないでくださいませ」
内心では中指を立てていたが、表面上は笑顔を作って答える。
カネルも私と同じで、なんとか婚約を破棄したいのだ。
何せ、相手が大嫌いな私だから。
ただ、婚約を持ちかけてきたのが王家ということもあり、自分が悪者にはなりたくない。
それは私も同じで、どうにか彼の過失で円満に婚約解消……というルートを探っていたところだった。
とはいえ、それはもう叶わないのだけれど。
今の私にはこの男と結婚する以外の選択肢がない。
『結婚ＯＲ死』なので選びようがないとも言えるが、ともかくこれから急ぎ、彼の好感度を上げねばならなかった。
――マイナススタートとか最悪だけど、仕方ない、か。
カネルには見えないように小さく息を吐く。
今から彼に媚びを売って売って売りまくる。
そして最短で結婚まで漕ぎ着けるのだ。
そう己に言い聞かせていると、彼が怪訝そうな顔をした。
「なんだ？　いつものお前なら『私もぜひ、婚約を解消していただきたいですわ』くらいは言い返してくるだろうに……気持ち悪いな」
「気持ち悪いなんてそんな。私は殿下と結婚したいと思っております」
心にもない言葉を笑顔で告げると、カネルは分かりやすく疑いの眼差しを向けてきた。
「頭を打ったと聞いたが、打ち所でも悪かったのか？」
「まさか。今更ながらではありますが、殿下の魅力に気がついただけのこと。どうして今まであんな態度を取っていたのか自分でも分かりません」
両手を胸の前でギュッと握り、上目遣いでカネルを見る。
カネルはかなりの長身なので、見上げないと視線が合わないのだ。ちなみに足も長い。……ムカツクな、くそ。
「ふうん」
疑わしげに私を見ていたカネルが、ニヤリと唇の端を吊り上げる。
「確かにかなり遅いがオレの魅力に気づいたというのはいい心がけだ。だが、お前にかかずらっている暇はないのでな。今日も遅れたのは、先ほどまで女がオレを離してくれなかったからだし」
「まあ、そうでしたか。殿下は素敵な方ですから皆、放ってはおかないのでしょうね」
我ながら中身のない世辞だと思ったが、カネルはそうは受け取らなかったようだ。
珍しくも機嫌良く語り出した。
「うむ。実に好みの巨乳だった。オレの手に余るほどの膨らみで、柔らかな揉み心地が最高でな。何度も吸い立ててやったわ。とはいえ、胸が良くとも中がああもガバガバでは楽しくはない。何度か慈悲はくれてやったが、あの女を二度呼ぶことはないな」
「とはいえやはり女は巨乳に限る」と楽しげに語るカネルを白けた気持ちで見つめる。
カネルが女好きのクズとは知っていたが、その内容を仮にも婚約者に語るとか最悪だ。常識がなさ過ぎる。
どう反応するべきか迷い、とりあえず悲しげに視線を落とすことにした。
「そうでしたか。殿下に他の女性が……。婚約者としては悲しいですけど、あなたがなさりたいことを止める権利はありませんから」
「……本当にどうした？　まるでオレのことが好きみたいな口振りだな」
いつもの私と反応がまるで違うことがどうにも気になるようだが、悪い気はしていないようでニヤニヤと笑っている。
やはり思った通り、カネルは自分に従順な態度を取る女が好きなのだ。そしてチョロい。
今まで「最低ですね。あなたと結婚したいなんて露ほども思いません」と北風のごとく冷たい態度で接していた私が態度を少し変えただけでこれなのだから呆れるが、こちらにとってはありがたい話だ。
――少しくらい疑えばって思うけど……ううん、攻略が楽になるんだからこの方がいいわ。
こんなのが未来の国王で大丈夫なのかと心配になるが、そもそもカネルルートは彼を更生させるのが正規シナリオだ。つまり最初はクズでいいのである。直そうとは思わないけど。
「魅力に気づいたと申し上げたでしょう？　今まで、本当に愚かだったと思っております。あなたのような素敵な方を婚約者に持ちながら、平気でいられたことが信じられませんわ」
「……ほう？」
「誤解されないよう申し上げておきますね。私は殿下をお慕いしておりますし、できるだけ早く結婚したいと、そう願っております」
ここははっきりさせておいた方がいいと思い、告げる。
カネルの様子を窺えば、分かりやすく好意を向けられたことに悪い気はしていないようだった。
「今後も従順であればまあ、考えてやってもよい。それではオレは行くぞ。次の女が待っているからな」
チラリと視線を向けられたのを見て、察した。
彼の望み通りの言葉を紡ぐ。
「次の女性……ですか？」
「なんだ、嫉妬か？　次に会うのはお前とは比較にもならないくらいの美女だぞ。ちなみに待ち合わせ場所はオレの寝室だ。裸で待つように命じているから、今頃身体を熱くさせてオレを待っているだろうなあ」
「……」
下品！　と喉元まで言葉が出掛かったが、ギリギリのところで堪えた。
できるだけ悲しげな顔をして「殿下を留めておけるだけの魅力が私にないのですから仕方ありません」と告げると大正解だったのか「そうだな！」と元気な声が返ってきた。
「お前は胸も足りなければ、オレを敬う態度も足りない。とはいえ、オレも鬼ではない。今後態度を改めるようなら少しは考えてやってもよいぞ」
「っ！」
舐めるように身体を見られた。それがあまりにも気色悪くて、堪らず話を打ち切る。
「お忙しい中、お時間ありがとうございました」
カネルは少し不満げに顔を歪めたが、それ以上何かを言ってくることはなかった。わりと機嫌がいい様子で背を向ける。
「また二週間後。その時、お前の態度が今日のようなものであれば、もう少し扱いもよくしてやろう」
「お心遣い、痛み入ります」
カネルの背中に向かって、深々と頭を下げる。
彼の姿が見えなくなるまでそうして――顔を上げた。
「……あー……疲れた」
普段より一段低い声が出た。
覚悟はしていたが、カネルに媚びを売るのが本当にキツかったのだ。
何度「二度とお前と話したくない！」と言いたくなったことか。
こちらが下手に出ていた分、いつもより倍増しでセクハラ、モラハラが酷かった。
「ああいう男って前世でもいたけど……」
それが婚約者で、しかも攻略相手とか厳しすぎる。世を儚みたくなったが、私は生きたいので我慢することにした。
「はあ……」
「ちょっと、今のは何？」
「ひえっ!?」
突然、後ろから声を掛けられ、飛び上がった。
――だ、誰？
しまった。気が緩んで、近くに人がいることに全く気づいていなかった。
おそるおそる振り返る。そこには私の友人がおり、呆れたように腰に手を当てて立っていた。
その姿を見て、ほっと息を吐く。
「……ああ、サフィール」
「ああ、じゃないでしょ。今のは一体なんなの」
不審な目で見られる。
秀麗な眉を寄せるこの男は、サフィール・アルジャン。
この国の第二王子で、私の友人だ。
青みがかった肩まであるサラサラの銀髪とサファイアを思い出す綺麗な青い瞳をしている。
儚さと静謐感の漂う中性的な顔立ち。
美しくも繊細なガラス細工を思わせる容貌だ。体格は細身で身長は私より十二センチほど高い。年齢は私と同い年。
あのカネルの弟だが、似ているのは色だけで、見た目も性格も全く正反対の兄弟だ。
非常にマイペースでわりとおっとりしている。
そんな彼とは、八歳の時に城の書庫で出会った。
私は当時、すでに婚約者だったカネルに嫌がらせで書庫に閉じ込められたのだが、そこにはなんと先客がいたのだ――。




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    <dc:date>2026-07-07T14:16:41+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ガブリエラブックス</dc:creator>
    <foaf:topic><foaf:Image rdf:about="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/product/192534234_th.jpg?cmsp_timestamp=20260707141640" /></foaf:topic>
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  <item rdf:about="https://gabriella.media-soft.jp/?pid=192533973">
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    <title>【7月30日発売】お飾り妻になる予定でしたが、美貌の公爵様に重く愛されて離縁できません【本体1300円+税】</title>
    <description></description>
<content:encoded><![CDATA[
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●著：犬咲
●イラスト：敷城こなつ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543921
●発売日:2026/7/30</div>

<p><span class="f130 black">お飾り妻から始まったのに、気づけば愛妻扱いされていて……!?<br /></span>

「この国の令嬢の中で君は一番無害で地味でこれといった取り柄がない」と、お顔が眩しい王弟マルスから求婚されたルディア。姪の王女が彼に熱を上げ政略結婚を嫌がるのを、諦めさせるために結婚したいというのだ。
お飾りの妻になる覚悟で嫁いだ彼女だが、互いの傍は意外に心地よく、子供を作るためだけだった閨も日に日に甘くなる。気づけば、彼は周囲も驚くほどの、愛妻家に変貌していて――!?

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プロローグ　残念な求婚



ルディアは平凡な娘だ。
裕福でも貧しくもない、そこそこ代を重ねているものの社交界内でたいした力を持つわけでもない、平凡な伯爵家の平穏に愛しあう、平凡な両親の二番目の子として、十八年前に生まれた。
誰もが見惚れるほどの美貌もなく、類まれなる肉体美の持ち主でもない。
ふんわりと波打つ、ミルクをたっぷり入れた紅茶めいた、やわらかな色合いの髪と若葉色の瞳。
華やかでもないが地味でもない、野の花のような素朴な愛らしさを感じる顔立ちに、高くも低くも、細くも太くもない、それなりの凹凸はあるものの、これといって特徴のない身体。
際立って賢いわけでもなく、運動神経もそこそこ。
すべてのものに慈愛を向けるほどの聖人めいたやさしさや、一切の不正を憎む強い正義感の持ち主でもない。
できる限り人にはやさしくありたいし、嘘もあんまりつきたくないわ――程度の善良な人間ならば、誰もが持ちあわせているような倫理感があるだけだ。
何をとっても平凡でそれなり。
この国の「普通の娘」はどんなものかと問われたら、ルディアを見せれば「ああ、こんな感じか」と納得してもらえるような、圧倒的な凡庸さ。
ルディアを知る者に彼女の評価を問うたなら、「特にこれといった特徴はないかしら」「普通に良いお嬢さんだと思いますけれど」と無難に答えるだろう。
彼女は「無害な凡人」だと。
それは彼女、ルディア自身もわかっていたし、それで満足していた。
自分にみあった相手に嫁ぎ、父と母のような平凡だが幸せな家庭を築きたい。
そう願っていたし、そうなると信じていた。
国一番の平凡な令嬢として、穏やかな人生が続くと思っていたのだ。
春風と共にやってきた、国一番の絶世の美男子から電撃求婚されるその瞬間までは。

　　　　　　　　＊　＊　＊

――お顔がまぶしい……！
麗らかな春の午後、突然屋敷を訪れたマルスと応接間で顔を合わせたそのとき、最初にルディアはそう思った。
マルス・テネラプラ、御年二十六歳。
テネラプラ王国の国王フェリクスのただ一人の弟であり、広大なる所領を誇る、ベネヴォール公爵家の若き当主。
優美な左手の小指には、その証である紋章入りの金のシグネットリングが輝いている。
気難しく社交嫌いなことで知られ、めったに表舞台に顔を出すことはない。
芸術を愛し、まだ見ぬ傑作との出会いを求めて、諸国を渡り歩いては、気まぐれにフラリと帰ってくる。
そんな彼についた呼び名はふたつ。ひとつが「芸術家気取りの道楽貴族」。
そして、もうひとつが……。
――さすがは「王家の秘宝」、これほど美しい男性が実在するのね！
秀麗な額に、粗野でも弱々しくもない、ほどよく凛々しげな眉、スッと通った鼻梁。
けぶるように長く重たげな淡い金の睫毛、半ば伏せられた切れ長の目は、名のある彫刻家がこれぞというバランスで引いたような二重の線と、下目蓋の描く絶妙な曲線が見惚れるほどに美しい。
その中に収まった瞳の色は、吸いこまれそうなセルリアンブルー。
生きた宝石と呼ばれるモルフォチョウの翅めいた鮮やかさと、希少な天然のブルートパーズを思わせる澄んだ輝きを感じさせる。
形の良い唇はやや薄め、唇の端がわずかに上がっていて、冷ややかながらどこか誘っているようで、妖しく官能をくすぐられる。
伸ばしたまま結びもせず、無造作に垂らした淡い金の髪は、ともすればだらしなく見えそうだが、彼の場合は違う。
サラサラと流れる絹糸のごとく艶やかな髪が、額縁のように彼の美貌を引き立て、どこか退廃的な色香を醸しだしている。
羽織っただけの空色の上着に、襟元のはだけたドレスシャツ。
それから、上着と同色のベストにトラウザーズという気崩した装いも、生来の気品のせいか、だらしなさよりも「美しさの形のひとつ」と感じさせる。
――これは……秘されるのもわかるわ。むしろ、秘されて正解ね。
惜しみなくこの顔を見せびらかされては、暴力的なまでの美しさに目を焼かれ、脳裏に焼きついて悩める人々が大量に出てしまうことだろう。
ルディアもしばらくは、この残像が目蓋の裏から離れず、夢に見てしまいそうだ。
――なるべく直視しないように気を付けましょう。
睫毛を伏せながら若葉色のドレスの裾を払って、ふたつ並んだ肘掛け椅子に、父であるコリスコン伯爵と並んで腰を下ろす。
父の方もマルスを直視しないようにか、視線を微妙に下げているあたり親子だ。
遊学中の兄がここにいたならば、きっと同じように斜め下を見つめていたことだろう。
そのようなことを思いつつ、応接テーブルを挟んでマルスと向かいあったところで、長椅子の上で、長い脚を優雅に組んだ彼が口をひらいた。
「……前ぶれもなしにすまないな」
響きの良い声で謝罪をのべつつも、口調は気だるげで、その表情にも態度にも悪びれた様子はない。
マルスは理解しているのだ。
この程度の非礼を働いたところで、ルディアたちが彼を咎めることはないと。
この国で国王に次ぐ強大な地位と権力を持つ彼に、堂々と物申せるのは、彼の兄であるフェリクスくらいだろう。
「いえ……それで、本日はどのようなご用件でしょうか？」
「ルディア嬢を私の妻として貰い受けたい」
「……はい!?」
遠慮がちに父が問いかけて、サラリと返ってきた言葉に、父とルディアは目をみひらき、そろって驚愕の声を上げる。
「先ほど兄上に頼まれたのだ。早急に身を固めてほしいとな」
億劫そうに眉をひそめて、マルスはそう続けた。
「先ほど、でございますか？」
「そうだ。姪のプリムラが私に懸想をして、兄を困らせていることは知っているな？」
「それは……噂としては耳にしております」
国王の最初の子、今年十八歳になるプリムラ王女が、幼い時分よりマルスを恋い慕っていることは周知の事実だ。
けれど、当のマルスにその気がなく、むしろ迷惑がっていることも、また皆が知っている。
「……噂ではない」
どのように答えたものかと困ったように父が曖昧に頷くと、マルスはいっそう眉間の皺を深めて、溜め息をひとつこぼしてから語りはじめた。
「幼い頃のプリムラは病弱で、叔父として案じ、あれこれ世話を焼いていた。それが良くなかったのだろう。私に無駄な幻想を抱いていて、すっかり健康になった後も、自分は私にとって特別な存在だと思いこみ、私と結ばれる運命なのだと言い張っているのだ」
マルスのことを「ミステリアスだけれど、私にだけはやさしく笑ってくれる美貌のお兄様」と思いこみ、憧れと初恋をこじらせてしまっているのだという。
「縁談の話が出るたびに泣いて嫌がり、兄上も渋々ながらに許してきた。だが、今回ばかりはそうもいかない」
「と、おっしゃいますと……？」
「隣国の第二王子との縁談が持ち上がっている」
「ああ、それは……お断りするわけにはまいりませんね」
隣国とは友好条約を結んだばかりで、今が一番大切な時期だ。
二国間の関係を深めるための、友好の証としての縁談なのだろう。一介の令嬢のルディアでさえ、それくらいはわかる。
王女であるプリムラならば、なおさらその重みも大切さもわかっているだろうに……。
「……プリムラ殿下は、嫌がってらっしゃるのですね」
「そうだ。嫌だと言ってきかない。特に顔が嫌だと」
「顔？　特に悪くは……むしろ整ってらしたような気がするのですが……？」
父がルディアに同意を求めるように視線を向けてきて、ルディアは「はい」と同意を示す。
隣国の第二王子ならば、一度だけ、父と共に交流式典で目にしたことがあるが、決して容貌は悪くなかったはずだ。
「気品がおありで、穏やかそうに整った顔立ちをしてらしたかと……思うのですが」
そろって首を傾げる父とルディアに、世にも麗しい顔をしかめてマルスは頷く。
「ああ。穏やかで誠実な人柄が出ている、実に良い顔だと私は思うが、気に入らないらしい。私ほど美しくはないから嫌だそうだ」
「そんな無茶な……！」
マルスは「王家の秘宝」に例えられるほどの稀代の美男子なのだ。
彼ほど美しい男など、そうそういるはずがない。
――でも、いないからこそ焦がれてやまないのでしょうね。
ルディアが眉を下げたところで、マルスは盛大な溜め息をひとつこぼして、「そういうわけで」とルディアに視線を向けた。
「プリムラが私を諦められるよう、誰でもいいから早急に妻の座を埋めるよう頼まれ、兄上のために、こうして君に求婚をしにきたというわけだ」
「さようでございますか……あの、ですが、どうして私なのでしょうか？」
視線を合わせているだけでも、どんどん心拍数が上がっていくようで、まぶしすぎる美貌を直視せぬよう、半ば目を伏せながら尋ねると、彼はためらうことなく答えた。
「君が一番都合がよかったからだ」
「……はい？」
「元々、結婚するのならば毒にも薬にもならない、社交界で力のない、平凡で目立たぬ家から娶ろうと思い、ぼんやりとだが君が最適だろうと思っていた」
唖然となるルディアに、憮然とした表情でマルスは続ける。
「君ほど平凡な娘はいない。それなりに善良で、それなりに賢く、それなりに分を弁えている。君をあえて憎む者もいなければ、熱狂的に慕う者もいないだろう。この国の令嬢の中で、君は一番無害で地味で、これといった取り柄がない。そこがいいと思ったから、君を選んだ」
次々と投げかけられる言葉は褒められているというよりも、こき下ろされているようで、ルディアは思わず父と顔を見合わせる。
――こんなに失礼で、残念な求婚ってあるものなの……？
そう感じたのは父も同じだったようだ。
いつもおっとりのんびり、怒ったところも声を荒らげたところも見たことがないが、今、マルスを見つめる若葉色の目には、非難の色が浮かんでいる。
それを感じ取ったのだろう。
マルスはバツが悪そうに眉をひそめて、言いわけのようにつけ足した。
「バカにしているように聞こえるかもしれないが、私は真剣だ。真剣に考え抜いた上で、ルディアを選んだのだ」
「真剣に？」
「そうだ」
しっかりと頷く彼は、相変わらず気だるそうだが、まなざしは確かに真剣な色を帯びていた。
冗談ではなく、本当に熟慮の上でルディアを選んだのだ。
以前から候補を絞っていたというのも、きっと嘘ではないのだろう。
彼は国王に頼まれてすぐ、まっすぐにここに来たのだから。
――どうして、私なのかしら？
先ほど彼に投げかけた疑問を、あらためて自分で考えてみる。
――平凡だからこそ選ばれたということよね？
無害で地味で、社交界でも目立たず、毒にも薬にもならない家の、それなりに弁えた娘。
そう数え上げて、あ、と思い当たる。
毒にも薬にもならないというのは、誰にとってなのか。
マルスにとってという意味も、もちろんあるだろう。けれど、それ以上に彼が気にしているのは、たぶん……。
「陛下のお邪魔にならないため、でございますか？」
ここまでのマルスの言葉を振り返ってみると、度々、彼は兄である国王のことを慮っていた。
求婚に来たのも、「兄上のため」だと言っていた。
現国王には二人の王子がいるが、最初の王子が生まれたのは、ほんの六年前だ。
王妃の忘れ形見である二番目の王子は、すくすくと育っているものの、まだ四歳。
彼らが生まれるまでは、王位継承権を持たない病弱なプリムラ王女、ただ一人の御子だった。
そのため、マルスが「道楽貴族」として知れ渡るまでは、彼を「王に！」と望む声も大きかったと聞いている。
次代の王に、という意味だけでなく、当代の王であるフェリクスを押しのけてでも、彼を玉座に、と願う声が。
――元々、マルス様はとても優秀だったそうだから……。
自由な気風のマルスにとって、きっと、それが煩わしかったのだろう。
「ただでさえ力のあるマルス殿下が、力のある家と縁付けば、うるさく言ってきたり、おかしな期待をかける者が出てくるでしょう。ですから、あえて私を選んだ……そういうことでしょうか？」
兄である国王への配慮と、自分の安穏のために。
それならば、納得できなくもない。
静かに尋ねるルディアに、マルスは意外そうに目をまたたかせてから、ゆっくりと口元をほころばせて頷いた。
「……そうだ。察しが良くて助かる」
破壊的なほど麗しい笑みに、うぐ、と呻きがこぼれそうになるのを――隣の父はこらえきれずにこぼしていたが――ルディアは胸を押さえてこらえる。
「……ありがとうございます」
「そこまでわかっているのなら、承知してくれるな？」
「え、ええ……」
「ひとまず妻の座を埋めるため、名簿上だけのお飾りの妻になるだろうが、見返りは充分に与えるつもりだ。いいな、ルディア？」
尋ねる口調はやわらかだが、深まる笑顔の圧と威力は多大なるもので……。
「……はい、謹んでお受けいたします」
「そうか、ありがとう。よろしく頼む」
満足そうにほころぶ美貌に、いっそう鼓動が跳ねる。
これから夫婦として、この美しい尊顔と向きあうことになるのだ。
そう思えば、心臓が持つだろうかと恐ろしいような楽しみなような心地になりつつ、ルディアは、「こちらこそ、よろしくお願いいたします」と応えた。



第一章　普通がいいです……！



突然の求婚から、わずか七日後。
ルディアは王宮内に建つ王室礼拝堂で、マルスと共に婚礼に臨んでいた。
代々の王族が日々の祈りを捧げてきた礼拝堂は、こぢんまりとしながらも、すべてが品よく美しく整っている。
――もっとも、この中で一番美しいのは、マルス殿下でしょうけれど……。
幾何学模様の床にまっすぐに伸びた深紅の絨毯、その先に置かれた祭壇の前。
薔薇窓を通して降り注ぐ、七色にきらめく春の陽ざしを浴びるマルスと向きあいながら、ルディアはそんなことを考えていた。
金糸の刺繍と縁取りをあしらった純白の外套を羽織った正装姿の彼は、直視するのもはばかられるほどに、まばゆく美しい。
初めて会ったときは座っていたからわからなかったが、隣に立ってみると、彼は思った以上に背が高く、均整の取れた長身に、壮麗な婚礼装束が恐ろしいほど似合っている。
信徒席に座す国王に招かれた貴族たちも、感嘆の息をつきながら花婿をながめていた。
婚儀を執り行う司祭でさえも、一度だけだが、彼に見惚れて言葉を失う瞬間があったほどで……。
花嫁であるルディアも純白の絹のドレスをまとい、精一杯に飾り立てていたものの、ルディア自身も含めて、誰も気にとめてはいなかっただろう。
この結婚が、「プリムラにマルスを諦めさせるための便宜上のもの」だということは、招待客には伝えられていたから。
ちなみに、当のプリムラには婚礼が終わった後に知らされるそうで、今日は招かれていない。
だから、皆、ルディアのことは、マルスの隣に置かれた添えもの程度に思っているはずだ。
ルディアの両親――「妻として名義をお貸しするだけでも充分だろうから、嫌になったら逃げておいで」と言ってくれた――と、国王を除いて。

「……ルディア嬢、巻きこんですまなかったな」
婚礼を終えて、マルスの住まうベネヴォール公爵邸へと向かうため、馬車に乗る間際。
マルスと同じ色彩を持つフェリクスは、国王として詫びた後。マルスとは違う精悍な顔立ちをフッとゆるめ、兄の顔になって言った。
「どうか、マルスを……弟をよろしく頼む」と。
それはただの社交辞令的な決まり文句ではなく、祈りめいた響きを帯びているように、ルディアの耳には響いた。
――私はただのお飾りの妻だと、知ってらっしゃるはずなのに……。
戸惑いながらも、国王の言葉にこめられた、兄としてマルスを想う感情は温かく心地好いもので、できる限り、頑張ってみようと思える気がした。
元々、貴族の結婚は家のためにするもので、絆や愛情は嫁いでから育てていくものだ。だから。
「……はい。精一杯、努めさせていただきます！」
ルディアは、国王の想いを引き受けるように、ニコリと微笑んで頷いた。

　　　　　　　　＊　＊　＊

急ごしらえの婚礼を済ませて、迎えた初夜。
正門から玄関まで、歩いてでは辿りつくまでに日が暮れてしまいそうな広大な敷地に建つ、瀟洒な館の奥まった一室。
夫婦のための寝室で、ルディアは落ち着かない心地で立ちつくしていた。
シュミーズの上に羽織ったガウンをそっとかきあわせ、そわりと室内を見渡す。
――ものがいっぱいね……おかげで気がまぎれるけれど。
置かれている家具はどれも見るからに上等で上質な品ばかりで、色調も材質も調和がとれている。
主張が強いのは、マルスが集めたらしきコレクションの数々だ。
深い緋色の壁には、金の額で縁取られた風景画や静物画、不思議な仮面やタペストリー、乾いた謎の草が飾られ、暖炉のマントルピースや床に置かれた台座の上には、大小様々な壺や彫像、謎の人形、棒が刺さった石盤や瓶に入った砂が並んでいる。
――まるで美術館……いえ、ヴンダーカンマーのようだわ。
多彩というべきか博愛的というべきか、とにかく好きなものを好きなだけ、集められるだけ集めたという感じだ。
――これがマルス殿下の好きなもの……共通点がよくわからないわね。
絵画は皆、特段珍しい題材でもなく、日常的な風景や品を描いたもので、仮面は形こそ奇抜だが、なんに使うのかわからない。
タペストリーも草花もこれといった特徴はなく、壺や胸像も美しくはあるものの、正直に言うと、ルディアの家に置いてあるような手頃な品と何が違うのかわからない。
――でも、どれも諸国を巡って買い求めるほどの逸品なのよね……？
首を傾げつつながめていると、浴室から出てきた寝衣姿のマルスが足をとめ、フッと溜め息めいた笑みをこぼした。
「ごちゃごちゃして、ガラクタ置き場のようだろう？」
「えっ、いえ！　芸術は難しいなと思って見ていただけですわ！」
「無理はするな。君に理解してもらおうとは思わない」
慌てるルディアにそっけなく返した後、マルスはつかつかと寝台に向かい、ドサリと横たわった。
「今日は久しぶりに人が多いところに出て疲れた。寝よう、ルディア」
「は、はいっ」
億劫そうに手招かれたルディアは慌てて駆け寄り、ガウンを脱いで彼の隣に横たわる。
「……失礼いたします」
緊張に声が上ずるのを感じながら、深い緋色の天蓋を見上げて、騒ぐ鼓動を抑えるようにギュッと胸の上で手を組む。
――これ、本当に寝てしまっていいものなの……？
眠れるかどうかは別として、まがりなりにも夫婦の初夜だ。
そういうことを、いたさないのだろうか。
いや、まがりというよりも紛いなのだから、いたさなくても当然なのかもしれない。
「……そう硬くなるな」
「え？」
「これ以上の無理は強いない」
そろりと首を巡らせて見ると、マルスは気のない様子で天蓋を見上げていた。
「……名義を埋めてくれただけでも充分だ。望まぬ結婚を強いた自覚はある。今後は私に迷惑をかけない限り、好きに過ごしていい」
熱のない、淡々とした声音で彼は続ける。
「死にたいほど嫌気がさしたり、好いた相手ができたなら言ってくれ。早急に離縁できるよう努める。とはいえ、できればプリムラが無事に嫁いで、最初の子を授かるくらいまでは、婚姻を継続したいところだが……」
「……最初の子を」
「ああ、だが数年単位でかかるだろうからな。無理にとは言わない。ひとまず、プリムラが嫁ぐまで、妻でいてくれればそれでいい。君が望むのなら、白い結婚でもかまわない。離縁の際には、きちんとそう証言しよう」
どこか投げやりに告げられて、ルディアはパチパチと目をまたたかせる。
――そんなに私に都合がよくていいのかしら？
確かに強引と言えば強引だったかもしれないが、あの求婚の後、彼が提示してくれたコリスコン家への支援内容は破格のものだった。
おかげで父の代はもちろん、遊学中の兄や、その孫子の代までも安泰だろう。
見せられた誠意には応えたい。
――陛下にも、「精一杯努める」とお約束したことだし……。
たとえ数年後には離縁することになるとしても、それまでにルディアにできることは、できるだけ、すべてしておきたい。
「……マルス殿下は、御子をお望みではないのですか？」
「え？」
「私は望まぬ結婚を強いられたとは思っておりません。納得して嫁いでまいりました。父や兄や民のため、この身を役立てられるのは幸せなことだと思っております。そして妻となったからには、殿下のお役に立ちたいとも……」
マルスの方こそ国のため、兄である国王のために必要に駆られてした結婚だ。
この結婚が期間限定のものであることを、ルディアよりも彼の方が望んでいるだろう。
いずれ離縁する相手との間に子供など不要だというのなら、望まれない子を、無理にもうける必要はない。
でも、もしも必要だというのなら……。
「家の支援をしていただくのですから、私にできることは、すべてさせていただきたいです」
ニコリと笑って告げると、マルスはゆっくりとこちらに顔を向けて、ルディアの真意を探るように見つめてくる。
――うう、お顔がいい。
薄暗くてよかったと思いながら、視線をそらさず見つめ返していると、やがて彼は再び天井に視線を向けてポツリと答えた。
「私の子など、いなくともきっと困らない。兄上の子かその次の子が跡を継いでくれる。だが……」
「だが？」
「私の子が継いだ方が、きっと兄上は喜ぶだろう。兄上は、おやさしいから」
そう呟く横顔には、兄のやさしさを嬉しく思うというよりも、それが苦しいというような、複雑な感情が滲んでいた。
――陛下は心から、マルス殿下を弟として大切に想ってらっしゃるようなのに……。
どうして想われている当人は、こんなにも辛そうなのだろう。
わからなかったが、その理由を尋ねては、不躾に心に踏みこんではいけない気がして、ルディアは無邪気な女のふりをして、いっそう笑みを深めて告げる。
「では、そういたしましょう！」
「そうだな……」
小さく答えた彼がゆっくりと身を起こし、ギシリと寝台を軋ませて、ルディアの顔の横に手をつく。
サラサラと流れた金の髪が帳のように下りてきて、頬をくすぐった。
そうして、彼はルディアを組み敷くと、窓から差しこむ月光を背に受け、ほとんど翳っていても、なお麗しい顔を微かにほころばせて……。
「……君もやさしいな、ルディア」
ほのかに甘さを含んだ声音で囁くと、そっと身をかがめて口付けてきた。
迫りくる絶世の美貌に、ルディアは、ひゃあぁ、と心の中で情けない叫びを上げて、ギュッと目蓋を閉じる。
婚礼のときもベールを上げられた瞬間、同じように目をつむっていたが、そのときと同じく軽く唇がふれあって離れたところで、ふ、と彼が小さく笑みをこぼした。
「だから、そう硬くなるなというのに」
「そう言われましても、お顔がまぶしすぎてっ」
「見たくないと？」
「いえっ、そんな！　ただその、慣れないもので、美の過剰摂取のあまり心臓が急激にドキドキしてしまいまして……防衛本能で目蓋が閉じてしまうのです！」
しどろもどろに返すと、またひとつマルスが笑う気配がした。
「そうか。防衛本能ならばしかたがないな。まあ、美人は三日で慣れるそうだから、おいおい慣れてくれ」
「はいっ、精進いたします……！」
普通の美人で三日かかるのならば、絶世レベルのマルスに慣れるのに、いったい何カ月かかることやら。
そう思いつつ頷いたそばから、ひたりと左の頬に冷たい指がふれて、ひゃ、とまたしても情けない声がこぼれてしまう。
「それで、ルディア」
「はいっ」
「初めてだろうからな。君の希望に応えよう」
「……希望？」
「ああ。どんな風に抱かれたい？」
なんのだろうと首を傾げかけて、サラリと返ってきた言葉に鼓動が跳ね上がる。
「ど、どんな風と言われましても……」
両親もルディアも、これほど急に嫁ぐつもりなどなかったので、「そういったことは縁談が決まったら、おいおい学べばいいだろう」とのんびりかまえていた。
だから、ルディアの頭の中にある閨の光景は、ふんわりぼんやりしている。
――もっと真面目に閨について学んでおけばよかったわ！
そうやって尋ねるほど、色々な抱かれ方があるということなのだろう。
――殿下のお好きなように……というのも失礼よね？
せっかくこうして慮ってくれているのだ。何かリクエストを出すべきだろう。
グルグルと考えて、結局、ルディアの口からこぼれたのは面白みも何もない答えだった。
「普通がいいです……！」
「……普通か、わかった」
小さく彼が笑う気配がして、今度は右の頬に指がふれ、両の手のひらで包みこまれる。
そのまま目蓋越しに注がれる視線に、そろりと薄目をひらいたところで、小さく息を呑む。
睫毛がふれそうなほど近くに、輝くセルリアンブルーの瞳があった。
「……普通の夫婦ならば、まずは何度も口付けを交わすものだろう？」
気だるげながら少しの甘さと悪戯っけを含んだ囁きに、彼の手に包まれたルディアの頬がホワリと熱を持つ。
その頬を指先でくすぐるように撫でられて、目を合わせたまま口付けられ、そっと離れてまた頬を撫でられる。
そうしてジッと見つめてから、目元をゆるませてまた口付けられ、ルディアは忙しなく目をまたたかせながら、バクバクと鼓動が速まるのを感じていた。
――ふ、普通の夫婦って、こんなに見つめあいながらするものなの？
薄暗くて何よりだが、それでも、段々と暗さに目が慣れてきて、どんどん世にも麗しき尊顔がハッキリしてきてしまう。
「っ、あの、ごめんなさい！　目を、閉じてもよろしいですか？」
何度目かの口付けでドキドキに耐え切れずに謝ると、鮮やかな目がみひらいて、それから、キュッと笑みの形に細まった。
「……ああ、かまわない」
「ありが――んっ」
ホッとして目をつむりながら口にした礼の言葉を言い切る前に、再び唇を奪われて、ひらいた隙間から熱い舌が潜りこんでくるのに、ルディアは心の中でまたしても情けない悲鳴を上げる。
――ああぁ、舌、舌がっ、にゅるって……！
うろたえて強ばる舌を搦めとられ、口内で響く水音と未知の刺激に震えが走った。
「ん、ふ……っ、ん」
頬に添えられていたうちの右手はいつの間にか、耳をかすめてうなじへと回り、しっかりと捕らえられて、口内をやさしく貪られる。
絡む舌がこすれるたび、子猫の喉をかくように上顎をくすぐられるたび、ぞわぞわというのかゾクゾクというのか、頭の裏側に響くような甘ったるい感覚が走り、ん、と喉が鳴った。
――うう、どうして？　毎日使っている場所なのに……！
味わうような舌の動きは似ていても、食べものがふれるのとはまったく違う。
煽られるのは食欲ではなく甘い官能。
口付けが深まるほどに鼓動が高まり、飢えたように呼吸が乱れていく。
やがて、口付けがほどけて、ぴちゅりと音を立てて濡れた舌が離れたときには、すっかりルディアの息は上がっていた。
「ぁ、でん、か――ん」
上ずった呼びかけを彼は口付けで遮り、ふ、と笑って囁いた。
「普通の夫婦らしくするのならば、殿下はなしにしよう」
「なし……では、なんとお呼びすれば？」
「そうだな。普通の夫婦ならば、愛称で呼びあうものだろう。君はディアで……私はなんだろうな」
確かにマルスの愛称はパッとは思い浮かばない。
「そうですわね……私がディアならば、ルース、ではいかがでしょうか？」
「ルース……裸石か。悪くはないな」
小さく呟いた彼が、ルース、ともう一度確かめるようにくり返してから、頬をゆるめる。
「では、以後、そう呼んでくれ。敬称も要らぬからな、ディア」
マルスは楽しげに笑いながら、もう一度ルディアに口付けた後、シュミーズの肩にふれて誘うように尋ねる。
「さて、続きといきたいところだが……これは普通はどちらから脱がすものなのだろうな。上げるか、下げるか」
「わ、わかりませんわ……っ」
「そうか、では……そうだな、脱がせながら愛でられるよう、下にしておこう」
そう囁くと彼はシュミーズの襟ぐりに指を忍びこませ、くすぐったさにルディアが吐息をこぼしたところで、ずるりと引き下ろした。




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    <dc:creator>ガブリエラブックス</dc:creator>
    <foaf:topic><foaf:Image rdf:about="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/product/192533973_th.jpg?cmsp_timestamp=20260707135821" /></foaf:topic>
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    <title>【6月30日発売】騎士団の下働き令嬢ですが、十年間片想いした騎士団長様に罰ゲームで求婚されました！【本体1300円+税】</title>
    <description></description>
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●著：秋桜ヒロロ
●イラスト：なま
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543914
●発売日:2026/6/30</div>

<p><span class="f130 black">罰ゲームから始まった、可哀想で愚かな私の恋人ごっこ<br /></span>

騎士団の下働きをする男爵令嬢のエレナは、王子様のように美しく凜々しい騎士団長アルヴァンに、長らく片想いしていた。
立場が違いすぎると諦めかけていたところを突然彼に求婚されるが、直後に騎士団の賭けの罰で嘘の告白が流行っていると知り、エレナは意地悪な気持ちがありつつも求婚に承諾する。
「大切にするよ」
困ると思ったアルヴァンは喜びに顔を輝かせ、戸惑う彼女を抱きしめて──!?

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プロローグ



その出会いは、恋愛小説のプロローグとしては、完璧だった。

燃えさかり、崩れゆく馬車。
路上に引きずり出され、震え上がる両親。
私たちの前には鉈のような刃物を持った屈強な大男が数人おり、その背後には兵士の亡骸が折り重なっていた。
――十年前の冬、私たち家族は山賊に襲われた。
親戚の結婚式に参列した帰り、初雪が降った日のことだった。
唐突に振り下ろされた暴力の前に、当時十二歳の私は、両親の腕の中でただただ身を強張らせることしかできず、また両親も神に祈ることしかできなかった。
私たちの荷物を調べた山賊たちは、金目のものが見つからなかったからだろう、どこか不満げだった。
その憂さを晴らすためか、それとも売って多少の金を得ようと思ったのか、彼らは両親に私を渡すように迫った。
もちろん、両親は必死に抵抗した。
殴られても蹴られても、私を離しはしなかった。
けれど、やっぱり暴力の前にはどうすることもできず、私は両親から引き剥がされ、山賊に捕まってしまったのだ。
私は泣きながら、必死に手足をばたつかせた。
怖かった。本当に怖かった。
その時の私は幼かったけれど、こんな奴らに捕まってしまった後の自分を想像できないほど子供でもなかった。けれども、男たちにはそんなの抵抗にもならなかったようで、私を軽々と持ち上げ、その場を去ろうとした。

そんな私を救ってくれたのは、人の形をした奇跡だった。
その時だった。
ひゅん、と風切音がして、遅れて「ぐあ」とカエルがつぶれたような声がする。
声のした方を見れば、胸に矢が刺さっている山賊が、前のめりに倒れるところだった。
男の身体が地面に叩きつけられると同時に、地響きのような男たちの咆哮がその場に木霊する。
明らかに狼狽える山賊たち。
近づいてくる、ガチャガチャと鳴り響く金属音。
気がつけば、山賊たちは鈍い灰銀色の鎧を纏う騎士達によって包囲されていた。
私を抱えた山賊は怯えた表情になり、私を連れたままその場から逃げようとする。
しかし、それは叶わなかった。
すぐそばでした肉を切り裂く音。
ころりと落ちる頭。
降り注ぐ血の雨。
支えをなくした、私の身体――――……
そんな地面に叩きつけられそうになっている私を、抱きとめてくれた人がいた。
「すまない。助けにくるのが遅くなった」
最初に聞こえたのは、やさしい声だった。
続けて飛び込んできたのは、サファイアのような綺麗な瞳と、金糸を思わせるつややかなブロンド。整った顔立ちに優しげな口元をもつ彼は、まるで物語の中の王子様のようだった。
彼は私と目が合うと、微笑んでから立ち上がる。そうして、周りの喧騒を全く気にもとめていないようにゆっくりと、私を両親のところまで運んでくれた。
「間に合ってよかった」
私を両親に引き渡し、彼はそう言って私の頭を優しく撫でてくれた。
そうして、瞬き一つで戦う男の顔になり、山賊を一網打尽にしようと仲間たちの元へ駆けていった。

今思い返しても、彼との出会いは恋愛小説のプロローグとしては、完璧だった。
自身のピンチを助けてくれた、金髪碧眼の王子様。――いや、騎士様。
完璧じゃなかったのは、私がお姫様ではなく、没落した男爵家の令嬢だったところだろう。けれど、そのシチュエーションは私が恋に落ちるのには充分すぎる威力を持っていて、私はあっという間に叶うはずのない初恋へと転げ落ちていったのだ。

――そう、これは叶わない初恋のはずだった。

「エレナ、君のことが好きだ。僕と結婚してくれないか？」
私の目の前には、たった十年間で一介の騎士から騎士団長にまで上り詰めた彼――アルヴァン・レーヴァントがいた。
彼は、男爵令嬢から使用人に転げ落ちてしまった私の前で、誰もがとろけてしまいそうな程の甘ったるい声で愛を囁いてくる。
「他の誰の隣にも立ってほしくない。僕だけの君になってほしい」
「えっと……」
その言葉に私が喜びではなく、困惑の声を出してしまったのは、そこがベンチの上で、彼が私のことを押し倒していたからだ。
しかも、潤んだ視線と火照った頬、香ってくる匂いから判断するに、彼はかなり酔っている。これでもかというほど酔っている。
「エレナ？」
清廉潔白などこまでも完璧な騎士団長様だったはずの彼が、目をとろんとさせて、こちらに迫ってくる。
（なんで、こんな事になってしまったのだろう……）
私は、彼の手の熱さにうろたえながら、数時間前のことを思い出していた。



第一章



ノクシア王国王宮の隣にそびえ立つ、もう一つの城――第二騎士団本部。
そこで働く、エレナ・ルシェールの毎日は忙しい。
「エレナ、こっちのシーツもリネン室に運んで！」
「こっちの籠のもよろしく！」
「わかりました！」
王宮内で王族たちの身辺警護を中心に活動している第一騎士団に比べ、第二騎士団は外遊先の王族の護衛に加え、王都の警備を一手に担っている。そのため団員数は多く、更に第二騎士団本部は兵舎を兼ねているので、エレナたちの忙しさはなおさらだ。
今日だって、朝はまだ日が昇らぬうちに起きて、身支度を整えた後すぐに朝食の準備に入り、焼き上がったばかりのパンを並べ、スープをよそい、皿を拭いた。
そうしていると騎士達が起きてくるので、そのまま朝食を配膳し、騎士たちが朝食を終えてから自分たちの朝食。あまりゆっくりとした時間が取れないので急いで食べて、その後は廊下や階段、談話室の掃除。それが終わったらシャツやシーツなどの大量の洗濯物と格闘し、その後は――……とまあ、こんな感じに羅列するのが億劫になるほどには忙しい。
そんな毎日の中で、エレナの唯一の心の潤いは彼だった。
「次っ！」
鞭の音のような張りのいい声が聞こえて、エレナは両手いっぱいのシーツを抱えたまま、声がした方向を見た。
エレナの視線の先には訓練中の騎士たちがいる。彼らがまるく囲っている中心で複数人と剣を交えているのは、この第二騎士団の若き団長、アルヴァン・レーヴァントだ。
金糸のような髪をなびかせつつ、彼は一斉に切りかかってきた三人の新米騎士たちを木剣で軽くいなしていく。
姿勢を低くしたまま大きく振りかぶってきた一人を避けて、それと同時に懐に入り、胴に一発。
前のめりに倒れてきたその兵士を押し返し、同じ方向から斬りかかってきた二人目にぶつける。
二人目がたたらを踏んでいる間に背後から襲いかかってきた三人目の剣を華麗に避けて、横から腕と頭に一発ずつ剣を入れる。
最後に一人目を抱えて尻餅をついている二人目の首に剣を突きつけて試合終了だ。
汗の一つもかくことなく彼はそこまでやってのけると、再び「次！」と騎士たちに声を張った。
「アルヴァン団長、今日も絶好調だな」
「俺なんか、そもそもまともに剣を構えさせてももらえなかったぜ」
「まじで、親の七光りだって言ってたのどこのどいつだよ」
アルヴァンの身のこなしを見つつ、騎士たちはそうぼやいていた。
ため息をつきつつ眺めているが、その目には尊敬の輝きが見え隠れする。
エレナも、新米兵士たちの相手をするアルヴァンを見ながら、ほおっと息をついた。
そうして自然と赤くなった頬を隠すように、彼女は洗いたてのシーツの中に顔を埋める。
（今日もかっこいい……）
そう、エレナはアルヴァンに恋をしていた。
アルヴァンとの出会いは十年前。
山賊に襲われ、攫われかけていたところを、彼に助けてもらったのが最初だった。
エレナの身体をしっかりと抱きとめる力強い腕に、鼓膜を揺さぶる低くて優しい声。
こちらを見下ろす慈愛に満ちた微笑みに、頭を撫でてくれる大きな手。
それらすべてが、エレナに『恋をしない』という選択肢を与えてくれなかった。
当時、エレナは十二歳、アルヴァンは十七歳。アルヴァンはまだ平の騎士で、エレナは男爵家の令嬢だった。
その時の身分だけみれば、まだ実のない恋ではなかった。
（だけど今は――）
「エレナ！　早くシーツ持ってきて」
「わ、わかりました！」
二人の距離は、もう随分と離れてしまっていた。
エレナの父親が事業に失敗して、とんでもない額の借金を抱えたのは、十年前。アルヴァンに出会ってすぐのことだった。土地も屋敷もほとんど手放し、ルシェール家は爵位だけが残った名ばかり男爵家に成り果ててしまった。
本当ならそこから貧困生活が始まるはずだったのだが、かつて父が王宮勤めをしていたことや騎士団との取引で縁を持っていたことから、当時の騎士団長のはからいにより「娘ひとりならこちらで引き取ろう」という話になり、エレナだけは騎士団本部に預けられることになったのである。
そこからずっと、エレナはここで働いている。
使用人に落ちてしまった名ばかりの男爵令嬢に、第二騎士団の騎士団長。
それだけでも届かぬ恋なのに――
「結局、アルヴァン団長がレーヴァント侯爵家を継ぐって話になったのよね？」
「まあ、継ぐ予定だった長男が亡くなったんだから、そういう話になるわよね」
「やだぁ、寂しい！」
最近、彼が侯爵家の跡を取ることも決定したらしい。それに伴って領主としての勉強のために騎士団長の職もあと二、三年ほどでやめてしまうというのだ。噂では、妖精とも呼ばれるリオノーラ・ベルシュタイン侯爵令嬢との縁談まで持ち上がっているらしい。
ベルシュタイン家は国の五指に入る大貴族で、リオノーラは王都でも知らぬ者のいない存在だ。
（もう、手が届かないどころの騒ぎじゃないわね）
こんなの、手を伸ばすことでさえも罪になるような距離感だ。
だから、エレナはこの恋を諦めていた。
胸にある熱い感情は秘めつつ、彼が騎士団にいる間はできるだけそばにいようと思っていた。

青天の霹靂が起きたのは、その夜のことだ。
（あれは、アルヴァン団長？）
エレナが彼を見つけたのは、夜風に当たろうと使用人宿舎から出て、外を散歩しているときだった。第二騎士団本部では使用人が生活で使う場と騎士団員が生活に使う場は離れているのだが、その二つの場を繋げる橋の上に彼はいた。
アルヴァンは橋の中央あたりに置いてあるベンチに腰掛けていた。
身体を前のめりに折り曲げ、ぐったりと地面を見つめている様は、どこか落ち込んでいるようにも見える。
エレナはしばらく迷ったあと、恐る恐る彼に近寄り、そっと声をかけた。
「アルヴァン団長？」
その声に反応するようにアルヴァンの肩がビクリと跳ねた。彼はゆるゆると顔を上げる。そうして、エレナを見留めて、大きく目を見開いた。
「エレナ？」
「団長、大丈夫ですか？」
まるで信じられないものを見るような目で見つめられ、エレナは困惑した。けれど、どうしてそんな目で見つめてくるのかを聞く前に、彼女はあることに気がついてしまう。
「もしかして、お酒を飲まれてますか？」
「あぁ、すこしだけ、な」
本人はそう言っているが、アルヴァンの赤らんだ顔はとても『少しお酒を飲んだだけ』には見えなかった。よく見れば首の据わっていない赤子のように頭がくらくらと動いているし、聞き取れないほどではないが呂律も上手く回っていない。隣に座れば、お酒独特のツンとした匂いも鼻についた。
（そういえば、今日飲み会をするとか言ってたっけ？）
エレナは昼間に聞いた騎士団員の話を思い出す。
春になり、第二騎士団にもたくさんの新米騎士が入ってきた。
今日はその歓迎会をするとかなんとかで、夕食を抜く騎士も多かったのだ。
（団長はあんまり飲み会とかには行かないと思っていたけれど……）
新人の歓迎会は別なのかもしれない。
そして、思った以上に飲みすぎてしまい、夜風に当たりつつ酔いを覚ましていたと考えれば、彼がこんなところにいる理由も納得がいく。
（それにしても、結構酔ってるわね）
エレナはアルヴァンを覗き込みながら、そんなふうに思う。
アルヴァンに限って、歓迎会ではしゃぎすぎた、わけはないだろうが、雰囲気に流されるようにしていつも以上に飲んでしまった可能性はあるし、飲む量はそこまででも仕事で身体が疲れており、お酒の回りがいつもより良かったということは十分考えられる。
（どちらにせよ、このままにはしておけないわよね）
場合によっては、部屋まで運んだほうがいいかもしれない。見たところ意識はしっかりしているが、だからといって部屋まで歩けるかどうかはわからないからだ。
エレナはそう判断してベンチから腰を浮かせた。
「ちょっと待っていてくださいね。いま水を持ってきますから。それを飲んだら――」
「待ってくれ！」
いきなり腕を引かれ、エレナはもう一度ベンチに座らされた。
「え。あの……」
「僕は、君に会いに来たんだ」
その突然の言葉に、エレナは「へ？」と目を瞬かせた。
言葉の意味を測りかねていると、エレナの腕を握っていたアルヴァンの手が、手首へと下りてくる。そうして、なぜかしっかりとエレナの手を握った。
「ちょ、ま、えっ!?」
「僕は君に――」
手のひらに感じたアルヴァンの熱すぎるほどの体温に、エレナは思わず身を引いた。しかし、それと同時に手まで引いてしまい、アルヴァンの身体はエレナの方に傾く。お酒のせいでぐらついていた彼の身体は、いとも簡単にこちらの方に倒れ込んできた。
「――っ！」
そうして気がついたときには、エレナはアルヴァンに押し倒されてしまっていた。
「あ……」
アルヴァンの背後に月が見える。
きらきらと輝くそれが、心臓の音に合わせて、じわ、じわ、じわ、と滲む。
なにがどうなっているのかわからない。わかるのは、目の前に大好きな人が――十年もの間片想いしてきた人がいるという事実だけだった。
エレナの大好きな人は、彼女の目の前でゆっくりと柔らかそうな唇を開く。
「エレナ、君のことが好きだ。僕と結婚してくれないか？」
「………………へ？」
聞き違いだと思った。
けれど、続けて聞こえてきた言葉が、エレナの考えを否定する。
「他の誰の隣にも立ってほしくない。僕だけの君になってほしい」
「えっと、それは、その、プロポーズのように聞こえてしまうんですが」
「プロポーズだからな」
どうして……？
最初に浮かんだ感想がそれだった。
だって、これまでそんな素振り少しもなかった。今日だって仕事で顔を合わせたけれど、たしかに微笑んでくれたり、軽く話しかけてくれたりもしたけれど。彼の言葉や笑顔の中になにか特別な感情を感じることなんてまったくなかった。
そんな彼がどうして、エレナにプロポーズをしてくるのだろうか。
エレナはそんな困惑のまま、口を開く。
「なんで、いきなりそんな……」
「僕じゃダメだろうか？　君の夫になる資格はないか？」
どこか泣きそうな目でそう迫られて、エレナはさらに混乱した。
お酒によって潤んだ青色の瞳が、月の光を反射してきらきらと輝いている。
（ヤバイヤバイヤバイヤバイ！　目が、焼ける！）
あまりの美しさに目の奥が痛くなってくるような気がするのに、お酒によってぐずぐずになった整った顔立ちから目が離せない。
酔って距離感がわからなくなっているのか、気がついたら唇に吐息が当たるほどに二人の距離は近くなっていた。
（どうしよう……）
もう心臓の鼓動しか聞こえない――
「エレナ？」
「す、少し考えさせてください！」
気がつけば、エレナはアルヴァンのことを押し返し、そう叫んでしまっていた。

　　　　　　　　◆◇◆

『夢にまで見た』なんて表現があるけれど、
言うなればそれは『夢に見るのもおこがましいほどの夢』だった。

近づいてくる形の良い唇に、こちらを見つめる潤んだ瞳。
月に照らされたさらさらのブロンドはまるでこの世のものではないかのようで、耳に触れる声は蜂蜜よりも甘やかだった。
『エレナ、君のことが好きだ。僕と結婚してくれないか？』
いま思い出しても、血が沸騰してしまう。頬が熱くなるのが止められない。
憧れていた人に、ずっと大好きだった人に、求められたのが嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて……。
なのに、エレナが出した答えは――
『少し考えさせてください！』

「なんで、あんなこと言っちゃったかな」
そんな後悔とともに、エレナは目覚めた。
布団からはい出ると、身体が重く、頭も少し痛かった。これはどう考えても、寝不足である。
エレナ的には、一応寝たつもりではあったのだが、どうやら頭はずっとアルヴァンのことを考えていたらしい。
（まあ、それもそうか……）
これまで全く脈がないと思っていた片想いの相手に、いきなり『好きだ』と伝えられただけでなく、キスまでされそうになったのだ。
そんなのもう、考えるなという方が無理な話である。
「はあ……」
エレナはベッドの上で膝を抱えつつ、一つ息をついた。
そうしているうちに、じわじわとアルヴァンから告白されたという事実がこみ上げてきて、頬が紅潮するとともに、唇がむずむずと歪んだ。
（嬉しい……）
やっぱりそれが正直な気持ちだった。
昨日は混乱して『少し考えさせてください』なんて、もったいつけたような返事をしてしまったが、エレナの答えなんて最初から決まっている。そんなもの、当然『イエス』しかない。
（どうやって返事をしよう。どこかで二人っきりで話せるかな……）


そんなことを考えつつ、エレナは窓の外を見た。
そして、大きく目を見開き、息を止める。
「ちょっ――！」
そこにあったのは、太陽だった。いつもはもっと下の方にあるはずのそれが、なぜかいまは高い位置にある。慌てて時計を見れば、いつも起きる時間を一時間も過ぎていた。
「ち、遅刻っ！」
エレナはベッドからはね起きると、慌てて身支度をするのだった。

「本当にすみませんでした」
いつもより一時間遅れで仕事に就いたエレナは、青い顔でそう深々と頭を下げた。
場所は厨房。もう朝食の配膳も終わり、騎士たちはみな大食堂で食事をしていた。
彼女の目の前に居るのは使用人頭のマリアで、彼女は朗らかに笑いながらエレナの肩を大きな手でばしばしと叩く。
「まあ、気にしなさんな。誰にだって寝坊の一回や二回はあるもんだよ」
「でも……」
「そもそも、私たちの仕事はエレナちゃんの本業じゃないんだしね」
そう、エレナは正確にいえば使用人ではなかった。
一応は男爵令嬢であるエレナの役職は『団長室付きの雑務係』だ。団長室の書類運びやお茶出し、来客対応の手伝いをこなすのが本来の役割である。とはいえ、騎士団長には専用の書記官がついているので団長室での仕事は量は少なく、来客もあまりない。そのためエレナは、万年人不足の洗濯場や厨房を毎日手伝っているのである。
騎士団本部の家政を取り仕切るマリアに慰められ、エレナは「ありがとうございます」と深く頭を下げた。ありがたいやら申し訳ないやらで胸がいっぱいになっていると、彼女の脇を二人の使用人が通り過ぎた。
「いいわよね。お貴族様は気楽で」
「一人だけ個室を与えられてるから、寝坊なんてするんじゃないのかしら」
「確かに！」
通り過ぎざまにわざと聞こえるようにそう陰口を叩かれ、エレナは思わず視線を下げた。そんな彼女の様子に、マリアが怒声を響かせる。
「こら、アンタたち！　人の悪口言ってる暇があったらちゃんと自分の仕事をしな！」
その声に二人は跳び上がり、あっという間に逃げていってしまった。
そんな二人の背中を眺めていると、マリアがどこか申し訳なさそうな声を出した。
「ごめんね、新人にあんなこと言わせちゃって。別の係と兼任しているから、エレナちゃんは私たちよりずっと仕事が多いのにね？」
「いえ、大丈夫です。言われていることももっともなので」
「でもねえ……」
「私、談話室の掃除、行ってきますね」
「ちょ、アンタ、朝食は？」
マリアが止めるのも聞かず、エレナはそのまま逃げるように厨房をあとにした。
そのまま訓練場の脇を通り、談話室へ向かう。
「はあ……」
唇から自然にため息がこぼれた。
（やっちゃったな……）
エレナのことをやっかむ人間は少なからずいる。
やっている仕事は使用人と変わらないのに、一人だけ個室が与えられていたり、名目上ではあるものの『団長室付きの雑務係』という、いかにも特別扱いじみた肩書きを持っていたりするからだ。しかも、名ばかりとはいえ今でも男爵令嬢で、団長の私室や執務室にも出入りできる立場でもある。そうした小さな差異の積み重ねが、彼女の周囲にじわじわと嫉妬や反感を生んでいた。
エレナはだからこそ、そんな場所で自分の居場所を作ろうと、人より多い仕事をこなし、できるだけ休まず、遅刻もせずにしてきたのである。
（でも、今日はあんまり落ち込んでないかも）
理由はやっぱり、昨日のアルヴァンからの告白だった。
昨日の事を思い出すだけで、顔がかっと熱くなり、足元がふわふわとおぼつかなくなる。
（いつから、そんな風に思ってくださっていたんだろう）
普段の彼の様子を思い出しても、いつからなのかは全くわからなかった。言葉を交わすことは少なからずあるが、昨日までのアルヴァンはいつもどおり穏やかで優しくて、だけど特別変わったことはなかったはずである。
「なあ、聞いたか？」
その声がエレナの耳に飛び込んできたのは、談話室に入る直前だった。
なんとなく気になり振り返れば、そこには朝食を食べたばかりだろう騎士団員が三人並んで歩いている。
盗み聞きなどするつもりはなかったのだが、彼らはエレナの存在に気が付いていないようで、そのままの声の大きさで会話を始めた。
「昨日の飲み会で、あいつらまたしょうもない賭けをやってたらしいぞ」
「あー、あれだろ？　飲み比べで負けた方が、嘘で女の子にプロポーズするやつ」
「知ってる、知ってる。膝をついて『好きです、結婚してください！』って言うやつだろ？」
エレナが身を隠してしまったのは、彼女の中に『まさか』が浮かんでしまったからだ。昨日、飲み会、プロポーズ……と来たら、思い出すのは一つしかない。
柱の陰で息を潜めながら、エレナは耳だけをそっと騎士たちの方へ向けた。
「最近、騎士団内で流行ってるよなー」
「ま、うちの女騎士どもはみーんなわかってるから、その場でバッサリと切って終わりだけどな」
「あ、でも、昨晩の賭けの罰の相手は、下働きの女の子だったらしいぞ？」
「まじか。それはさすがに悪ふざけが過ぎてるだろ」
「しかも、昨日は団長までその賭けに参加してさ」
瞬間、呼吸が止まった。
心臓が嫌な音を立てる。冷や汗が止まらない。
それと同時に思い出したのは、昨夜のアルヴァンの台詞だった。
『エレナ、君のことが好きだ。僕と結婚してくれないか？』
（そっ、か……）
エレナはその場にしゃがみこみ、膝を抱えた。
膝に埋めた唇から、喉元まで何かがせり上がった何かが言葉となって溢れた。
「賭け、だったんだ」
その声は自分で聞いていても、涙が滲んでいた。
どうしてもっと早く気がつかなかったのだろうか。
清廉潔白で真面目な団長が、あんな風に泥酔した状態で女性にプロポーズするなんて、普通に考えたらありえないのに。
そもそもエレナとアルヴァンの関係で、いきなりそんな夢みたいなこと、起こるはずがなかったのに。
（あんなに酔ってたのも、賭けに参加したからだったんだな）
目尻にじわりとなにかが浮かんでくる。
エレナはそれが流れる前に抱えた膝にぐりぐりと目元をこすりつけた。
「なんであんな言葉、真に受けちゃったかなあ……」
そんなふうにつぶやきながら、エレナは自分の馬鹿さ加減に嫌気が差していた。

その日のエレナは、心ここにあらずといった感じで過ごしていた。もちろん仕事はきちんとこなしていたが、朝のショックからはやっぱり立ち直れないでいたのだ。
考えれば考えるほど、アルヴァンのプロポーズが嘘だと証明されていくような気がする。それと同時に、一瞬でも喜んだ自分が愚かで情けなくて、苦しくなった。
（団長の眼中にないとは思ってたけど、まさかここまでナイとは思わなかったな……）
戯れに傷つけていい程度の女だと思われているのが、悲しいやら悔しいやらで、胸がぎゅっとなる。
正直、これまでのイメージからアルヴァンがそんなことをする人だとは思っていなかったが、それでも『アルヴァンがエレナに本気で告白した』と考えるよりは、よほど現実的だと思ってしまった。
（そもそも、団長にはリオノーラ様っていう縁談相手がいるじゃない……）
数時間前までは有頂天で忘れていたが、アルヴァンにはもう決まった人がいる。そのことにようやく思い至り、エレナはまた自分のことが一つ嫌いになった。
「はあ……」
「エレナ、なんか元気ないわね」
ため息が聞こえていたのか、それとも単にエレナの様子が気になったのか、同年代で仲良くしている同僚のモニカがそう声をかけてくれた。
エレナは食器をふいていた手を止めて、「うん。まあね」と頷く。
いつもならここで「そう？　そんなことないわよ」なんて強がってみせるのだが、今日はその強がりも見せられなかった。
そんなエレナの変化に気がついたのだろう、モニカはこちらをのぞき込みながら心配そうな声を出す。
「大丈夫？　なにかあったの？」
「その、もう終わったことだから」
「終わったこと？」
「まあ、うん。大丈夫、数日経てばいつもどおりに戻ると思うから」
エレナはそう言いつつ無理やり唇の端を引き上げた。傷ついていることは隠せなくても、これ以上心配をかけるわけにはいかないと思ったのだ。
それに、もうきっとアルヴァンはプロポーズのことを蒸し返してきたりはしないだろう。プロポーズすることが賭けの罰だったのなら、彼はもうそれは終えているし、ここからエレナに答えを聞いてくるなんて面倒なこともしてこないと思ったからだ。
（私がここで『イエス』なんて答えたら、団長だって困るものね）
未来の侯爵様が、こんなことで本当に結婚するわけにはいかないだろう。
戯れに傷つけてもいいと思っているぐらいに、好きでもない女なんかと。
それならば、まだゆっくりと傷を癒せる。
エレナはそう考えていた。
「エレナはいるか？」
その声が厨房に響いた瞬間、エレナは身体を硬直させた。
なぜならエレナは、その声の主をよく知っていたからだ。
エレナが恐る恐る振り返れば、そこには案の定、アルヴァンがいる。
入口に立っている彼はエレナを探しているようで、きょろきょろと厨房の中を見渡していた。
その様子に、エレナは身体を小さくさせた。
さすがに今は会いたくない。お願いだから、あと数日は声をかけないでほしかった。
けれど、そんな願いがアルヴァンに届くはずもなく、彼はエレナを見つけると、一直線にこちらまで歩いてきた。そして彼女の前で足を止める。
「えっと、な、なんでしょうか……？」
「エレナ、少し話したいことがある。仕事が終わってからでいいから私の執務室に来てくれないか？」
「その、それは今日でなくてはいけませんか？」
「できるだけ今日がいいんだが、もしかして何か用事があるか？」
「いえ、その。用事は何もないんですが……」
「何もないなら、その、だめか？」
「……わかり、ました」
エレナは視線を逸らしながら、頷いた。
本当は断りたい気持ちでいっぱいだったが、こんなに堂々とみんなの前で執務室に来るように言われて断れるはずもない。なんてったって、相手はこの騎士団本部で一番偉い、騎士団長様だ。命令という形は取っていないが、こんなものほとんど命令と変わらない。
（できるだけ昨日のことには触れず、さっさと用事を済ませて帰るしかないわよね）
そんな風に思いながらエレナは仕事を終え、彼の執務室に顔を出したのだが――。

「昨晩のことだが、その、覚えているだろうか？」
いきなりそう殴られた。
エレナは思わぬ攻撃にたじろぎつつ、「あ、はい、一応……」とか細い声を出した。
視線は自然と床の方を向き、胸の前で組んだ手のひらにはぎゅっと力がこもった。
（もしかして、まだなにかあるのかな）
プロポーズだけでは飽き足らず、まさかネタバラシまでやるのだろうか。
たしかにそこまでしなければ『お遊び』だと知らない女性は勘違いしてしまうだろう。数時間前のエレナのように。
（だけど、それは……）
エレナの精神状態にはあまりにも酷だった。
改めて「あれは嘘だったんだ」「遊びで仕方なくやらされたんだ」なんて聞いたら、正直ちょっと泣いてしまう自信がある。「なんでそんなこと言ったんですか」とアルヴァンを責めてしまう可能性だってある。
（そんなこと、したくない）
これはすべて自分が悪いのだ。アルヴァンがエレナを求めることなどあるはずがないのに、少し考えれば嘘だと分かるはずなのに、あまりの嬉しさに考えることも疑うことも放棄してしまい、身分不相応に彼の言葉をそのまま信じてしまった。
つまり、愚かなエレナが悪いのだ。
だけどいま、嘘でした、をされると、そんな理性的な自分よりも、きっと苦しくて悲しかった感情的な自分のほうが勝ってしまいそうな気がする。
謝ってほしくて暴力的な言葉を投げつけてしまいそうな気がするのだ。
「そのことなんだが、その……」
言い淀むアルヴァンを前に、エレナは自分の口を塞ぐようにぎゅっと唇を引き結んだ。言葉も涙も零れ出てしまわないように、息を止める。
しかし、その後のアルヴァンがとった行動は、エレナの予想しないものだった。
「本当に済まなかった！　あんな泥酔状態でプロポーズするつもりはなかったんだ！」
「へ？」
「色々あって、焦ってたんだ。もしよかったら、やり直しをさせてくれないだろうか？」
（やり直し!?）
いきなり頭を下げられて、思いもよらぬ懇願をされた。
エレナがその事実に混乱をしている間に、彼はその場で膝をつく。
そうして、エレナの手を掬い上げるようにして取った。
「エレナ。君の真面目で一生懸命なところが好きだ。いつも前向きで、誰かのためだと思ったら自分のことを平気で後回しにしてしまうところが好きだ。屈託なく笑う顔も、周りを明るくする楽しそうな声も、周りを元気づけるその優しい性格も全部好きだ」
「あの……」
「エレナ、本当に君のことが好きだ。どうか私と結婚してくれないだろうか？」
真摯な目がエレナを貫いた。
一瞬、世界の音が遠のいて、息が詰まる。灯りに照らされたアルヴァンの顔は、お酒など飲んでいないはずなのに昨晩の時のようにほんのりと赤いような気がした。
（完璧だ……）
さらさらと音が聞こえてきそうなほどのブロンドも、まっすぐな青い瞳も、エレナの名を紡ぐその唇も、全部が全部、あまりにも完璧だった。
完璧な王子様だった。
完璧で、完璧で、完璧すぎて、エレナはまたうっかりと信じてしまいそうになってしまった。
エレナは慌てて、ぶんぶんと首を横に振る。
そうすると、先ほどまでのキラキラとした世界は消え去り、急に現実がせまってくる。
（きっと、昨日のじゃ、みんな納得しなかったんだろうな……）
プロポーズをもう一度やるということは、そういうことだろう。あんな泥酔状態で、勢いに任せた言葉など、彼の『罰』にならなかったのかもしれない。
ついでに言うならこの感じ、きっと答えを求められている。
（今朝の騎士様たちは、『女騎士様たちはみんな断ってる』って言ってたし、そこまでやってようやく、終わり、なんだろうな……）
それならちゃんと断らないと、とエレナは自分の中で言葉を探す。
けれど、なかなかそう簡単に言葉は見つかってくれなかった。それもそうだろう、エレナの人生の中で、アルヴァンからのプロポーズを断るなんて選択肢、想像もしていなかったのだから。
（もし、私がここで『よろしくお願いします』と頭を下げたら、どうするつもりなんだろう）
アルヴァンは驚くだろうか。それとも困ってしまうだろうか。
彼のことだからきっと、あからさまに嫌な顔はしないでいてくれると思うが、もしかすると目を逸らされるぐらいのことはされるかもしれない。
（もしかしたら、お詫びにデートぐらいはしてもらえるかも）
彼の罪悪感につけ込んでお願いしたら一回ぐらいは叶うかもしれない。
（それも、いいかもしれないな）
どうせこの後、騎士団の中で笑いものになるのだから、そのぐらいの見返りはあってもいいだろう。
プロポーズを本気にしたイタイ女と言われたって、本当のことなのだから痛くも痒くもない。
（この初恋を終わらせるのにも、いい機会よね）
「エレナ？」
返事をしないエレナのことが心配になったのか、アルヴァンはこちらをのぞきこんでくる。
エレナは自分の手を掬い上げるようにしている彼の手を、両手で包みこんだ。
そして、深呼吸。
「あの、不束者ですが、よろしくお願いします」
か細い声でなんとかそういい、エレナは彼の顔を見た。
案の定アルヴァンは、ぽかんとしている。それは、まるで――というか、まさしく、エレナの答えなど想像できなかったというような顔だった。




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    <dc:date>2026-06-17T12:32:17+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ガブリエラブックス</dc:creator>
    <foaf:topic><foaf:Image rdf:about="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/product/192241590_th.jpg?cmsp_timestamp=20260617123216" /></foaf:topic>
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    <title>【6月30日発売】腹黒皇太子殿下の過剰な溺愛は、どうやら私だけの特権らしい【本体1300円+税】</title>
    <description></description>
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●著：御厨 翠
●イラスト：氷堂れん
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543907
●発売日:2026/6/30</div>

<p><span class="f130 black">無類の読書好き令嬢ですが、皇太子殿下の秘書官になりまして!?<br /></span>

浮気され一方的に婚約破棄された侯爵令嬢アンジェリカは夜会にて元婚約者に再び愚弄されかけた。
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プロローグ



皇宮大広間に流れる美しい音楽の中、祝宴に集った貴族の笑い声が響き渡る。
大理石の床に映るシャンデリアの光は、夜空に輝く星々のごとく煌めいていたが、アンジェリカはひとり、その喧噪に取り残されたように佇んでいた。
（……やっぱり、来るべきじゃなかったかもしれないわ）
胸の奥でそう呟きながら、壁際を選んで歩いていく。
皇太子の帰還パーティとあり、会場にいる皆は華やかに装っている。
だが、アンジェリカの選んだドレスは、淡いクリーム色に近い薄桃のような色合いだ。華美な装飾は避け、胸元には小さな真珠がひとつだけ添えられている。
化粧も薄く、頬にほんのりと血色を添える程度に施した。?自分を主張しない?ことを第一に選んだ装いだった。
移動するたびに、柔らかな癖のある蜂蜜色の髪が揺れる。背中の半ばまで流れるその色合いは瞳と同じ色で、美しい艶を放っていた。
本来であれば、華やかな場にふさわしく着飾り、皇太子の帰還を祝っていたはずだ。
けれど今は、目立つこと自体を避けたかった。
二年前。婚約者の浮気が発覚し、一方的に婚約破棄を告げられたためだ。あの日以来、噂話の的になり、『惨めな令嬢』という不名誉なレッテルを貼られている。
それ以降、社交場からは遠ざかり、今日も欠席するつもりだった。
『皇太子殿下が、留学先から三年ぶりに帰還される祝いの席だ。顔だけでも出してほしい』
そう長兄から頼まれなければ、書庫にこもり読書に耽っていただろう。
（それでも今日だけは来ると決めたのだから、毅然としていなければ）
「アンジェリカ、ここにいたのか」
「お兄様……！」
声をかけられて振り向けば、長兄のヴァルターが歩み寄ってきたところだった。
身内の穏やかな微笑みに安堵し、アンジェリカはわずかに表情を緩める。
「申し訳ありません。社交場からは遠ざかっていたので、人の多い場所は緊張してしまって」
「そうだろうと思っていた。父上はどうした？　エスコートしてくださったのだろう？」
「挨拶に来る方々の対応をされていらっしゃいます。お忙しそうなので、わたくしは席を外させていただいたのです」
今日この場には、父・ギラウトのエスコートで参加していたが、侯爵家の当主であり外務大臣を務める父は、ひっきりなしに各家から挨拶を求められていた。多忙の父を独占するわけにもいかず、アンジェリカは自ら距離を取ったのだ。
その説明にヴァルターは小さく息を吐き、ひとつに結んだ金色の長髪をくしゃりとかき混ぜた。
「おまえに肩身の狭い思いをさせるのは本意じゃない。でも、我が家としても参加しないわけにいかないからね。……それに殿下も、おまえと会うのを楽しみにされていたよ」
「それは……光栄ですね」
アンジェリカは微笑を作り、兄の話を静かに受け流す。
ヴァルターは皇太子の学友であり、幼い頃からの付き合いがある。主君と臣下という関係を超え、彼らは今も友人に近い距離で接している。
ふたりの間でアンジェリカの話題が上がるのは不思議ではない。けれど、『楽しみにしている』という言葉をそのまま受け取るほど無邪気ではいられなかった。
「……後ほど、お父様と一緒に殿下にご挨拶に伺いますね」
「ああ、そうだね。僕も同席するから安心していいよ」
その言葉には、余計な負担をかけまいとする配慮が滲んでいた。
父も、ヴァルターも、次兄のアルマンも、皆、亡き母の代わりにアンジェリカを大切にしてくれている。その優しさに救われている一方で、社交の場に長く留まることへの疲労もまた、消えることはなかった。
「お兄様には感謝しています。まだもう少し、甘えさせていただけますか？」
「少しといわず、いくらでも構わないさ。僕たち家族は、皆、おまえの味方だからね」
優しい兄の言葉に頷いたときだった。
楽団の演奏が一段落し、大広間の空気が変化した。人々のざわめきが波のように広がっていき、視線が一斉に入口へと吸い寄せられる。
「クラウディオ・シュヴァイガー皇太子殿下のご入場です！」
（あ……）
儀仗兵が扉を押し開いた瞬間、会場が静まり返った。
皆の視線をその身に浴びるのは、この国の皇太子・クラウディオ・シュヴァイガーだ。
留学先から帰還したばかりの次代の皇帝は、息を呑むほど端整な顔立ちをしていた。
皇族特有の銀髪は、細い光の糸を束ねたように滑らかで、丁寧に整えられた前髪が額にかかるたびに淡く煌めく。
深い湖を思わせる碧眼は、向けられた者の心を一瞬で捉えてしまう。
礼服は、彼の均整の取れた体躯を際立たせる。肩から胸元にかけて施された銀糸の刺繍は帝国の紋章の鷲を模した紋様で、まるで彼自身がこの国そのものを象徴しているかのようだった。
研ぎ澄まされた空気を纏い、場を支配する存在感がある。
（……以前よりもずっと、素敵になられているわ）
皇太子はお忍びと称し、何度も屋敷を訪れた。まだ彼と兄が学生だったころの話だ。
初めて会ったとき、幼かったアンジェリカは挨拶に失敗してしまった。父や兄以外の男性を前に緊張し、家名を言えず固まってしまったのだ。
けれどクラウディオは、『可愛いお出迎えありがとう』と笑ってくれた。
宝石のごとき碧眼を細めて微笑むその姿に見蕩れ、余計に言葉を失ったことを、今では懐かしく思い出す。
「しばらく挨拶は無理そうだ。もう人に囲まれている」
兄の視線の先には、クラウディオを中心に人だかりができていた。彼は嫌な顔ひとつせず、にこやかに貴族らの挨拶を受けている。
――だが。その中で一瞬だけ、クラウディオの視線が止まった。
（……え？）
ほんの一瞬。けれど、確かにクラウディオの碧眼は自分を捉えていた。その目はまるで、群衆の中からアンジェリカを探していたかのように。
しかし彼は何事もなかったように視線を外し、ふたたび周囲に応じている。
（気のせい、よね）
クラウディオが留学してからは、文すら交わしていない。そもそも、気軽に話せるような相手ではないのだ。ヴァルターの妹でなければ、顔すら覚えられていないだろう。
心の中でそう結論づけたとき、兄が申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「悪い、アンジェリカ。少し外す」
「ええ、お兄様。わたくしのことはお気になさらず」
挨拶を求める他の貴族に声をかけられ、ヴァルターは離れていった。
ひとりになったアンジェリカは、安堵と緊張の狭間でふたたび壁際に身を寄せる。
煌びやかなシャンデリアの下、談笑する人々の輪から外れると、自分が場違いだと感じてしまう。卑屈になっているわけではなく、客観的な事実だ。
同年代の貴族令嬢の多くは、すでに婚約者を持っている。学園を終えれば花嫁修業へ移り、やがて結婚へと進むのが当然の流れだ。
婚約しない者は、修道院に入るか皇宮で働くか、場合によっては、親子ほど年の離れた相手に嫁ぐことさえある。だからこそ、皆が必死なのだ。
（まあ、わたしには関係のない話ね）
二年前、派手に婚約破棄されたアンジェリカに、近づいてくる男性はいない。
だが、そのほうが気楽でいい。もう傷つくのはこりごりだ。
そう自分に言い聞かせ、少しだけ肩の力を抜いたときだった。
「奇遇だな、アンジェリカ嬢」
聞き覚えのある、けれど二度と聞きたくなかった声が鼓膜を叩いた。
（……っ）
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
ゆっくりと振り返ると、そこには酷く薄っぺらい笑みを浮かべた男が立っていた。
かつての婚約者、リヒャルト・ダイン侯爵令息。その腕には、派手なドレスの令嬢が寄り添い、値踏みするような視線をアンジェリカへ向けている。
「……ご無沙汰しております、ダイン侯爵令息」
アンジェリカは震えそうになる声を必死に押し隠し、完璧な貴婦人の礼をとった。それでも、気を抜けば逃げ出してしまいそうになる。
「社交場には顔を出さないと思っていたが。相変わらず地味だな、アンジェリカ嬢」
アンジェリカのドレスを一瞥したリヒャルトが、鼻で笑った。
パーティに参加している女性たちは、確かに華やかに着飾っている。金糸の刺繍も、宝石の輝きも、視線を奪うほど色彩豊かなドレスだ。
それに比べれば――そう言いたいのだろう。
アンジェリカは装飾を最低限に抑えている。髪と瞳に合わせた亜麻色の生地も、デコルテを飾る紅玉も、上品で精緻な施しがされている稀少なもので、過剰に主張しないだけだ。
ただ、リヒャルトにはそう見えないのだ。
彼の腕にしがみつく令嬢も、クスクスと笑い声を上げている。
「リヒャルト様、そのような言い方はお可哀想ですわ」
「優しいな、エリザは。だが、事実だろう？　書物が好きなだけの変わった女……取り柄は爵位だけの面白みのない令嬢だ」
リヒャルトの言葉に、周囲の貴族たちの注目が集まり始める。好奇や、同情、嘲笑混じりの様々な視線が、アンジェリカの全身にまとわりつく。
（……もうやめて）
二年前の出来事が想起され、胸が締め付けられるように苦しくなった。
彼が今の婚約者を選んだあの日、大勢の貴族が集うパーティで婚約破棄が宣言された。しかもそれは、アンジェリカとリヒャルトの婚約披露の場だった。
彼はつらつらと婚約破棄の理由を述べていたが、要するに、『自分にふさわしくない』――ただそれだけだった。地味でかわいげのない女など必要なかったのだ。
祝福に集まった皆は眉を顰めながらも、降って湧いた醜聞を楽しんでいた。
ひそひそと囁く周囲の声が、余計にアンジェリカの心を深く傷つけた。
――それから逃げるように社交界から距離を置き、やがて皇宮書庫に居場所を見つけた。
書物は嘘をつかないし、裏切らない。知識の海に身を沈めることで、ようやく呼吸ができた。
その後、縁あって皇宮書庫に司書として勤めるようになった。
二年かけて、ようやく傷が癒えた。そのはずだった。
（それでも……まだ、あのときから動けていないの……？）
アンジェリカは拳を強く握りしめ、溢れそうになる感情を必死に堪える。
侯爵令嬢としての矜持だけで、その場に立っていたとき。
「――私の大切な女性に、何をしているんだ？」
低く澄んだ声が、大広間の空気を切り裂いた。
驚いて顔を上げると、先ほどまで貴族に囲まれていたはずのクラウディオが歩み寄ってくるところだった。
銀の髪が照明を受けて淡く光り、碧眼は冷ややかにリヒャルトとエリザを射抜いている。
「……こ、皇太子殿下……！」
一瞬にして青ざめたリヒャルトの声が裏返る。彼に寄り添っていたエリザも顔を強張らせ、腕を離して後ずさった。
アンジェリカの前へと進み出たクラウディオは、躊躇なくその肩を抱き寄せる。
（……ど、どうして……殿下が？）
理解が追いつかない。ただ、彼の腕の中にいるという事実だけが、異様なほど鮮明だった。
クラウディオはアンジェリカに微笑みかけると、次にリヒャルトとエリザに視線を向けた。
ただその場にいるだけで、貴族たちの輪が静かに崩れていく。誰もが一歩、また一歩と距離を取っていた。
「きみは、彼女が私の大切な女性だと知ったうえで、そのような無礼を働いているのか？」
「ま、まさか……！　誤解です！」
リヒャルトが必死の形相で弁明するも、クラウディオは笑みを湛えたまま首を振る。すべてを見透かすような皇太子の瞳に、先ほどまで余裕を浮かべていた男の顔は見る影もなかった。
「わ、私はただ……皇太子殿下の帰還パーティに出席するには、地味ではないかと……！」
「え、ええ！　そうですわ！　親切心で……！」
婚約者を擁護しようと、エリザも慌てて言葉を重ねる。しかしクラウディオは、理解できないというようにふたりを睥睨した。
「どのような教育を受ければ、そのような振る舞いができるのか興味深いな。そこの令嬢に、私は発言を許していないが？」
ひゅっ、と、エリザの喉が音を立てた。場の空気が凍りつく中、クラウディオはゆっくりと視線を巡らせ、ダイン侯爵をその目に捉えた。
「祝いの場でも、さすがに看過できない。そうは思わないか？　ダイン侯爵」
「も、申し訳ございません、殿下……！　どうかご容赦を……っ」
慌てふためき息子の元へ駆けつけた侯爵は、跪き、床に額を擦りつける勢いで叫んだ。だが、クラウディオは眉ひとつ動かすことなく言い放つ。
「アンジェリカ・ライムバッハー侯爵令嬢は、すでに私の婚約者だ。彼女への無礼は、ひいては皇家に弓を引く行為だと心得よ」
（えっ、婚約者……!?）
アンジェリカは耳を疑った。その言葉が自分に向けられているという現実を理解できない。
「皇太子殿下、ライムバッハー令嬢、ご婚約おめでとうございます！」
誰かが叫んだ。
痛いくらいの沈黙を保っていた会場からは、次の瞬間堰を切ったようにどよめきが広がった。
「おめでとうございます！」
「なんとお似合いのふたりでしょう……！」
混乱と祝福が入り混じる中、クラウディオは周囲を見渡すと、誰もが見蕩れる笑みを浮かべた。
「ありがとう。このような形での発表になったが、祝福の声を嬉しく思う」
皇太子の婚約発表という慶事を前に、それまで繰り広げられていた会話のことなど、もはや誰も気に留めていなかった。
「ダイン侯爵。貴卿には、後ほど詳しく話を聞こう」
その言葉に侯爵は深々と頭を垂れ、リヒャルトとエリザは完全に血の気が引いている。
「さて、アンジェリカ嬢。少し騒がしくなってしまったことだし、別の場所で話をしようか」
クラウディオは混乱する周囲をよそに、アンジェリカの肩に置いた手を離さず歩き出す。彼の手は、逃がさないと言うように導きながら、それでいて驚くほど優しく支えてくれた。
（いったいどういうことなの……？）
困惑と緊張、そして驚きで、頭が真っ白になったアンジェリカは、彼に身を任せることしかできなかった。



第一章　殿下の婚約者（候補）兼、秘書官に任命されました



大陸随一の広大な領土を治めるシュヴァイガー帝国は、皇帝シュヴァイガー十三世の治世のもと、揺るぎない安定を享受していた。
皇都の中心にそびえる皇城は、大国にふさわしい威容を誇り、その壮麗さは訪れる者すべてを圧倒する。
華やかな城内の奥深く、人々の目から遠ざけられるようにして、皇宮書庫は佇んでいる。
天井へ届くほど高くそびえる書架が光を遮り、室内は昼間であっても薄闇に沈んでいた。わずかに開かれた天窓から差し込む陽光が、空気に漂う埃を照らし、光の筋となって揺れている。
古文書の匂いと革装丁の深い香りが混ざり合い、独特の静けさを漂わせる書庫の中、アンジェリカは革表紙の年代記を胸元に抱き、細い通路を一歩ずつ進んでいた。
（今日は、この棚の再整理ね）
司書として働き始めて二年が経つ。最初は『婚約破棄された令嬢が逃げ込んだ』などと陰口を叩かれたこともあったが、今ではその仕事ぶりを疑う者はいない。
古い紙とインクの香りに包まれる書庫は、アンジェリカにとって何よりも心安らぐ場所だった。
書物は、過去を記し、真実を残す文字の群れだ。裏切りも感情の揺らぎもなく、静かに世界を築き上げている。
けれど、このところは違う。手に取った資料の文字が、ほとんど頭に入ってこない。
（……あの夜のことを、どうしても思い出してしまうわ）
数日前の祝宴で、アンジェリカは一躍時の人となった。それも、二年前のような醜聞ではない。皇太子・クラウディオの婚約者としてだ。
彼に抱き寄せられた体温と衝撃的な宣言は、記憶に焼き付いている。
『アンジェリカ・ライムバッハー侯爵令嬢は、私の婚約者だ。彼女への無礼は、ひいては皇家に弓を引く行為だと心得よ』
その後、混乱の中で彼に連れ出された先はバルコニーだった。
人々の視線から解放され、月明かりの下でようやく息を整えると、アンジェリカは震える声で問いかける。
『……どうして、あのようなことをおっしゃったのですか？』
『あれ以上、きみを傷つけさせるわけにいかなかった』
迷いのない、凛とした声だった。アンジェリカは思わず聞き返す。
『わたくしのために……ですか？』
『他に誰がいる？　あの男に何を言われていたのか、全部は聞こえなかった。けれど、きみの顔を見れば充分だ』
クラウディオは優しい眼差しでアンジェリカを見つめ、自身の眉間を指さした。
『きみは泣きそうになると、眉間に力を入れるんだ。昔もそうだった』
『昔……？』
『ライムバッハーの屋敷に遊びに行っていたころのことだ。初めて会ったときも、泣きそうになっていただろう？』
『それは……幼いころのことで……』
『私には、きみが必死に我慢しているように見えた』
真っ直ぐに見つめられ、胸の奥がじんわりと熱くなる。けれど、あまりにも現実離れした展開に、納得しきれないのも事実だ。
『殿下のお気遣いには感謝します。ですが、わたくしを守るためだけに「婚約者」とまでおっしゃるなんて、あまりに代償が大きすぎます』
『方便と言えば方便だ。けれど、嘘ではない』
（嘘ではない？）
「それは、どういう……」
核心に触れようとしたそのとき、
『殿下！　アンジェリカ……！』
血相を変えた兄・ヴァルターの声が響き、バルコニーの扉が開いた。
結局、『詳細は後日、家族を交えて正式に話し合う』という形でその場は収まったのだった。
「――はぁ。お父様もお兄様も、あの日からずっと落ち着かない様子だし……」
深くため息をつき、手元の書物を棚に戻そうと手を伸ばす。すると、背後から艶のある低音が聞こえてきた。
「そんなにため息をついていては、せっかくの良書が湿気てしまいそうだ」
「っ!?」
その声が落ちた瞬間、空気が変わった。
この場所には似つかわしくない高貴な響きに、弾かれたように顔を上げる。
そこには、護衛も連れず、ひとり書棚の間に立つクラウディオの姿があった。
「で、殿下！　なぜこちらに？」
「きみに会いに来た」
薄暗い書庫に、あまりにも不釣り合いな存在だ。思わず持っていた書物を落としかけると、とっさに彼が支えてくれた。
「大丈夫か？」
「は、はい……」
クラウディオは儀礼服ではなく、軽装ながらも気品を損なわない装いだった。深い藍色の上衣は身体にほどよく沿う仕立てで、肩や袖口に細かな刺繍が施されている。控えめな立ち襟のデザインは、彼の端正な横顔を際立たせていた。
「司書としての姿は初めて見たが、制服が似合っているな」
「……ありがとうございます。そう言っていただけて光栄です」
皇宮書庫の司書に支給されているのは紺色の制服で、『知識と忠誠を象徴する皇宮司書の伝統色』とされている。
膝下丈のスカートは書架の間でも動きやすいよう設計され、袖口には帝国の紋章である鷲が金糸で刺繍されていた。
蜂蜜色の髪を後ろで束ね、実用性を優先した姿は、褒められるとむず痒い。
「わたくしに何かご用でしょうか」
そう取り繕うと、彼は一瞬だけ表情を改めた。
「父上と母上の都合がついた。今から会ってほしい」
「えっ……今、ですか？」
「こちらの都合で申し訳ないが、公務の合間でようやく時間が取れた」
「ですが、わたくしはこのような服装ですし、両陛下にお目通りするには失礼ではないでしょうか」
「非公式の場だから気にする必要はない。それに、制服も立派な正装だ」
その声音から、冗談ではないことがすぐに分かった。
あまりに急な展開に、アンジェリカの思考は追いつかない。皇帝と皇妃への謁見など、本来であれば事前の調整なくして成立しないはずだ。
しかしクラウディオは、アンジェリカの動揺を軽く受け流した。
「父上も母上も、きみに会いたくて仕方がないらしい。ライムバッハー侯爵とヴァルター、それにアルマンにも急遽同席してもらうことになった」
そのひと言に、アンジェリカの胸が大きく跳ねた。
間違いなく、先の騒動についての話し合いだ。
彼の発言は、あくまでアンジェリカを守るための方便に過ぎない。それなのに、話がどんどん大きくなっている。
（陛下や妃殿下も、さぞ驚かれたに違いないわ）
皇太子の婚約者ともなれば、彼ひとりの意思だけで決定できるものではない。それは、クラウディオも充分理解しているだろう。
まして自分は、彼の婚約者にふさわしい人間ではない。皇太子妃など、あまりにも身に余る。
（……きちんと説明しなければ。このまま曖昧にしてはいけないわ）
願わくば、この皇宮書庫でずっと働かせてもらいたい。皇帝と皇妃には、自分の気持ちをきちんと伝え、謝罪しようと心に決める。
「かしこまりました。伺わせていただきます」
「ありがとう。では、行こうか」
「……はい」
差し出された手におずおずと触れた瞬間、わずかに体温が伝わってどきりとする。
動揺を悟られないよう背筋を正し、彼のエスコートで書庫を出た。
幸いなことに、廊下に人の気配はなかった。安堵の息を漏らすと、クラウディオが小さく笑う。
「大丈夫だ。秘密の通路で向かうから、人の目は気にしなくていい」
「秘密の通路……ですか？」
「ああ。皇族と限られた者だけが知る道だ。有事や、お忍びで城を出る際に使われる」
淡々と語るその声に、特別なことをしているという緊張感はない。
クラウディオは会話をしながらも、迷いもせずあちこちの扉を開けて廊下を進んだ。まるでこの城全体が、その手の内にあるかのようだ。彼がいなければ、確実に迷子になってしまうだろう。
「……なんだか迷路のようですね」
「城にはこの手の仕掛けがいろいろある。きみのいる書庫も、立ち入り禁止の場所があるだろう？」
「はい。皇室の方々の私的な記録が残されていると聞いています」
書庫の一角には、厳重に閉ざされた扉がある。通称、『開かずの間』と呼ばれる部屋で、その鍵は皇家の人間が管理し、ほかの人間は入ることができないのだと教わっている。
「私的な記録といえば聞こえはいいが、かつての皇帝や皇妃の日記や書簡が保管されているだけだ。それよりも重要なのは、禁書の存在だろうな。こちらのほうが、きみも興味がありそうだ」
意味ありげにアンジェリカを見遣ったクラウディオは、口角を引き上げた。
「他国から渡ってきた哲学書や天文学書、政治論を記した書物がある。当時の文化や思想を知る貴重な資料だよ。時の皇帝が『一般に流通させるには危険な書物』だと判断して、皇族のみしか閲覧できないようにしたのが、今も続いているというわけだ」
「それは、歴史書にも匹敵する稀少な品ですね……！」
つい強く反応を示すと、彼がふと歩みを止めた。
「きみが望むなら、自由に閲覧できるように取り計らおう」
「えっ……」
「私の婚約者であれば、その程度の権限は当然だ」
逃げ道を塞ぐような笑みで言い放つと、クラウディオが前方を指し示す。
「さあ、こちらだ」
しばらく進み、方向感覚を失いかけてきたころ、ようやく目的地に到着した。
案内されたのは、皇宮の中でも一際格式高い部屋だった。限られた者しか入室を許されない、皇族の私的な謁見の間だ。
「アンジェリカ嬢をお連れしました」
クラウディオはそう告げると、自ら重厚な扉を開いた。
室内に広がっていたのは、華美な装飾こそ抑えられているものの、精緻に整えられた空間だった。大窓から差し込む光が部屋を満たしているにもかかわらず、足を踏み入れた瞬間から空気が一段と重くなる。
そこにはすでに、アンジェリカの父、ギラウト・ライムバッハー侯爵と、長兄ヴァルター、そして、騎士団に所属している次兄アルマンが、かつてないほど緊張した面持ちで座っていた。
彼らの正面に座すふたりが、扉の開く音にゆるやかに視線を巡らせる。
「来たか」
「わざわざ足を運んでもらって申し訳なかったわね」
穏やかでありながら有無を言わせぬ威厳を纏った男性は、この国の頂点に立つ皇帝シュヴァイガー十三世。その隣で優雅に微笑むのは、皇妃ヘレーナだった。
帝国を統べる皇族が揃うと、それだけで厳かな気持ちになる。
普段であれば、これほど近しい距離で皇帝や皇妃と謁見することはない。
あまりの圧力に足がすくみそうになったアンジェリカだが、隣に立つクラウディオがさりげなく背に手を添えて支えてくれた。
「そう緊張しないでいい。ここにいるのは、皆きみを案じている者ばかりだ」
「は、はい……」
安心させるように微笑みかけられると、不思議と足が前に出た。
彼に促されて隣に腰を下ろす。
重厚な沈黙が流れる中、顎に蓄えた髭を撫でた皇帝が、おもむろに話を切り出した。
「まず、ライムバッハー侯爵、そしてアンジェリカ嬢。息子の無作法を詫びよう。あのような公の場で根回しもなしに婚約を宣言するなど、いささか先走りが過ぎた」
皇帝が謝罪の言葉を口にするなど、本来あり得ないことだった。
ヴァルターとアルマンが息を呑み、父も目を見開いた。
「……と、おっしゃいますと、陛下はすでにご存知だったのですか？」
皇帝は皇妃と顔を見合わせ、苦笑を零す。
「留学先から戻るなり、クラウディオに相談されたのだ。アンジェリカ嬢との婚約をな」
「わたくしたちも驚いたけれど、息子の決意は固かったのよ」
皇妃は慈愛に満ちた笑みをアンジェリカに向け、「ただ」と続ける。
「ライムバッハー侯爵家の気持ちも、アンジェリカ嬢自身の気持ちも聞いていないままでは進められないと思っているわ。だから、今日はこの場を設けたのよ」
（やはり……あれは正式な話ではないのだわ）
あの夜のクラウディオの言葉は、あくまで場を収めるための方便に過ぎない。そう伝えようとした矢先、それを遮るように彼が口を開いた。
「これは、単なる感情論だけじゃありません」
クラウディオは表情を崩さぬまま一同を見渡し、滔々と語り始める。
「まず、外交を担うライムバッハー侯爵家と皇室がより強固に結びつくことは、今後の通商条約において多大なメリットを生む。それに加え、アンジェリカ嬢の慎ましく聡明な気質は、次期皇帝の伴侶として理想的でしょう」
政略としての利点を理路整然と並べるその声に、父も兄たちも言葉を失う。隙のない理屈でありながら、その裏にある意思が如実に浮かび上がっていた。
「……とはいえ、これはあくまで表向きの利点にすぎません」
クラウディオは淡々とした口調のまま、視線だけをアンジェリカの父へと向けた。
「ライムバッハー侯爵家は代々、帝国の外交を支えてきた名門。その家の令嬢が皇室に入ることは、国内外に対して『帝国の安定と継続性』を示す強い象徴となります。とりわけ、近年の北方情勢を鑑みれば、皇室と侯爵家の結びつきは、帝国の求心力を高めるうえで極めて有効です」
ヴァルターとアルマンが、無言で目を見交わす。
それは政治家の論理であり、逃げ場のない現実である。
「そして何より、アンジェリカ嬢は宮廷書庫で実務に携わっている。帝国の歴史と制度を?知識?としてだけでなく、?運用?として理解している者はそう多くない。皇太子妃として必要な素養を、すでに自然と身につけていると言っていい。これは、教育で補えるものではない」
皇帝が頷き、皇妃も穏やかな眼差しをアンジェリカに向けている。クラウディオは続けた。
「もちろん、これは強制ではない。侯爵家の意向を無視して婚約を進めるような真似は、私も望んでいない。だが――」
そこで初めて、クラウディオはアンジェリカへと視線を移した。
「私は、アンジェリカ嬢が皇室に入ることが、帝国にとっても、侯爵家にとっても、そして……彼女自身にとっても、決して不利益にはならないと確信している。むしろ、互いにとって最良の選択となり得る。侯爵ならば、その意味はお分かりでしょう」
その声音はあくまで理性的で、感情を排している。しかしその眼差しだけは、隠しようのない熱情がこめられていた。
アンジェリカはその視線に耐えきれず、わずかに目を伏せた。すると、しばし沈黙していた父が重い口を開いた。
「……殿下のお考えは理解いたしました。皇室と我が家門の結びつきの利点を考えれば、臣下としてお受けするのが正しい判断でしょう。だが私は、父としてそれを良しとは思いません」
ギラウトは、侯爵としてではなく父としての感情だと前置きしたうえで続けた。
「アンジェリカは、一度深い傷を負っている。無理強いはしたくない。最終的な判断は、本人に任せたいと考えております」
視線が一斉にアンジェリカに集まる。
次期皇帝の婚姻という重大な決断が、自分の意思に委ねられている――その事実は、アンジェリカにはあまりにも重く感じられた。
だが、自分の選択を尊重してくれているからこそ、逃げてはいけないとも思う。何よりクラウディオは、アンジェリカなら皇太子妃を務められると信じているのだ。
その信頼に応えたい。
そう自身に言い聞かせるように、震えそうになる指先を膝の上でそっと組み隠し、意を決して口を開いた。
「……殿下。身に余る光栄ではございますが、わたくしはお受けできません」
そのときに――ほんの一瞬だけ、彼の呼吸が止まったように見えた。
アンジェリカは言葉を選びながら、自身の考えを口にする。
「ご存知の通り、わたくしは一度、婚約を破棄された身です。社交界では『惨めな令嬢』といまだに噂されており、殿下の隣に立つには相応しくありません。それに、わたくしは皇太子妃としての教育も受けておりませんので」
理屈としては正しいはずだ。それでも胸の奥は、かすかに軋んでいる。まるで、自分の言葉が自分自身を否定しているようで。
しかしクラウディオは、アンジェリカの発言に微塵も揺らがなかった。
「そんなことは、たいした問題じゃない。でも、きみが臆病になる理由もよくわかる」
彼はアンジェリカの目を見据え、わずかに唇の端を上げた。
「きみがそこまで不安だと言うのなら、提案がある」
「提案……ですか？」
「ああ。いきなり婚約者として振る舞うのが難しいのであれば、まずは?婚約者候補?として、私のそばにいてほしい。教育が必要なら、私の秘書官となって政務を手伝ってくれればいい。そうすれば、私が直接教えることができる」
あまりにも現実的で、逃げ道のない提案だった。
「一緒に過ごしたうえで、それでも私の隣が苦痛だと言うなら、そのときはこの話は白紙に戻すと約束する。これならどうだ？」
「殿下、それは……」
秘書官とは、皇太子の最も近くで政務を補佐する役職だ。社交すら得意ではない自分に務まるとは思えない。ましてや政治の世界など、未知の領域だ。
「逃げ場は作った。――だが、きみを手放すつもりはない」
クラウディオの声音は静かだったが、そこに込められた意志は揺るぎなかった。
これ以上の譲歩はない。――彼の想いが言葉より雄弁に伝わってくる。
　抗いがたい圧力と、それよりも強い情熱を感じ、アンジェリカは息を詰める。
皇宮書庫で、大好きな本に囲まれて静かに働く。それが望んでいた平穏な日常だった。
けれど、あの日クラウディオに救い出された瞬間から、止まっていた時間が動き始めたことを、どこかで感じていたのかもしれない。
（もう、逃げたくない）
アンジェリカは震える指先をぎゅっと握りしめ、まっすぐにクラウディオを見つめ返した。
「……わかりました。そのご提案、お受けいたします」
一呼吸置くと、一同を順に見渡してから、はっきりと告げる。
「わたくし、アンジェリカ・ライムバッハーは、クラウディオ殿下の?婚約者候補?として――そして、?秘書官?として、誠心誠意お仕えいたします」
アンジェリカの宣言を聞いた瞬間、クラウディオがわずかに安堵したように息をつく。それと同時、皇帝と皇妃の顔に喜びの色が広がった。
「おお、受けてくれるか！　アンジェリカ嬢のような聡明な娘が息子の隣にいてくれるなら、これほど心強いことはない」
「嬉しいわ、アンジェリカ嬢。あなたのその真面目さなら、きっと素晴らしい妃……いえ、秘書官になれるでしょうね」
ふたりの温かい歓迎とは対照的に、ギラウトやヴァルター、アルマンは、複雑そうな面持ちで視線を交わす。
「アンジェリカ……本当にいいのか？　秘書官となれば、これまで以上に厳しい視線にさらされることになるぞ」
「僕たちは、おまえに幸せになってほしいんだ」
父と長兄がそう言うと、アルマンもまた大きく頷く。
「無理をして殿下の言葉に従っているんじゃないか？　俺はもう、おまえが悲しむところを見たくない。もしもまた泣くような目に遭ったら、その輩を八つ裂きにしてやる覚悟だ」
　拳を握るアルマンの様子に、ヴァルターがそっと肩を叩く。
騎士団の副団長の任に就くアルマンは、二年前の婚約破棄のとき、相手の家に怒鳴り込みに行く勢いだった。父とヴァルターが必死に宥めてその場は収めたものの、今もなおリヒャルトとは意図的に顔を合わせないよう取り計らわれている。
家族たちの言葉には、一度傷ついたアンジェリカを二度と苦しませたくないという切実な願いが込められていた。
アンジェリカは彼らの方へ向き直り、穏やかに微笑む。
「お父様、お兄様。ご心配をおかけして申し訳ありません。でも、これは殿下に命じられたわけではなく、わたくし自身の意思です。逃げてばかりでは、一生『惨めな令嬢』のままですから。自分を変える機会を、殿下がくださったのです」
決然とした声に、部屋の空気がわずかに引き締まる。やがてギラウトが小さく息を吐いた。
「……おまえがそう決めたのなら、私たちは全力で支えるだけだ」
「ああ。もし辛くなったら、僕やアルマンに真っ先に言うんだよ。……殿下、妹を泣かせたら、親友といえど容赦はいたしませんよ」
ヴァルターが棘のある笑みをクラウディオに向けると、彼は不敵に唇の端を上げた。
「肝に銘じておこう。――これからよろしく、アンジェリカ嬢」
周囲の視線を意に介さぬまま、彼にそっと手を握られる。その瞳には、獲物を決して逃さないという静かな決意が滲んでいる。
気づいてしまうと、アンジェリカはもうクラウディオから目を逸らすことはできなかった。




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    <dc:date>2026-06-17T11:58:44+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ガブリエラブックス</dc:creator>
    <foaf:topic><foaf:Image rdf:about="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/product/192241213_th.jpg?cmsp_timestamp=20260617115843" /></foaf:topic>
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  <item rdf:about="https://gabriella.media-soft.jp/?pid=191700794">
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    <title>【5月29日発売】ループを抜けるために抱かれた悪役令嬢ですが身籠りました！　逃亡先でママになります！【本体1300円+税】</title>
    <description></description>
<content:encoded><![CDATA[
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●著：竹輪
●イラスト：Ciel
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543891
●発売日:2026/5/29</div>

<p><span class="f130 black">悪役令嬢としての運命を変えるはずが愛する人に存在を忘れられ!?<br /></span>

小説の悪役令嬢に転生したことに気付いたロザリア。破滅回避のため初恋のアルフレッドを諦めヒロインとの仲を応援するが、失敗の果てに死と時戻りを繰り返すループの沼に嵌まってしまう。
ループのたび代償として周囲に忘れられる運命を辿る彼女は、運命を変えるため一度だけアルフレッドと深く愛し合い彼の元を去ることに。
だが落ち着いた逃亡先で最愛の彼の子を授かっていることが判明し……。
★本書は本文中の挿画の掲載が無い仕様です★

</p><img src="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/etc/gab_otameshiyomi_banner.png?cmsp_timestamp=20180420182727"><br />



第一章　目覚めたら前世の記憶がよみがえっていた



ペリドットの宝石のように煌めくグリーンの瞳。
月の女神に愛されたような淡い光を含んだ銀髪、整った顔立ち。
なにをやってもかっこいいその仕草。
走るのも早いし。
勉強だって学園で一番できる。
責任感もあって、みんなの憧れで、人気者……。
私の大好きなアルフレッド様はグランディール公爵家嫡男。
お金持ちで将来も有望。
そう、そして……。
私の未来の旦那様である。
両親がそう言ったのだし、グランディール公爵様だって「ロザリア、うちの子になるか？」なんて言ってくれたもの。
大好き。
大大大大だーい好き。
だから。
だから……。
――私はリリアーナの背中を押した。
だって、アルフレッド様に優しくしてもらえる女の子は、私だけでいいのだもの。
「きゃああああああーっ！」
ドボンッ！
リリアーナの叫ぶ声が聞こえた。
しかし、バランスを崩して勢いよく湖に落ちたのは私で。
ブクブクと口から出た泡が上へ上がっていく。
体が沈む感覚の後、息苦しさに意識が途絶えた。

私の名前はロザリア・ヴァレンシュタイン。
十歳。
そう……十歳のはずだ。
記憶が混乱していた私は天井をじっと見つめている。
幼馴染で大好きなアルフレッドが、最近、グランディール公爵家で預かっているという女の子の世話を焼くものだから、私は嫉妬でいっぱいだった。
陰でその女の子――リリアーナを虐めるだけでは飽き足らず、私は彼女を湖に落とそうとして……自分が足を滑らせて落ちてしまったのである。
――自業自得。
間違いなく自業自得。
ああ、もう、なんてことをしたんだ。
いくらなんでも、今の季節、湖に落とされたら、最悪、命だって奪われかねない。
「くしゅんっ」
――こうやって、熱を出して寝こんでいたくらいだもの。
湖に落ちるまでの私は、正真正銘ロザリアとして十年生きてきた。
けれど、高熱を出して生死をさまよったせいか、もう一つの記憶がよみがえっていた。
二十七歳。中小企業のＯＬ、日本人だった記憶……。
たしか、名前は……「澪」
厳しい両親に「できて当たり前」と言われ続け、自己肯定感を削られながら育ち、常に周囲に気を配って生きてきた性格。
そしてたぶん……交通事故で亡くなっている。
親友と恋人に裏切られて……。
――まあ、それはいい。
問題はここからだ。
澪の視点で見ると、ここは魔法の存在する異世界で、しかも澪が最後に読んでいた小説そのもの。
名前も環境も、すべてが記憶と一致している。
ページをめくる手が止まらないほどの緊迫感がある小説……「薔薇の記憶は君を選び続ける」という物語だ。
両親を亡くしたヒロインが公爵家に引き取られ、ヒーローと出会うところから始まる、ドロドロの愛憎劇。
ヒロインは、狡猾なヒーローの幼馴染の少女に幾度も意地悪される。
いや、意地悪どころではない。年を重ねるごとに、もはや犯罪まがいの行為にまでエスカレートしていくのだ。
その少女はヒーローが好きなのだが、それにしたってやることがエグい。
いわゆる「悪役令嬢」のポジションで性格が悪いのなんのって。
そして――無理矢理ヒーローに薬を盛って関係を持ち、責任を取らせて結婚までしてしまう。
……その悪役令嬢が私である。
「あーっ！」
ベッドの上で頭を抱える。
ようやく熱も下がって頭はもうそんなに痛まない。
けれど、別の意味でとても頭が痛い。
これまでヒロインであるリリアーナにしてきた数々の意地悪。
女の子たちに裏で手を回し、リリアーナをのけ者にしたり、教科書を隠したり……。
両親を亡くしているリリアーナを、孤児だと罵って笑い……。
子どもの無知さも手伝って残酷なのだろうけれど、それにしてもひどい所業だ。
 「澪」として今までロザリアがしてきたことを振り返ると、もう、いたたまれないことばかりである。
ロザリアの気持ちだってわかる。
ある日、大好きな彼の家に、急に引き取られてきた女の子が住みついて。
それだけでも許せないのに、彼はその子を大切にし始める。
周りも、美少女で性格の良いリリアーナに夢中になっていく。
やがて、アルフレッドにお似合いなのはリリアーナじゃないかと言い出す人まで現れる。
そんなふうになって、ロザリアが焦ってリリアーナに意地悪したって、おかしくはない。
アルフレッドは初恋だし、あれほど周りだって「お似合いだ」と囃し立てていたのだから、自分こそがアルフレッドの特別だと信じていたのだ。
――今さらやってきた女の子に彼を奪われたくない。
そう思って当然だ。
でも。
だからって、公爵様に誘われた別荘で、湖に落とすのはやりすぎでしょう。
「はあ……」
アルフレッドを好きな気持ちはロザリアとして今も残っている。
彼は私の初恋で、全てだった。
でも、この世界が小説の世界なら、間違いなく、アルフレッドと結ばれるのはリリアーナなのだ。
ここは澪が読んでいた小説の世界……根拠はなくとも確信がある。
それに、もう私の感覚は湖に落ちるまでの、ふわふわした砂糖菓子のような十歳のそれじゃない。
二十七年間の人生を生きた人間の知識が加わっているのだ。
落ち着いて、落ち着いて考えよう。
細かく思い出さないと、ロザリアのバッドエンドが待っている。
悪役であるロザリアは読者が納得する悲惨な結末で終わるのだから。
小説『薔薇の記憶は君を選び続ける』は、ヒロインのリリアーナが公爵家に引き取られるところから始まる。
……とりあえず、物語はすでに始まっていて、名前も設定もすべて記憶と一致している。
リリアーナがアルフレッドに世話を焼いてもらっているのも事実。
そして、彼の婚約者ぶった幼馴染の女の子が強烈に意地悪して……その子の名はロザリア。
……う、うん。あってる。
間違いない……。
小説では、リリアーナはずっと意地悪され続け、アルフレッドがその都度助けてくれる。
二人は絆を深め、やがて愛し合う。
けれど十八歳の時、ロザリアが学園の卒業記念パーティーでアルフレッドに薬を盛り、既成事実をつくって責任を取らせる形で強引に結婚してしまうのだ。
引き裂かれたリリアーナは身を引き、彼の幸せだけを祈る。
それなのに、ロザリアは自分を愛さないアルフレッドと狂気の末に心中を図り、二人とも亡くなってしまう。
彼の死を嘆いたリリアーナが命の危機に陥り、そこで?時戻り?を体感する。
祖母である大魔術師から託された魔法アイテム――薔薇の装飾が施された懐中時計《薔薇の記憶》。
それが起こした奇跡だと知ったリリアーナは、時を戻し、運命を変えていく。
これが大まかなストーリーだ。
作中のロザリアは蛇のようにしつこく、アルフレッドを不幸へと導いてしまう。
リリアーナは何度も命の危機に瀕し、そのたびにアイテムを使うことになるのだけれど……このアイテム、使えば使うほど、使った本人の記憶がみんなから消えていってしまうのよね。
最終的にアルフレッドはリリアーナと結ばれる。
けれどその頃には、アルフレッドの記憶からリリアーナは消えていて……それでも彼は、理由もわからないまま彼女を愛し続ける。
――そんな真実の愛に最後は涙する小説だった。
リリアーナはアルフレッドが死なないために奮闘する。
それに対してロザリアは、アルフレッドを自分のものにしたい一心で、無理心中を繰り返す、自分勝手で最低な人だった。
あまりのしつこさに、澪もロザリアに憤りながら、リリアーナを心から応援していた。
アレを……私がするってこと？
薬を使ってアルフレッドを追い詰め、無理矢理結婚して、心が手に入らないとなると、殺して自分も死ぬ？
なんというメンヘラ……。
い、いやいやいやいや……。
冗談じゃない。
リリアーナとアルフレッドを邪魔したって、ロザリアに希望なんてない。
ヤメ、ヤメ！
アルフレッドに執着するあまり、最終的に心が壊れちゃうなんて絶対に嫌！
しかも最終エンドは、ヴァレンシュタイン伯爵家まで巻き込んで没落。
気が狂って海に落ちて魚の餌よ！
絶対嫌！
せっかく澪の記憶がよみがえったのだから、初恋は早々に諦めて、アルフレッドはリリアーナと気持ちよく結ばれてもらうことにしよう！
とりあえず……ええと……この後、どうなるんだっけ。
たしか、湖に落ちたロザリアが「リリアーナが押した！」ってとんでもない言いがかりをつけて、リリアーナを窮地に追い込むんだ。
公爵は怒り狂うロザリアの両親に迫られ、リリアーナを追い出すよう求められる。
けれど、恩師に託された孫娘であるリリアーナを手放すことなんてできない。
それを偶然聞いていたリリアーナが、自分から公爵家を出て行ってしまい、アルフレッドが探し出す――という次のシーンに繋がるのだ。
幼い二人が森で一晩身を寄せ合い……絆を深める。
……あああっ。
あのシーンは尊いとは思うけれど、いろいろと視野が広がってしまった今、私は言いがかりをつけてリリアーナを責めたりはしない。
自分で落ちたというのに、理不尽すぎるもの。
ヒーローと出会うべくして現れたヒロイン。
なにをしたって、リリアーナはアルフレッドと結ばれる運命なのだ。
小説のいちファンとしては応援するしかない。
それに、あんなに大好きで誰にも渡したくないと思っていたアルフレッドだけど、澪の記憶がよみがえった今では、まるでアイドルを眺めるような気持ちになってしまった。
このままロザリアがアルフレッドに執着して暴走し続ければ、公爵家から疎まれ、見捨てられ、ヴァレンシュタイン伯爵家が没落する未来が待っている。
いいことなんて、ひとつもない。
十歳の初恋と、この先の暗い運命。
天秤にかけて、恋心を取るなんてできるわけがない。
……よし。
とりあえず、湖には自分で落ちたと正直に話そう。
そして、主人公たちを陰で見守りながら、静かに暮らすのがいい。
私はそう、胸に誓った。

　　　　　　　　＊＊＊

「ああ、ロザリア！」
「どうして、湖になんて落ちたの？」
熱が引いたと侍女が知らせると、すぐに両親が私のところへやってきた。
体調はもう大丈夫だったけれど、大事を取ってまだ私はベッドの中にいた。
小説通りにするなら、ここで私はリリアーナが押したと両親に告げる。
でも、澪の記憶がある私はもちろんそんなことはしなかった。
「桟橋で湖の中の魚を見ようとして、覗きこんだら落ちてしまったの」
「なんてこと！　心配したのよ！」
「そんなに危険な場所だったなんて……怖かったろう。すぐに公爵様に抗議するからな」
母は私を抱きしめ、父は抗議すると言う。
……この両親、私にとことん甘い。
ちなみに七歳離れた兄がいるのだが、全寮制の学校に行っていて不在である。
大きく生まれた兄とは違い、私は平均より小さく生まれたそうで、なにかと心配する両親が溺愛しているのだ。
少し前まで、この愛情が当たり前だと思っていた。
たとえ百点をとっても鼻で笑うような親に育てられ、卑屈な性格に育った澪からすると、夢のように優しい両親である。
ロザリアがわがままに育ったのはそのせいかもしれないけれど。
「あなたの大好きなアルフレッド様にお見舞いに来ていただきましょうね」
母がそんな提案をして血の気が引いた。
避暑に別荘へ誘った女の子が湖に落ちてしまって、公爵家も後ろめたいだろう。
きっと迫られればアルフレッドはお見舞いには来るに違いない。
でも、本当はリリアーナを落とそうとして自分で落ちただけなのだ。
わざわざ呼びつけるなんてとんでもない。
きっと今までのロザリアなら罪悪感なんてゼロで、この提案を当たり前に受け入れていただろうけれど、もうそんなことはしない。
「明日には学園に通いますから、それには及びません」
私がそう言うと、両親は目を丸くして私を見つめた。
「え」
「ですから、お見舞いは結構です。公爵様にも私が自ら落ちたと……お騒がせして申し訳ないと謝罪を伝えてください」
念を押すと部屋の空気が固まった。
「……頭も打ったのか？」
「ロ、ロザリアがアルフレッド様のお見舞いを断わるなんて……。それに気遣いとか……」
――両親、驚愕である。
これまでがこれまでだったから、無理もないか。
「湖で溺れて、死を覚悟しました。そうしたら、自分がどんなに周りを困らせてきたか気づいたのです。お父様、お母様。今までわがままばかり言ってごめんなさい。ヴァレンシュタイン家の一員として心を入れ替えて立派になります」
それらしい理由をつけると、父と母が顔を見合わせ、その視線はまた私に戻ってくる。
「お前は十分、立派な私たちの娘だよ」
「そうよ……世界一かわいい娘。と、とにかく……明日学園に行くだなんて無理よ！　一週間は家で養生したほうがいいわ」
困惑しながらも両親は私を優しく抱きしめてくれた。
なんといい両親だろう……。
これを機に、私は真っ当に生きようと決心した。

さて。
その日の夜、私は気になることがあって、バルコニーで森のある方角を眺めていた。
そう、小説ならそろそろリリアーナが家出をして、アルフレッドがそれを探す時間だ。
けれど、私は両親に湖には自分で落ちたと言ったし、リリアーナが公爵家から出る理由はない。
では、どうしてバルコニーでそんなことをしているのかというと……。
小説では森に迷い込んだリリアーナとアルフレッドが一夜を過ごすのだが、そこへ普段はいるはずのない魔獣、ダークウルフが現れて襲われるというエピソードがあるのだ。
まだ十歳のアルフレッドが魔法を駆使してダークウルフに立ち向かい、リリアーナを守るという胸アツのシーン。
このことでアルフレッドの魔力が目覚め、潜在能力も爆上がりする。
たとえシナリオが変わっても、小説の流れどおりなら、ダークウルフは現れるはず。
鳴き声くらいは聞こえるかと思ったのだ。
けれど二時間ほど粘って様子を窺っていたが、特に変化はない。
諦めようかと思ったとき……森の方角から「ドン」と音がして閃光が空に走った。
……光魔法だ。
あれがアルフレッドのものならば、話はちゃんと進んでいることになる。
「あふ……。明日、誰かに聞こう……」
重くなった瞼を擦り、私はベッドに潜り込んだ。
私が悪役をしなくなっても……物語は進んでいく。
少しホッとした気分になって、眠りについた。

次の日。
もう完全に元気なのにベッドに押し込まれていた私のところへ、アルフレッドがお見舞いに来てくれた。
「体の調子はどう？」
そう尋ねてくれる彼の銀色の髪は窓から入った光でキラキラと輝いていた。
やっぱり……かっこいいな。
十歳ですでにこの美貌とは恐ろしい。
キラキラと光るその色が時々虹色に見えて……彼の髪が綺麗で……昔から大好きだった。
いつも優しくしてくれたアルフレッド。
しかし、最近のロザリアはリリアーナを邪険にしていたから、あまりいい印象もなかっただろう。
お見舞いだって断ることもできただろうに、きっと湖に落ちた私を心配してくれたのだ。
「もう大丈夫です。わざわざお見舞いに来てくださってありがとうございます」
「あ……いや」
私がそう答えると、アルフレッドが不思議そうに私を見つめた。
以前の私なら「毎日お見舞いに来てくださいまし！」くらいのわがままを言っていたはずだ。
安心してほしい。もうしないから。
それより私は小説の進行具合が気になって仕方がなかったので、質問をぶつけた。
「アルフレッド様。私、昨日の晩に森の方角に閃光を見たんです。まるでアルフレッド様の魔法みたいでした」
「えっ……見えたの？」
やはり、あれは彼が放った魔法だったらしい。
「なにかあったのですか？」
私が無邪気に尋ねると、彼は周囲をキョロキョロと見回してから話し始めた。
「実は、光魔法を使ったんだ」
キラキラした目でそう語るアルフレッドは、普段よりずっと生き生きしていた。
いつもは私の話に合わせて頷いているだけだから、本来はこういう話題のほうが楽しいのだろう。
「まあ、光魔法を!?」
私が大げさに驚いてみせると、彼は照れたように笑った。
――こんな顔、初めて見た。
もっと、自分の話ばかりじゃなくて、アルフレッドが楽しめる話題をすべきだったと反省する。
……まあ、彼にはリリアーナがいるんだから、これからはなるべく近づかないようにするけれど。
この世界には光魔法というものが存在する。
使い手になるには、生まれ持った特性が必要だ。
大体は遺伝によるもので、グランディール公爵家には光魔法の特性を持つ者が多い。
嫁いできた母方も光魔法の名家だったので、アルフレッドはいわばサラブレッドである。
そして、光魔法の大魔術師と呼ばれた祖母を持つリリアーナも、まだ覚醒していないだけで光魔法を受け継いでいる。
これこそ、ヒーローとヒロインの組み合わせだ。
ちなみに、我がヴァレンシュタイン伯爵家には光魔法の特性を持つ者はいない。
「それがね……焚火に入った木の実がはじけて、馬が驚いて森の方へ逃げてしまったんだ。手分けして探していたんだけど、僕が探していたところにダークウルフが出てきて……」
「ダークウルフなんて、恐ろしい！」
「そうなんだよ。この季節の森にいるなんて驚きだった。助けを呼ぼうにも誰もいなくて、焦ったよ。そこで僕がなんとかしないといけないって、馬を守るために光魔法を放ったんだ」
「それが……あの光……。とっても大きな光でした」
「うん。僕もあんなに力が出るなんて思わなかった。駆けつけたお父様もびっくりしてたんだ。……あ、でもこの話は内緒だよ。僕が学園の外で光魔法を使うのはまだ禁止されているから」
「わかりました。でも、すごいですね！」
外で魔法を使うにはライセンスが必要だ。
もちろん、ヒーローであるアルフレッドはこの先、最年少の十五歳でライセンスを取得する天才である。
その後も興奮気味に話し続けるアルフレッドは、すっかり上機嫌だった。
こんなに彼と話したのは初めてである。
「じゃあ、ロザリア、お大事にね。……なんだか、今の君、前とは違う人みたいだ」
「え……」
不穏な言葉に固まる。そんなに態度が変わってしまったのだろうか。
焦っていると、アルフレッドが優しく笑いかけてきた。
「悪い意味じゃないんだ。その……なんだか落ち着いた雰囲気になったっていうか……僕は、今のほうがいいと思う」
はにかむアルフレッドの顔は、国宝級に輝いていた。
以前のわがまま放題の私では、きっともらえなかった笑顔だ。
しかし、違いがわかるなんて……さすがヒーロー。
自分が十歳だということを忘れないように、気をつけて行動しよう。

「なに、お茶会はもういいって!?」
「休日までアルフレッド様の時間を拘束するつもりはありませんから」
私が毎月強制的に誘っていたアルフレッドとのお茶会を、もう必要ないと言うと、父の目玉が外へ飛び出しそうになっていた。
「ロ、ロ、ロザリアちゃん……!?」
母もあんぐりと口を開けている。
学園でアルフレッドを眺めることはできるし、かけようと思えば声だってかけられる。
どのみち、小説ではお茶会でアルフレッドと一緒に来たリリアーナを虐めているのが見つかり、「二度と誘われても行かない」とアルフレッドに宣言される未来なのだ。
そんなまどろっこしいことをしなくても、私はもうアルフレッドをお茶会には誘わないし、リリアーナも虐めない。
あの二人はどうせ結ばれるのだし、放っておけばいい。
「……しかし、もうお誘いしてしまっている。来週のお茶会で、最後にしていいのか？」
父にそう言われて頷く。
「はい、次で最後でいいです」
私が言い切ると、母が心配して尋ねてきた。
「アルフレッド様となにかあったの？」
「いいえ。今までわがままが過ぎたと反省したのです。お父様が毎回無理を言って頼み込んでいたのも知ってしまったの。本当にごめんなさい。そして……ありがとうございます」
私が二人にお礼を言うと、両親は感動して涙を浮かべていた。
実はこのお茶会、父が相当頭を下げて無理にアルフレッドを屋敷に呼んでいたのだ。
アルフレッドからは何度も「勉学に集中したいので」と断られていたのに……。
両親は私が成長したのだと喜んだ。
本当は成長どころか、精神だけ二十七歳分老けてしまったのだが、言えるわけがない。
そうして私は、アルフレッドを最後のお茶会で迎えることになった。

当日、小説どおりにアルフレッドはリリアーナを連れてきていた。
これ、十歳の私のままだったら怒り狂っているところだけど、小説ファンであり、二十七歳の記憶を持つロザリアとしては、生リリアーナが目の前に立っているだけで感動ものだった。
やわらかいミルクティーのような髪に、ファイアオパールのように煌めくオレンジ色の瞳。
可憐なその姿に釘付けになる。
――うわあ……さすがヒロイン、なんてかわいいの。
「あの……すみません……あの時、私が近くにいたのに、助けることができなくて」
どうやらリリアーナは、隣で湖に落っこちた私を本気で心配して謝罪に来たらしい。
優しくて……まっすぐで……声までかわいい！
私だったら日頃意地悪してくる女の子が湖に落ちても「いい気味」としか思わないもの。
アルフレッドを見ると、彼は私を少し警戒しているようだった。
そりゃ、いつも嫌味しか言わないものね。
「気にしないで。足を滑らせた私が悪いのだから。それより、あなたが来ると知らなかったから席を用意していなかったの。お待ちになってね」
「え、いえ、あの、私、お見舞いを渡したらすぐ帰るつもりで……」
「いいの、いいの」
ためらうリリアーナを引き留める。
ちょうどいい、敵意が無くなったことをそれとなくアピールしておこう。
ついでに、小説の世界がどこまで進んでいるのかも確認したい。
侍女に頼んでリリアーナの席とティーセットを追加で用意してもらった。
アルフレッドが彼女の座る椅子をさりげなく確認してから座らせる。
……すぐに改心するなんて思わないよね。
それからは三人でたわいのない話をした。
光魔法の話題になると、二人は夢中になって話し込む。
やはり気が合うようようだ。
小説の終盤、アルフレッドを守りたいと強く願ったリリアーナが覚醒して魔法を使えるようになるんだよね。
光の魔力を持つ者同士……やはり運命のカップルである。
そんなふうに二人を見ていると、リリアーナがハッとしたように口をつぐんだ。
それに気づいたアルフレッドが、慌てて話題を探す。
「ロザリア、興味のない話をしてごめん。ええと……」
「いいんです、お二人のお話が楽しくて聞いていただけですから。さ、光の大魔術師についてお話しください。リリアーナ様のお祖母様なのですよね？」
「えっ……ええ。もうすでに亡くなっているんですけれど」
「すごいよね。彼女は様々な研究に、魔道具なんかも作ったんだって。父の恩師だったんだ」
興奮して話すアルフレッドと私の顔色を窺いながら頷くリリアーナ。
彼女は私にもわかるように、アルフレッドの話の合間に説明を挟んでくれた。
こういう気遣いも忘れないヒロイン……。
こんないい子をよくあんなに虐められたものだ。
そう、両親を亡くしたリリアーナを十歳まで育てた祖母は光の大魔術師で、彼女が作った魔道具が
《薔薇の記憶》である。
作中、リリアーナはそれを懐中時計として受け継いでいる。
時を戻し、運命を変える大切なアイテムだ。
「魔道具なんてロマンがありますね」
考えながら適当に返事をすると、リリアーナが照れたように微笑んだ。
丸テーブルの向かい側に座る二人の仲は、とても良好に見える。
……正直、ロザリアはアルフレッドのことをとても好きだったから、もっと二人がこうしていることに嫌悪感が湧くと思っていた。
けれど、自分が小説の中にいるという妙な納得と、ヒロインとヒーローを応援していた澪の記憶が合わさって、むしろ二人を見守りたい気すらする。
十歳の恋愛に、二十七歳の感覚が入り込めるはずもない。
それに、このまま二人の邪魔をしなければ裕福な伯爵家で、ちょっと過保護な両親と幸せに暮らせそうだもの。
そういえば、二人が森で一夜を共にするというイベントはどうなったのだろう。
ん？
そもそもリリアーナは家出をしてアルフレッドに迎えに来てもらっていたのだろうか。
「アルフレッド様が森で光魔法を使ってダークウルフを蹴散らした時、リリアーナ様もいたのですか？」
唐突すぎたのか、アルフレッドがぽかんとした。
でも、知りたかったのだから仕方ない。
「ロザリア……それは内緒だって言ったじゃないか」
渋い顔をするアルフレッドに、私のほうが驚いてしまった。
ヒロインとは通じ合っていると思うじゃない。
「ご、ごめんなさい。てっきり……」
「どうして、リリアーナが夜の森にいると思ったの？　確かに僕が光魔法でダークウルフを蹴散らしたけれど、仕留めたのはうちの護衛騎士だよ」
「……あ。そうなのですか。光魔法のお話に詳しいので、リリアーナ様もアルフレッド様の光魔法を見たのかと思ってしまって」
あはは、と、どうにかごまかす。
私が言いがかりをつけなかったのだから当然だけど、リリアーナは家出していなかったのか。
「私はアルフレッドがみんなと馬を探しに行くのを、屋敷でハラハラして待っていました。……そんなことがあったの？」
「う……」
そこからアルフレッドが光魔法を使った話をもう一度してくれ、和やかな雰囲気に戻った。
学園外で光魔法を使ったことは、私たち三人の秘密となる。
お茶会も終わり、アルフレッドが帰りの馬車の手配をしようと席を外した間に、私はリリアーナに謝った。
「あの……これまで意地悪してごめんなさい。今日はお見舞いに来てくれてありがとう。アルフレッド様と仲のいいあなたが羨ましかったの。でも、これからは仲良くしてもらえると嬉しい」
こんな謝罪ひとつで許してもらえるとは思えず、頭を下げた。
しかし、清らかで優しい彼女はにっこりと笑った。
「頭をお上げください。急に公爵家に来て、アルフレッドにお世話を焼かせてしまっていたのですから、不快に思われても仕方なかったんです。……あの、それより本当に仲良くしてもらえますか？」
恐る恐る問いかけるリリアーナに、私は右手を差し出した。
「もちろんです。よろしくお願いします」
「……よろしくお願いします」
そうしてはにかむリリアーナと握手を交わした。
かわいい。
やっぱりヒロイン、かわいい。
もう絶対に虐めたりしないと誓う。
穏やかな気持ちで二人を見送り、それから私はアルフレッドに執着しなくなった。

そうして私が意地悪しなくなると、リリアーナと仲良くなることができた。
学校で話すことも増え、宿題を助け合うこともあった。（彼女はアルフレッドに次ぐ秀才でとても頭がいい）
ついには週末になると、二人で街へ出かけて買い物をしたり、お菓子作りをしたりする仲にまでなった。
「こっちが私で、こっちがロザリアが作ったの」
「……リリアーナのクッキーは真っ黒だけど？」
クッキーを作れば、二人でアルフレッドに渡した。
この頃には、私たちは常に三人でいることが多く、敬称なしで互いを呼び合うほど仲良くなっていた。
リリアーナは少し不器用で、なにか作ればよく失敗していたけれど、アルフレッドは笑って受け止めていたし、私もヒロインはこれくらい抜けているほうがかわいいと思っていた。
「あのね……私もアルフレッドが好きなの」
リリアーナがそう打ち明けてくれたのは、十三歳の時だった。
とっくに知っていたけれど、私が十歳までアルフレッドを好きだと公言していたから、言いづらかったのだろう。
「うん……気づいてたよ」
「隠しているのはよくないと思って」
「そう……。私、アルフレッドのことは好きだけど、昔みたいな?好き?ではないの。人としては尊敬しているけど、結婚したいとは思わない。私、リリアーナとアルフレッドはお似合いだと思う」
「えっ!?」
「私がアルフレッドのことでリリアーナに嫉妬してると感じたこと、ある？」
「……それは……ない……かも」
「三人でいると楽しいし、二人が結婚したら嬉しい。アルフレッドはリリアーナのことが好きだと思う。私に二人を応援させてくれる？」
「……いいの？」
「もちろんよ」
「ありがとう、私、ロザリアが大好き」
わだかまりが解けて弾けるように、リリアーナが笑った。
「もちろん、私も！」
正直で、優しくて、思いやりがあって……。
そんな彼女に勝てるわけがない。
ヒロインはヒーローと結ばれるもの。
大好きだった小説のヒロイン。
それを近くで見られるなんて、役得でしかない。

十五歳の冬、私たちは順調に仲良くしていた。
リリアーナは、アルフレッドが光魔法のライセンスを取ったお祝いにマフラーを編むと言い出した。
「グリーンの毛糸にしたの。手触りも最高で、アルフレッドの瞳の色よ」
セーターほど複雑ではないし、なんとか編めるだろうと思って見守っていたけれど、リリアーナは私が思っていた以上に不器用だった。
「リリアーナ、ここの目が飛んでるし、ここは裏編みになってる。解いてやり直そう」
「せっかく……ここまで編んだのに……」
「そうだけど、このままじゃ恥ずかしくてあげられないよ」
涙目のリリアーナはかわいそうだけれど、へんてこなマフラーになったら、いくら愛があってもアルフレッドも使いにくいだろう。
「こんなに解いたら、冬が終わるまでに編み終われない」
「……じゃあ、解いたところまで私が編んであげる。それならいいでしょう？」
「うう……ありがとう、ロザリア」
リリアーナが数センチ編んで、私がチェック。
ひどい編み目を修正するために解いて、また私が元の場所まで編む――それを繰り返した。
出来上がったマフラーはまずまずの出来だったけれど、リリアーナは唇を噛んでいた。
「ほとんどロザリアが編んだようなものだよ」
「毛糸はリリアーナが選んだんだし、私は直しただけだよ。一人で作ったって言って渡せばいいじゃない」
「そんなの、ずるだもの！」
正直者の彼女はそう言って、ラッピング（これも私）したマフラーを渡すときに、私の同行を求めた。
「アルフレッド、プレゼントなの。その……二人からよ！」
そしてアルフレッドに、マフラーは合作だと伝えた。
私はリリアーナのこういうところが大好きで……敵わないと思う。
「ありがとう、二人とも。嬉しいよ。開けていい？」
アルフレッドは優しく微笑んで包装紙を開けた。
中から出てきたグリーンのマフラーを眺めると、すぐに首に巻いてくれる。
それは思っていた以上に似合っていて、リリアーナの色のセンスに感心した。
「グリーンの毛糸はリリアーナが厳選して、毎日、一生懸命編んだのよ」
私がそう言うと、アルフレッドはマフラーに頬ずりをした。
そんなふうにされると、なんだか私まで赤面してしまう。
「とても気に入ったよ。ありがとう」
後日、アルフレッドは私にも、リリアーナとお揃いのスノードームをお返しに贈ってくれた。
手伝っただけなので気が引けたけれど……本当は彼からのプレゼントが嬉しかった。
きっと、リリアーナに意地悪していたら貰えなかったものだ。
「リリアーナが材料をそろえたマフラーだったのに、私までお返しを貰ってしまって悪いわね」
私がそう言うと、リリアーナが口を尖らせた。
「でも、ほとんどロザリアが編んだマフラーでしょ」
顔を見合わせて笑う。
貰ったスノードームを二人で日にかざして、キラキラする様子を眺めた。
アルフレッドと仲のいいリリアーナを見ると、時々チクリと胸は痛んだけれど、私は二人を見守ることに決めていた。
妬んで虐めるなんて、人生の無駄でしかない。
そう思えるほどに、リリアーナは素敵な女の子で、私の親友だった。
しかし、私がリリアーナを虐めなくなると、不思議と別の女生徒が彼女を虐め始めた。
私とアルフレッドは、リリアーナを守る形で学園生活を送った。
公爵家の居候で親のいない彼女は、どうしても周囲から軽んじられがちだ。
私は伯爵家の令嬢にすぎないが、ヴァレンシュタイン家は資産規模なら公爵家にも引けを取らない。
学園内で確かな影響力を持っている。
私が側にいる時は、リリアーナに手出しなんてさせない。
それに、私には小説の記憶がある。
起こり得る虐めは、事前に回避できた。

そうして、二人と親睦を深めて七年。十七歳の時、事件が起きた。
この事件は、本来なら小説のロザリアが荒くれ者たちを使ってリリアーナを危険にさらすという、最低最悪のエピソードだった。
これまでロザリアが行ってきた嫌がらせは、私が改心したことで別の誰かが代わりに行うようになっていた。
だから、リリアーナは小説どおりに狙われてしまうかもしれない。
私は事前に警告しようと思っていた。
が、しかし。アルフレッドが助けに入ることも知っている。
この七年、ずっと二人を見守ってきたけれど、小説のように燃え上がるような恋情が芽生えているようには見えなかった。
好き同士なのだろうけれど、まだ兄妹のような距離感なのだ。
私が先回りして危険を潰してきたせいで、アルフレッドがリリアーナを助ける?イベント?が減ってしまい、盛り上がりに欠けているのかもしれない。
この事件は、本来なら二人の距離を一気に縮める出来事。
いつものように私が阻止していいのだろうか……。
悩んだ末に、今回は見守ることにした。
「じゃあ、今日はここで。ロザリア、また明日！」
「うん」
明るく手を振るリリアーナは頼んでいた本を図書館に取りに行った。
そこで連れ去られることを知っている私は、本当ならついていきたいところだけど、あえて用事があると彼女から離れた。
アルフレッドはヒーローだから、絶対にリリアーナのピンチに駆けつけるはず。
小説でも、リリアーナは危害を加えられる前に助けられている。
……わかっていてもハラハラする。
心配して彼女の後をつけていると、案の定、角を曲がったところでリリアーナが連れ去られてしまった。
「きゃあっ！」
悲鳴に飛び出しそうになるのを必死でこらえる。
このあと、街の酒場の倉庫に連れて行かれるはず。
でも、連れ去られたリリアーナを目撃したアルフレッドが光魔法で追跡して……。
「ん……？　あれ？　アルフレッドは？」
キョロキョロと辺りを見回しても、アルフレッドの姿はない。
もしかして……来ないなんてこと、ないよね？
でも、あれ？
そもそもアルフレッドがリリアーナの連れ去りを目撃したのは、小説のロザリアがひどい嫌がらせをしていて、彼が警戒していたからで――。
今の私たちは……。
……な、なんてこと！
これじゃあ、アルフレッドが来ないかもしれない！
「す、すみません！　この先で女の子が襲われています！　騎士団を呼んでください！　早く！　酒場の倉庫です！」
私は近くの人にそう叫びながら酒場の倉庫へ走った。
どうしよう……。
どうしよう！
リリアーナの無邪気な笑顔が浮かぶ。
アルフレッドとのイベントより、リリアーナのほうが何倍も大切なのに！
倉庫の前に行くと、中からドタドタと音がし、かすかにリリアーナの声が聞こえた。
扉を開けようとしたが、カギがかけられているのか開かない。
少し離れたところに斧が見えた。
私はそれを両手で握りしめ、ドアに向かって振り抜いた。
ガンッ！
板に斧が突き刺さる。
重くて引き抜けない。
足をかけて、力をかけると、斧を持って尻もちをついてしまった。
リリアーナ！
リリアーナ……！
彼女になにかあったら……どうしよう！
もう一度立ち上がり、重い斧を振りかざす。
今度はドアノブの近くを狙って――。
ズドンッ！
「ハア、ハア、ハア……」
ゆっくりとドアが開くと、中でリリアーナが男に押さえつけられ、必死に抵抗していた。
「誰かーっ！　助けてー！」
中には三人の男がいて、残りの二人が大声で叫ぶ私の姿に驚いていた。
「な、なんだ、こいつ！」
「だ、黙れっ！　くそっ、なんなんだ！」
男たちが私を捕まえようと向かってくるので、私は必死に逃げ回った。
その間も、喉が嗄れそうなほど叫び続ける。
「助けてーっ！」
しかし、二手に分かれた男たちが私を挟むように囲んだ。
「お嬢ちゃん、観念して静かにしな」
追い詰められ、身動きが取れない。
リリアーナのほうを見ると、彼女はまだ押さえつけられたままだった。
「そっちの女を縛り上げろ！」
命令が飛び、男たちが私に手を伸ばした――その時。
――ズバアアアアアーン！
風を裂くような勢いで、なにかが私と男の間を駆け抜けた。
「え……」
「ロザリア！　リリアーナ！　目を瞑れ！」
アルフレッドの声だった。
私は反射的にぎゅっと目を閉じる。
直後、空気を震わせるような衝撃音と、男たちの悲鳴が響いた。
光が弾ける気配がして、倉庫の空気が一瞬で変わる。
――アルフレッドが来てくれたんだ。
遅いよ……もう……。
どれだけ怖かったと思って……。
恐る恐る目を開けると、アルフレッドが男たちを完全に制圧していた。
圧倒的な力の差に、誰も抵抗できなかったようだ。
「ロ、ロザリアーッ！」
リリアーナが私のところへ駆け寄ってきた。
「リリアーナ！　大丈夫!?　連れ去られたのが見えて、私、私……！」
二人で抱きしめ合う。
リリアーナのドレスの肩が破れているのに気づき、私は自分の上着を脱いでそっと彼女にかけた。
小説では、すぐにアルフレッドが助けに来て、彼女は傷ひとつ負わなかったのに。
ごめんなさい……。
私がもっと注意していれば――そう思うと、涙がこぼれた。
リリアーナにボタンを留めてあげようとすると、指先がヌルヌルしてなかなかはめられなかった。
あれ……どうしたんだろう……。
「ロザリア！　あなた……手が……」
「え？」
リリアーナに指摘されて、自分の手が血で濡れていることに気づいた。
必死で斧を振り回したせいで、擦れた手のひらにできたマメが潰れていたらしい。
興奮して痛みを感じていなかったけれど、意識した途端、じんじんと痛みが広がった。
「痛い……」
「そんなになっていたら、痛いに決まってるじゃない！」
リリアーナが泣きながら私の手にハンカチを巻いてくれる。
「二人とも、大丈夫か！」
アルフレッドが駆け寄ってきた。
騎士団も到着し、男たちは連れていかれたようだ。
「助けに来てくれてありがとう……」
私はズビズビ泣きながらアルフレッドに礼を言った。
少し遅かったとは思うけれど、物語の道筋を変えてしまったのは私だ。
とにかく、リリアーナが無事でよかった。
「アルフレッド、ロザリアが私を助けるためにケガをしてしまったの。彼女の手当てをしてあげて」
ケガは痛いけれど、所詮は血豆だ。
襲われたリリアーナの精神的ショックのほうが心配なのに、彼女は私を優先しようとする。
「私はいいから、リリアーナを介抱してあげて」
ヒーローはヒロインを助けるもの。
そう思ってアルフレッドに訴えたのに、彼は私を抱き上げてしまった。
「ちょっ……！」
リリアーナを見ると、彼女は私に手を振ってから騎士団の人に話をしに行ってしまった。
ここで抱き上げられるのはリリアーナのはずなのに。
下ろしてもらおうと身をよじると、アルフレッドはさらに強く私を抱き寄せた。
「無茶をして」
聞いたことのない低い声。
相当怒っている……そう思った瞬間、体がこわばった。
「あの……」




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    <dc:creator>ガブリエラブックス</dc:creator>
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    <title>【5月29日発売】入れ替わり公爵令嬢は理想の夫を育成中　引きこもり令息の愛が重すぎます!?【本体1300円+税】</title>
    <description></description>
<content:encoded><![CDATA[
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●著：まつりか
●イラスト：御子柴リョウ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543884
●発売日:2026/5/29</div>

<p><span class="f130 black">公爵令嬢の強火ファンの引きこもり令息を理想の婚約者にプロデュースします！<br /></span>

公爵令嬢アリシアは二度の婚約破棄を受け、自分を裏切らない相手が欲しいと願っていた。ある日、魔道具のせいでとある侯爵令嬢と入れ替わってしまい、そこで彼女の兄の引きこもり令息ロベルトと出会う。彼の部屋はアリシアのグッズで溢れていた。
「なんて美しいんだろう、僕の女神」
彼が自分の熱狂的なファンと知ったアリシアはその一途さを見込み、彼を理想の婚約者に育てることを決意して!?

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プロローグ



人は驚きすぎると、本当に声が出なくなるらしい。
「ああ、アリシア様。僕は貴女の下僕です。その艶やかな御髪に意志の強い眼差し、完璧な顎のラインから指先の美しさ、なんて魅力的なんだろう……」
目の前には、私の名前を呼びながら石像に語りかける青年の姿。
肩にかかる黒い髪を払おうとしている格好の石像は、吊り上がった瞳と気位の高そうな表情から、すぐに自分を模しているものだとわかった。
「ドレスの上からでもわかるこの腰のくびれ、そして本来見えてはいけない足首……なんて背徳的なんだ……」
石像に縋りつきながら頬ずりをはじめる青年を前に、ひくりと頬が引き攣る。
――逃げよう。
そう心の内で決意するのに、足が動かない。
今動いたら『私』が『アリシア』であることを認めることになってしまうのではないかという恐怖から、ほんの一歩が踏み出せなかった。
今の私は『アリシア』の姿ではなく、彼の妹の『シャーロット』としてここに立っている。
自分を模した石像に並々ならぬ愛着をみせる青年の姿に、私がアリシア本人であることを知られたらどうなるだろうか。
そんな仮定を想像するだけで、ぞぞぞっと肌が粟立った。
そもそも、一体どうしてこんな状況に陥ってしまったのか。
その原因は、今から約二週間前に遡る。

　　　　　　　　　　　　　　＊・＊・＊

「婚約撤回、ですか」
告げられた事実を復唱すれば、向かいに座る父は深い溜め息を吐いた。
普段から滅多に関わりのない父の書斎に呼ばれた時点で、ある程度の嫌な予感はしていた。
「ああ、先方から正式に申し入れがあった」
「まさか――」
父の発言に、さあっと血の気が引く。
婚約が成立したのは、つい一か月前の話だ。
二週間程前に対面した相手――ガルナスの国の公子とは、双方合意の上で正式な政略結婚に向けての打ち合わせを行った。
状況を理解し淡々と受け入れているようだった相手が、突然手のひらを返してくるだなんて俄かには信じがたい。
「……何かの間違いではないでしょうか。お会いしたのは一度きりですが、公子もこの婚約は両国の友好を深めるための政略的なものだと理解されていたはずです。何か誤解か行き違いが――」
「お前が会いに行った翌日、ガルナスの公子は兼ねてからの恋人と姿を消したらしい」
耳を疑うような発言に、言葉を失う。
そんな私を見て、父は呆れたようにその肩を竦めた。
「所謂、駆け落ちというやつだ。聞いた話によれば、一度は国のためにと別れたそうだが、お前が来たことで二人の仲が再び燃え上がったらしい」
「はい？」
引き攣りそうになる頬をなんとか押さえて、笑顔を保つ。
理解しがたい相手の行動に、膝の上に置いていた手をぎゅっと握りしめた。
「……国を背負うべき公子の行動とは思えません。他国への懸け橋となる政略結婚を蹴り、すべての責任を放棄して己の気持ちを優先するだなんて、あまりに利己的で自己中心的な――」
「お前のそういうところは誰に似たんだろうな」
私の言葉を遮った父の声に、ぴくりと身体が強張った。
そんな私の様子に気付いているのかいないのか、父は小さく息を吐く。
「一度ならず二度までも婚約破棄を受けたのだ。周囲は当然、お前に原因があると想像するだろう」
その言葉に、ぐっと唇を噛んだ。
父の言う通り、私が婚約破棄を受けるのは、これで二回目だった。
我が国アレンスタ王国の王家には、ここ二十年近く王女がいない。
そんな中、約十年前に長年国交を望んでいた東の大国からの政略結婚の申し出が舞い込んできた。
政略結婚は、外交を進める上で最も簡単で強い効力を生む手段だ。
アレンスタとしては是が非でも受けたいものであり、そこで白羽の矢が立ったのが、現国王の弟にあたる父――グレイブス公爵の娘である私だった。
国内では最高位貴族にあたる筆頭公爵家であり、王家の血を引く娘ならばと先方も同意し、私の知らないところで婚約は締結された。
私は八歳、相手の第五王子は十歳のときのできごとだった。
他国に嫁ぐことが決まった瞬間から、私は政略結婚の駒となった。
アレンスタ王国を代表する貴族令嬢として恥ずかしくないようにと徹底的に礼節マナーを叩きこまれ、すべての時間を淑女教育に費やし、他国に嫁ぐ日のために邁進する日々を続けて九年、十七歳の誕生日を迎える直前に事態は急変する。
東の大国からの使者が、政略結婚の辞退を申し入れてきたのだ。
一方的な婚約破棄にもかかわらず、国交の維持と莫大な違約金の支払いの提案を前に、我が国は二つ返事で承諾したという。
後から聞いた話では、婚約破棄の理由は、運命の人と出会い真実の愛を見つけたという第五王子が「政治の道具にはならない」と強く反発したかららしかった。
――まったく馬鹿らしい。
忌々しい記憶に心の中で舌打ちをする。
そもそも王族に生まれた時点で、己の惚れた腫れたで結婚相手を選ぼうという考えが傲慢なのだ。
第五王子という序列がそうさせたのかもしれないが、会ったこともない相手から一方的に婚約破棄をされた側としてはたまったものではない。
私は婚約破棄というレッテルを貼られることとなったが、九年の婚約期間は東の大国との国交と賠償金を生んだ。
大きな国益を齎した政略結婚の駒を、遊ばせておくつもりはなかったのだろう。
東の大国から婚約破棄をされた一年後、父たちは新たな嫁ぎ先を見つけてきた。
それが先ほど、婚約撤回を申し入れてきたガルナス公国だった。
――まさか二度も婚約破棄されることになるなんて。
胸中で溜め息を吐いても、事実は覆らない。
アレンスタ王国において、婚約破棄は双方の肩書に傷を付ける行為だ。
一度目の婚約破棄によって『会ったこともない相手から婚約破棄をされるほどの悪女』という噂が社交界に広がっている私にとって、二度目の婚約破棄がどう影響するかは火を見るより明らかだった。
――どう考えても『悪女』のレッテルからは逃れられそうにないわね。
火のない所に煙は立たないとはいうものの、無理やり噂を仕立てあげて相手を貶めるのが貴族のやり方だ。
近々、新たな噂が広がることは想像に難くない。
「まあ今回も先方からの一方的な婚約破棄のため、相応の賠償は請求できるだろう。外交としては有益だった」
「恐縮です」
目礼を返した私に、父は口元を押さえる。
「ただ二度婚約破棄となったお前は、今後、政略結婚どころか通常の縁談も難しくなるだろうな」
その発言に、ぴくりと頬が引き攣りそうになった。
「グレイブス公爵家の人間として相手にもそれなりの家格を求めたいところではあるが、贅沢は言っていられないな。下位貴族から見繕うよりも、どこかの後妻として入ったほうが生活の保障はされるかもしれん」
まるで厄介ごとを前にしたような父の口調に、笑顔を張り付けながらも腹の底からはふつふつと怒りが湧いてくる。
そもそも二度の政略結婚について、私に一切の選択肢はなかった。
一度目の婚約については先方からの打診だったかもしれないが、少なくとも二度目の婚約については父たちが選んだ相手だ。
貴族の娘として生まれた以上、婚姻に私情を挟むつもりはない。
しかし、二度の婚約破棄を招いた父の判断を信頼しろというほうが難しかった。
――これ以上、お父様に任せておけないわ。
ぐっと拳を握ると、向かいに座る相手ににこやかに微笑みかける。
「お父様、一つ提案をよろしいでしょうか」
私の発言に、父は視線だけをこちらに向けた。
「この度は不甲斐ない結果となり、力及ばず誠に申し訳ございません」
深々と頭を下げる私に、父は鷹揚に頷く。
「外交的には成果が上がっている。お前が自分自身を責める必要はない」
「寛大なお言葉をありがとうございます」
父は昔から、何より国益を重んじてきた、典型的な王家の人間だ。
今の言葉も慰めなどではなく、ただ単に私の功績が評価に値すると口にしているにすぎない。
王弟として国の補佐については全幅の信頼を置かれている父だが、父親としては全くの欠陥品だった。
「ただ、このようなことになってしまった以上、これより先も私のことでお父様のお手を煩わせてしまうことは本意ではございません。自分の責任は、自分で取らせていただきたく存じます」
「責任を取るとは？」
眉根を寄せた父を前に、すっと姿勢を正して相手を見据える。
「次の縁談相手、私が見繕ってもよろしいでしょうか」
私の提案に、父は訝しげに眉を顰めた。
「……それは、お前の元婚約者たちのように、愛する相手を見つけたいと？」
「まさか。そんな夢見がちなことは一切考えておりません。私は自身の責任において、グレイブス公爵家の者が嫁いでも遜色なく、今後二度と不名誉な婚約破棄を受けるようなことのない相手を探し出すことを、己の償いとさせていただきたいのです」
「お前が償う必要は――」
「いいえ、私の責任は私にしか負えませんから」
優美に見えるようおっとりと語り掛けながら微笑めば、父は口を噤む。
「公爵家の迷惑になるようなことは決してしないと誓います。他国に嫁ぐことがなくなった今、アレンスタ王国を支える一貴族として、今一度務めを果たしたいのです」
「ふむ」
熟考しているような様子に見えるものの、この提案に父の不利益はない。
何よりも国益を大切にしている父にとって、私の縁談という些末な問題に割く時間が減るのであれば、願ったり叶ったりだろう。
そんな私の心の声が聞こえたのかはわからないが、父は小さく頷いた。
「承知した」
その言葉に、パッと顔を上げる。
「次の縁談相手の候補はお前が見繕うといい。ただし期限を設けよう」
予想外の期限付きという発言に目を瞠れば、父はゆっくりとこちらに向き直った。
「半年だ。半年以内に相手が見つからなければ、こちらも縁談探しを始めることとする」
半年後といえば、私の十九歳の誕生日が控えている。
父が覚えているかは定かではないが、貴族令嬢の結婚は十八歳が一般的であり、十九歳を越えれば行き遅れと呼ばれる年齢になってしまう。
――それまでには確実に見つけておきたいわね。
妥当な期限を提案してきた父に満面の笑みを向けると、静かに頷き返した。
「もちろんです。ご承諾ありがとうございます」
感謝の言葉と共に席を立つと、丁寧に礼をとる。
「半年の間に必ずお相手を見つけ、お父様に紹介いたしますわ」
「ああ」
父の短い返答を確認して、書斎を後にした。
廊下に出た瞬間、緊張を吐き出すように深く息を吐く。
「お嬢様、すぐに部屋に戻られますか？」
唐突にかけられた声に視線を向ければ、馴染の専属侍女が心配そうにこちらを見つめていた。
「……大丈夫よ、シーラ。部屋に温かい飲み物を用意してちょうだい」
「承知いたしました」
ぱっと表情を明るくして給仕の準備に向かった彼女を見送ると、自室へと向かいはじめる。
廊下を進んでいれば、ふと窓硝子に自分の姿が映った。
毛先に向けて波打つ長い黒髪に、紫色の吊り上がった瞳。
父親との血の繋がりをひしひしと感じる自分の表情の硬さに、先ほどの父の声が脳裏を過ぎる。
『お前のそういうところは誰に似たんだろうな』
――もちろん貴方に決まっているでしょう。
胸中で悪態を突きながら、眉根を寄せた。
使用人たちに聞いた話によれば、幼い頃に亡くなった母は、朗らかで笑顔の多い女性だったらしい。
そんな母に似ればよかったのだろうが、残念ながら父の血を濃く受け継いでしまった私は、笑ったつもりでも怯えられることのほうが多かった。
「……今更だわ」
ぽつりと声を漏らすと、硝子の向こうの青空を見やる。
自分で縁談相手を探すからといって、『運命の相手』だの『真実の愛』を求めるつもりはない。
公爵家から嫁ぐに遜色なく、婚約破棄だの撤回だのと、こちらを裏切らない相手ならそれでいいのだ。
「まあ、それが一番難しいのだけれど」
そう口にしながら小さく肩を竦める。
難しいとわかっていても、自分でやらなければまた同じ轍を踏みかねない。
「私は絶対、自分を裏切らない結婚相手を見つけてやるわよ」
そう呟くと、ぐっと拳を握り締め、自室へと続く廊下を勢いよく進むのだった。



第一章　事件発生



「はぁ……」
自室の長椅子に腰かけ、何度目かわからない溜め息を零しながら天井を見上げる。
大きな硝子窓の向こうに見える晴天とは打って変わって、部屋の中にはどんよりとした空気が淀んでいた。
――惨敗だわ。
両手で顔を覆いながら、ずるずると長椅子に身体を横たえる。
父と話をつけてから約一週間。
これまで積極的に参加していなかった夜会や舞踏会に顔を出してみたものの、そこで目の当たりにしたのは、好奇の眼差しと悪意ある噂だった。
『……あら、あそこにいらっしゃるのはアリシア様ではなくて？』
『婚約者に二度も逃げられたのでしょう？　公爵令嬢という立場をもってしても裸足で逃げ出したくなるほどの悪女だとか』
今思い出しても腸が煮えくり返りそうな囁き声に、ぐっと唇を噛みしめる。
動揺していることに気付かれたくなくて、その場では平気なふりをしてしまったが、やはり一言言ってやったほうがよかったのではと自問自答をしてしまう。
そもそも貴族は体面を気にする性質だ。
二度も婚約破棄を受けているというだけでも腫れものなのに、その上『悪女』だと噂されているようではまともな相手は近寄ってこないだろう。
――見積もりが甘かったかしら。
自分の浅はかさに深い溜め息を吐く。
多少傷があろうとも、グレイブス公爵家の後ろ盾があれば多少の縁は見つかるかと思っていた。
しかし、世の中はそう甘くなかったらしい。
政略結婚の駒として他国へ嫁ぐことが決まっていたため、これまで国内での交友関係を重視してこなかった。
それがこんな結果を招くとは――。
先日目の当たりにした謂れのない誹謗中傷を思い出して、小さく肩を落とす。
父との約束は、半年以内に相手が見つけること。
それができなければ、間違いなく父の決めた相手に嫁がされてしまう。
二回の婚約破棄をもたらした父の持ってくる縁談が、まともなものだとは到底思えなかった。
「……どこかに落ちていないかしら、都合のいい結婚相手」
疲れているのか、ありえないような願望が声になって零れる。
ゆっくりと上体を起こして背もたれに身を預けると、天井を見上げた。
「私を裏切らなければ、誰だっていいのだけれど」
投げやりな呟きが零れると同時に、扉を叩く音が耳に届く。
返事をすれば、扉が開くと共にシーラが息を切らしながらこちらに駆け寄ってきた。
「シーラ、邸の中は走るものではないと――」
「たたた大変です、お嬢様！」
少々お転婆ながらも普段は落ち着いた振る舞いをする彼女の動揺ぶりに、眉根を寄せる。
「何があったの？」
「それが――」
言葉を切ったシーラは、呼吸を整えるとゆっくりと口を開いた。
「……つい今し方、先触れがありまして。現在、第二王子殿下が公爵邸に向かわれているそうです」
「セドリックが？」
第二王子であるセドリックは同い年ということもあり、幼い頃から交流のある幼馴染だ。
確かに突然の訪問は困ったものではあるが、セドリックの訪問はこれまでも稀にあったし、シーラがこれほど動揺することではなかった。
「セドリックの訪問に、何か問題でもあるの？」
私の問いかけに、彼女はぐっと眉根を寄せる。
「その、セドリック殿下お一人だけではなく、婚約者となる方も同行されているそうでして……」
「婚約者？」
心当たりのない相手に首を傾げる。
先日の夜会でも、今年十九歳となる第二王子に婚約者がいないことが話題になっていたほどだった。
「フォートナー侯爵家のシャーロット様だそうです。正式な発表の前に、アリシア様にご挨拶をされたいと、お二人一緒にこちらに向かわれているそうです」
「私に？」
困惑に目を瞬く。
いくらグレイブス公爵家が王家の親戚とはいえ、従姉妹である私に事前に挨拶をする必要があるだろうか。
それに、先触れがあったとはいえ事前の約束もなく当日に訪問することは、本来なら礼を欠いた行動だ。
少々癖の強い性格ながらも礼儀は弁えているはずのセドリックが、その日に思い立ったような行動をするとは考えにくい。
ということは、つまり――。
「シャーロット様たってのご希望ということかしらね」
ぽつりと声に出してみれば、面倒ごとの予感に溜め息が漏れる。
セドリックの婚約者だという『シャーロット・フォートナー』とは、ほとんど面識はない。
フォートナー侯爵家に娘がいることくらいは把握していたが、これまでお茶会や夜会で軽く挨拶を交わした程度の関わりしかないはずだ。
そんな彼女が、敢えて私に婚約の挨拶をしたいというのだから、それがどういうつもりかくらい容易に想像がつく。
長椅子の背に身体を預けて、ゆっくりと息を吐くと天井を見上げた。
――牽制、もしくは勝利宣言かしら。
第二王子と同い年の幼馴染である私は、身分的に釣り合いが取れることもあり、過去には彼の婚約者候補として名前が挙がることもあった。
政略結婚の話が出はじめてからは立ち消えになっていたし、二度の婚約破棄を受けた今となっては王家に嫁ぐなんて考えられない話だが、彼の婚約者に内定したばかりの彼女からすれば、私の存在は目の上のたんこぶでしかないだろう。
「どちらにしろ、嫌な予感しかしないわ」
ぽつりとそう零しながらも、じきに到着するだろう王家の馬車を追い返すわけにはいかない。
逃げ道はどこにも用意されていないのだ。
――『悪女』らしく悪役を買ってあげるのも一興ね。
自嘲の笑みを浮かべながらも小さく頭を振ると、ゆっくりと上体を起こす。
あとできっちり幼馴染に見返りを求めようと心に決めると、重い腰を上げて、肩にかかる黒髪を払った。
「いいわ、すぐに出迎えの準備に取りかかってちょうだい」
私の声に深々と頭を下げたシーラは、足早に部屋を去っていく。
数時間後には到着するという二人には、当日訪問の無礼を許す代わりに、しばらく客室で大人しくしておいてもらおう。
――それくらいの無礼は許されるでしょう。
小さく肩を竦めながらクローゼットへと向かう。
扉を開くと『悪女』となるべく、相手を迎え撃つためのドレスを選びはじめたのだった。

　　　　　　　　　　　　　　＊・＊・＊

「ようこそおいでくださいました。セドリック殿下、シャーロット様」
一足遅れて客間を訪れた私は、丁寧に礼をとる。
私の登場に、寛いでいたらしい二人は改まった様子で腰を上げた。
「やあ、アリシア。突然訪ねてしまって申し訳ない」
眩い白銀色の髪を掻き上げながら、にこやかに謝罪を口にする幼馴染に反省の色はない。
相変わらず整った顔立ちながらも、幼い頃から何を考えているのかわからない相手の態度に肩を竦めつつ、淑女の嗜みとして微笑み返す。
「あら、申し訳ないという気持ちがおありでしたら、日を改めていただきたかったですわ。突然の先触れに驚きましたのよ」
「ああ、それは申し訳なかった。急遽予定が変更になったんだ」
真っ向から嫌味をぶつけてみるものの、当人は上機嫌な様子でにこにこと微笑んでいる。
「先ほど正式な書面を交わしたばかりなんだが、近日中には公表されると聞いてね。それより先に、アリシアには私たちから直接報告しておきたいという話になったんだ」
なぜそこで私の名前が、と思うのは野暮なのだろう。
セドリックはともかく、ほぼ初対面である婚約者の彼女がわざわざ直接私に報告したいということは、やはり予想通りの勝利宣言らしい。
「……そこまでお気遣いいただく必要もありませんでしたのに」
「はは、シャーロットたっての希望でもあったからね」
遠回しな牽制も伝わらず、セドリックの能天気な返答にぴくりと頬が引き攣りそうになる。
「紹介するよ。私の婚約者となるフォートナー侯爵家のシャーロットだ」
そう口にしながらセドリックが隣を指し示せば、側に立っていた令嬢はびくりと肩を跳ねさせた。
ふんわりとした水色のドレスに身を包んだ彼女は、私と目が合うと、びくりと身体を強張らせる。
「あ……」
声が出ないのは緊張からか、恐怖からか。
わざわざ私に会いに来たという相手の姿に、立場も忘れて思わず見惚れてしまった。
白く滑らかな肌に、薄く色づいた唇。
ぱっちりとした大きな緑の瞳は金色の睫毛に縁どられており、まるで人形のように愛らしい。
金色の長い髪がふんわりと広がっている姿は、さながら妖精のようでもあった。
蝶よ花よと育てられたに違いない可憐なご令嬢にとって、私は毒花にでも見えていることだろう。
その姿に毒気を抜かれて、思い直す。
――わざわざ嫌われにいく必要もないわね。
なるべく穏便にことを済ませられるようにと、柔らかな表情を心がけて笑顔を作った。
「シャーロット様、我がグレイブス公爵邸にようこそおいでくださいました。改めまして、グレイブス公爵家のアリシアでございます」
現在の身分は彼女のほうが下ではあるが、近々第二王子の婚約者として公表されるのであれば、王家と同列と見做すべきだろう。
最上級の礼をとると、ゆっくりと胸元に手を置く。
「どうぞアリシアとお呼びください。仲良くしていただけると嬉しいわ」
あまり堅苦しい口調になりすぎないよう、にっこりと微笑みかけた。
私の挨拶に大きくその目を見開いた彼女は、僅かに唇を動かしたものの、小さく頭を振るとその顔を俯ける。
華やかな容姿とは真逆と感じられるほどの慎ましやかな態度に、目を細めながら相手の様子を見守った。
ほんのりと赤みを帯びた頬を冷ますように手を添えるその仕草に、一人心の内で感嘆の息を零す。
――まさに守ってあげたくなる女性のお手本ね。
恥じらうように顔を俯けているそのさまは、同性の私でさえも思わず手を伸ばして支えてあげたくなるほどに庇護欲をくすぐられる。
貴族男性の求める理想像のような彼女の仕草に、ちらりと傍の幼馴染を見やった。
――セドリック、見る目あるじゃない。
後で話のネタにでもしてやろうと胸中でほくそ笑んでいれば、小さな声が耳に届く。
「あの……」
遠慮がちに声を上げた彼女は、落ち着かない様子で視線を彷徨わせながらも、一歩こちらに踏み出した。
きっと挨拶をしようとしてくれているのだろう。
緊張が伝わってくる彼女の様子に、ふと自分のデビュタントを思い出す。
――あのときの私も、こんなふうにぎこちなかったのかしら。
ふっと頬を緩ませながら見守っていれば、彼女はこわごわと口を開いた。
「は、初めましてアリシア様。先ほどセドリック様からご紹介いただきました、フォートナー侯爵家のシャーロットです。せ、先日の誕生日で十六歳となりました」
ぎこちない挨拶を告げた彼女は、正式な礼をとろうと裾を摘まむ。
姿勢を正したまま膝を曲げようとした瞬間、緊張で脚がもつれたのだろうか。
その華奢な身体が、ぐらりと傾いだ。
「あ――」
小さな声と共に、その顔から血の気が引く。
まるで時が止まったかのようにゆっくりと倒れ込んでくる彼女の姿に、反射的に手を伸ばした。
「シャーロッ――!?」
横からセドリックの声が聞こえてきた直後、カッと眩い光が周囲を埋め尽くす。
強い閃光と同時に、突如巻き起こった強い風が周囲を包んだ。
「きゃあっ！」
「一体、何が!?」
何も見えない空間の中で、使用人たちの叫び声が響く。
窓も開けていない部屋の中で、突風が吹くなんてありえない。
――何が起こっているの!?
恐怖を抑え込むように、腕の中にいる彼女を強く抱きしめる。
硬く目を閉じ身体を縮こまらせていれば、ふと風が止んだ。
瞼の向こうの眩しさが収まったことに気付き、恐る恐る目を開く。
まるで何度も回転した直後のように定まらない視界に眉根を寄せながらも、ぱちぱちと目を瞬けば、突然目の前に影が差した。
「大丈夫か!?」
声と同時に現れた目の前の幼馴染の顔に、ぎょっと目を見開く。
「近い！」
目と鼻の先に現れた顔を片手で掴むと、思いっきり突き飛ばした。
勢いよく尻もちをついた彼は、何が起こったのか理解できていないのか、呆然とこちらを見つめている。
「まったく、王族たるもの人との距離感は適切に保ちなさい。それに、貴方が今一番に心配すべきは大切な婚約者でしょう？」
腰に手を当て、相手をキッと睨みつける。
視線の先のセドリックは、唖然としたままこちらを見上げて目を瞬いていた。
「シャーロット……？」
どこかで頭を打ったのか、こちらに向かって婚約者の名前を呼ぶ幼馴染に肩を竦める。
「それは貴方の婚約者の名前でしょう」
呆れ交じりの溜め息を吐くと、シャーロットのほうへと振り返った。
「まったく。先ほどは驚きましたね、シャーロットさ――」
そう声をかけようと相手に微笑みかけた瞬間、衝撃が走る。
「え？」
目の前に立っていたのは、誰よりも見慣れた姿。
毛先のうねった黒い髪に、吊り上がった紫色の瞳。
落ち着いた深紅のドレスを身に纏い、正に『悪女』といった様子のその姿は――。
「私……？」
呆然と声を漏らせば、こちらに向けられた紫色の瞳が戸惑いに揺れた。
「ア、アリシア様……ですか？」
向かい合う相手は確かに『私』のはずなのに、眉尻を下げて今にも泣きだしそうに瞳を潤ませている姿は別人にしか見えない。
「貴女は……？」
「わ、私、シャーロットです！　目を開けたら『私』の姿があって……どうしてこんなことに」
「それは、私も聞きたいのだけれど……」
お互いに戸惑ったまま周囲を見回した先で、窓硝子に自分の姿が映る。
目が合っているはずの『自分』は、蜂蜜を溶かしたような金色の髪に大きな緑の瞳に、ふんわりとした水色のドレスがよく似合う清楚なご令嬢――シャーロット・フォートナーその人の姿になっていた。
――一体、何が起こっているの!?
信じられない状況に呆然と立ち尽くしていれば、向かいの『私』があっと声を上げる。
「まさか――」
何かを思い出したかのように、こちらに手を伸ばした『私』は、首にかかっていた銀色の細いチェーンを引っ張り出す。
長いチェーンの先に下げられていたのは、金細工で縁取られた大きな黒曜石だった。
震える手にそれを乗せた『私』は、恐る恐るこちらを見つめる。
「こ、これ……本物だったのかもしれません」
「『本物』？」
「少し前に婚約祝いの品としていただいたんです。その……『少しの間だけ、なりたい自分になれるお守り』だと……」
突拍子もない彼女の発言に、眉を顰める。
「なりたい、自分？」
「はい。今日アリシア様とお会いできると聞いて、慌ててお守りをつけてきたんです。これがあれば、アリシア様のように堂々と挨拶できるかと思って――」
「私のように……？」
不可解な彼女の発言に、思わず首を傾げた。
侯爵家よりも家格は上とはいえ、今の社交界における私の立場は『二度も婚約破棄を受けた悪女』であり腫れものでしかない。
そんな私に対して好意すら感じられる発言をするシャーロットに、困惑せずにはいられなかった。
そもそも彼女がここに来た本来の目的は、婚約報告という勝利宣言ではなかったのだろうか。
「ええと……シャーロット様はセドリックの婚約者として、私を牽制しに来たのでは？」
私の問いかけに、彼女は吊り上がった紫色の瞳をくわっと大きく見開く。
「まさか！　ありえません。どうして私がアリシア様にそんなことをしなければならないのですか!?」
ずいっとこちらを覗き込んできたその勢いに、反射的に上体を引いた。
「ええと、私が邪魔なのでは……？」
「邪魔なはずあるわけないじゃないですか！　私は――」
言葉を切った『私』は、ぐっと唇を噛むと、すうっと大きく息を吸う。
「私は――ずっとずっと前から、アリシア様に憧れていたんですから!!」
その声は、広い客間に響き渡った。
頬を上気させ感極まったように紫色の瞳を潤ませている『私』と、呆然と私たちを交互に眺めている幼馴染。
困惑と戸惑いにただただ目を瞬くばかりの私は、ゆっくりと首を傾げた。
「え？」




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    <dc:date>2026-05-01T16:22:21+09:00</dc:date>
    <dc:creator>ガブリエラブックス</dc:creator>
    <foaf:topic><foaf:Image rdf:about="https://img13.shop-pro.jp/PA01280/163/product/191700640_th.jpg?cmsp_timestamp=20260522172036" /></foaf:topic>
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    <title>【4月30日発売】訳あり子連れ令嬢は初夜に処女がバレました　騎士団長に丸ごと愛され、家族になるまで【本体1300円+税】</title>
    <description></description>
<content:encoded><![CDATA[
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●著：すずね凜
●イラスト：敷城こなつ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543877
●発売日:2026/4/30</div>

<p><span class="f130 black">堅物騎士団長はバージン・ママとベビーを最強の愛で守ります！<br /></span>

没落伯爵令嬢カロリーヌは、姉の遺児で国王の隠し子であるエドモンを一人で育てていた。そんな彼女の下へ現れたのは、王命で母子の護衛を任された美貌の騎士団長オリヴィエだった。子供と引き離されたくなくて姉を装うカロリーヌだったが、誠実な彼と惹かれ合い、二人は結ばれる。
「私はあなたたちを一生かけて守る」
しかし王からエドモンを正式な王子として城に迎えると命令が下されて──!?

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序章



夜は深く、月だけが煌々と地上を照らしていた。
空気は暖かく静謐だった。
その家は、村外れのうっそうとした森の中にひっそりと建っていた。どの部屋も灯りを落として、真っ暗である。
一階の子供部屋では、四歳になる息子のエドモンがこんこんと眠っていた。
ただ、二階の寝室には蝋燭の明かりがほんのり灯っていた。
中央のベッドに、男と娘が向かい合って座っている。
男はシャツ一枚、娘は薄物の寝巻き姿だ。
男のほうは、長身でがっちりとした身体つきだ。歳の頃は三十代前半か。全身の筋肉が鋼のように固く引き締まって、武人であることがひと目でわかる。艶やかな短髪の黒髪に、切れ長の青い目、彫りの深い男らしい美貌である。
一方の娘は、今日、二十歳の誕生日を迎えたばかりである。だが訳があって、オリヴィエには二十二歳と偽っていた。
さらさらとした長い金髪に、琥珀色の瞳のぱっちりした目、すんなりとした鼻梁、ぷっくりとした愛らしい唇、人形のように整った面立ちだ。透けるように肌の色が白く、ほっそりとしているがごつごつしたところはない。小ぶりだが形のいい乳房、腰はきゅっと締まり、尻はすべすべしてまろやかで柔らかそうだ。
男が低い声でささやく。背骨に響くようなバリトンだ。
「カロリーヌ、あなたを愛している。君とエドモンを、この世で一番愛している」
カロリーヌと呼ばれた娘は、ほんのり頬を染めた。そして、かすかに震える声で答える。
「私も……オリヴィエ様を愛しています」
オリヴィエがかすかに笑みを浮かべた。笑うと、目尻にくしゃっと笑い皺が寄り、整いすぎて少し近寄りがたい美貌がとても親しみやすいものに変わる。
息子のエドモンと遊んでくれている時は、いつも彼はこんなふうに笑っている。
カロリーヌは、初めてオリヴィエのこの笑顔を見た時に、一瞬で恋に落ちてしまったのだ。
オリヴィエの右手が差し伸べられ、カロリーヌの頬にそっと触れてきた。
彼の手は大きくて無骨で、剣だこが幾重にもできている。オリヴィエは伯爵の位を持っているが、長年王立騎士団長を務め、実戦に何度も参加してきたという。一般の貴族のように手入れが行き届いてすべすべした手より、カロリーヌはこの手のほうがずっと素敵だと思っていた。
（この手が、私とエドモンを守ってくれているんだわ……）
その手がカロリーヌの顔を包み込み、仰向かせた。
カロリーヌは息を詰めて目を閉じる。
オリヴィエの息遣いが接近してきた。
唇が重なる。
「ん……」
この人と、今から結ばれるのだ――。
心臓が甘くときめく一方で、カロリーヌの胸の奥で一抹の不安が頭をもたげていた。
（どうしよう――初体験だってバレてしまったら……）
オリヴィエはカロリーヌを経産婦だと信じ込んでいる。
だが、カロリーヌには男性経験がなかったのだ。
エドモンは自分が産んだ子どもではない。だが、我が子同様に慈しみ育ててきた。
エドモンがいたから、こうしてオリヴィエと出会えたのだ。
オリヴィエを騙しているという罪悪感が、ひしひしと込み上げてくる。
（でも、彼を愛している。この人に、すべてを捧げたい……）
オリヴィエを心から求める気持ちに、もう逆らえない。これから起こること、その後に起こるかもしれないこと――すべてを受け入れよう、決意した。
カロリーヌはそっと目を閉じ、オリヴィエに身を任せた。



第一章　美貌の騎士団長との出会い



「エドモン、エドモン、村までお買い物に行くわよ」　
裏庭で洗濯物を干し終わったカロリーヌ・ポワレーは、前庭に出て息子の名を呼んだ。
艶やかな金髪を無造作にうなじで束ね、お人形のように整った顔には化粧気がまったくない。着ているドレスは飾り気がなく簡素で、動きやすいだけが取り柄の代物だ。
「エドモン、どこにいるの？」
カロリーヌはもう一度呼ぶ。しかし、返事はなかった。
狭い前庭には、つい今し方までエドモンが遊んでいた痕跡がある。ボールや兵隊さんの人形などが地面に散らばっていた。
「もう……ちゃんと片付けてって、いつも言っているのに」
カロリーヌは腰を屈めて、散らばっているおもちゃを片付けようとした。
すると、どこからかエドモンの忍び笑いが聞こえてきた。カロリーヌはピンときた。
エドモンは、かくれんぼをしてカロリーヌを驚かすのが好きなのだ。
背筋を伸ばすと、庭の中をゆっくり歩き回る。わざとらしく心配そうな声色を使う。
「ほんとうに、どこに行ってしまったのかしら。困ったわね」
かたん、と納屋の背後でかすかな音がした。
「背中に羽が生えて、飛んでいってしまったのかしら？　エドモンはお空にいるのかしら？」
言いながら、ゆっくりと納屋の方へ近づく。くすくすと笑いが聞こえてくる。
カロリーヌは納屋の前で立ち止まり、悲しそうな声を作る。
「それとも、もぐらさんに土の下に連れて行かれてしまったのかしら？　そんなことになったら、お母様は悲しいわ。泣いてしまう」
カロリーヌはその場にしゃがみ込み、顔を両手で覆ってしくしくと泣く真似をした。
すると納屋の背後から、ぱっとエドモンが飛び出していた。
洗いざらしの半袖のシャツに半ズボン、裸足の足に古びた革靴を履いている。着ているものは簡素だが、色白で金髪の巻毛にぱっちりした琥珀色の目にぷっくりした赤い唇。カロリーヌにそっくりの美しい子だ。
「ぼくはここだよ！　お母さま！」
エドモンがカロリーヌの首に抱きつく。
「なかないで、なかないで、お母さま」
エドモンの方が、今にも泣きそうだ。
カロリーヌはさっと両手を顔から離し、にっこりする。
「捕まえた！」
エドモンをぎゅっと抱きしめる。
エドモンがきゃあっと可愛い悲鳴を上げた。カロリーヌはエドモンのふっくらした頬に、口づけの雨を降らせた。
「さあ、もう離さないわよ」
「くすぐったい、くすぐったいよぉ、お母さま」
エドモンがきゃあきゃあ笑う。
カロリーヌはエドモンの金髪の巻き毛に顔を埋め、深呼吸した。
幼い子どもからは、ひなたの匂いがする。
（なんて幸せな匂いなのかしら……）
カロリーヌはひとしきりエドモンと戯れあってから、息子の小さな手を握って立ち上がった。
「さあ、お買い物に行きましょう」
「はあい」
エドモンが元気よく返事をした。
二人は手を取り合って、狭い街道を通って村に向かった。二人の住む家は村から少し外れた郊外の森の中に、ひっそりと建っている。村までは、歩いて半刻ほどかかるのだ。
「ああ、いいお天気ね」
カロリーヌは青空を見上げた。
季節は五月の始め。
大陸の諸国の中でも、このギルバス王国は小国ながら肥沃な土地に穏やかな気候に恵まれている。雨季が来る前のこの季節は、一年でも一番爽やかで過ごしやすい。
「お母さま、おうたをうたって」
エドモンにせがまれ、カロリーヌはゆっくりと童歌を口ずさむ。
「きつねさんは月曜日にお買い物にいきました
あなぐまさんは火曜日におうちをお掃除しました
うさぎさんは水曜日に草刈りをしました
りすさんは木曜日に花摘みにいきました
しかさんは金曜日にきのこ狩りにいきました
土曜日に、みんなでパーティーをしました
そして日曜日は――」
歌いながらカロリーヌはエドモンに目配せする。
「なにもなし！」
エドモンとカロリーヌは、最後のフレーズを声を合わせて歌った。
「なにもなし、なにもなし！」
エドモンがころころと笑い転げる。
カロリーヌも釣られて声を上げて笑った。
（ほんとうに、子どもってすぐ泣いてよく笑う。なんて感情が豊かなのかしら）
歌を歌っているうちに、村の入り口に辿り着いた。
カロリーヌとエドモンは、村の中央にある市場に向かった。
小さな市場だが、果物や野菜、肉やパン、蝋燭や石鹸などの日用品がとりどりに売られている。
カロリーヌはパンや野菜など必要なものを購入し、肉屋にちらりと目をやったが、そのまま素通りした。母子の生活は、カロリーヌの仕立て物仕事の給金でまかなっている。母子二人で暮らしていけるだけの収入はあるが、あまり贅沢は出来ないのだ。お肉を食べるのは週末だけと決めている。普段は鶏小屋で飼っている鶏が産む卵で、栄養を補っていた。
お店をきょろきょろとのぞいていたエドモンは、駄菓子屋の前でぴたりと立ち止まる。
「お母さま、お母さま、キャンディーがほしいよお」
エドモンは、色鮮やかな棒付きキャンディーの入った瓶を指差した。
「甘いものは、歯が悪くなるからだめよ」
言い聞かせようとしたが、エドモンはふくれっつらになる。
「でも、たべたいもん」
「おうちに帰ったら、ニンジンのケーキを焼いてあげるから」
「うーん」
裏庭の畑で採れるニンジンのケーキは、エドモンの大好物だ。でも、子どもは砂糖をうんと使ったとびきり甘いキャンディーに目がないのだ。だが、首都のお菓子工場から運ばれてきたキャンディーは、とても高額だ。
カロリーヌは値段を見て、小さくため息をついた。この値段なら、お肉を買いたいくらいだ。
「さあ、もう帰りましょう」
促したが、
「やだ」
と、エドモンはしょんぼりと足元の小石を蹴っている。
いつもエドモンには我慢を強いている。新しいおもちゃはめったに買ってあげられないし、絵本は教会からいただいた古本、着ている服は、カロリーヌの着古したドレスを仕立て直したものばかり。住んでいる家は狭い古家で、あちこち雨漏りはするし隙間風が常に吹き込む。
（ほんとうなら、ポワレー伯爵家の跡継ぎとして、何不自由ない暮らしを送れたはずなのに――いえ、もしかしたら王子として……）
カロリーヌは、胸がぎゅっと痛んだ。こっそりと、エプロンのポケットの中の財布をのぞいた。
（今月は、いつもより多く仕立て物を受ければいいわ）
カロリーヌはしゃがみ込み、エドモンの顔を見て言った。
「では、一本だけね」
エドモンの顔がぱっと明るくなる。
「いいの？」
カロリーヌはうなずく。
「エドモンは、いつもお母様のお手伝いをいっぱいしてくれるから。ご褒美よ」
エドモンがわあいと声を上げる。
「うん、ぼく、もっとおてつだい、するよ」
エドモンは背伸びして、店先のキャンディーの入った瓶を穴が開くほど見つめた。
「どれにしよう。いちご、オレンジ、あおりんご、レモン、ぶとう――」
真剣に迷っている横顔は、ほんとうに愛らしい。
さんざん迷ってから、エドモンはいちご味のキャンディーを選んだ。
カロリーヌは店主に代金を支払い、エドモンに棒付きキャンディーを手渡した。
「おうちに帰ってから、食べるのよ」
「はあい」
受け取ったエドモンは、満面の笑みになった。
買い物を終え、二人は手を繋いで市場を後にした。
エドモンはキャンディーを太陽にかざし、目を細める。
「お母さま、キラキラしてる。ほうせきみたいだね」
「ほんとうね、ルビーみたいね」
「食べるのがもったいないや」
「じゃあ、お母様が食べちゃおうかな」
「だめだめ！」
「ふふ、嘘よ、嘘」
「もうっ――でも、はんぶんこしてもいいよ」
「あら嬉しい。優しい子ね、エドモンは」
母子は楽しげに会話しながら、帰路についた。

市場では、店主たちが噂話をしていた。
「あの若い母親と息子、なにか訳ありだよな」
「すごい美人だし、なんたって品がある。きっと貴族の娘かなんかじゃないか？」
「四年くらい前に、ふらりと赤ん坊を連れてこの村にやってきて、それ以来、森の家で二人暮らしらしいぜ」
そこへ、彼らに一人の男が声をかけてきた。
「ちょっと、たずねたいことがあるのだが」
店主たちは目を丸くしてその男を見た。
王家に仕える者の印である青い騎士の制服を着た、黒髪に青い目の背の高い美丈夫だった。

――その数日後のことであった。
昼食を終え、カロリーヌとエドモンは前庭でボール投げをして遊んでいた。
ボールはカロリーヌの手作りだ。仕事で余った端切れを縫い合わせて綿を詰めた簡単なものだが、エドモンはこのボールがとても気に入っていた。
「そうら、いくわよー」
カロリーヌはエドモンが受け取りやすいように、ボールを優しく放る。
「とったぁ」
ボールを両手で受け取ったエドモンは、自慢そうに頭の上にボールを掲げて見せる。その誇らしげな顔が、とても可愛い。
「上手、上手」
カロリーヌが褒めると、
「お母さま、もっととおくになげてよ。ぼく、とれるから」
と、エドモンはボールを投げ返した。顔を紅潮させて鼻息を荒くする。
「わかったわ、そらっ」
カロリーヌは腕に力を込めてボールを投げた。
「あっ」
目測を誤って、ボールはエドモンの頭の遥か上を越え、前庭の垣根の向こうに飛んでしまった。
「ごめんなさい、エドモン」
「へいき。ぼく、とってくる」
エドモンは庭の低い門扉を開け、外に出ていった。
カロリーヌはしばらく待っていたが、なかなかエドモンが戻ってこない。少し心配になる。
「エドモン？」
庭から家の前の小道に出た。
カロリーヌはハッと息を呑む。
小道の向こうに、青い軍服姿の黒髪の背の高い男性が立っていた。腰には剣を下げていた。彼の足元には転がったボールがあった。
エドモンは立ち止まって、物珍しそうにその男性を見上げている。
男性は跪くと、ボールを拾った。彼はエドモンにボールを差し出しながら、声をかける。
「君のボールかい？　坊や、名前は？」
エドモンはとことこと男に近づき、ボールを受け取った。エドモンは人見知りをしないたちだった。
「おじさん、ありがとう。ぼく、エドモン――エドモン・ポワレー」
と、はきはきと答えた。
「エドモン・ポワレーか」
男が口の中で息子の名前をつぶやいた。
その様子を見ていたカロリーヌは、なぜか胸騒ぎがした。
「エドモン、いらっしゃい」
鋭い声で呼ぶと、エドモンと男が同時にカロリーヌの方を振り向いた。
「お母さま」
エドモンは小走りで戻ってくる。男はその後ろからゆったりとした足取りで付いてきた。
カロリーヌは素早く、エドモンを自分の背中に隠すようにした。
目の前に男が立つ。小柄なカロリーヌが見上げるほど背が高い。
目も覚めるような美男子だった。歳の頃は三十歳前後か。短めの黒髪、涼やかな青い目、彫りの深い苦味走った美貌。彼はまっすぐカロリーヌに視線を合わせた。
彼と目が合った瞬間、カロリーヌは心臓がドキンと跳ね上がった。
脈動が速まり、彼から目を逸らすことができない。
男は丁寧な口調で切り出した。
「失礼ながら、貴女はポワレー伯爵家のご令嬢ですか？」
低く艶っぽい声に背中がざわっと震えたが、次の瞬間、この男は自分のほんとうの身分を知っている、とカロリーヌは我に返った。
疑い深い顔で男を見た。冷ややかな声で答える。
「なぜそんなことを聞くのですか？」
すると男は恭しく告げた。
「あなたとご子息を探しておりました」
それから彼は、頭を下げた。
「失礼しました。私はオリヴィエ・ド・ブロイと申します。王立騎士団の第二師団団長です」
「王立騎士団――では、首都から？」
カロリーヌはますます嫌な予感がした。
オリヴィエは美しい所作で、その場に跪いた。淑女に対する最敬礼である。
「王命により、あなたとご子息の護衛を承りました」
「王命……ですって!?」
思わず聞き返す。
ゆっくりとオリヴィエは顔を上げた。
「ご子息は国王の落とし胤ですね？」
「っ――」
カロリーヌは表情を固くした。目を背けて、小声で返す。
「……人違いです」
するとオリヴィエの目がすうっと細まった。
「調べはついているのです」
「―― ！」
先ほどからカロリーヌの背後に隠れるようにして、二人のやりとりを見ていたエドモンが、ひょいっと顔をのぞかせる。
「お母さま、このせのたかいおじさんは、だれ？」
オリヴィエは素早く柔和な表情に戻った。彼は穏やかな口調でエドモンに言う。
「私は今日から、あなたを守る騎士になるんだよ」
「きし？　わるものとたたかう、きし？」
エドモンは無邪気に聞き返した。
「そうとも。わるものは、みんな退治してあげるよ」
オリヴィエはおもむろに立ち上がった。
そして、右手を顔の高さに持ち上げると、パチン、と指を鳴らした。
直後、背後の木陰に潜んでいたらしい十数人の男たちが、音もなく姿を現した。全員が、青い騎士の服装をしていた。
騎士たちは、素早くオリヴィエの後ろに整列する。
オリヴィエは革のブーツの踵をきっちりと揃えると、直立不動になった。
「王命により、我ら、王立第二騎士団があなたたち二人をお守りします」
エドモンがわあっと歓声を上げた。
「すごい！　きし、いっぱいだ。かっこいいなぁ」
無邪気にはしゃぐエドモンを、カロリーヌはそっと引き寄せる。そして、震える声で言い返した。
「違います――私たちは……」
するとオリヴィエがにわかに険しい表情になった。彼は一歩前に出ると、カロリーヌの耳に顔を寄せ、彼女にだけ聞こえる声でささやいた。
「私はずっと、あなたたちの行方を捜していた。王命にはそむけない。騒ぎを起こしたくなかったら、大人しく王命に従いなさい」
地を這うような恐ろしげな口調だった。
カロリーヌは声もなくその場に立ち尽くした。

これより一年前のことである。
第二騎士団団長のオリヴィエ・ド・ブロイ伯爵は、緊急だとレオン国王に呼び出されていた。

王城の謁見の間に通されたオリヴィエは、玉座から少し離れ跪きこうべを垂れ、レオン国王の入室を待った。
ほどなく、衣擦れの音がして、レオン国王が座する気配がした。重々しい声がする。
「伯爵、顔を上げよ」
オリヴィエはゆっくりと頭をもたげた。
レオン国王とは、先の閲兵式以来の対面であった。少し顔色が悪いようであった。
当年四十五歳のレオン国王は、男盛りの美丈夫である。数年前までは、まだまだ国内外の情勢は乱れ、各国との戦も頻繁に行われていた。しかし、現国王の安定した統治下で、今ではギルバス王国の民たちは平和で豊かに暮らしている。
だが昨年あたりから、近隣のサンドリナ王国の軍隊が頻繁に南の国境線に現れ、ギルバス王国の国境警備隊と小競り合いを繰り返している。南の国境線のギルバス国領側には、鉱物が潤沢に産出する鉱山が無数にあった。この辺りの土地は、サンドリナ王国とそれぞれ折半で統治していたが、現サンドリナ国王は野心が強い男であった。彼は国家拡大を狙い、 ギルバス国側の鉱山も欲しがっているのだ。
そのために、隙あらば侵略しようと謀んでいる。国情はまだ油断のならない状況である。
また、レオン国王の家族事情はあまり思わしくなかった。
五歳年下の王妃マリアンヌは政略結婚で遠い異国の地からこの国に嫁いできた。国王夫妻の間には、才気煥発の第一王子とおっとりした第二王子が生まれていた。
だが、将来を期待されていた第一王子は、数年前に流行病で亡くなってしまった。
その頃から、国王夫妻の間には、気持ちのすれ違いが生じ始めたという。最近では、二人は寝室を分け、食事も別々に摂りろくに会話もないらしい。
また、残された第二王子ギヨームは、なにかと出来の良かった兄王子と比べられ、次第にひねくれ反抗的になっていった。現在十六歳になっているギヨーム王子は、王位後継者としての学びを怠り、狩猟や舞踏会にうつつをぬかしている。王子のお付きの者たちは、陰で『不肖の王子』と呼びならわしていた。
王家のこのような内情は、ごく一部の臣下や国王が信頼する部下にしか知らされていなかった。オリヴィエはそのうちの一人であった。
十五歳の時に王立騎士団に入ったオリヴィエは、それ以来王室のために励み、とんとん拍子に昇格した。三十歳になった現在は、自団を率いて南の国境警備の任務にあたり、常にサンドリナ軍を撤退させ、多大な功績をあげている。サンドリナ国軍も、オリヴィエには一目置いていた。
寡黙だが文武両道で忠義に篤いオリヴィエは、レオン国王からも絶大な信頼を得ていたのだ。
「これから話すことは、私と貴殿だけの内密にしてほしい――もう少し近くへ」
レオン国王は声をひそめた。
「はっ」
オリヴィエは膝立ちで玉座の前に進んだ。
「貴殿に、ある娘とその子どもを探しだし、護衛してほしいのだ」
「娘と、子どもですか？」
オリヴィエは怪訝な顔になる。
レオン国王は、軽く咳払いしてから続けた。
「実は――三年前、この城に勤めていた侍女がいた。その――私はその夜はいささか酔っていてな。その――娘と一夜の過ちを犯してしまったらしい」
「なるほど――」　
オリヴィエは短く答えた。国王が侍女に手を出して、妊娠させたということである。レオン国王は恐妻家で知られていて、浮いた話はほとんどなかったので、少し意外であった。
「なぜ、三年も経ってと思うだろうが。今回、その娘の友人だった侍女が城を去る時に、他の侍女に娘が懐妊していたと漏らしたことで、発覚したのだ。子どもを宿していたとは、私も知らなかった」
「――では、その娘と御落胤を探し出し、護衛するということですね？」
レオン国王はほっと息を吐いた。
「貴殿は余計な詮索をしないので、ほんとうに信頼できる。落とし子といえど、我が子であることには変わりはない。養育費は存分に払う。そう娘に伝えよ。子どもをつつがなく育てるように、とな」
「承知しました――で、その娘の名前はわかりますか？」
レオン国王は、少し懐かしそうな眼差しをした。
「カロリーヌ・ポワレーという。当時は十八歳だったと思う。金髪に琥珀色の瞳を持つ、働き者でたおやかな美人だった。友人の侍女の話では、どうやら伯爵家の身分を隠し、平民と偽って侍女の仕事をしていたらしい」
「わかりました。陛下のご命令とあれば、私は必ずやその娘と御子を探し出し、命に代えてもお守りいたします」
オリヴィエはきっぱりと答えた。
レオン国王は頼もしげにオリヴィエを見遣った。
「その子は、いずれ王城で引き取ることになるかもしれぬから、重々大事にな」
それからレオン国王は、声を潜めた。
「頼んだぞ、伯爵。この件、くれぐれも、王妃にはばれないように」
「はっ、お任せください」
オリヴィエはそう言って胸を張った。
とはいうものの内心では、
（要するに、陛下の浮気相手と隠し子を探し出して、守れということか。王命とはいえ、あまり気の乗らない仕事だな）
と、ぼやいていたのである。
生来が生真面目で清廉なオリヴィエにとって、相手が国王といえど不貞をはたらいた女性に対して、あまりいい感情は持てなかったのだ。だが王命となれば話は別である。任務は完璧にこなそうと、決意していた。
その後、オリヴィエは騎士団の部下たちを引き連れ、カロリーヌ・ポワレーという娘の行方を追った。
ポワレー伯爵家は零落し、首都郊外に朽ち果てた屋敷があったが、もはやそこに住む人は誰もいなかった。ただし、近隣を調べたところ、数年前にはそこに一人の令嬢が住んでいたこと、屋敷から赤子の泣き声が聞こえたということがわかった。おそらく、カロリーヌ・ポワレーは屋敷で出産し、赤子を連れて出奔したのだろう。
オリヴィエたちは、一年かけてカロリーヌ・ポワレーの足跡を追い続け、ついに国境に近い鄙びた村外れでひっそりと暮らしていることを突き止めたのだ。

かくして、カロリーヌとオリヴィエは邂逅したのである。
「大人しく王命に従いなさい」
威嚇するようなオリヴィエの声色に、カロリーヌは顔色を変えて竦み上がった。
すると、ふいにエドモンが一歩踏み出し、カロリーヌの前に立ち塞がった。
「きし、お母さまをいじめるなっ」
エドモンは色白の頬を真っ赤にし、両手を広げて憤然と言い放った。幼な子ながら、母の異変に気がついたのだ。
オリヴィエは目を細めてエドモンを見下ろした。その眼差しは柔らかい。
「とても勇気がある子だ」
彼は感心したようにつぶやき、カロリーヌに視線を戻した。
「陛下があなたたちの生活を援助いたします。この地でご子息を健やかに育てよとの命令です」
「援助……健やかに……」
カロリーヌにはその言葉が胸に響いた。
正直、生活は食べていくだけで精いっぱいだ。
今の暮らしのままでは、先々エドモンに高等教育を受けさせることは難しいかもしれない。
（エドモンは、立派な大人に育て上げたい）
それはカロリーヌの切なる願いだった。そのためなら、どんなことも我慢できる。
カロリーヌは息を軽く吐いた。
「私とエドモンは、ここで生活を続けてもいいということですね？」
オリヴィエがうなずいた。
「無論です。我々がこの地に居住し、あなた方お二人を護衛いたします」
カロリーヌは、オリヴィエと背後に控える騎士団員たちを見遣った。
オリヴィエを筆頭に、どの騎士たちも鍛え上げられ精悍な顔つきをしている。先ほどのオリヴィエの命令に、一糸乱れぬ動きで従った様子を見ても、優秀な騎士の集まりであるとわかる。
（この人たちが守ってくれるのなら――安心かもしれないわ）
カロリーヌは意を決し、まっすぐにオリヴィエに顔を向けた。
「わかりました。王命に従います」
カロリーヌの返事に、オリヴィエは安堵したように笑みを浮かべた。
「わかってくださったか。では、我々は一旦引き上げ、居を構える場所を探し、またここへ戻ります」
彼はくるりと部下たちに振り返った。
「この辺りに、拠点を構える。ダニエル班は、村の旅籠屋に預けてある馬を連れてこい。マルク班は、ひと目に立たないように天幕を張れる場所を、急ぎ探せ。報告は一時間後だ」
「はっ」
「承知」
騎士たちはさっとふた手に別れ、踵を返して姿を消した。部下たちの行方を見届けてから、オリヴィエがおもむろに振り返った。
「突然のことで、さぞ驚かれたことでしょうが、理性的に応対してくれて助かりました」
先ほど恐ろしい声でカロリーヌを恫喝した人とは思えない、品のある礼節に富んだ態度だった。カロリーヌの胸がドキンと甘く疼いた。
「いえ――息子のためですから」
「そんなにお若いのに、母一人子一人で、大変でしたね」
「いいえ、エドモンがいればどんなことも平気です」
カロリーヌの真摯な言葉に、オリヴィエは感に堪えないような顔になった。
二人は一瞬、言葉もなく見つめ合っていた。
二人の会話をきょとんとして聞いていたエドモンが、自分の話題だとわかったのか、はしゃいだ声を出す。
「ぼくが？　ぼくが、いれば、へいきなの？」
カロリーヌははっとして我に返る。
「そうよ、エドモン。さあ、お家にはいりましょう。手を洗って、お部屋でキャンディーを食べなさい」
「はあい、きしさん、さようなら」
エドモンはオリヴィエに向かって手を振りながら、家の中へ入っていった。
「では、私は家の周囲を見回ってきます。後ほど――」
オリヴィエはそう言い置き、大股で歩み去った。
そのがっちりとした背中を見送りながら、カロリーヌはまだ動悸がおさまらなかった。




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    <dc:creator>ガブリエラブックス</dc:creator>
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    <title>【4月30日発売】初恋の騎士様を自由にするため恋人を探したら、当の騎士様にとろとろに甘やかされました【本体1300円+税】</title>
    <description></description>
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●著：千石かのん
●イラスト：KRN
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543860
●発売日:2026/4/30</div>

<p><span class="f130 black">唯一愛する義兄のため男嫌いを克服……のはずが、当の義兄に捕まっちゃって!?<br /></span>

両親を亡くし、娼館で売られかけたところを公爵令息ウィリアムに救われたフィリアは、引き取られた公爵家で彼に優しく甘やかされた。ウィリアムの助けになりたくて精霊魔術師となり魔法防衛軍へと入隊したフィリアだったが、彼に想い人がいると聞き、義兄の恋を邪魔したくないと誤解し、逃げようとする。
「俺が君を絶対に幸せにするから」
そんなフィリアをウィリアムは追い詰め求愛してきて!?

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プロローグ



いやだ、こないで、さわらないで──ッ！

幼いフィリアが恐怖による感情を爆発させた瞬間、真っ白な光が炸裂し、続いて爆発音が鳴り響いた。
「あ……」
ごおっと風を切るような音と同時にオレンジ色の炎が吹き上がり、フィリアは息を呑んだ。
先程まで自分の腕を掴んでいた、でっぷり太った腹の男はいつの間にか消えている。
代わりに狭い寝室は黒煙を上げて燃え上がり、壁と扉が壊れたせいで狭く細い廊下が見えた。
床を舐めるように広がる炎は、燃えやすいものを求めて生き物のように蠢き、やがて壁を伝って天井に届くほどの業火となった。
（ど……どうしよ……）
恐怖に引き攣った喉がひりつくように痛む。
自分が座り込んでいるベッドも、飛んできた火の粉を受けてあっという間に燃え上がり、小さなフィリアは転げ落ちるようにそこから下りた。
（まど……くうき……）
呼吸をするたびにきな臭くて息がしづらく、近くにある窓へと辿り着く前に力が抜け、あっという間に床に倒れ込んでしまった。
（……しぬんだ……）
擦り切れた絨毯に頬を押し当て、フィリアは激しく咳き込んだ。先程とは別の涙が瞳に膜を張り、止める間もなく次から次へと零れ落ちていく。
（……わたし……しぬんだ……）
ぎゅっと小さく身体を丸め、身体中の水分が抜け落ちていくのを感じながら、ふとベッドの下に隠した鞄に目が留まった。
這うようにして手を伸ばし、必死に掴んで引き寄せたそこには、母から貰ったスカーフに包まれた一冊の絵本が入っていた。
亡くなった両親が買ってくれた、大事な大事な宝物。
キラキラ輝いているお姫様と王子様の絵本は、どんな時でもフィリアを支え、励ましてくれた。夜寝る前にうっとりと眺め、自分もいつか素敵な王子様が迎えに来てくれると、ずっと大切にしていた。
ほんの少し、スカーフをずらして何度も見た表紙を目に焼き付ける。
（……おうじさま……）
頬を伝う涙は冷たく、今や室内は黒煙が充満し何もかもを炎が包み込んでいる。肌が熱く、焦げた匂いで気が遠くなっていく。
（おうじさま……）
死んでも王子様って会いに来てくれるのかな？
そんな感情が胸をいっぱいに占めた──……その瞬間。
バリン、と何かが破砕された音がし、ごおっと酷い嵐の時のような音がいっぱいに響き渡る。
あっという間に清涼な空気が周囲を満たし、冷たい……心地よい何かに包まれているのに気が付いた。
「あ……」
横向きに鞄を抱えて丸まっていたフィリアはゆっくりと目を上げる。
真っ暗な闇の中、炎の燃え残りがちらちらと揺れ、天井はきれいさっぱり消え去っていた。
ちかちか瞬く銀色の星をぽかんとして見つめていると。
「もう大丈夫だ」
不意に甘く優しい声がして、動けずにいたフィリアの視界にオレンジ色の明かりを受けた存在が映り込んだ。
黒髪を炎に輝かせ、柔らかな黄金色の瞳を優しく揺らめかせるその人は。
（おうじさまだ……）
ゆっくりと膝をついて、彼はひょいっとフィリアを抱き上げた。
きな臭い空気の中に、草花に似た爽やかな香りが漂い鼓動が跳ね上がる。
唖然とする彼女を抱えて、青年は大股で歩きだし、壁と窓があったと思しき場所からひらりと下に飛び降りた。
そのまま垂直に落ちるかと思いきや、ふわりと浮き上がり、まるで階段を下りるように空気を踏んで地面に降り立った。
優しい風が吹き焦げ臭さを吹き払う。
街外れの林の中、隠されたように建つこの屋敷を振り返り、青年は忌々しそうに舌打ちをした。それから踵を返して屋敷に背を向け、確固たる足取りで離れていった。
「……あの……」
痛む喉から、ざらりとした声が漏れた。それでもなんとか、自分を抱える人が何者でどこへ向かっているのか尋ねようとして。
「今は何も考えないで」
きっぱりと青年が答えた。
それから、フィリアを抱き上げる腕に力を込める。身体が傾ぎ、頬が彼の胸元に押し当てられる。
立派な白いマントと、それを留める宝石の、エメラルドグリーンに魅せられる。
「……よごれます」
自分が真っ黒で煙塗れになっている自覚のあるフィリアがそっと囁く。こんな王子様のような人を汚してはいけない、と心に小さな焦りが生じた。
だが青年は更に強くフィリアを抱き寄せ、あろうことか頬に小さく口づけを落とした。
ちゅ、と軽い音がして目玉が零れ落ちそうなほど大きく目を見開く。
キスなんて誰かにしてもらったことなどない。
ぽかんとするフィリアに、王子様のような青年が泣きそうな顔で笑った。
「汚れない。だからしっかり俺に抱えられていて」
（なんで……かなしそう？）
わからない。わからないが、素敵な王子様にそう言われては守るしかない。
こっくりと頷くと、青年はようやく嬉しそうに笑い、フィリアを連れて屋敷の門へと向かっていった。
「もう何も、怖いこともつらいこともないと約束するよ」
そっと青年が囁き、温かな腕と力強い足取りにフィリアは目を閉じる。
「俺が君を絶対に幸せにするから」
鼓膜を揺らした甘く優しい声を最後に、フィリアは意識を手放した。
そんな彼女を、青年が愛おしむようにぎゅっと抱き締めるのにも気付かずに……。



第一章　雨の夕暮れ



フィリア・クラレントにとって雨はほっと一息つける天候だった。
魔物討伐を終えて王都へと帰還する部隊の中、馬に跨って移動する彼女は魔術師を表す若葉色のマントのフードを被り、袖と裾に向かって珊瑚色に染まる法衣を身にまとっていた。
手綱を握りながら雨粒を零す鈍色の空を見上げると、銀色の雫が赤みの強い、金髪の癖毛をうねらせ、更には分厚い前髪の下の黒ぶちの眼鏡に当たって水滴となる。
それを長い袖口で拭い、彼女は深呼吸をした。
火事に遭遇して命を落としかけた身としては、空から降り注ぐ冷たい雫は救済の象徴でもあった。
フィリアは幼い頃の記憶が曖昧だ。優しかった両親は気付いた時には亡く、保護を願い出た遠い親戚は金の亡者で、十を超えた頃、フィリアは娼館に売り飛ばされた。そこで火事に遭ったのだ。
間一髪助けてくれた王子様は、ユーディアライト公爵の息子で、公爵の命でフィリアを探していたという。
（公爵には感謝してもしきれない……）
雨からつい、あの日の火事を連想してフィリアはふるっと首を振る。
育ての親となった公爵は、亡くなった親友の一人娘が苦労していると知って、当時十九歳だった息子のウィリアムに彼女を探させていたという。
そうして例の娼館を突き止め、あの火事に遭遇し、間一髪助け出してくれたのだ。
言ってみればウィリアムは命の恩人で、それ以来ずっと、密かに慕う大切な男性となった。
その彼は現在、この部隊の先頭にいる。
ここからでは背中を覆う真っ白なマントと美しい黒髪しか見えないが、フィリアはそれだけで十分だった。
（もっと……精霊魔術師としてウィルの役に立てるようにならなくちゃ）
水と風の魔法が使えるウィリアムは、その力を剣に付与して戦う魔法剣士だ。その彼の隣で戦える魔術師として大成しようと、フィリアは子供のころから研鑽を積み、希少な精霊魔術師となった。
（そう……だからこれは……憧れと感謝と忠誠と……）
絶対に「あれ」とは違うんだと唇を噛み、愛馬のたてがみをそっと撫でる。
柔らかな毛は雨に濡れてしっとりしており、ひんやりした感触はフィリアの心を落ち着ける。
もくもくと馬を進めていると、不意に隊列が乱れるのがわかった。
王立魔法防衛軍は大きく二つに分かれており、一つは武器を有し己の腕で魔物を倒す武術隊。もう一つは四大元素や精霊を従わせて奇跡を起こす魔術隊である。
その彼らが隊を組んで討伐団を結成し、各地方で起きる魔物の被害を食い止めるのを日常としていた。
今回も前方には騎士や戦士、弓隊なんかが列を組んですすみ、その後ろに魔術師の隊が続いている。
その前方に一騎、馬を止めてこちらを振り返る存在がいた。
「フィリア、怪我はないか？」
「ウィリアム隊長!?」
名前を呼ばれ、ぱっと顔を上げたフィリアは、濡れた眼鏡とフードの縁の向こうに笑顔で手をふる彼を見つけて大いに慌てた。
「すまない、なかなか傍にいられなくて」
慌てて彼の傍に馬を近寄せると、義兄がふわりと微笑んだ。その様子に胸が高鳴る。
ユーディアライト公爵令息で魔法剣士のウィリアム・リーファスは、そんなしゃちほこばる義妹を前に、濡れた前髪を掻き上げるとうっとうしそうに空を見上げた。
切れ長の金色の瞳に、通った鼻筋と恐ろしいほど冷たく整った容貌。
初めてウィリアムと顔を合わせた人間は、大抵氷のように冴え冴えとした美貌を前に極限まで緊張を強いられる。
そんな彼は、一部で凍れる美丈夫騎士と呼ばれているのだが、義妹のフィリアと接するときだけは違っていた。
「も、問題ありません。隊長こそお疲れなのでは？」
ちらちらとこちらを見る視線を気にしながら、フィリアが早口で答える。その様子に、ウィリアムの眉間にきゅっと皺が寄った。
「どうした？　何か心配事でも？」
「え!?」
挙動不審になっている自覚はある。
なにせ目の前の相手は義兄である前に、国王陛下にも一目置かれる凄腕の騎士で、更には次期公爵、現・ハルバート子爵なのだ。
公爵に保護され、娘同然に育てられたとはいえフィリアとウィリアムに血のつながりはない。養女に……と公爵から打診された際は恐れ多いとすぐにお断りをしていた。
だが公爵も、その妻の夫人も、彼の姉、エルミナもフィリアを娘や妹として扱うため軍の中にはフィリアを公爵令嬢だと勘違いしている者もいる。
だが大半の人が二人の関係を知らないので、ウィリアムが気さくに話しかけるフィリアに「何者だ」と訝しむような視線が常にまとわりつくのだ。
居心地悪くそわそわしながら「なんでもない」ことを強調し、ウィリアムには早々に戻ってもらおうと考えるが、彼は眉間にしわを寄せたまま深刻な顔で言った。
「熱があるのか？　帰路はだいぶ雨に打たれたし……フィーは炎の精霊魔術師だから、雨はご法度だと君の契約精霊が言ってたぞ」
「え？　いや、それはナージャが炎の精霊だからそうだというだけで私は──」
「おいで」
「はい!?」
真剣な表情のウィリアムが両手を差し出し、フィリアは馬上で固まった。
おいで……とは？
「ほら、風邪のひき始めかもしれないから」
にっこり笑う彼だが、目が笑っていない。
有無を言わさぬ圧を感じ、フィリアは視線を泳がせた。
まず「おいで」とは何を指しているのか。一緒に馬を並べて帰ろうということか。それとも熱があるかないか、触れて確かめたいということか。
「問題ありません。そもそも隊長は先導ではありませんか？　このような位置にいらっしゃるのは賢明とは思えませんが」
通り過ぎていく隊列に視線を投げながら、至極当然のことを訴える。だが目の前の男は鼻を鳴らすだけだ。
「問題ない。あとは戻って師団長に報告するだけだからな。後ろに居ようが前に居ようが関係ないだろ」
「ですが、作戦終了の報は王都に届いております。どの隊が討伐に向かったのかも王都中に知られておりますので、恐らく住人は皆、帰還する隊長を一目見ようと集まって──」
「くどい」
ぴしゃりと言われ、フィリアは口をつぐんだ。
「俺がどこにいようが関係ない」
更に低い声で囁くように言われる。
「それに俺が気にするのはフィーのことだけだ」
焦れたように伸びてきた両腕が、フィリアの細く華奢な腰を掴むと、小柄な彼女はあっという間に彼の馬の前に座らされてしまった。
「ちょ……ウィル!?」
思わず素が出てしまう。大いに慌てるフィリアだが、あっという間に彼の着ているマントの中へと抱き込まれ、顔から火が出そうになった。
幸い目深に被ったフードのお陰で、真っ赤になっている姿は見られないと思うが、それでも隊長がフィリアを抱え込んでいることに変わりはない。
一人焦って馬を降りようともがいていると、それを咎めるかのように、何のためらいもなく大きくて温かい手がむき出しのフィリアの頬に触れた。
「ひゃ!?」
「やっぱり、冷え切ってるじゃないか」
変な声を出すフィリアに構うことなく、呆れたように呟いたウィリアムが指先をそっと滑らせて肌を辿り始めた。
「なんか脈も速くないか？」
細い首筋に押し当てられた二本の指を、否が応でも意識する。
「呼吸も乱れてるし」
（それはこんな風に触られると緊張と不安でいてもたってもいられなくなるからですッ）
不思議そうなウィリアムの言葉に胸の裡で突っ込み返しながら、フィリアは慌てて彼の手首を掴んで引き剥がした。
これ以上肌を辿られるわけにはいかない。
「熱もないですし！　すこぶる健康ですから、馬に戻ります！」
肩越しに振り返り、むーっと睨みつける。だがウィリアムはそんなフィリアに小さく笑うだけだ。
「だが冷えた身体を放置はしておけない。大人しく俺に抱かれてろ」
甘い声が耳元で囁き、顔全体がかあっと熱くなる。
「ご、誤解を招く言い方はどうかと思いますが!?」
声がひっくり返るが構ってなどいられない。羞恥に真っ赤になりながら、毎度フィリアを揶揄ってご満悦になる義兄を睨みつけた。
確かに尊敬しているし、憧れてもいる。
だがこの過剰で過保護なスキンシップだけは理解できなかった。
眼鏡が雨に濡れるのも構わず、ぐっと顎を上げて反抗的な態度をとる。だがウィリアムにとっては子猫にじゃれつかれている程度にしか思えないのだろう。
「誤解じゃないんだからいいだろ」
そう言って、フィリアが拒絶するより先に、すっぽりと両腕で胸元に抱き込んでしまった。
先程よりももっと深く、懐に掻き抱かれ、白いマントがフィリアの身体を覆い隠す。
隊服に包まれた、彼の鎖骨の辺りに頬を押し当てながら、フィリアはいたたまれずに俯いた。
その彼女の耳朶を優しく指先で挟んで弄びながら、ウィリアムは満足そうに溜息をついた。
「うん。これで俺も安心だ」
（なにも安心じゃないし周囲の視線が痛いしなにより『これ』が『それ』ではないと否定しにくくなるッ）
鼓動が激しく高鳴りだし、身体中が熱い。
あまりお酒は飲まないが、飲んだ時のように身体が熱くふわふわしていて脳がくらくらするのに、どういうわけかウィリアムと触れている部分だけが敏感で、やたらと彼を意識させられる。
（この鼓動はッ……周囲からの視線に耐えられないという不安からで……けっして……けっっっしてウィルにこ……ここ……こい……してるからではないのですからねっ!?）
もはやだれに宣言しているのかわからない内容を、胸の中で必死に繰り返しながらフィリアは身体に触れる全てを遮断するように目を閉じた。
そう、これは恋ではない。
憧れや尊敬であり、家族に対する信頼に近いものだ。
だから違うのだ。違う。
（だって……これが『こいごころ』になってしまったら……）
ふわりと、草花に似た爽やかな香りと温かな彼の体温を感じてフィリアは小さく震えた。寒さからではなく、胸に芽生えた小さな恐怖から。
これが「恋」からの感情だと気付いてしまったら、きっともうフィリアはここにはいられない。
ウィリアムは命の恩人なのだ。
彼がフィリアに親切なのも優しいのも、自分が助けた相手に対する義務感からで──……。
「フィー、今日は真っ直ぐ屋敷に帰るんだよ」
そっとウィリアムが囁き、彼の温かな手が額を撫でる。
「でも、報告書の作成と任務終了後報告会が……」
「熱があるんだから参加しなくていい。これは命令」
（……熱なんかないのに……）
うう、と呻き声が漏れる。
だが「隊長」から「命令」されてしまうと従うしかないのが、今のフィリアだ。
「……了解です」
「うん。あとで様子を見に行くから、大人しくしてるんだぞ」
更に甘い声で念押しされてはどうしようもない。
溜息を呑み込み、フィリアは観念したように身体から力を抜いた。


疲れていたのかいつの間にかウィリアムに抱えられて眠っていたフィリアが、次に目を覚ましたのは無事に本部に到着した時だった。
温かかった彼と離れて馬を降り、その間際に「すぐに帰るように」と厳命された彼女は、若干の肌寒さを感じながら魔術棟四階の自部署を目指した。
王立魔法防衛軍本部は三棟からなる五階建てで、実力に応じて所属する階が違っていた。
中央、魔術、武術の三つの棟の最上階には指揮官や一級クラスの実力を持つ者たち……第一階層の人間が詰め、あとは実力や年齢に応じて階が下がっていく。
一階は受付のあるエントランスで、一般の人たちからの陳情も受け取っていた。
フィリアはその中で魔術隊の第二階層に所属していた。
周囲には五十代以上の歴戦の魔術師やずば抜けて高い能力を持つ者たちがいて、空気としては他の階層よりも落ち着いている。
国のトップである第一階層や若者中心の第四階層と違い、第二階層は実力がありながら、適度に枯れている部署なのだ。
人と触れ合うのが苦手なフィリアにとって、ここは穏やかで波風の立たない良い職場だった。
「お疲れ〜。どうだった？　遠征は」
フロアに足を踏み入れると、ややハスキーな声音に迎え入れられて、フィリアはコーヒーを手に歩み寄る同僚の女性魔術師に笑みを返した。
「お疲れ様です、ベルベッド」
美しい銀髪を高く結い上げ、切れ長の涼し気なブルーの瞳の彼女は色白で背が高く、その近寄りがたい美貌とは裏腹に、面倒見のいい姉御気質だった。
隣の席の彼女が座るのを見た後、腰を下ろしたフィリアは溜息交じりに応えた。
「……今日の遠征先も例のあれでした」
それにベルベッドが眉を寄せる。
「また？」
「はい」
ここ最近、魔物の討伐に赴いた先でとある現象が起きている。
精霊がいない、という現象だ。
今回の任務は、王都から三日ほど行ったところにある村の、異臭騒ぎに端を発している。
村人からの訴えを受けて派遣された先行隊が確認したところ、森の奥に広がる湿地帯に瘴気が溜まり、魔物が生み出されていたのだ。
「湿地を管理すべき精霊がいなくて……我々が辿り着いた時には討伐しなければいけない魔物が棲みついていました」
酷くぬかるんで湿った土地は本来、湧き水からなる湖沼があちこちに広がる美しい場所だった。だが水は淀み、腐臭が漂う陰気な沼地へと変貌していたのである。
十日ほど前はこんな状況じゃなかったのに、と嘆く村人にフィリアは精霊の有無を尋ねた。
答えは「彼らが突然いなくなってしまった」というものだった。
「……なんか最近多いわよね……」
「村の人たちも精霊と話ができるわけではないので原因がわからないのですが、不気味です」
苦々しく答えると、同じように眉間にしわを寄せていたベルベッドがふと顔を上げて目を見張った。
「あら、ヘレン」
その声に顔を上げたフィリアも、入り口から中を覗き込んでいる黒髪の女性を発見して目を瞬いた。
腰までの漆黒の髪に、長い睫毛に縁どられたぱっちりと大きい、深い青の瞳。色白で小柄な彼女は、水の精霊魔術師、ヘレン・コッカーだ。
精霊魔術師は本来、フィリアやベルベッドと同じ第二階層に所属するべき存在なのだが、彼女は婚約者のストラノ伯爵、タイロン・ランチェットとともに、第三階層に所属していた。
なんでも伯爵が、大切なヘレンを危険な目になるべく遭わせたくないからだとまことしやかに言われている。そしてそれが通るほど、二人の親密さは魔術棟のみならず武術棟にまで浸透していた。
精霊魔術師のほとんどが第二階層以上に所属しているため、ヘレンも時折第二階層に顔を出す。
今回もやや青ざめた顔で周囲を見渡し、フィリアを見つけてほっとしたように表情を緩めた。
「戻ってたのですね。よかった」
そう言って近づいてきた彼女が、沈痛な表情で「どうでした？」と尋ねてきた。
その様子に、フィリアは首を振った。
自然を適切に管理する精霊たちは普段は異界に棲んでいるが、フィリアたちが暮らす世界に出てくることもある。
例えば、自然の一部を魔物が汚染していたり、人間の負の感情が集まってできた瘴気だまりがあると、彼らが現れて浄化をし、魔物の発生を未然に防いでくれるのだ。
その際に、土地の汚染状況や注意事項を会話ができる魔術師たちに教えてくれたりもするのだが、最近、接触が無いことを不安視していた。
「やっぱりですか。第三階層でも精霊を見かけないと話題になっていて……。彼らは気まぐれで、私たち精霊魔術師でも関わり方が様々ですから気のせいかな、なんて言ってたんですが……」
「ヘレンさんは大丈夫なのですか？」
精霊魔術師と精霊の関係は契約を交わした後、親友同士のように心を通わせるものから、報酬を提示して力を貸してもらうだけなど様々だ。
ヘレンはフィリアと同じく精霊と心を通わせるタイプで、もし消えたり音信不通になっていたりしたら心を痛めているだろうと考えたのだ。
「私は……大丈夫です。でも心配で……」
やはり顔色が悪い。水の精霊と契約する魔術師は心優しい繊細な人が多いので、現状が不安なのだろう。
「フィリアはどうなの？　精霊とコンタクトできなくなったりとかない？」
ヘレンの様子からただ事ではないと肌で感じたベルベッドに尋ねられ、フィリアは思わず苦笑した。
「私の契約精霊は特に問題はなかったです。湿地に棲みついていた水棲の魔物相手に意気揚々と戦ってましたから」
「精霊がいないことについては？」
「なんでだろうね、って」
「完全に他人事じゃないの」
思わず半眼になるベルベッドに、フィリアは乾いた笑い声をあげた。
自身と契約を結んでいる炎の精霊、ナージャは、毛先が黄金色の緋色の髪に、真っ白で透き通った肌。少しつり上がった猫の目のような深紅の瞳を持つ女性型の精霊だ。
フィリアと同年代くらいの外見で、かなり好戦的な性格。特に水属性の魔物相手に容赦がない。
その彼女と契約するために、フィリアは保護された二年後の十七歳の時に温泉が湧く火山地帯へと出向いた。
いつまでも火事のトラウマを引きずって、くすぶっていてはいけない。
公爵家で少しずつ元気を取り戻したフィリアが次に考えたのは、助けてくれた皆に恩返しがしたいということだった。
両親が魔術師だと知って、自分にも才能があるかもしれないと公爵閣下にお願いして魔力測定をしてもらった。
結果、普通の魔術師よりもずっと魔力が多く、精霊魔術師としての素質があるとわかるやいなや、公爵閣下やウィリアムの力になりたいと契約精霊を探すことにしたのだ。
その際に、フィリアはどうしても炎の精霊と契約を結びたいと考えていた。
ウィリアムや皆には大反対されたが、フィリアは頑固だった。
怖いものを怖いままにしておくよりも、意のままに操れるようになって危機を回避したいその一心で、温泉地の上部にあった火山地帯を渡り歩いた。
有毒ガスが行方を阻む中、火事で呼吸困難になったことを思い出してパニックを起こしたフィリアに、突如現れたナージャが、「あんた馬鹿なの？」と呆れた調子で声を掛けてきたのだ。
（あれからナージャは私の大切な相棒になった）
彼女を公爵家の面々に紹介した際、公爵と夫人、義姉は諸手を上げて喜んで褒めてくれたがウィリアムだけが猜疑心の滲んだ眼差しでナージャを睨みつけ、挙句喧嘩を売っていた。
なんでも「フィリアの心の傷を抉るような真似をしたらただじゃおかない」ということで、未だに彼はフィリアがナージャと仲良くするのを懸念している。
かと思ったら二人で結託して、いつの間にかフィリアの行動を把握していたりするから始末に負えないのだ。
今回だって、ナージャが淀んで荒れた沼を全てを灰にする勢いで戦っていたのは、ウィルから何か言われたに違いない。そう思い出してフィリアは少し遠い目をした。
「もともと精霊たちは個々で生活をしているので……横のつながりはあまりないんです」
ヘレンがフォローするように言う。
彼らは異界で好き勝手に暮らし、自分の領域に不具合が生じると、半分繋がっているこちらの世界に顔を出し、生じている異変を解決していくのだ。
そんな彼らを一般の人でも見ることはできるが、アドバイスを貰える人間はごく少数で、魔力を持った者がほとんどだ。
その中で更に、彼らが「力を貸してもいい」と判断して契約するのが「精霊魔術師」である。
契約条件は様々だが、基本的に魔力量が多い者でないといけない。これが多くないと精霊と話をすることすら叶わないのだ。
ナージャもわりと気まぐれで、馬鹿だと評したフィリアと何故契約したのか聞いてみたところ「あなたに運命を感じたのよね」という謎の返答がきたのである。
（そのナージャも湿地帯の惨状を見て、これだけ場が荒れてるのに出てこないなんてよっぽど無頓着な精霊かその領域を放棄したか、存在自体が消えたかだって言っていた……）
こちらの世界と繋がる精霊の世界で、場が汚れているのに平気なのは尋常ではないという。
でもその原因はわからないとナージャはあっさり答えていた。
そのうちに雨が降ってきて、濡れるのを嫌う彼女は異界に引っ込んでしまった。
今も近くにいる気配のない彼女に、天気が良くなったらもう一度聞いてみようかと考えていると、ぐいっと伸びてきた手に額を触られて仰天した。
視線の先で怖い顔をしたベルベッドが、フィリアの額に手を当てたままこちらを睨んでいる。
「あなた、やっぱり熱あるわよ」
「ええ？」
「普段ならもっとてきぱき動いてるのに、椅子に座り込んでぼんやりしているんだから問題ありよ」
そうだろうか、とフィリアは自分の掌を額に当てるがよくわからない。
ヘレンまで心配そうに顔を覗き込んできた。
「フィリアさんの熱は精霊が消えた原因と何か関係があるのではないのですか？　ほら……前に精霊の魔力だけを抽出して奪い取る魔物がいるって報告があがってきてましたよね？」
フィリアの魔力が喰われたせいで発熱してるのではと眉間にしわを寄せるヘレンに、彼女は誤魔化すように両手を振った。
「ちがいますよ。沼地に居た連中は全部討伐したし、瘴気だまりも綺麗に浄化してきましたから」
「じゃあ、その熱は単なる体調不良ということになるわね」
目が笑ってない笑顔のベルベッドに力強く肩を叩かれ、「そうですね」とぎこちなく返す。
ナージャがいない今、精霊魔術師の自分にできることは少ないだろう。
正面の巨大な窓の向こうは暗く、相変わらずの雨で、いくつもの雫がガラス面を滑り落ちていく。
それを眺めながら、水の精霊使いのヘレンは憂えるように溜息を吐いた。
「私もそろそろ戻りますね。タイロンも戻って来るでしょうし……」
ヘレンにぞっこんのタイロンは、少しでも彼女の姿が見えないと焦ったように探しに来る。時折このフロアにもやってくるのだが、彼はフィリアが「普通に接することができる」稀有な男性の一人だ。
「精霊が消える件、また何かありましたら教えてください」
深々とお辞儀をして去っていく背中を見送り、隣のベルベッドに何げなく尋ねた。
「ベルベッドももう帰るんですか？」
「めんどくさいから隊舎に泊まるわ」
こうみえて、ベルベッドは子爵家の令嬢だったりするのだ。
この国では魔力が高い者や、剣術、武術のセンスのある者は王侯貴族だろうが平民だろうが、王立魔法防衛軍へと徴集される。
給料も出るし三食完備の宿舎もあるが、貴族やその子女は自分の生活スタイルがランクダウンするようで、複雑な心境になるのが常だ。
だがベルベッドは、家柄のことや贅沢な暮らしにほぼ興味がなく、大抵敷地内の隊舎で生活をしていた。
「あんたはちゃんと帰りなさいよ？　じゃないとウィリアム隊長から叱られるわ」
そんな越権行為は通らないと言いたいが……。
（ウィルだもんなぁ）
げんなりして溜息を吐く。
「今日はちゃんと帰ります。お疲れさまでした」
立ち上がり、フィリアは深々とベルベッドに頭を下げた。そのままフロアから出ようとして、階段を上ってきた金髪の男性魔術師を見て足が止まった。
やや着崩しているローブの間から、赤色の短めの上衣とむき出しの腹部が見えて、フィリアはその場で固まってしまう。
妙な緊張感と逃げ出したい感情を伴うそれにじわじわと手足の血が冷えていった。
「すみませ〜ん。ここにフィリアさんって精霊魔術師、いませんか？」
金髪の青年がだいぶ人気の減ったフロアを見渡して片眉を上げる。
固まるフィリアを見て、ベルベッドが素早く立ち上がった。
「フィリア嬢になんの御用でしょうか」
冷たい表情でつかつかと大股で歩み寄る、長身の美女を前に一瞬だけ訪問者の魔術師がたじろいだ。
「あの……すみません、あなたは……？」
「フィリア嬢は作戦後報告会の最中です」
にこっと微笑み、それから腕を組んで相手を威嚇するように背筋を伸ばす。
「で？　第四階層の方が何の御用です？」
フードの胸元に輝く宝石の色が階層を示している。ちらりと視線を落としたベルベッドのぴりっとした物言いに、男の腰が引けた。
「あ……いやその……公爵家の精霊魔術師さんっていうのがどういう人なのかなって」
歯切れの悪い物言いに、フィリアは苦いものが込み上げるのを覚えた。
二十代前半の魔術師が第二階層に所属できるのは極めて稀だ。
ベルベッドはずば抜けて高い魔力保有量と四大元素──風水火土の魔術全てを完璧に使いこなせる才媛として十代のころから有名だったので、誰もが第二階層でも妥当だと思っている。
問題はフィリアだ。
確かに精霊魔術師は第二階層に所属するのが基本だが、若手の精霊魔術師は大抵第三階層から始める。
そこを飛ばしたフィリアは、ユーディアライト家のごり押しがあったのではないかと一部で噂されているのだ。
更にヘレンが同じ精霊魔術師でも第三階層に留まっていること、彼女は貴族の出ではないことから比べられたフィリアが悪しざまに言われることがあった。
実力で階層が決まり、そこに作為などないのだが、やっかんだ人間がこうやって見にくることもよくある。
（……そういうのってやっぱり、『私』に問題があるのかな）
ここにはいません、お引き取りを、と胸を張って告げるベルベッドの頼もしい背中を見つめながら、フィリアは唇を噛んだ。
現在フィリアは、魔術師の制服である若葉色のマントと法衣を着ていた。
腰には珊瑚色のリボンが結ばれているが、体型がわかりづらい、だぼっとした服装である。更に眼鏡をかけ、緩やかにウエーブのかかった金髪を適当に結わえているだけだ。
対してベルベッドは同じ法衣でも、身体にフィットしていてスタイルの良さが押し出され、髪も肌も艶やかで美しい。
彼女と並ぶと、「貧相な小娘」感がぬぐえなかった。
それが……「なんであの女が？」という疑問と好奇心に繋がるのだろう。
（でも……）
綺麗なドレスや、体型にあった服装、凝った髪型に憧れる気持ちはある。
だがそういう格好をした時、周囲の視線が……特に男性の視線が自分に向くとどうなるのか。
ぶるっと身体が震える。
（厭らしい目で見られたりしたら……きっと恐怖が爆発する）
しぶしぶ引き下がる男性魔術師から視線をそらし、フィリアはぎゅっと両手を握り締めた。
かたかたと小さく震える拳が目に飛び込み、奥歯を噛み締める。
動悸はやまず、身体は冷えていく一方だ。
（これじゃダメだってわかってるのに……）
フィリアは男性が苦手だった──というよりも、嫌いだった。
理由は幼い頃の体験にある。
五歳のフィリアを保護して、妙齢になると売り払った親戚夫婦は声が大きく、特に夫の方の機嫌が悪い時には殴られた。
更に売られた先の娼館で、裸で女性を追い回す男性を何人も見た。
大抵がじっとりと湿った眼差しに、厭らしい笑みを浮かべていた。
嫌がる女性を捕まえて引きずっていく様子に恐怖を覚え、その連中の相手をしろと意味のわからないことを言われて吐いてしまったのだ。
それを見た娼館の女主に引っぱたかれ、無理やり中年男の前に突き出され、服を半分引き裂かれて死ぬほど抵抗した結果、五日間食事を与えられず監禁された。
そしてフィリアは男性が嫌いになった。
嫌悪しているし、近くに寄ることも嫌だった。
公爵に助けられ、自分を護ってくれたウィリアムの努力もあってだいぶ克服したとはいえ、居丈高でギラギラした男性はやっぱり苦手で、顔を合わせると血の気が引いて身体が震える。
それが恐怖による作用だと、フィリアは十分に理解していた。
身体が昔の嫌なことを覚えていて、防衛しようとするのだ。
現在所属する第二階層の男性魔術師は全員既婚だし、穏やかで優しく、声を荒げることはない。
公爵閣下と同様に、まるで娘に接するように色々心配してくれる。
第二階層の術長、イザベラも女性で配慮してくれるし、同僚のベルベッドはいち早くフィリアが抱える問題に気が付いて、こうしてやって来る連中を追い払ってくれる。
ヘレンの恋人のタイロンも平気なのだが、それは恐らく彼がヘレンしか目に入っていないからだろう。
そんな彼らとは違う、野心家で血気盛んな他の部署の人を見かけても普通に接することができるようになりたいのだが、相談したウィリアムは、もし何か起きても自分が助けるからと甘やかすばかり。
それがフィリアは歯がゆかった。
（ウィルの隣で戦いたいのに……どうしても身体が動かない）
視界から例の若い魔術師が消えた瞬間ふっと身体のこわばりが解け、息が吸いやすくなる。
無意識に深呼吸を繰り返していると、戻ってきたベルベッドがフィリアの冷えた手を取って握り締めてくれた。
「無理するなよ、フィリア」
「……ベルベッド」
揺れる視線の先で、ベルベッドが赤い唇を弓形に引き上げる。
「ウィリアム隊長も、それは『防衛反応』だから気にするなって」
「でも、このままでは肝心な時に役に立たないかもしれません」
じわじわと熱を取り戻す手で彼女の手を握り返す。
「……それに私が思うに……たぶん、この『防衛反応』をコントロールできず、恐怖が振り切ってしまったら──」
ぞくりとフィリアの胃の腑が震えた。
赤々と燃え上がる炎。喉が焼けるような熱い空気。鼻腔いっぱいに広がるきな臭さ──。
それらは全て、フィリアが「触れられることを拒絶した」ために引き起こされた事態だった。
ならばそれがまた起きない保証はどこにもない。
青ざめて黙り込むフィリアとは対照的に、ベルベッドは何でもないように優しく目を細めた。
「だからこそ、全く問題なく触れられるウィリアム隊長で徐々に慣れていけばいい」
「……そう、ですね」
「公爵閣下も大丈夫なんでしょ？　あとうちの連中」
「……はい」
「それでいいじゃない。それにフィリアは今のところ、ウィリアム隊長の妹ポジションだけど、血のつながりはないんだからさ」
「……はい……？」
血のつながりがないのが……なんなのだろう。
思わず目を瞬き、不思議そうな顔でベルベッドを見上げるが、彼女はからからと笑うばかりだ。
「というわけで、あいつもいなくなったし帰りなよ」
手を放したベルベッドからぽんぽんと背中を叩かれて、疑問はそのままに力なく頷いた。
気持ちが落ちているのがわかる。もしかしたら本当に熱があるのかもしれない。
（私は公爵閣下とウィルの力になりたいのに……）
男性が怖くて嫌いで、現場に出る際には必ずイザベラ術長が付いてきてくれて、さらに作戦の隊長はいつも義兄だなんて……これでは「公爵家がごり押しした」と言われても反論しづらい。
挨拶をしてフロアを出ると、とぼとぼと階段を下りて未だ雨の止まない一階中庭へと出た。
魔術棟の正面入り口を目指して雨の吹き込む回廊を早足に進んでいると、視界の端を白いマントの裾が掠めた。
少し気になって、何気なく視線を向ければ、既に日が暮れて真っ暗になった中庭に魔法燈が光っているのが見えた。
その下に。
（……ウィル？）
艶やかな黒髪が雨に濡れ、端正な横顔がちらりと見える。
その彼が自分の腕の中に視線を落とし……──。
その瞬間、フィリアは呼吸を忘れた。
「え……」
ウィリアムが誰かを抱き締めているのが目に飛び込んできたのだ。





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    <dc:creator>ガブリエラブックス</dc:creator>
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    <title>【3月30日発売】婚約破棄の黒幕は溺愛お義兄様　その正体は隣国の冷血皇帝でした【本体1300円+税】</title>
    <description></description>
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●著：水島 忍
●イラスト：SHABON
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543853
●発売日:2026/3/30</div>

<p><span class="f130 black">憧れのお義兄様は隣国の皇帝陛下!?　急な求婚にとまどっています<br /></span>

前世の記憶を持つ伯爵令嬢ルディアは七回目の婚約破棄をされたところに現れたシスレイヤ帝国の皇帝、レオンハルトに突然求婚される。彼は幼い頃、皇位争いから逃れるためルディアの家に滞在していた義理の兄のような存在だった。
「君のためなら、私はなんだってする」
憧れていたレオンハルトの熱情に心揺れるルディアだが、彼が前世読んだ小説のヒーローで聖女と結ばれるはずだと思い出し!?

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プロローグ



花々が咲き乱れる庭の中を歩いていくクルーン伯爵令嬢ルディアは七歳だった。
赤い髪にいつも大きなリボンをつけて、可愛いドレスを着ている。くっきりとした緑の瞳がチャームポイントの女の子だ。
ルディアは逸る気持ちを抑えて、なるべく早足で歩く。
だって……『あの人』がいなくなってしまったら嫌だから。
庭は広い。子供の足ではなかなか目的の場所に辿り着けなかった。
早く会いたい。会って、少しだけでもいいから話がしたい。
ルディアはやっと目的の場所が見えるところまで来た。大きな木の下に横たわり、昼寝をしている少年がいる。
「レオンおにいさま！」
ルディアは駆け出したところで、転んでしまう。
「いた……っ」
目に涙が滲むけれど、泣くのは我慢する。だけど、膝が痛むのは仕方なかった。
「……ルディ」
レオンの温かみのある声がして、目を上げる。すると、彼が優しく微笑んでいた。
金色の輝く髪が眩しい。青い瞳は濃い色で、藍色みたいに見えた。その瞳がルディアを見つめている。彼は十二歳の少年だが、大人みたいに落ち着いていた。
「怪我したの？　痛い？」
「……ううん。すこし……すりむいただけ」
正直、レオンの優しい顔を見るだけで、痛みは吹っ飛んだ気がした。
レオンお義兄様……。
彼は本当の兄ではない。隣国に住む母方の遠縁の子だが、何か理由があって、このクルーン伯爵の領地に身を寄せていた。
初めて会ったのは一年前で……。
あのときから、ルディアはレオンに夢中だった。
だって……顔立ちが整っていて、すごく綺麗だから。加えて、優しい。子供なのに紳士みたいな雰囲気がある。ちょっと我儘を言ってみても、ちゃんと聞いてくれる。
まあ、理由はいろいろあるが、要するにルディアの好みだった。
「ルディはおてんばさんだな」
レオンはルディアの目尻に溜まった涙を指先で拭ってくれる。
ああ……やっぱり、レオンお義兄様は最高に素敵よ！
心の中でレオンを愛でること、それが七歳のルディアの楽しみだった。
ルディアは領地にあるこの屋敷で生まれ育ち、両親にこれでもかと愛情を注がれ、使用人にも恵まれて、幸せな日々を送っていた。
見た目は無邪気に笑顔を振りまくただの幼い女の子。
けれども、実はルディアには前世の記憶があった。
そう。日本人として二十四歳まで生き、事故により亡くなったという……。
物心ついたときには、もうこの記憶があった。だから、時々おかしなことを言う子だと、周囲から思われていたようだ。
科学が発達した現代日本で便利な生活を享受していた社会人からすると、この世界はあまりにも文明が遅れていて、不便が多い。たとえて言うなら近世のヨーロッパだ。だが、現実のヨーロッパではない。
家庭教師から地図を見せてもらったことがあるが、まず大陸の形が違う。知らない国名ばかりだし、何より一番違うのは『魔法』というものの存在だだ。
すべての人が魔法を使うわけではないが、限られた人達が才能を持って生まれ、学び、訓練して、魔法を使えるようになるらしい。その限られた魔法使い達がこの世界になんとか便利さをもたらしていた。
つまり、ここは前世とは違う異世界ということだ。
そんなわけで、ルディアは前世の常識を口にしては、事情が分からない周囲の人達を惑わせていた。七歳になった今では、さすがに口にしていいことと悪いことの区別がつくようになったから、そんなことはあまりなくなっていた。
というより、前世のことはもう忘れなくちゃと思っている。
だって、いくら元の世界に戻りたくてもどうしようもない。自分はこの世界で生きていくしかないのだ。それなら、なるべくこの世界の常識に沿って、目立たぬように振る舞うしかなかった。
だから、七歳にふさわしい言動を心がけていた。
といっても、ルディアはクルーン伯爵家の長子だから、勉強をしなくてはならない。爵位を継ぐのは三歳下の弟オスカーだが、それでも嫁ぐまでは、長子としてクルーン伯爵家を代表するような教養とマナーを身につけなくてはならなかった。
いつも遊ぶときは思いっきり遊び、勉強するときはそちらに全力を注いでいた。
今日も午前中は勉強をし、ランチを摂った後は、レオンに会うためにここに来た。
彼は同じ屋敷で暮らしているのだから、別にここでなくても会うことはできる。実際、朝食や夕食は同じ食卓で摂っているのだ。
だけど、二人きりで話せるのはここだけなのよ。
特にオスカーがいると邪魔だ。オスカーにとって、レオンは憧れの兄みたいなもので、関心を引いて、遊んでもらいたいようだった。
ルディアは別に遊んでもらいたいわけではない。ただ一緒にいたい。話がしたい。彼の王子様のような優しい微笑みを見たい。それだけだった。
彼は毎日のように、この時間はこうしてこの木の下で読書をしていた。そして、たまに昼寝をしていることがある。ルディアは彼が寝ていようと構わない。そのときは長い睫毛をゆっくり堪能できるからだ。
なんだか我ながら気持ち悪いけれど……。
でも、彼が起きていたら、なかなか睫毛の長さが分かるほど凝視できないのだ。
だって、顔が美しすぎるから。見つめていると照れてきてしまう。
「ねえ、レオンおにいさま。きょうはなんのごほんをよんでいるの？」
ルディアは木陰で彼の隣に座りながら尋ねた。
「……隣にある帝国の歴史の本だよ。歴史って分かるかな？　今まであったことを書いた本なんだ」
彼は七歳の子供にも分かるように説明してくれた。
「シスレイヤていこく？　せんせいがおしえてくれたわ」
彼がその国の出身だということも知っている。
「偉いな、ルディは。もうそんなことまで勉強しているんだね？」
彼はルディアの頭を撫でてくれた。瞳は甘く蕩けそうに見える。ルディアは自分に向けてくれる彼の微笑みが嬉しくてならなかった。
ここはネルタン王国だ。古くからある国で、歴史はシスレイヤ帝国より長い。ただし、シスレイヤ帝国は広い領土を持ち、国力もある。ネルタン王国がいつも警戒している国でもあった。二国は対等というのが建前だが、実際にはシスレイヤのほうが力を持っている。外交であれなんであれ、ネルタンは属国とまではいかないが、シスレイヤには何もかも配慮しなくてはならない状況にあった。
ルディアはそういったことを家庭教師以外から学んだ。字が読めるようになってから、すぐにたくさんの本を読み漁ったのだ。
もっとも、ルディアが本当に本を読んでいるとは誰も思っていなかった。ただ、大人の真似をして、本を開いて読んでいるふりをしているだけだと思われていた。
「わたしもレオンおにいさまみたいになりたいの。だから、おべんきょうをがんばっているのよ」
てっきり彼は微笑んでくれると思った。幼い女の子が自分を見習って勉強しているのだから、普通は微笑ましいはずだ。
だが、彼は何故だか戸惑った表情を見せた。
「僕みたいになりたい……？　ルディ、でも……」
『でも』の続きは何？
聞きたかったのに、彼は話してくれなかった。その代わり、ルディアの手を握った。彼はルディアが欲しかった優しい笑みをくれる。
「ルディ、お散歩に行こうか」
「うん！」
元気のいい返事をして、ルディアは彼の手をしっかりと握った。彼の手の温かさが感じられて、幸せな気分になった。
庭の中に咲くたくさんの花々。二人はその中を歩いていく。
レオンお義兄様がずっとこの屋敷にいてくれればいいのに。
そして、ずっとずっとこんなふうに手を繋いでいられたらいいのに。
そのときのルディアはただそう願っていた。
第一章　七回目の婚約破棄
二十歳のルディアは舞踏会へ向かう馬車に乗っていた。
幼い頃はクルーン伯爵家の領地にいたが、大人になった今ではこのネルタン王国の王都にある屋敷で暮らしている。舞踏会やらお茶会やらに招かれて、社交をするのが今のルディアの毎日だった。
艶のある赤い髪は優雅な形に仕上げられ、銀細工の髪飾りがつけられている。繊細なレースをふんだんに使った高価なドレスを身にまとったルディアは、緑の瞳を曇らせて、溜息をついた。
こんなに素敵に装ったというのに、どうにも気分が優れない。というより、憂鬱でたまらなかった。
何故なら……。
婚約者のジャイルズが迎えにこなかったからだ。
今夜は王宮で行われる舞踏会だ。よほどの理由がない限り、婚約者がいる未婚の男女はそれぞれ婚約者をパートナーとして出席するのが習わしだというのに、ジャイルズはいくら待っても来ない。そのため、弟オスカーが代わりにエスコートしてくれることになった。
目の前の席で、オスカーは心配そうな眼差しを向けてくる。彼もまたルディアと同じ赤毛に緑の瞳を持っていた。十七歳という年齢にふさわしい初々しさがあったが、それでも姉をエスコートするために完璧な装いをしている。
「姉さん、大丈夫？　具合悪いなら、行かなくてもいいんじゃないかな」
オスカーは幼い頃から姉想いだった。ルディアは彼を安心させるために微笑んだ。
「大丈夫よ。ジャイルズは向こうで待ってくれているかもしれないし……」
今夜の舞踏会に出席することは手紙で伝えてある。いつもなら彼が我が家に迎えにきてくれるはずだった。
遅れるとか、欠席するとかいう知らせも来なかったし、いったいどうなっているの？
ああ、なんか嫌な予感がする……。
やたらとオスカーが心配そうにしているのも、彼もまた同じ予感がしているからなのだろう。
実は、ジャイルズはルディアの七番目の婚約者だ。過去、六回も婚約破棄されている。
最初に婚約したのは、ルディアが十二歳のときだった。婚約するには早すぎる気もしたが、親が決めた。貴族同士の婚姻は自分のしたいようにはできないものだということは、十二歳にもなれば理解できる。だから、相手はいい人のようだったし、結婚したら幸せになれるよう努力するつもりだった。
ところが……だ。一年も経たないうちに向こうから断られた。
理由はなんだったか。もう覚えていない。とにかく一方的に破談を申し入れられて、慰謝料が払われたと聞いた。
それから、二度目の婚約と婚約破棄、三度目、四度目と続いた。自分が呪われているのではないかと思ったくらいだ。あまりにも同じようなことが続いたとき、ルディアは父に話をした。
結婚は諦めて、一人で生きていくすべを身に付けたい、と。
貴族の令嬢は結婚するのが普通だが、行き遅れた場合は条件が悪くなる。相手が初婚ではなく再婚だとか、もっとひどい場合には年老いた紳士の看病をするためだけの結婚とか、幸せとはほど遠いものになる可能性もある。
それくらいなら、王宮で侍女として働くほうがましだ。家庭教師になるとか、何か事業を始めるのでもいい。その上で縁があれば、結婚することも考えてもいいと思っていた。
何しろルディアは現代日本人の記憶を持っている。当然、この世界の貴族の常識とは違う心も持っている。結婚がすべてではないと思ってしまうのだ。働けば食い扶持が稼げて、生きていけるものだ、と。
しかし、父は絶対にダメだとルディアの案をはねつけた。
とにかく、次に見つける相手と婚約するようにとしか言わない。
仕方ないので、ルディアは父の言葉に従い、婚約をした。そして、また破棄されることを繰り返した。それも六度も。
そして、今は七度目の婚約をしていた。
社交界では噂になっている。ルディアが無事に結婚できるかどうか、賭けをされているらしい。ちなみに、今回も破棄されることに多くの人が賭けているようだ。
ジャイルズは男爵家の令息だ。この世界の身分制度では、伯爵令嬢が男爵家に嫁いでくれるならありがたがるのが普通だが、ジャイルズはそうは思っていないようだ。
いや、最初こそ、腰が低い人だと感じていた。好感までは持てなかったが、努力すればなんとか結婚生活が続けられるだろうと思っていた。
ところが、時間が経つにつれて、化けの皮が剥がれたのか、それとも気持ちが変わっていったのか、少しずつ横柄な部分が見えるようになっていった。手紙のやり取りも減り、花が贈られたのもいつの日のことか。会いにきてくれる回数も減った。エスコートが必要なときに、直前で断ってくることもあったのだ。
だから、なんとなく嫌な予感はしていた。
もしかして、七度目の婚約も解消される羽目になるのか、と……。
だが、今夜は直前に断ってくるどころか、断る手間も惜しいのか、連絡なくすっぽかした。それはつまり、彼の意志表示なのではないだろうか。
次に婚約破棄されたら、七度目ということになる。賭けをしている連中はさぞかし沸き立つことだろう。
そんなことを鬱々と考えている間に、馬車は王宮に着いてしまった。多くの貴族が集まるので、正門の前の道路に馬車がずらりと並んでいる。
だから、早く来たかったのに。屋敷でじっとジャイルズを待っていた時間を返してほしかった。
「姉さん……。今夜は俺が姉さんを守るからね！」
オスカーがそう宣言してくれるのはありがたいが、果たして頼りになるだろうか。
今夜はめったに開催されない王宮の舞踏会。たくさんの貴族が招かれている。
だから……今夜だけは何事もなく帰れますように！
ルディアは順番を待つ馬車の中で、祈るような気持ちでいた。


嫌な予感は当たるもの。
いや、当たってほしくなかったが、実際そうなのだから仕方ない。オスカーと共に王宮の煌びやかな舞踏ホールに足を踏み入れたとき、そこに集う貴族達のなんとも言えない視線に晒される羽目になった。
しかも、ひそひそと囁かれている。それに交じって笑い声も。
何度か舞踏会に出席したことがあるオスカーも、その異様さを感じ取り、落ち着かないようだった。
「姉さん……これはなんだか……」
「大丈夫よ。前を向いて」
「……分かった」
若いオスカーに、こんな場面で堂々としていろなんて無理な要求かもしれない。それでも、婚約者に約束をすっぽかされた姉をなんとかリードしてほしかった。そうでなければ、体面が保てない。
しかし、その気持ちも虚しく、集まった貴族達の中からジャイルズが姿を現した。
華奢な若い女性を伴って。
それを見たオスカーは息を呑む。ルディアは驚くより、やっぱりという感覚があった。もう何度も婚約破棄されているから、パターンが分かる。
ああ、そう……。彼もそうなのね。
彼は平凡な容姿をしていたものの、婚約した当初は誠実そうに見えたものだ。もし彼が婚約を解消したくなったとしても、こちらにダメージを与えるようなやり方はしないだろうと思った。
が、彼は真逆のことをしようとしている。
もう……なんて人かしら！
彼はヘラヘラ笑いながら、似合いもしない気障な仕草で自分の髪を撫でつけた。
「婚約者のエスコートなしに、ここに来るとは思わなかったな」
ルディアは肩をすくめる。
「わたしは出席すると伝えました。あなたは迎えにくるのをすっかりお忘れになっていたようですけど」
すると、彼は苛々したように吐き捨てた。
「なんて生意気なんだ！　だから、可愛げがない女は嫌いなんだ！」
今まで彼に嫌われないようにと、自分の勝気な部分はなるべく抑えてきたつもりだ。だけど、人前でこんな恥をかかされるのなら、少しでも反撃はしておきたい。
だって、こんなの、惨めすぎるじゃないの。
ジャイルズは華奢な女性の肩に手を回した。女性のほうは笑みを見せて、ルディアに見せつけるように彼にしなだれかかる。
もちろんただの知り合いに、こんな振る舞いはしないはず。つまり、彼と女性はすでにただならぬ関係だということだ。
つまり、婚約者がいるのに浮気をしたってことだわ。
それを大勢の前で公表するのはどうなのだろう。恥ずかしくはないのだろうか。
一応、ルディアは彼に尋ねてみる。
「その方はいったいどなたですの？」
彼はルディアを馬鹿にしたように笑った。
「見て分からないのか？　俺の新しい婚約者だ」
「あなたはわたしの婚約者ではありませんか？」
「だーかーらー！　察しの悪い奴だな。今日限り、おまえとの婚約は破棄する！」
これが七度目の婚約破棄。
ルディアは慣れっこになっていたから、それ自体は冷静に受け止められた。だいたい、こちらも彼と結婚したくない心境になっていたから、向こうから申し出てくれてよかったと思っている。
ただ……。
あまりにもひどい。王宮の舞踏会はどこの舞踏会より貴族が集まる。わざわざそんな場を選んで、婚約破棄を言い渡すなんて……。しかも、新しい婚約者まで連れてきている。
今までの元婚約者達もよく分からない理由で婚約破棄してきた。しかし、ここまで恥知らずな真似をしてきた人はいない。ちゃんと親同伴でうちの屋敷までやってきて、父に申し出ていた。貴族同士の結婚は家同士の縁繋ぎでもあるからだ。個人同士の問題ではないのだ。
それをこの男は踏みにじった。
ジャイルズと新しい婚約者とやらはニヤニヤと笑っていて、悦に入っているようだった。そして、周りの貴族達も嘲笑っている。
ルディアの婚約について賭けをしていた者達のやり取りも聞こえてきた。勝ったの、負けたのという話があからさまにされている。
ルディアの隣で、オスカーが怒りに燃えていた。あろうことか、手袋を外そうとしている。どうやら姉の名誉を守るために決闘を申し込むつもりだ。
「オスカー、やめなさい」
ルディアは彼を止めた。こんなくだらないことで決闘なんてしてほしくない。オスカーは剣術において優れているので、ジャイルズと戦って負けるとは思わないが、そもそもこの国で決闘は禁止されているのだ。
それでも、非公式に決闘する者はいたが、まさかこんな大勢の前で法律違反するのはよくない。
「だって、姉さんが……！　あの男、許せない！」
「いいのよ、オスカー。だって、あの人は自ら不貞を明らかにしたのよ。わたしに非はない証拠だから、彼の家から違約金をたっぷりいただくことにするわ」
「い、違約金……？」
ジャイルズが戸惑ったみたいに弱々しい声を出した。
「そうよ。婚約したときに契約書を作成したでしょう？　相手に非がないのに婚約解消を申し入れた場合、違約金を払う義務があります。もちろん不貞をしたときも。この場合、二重の違約金を請求することになりますね」
父と顧問弁護士が万が一のことを考えて、契約書を作成したのだ。今までの元婚約者達があまりにも気軽に婚約破棄をしてくるので、盛り込んだ条件だった。ジャイルズの家はそれほど裕福というわけではないので、違約金は痛いだろう。
まあ、まったく抑止力にならなかったみたいだけど。
「……非はあった！」
ジャイルズは苦し紛れにそんなことを言い出した。
「わたしにどんな非が？」
「お情けで婚約してやったのに、おまえが口うるさいからだ！　だいたい何度も婚約破棄されているくせに、どうしてそんなに生意気なんだ？　おまえは俺にかしずくくらいでないと、捨てられるに決まってるだろうっ？　容姿だって大したこともない。赤毛は醜いし、緑の目は魔女みたいだ。取柄といえば、伯爵令嬢という肩書きだけじゃないか！」
人前でそこまで言う……？
こんな場で婚約破棄を言われたことだけでも悔しいのに、こんなにも貶められるなんて屈辱だった。
百歩譲って、彼がとてつもない美形だとか、身分が高いというなら分からないでもない。けれど、彼はそのどちらでもないし、言わせてもらえば、こちらだって譲歩しているのだ。
口うるさいというのは、彼のマナーについて指摘したことがあるからだろう。
実際、こんな場で偉そうに次の婚約者候補を伴って現れ、婚約破棄をするなんて、とんでもない常識知らずだ。
「言いがかりだわ。そんなことくらいで、わたしが不利になるわけないでしょう？」
さすがに向こうの容姿を貶めることは言わない。いや、言おうと思えば、言えないことはないが、容姿を攻撃するのは相手と同じレベルに落ちることだ。
彼はふふんと鼻で笑う。
「どうせ、おまえは俺に捨てられたら、誰とも結婚できないよ。七回目だっけ？　婚約破棄。おまえ、変わり者だからな」
ルディアは幼い頃から前世の記憶があったため、この世界の人には分からないことを話しては、ちょっと変わっている子だと言われていた。だけど、成長した今ではおかしなことを口走らないように気をつけている。
でも……今もわたしの評判は『変わり者』なの？
だから、やたらと婚約破棄を繰り返されるの？
ルディアがショックを受け、怯んだのを見て、なおもジャイルズは顔を歪めて嘲笑しようとした。が、その笑いがそのまま固まる。
どうしたのだろうと思ったそのとき、ルディアの肩が後ろからふわりと誰かに抱かれた。
「……婚約解消か。それもいいが、こんな場ですることじゃないな」
振り返ると、そこには懐かしい顔があった。
「レオンお義兄様……！」
久しぶりに見るレオンの顔だ。子供の頃、彼はクルーン伯爵邸に滞在していた。あるとき故国に帰ってしまったが、それからも時々ふらりとルディアの前に現れることがあった。
一年ほど前に会ったきりだったから、本当に久しぶりだ。だけど、どうしていきなりこの舞踏会に現れたのだろうか。
彼もこの舞踏会に招待されていたのかしら？
確か、彼は隣のシスレイヤ帝国の貴族だ。この国の王族から招待されるだけの関係があるのだろうか。何か親善のための訪問とか……？
とにかく彼が現れたことで、場の雰囲気が変わる。
何しろレオンは子供の頃から美形だった。今の彼は長身で体格もよく、美形にも磨きがかかっている。黄金色に輝く美しい髪に、長い睫毛に縁どられた藍色の瞳。鼻は高く、引き締まった唇には意志の強さを感じる。
周りにいた女性達はレオンを見て、ざわめき出す。
『あの方、どなたかしら？』
『初めてお見かけするわ。クルーン伯爵令嬢のお知り合いみたい……』
『お名前、知りたいわ！』
こんなときなのに、ルディアはレオンが注目されることが嬉しかった。同時に、彼が自分の味方として現れてくれたことにほっとする。幼い頃から彼はいつもルディアの味方でいてくれ、過剰なくらいに優しくしてくれるのだ。
お義兄様が傍にいてくれるなら大丈夫……。
隣にいるオスカーもレオンが来てくれて、安堵しているようだった。弟にとっても、レオンは信頼に値する人だ。
レオンがこの場の注目をさらったことに、ジャイルズはムッとしたような顔になった。
「誰だ、あんたは？　関係ない奴は口を出すなよ」
「彼女のことを子供の頃からよく知っている者だ。……ルディ、こんな下品で馬鹿で不細工で常識知らずな浮気者と縁が切れてよかったじゃないか」
「そ、そうね……」
それはルディアが言いたくても我慢していたことだ。あいつと同じレベルに落ちたくないと思っていたが、レオンが代わりに言ってくれてスッキリする。
「なんだとっ？　だ、誰が下品で馬鹿で不細工なんだっ？」
「常識知らず、というのを忘れているぞ。まあ、婚約を解消したいなら、それでいいじゃないか。さっさと消えろ。おまえなんか、ルディアにふさわしくない」
「そいつにふさわしい男なんかいるものか！　なあ、幼馴染なら知ってんだろ。そいつがこれで婚約破棄されたのが七回目だってさ」
周りで忍び笑いみたいなものが聞こえる。彼らにとって、婚約破棄七回目の修羅場は面白い見世物になっていた。
レオンはジャイルズを冷たい眼差しで一瞥する。
「その口を閉じろ」
「おまえこそ黙ってろ！」
ジャイルズが一歩前に出ると、どこからともなく五人の護衛騎士がさっとやってきて、周りを取り囲む。彼らは腰に剣を提げ、この舞踏会の警備をしていた騎士達と同じ制服を着ていた。
「それ以上、皇帝陛下に近づくな！」
え……皇帝陛下？
ルディアは混乱する。ここはネルタン王国だ。当然、この国に国王はいても皇帝はいない。だが、お隣のシスレイヤ帝国には皇帝がいるはずだ。
もしかして、レオンと共に皇帝がこの国を訪問しているのだろうか。
ルディアは思わずそわそわと辺りを見回してしまった。自分達のやり取りを見物していた貴族達も同じようにきょろきょろしている。
「……皇帝……陛下？」
ジャイルズが尋ねると、騎士の一人が答える。
「この方がシスレイヤ帝国の皇帝陛下だ。お忍びでいらしたところを、王太子殿下が舞踏会に招待されたのだ。おまえごときがみだりに話しかけていいお方ではない」
それを聞いて、周囲がざわめきだす。
『あの方がシスレイヤの皇帝陛下なの？』
『確か、最近、即位されたっていう……？』
『こんなにお若い方だったなんて……！』
ルディアはレオンに目を向けた。彼は澄ました顔をしていて、こちらに微笑みかけてくる。
「あの……お義兄様が皇帝陛下……なの？」
もしかして、ただの貴族ではなくて、皇位継承権を持つような皇族だったのだろうか。
信じられないが、護衛騎士は確かにレオンを守ろうとしている。ルディアは半信半疑ながら尋ねてみた。
「ああ、そうだ。即位できて、やっとルディを迎えにくることができたんだ」
「わたしを迎えに……？」
「そうだ。ずっとこの日を待っていた」
彼はルディアの手を取り、手の甲にキスをした。
ロマンティックな仕草で、普通の状況で見目麗しい男性にこんなことをされたら、たちまち夢中になっていたかもしれない。
だけど、ルディアはわけが分からず、ただ戸惑うばかりだった。
「レオンお義兄様……わたし……」





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    <title>【3月30日発売】赤い瞳の契約妃　国王陛下にウソ告したら、そのまま愛され妻にされました【本体1300円+税】</title>
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●著：東 万里央
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●発売日:2026/3/30</div>

<p><span class="f130 black">強要されて偽りの告白をしたら国王陛下と0日婚をすることに!?<br /></span>

父亡き後、叔父に家を乗っ取られ虐げられていたジュリエットは従妹に強いられ国王レオンにウソの告白をしたところ、逆に彼から求婚される。だがレオンの目的は王族の特徴である赤い瞳を持つ彼女に子どもを産ませることだった。
結婚と引き換えに侯爵家を取り戻してやるというレオンの申し出に頷くジュリエット｡
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第一章　国王陛下にウソ告したら……



ブレゼ侯爵家の庭園はこのフロリン王国でも名高い。
二代前の国王のお気に入りでもあり、当時のブレゼ家当主と親しかったこともあって、たびたび訪れ愛でていたのだとか。
王宮の庭園が格調高い様式美を極めているのなら、ブレゼ邸のそれは自然美を讃えている。一見野原のように無造作であり、それでいて色彩豊かで、気取らずに散策を楽しめる。
花々が咲き乱れる穏やかな春の夕暮れ時、そんな庭園に似つかわしくはない、悲鳴のような哀願が響き渡った。
「――申し訳ございません！　どうぞロミオをお許しください！」
高く澄んだ少女の声だった。
少女は薔薇の咲き乱れる茂みの前で、謝罪の言葉を繰り返しながら、隣の犬の首を抱き締めている。なんとかその攻撃を止めようとしているようだ。
犬は一際目立つ大型の雄犬で、純白の毛並みに深紅の双眸という、珍しい風貌をしている。
その稀な色彩は一般的な犬とは一線を画しており、凜々しさ、猛々しさと同時に高貴さすら漂わせている。美しい獣だった。
犬はグルル……と唸り声を上げ、目の前の中年男を睨み付けた。まさしく敵を見る目である。
「なんだその目はっ！」
男は怒鳴りながらも犬の迫力に気圧されて後ずさる。代わって、犬がずいと一歩前に踏み出した。
なお、男の背後には贅を凝らしたドレスを身に纏った、長い栗色の巻き毛にエメラルドグリーンの瞳の娘もいた。男とどことなく似ているので、その娘だと思われる。
娘は興奮しているのか、甲高い、ヒステリックな声で叫んだ。せっかくの美しい顔は怒りで醜く歪んでいる。
「お父様、そんな犬、殺して！　早く殺しちゃってよ！　私を噛もうとしたのよ！　許せない!!」
すると犬は続けてその赤い瞳を栗色の髪の娘に向けた。
いくら距離を取っているとはいえ、剥き出しになった牙と怒りの込められた眼力は恐ろしい。
「な、何よ。なんなのよ……！」
娘は父親と同じくじりじりと後退した。
それでも犬の威嚇は止まらない。変わらず低い唸り声を上げている。
少女は犬を抱き締める腕に力を込めた。
「駄目よロミオ、怒らないで。私は大丈夫。大丈夫だから……！」
犬がようやく少女を見上げる。
一見年の頃十五歳前後の小柄な少女だった。
顔立ちは非常に愛らしいのだが、随分痩せており顔色が悪い。そのせいもあるのか随分と儚げに見える。
青ざめ、肌艶のない顔の中で、犬と同じ深紅の瞳が一際目立っている。
結い上げられていた少女の青みを帯びた銀髪が、騒動の中で解けてしまったのか、細い肩に零れ落ちる。その髪も栄養失調気味なのか、パサついており老人の白髪に近くなってしまっていた。
身に纏う衣服はメイドのお仕着せで、手は水仕事で荒れてしまったのかボロボロだ。
この美しい犬が牙を剥き出しにして怒っているのは、この儚げな少女を守ろうとしているからなのだとわかる。
犬は主人である少女を傷付けようとした親子を、許すまじと攻撃しようとしていたのだ。
男とその娘の怒声を聞き付けたのだろう。五、六人の警備の衛兵たちがマスケット銃を手に駆け付ける。
「旦那様、どうかなさいましたか！」
「よく来た。あの獣を殺せ！」
「えっ」
衛兵たちが一斉に犬に目を向け、少女が犬を抱き締めているのを確認し、目配せをし合った。
「……まずあのメイドを引き離さないと危険です」
「ならすぐに引き離せ！」
男の言葉を聞き銀髪の少女はますますきつく犬の首を抱き締めた。
「ごめんなさい。申し訳ございません。勝手にこの子を家に置いた私が悪いんです。どうか罰は私に……！」
しかし、少女の願いは叶わなかった。
衛兵の一人が爆竹を鳴らし、少女と犬が驚いている間に距離を詰め、犬の足に銃弾を撃ち込んだのだ。
「ロミオっ！」
犬がキャインと悲鳴を上げることはなかった。一瞬倒れそうになったものの、踏ん張って姿勢を崩さず、衛兵たちを睨み付ける。足からは血が流れていたが、怪我を確認しようともしない。
衛兵たちは主人をなんとしても守ろうとする、犬の意志の強さに気圧されたものの、それでも攻撃の手を緩めようとはしなかった。
「こ、この野郎っ！」
衛兵の何人かが網を持って駆け付けたかと思うと、ばっと広げてロミオの頭の上から被せたのだ。
ロミオは網に絡まりたちまちその場にくずおれた。
「おい、動けなくなったみたいだぞ。お前、後ろに回って押さえろ！」
「ガウガウ！」
ロミオは網の中で暴れ回ったものの、もがけばもがくほど体に絡まるばかり。ついに衛兵四人がかりで押さえ付けられてしまった。
「この狼はどういたしましょう」
少女は――ジュリエットはそこでようやく我に返り、かつて叔父と呼んでいた男に取り縋った。
「お、お願いです！　ロミオは森に捨ててきます。だから、殺さないでください！」
「ええい！　アナベルを噛もうとした獣を、この私が許すとでも思うのか!?」
男は――ジェレミーはジュリエットの頬を力任せに張った。
パンと乾いた音が庭園に響き渡る。
ジュリエットは思わず膝をついた。
「俺に逆らうつもりか!?」
逆上したジェレミーの怒鳴り声に、ジュリエットは頬を押さえたまま絶句した。
「俺はブレゼ侯爵家の当主だぞ！　孤児に過ぎないお前をこの家に置いてやっているだけありがたいと思え！」
「……っ」
「その犬は川にでも放り込んでおけ！」
「そんな……！」
ブレゼ家当主――それは二年前までは父フレデリクの持つ称号だった。
だが、その父が王位を巡る内戦で命を落としたことで、ジュリエットの運命は一転してしまったのだ。

――ジュリエットの父フレデリクは、古くから続くブレゼ伯爵家の当主だった。
優秀かつ公明正大と評判で、国王の覚えもめでたく、宮廷でも高い地位を与えられていた。
そんなフレデリクの一粒種がジュリエットだった。
フレデリクは貴族には珍しい、恋愛の末の貴賤結婚だった。
ジュリエットの母親であるクラリスは、ブレゼ家のお抱えの庭師の娘で、貴族ですらなかった。
クラリスは幼い頃から父親の仕事を手伝い、毎日のように庭園を訪れていた。そこでフレデリクと出会ったのだという。
同年代の二人は身分の垣根を越えて仲良くなり、やがて年頃になった頃にその思いは恋へと変化した。
フレデリクは当時すでに両親を亡くし、伯爵家を継いでいた。そこですでに信頼関係のあった国王に懇願し、クラリスを王家縁の貴族の養子にしてもらったのだ。
身分の問題を解決した二人は無事結婚し、三年後にはジュリエットが生まれた。
妻によく似た顔立ちの娘を、フレデリクは文字通り猫可愛がりした。
しかし、愛に包まれた幸福な一家を悲劇が襲う。クラリスが若くして病気に倒れたのだ。
治療方法の確立されていない不治の病で手の施しようもなく、診断されて一年後には儚くなってしまった。
フレデリクはひどく悲しんだ。後妻候補の貴族令嬢との縁談を薦められても、すべて突っぱね独り身を通した。
縁談を断るときにはいつも、『跡継ぎはすでにジュリエットがいる。フロリンの貴族も女当主が認められているからね。将来は婿を取らせるつもりでいる。私は二人の女性を愛せるほど器用ではないんだ』と笑っていたそうだ。
そのフレデリクまでもが亡くなったのは、ジュリエットが十五歳の頃。内戦に指揮官として出征しての戦死だった。
――フレデリクを重用した国王ラウールが病死したのち、王位を巡る戦争が勃発した。
国王の一人息子である王太子レオンと王弟の息子――つまりレオンの従兄に当たるアルフォンスが、我こそは正統な後継者だと名乗り合ったのだ。
フロリン王国内の有力貴族たちも真っ二つに割れた。
フレデリクは国王の一人息子であり、第一王位継承権を持つレオンを推した。というよりは、本来なら当然のこととしてレオンが即位するべきだったのだ。
しかし、アルフォンスを推す有力貴族も半数を占めたことで、最終的には二勢力による武力衝突が起こり、いくつかの都市が戦火で灰燼に帰した。
ようやく内戦が終わったのが二年前、ジュリエットが十六歳の冬。
勝者は王太子レオンだった。当時二十四歳。
アルフォンス率いる軍隊はレオンのそれに大敗。本人は大怪我をしながらも這々の体で逃げ出し、現在は行方知れずになっているのだという。
レオンは勝利宣言をしたのちすぐさま戴冠式を行い、アルフォンス派の有力貴族を容赦なく粛清した。この際、古くからの名門貴族のいくつかも断絶したと聞いている。
しかし、功労者の一人であるはずのフレデリクは、いつまで経っても帰ってこなかった。
ジュリエットは父は生きていると信じていたが、新国王が即位して三ヶ月後、フレデリクの遺骨が届けられた。
流れ弾を受けての戦死らしい。遺体から衣服や武器が剥ぎ取られ、盗まれていたため、身元を特定するのに時間がかかったのだと。その後ブレゼ家はフレデリクの功績により、恩賞として爵位を一階級上げられ、伯爵家から侯爵家となった。
フレデリクも言っていたように、フロリン貴族は女当主を認めている。だから、フレデリクが死んだと判明した以上、ジュリエットがブレゼ女侯爵となるはずだった。
フレデリクも出征前万が一のことを考えていたのだろう。ジュリエットを後継者とする旨の遺言状を残し、執事に娘を手助けするよう頼んでいた。
しかし、父の弟である叔父のジェレミーが、自分こそが正統な跡継ぎだと割り込んできたのだ。
フロリンでは女当主が認められているとはいえ、直系の男性がいた場合には、やはりそちらが優先される傾向がある。
法律上はジュリエットが跡継ぎだが、慣習の上ではジェレミーが当主となってもおかしくはない。
その慣習を盾にジェレミーはブレゼ家に押し掛けた。フレデリクが信頼していた執事や使用人を暴力で追い出し、ジュリエットに家督を譲渡する旨を記した念書に無理矢理サインさせた。
その後は事が明るみに出ないよう、ジュリエットを家に閉じ込め、使用人としてこき使った。自身を叔父と呼ぶことを許さず、「旦那様と呼べ」と強制した。
ジェレミーの妻エディットと娘アナベルもそれに倣った。
ジュリエットは待遇のひどさに何度か家出し、父の友人、知人に助けを求めようとしたが、すぐに見つかり、その度に折檻を受ける羽目になった。鞭で打たれたこともある。
先の見えない暮らしの中で、ジュリエットはろくな食事も与えられず、次第に痩せて別人のようになってしまった。
ジェレミーはそんなジュリエットを目にするたび、『気味が悪い』と舌打ちした。老人のような髪が、肉付きの悪い体が気味が悪いと。
従妹のアナベルも父を真似てジュリエットを虐げた。
『どうしてあんたみたいな女が深紅の瞳なのかしら。卑しい女の腹から生まれたくせに生意気だわ』
フロリンではジュリエットのような深紅の瞳は、大変縁起がいいと言われている。赤い瞳の持ち主にキスされると幸福になれるのだとか。
『あんたが誰かにキスすることなんて二度とないのにね』
ジュリエットはアナベルが何を言っているのかわからなかった。
『あら、知らなかったの？　お父様はあんたを飼い殺しにするつもりよ』
他家に嫁がせることもなく、年老いるまで一生使用人として働かせるつもりだと。
ジュリエットはなぜ叔父にそこまで憎まれ、ひどい扱いをされるのかがわからなかった。
ジェレミーはフレデリクがブレゼ家を継いだのち、独立すると言って家を出て行き、冠婚葬祭があってもほとんど帰ってこなかったそうだ。
だから、ジュリエットはフレデリクの生前、ジェレミーに会ったことはほとんどない。　父もジェレミーについて語ったことはあまりなかった。『兄弟ではあるが性格が違いすぎて、二人で遊ぶことはあまりなかった』くらいだ。
そもそも接点がなかったのだから、憎まれる理由の見当がつかない。
そんな絶望的な環境を耐え凌ぐ中で、ある日ジュリエットは庭園に迷い込んだ子犬を見つけた。掃き掃除をしている最中だった。
ブレゼ家の本家がある領地は森が多い。その辺りに棲み着いている野犬の子どもかと思われた。
『まあ、可愛い』
子犬はジュリエットがとりわけ大切に手入れをしていた、深紅の薔薇の茂みの中に蹲っていた。
非常に小さい。なのに見落とさなかったのは、子犬が純白の毛並みをしており、薄暗がりの中でも目立っていたからだ。
子犬はジュリエットに気付き、ウウウ……と威嚇した。
『大丈夫。なんにもしないわ。それより、旦那様に見つかったら大変よ』
ジェレミーは大の動物嫌いである。特に昔噛まれたことがあるそうで、犬は憎悪の対象ですらあったはずだ。
『あなたのお母様はどこへ行ったの？　あ、もしかして……』
この数年で森で暮らす野犬の数が増えたので、ジェレミーは人を雇い、大規模な犬狩りを行ったと聞いている。子犬はその時の生き残りなのかもしれない。
ジュリエットは箒を置くと、茂みの前でしゃがみ込んだ。
『あなたも私と同じね……』
親を亡くして独りぼっちだ。
『だったら仲良くなれないかしら？　二人でいればきっと寂しくないわ』
ジュリエットは手を伸ばし、子犬の指先に人差し指を出した。
子犬は怖がってウウウ……と唸っている。
『大丈夫。私はあなたを傷付けないから』
しかし、子犬に人間の言葉は通じなかった。ジュリエットも敵にしか見えなかったのだろう。突然がぶりとその指に噛み付いたのだ。それも、敵意を持って歯を立てて――。
『……っ』
ジュリエットは痛みに顔を顰めた。穴が空いたのか指先がズキズキする。
しかし、幸か不幸か痛みには慣れていた。ジェレミーにたびたび折檻を受けていたからだ。
子犬に優しく微笑んでみせる。
『ほら、大丈夫でしょう？　私はあなたに何もしないわ』
まったく反撃しないジュリエットを見て、ようやく敵ではないと悟ったのだろうか。子犬が不意に耳をペタリと伏せた。
『クゥン……』
悲しそうな声でキュンキュン鳴き始め、申し訳なさそうにジュリエットの血を舐め取る。
『ありがとう。優しい子ね』
ジュリエットは子犬をそっと撫でた。
子犬は今度は抵抗しなかった。それどころか、おずおずと茂みから出てきたのだ。
『あら』
ジュリエットは子犬を抱き上げ、その目の色を確認した。
『あなた、私と同じ色の目なのね』
宝石のルビーのような、血の色のような、柘榴のような深い紅色だ。しかも純白の毛をしている。
『子犬にもこんな子がいるのね。そういえば突然変異で時々生まれるって聞いたような……』
なお、ジュリエットの深紅の瞳は特殊な色素由来だと聞いている。海沿いに暮らす少数民族に稀に現れる色彩だったのだそうだ。一、二世紀前の王族には、時折、この瞳の持ち主がいたとも。
しかし、劣性遺伝なのか、現在はもうほとんどいないと聞いている。以前の内戦で大敗し、行方知れずとなっているアルフォンス以外は――。
『私のご先祖様もその少数民族だったのかしらね』
亡き両親の瞳の色はブルーと榛色だったので、どちらにも似ていない。ちなみに髪の色もフレデリクが金髪、クラリスは亜麻色だった。二人はジュリエットの珍しい髪と瞳の色は、先祖の隔世遺伝だろうと言っていた。
まだクラリスが生きていた頃、フレデリクはこんなことを教えてくれた。
『赤い瞳はキスした者に幸運を与えると言われているんだ。人に分け与えるほどたくさんの幸せを持っているということだね』
大好きな父にそう言ってもらえて、嬉しかったのをよく覚えている。
だが――。
『……』
ジュリエットは苦い記憶を思い出し、黙り込んでいたが、子犬がまたキュンキュンと鳴いたことで我に返った。
『お腹空いたんでちゅか？』
ジュリエットは子犬を胸に抱きかかえた。
『ちょっと待ってね。確か、お粥が残っていたはず……』
子犬はジュリエットの言っている意味を理解しているのかいないのか、ぐぐっと首を突き出してジュリエットの鼻先をペロッと舐めた。更に尻尾を振りながらじゃれついてくる。
『あら、ありがとう。あなたのキスなら幸せになれそうね』
ジュリエットは久しぶりに触れた他者の温もりに、再び微笑みを浮かべて子犬を抱き締めた。

その後ジュリエットは子犬にロミオと名付け、割り当てられた使用人用の自室で密かに育てた。ジェレミーがジュリエットの部屋は不潔だからと、まったくやって来なかったのが幸いだった。
ジュリエットは自分の分の食事を、ほとんどロミオに与えた。ただでさえ少ない量だったので、みるみる痩せてしまい、一時期は栄養失調寸前になった
一方、ロミオはすくすくと成長し、一年も経つ頃には立派な成獣となっていた。ジュリエットが立派すぎやしないかと心配になったほどだった。
純白の堂々たる体躯に大地を踏み締める四本の獣の足。深紅の瞳に宿る眼光は鋭い。
『犬にしては随分と大きい気が……』
なんとなく違和感はあったが、そういう犬もいるのだろうと頷くしかなかった。
さて、ロミオはジュリエットに絶対の忠誠を誓っていた。何せ身を削って食事を与えてくれた育ての親だ。
ジュリエットの指示を聞かないことはなかった。
庭園に出られるのはジェレミーたちが寝静まり、人目につかない夜だけと制限され、日中は狭い使用人部屋でしか活動できない。それでも、大人しくジュリエットの言い付けに従っていた。
そう、ロミオが運悪くアナベルに見つかったあの日までは――。

――その日ジュリエットは薔薇の茂みの手入れをしていた。
本来なら庭師がする仕事である。しかし、嫌がらせの一環なのか、それとも興味のない庭園に金などかけたくないのか、ジェレミーにお前がやれと押し付けられていたのだ。
もっとも、ジュリエットは命じられなくとも、庭園の手入れだけは自分でやるつもりだったのだが。
中でもこの深紅の薔薇は特別だった。繊細な品種で虫や病気に弱い上に、植え替えが難しくすぐ枯れてしまう。この地方の固有種のせいか絶滅しかかっており、もうこの庭園にしかないのではないかと言われていた。
また、ジュリエットの個人的な理由もあり、なんとしてもこの薔薇だけは枯らすわけにはいかなかった。
ちなみに、薔薇には数多くの大小の棘がある。いくら専用の手袋を付けていても、細かいものは編み目を通過して手に刺さり、皮膚の下に潜り込んで取れなくなる。
そのせいでジュリエットの手はすっかり荒れ、ガサガサのザラザラになっていた。とても令嬢の肌には見えない。
『あら、あんたこんなところにいたの』
ふと声を掛けられ振り返る。
アナベルだった。散策にでも来たのだろうか。その割には随分と派手なドレスを着ている。
『このドレス、素敵でしょう。夏の王宮の舞踏会に招待されたのよ』
アナベルとジュリエットは同じ年の十八歳だ。といっても、ジュリエットはもうじき十九歳になるが。
いずれにせよ、双方ともに社交界デビューしていてもおかしくない。平常時であれば十六歳頃なので、少々遅めとも言える年である。
しかし、この数年は内戦の影響で、舞踏会や園遊会、晩餐会といった華やかな行事は行われていなかったので機会がなかった。
近頃ようやく内政が安定してきたので、国王もそろそろ社交と行事を復活させようとしたのか。
『そうですか。お似合いですね』
『あんたは行けないものね。羨ましいでしょう』
『……』
ジュリエットは答えなかった。
アナベルはふふんと笑うと、ドレスの裾を摘まんでくるりとその場で一回転した。
『国王陛下ってまだ独身でしょう。だから、この舞踏会は生き残った貴族同士の出会いの場を提供するついでに、王妃を選ぶためなんじゃないかって言われているのよ』
なんでも宮廷で職位を持つ貴族に加え、十六歳以上の未婚の貴族令嬢は、全員出席するようにとのお触れがあったのだとか。
なるほど、アナベルの推理は合っているのかもしれない。
『女嫌いって噂があったけど、やっぱり嘘だったのよね。まあ、本当にしろ結婚はしなくちゃいけないだろうし。王妃と跡継ぎの王子は絶対に必要だもの』
噂によると先の内戦で勝利した国王レオンは、地位などなくともいくらでも女を落とせそうな、長身痩躯、金髪碧眼の美丈夫だという。
ところが、王太子時代から女を近付けようともしなかった。生前、前国王が婚約者を見繕おうとしても、まだ早いと突っぱねていたのだとか。
何度か王太子妃の座を狙った令嬢に寝室に忍び込まれたり、気を利かせた臣下が娼婦を送り込んだりしたこともあったが、時には剣を抜いてまで追い返してしまったというエピソードもある。
とはいえ、その国王もさすがに王妃と跡継ぎは必要らしい。
アナベルは気持ちよさそうに言葉を続けた。
『といっても、有力貴族の未婚の貴族令嬢って今そんなに数がいないのよね』
内戦勃発前、年頃の娘を持っていた有力貴族たちは、こぞって自分の娘を政略結婚させていた。
自陣営の味方を増やす目的と、自分や嫡男に万が一のことがあった場合、娘だけでも生き長らえさせ、女系でもいいので血を残すためだ。
ゆえに、内戦後数年しか経っていない現在、フロリン王国内では独り身の令嬢は意外と少ない。
なお、ジュリエットも未婚だが、十八歳になっても婚約すらしていないのは、運とタイミングに恵まれなかったからだった。
実は内戦前には婚約が決まりかけていたのだが、先方の父親が国王の敵方についてしまったため、破談となりその後は縁談がなかなかまとまらずにいた。
フレデリクが亡くなって以降はジェレミーに外に出してもらえず、家の者以外との接触を禁じられているため、結婚は遠い夢になってしまっている。
そうした状況の中、まだ婚約者のいないアナベルは、同じ境遇の令嬢たちの中から、国王に選ばれる自信があるらしかった。
確かにアナベルはジュリエットから見ても、少々派手ではあるものの美しい。更に、名門貴族ブレゼ侯爵の一人娘である。王妃になる条件が揃っているのだ。
『国王陛下のお目に留まるよう幸運をお祈りしております』
アナベルはジュリエットを羨ましがらせたかったのだろう。
だが、ジュリエットはレオンにさほど関心がない。父が政治的に支持していたというだけだ。嫉妬するどころか好きにやってくれという心境だった。
アナベルはジュリエットの反応が面白くなかったらしく、『何よ』と小さく呟き身を翻した。
ジュリエットにドレスを見せびらかしたかっただけだったようだ。
ジュリエットは『失礼します』と断り、再び作業を続けようとした。
ところが、次の瞬間、きゃあっと甲高い悲鳴が庭園中に響き渡る。
何事かと振り返って絶句した。
なんと、いつの間にか庭園にいたロミオが、転んだアナベルを睨み付けていたのだ。
『な、何よこの犬！』
恐らくアナベルは背を向けたジュリエットに、何かよからぬことをしようとしたのだろう。背中を突き飛ばそうとしたのか、蹴り上げようとしたのか。
ロミオは使用人部屋の窓からそれを見て、すわ主人の危機だと助けに駆け付けたらしかった。
『ロミオ!?』
出てきちゃ駄目、見つかってしまうと叫ぼうとしたが、もう遅かった。娘の悲鳴を聞き付けたジェレミーが飛んできたのだ。
『アナベル、何があっ……』
絶句してその場に立ち尽くす。
『な、なんだこの犬は！　誰が入れた!?』
その視線はすぐさまジュリエットに向けられた。顔が忌々しげに歪められる。
『お前の仕業か！』
ジュリエットはロミオを抱き締め、どうにかして宥めようとした。
『駄目よロミオ、怒らないで。私は大丈夫。大丈夫だから……！』
よりによって嫌悪する犬を屋敷内に入れられた、ジェレミーの怒りは激しかった。
『あの獣を殺せ！』

「――お願いです！　どうか、どうか……！」
ジュリエットはその場に膝をつき、頭を地面に擦り付けた。
「どうかロミオの命だけは……！」
手塩に掛けて育ててきた大切な命を、奪われようとする恐怖は、父の死を知った時と同じ――いいや、それ以上に大きかった。
ジュリエットの顔は悲しみのあまり、涙でぐしゃぐしゃになっていた。
ジェレミーはジュリエットを見下ろし、吐き捨てるようにこう言った。
「そうだ。お前のような卑しい女は絶望し、打ちひしがれていればいい」
「ど……して……」
アナベルは父の真似をしているだけだろうが、なぜジェレミーはこうも自分を憎むのか。
その間に衛兵二人がロミオの体を持ち上げる。
「いやっ、止めて。ロミオを連れて行かないで！」
ジュリエットは泣いて叫んで訴えたが、願いが聞き入れられるはずもない。
結局その場で衛兵に取り押さえられ、運ばれていくロミオを見送ることしかできなかった。

ロミオを失って以来、ジュリエットはすっかり力を落とし、抜け殻のようになっていた。
心の中ではいつも後悔が渦巻いていた。
（私がロミオを拾わなければ……）
すぐ外に逃がしていれば、ロミオはまだ生きていたかもしれない。
そう思うとたまらない気持ちになって涙が溢れ出てきた。
（私、最低だわ。自分が寂しかったからってロミオを縛り付けて、結局死なせてしまった）
ロミオに申し訳なさ過ぎて、どう償えばいいのかわからない。
（悔しい……）
ジュリエットは拳を握り締めた。赤い瞳から大粒の涙がポロポロ零れ落ちる。
なんの力もなく、ジェレミーに反抗できない自分が、不甲斐なく情けない。
（私の体がもっと大きくて強ければ……ロミオを助けられる力があれば）
また、自分がどう生きるべきなのかもわからなくなっていた。
心の支えとなっていたロミオの死は、予想以上の打撃をジュリエットに与えていた。無力感がひどい。
それでも仕事はなんとかこなしていたのだが、フロリンが初夏を迎えた頃、ジェレミーに思いがけない命令をされることになる。
アナベルとともに王宮の舞踏会に出席しろと命じられたのだ。

ジュリエットはロミオを殺されて以来、ジェレミーの顔を見るだけで吐き気がするようになっていた。本当なら視界の片隅にも入れたくない。
しかし、逆らえばまたどんな目に遭わされるのかもわからない。仕方なく呼び出されるまま執務室に向かった。その後一歩足を踏み入れるなり、舞踏会への出席を命じられたのだ。
「舞踏会とは八月に行われる舞踏会ですか？」
「……そうだ」
確か以前アナベルが国王はそこで未婚女性を品定めし、王妃候補を見繕うつもりではないかと言っていた。
「なぜ私が……」
叔父は今までジュリエットを外に出したがらなかった。自分が先代当主の遺言書に逆らって家を乗っ取り、正統な後継者である姪を虐げていると知られたくないからだろう。
ジュリエットを見れば一目でろくに食べていないのだとわかる。
ジェレミーは苦々しい口調でジュリエットに説明した。
「……国王より直々の連絡があった」
アナベルとともにジュリエットも必ず出席させろと命令されたのだと。
当初ジェレミーは姪は重い病に伏していると嘘の報告をし、ジュリエット宛の招待状は握り潰していた。
だが、国王レオンは車椅子に乗せてでもいいし、初めの三十分だけでもいいから出席させろと要求してきた。逆らえば家を取り潰すともほのめかされたのだとか。
ジュリエットはなぜそこまでと目を瞬かせた。
（国王陛下は何をお考えなのかしら）
一方、ジェレミーはぶつぶつと何やら呟いている。
「宮廷で地位をいただくまでは大人しく従うしかない。舞踏会でアナベルが国王に見初められさえすれば……」
ジュリエットの父フレデリクは宮廷で宰相代理に任命されていた。
しかし、ジェレミーには何もない。
宰相代理の地位はあくまで前国王の覚えがめでたかった、フレデリク個人に与えられていたものだからだ。
つまり、ジェレミーは現在ブレゼ侯爵ではあっても、宮廷ではなんの権力もない一貴族に過ぎない。
ゆえに、今回の舞踏会にも招待されていない。
今回の舞踏会で未婚の貴族令嬢以外招待されているのは、宮廷で地位を持つ有力貴族のみだからだ。
ジェレミーはこうも溢した。
「それに、あの国王は何をするのかわからん。今逆らうわけにはいかん」
確かに噂に聞くレオンは恐ろしい男だった。
内戦で敵方のアルフォンスについた家はことごとく取り潰し。当主、及び直系男子はギロチンで斬首している。それまでどれほどフロリンに貢献した有力貴族であってもだ。
特に反抗してきた貴族の首を、手ずから刎ねたという噂もある。
そこまでの粛清をした国王は、長いフロリンの歴史の中でも、レオンくらいしかいなかった。
こんな国王相手では下手に誤魔化したことがバレれば、今度は自分の首と胴が切り離されることになると、ジェレミーは怯えているに違いなかった。
「だが、いいか。舞踏会では決して誰とも口を利くな。踊るな。目立つな。……まあ、お前の見てくれでは誰にも誘われんと思うがな」
ジェレミーは蔑んだ目で、痩せ細ったジュリエットを見つめた。
「お前には監視を付ける。いいか。下手な動きをしてみろ。お前の大事なあの庭園を無茶苦茶にしてやる」
「……っ」
自然美に溢れたブレゼ邸の庭園は、ジュリエットの母クラリスがどこよりも愛し、よくフレデリクやジュリエットとともに散策を楽しんだ憩いの場所だった。
何せ元庭師の娘である。伯爵夫人となっても時折趣味と言い訳をして、庭園の手入れを欠かさなかった。
中でも一角にある薔薇の茂みは、クラリス自身が植えたものだ。毎年美しい深紅の薔薇を咲かせてくれる。
クラリスがまだ元気だった頃には、「ジュリエット、あなたの瞳と同じ色ね。私が一番好きな色よ」と笑ってくれたものだ。
その思い出の場所をジェレミーは破壊すると宣言したのだ。
ジェレミーはどのようにして調べたのか、ジュリエットの弱点をよく知り、こうして的確に鋭く突いてくる。
そして、思い出を人質に取られていたジュリエットは、その悪意に満ちた攻撃を避けるすべを知らなかった。

　　　　　　　　＊＊＊

フロリンの王宮の大広間を見るのはこれが初めてだった。
ジュリエットは息を呑んで辺りを見回した。
ブレゼ邸も地方の邸宅としては豪華だが、王宮の贅沢はもはや次元が違っていた。
たった一室なのに邸宅一軒分の敷地があり、金糸、銀糸で複雑な模様が刺繍された壁紙に彩られている。
神話のフレスコ画の施された天井には、いくつものシャンデリアが輝いている。芸術品のように美しいガラス細工でできており、灯された&#34847;燭の光を受けてキラキラ煌めいていた。
キラキラ輝いているのはシャンデリアだけではない。色鮮やかな流行のドレスに身を包んだ令嬢たちもだ。皆若く、美しく、品がある。
ジュリエットは一人だけ場違いな気がして、思わずこの場から逃げ出したくなった。
しかし、ジェレミーに舞踏会開始後三十分は大広間にいろと命じられている。やむを得ず壁に背をつけ、なるべく目立たないようにと息を殺した。
一方一緒に招待されたアナベルは、早速招待客の貴公子にダンスに誘われている。
アナベルは未婚の令嬢たちの中でも、一際美しく、ぱっと華やかに見えた。
ドレスは彼女の瞳の色に合わせた鮮やかなエメラルドグリーンだ。胸元には大粒のエメラルドのネックレスが輝いている。
一方、ジュリエットのドレスは一昔前のデザインで、色も暗めの紺だ。アナベルとあからさまな差がつけられている。
ジュリエットが侯爵令嬢だとは誰も思わない地味さだった。
アナベルは次々と違う貴公子の手を取っている。
ジュリエットはその様子を尻目に、さり気なく会場内を見渡した。
舞踏会開始からもうすぐ三十分が経とうとしているが、国王レオンと思しき人物はまだ姿を現さない。
ジュリエットはレオンに会ったことはなかったが、純金を思わせるブロンドにサファイアブルーの瞳、長身痩躯の大層な美青年だとは聞いている。
更に代々の国王しか身に着けられない、大粒のルビーが嵌め込まれた勲章をつけているので、すぐにレオンだとわかるとも。
このルビーははるか昔の国王ロラン一世の時代、植民地より献上されたものだ。その色がかの国王の瞳の色と同じということで、大変縁起がいいとされそのまま勲章に装飾されたという。
開会の挨拶は代わって側近の一人が済ませていた。その際、国王はしばらく遅れて参加するとの伝達もあった。なんでも緊急の公務が入ったのだとか。
ようやく政権が安定してきたとは聞いているが、やはりまだ内戦が終結して間もないので、何かとしなければならないことが多いのだろう。
いずれにせよ、ジュリエットには関係ない。今回の舞踏会ではどうせ一瞥されることすらないだろう。
痩せ細り、手が荒れた地味な小娘など、令嬢とすら見なされないのではないか。
女嫌いなら尚更だろう。
ところが、壁の花と化していたジュリエットに、何を思ったのかアナベルが近寄ってきたのだ。
会場入りする前は「中では私に話し掛けないでよ。あんたが親族だなんて思われたくないのよ」と顔を顰めていたのに。
一体何を企んでいるのかと警戒していると、アナベルは楽しそうに人差し指を口に当て、首を傾げてジュリエットの目を覗き込んだ。
アナベルはいかにも楽しそうな笑みを浮かべていた。経験上よくわかっているのだが、こんな時アナベルはろくなことを考えていない。
「ねえ、ゲームをしましょう」
「ゲーム……？」
「そう。国王陛下がいらっしゃるまでに、何人の男の人に誘われるか競争するの」
わけがわからなかった。それに、そんなのアナベルが有利に決まっている。
アナベルは「負けた方はね」と言葉を続けた。
「罰ゲームをするの。そうね。陛下に嘘の告白をするとか」
さすがにはいと頷くことはできなかった。
「何を言っているんですか。そんな不敬な真似、していいはずがありません」
「あら、だから面白いんじゃないの」
ジュリエットはアナベルの意図にようやく気付いた。
つまり、こちらに不敬な真似をわざとさせたいのだ。
女嫌い、しかも残虐だと聞く国王にそんなことをしようものなら、不敬罪で投獄されるどころか、その場で手打ちにされるかもしれない。
ジュリエットが絶句していると、アナベルは唇を釣り上げて身を翻した。
「決まりね。じゃあ、ゲームスタート！」
「お嬢様、待っ……」
アナベルは早速貴公子に声を掛けられている。先ほど中央で踊っていたので、人々の目に留まりやすくなっているのだろう。
初めから地味な装いで、かつジェレミーに脅迫され、誰とも喋れないジュリエットに勝算などあるはずがなかった。
アナベルは朗らかに笑いつつ、貴公子の誘いを断っている。すると、また別の貴公子が彼女をダンスに誘った。
（どうしよう。一体どうすれば……）
ジュリエットが自分から貴公子に声を掛け、ダンスに誘おうものなら、アナベルは帰宅後すぐジェレミーに報告するだろう。命令を守らなかった罰だと庭園を破壊されてしまう。
アナベルは初めからジュリエットが何もできないのをわかっていた。だからこそ、こんなゲームを仕掛けてきたのだ。
それでもジュリエットは諦めず、何か打開策はないかと必死になって考えた。これ以上大切なものを失いたくなかったのだ。
だが、その間にも無情かつ瞬く間に時は過ぎ、気が付くともう十五分が経っていた。
アナベルは四人目の貴公子に誘われたところだった。断りを入れた後ニヤニヤしながらジュリエットに歩み寄る。
「何人に誘われた？」
知っているだろうに聞いてくる。
ジュリエットは「……一人も」と答えるしかなかった。
「じゃあ、あんたが罰ゲームね！　ほら、早く陛下に告白してきなさいよ。庭園を台無しにされたくないでしょ」
「……っ」
こんな茶番、すぐに嘘だと見抜かれるに決まっている。国王を愚弄した罰はどんなものなのか。
「それにしても、国王陛下遅いわねえ……あっ」
アナベルが途端に黄色い声を上げた。いつもより数段高くなってもいる。
「あの方が国王陛下ね！　なんて素敵な方なのかしら……」
ジュリエットは思わずアナベルの視線を追い、これが新たなフロリン国王かと息を呑んだ。
太陽光を煮詰めたような濃いブロンドは、肩を超える長さまで伸ばされ、後ろで一つにまとめられている。キラキラ輝く黄金の光が逞しい背を彩っていた。
キリリと形がいい眉も髪と同じ金だ。対照的にシャープな輪郭の中に収まった、切れ長の凜々しい双眸は濃く深い青で、いかにも冷酷そうな色味である。
筋の通った鼻と薄い唇は引き締められ、愛想笑いなどまったくなかった。そんなことをする必要を感じていないのかもしれない。確かに誰に媚びなくとも完璧な美貌だ。
レオンは顔立ちだけではなく理想的な体躯をしていた。
金糸で刺繍の施された漆黒の詰め襟の上着の心臓の位置には、ルビーの嵌め込まれた勲章が輝いている。しっかりした肩と胸板の厚さ、腕の長さが服の上からでもわかった。
上等な生地だと一目でわかる純白のズボンは、一際長い足を引き立てており、どうと言うこともないデザインなのに美しく見える。
フロリンの王族の男性には美形が多いと聞いていたが、その迫力にジュリエットは息を呑むしかなかった。
「国王陛下のおなーりー！」
大広間の中にいる招待客全員が一斉にレオンを見る。
レオンは注目を一身に集めても、まったく動揺しなかった。当然だとでも言うように、海を割り開いたと伝えられる聖者さながらに、招待客が身を引いてできた道を進んでいく。
よく通ってまだ若々しい、それでいて王者に相応しい風格のある声が大広間に響き渡る。
「皆の者、待たせたな。今宵は久々の宴だ。楽しんでいくがいい」
それが舞踏会再開の合図だった。
レオンの周囲にいる招待客らは皆ソワソワしている。フロリンの公の社交の場では、より身分の低い者が高い者に声を掛けるのは、不敬かつマナー違反だとされている。
だから皆国王の言葉を待っているのだ。
レオンはサファイアブルーの目で周囲を見回した。何かを探しているような目付きだ。
すでに目当ての令嬢がいるのだろうか――そんなことを考えていたジュリエットに、その視線が向けられたのでぎょっとした。
サファイアブルーの双眸がわずかに見開かれる。
ジュリエットは思わずキョロキョロしてしまった。近くに国王の知り合いがいて、そちらに用があるのだろうと思ったから。
だが、それらしき人物はアナベルと年配の招待客夫婦数組くらいだ。
アナベルも国王の目に気付いたらしい。見初められたと喜び勇んだのだろう。
「やっぱり私が一番綺麗なのね！」
パッと顔を輝かせてドレスの裾のしわを直している。
レオンはその間にも真っ直ぐにこちらに向かって歩いてきた。
やはりアナベル目当てなのかと、ジュリエットが身を引こうとしたその時、「そこの娘」と声を掛けられたので驚いた。
レオンはアナベルではなくジュリエットの前に立っていた。






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    <dc:creator>ガブリエラブックス</dc:creator>
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    <title>【2月27日発売】媚薬でクールな宰相様の理性が飛びました！　原因の私が責任をもってお助けします【本体1300円+税】</title>
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第一章　決意表明



やっぱり夢じゃないわ。
どんな冗談なの……、これは。
ユリアーナ・クライフは齢六歳にして、自分を取り巻く世界を憂いて両手で顔を覆った。
フワフワの栗色の髪を優しく梳いてくれているのは、メイドのカティだ。
その手つきに慈しみが溢れているのを感じ、ふくふくとした指の隙間から顔をあげると、深い湖をそのままはめ込んだような青い瞳と鏡越しに目が合う。
（あぁ……子どもだわ……、無力な、まだ小さな子ども）
身体が前に傾いだことで足が頼りなく揺れた。
椅子に座っても足が床につかないくらい幼い子どもなのだと思い知り、絶望してまた小さな手で顔を覆う。
周囲には「眠いの？　可愛いなあ」としか思われなかったのが残念と言えば残念である。
シェワザール王国の侯爵令嬢として生を受けたユリアーナは、物心ついた時からずっと違和感を覚えていた。
まるで自分が夢物語の中にいるような、ひどく現実感がない六年間を送ってきたのだ。
違和感を無理やり噛み砕き、なにかに追われるようにいろんな知識を蓄えてきたユリアーナは、その焦燥感の正体が『前世の記憶を持っている』ことであると結論付けたのである。
（そもそもわたし、いつ死んだ？　その辺は全く覚えていないわ）
頬に手を当てて考えるが、社会人として勤めていた二十六歳くらいまでの記憶しか思い出せない。
普通に考えれば、そのころに一生を終えたのだろう。
「あらユリアーナ、おねむなの？　それともまだ具合が悪いのかしら？　寝ていなくて大丈夫？」
遊びに来ている従姉妹のアリサが中腰になってユリアーナの肩を抱き、寝かしつけるときのようにポンポンと優しく叩く。
「アリサおねえちゃま、ちがうの……えっと……」
しかしその胸の内をそのまま言葉にすることは躊躇われ、ユリアーナは上げた顔を再び伏せる。
前世のことを思い出したユリアーナが今一番理不尽に感じているのは、この従姉妹のアリサのことだったからだ。
アリサは先日婚約が調い、来年とある公爵家へ嫁ぐことが決まっている。
それ自体は喜ばしいことだが、従姉妹に想う人がいることを知っているユリアーナは複雑だった。
さらに言えば相手は再婚でずいぶん年が離れているらしい。
それでも公爵家に嫁げるとあってアリサの両親は非常に喜んでいる。当事者のアリサはそれを見て不相応なほど穏やかな笑みを浮かべていたのが印象的だった。
ユリアーナにはその笑顔が泣き顔に見え、悲しみに耐性のない柔らかな心を痛めた。
父母や家のことを思い悲しみを綺麗に覆い隠して、一人でこっそり泣いているであろうアリサの笑顔が美しくて悲しくて、どうしていいかわからなくてユリアーナは昨夜熱を出した。
そして目覚めて前世をはっきりと知覚するに至ったというわけだ。
「ちょっとおなかがすいたかもしれないとおもったの」
「それは大変ね。カティ、なにか持ってきてくれるかしら」
メイドのカティが厨房へ向かうと、アリサはユリアーナの額にかかった髪を払い、愛おしげに頭を撫でた。
歳は離れているが、アリサとユリアーナは本当の姉妹のように仲がいい。
「あまり心配をかけないでちょうだいね。私がお嫁に行ってしまったらこうしてついていてあげることもできないのよ。可愛いあなたの具合が悪いと、私まで気が塞いでしまうわ」
「はい、おねえ……ちゃま」
前世なら学生の年齢であるのに、アリサはすっかり保護者の顔でユリアーナを見つめた。
その表情には慈しみの他に諦めのようなものが浮かんでいる。
（ああ、アリサ姉様はこれからの人生を思っているのかしら）
ただでさえ結婚は人生のビッグイベントである。それによって一生が決まるといってもいい。
しかもこの世界では、女性はほぼ結婚によってしか自分の運命を変える機会はないと言える。
それなのにアリサは自分が想う相手どころか、ただ格上の家から望まれたというだけで随分と年の離れた男のもとへ嫁ぐ。
相手が公爵で強い申し出があったとはいえ、アリサにしても思うところがあるのだろう。
最近自分がいないことを前提とする物言いが増えた。
事情を鑑みればなにかにつけ諦観の表情になってしまうのも無理からぬこと。
（敢えて言うなら――この世界の結婚観は最悪よ）
カティが持ってきてくれたフルーツをアリサと頬張りながら、ユリアーナはなにもできない自分に歯噛みした。

結局幼いユリアーナにはなにもできないまま、翌年アリサは盛大な結婚式を挙げた。
結婚相手のオリアン公爵は、その年から王都を離れ領地で度々氾濫する河川の工事に注力するとのことで、アリサもそれに同行することになる。
滅多に会えなくなったことで、クライフ侯爵家は予想していた人一人分よりももっと大きい空虚を抱えることになった。ユリアーナでさえそうなのだから、叔父夫婦の寂しさはいかばかりか。
「アリサがいなくてこんなに寂しいのだから、ユリアーナまでお嫁に行ってしまったらどうなってしまうのか」
子煩悩な父オラヴィがため息をつくと、長男のトピアスがすかさずフォローを入れる。
「心配しなくても、私が嫁を貰えば人も増えて騒がしくなりますよ」
「そうよ、それにわたしがお嫁に行くとも限らないじゃない」
兄に便乗する形でユリアーナが軽やかに告げると、一家団欒の空気が凍った。
敏感にそれを感じ取りながら、しかしユリアーナは空気を読まずに続ける。
「わたし、可愛げがないからきっとアリサ姉様のような結婚の話はこないと思うの。だから一人でも生きていけるように今から準備を始めるつもりよ」
この一年でぐっと大人っぽくなったユリアーナは、年齢にそぐわない上品な仕草でクッキーを食べると、紅茶を一口啜る。
「な、なにを言っているんだユリアーナ。こんなに可愛らしくて賢いユリアーナは引く手あまたに決まっているじゃないか！」
父オラヴィが焦ったようにまくし立てると、母と兄もその通りだとコクコクと頷く。
優しい家族をありがたいと思いながら、ユリアーナは社交辞令を軽くいなすように微笑んだ。
普通にしていようと思っていても、やはり前世で生きていた記憶が邪魔をするのか、ユリアーナは七歳にして風変わりな令嬢として成長しつつあった。
アリサの結婚と時期が重なったこともあり、多感なときに仲良しの従姉妹と離れたのがショックだったのだろうと思われた節がある。
それも間違いではないが、実際はこのシェワザール王国における貴族の婚姻システムでは、誰が夫になるかでその後の人生のほぼすべてが決まってしまうというところに引っかかりを覚えていることが原因だ。
一応離婚は認められているが、妻からの訴えを聞き届けてくれる身近な機関が存在しないのだ。
そもそも貴族的な事情もあり離婚の絶対数が少なく、そのことがユリアーナに結婚を好意的に捉えることを躊躇わせていた。
（貴族だもの、アリサ姉様のように家格だけで決められてしまうのだろうし、勝率の低い博打をする気にはならない）
両親のように結婚後によい絆を構築できるならいいが、現代日本で暮らしていた記憶があるユリアーナの理想は基本的に高い。
しかも精神年齢が二十代なため、同世代の洟垂れ小僧などはまったく範疇外で今から関係を作って青田買いする気も起こらない。
「あら、賢い女は嫌われる。少し馬鹿なほうがいいってこの前へリストのおじさまがおっしゃっていたわ。それでいくとわたしは嫌われる要素があるということよね」
「ぐぬぬ、へリストめ……っ」
歯に衣着せぬ友人に悪態をついたオラヴィを母エリセが宥める。
「ユリアーナ、女に限らず人間は賢くも愚かにもなるわ。それは勉強ができるできないではないことは――もう理解しているでしょう？」
エリセの含みのある言葉に、ユリアーナは無言のまま頷く。
さすがは母ということだろうか、エリセはユリアーナに対してなにかを感じているようで、すでに一人の女性として扱っている節がある。
娘が頷いたのを見てエリセはにっこりと微笑んだ。
しかしこのまま物分かりのいい子どもでいたくなくて、ユリアーナは子どもの特権とばかりに口を尖らせて続ける。
「でも、結婚しなければ自分が保てないような女にはなりたくないの」
七歳とは思えぬ言い様にオラヴィとトピアスは目を見開くが、エリセは軽く頷いた。
「ならばどうすれば理想の自分になれるか、今から考えなければね」
女だけで通じ合っているような雰囲気に、オラヴィとトピアスは顔を見合わせるのだった。

「久しぶりのお出かけなのに、気が乗らないの？」
「う〜ん……」
馬車の揺れに身を任せたユリアーナは小首を傾げて唸る。
従姉妹のアリサが嫁入りしてからというもの、ユリアーナが冷めた目をするようになったのを見かねたエリセが気晴らしにと街歩きに連れ出したのだ。
しかし車窓から流れる景色を見ても幼いユリアーナの心は弾まない。
それどころか『前世の自転車のほうが早いわ……』と心の中で悪態をつく始末。
エリセは同行したカティと顔を見合わせて眉を下げた。
「そういえば奥様、先日新しい洋品店ができたと聞きました。お嬢様にお似合いの可愛らしいものもあるに違いありませんわ」
気を利かせたカティが弾んだ声でそう言うと、エリセは手を叩いて喜ぶ。
「まあ、それはいいわね！　ユリアーナ、どう？　行ってみない？」
母の声に傷心の娘に対する気遣いが溢れんばかりに感じられたユリアーナは、意識して口角をあげた。
「――そうね、わたしも行ってみたいわ」
自分がよくない態度をとっているのは、ユリアーナもわかっていた。
自分の機嫌が取れないなんて、自立した女性には程遠い。
これ以上困らせてはいけないと顔をあげたユリアーナに、エリセとカティは表情を明るくした。
すぐさまカティが御者に行き先の変更を告げる。
「ギルベン通りに行ってください」
　噂の洋品店はとても繁盛していた。
所狭しと商品が並べられていて、それを求めて行列を作っているのが馬車の中からもわかる。
その混雑ぶりに、エリセはため息をつく。
「まあ、とても混んでいるわね。もう少し後から行きましょうか」
ゆっくり見られないのではユリアーナもつまらないだろうと提案するが、ユリアーナは首を横に振った。
前世ではこれくらいの行列はランチを食べるときにもよくあったからだ。
「これくらいの行列、大丈夫よ」
そう言って勝手にキャビンの扉を開けて馬車を降りる。
「ユリアーナ、一人で行っては危ないわ」
「お嬢様、お待ちくださ……あ、痛っ！」
慌てて頭をぶつけたカティの様子が面白くて、ユリアーナは久し振りに笑った。
「あはは！　そんなに焦らなくても、走ったりしないから大丈夫よ」
過保護だなあと思いながらカティが降りてくるのを待っていると、遠くで悲鳴が聞こえた。
「きゃあ！」
どうしたのかと振り向くと、手に刃物らしきものを持った男がこちらに向かって走ってきた。
咄嗟に危険だと思ったユリアーナは、その場から離れようと走った。
「お嬢様っ」
「ユリアーナ！　危ないわ、戻って！」
言われてから馬車に戻ればよかったのだと気付いたが、すぐに対応できない。
それに戻るということは刃物を持った男に近づくということである。
（無理……っ）
どうかこっちに来ないでと思ったが、逃げるものを追う本能だろうか、男はターゲットをユリアーナに定め、あっという間に追いつくと細い腕を掴んで引いた。
「きゃー！」
周囲から悲鳴が上がって、ユリアーナは顔をあげた。
目の前の男は視線が定まっておらず、心神喪失状態かもしれないなどと思う。
男はなにやら世に対する不満や自分の不幸を叫び刃物を振り上げた。それはユリアーナの頭上で凶悪なまでに太陽に反射する。
（あ、これは駄目だ）
暴漢の歪んだ表情が目に焼き付いたのがわかり、ユリアーナは最期に見るのがこんな景色なのは嫌だなあと冷静に思った。
（まあ、もともと生まれ変わりだし、今生はボーナスタイムだったのかな）
充分いい生活をさせてもらったと覚悟を決めた瞬間、なにか大きいものに庇われた。
突然高く大きな壁のようなものが暴漢とユリアーナの間に割り込んできたように感じる。
「なにをしている！」
「うわあああっ、邪魔をするな、どけ！」
ユリアーナのすぐそばで激しくもみ合う音と大人の男が争う声が聞こえた。
あまりに恐ろしく衝撃的な出来事に、ユリアーナは身体を限界まで縮こまらせ両手で耳を塞いでいた。
（怖い、怖いよ……っ！　お父様……っ、お母様！）
息を殺していることしかできなかったユリアーナを現実に引き戻したのは、あたたかな手だった。
そっと壊れ物に触れるように肩に触れられ「大丈夫か？」と声を掛けられた。
小さな子どもの扱い方がわからないのか、戸惑いを多分に含んだ声に身体の緊張が解けていく。
（怖いのは終わった……助かった？）
そう思った瞬間、ユリアーナは緊張の糸が切れて視界が暗転した。
次に気付いたのは屋敷の自分の部屋のベッドの上。
泣き腫らした母とカティに両側から抱きつかれて、ようやく自分が気を失っていたことを知る。
母に事の顛末を訊ねると、今まさに凶刃が振り下ろされるとなったときに、騒ぎを聞きつけた通りすがりの騎士が助けてくれたのだと説明してくれた。
「あの騎士様のお陰で助かったのよ……本当にあなたに怪我がなくてよかったわ」
「騎士様……わたしを助けてくれたのは騎士様だったのね……」
自分を守ってくれたあの大きな手の持ち主は騎士だったのだと知ったユリアーナは、騎士という職業に対しての好感度が一瞬にして上がったのを感じた。
「わたし、気を失っていたからお礼を言えなかったわ。お母様、わたし騎士様にお礼を言いに行きたい」
率直に希望を述べるが、エリセは口籠る。
「お母様……？」
エリセの態度を不思議に思ったユリアーナは小首を傾げた。
夜になって、その件について父オラヴィから説明があった。
「騎士殿はエリセとカティがユリアーナを介抱している間に、名乗らずに行ってしまったそうなんだ」
「えっ」
驚いて声をあげるユリアーナの脳裏には『名乗るほどのものではございません』と言ってサッと立ち去るイマジナリー騎士の姿が浮かぶ。
「まあ！　じゃあお礼はできないのかしら」
ユリアーナが悲しげに眉を寄せると、オラヴィは緩く首を振る。
「驚かないで聞いてほしいのだが、彼の方はユリアーナを助けた時に怪我をされたようなんだ。だから、それを手掛かりに探せばきっと恩人は見つかると思う」
「怪我を……大事じゃなければいいんですけど」
ユリアーナは恩人の捜索を父に頼み、自分は騎士の怪我の平癒を日々願った。
それと同時に母とカティにお見舞いの品の相談をしたり、会ったときの口上を練習したりしていたが、ついぞ騎士の行方は知れなかった。
いつしかユリアーナは、父に頼らずに自分の力で騎士を探すべく計画を練り始めた。
その件をきっかけに、徐々に元気とやる気を取り戻したのだった。
いつか恩人の騎士に会えると信じて。

（……なんて、わたしったら子どもだったわー！　騎士様、全然見つからないし！）
背筋を伸ばして王城の廊下を歩きながら、リリー・ボステムことユリアーナは苦笑いをする。
名前が違っているのは、身分を隠して働いているからである。
ユリアーナは自分の目で世の中を見て落としどころを見つけなくては結婚できる気がしないと両親を説得し、外に働きに出ることに成功した。
さすがに市井に出ることは叶わないが、警備の面で安心な王城ならばと条件を出され、現在は政策企画室で働いている。
ユリアーナは社交界デビューを果たした後、望まぬ結婚を避けるために病弱だと自ら噂を流し社交を極力避けた。
そのお陰でユリアーナの顔を知る者はほとんどいない。
それは貴族令嬢でありながら働くための布石である。
働くと言っても今はまだ雑用に毛の生えたような扱いであるが、なにもできないよりはましだと考えたユリアーナはここからのし上がる気満々であった。
（いつか『君がいないとここの仕事は成り立たないよ！』と言わせてみせるんだから！）
それに、王城ならば恩人の騎士を探すのにちょうどよく、一石二鳥である。
何年経っても探し出して見せると意気込むユリアーナに声がかけられた。
「あ、ユリアー……リリー、こちらにいたしたのですか」
「ジャフィー、言い間違いには気を付けて。どこで誰に聞かれているかわからないんだから」
「す、すみません」
ジャフィーはユリアーナが無茶をしないように付けられた護衛兼お目付け役である。
クライフ侯爵家の遠縁のボステム家の者だが、身分を隠したいのでボステム家縁の者だということにしてくれと頼んだ際、承知する代わりにつけられた条件だ。
（さすがにボステムの名を冠して適当なことをされては困るだろうしね……）
気付かないふりをしているが、ボステム家は恩を売るついでにあわよくばジャフィーとユリアーナが『どうにかなればいい』と思っている節がある。
しかしジャフィーと結婚する気がないユリアーナは感謝しつつ、なるべくボステム家の意向を考えないようにして労働に勤しんでいる。
「リリー、本当は勝手に動かないでほしいです。前に大怪我をするところだったと聞いていますよ」
「何年前のことを言っているのよ？　十五年よ？　もうあんなことはないわ」
ユリアーナは眉を顰めた。
ジャフィーはユリアーナが七歳のとき暴漢に襲われたときのことを言っている。
親戚筋にもその話は知れ渡っているのだ。
「もうあんな無様は晒さないし、ジャフィーを危ない目にあわせるようなことはないわ」
「左様ですか、そう願いたいものです」
なにを言っても無駄だと諦めているジャフィーはため息をついてまた護衛に徹する。
目の届くところにいる限り、余計な口出しをしてこないのがジャフィーのいいところだ。
それに彼はユリアーナに好意を持ったり、好意を持たれようとしたりする節は見当たらない。
話を聞くと三次元の女性に興味を感じないとのことだ。
ユリアーナはジャフィーからの信頼を得るため、クライフ家からボステム家に支払われる謝礼の他に、個人的にジャフィーが好きな書籍を好きなだけ買い与えることを書面で約束している。
ジャフィーを買収することによってクライフ家への報告をいい感じで改竄してもらって、ウィンウィンの関係を築いているのだ。
そんなこんなで王城で自由を謳歌しているユリアーナは、室長から頼まれた書類を抱え直すと早足で歩き始めた。
向かっているのは宰相の執務室だ。最短で行くには途中に王城の憩いの場となっている中庭を通ることになるのだが、ユリアーナはそこを鬼門としている。
なぜかここで苦手な人物と遭遇する機会が多いためだ。
（今日は誰もいないといいな……）
そう思っているときほど遭遇することはよくある。
例に漏れずユリアーナは会いたくない人物を見つけてしまい、眉間にしわを寄せた。
その人物は凛々しい容姿で背が高く、シェワザール王国宰相にしか着用を許されない重そうなマントを纏い書類を手にゆっくりと歩き回っている。
（ヤバ、いた……！）
彼は険しい表情で時折後ろに撫で付けた髪に指を滑らせている。
なにか一筋縄ではいかぬ問題に頭を悩ませているのだろうか。
その佇まいにユリアーナは自然と眉間にしわが寄るのを感じた。
彼はコルネリス・フィッセル――王家とかかわりが深いフィッセル公爵家の次男で、二年前に新しく宰相となった人物である。彼はいつも『宰相として正しい』装いをしている。
公式の場では必ず権威の象徴である重苦しいマントを身に着け、クラバットが歪んでいるのさえ見たことがない。
ユリアーナは以前、女性の地位向上や有事の際に相談できる窓口を作ることができないかと相談しに行ったことがある。
若いが有能で、話を聞いてくれる人物であるという噂を耳にしていたからだ。しかし宰相は感情の籠らない視線でユリアーナを一瞥すると「時期尚早だ」とだけ言ってマントを翻し行ってしまった。
（時期尚早って……女性が暮らしにくいって言っているのに、なにを悠長なこと言っているの？　いつまで待てばいいの？　動き出さなきゃ始まらないじゃない！）
憤慨して何度も話を聞いてもらおうとしたが「調整をしている」「君が気にすることではない」「精査している」と一言で片づけられてしまう。あまりに相手にされないので一方的にまくし立て周囲を蒼褪めさせたこともあった。室長が間に入ったため騒動は終息したがもっと言いたいことがあるのにと歯噛みをしたほどだ。
だがその後すぐ王城内に女性のための相談窓口準備室が立ち上がった。
ユリアーナは知らなかったが、宰相が以前から提案しようやく形になったものだという。
（なにそれ、言葉が足りなすぎじゃない？　もう動いているならそう言ってくれれば、わたしだってあんな喧嘩腰にはならなかったのに……でも、志を同じくする人がいるのは心強いわ）
宰相のことを見直したユリアーナは、散々悪態をついてしまったことを謝罪しに行った。
言葉足らずなところはあるが、宰相が女性のために尽力したことは確かだし、自分の早合点も問題だったと思ったからだ。
しかし頭を下げるユリアーナに宰相から「もう少し落ち着いて行動したまえ。向こう見ずは身を滅ぼす」と言われたことは納得いっていない。
（この人、顔はいいのに本当に苦手……待てよ、この人がここにいるということは宰相執務室が現在空ということ……この機会に書類だけ置いてくれば顔を合わせずにすむということね！）
見つからないうちにきびすを返そうとすると、その背中に声がかけられた。
「待ちなさい、リリー・ボステム。なにか私に用があるのではないか？」
「……、……あら、宰相閣下。こちらにおいででしたか」
表情を作るのにたっぷり時間を取って、ゆっくりと振り向く。
その甲斐あって、そこには令嬢の嗜みたる隙のない笑顔が張り付いている。
以前いろいろあった間柄である――が、個人的な感情と仕事は切り離して考えるべき。
ユリアーナはその点で宰相関係の仕事を断ったりしない。
「こちら、政策企画室室長からの書類です。執務室に届けておきますので、お戻りになりましたらお目通し願いします」
「いや、もらおう。こちらへ」
宰相が今ここで受け取ると手を差し伸べる。
深い緑色の瞳がまっすぐユリアーナを見た。
さすがのユリアーナもそれを無視して立ち去ることはできず、うっすら笑みを浮かべた表情で近寄り書類を手渡す。
「ふむ、確かに」
「では失礼します」
軽くお辞儀をしたユリアーナは、用は済んだとばかりに素早くきびすを返す。
しかしさきほどと同じように宰相から声がかけられる。
「リリー・ボステム」
「……なんでしょう」
内心どうして引き止めるのだと思ったが、ユリアーナとてなにも知らないお馬鹿さんではない。自分が不利になるような言動を慎むことはできる。
（あのときは――あのときはそう。あまりに閣下に腹が立ったから）
初めて軽い言い争いになったときのことを思い出し、ユリアーナは唇を引き結ぶ。
一所懸命なあまり視野が狭かった自分が思い出されて胸の中がざわつく。心の中で反省していると、なにかが心に引っかかった。その原因を探っていて（そう言えば）と目を瞬かせる。
言い争いの後、宰相からリリー・ボステム宛の書簡が届いていたことを思い出したのだ。
ボステム家からの心配する声にはいい感じで返答して、書簡は机の引き出しの奥底に封印した。
きっと嫌味たっぷりな達筆で『今後目上の者に対する態度を改めるように』などと書いてあるのだろうとそのときは思ったのだ。
（いまさらながら気になるわ。あとで探してみよう――捨ててはいないはず）
「リリー・ボステム、君は記憶力がいいほうか」
記憶の縁をうろうろしていたユリアーナは話しかけられて視線を上げる。
「人並みだと自負しておりますが」
いったいなにを言われるのかと警戒しながら答えると、宰相は僅かにため息をつく。
その呼気に無念のようなものが滲んでいるのを敏感に感じ取ったユリアーナは、訝しげに眉をよせた。今日はなにも失礼なことはしていない――はず。
しかし過去に無礼を働いたことが思い出され、自分の身体の中に不安が満ちていくのを感じる。
「……どうやら、私は君を不快にしてしまうようだな」
「え？」
宰相の言葉に驚いたユリアーナが訊き返すが、当の宰相は「気にするな」とでもいうように手をあげて中庭から立ち去った。
彼が歩くのに合わせてマントの裾が重そうに翻る。
「なにが言いたかったのかしら……宰相ほどの方が、わたしの快不快を気にするの？」
遠ざかっていく背中を見送ることになったユリアーナの胸から不安はいつしか消え去り、言いようのない複雑な輪郭だけが残った。





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