●著:麻生ミカリ
●イラスト:ゆえこ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4-8155-2024-3
●発売日:2019/2/25
ずっと、きみが恋しかった
未奈美は、海難事故で行方不明となった御曹司、成瀬友哉の恋人だった。身籠っていると気づいた未奈美は、人知れず娘、望友を産み一人で育てていた。だが二年後、友哉と偶然再会する。未奈美を嫌う彼の母親が、息子の生還を隠していたのだ。望友を他の男との子供だと誤解する友哉だが、未奈美が独身だと知ると熱烈に口説いてくる。「きみも俺のことをほしいと思ってくれていた?」彼を愛しつつ真実を告げるのを躊躇する未奈美は!?
『結婚式も披露宴もドレスもケーキもブーケもないけど、今から未奈美は俺の奥さんだよ』
自分の持っていたすべてを捨てても、生涯をともにしたいと思った相手。
心から、愛した女性。
戸川未奈美を前にして、友哉は世界が真っ黒に塗りつぶされるような錯覚に陥った。
二年と少し前。
友哉は、海難事故に遭った。
だが、その前後のことを彼は覚えていない。事故のショックで、一時的な健忘状態になったのだろうと医師は言っていた。
目が覚めたとき、彼が覚えていたのはただひとつ――いや、ただひとりの女性のことだ。
「……未奈美っ!」
病院のベッドの上で、彼は痛みに軋む体を起こそうとした。けれど、体中に巻かれた包帯と、右腕の骨折を固定するギプスシャーレ、さらには手術でプレート固定された左足が、意思に反して思うように動かない。
友哉は、捜索がはじまるよりも前に、偶然通りがかった漁船に助けられたのだそうだ。遭難した場所から離れた海面で見つかったと聞いている。身分のわかる持ち物は一切なく、海面に叩きつけられたときの怪我で顔も腫れていたため、人相もはっきりとわからない状態だった。そのせいで、家族への連絡もできない状況に陥っていた。
目が覚めて、未奈美の名前を口にした。
だが、彼はほかに何も覚えていなかった。
体が回復するにつれ、だんだんと自分のことを思い出すことができたが、当初は名前すらわからなかったのだ。
それでも、そんな状況にあっても。
自分を忘れてさえなお、覚えていた人。
そのたったひとりの愛した女性がどうしているのか。
それだけが、ベッドの上での気がかりだった。
事故からおよそ三カ月が過ぎ、怪我が癒えるとともに友哉は自分のことを思い出してきた。自分の名前、職業、住所。それを告げると、すぐに彼の捜索願が出されていることがわかった。身元が判明し、両親に連絡が取れた。
記憶は戻ってくるのに、未奈美とのことだけが曖昧だった。彼女の住んでいたアパート、いや、違う。未奈美と一緒にマンションを――借りたのか。それとも、購入したのか。
いろいろなことが曖昧でも、彼女を愛し、結婚を誓いあったことは忘れていない。結婚まで、恋愛経験の少ない彼女を抱くのは我慢しようと思っていたことも、マンションへ引っ越した日の夜に彼女を初めて抱いたことも――
だが。
駆けつけた母親に、未奈美のことを尋ねると、思いもよらない事実を突きつけられた。
『戸川さんなら、友哉が見つからないとわかってすぐに引っ越してしまったわ。今はどこにいるのか、わからないの』
彼女は、姿を消していた。
仕方がないか、と友哉は思った。
大切な、大切な女性だった。だからこそ、彼女がどこかで幸せでいてくれるなら、それもいいと心から思えた。
もちろん、多少の強がりはある。未奈美なら、自分を待っていてくれると信じたい気持ちだってあった。あるいは、母が彼女に嫌がらせでもしたのではないかと疑いさえした。
しかし、その時点で友哉は自分の足で未奈美を探しにいくこともできない体だった。
半年以上ものリハビリを必要とすることを、すでに医師から告げられている。その後も、元通りになる確約はない。調査会社を雇えば、未奈美を探し出すことは不可能ではないだろうが、未来ある若い彼女にこんな状況の自分を背負わせるわけにはいかなかった。
――だから、これでいいんだ。
寂しさと同量の優しさで、友哉はまぶたの裏の未奈美に別れを告げた。彼女には届かないさよなら。そして、彼女の幸せを祈る。
東京の病院に転院し、半年のリハビリ生活を終えたとき、身体能力はほぼ回復していた。
医師の言葉をそのまま引用するならば、「今からオリンピックで陸上選手を目指すのは無理ですが、訓練次第で市民マラソンを完走できるくらいには回復しています」とのことだ。
未奈美の誕生日の目前、事故に遭ったあの日から九カ月近くが過ぎていた。十一月が、終わろうとしている。
けれど、あれからどれだけ時間が経っても、友哉は未奈美の夢を見た。もう手の届かない彼女の夢に毎夜抱かれる。
『好き、大好き、友哉さん……』
夢の中で、彼女はいつも幸せそうに微笑んでくれた。
何度、未奈美を抱いただろうか。
心から、愛していた。
もう二度と会えなくても、どこかで幸せでいてほしい。愛情の分だけ強く、友哉はそう願った。何度も、何度も何度も、あるいは何百、何千回も。
そして今――
彼女、戸川未奈美は友哉の目の前に立っている。細い指は、ベビーカーのハンドルをつかんだままだ。
――ベビーカー?
会社に復帰した友哉は、代表取締役社長に就任した。それは、幹部たちの総意もあってのことだ。
社長就任後、初めてとなるアウトレットモールの建設予定地を、自分の目で確認したい。少し予定をあけて、やっと訪れた東北の地にて、車を降りるとうずくまっている女性が見えた。彼女のかたわらには、ベビーカー。
具合を悪くした、若い母親かもしれない。
心配して声をかけたはいいが、その相手が未奈美だなんてこれはどんな運命のいたずらだというのだろう。
「……久しぶりだね、戸川さん」
血の気が引いていくのが、自分でもわかる。
友哉は、それまでの自分の思い込みに似た願いが偽物だったと認めざるを得なかった。
未奈美が幸せなら、それでいいだなんて。
本気でそう願ったはずが、このざまだ。
――息が、苦しい。
ベビーカーを押す彼女を見て、友哉は呼吸さえままならなくなる。
これが現実で、これが事実なのだ。
戸川未奈美は、自分ではない誰かと結婚し、幸せに生きている――
実感するほど、夢にまで見た彼女の白い肌を思い出した。もう、彼女は自分の恋人でも婚約者でもない。いや、それこそ戸川と呼びかけてしまったが、名字も違うのだろう。
「友哉さん……っ」
自分の名を呼ぶ、かつて愛した女を前に、友哉は深呼吸をひとつ。
今の友哉にできることは、それほど残されていない。彼女を好きだった。心から愛していた。だからこそ、未練たらしい言葉を口にするのだけは憚られた。
「元気そうで良かった――というのは、この場合あまり適当ではないか。貧血でも起こした?」
何もなかったように、振る舞う。
それこそが、友哉の最後のプライドだ。彼女の選択を尊重する。何カ月も行方の知れなかった恋人を待っていてほしかっただなんて、あのころ二十三歳になったばかりだった未奈美に望むのは酷だと知っている。
「え……?」
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