●著:熊野まゆ
●イラスト:なおやみか
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4-8155-4097-5
●発売日:2022/10/28
私はもうずっと君に夢中だったよ
人の恋心が聞こえる力を持ち、縁結びの謝礼金で家計を支えるリディアの元に、王弟ジャスティンの結婚相手を探せと依頼が。舞踏会に向かい王弟に会うと、何と彼は夢の中で会っていた美しい男性と同じ人物だった。「きみを何度も夢に見た。運命としか思えない」熱烈にリディアを口説くジャスティンだが、身分差に周囲の視線は冷たい。しかし彼は、彼女に住み込みで仕事の補佐をしてほしいと迫り!?

――これはきっと夢だわ。
どこまでも続く草原の先に、とてつもなく大きな月がある。それはまるで、天の月が地上に落ちてきたよう。世界は、大きな月の明かりに煌々と照らされていた。
ただ、自分がネグリジェを着ているという点だけは現実味がある。そのことがおかしく思えて、リディアはひとり笑いながら草原を歩いた。
突如として眼前に大きな樹が現れる。そしてそのすぐそばに、佇む男性の姿があった。
強烈な月の光に照らされた漆黒の髪が、そよぐ風を受けて横になびく。青い瞳が、まっすぐにこちらを見つめてくる。
「こんばんは」
リディアが言うと、男性もまた同じように「こんばんは」と挨拶を返した。
――なんてきれいな人。
弓形の美しい眉に、涼しげながらも力強さの滲む双眸。高い鼻梁の下には形がよく、それでいてどこか艶っぽい唇がある。
男性は寝衣姿にも拘わらず凄まじいまでの美貌を放っていた。
そうしてリディアは、自身もネグリジェであり、本来なら人前に出られる服装ではないことに気がつく。
「このような恰好で、申し訳ございません」
「それを言うなら私もだ」
男性は困ったように微笑した。
そこへ突然ティーワゴンとテーブル、そしてガーデンチェアが現れる。子どものころに絵本で読んだ魔法のようだった。ワゴンにはハーブ――庭に植えているマリーゴールド――が入った透明の瓶が置かれていた。不思議と喉が渇いてくる。
男性も同じなのか、あるいは急に出現したそれに驚いているのか、ティーワゴンをじいっと見つめている。
「あの……わたし、ハーブティーを淹れますね。どうぞお座りください」
「……ああ」
少し戸惑ったようすで男性はガーデンチェアに座った。戸惑いがあるのはこちらも同じだ。
――けれどこれは夢なのだし。
互いに名乗りもしていないが、どうせ夢なのだしこれきり会うこともないのだろう。リディアは気楽に考えてハーブティーを淹れた。
テーブルの上にティーカップを置くと、男性はすぐさま手に取りマリーゴールドティーを飲んだ。
「ハーブティーは初めて飲んだけれど――まろやかで、さっぱりしていて美味しい」
男性がほほえんだので、リディアもまた笑みを返した。
「それにしてもここは……幻想的な場所だ。きみは妖精かなにかなのかな」
「いいえ、まさか」
リディアは妖精を知っている。自分とは似ても似つかない。
「そうか……。きみの紫色の瞳は神秘的だから、つい」
「でしたらあなたのほうが。神様のようにお美しいです」
「私は男だよ?」
男性はおかしそうに笑う。
「はい。背が高くて肩幅も広くていらっしゃるので、男性だとはわかっておりますが、この世のものとは思えないほどの美貌をお持ちです。でも……夢だから、この世のものではないのかしら」
「面白いことを言うね。けれど私は現実に存在しているよ?」
リディアは「ふふ」と笑う。
――こんなに美しい男性が現実にいたらきっと、国が傾くわ。
傾国の美女という言葉があるが、彼はその男性版だ。きっとだれもが虜になって、我を見失う。
「信じていない、っていう顔だね。まあ……夢なのだし。頑なになっても仕方がないか」
「ええ、そうです。どうぞ肩の力を抜いて、気楽に過ごしましょう」
「気楽に、か……。たしかに。このところ働きづめだ」
「お疲れなのですね。歌でも歌いましょうか」
「ぜひ聞いてみたい。夢の妖精の歌声を」
「ですから、妖精ではありません」
「いいじゃないか。きみは私の妖精だ。美味しいハーブティーを淹れて、愛らしく笑って、歌まで歌ってくれるなんて――。すごく癒やされるよ」
男性はテーブルに頬杖をついて首を傾げ、ふわりと微笑する。
「さあ、聞かせて。きみの歌を」
現実ならば恥ずかしさが先に立って、人前で歌うなんて絶対にしない。しかしいまは違う。
リディアは大きく息を吸い込んで、月夜に妖精が踊る歌を披露した。
リディアは夢の世界で、男性と二度目の邂逅を果たす。
「また……お会いしましたね」
「そうだね、嬉しいよ。こんな偶然があるなんて……。やっぱりきみは妖精だ」
男性は緩くほほえんで腕を組み、大きな樹の幹に背を預けた。何気ない仕草でも、たとえ寝衣姿であっても、彼がするとなんだって絵になる。いつまでも見とれてしまいそうになる。
夢は、己の願望の表れでもあると聞いたことがある。
――わたしは、この男性とまた会いたいと強く思ったのだわ。
だからまた夢で出会えたのだろう。
男性はどこか楽しそうにあたりを見まわす。
「見て、あの空を」
長い指が示すほうを見る。夜空だというのに幾筋もの虹が架かっていた。
「美しいね。そしてなにが起こるかわからないから、わくわくする」
男性がそう言った瞬間、グラウンドピアノが現れた。
「前回はティーワゴンだったけれど、今日はピアノか」
ピアノにはご丁寧に楽譜まで置かれている。
男性はピアノに近づくと、指で軽く鍵盤を押した。
「うん、きちんと調律されている。……一緒に弾く?」
「ええと……そうですね。弾いてみたいです」
リディアもまたピアノのそばへ歩いて譜面を見た。
「けれどこの曲はとても難しそう。わたし、ピアノは不得意なのです」
「では教えてあげようか。このあいだ美味しいハーブティーを淹れてもらったお礼に」
夢だというのに、男性は前に会ったこともしっかり覚えてくれている。
――わたしが、そういう願望を持っているのね。
リディアは「はい、ぜひ。ご教示お願いいたします」と答えてピアノ椅子に座った。男性もすぐ隣に腰かける。
「まずは弾いてみて」
リディアは頷いて、指を動かしはじめる。ところがすぐに躓いてしまう。
「ああ、ここは……そうだな、この指を使うといいよ」
言われたとおりにすると、スムーズに弾くことができる。リディアはそうして教わりながら、どんどん曲を弾き進めた。
「あなたはもしかして、ピアノの講師をしていらっしゃるとか?」
「いや、違うよ。嗜む程度だ」
「そうなのですか? とてもお上手で、わかりやすいから」
夢だというのに、本当に不思議だ。自分が知らない技術と知識を、傍らにいる男性は持ち合わせている。
終盤はテンポが速くなったので悪戦苦闘しながらも、なんとか楽譜の最後までふたりで弾くことができた。
「ありがとうございました、夢の方」
名前がわからないのでそう呼ぶと、男性はほんの少しだけ目を見開いた。
「夢の方、か……。なかなかロマンティックな響きだ。……ねえ、きみの名前を教えて。妖精では、ないんだろう?」
リディアは口を開けたものの、言葉は紡がずに閉じた。
「……内緒です。お互いに知らないほうがいいと思います」
リディアだと名乗ってしまえば、この幸せな夢から覚めてしまいそうで怖い。男性の名前を知ることも、そうだ。一気に現実へと引き戻されてしまいそうで嫌だと思った。きっと知らないままのほうが、この夢を楽しんでいられる。
現実で、これほど楽しいひとときを過ごすことはないのだから。
「そう……。妖精は口が堅いのかな」
男性は不服そうに眉根を寄せて唇を引き結んだ。
そうしてしばらく見つめられていた。
「なにが起こるかわからないからわくわくすると、さっき私は言ったけれど……訂正する。きみと一緒だから、楽しいんだ」
リディアはドキンッと心臓が跳ねる、生々しい感触を覚えた。
二度あることは三度ある。
「また会ったね」
大きな樹の下に、夢の方がいた。なにもかもを魅了するような優しい笑みを浮かべている。
――これは本当に夢なの?
こう何度も立て続けに、同じ男性が夢に出てくるだなんて。信じられない気持ちと、また会えて嬉しい気持ちが同時に込み上げてくる。
「さて、今日は……パズルをせよ、ということかな」
草原にはパズルのピースが散らばっていた。両手で抱えなければ持てないほどの大きなピースに、なにか絵が描かれている。
「どんな絵なのでしょう」
「うん、気になるね。一緒にピースを合わせていこう、名もなき妖精さん」
ふたりで絵を合わせたり離したりしながら、ああでもないこうでもないと試行錯誤して、なんとか巨大なパズルを完成させる。出来上がったのはハチミツの壺だった。
「ふふ、まさかハチミツの壺だなんて」
笑っていると、視線を感じた。上を向けば、青い瞳と視線が絡む。
『きみが夢でなく、現実にいてくれたらいいのに』
心の中に響いてきた声にどきりとする。
――これは夢なのに、どうして? ああ……違うわ、夢だからこそ彼の心の声が聞こえたのだわ。
「きみと現実の世界で出会えることを願っているよ。もちろん、夢でもまた会いたいけれど」
男性は、いましがた聞こえた心の声と同じことを言っている。
「ふふっ……正直なお方」
不思議そうに首を傾げる男性を眺めつつ、やはりこれは夢なのだと再認識する。
心の声と本音が同じ男性なんて、現実には絶対にいない。
いま目の前にいる、麗しくて優しく、正直な男性は夢だからこそ、存在しうるのだ。
「わたしもまたお会いしたいです。これからも、ずっと……」
男性は嬉しそうに笑ってリディアの手を取る。
――本当に不思議。
夢なのに、温もりを感じる。
その後、リディアは男性と幾晩も夢の逢瀬を重ねた。
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