●著:麻生ミカリ
●イラスト: 逆月酒乱
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:9784815543341
●紙書籍発売日:2024/2/29
●電子版配信日:2024/3/30
君の心を、縛らせてくれ
公爵令嬢アンジェラは王太子タイガの婚約者として厳しく育てられ、家庭でも孤立していた。
ある日事故に遭った彼女は自分が乙女ゲームの悪役令嬢に転生していて、彼と婚約したままでは破滅が近いと気付く。
自ら婚約破棄されて運命から逃れようとするも、今まで素っ気なかったタイガが猛然と束縛をしてくる。
「絶対に逃がさない。きみは俺の妻になるのだから」
好きだった彼に甘く迫られ、戸惑って!?
「んん……」
頭のどこかに鈍い痛みがある。
けれど、頭の中に手は届かないから、アンジェラはやわらかな黒髪の上から手を添えた。
――そうだわ。今日、エマの馬車とぶつかったときに頭を打ったんだった。
その衝撃で、前世も思い出した。
バッドエンド目前ではあるけれど、まだ死亡ルートを回避できるかもしれない。
「そう、なんとしても婚約破棄をして……」
自分の声に、目を開ける。
そして、見知らぬ天蓋布がたゆんでいるのを見た。
馴染じんだ自分の寝台ではない。では、ここはどこなのだろう。
届かないのは知った上で、手を伸ばそうとしたアンジェラは、手首にあるべきドレスの袖口が見当たらないことにハッとした。
袖だけではない。
胸元に目をやると、タイガの誕生日を祝う宴のために新調したはずのドレスも、ネックレスも、コルセットも、何もなくなっている。
かろうじて白いレースのついた下着はまとっているものの、前世でも現世でも若い女性が人前に出られる格好ではない。
――何? どういうこと?
がばっと起き上がってから、意識を失う直前のことを思い出した。
「殿下にキス……されて、口移しで何かを飲まされて……」
そこで記憶は途切れている。
つまり、この状況はタイガの手によるものということだ。
――えー、待って待って。わたしは婚約の解消を申し出たのよね。それで、どうしてドレスを脱がされてベッドに寝かされてるの!?
既成事実という単語が脳裏によぎったけれど、さすがに何かされていたら体に痕跡や感覚が残っていると思いたい。
キスだって初めてだったのだから、それ以上のことをした場合に気づかないとは考えにくい――いや、考えたくなかった。
それではあまりに鈍感すぎる。
そもそも、記憶にないまま初体験を終えてしまっただなんて、避けたい事態だ。
――じゃあ、どうしてわたしはこんなあられもない格好なのかしら。
答えの出ない疑問に懊悩していると、部屋の外の物音が耳に響く。
遠くからコツコツと硬質な足音が聞こえてきて、アンジェラは上掛けを肩口まで引っ張り上げた。
もし、タイガがやってきたら。
――どんな顔をしていいかわからない!
ということで、安易に目を閉じて寝ているふりをする。
少なくとも、彼の飲ませた薬で意識を失っていたのだから、もうしばらく時間稼ぎはできるだろう。
ドアが開く音がして、足音がベッドに近づいてくる。
そして、数秒の沈黙。
「アンジェラ? まだ眠ってるのか?」
――はい、眠っていることにしてください。
「では、目覚めのキスが必要か……」
「たった今、目が覚めましたわ!」
上掛けが落ちないよう、両手で押さえたまま起き上がる。
完全に狸寝入りがバレた状況だとは思うが、タイガは幸せそうに微笑んでいた。
「おはよう、かわいい婚約者どの」
「……おはよう、ございます……?」
意識を失う前のキスが夢で、実は事故のあとずっと眠っていた――なんてことはなさそうだ。
ただし、目の前の現実はあまりに現実離れしすぎている。
なにしろ、今までずっとアンジェラに冷たかったタイガが微笑を浮かべているのである。
十四年間見てきたタイガ・ファディスティアとは別人にしか見えなかった。
いや、顔立ちはまったく彼のままなのに見たことのない笑みで、アンジェラを見つめてくる。
――何が起こったの? こんなキャラ変、ゲーム内では見たことないんだけど。
しかし、とアンジェラは考え直す。
ゲームにおけるタイガは、温厚で優しく、愛情深い男性だった。
そう、主人公のエマに対して、彼はいつだって優しかったではないか。
これではまるで、愛する女性を慈しむ表情に見えてしまう。
――そんなわけないのに。
馬車の事故で頭を打ったせいで、自分がおかしくなってしまったのだろうか。
はたまた、頭を打ったのはアンジェラではなくタイガのほうだったのか――。
「今日のパーティーで、きみは気づかれないようにしていたようだけど、左足首を怪我しているね。応急処置の用意をしてきた」
「……ありがとうございます」
たしかに左足首を擦りむいている。もしかしたら、捻挫くらいしている可能性もある。
手当てをしてもらえるのは、遠慮なくありがたい。
そう思ってから、アンジェラは自分の胸に手を当てた。
前世の自分も、現世の自分も、同じ『自分』だ。少なくとも、その連続性に疑問はない。
しかし、前世の記憶を思い出す以前のアンジェラは、今と同じように考えるタイプだっただろうか。
――殿下が変わったと思うのは、もしかしたらわたしの感性や考え方が変わったせいなのかも。
その可能性はじゅうぶんにあり得る。
「失礼。足元をめくる」
「は、はいっ」
上掛けの裾がふわりと持ち上げられ、足首が空気に触れた。
――ところで、どうしてわたしはドレスもコルセットも脱がされているんだっけ。
「あの、殿下」
「なんだ?」
「わたしのドレスはどうしたのでしょうか」
「俺がそばにいない間に目を覚まして逃げられては困るから、脱がせておいた」
ああ、そうでしたか――とはならない。
あまりの発言に、アンジェラはこれ以上ないほど目を瞠った。
こんな言葉を、ほかにどの場面で使うことがあるだろう。
「思った以上に足首が腫れている。応急処置はできるけれど、明日にでも医官に診てもらったほうがいい」
「いえ、そこまでお手数をかけずとも帰宅すれば――」
「きみはもう帰れないよ」
――ん?
意味がわからず、アンジェラは首を傾げる。
タイガは微笑んだまま、擦り傷を丁寧に洗って包帯を巻いていた。
「あ、もしやうちの馬車に何か不具合があったのでしょうか。今日の事故のあと、まだ確認をしていませんでしたので」
「馬車は、ディライン家に帰しておいた」
「では、なぜ帰れないのですか?」
「俺が帰さないと決めた」
王太子の決定ならば、たいていのことが覆らない。
少なくとも、アンジェラが自宅に帰るかどうか程度の問題なら、彼の一存で決められる。
だからといって、勝手に決められては婚約破棄を申し出ているアンジェラの立つ瀬がない。
――この場合、なんて言って説明したら殿下はわかってくれるのか……。
無言で考えていると、包帯を巻き終えたタイガが立ち上がった。
「これでいい。腫れているから、無理に立ち上がらないように。何かあれば、俺に申しつけてくれ」
「そんな、滅相もないです。ありがとうございます、殿下」
一国の王太子に手当てをしてもらうだなんて、普通はありえないことだ。
上掛けを元通りに戻してもらってから、ふと気になっていたことを尋ねてみる。
「ところで殿下、ここは王宮の客間……でしょうか?」
意識を失ったのは、彼の私室だった。
その後、タイガに抱きかかえられて王宮内を移動したという場合、見ていた侍従や侍女がふたりのことをどう考えただろうか。
想像するだけで頭が痛い。
それでなくとも、これからタイガと縁を切ろうとしているのに――。
「いや、俺の寝室だ」
「! な、ななっ、なんで……ッ」
もっともありえない回答に、このままもう一度何もかも忘れて眠ってしまいたい気持ちになる。
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