没落令嬢と愛を知らない冷徹公爵の夜から始まる蜜愛妊活婚【本体1300円+税】

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●著:逢矢沙希
●イラスト: 針野シロ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543488
●発売日:2024/9/30


あなたを見ると熱が滾って、我慢できなくなる



 没落寸前の伯爵令嬢シャレアを結婚という形で救ったのは冷徹だと噂の美貌の王弟リカルドだった。使者から「公爵は世継ぎを産める妻が必要なだけ」と言われ、愛がない結婚を覚悟して初夜を迎えたシャレアだったが、リカルドは「縋るなら、シーツではなく私に」と、情熱的で優しく、何度も求めてきた。
 寡黙だが優しいリカルドに惹かれていくシャレアだったが、悩みの種は懐妊の兆しが見えないこと。毎夜ごとに深まっていく2人の関係とは裏腹に焦りを募らせていくシャレアは……。




序章

「レディ・シャレア。あなたには我が主、リカルド・ロア・バルド公爵閣下の許に嫁ぎ、最低二人の男児、つまり後継を産んでいただきたい」

突然やってきたバルド公爵家の副執事と名乗った青年は、主から預かったという書状をこちらへ差し出しながら、まるでひどく屈辱的なことを告げるような渋い顔でそう言った。
にわかには信じられない言葉だ。
だがそれ以上に気になったのは、その書状を携えてやってきた青年の言動の方である。
慇懃無礼な言葉もそれを口にする表情も、お世辞にもバルド公爵という国内貴族の頂点に立つ家の使用人として相応しいものとは思えない。
それとも公爵家の使用人ともなれば、没落寸前の伯爵家に充分な礼儀など不要ということなのだろうか。
身体全体で、自分の主の正妻にこの娘は相応しくない、と訴えてくるその青年は、きっと己の主と仕える家に強い誇りを持っているのだろう。
それもそうだろうとシャレアは思う。
リカルド・ロア・バルドと言えばこの国の貴族で知らぬ者はいないほど高名な、貴族の中の貴族といわれる筆頭公爵家当主の名であり、現在の国王であるトリスタン一世の歳の離れた異母弟としても名が知れている。
漆黒の黒髪と目が覚めるような青い瞳が美しい美貌の青年でもあり、我が国の貴族令嬢で彼に憧れていない者の方が少ないと言われるほどの大物だ。
また同時にたいそうな女嫌いとしても有名である。
そんなリカルドからなぜシャレアの許に使者がやってきたのかまるで心当たりがない。
多分自分はかなり呆けた顔をしていたのだろう。反応の鈍いシャレアに苛立つように、バルド家の副執事はその眦を吊り上げると続けてこう言った。
「あなたにとっては本来ならば足元にも及ばない方でしょうが、ハワード家は王家に並び建国当初から続く、今はもう数少ない由緒正しい家の血筋であることは確か。あなたに望まれているのはリカルド様の後継を産むことだけです。決して愛されたいなどとつまらぬ欲を抱いてはなりません」
「まあ……」
「その見返りとして、リカルド様にはハワード家の借金を返済し、その後自立できるまでの間継続的な援助を行う用意があります」
そう告げられて理解した。これは取り引きだ、と。
そして自分は随分と足元を見られているらしい、ということも。
「なんと……いくらバルド公爵閣下であろうと、そのような無礼な申し入れがあるものか!」
シャレアの後ろで話を聞いていた叔父、パトリックがワナワナと屈辱に声を震わせながら抗議する。
しかしバルド家の副執事はとりつく島もない。
「何が不満だと仰るのでしょう。今のハワード家にはまたとない申し入れのはずです。それとも他に身を立て直せるアテがおありなのですか?」
「公爵家とはいえ使用人の分際で無礼な!」
淡々と慇懃無礼に告げるバルド公爵家の副執事と、怒りで顔を真っ赤に染めて身を震わせる叔父。
その二人のやりとりを目にしながら、シャレアは静かに溜息を吐いた。
(さすが天下のバルド公爵家ともなれば、その使用人である副執事もその辺の貴族より気位が高いわ。叔父様では勝ち目はなさそう……)
それに不本意ではあるが副執事の言うことは正しい。
バルド公爵家からの申し出は、今のハワード家……ひいてはシャレアにとってはまたとない話には違いないのだ。
正直、向こうの言うとおりこのままでは、シャレアもパトリックも打つ手はなかった。
既に最後の財産となった屋敷を売却してもまだ返済には足りないほどの借金を抱え、明日にもシャレア自身が富豪の愛人として身売りせねばならないほどにまで追い詰められていたのだから。
そんな没落寸前の伯爵令嬢であるシャレアへとリカルドが求婚する旨味は殆どないと言っていい。
あるのは先ほど副執事が口にした由緒だけは正しいこの身に流れる確かな血筋と、今の立場の弱さだろうか。
(どれほど女性が嫌いでも、公爵家当主としては跡取りを得なくてはならない。そしてその相手にはそれなりの血筋が必要……そういう意味で、家柄だけは良く、けれど言いなりにならざるを得ないほど落ちぶれた我が家は都合が良い、とそういうことよね)
正直に言えば、少しだけ切ないなと思う気持ちはあった。
何しろシャレアも、リカルドに対して淡い憧れを抱くその他大勢の一人だったから。憧れの人が、人の足元を見て金に物を言わせるような傲慢な人物だったというのはそれなりにショックだ。
でも、それ以上に、確かに幸運だとも思った。
そのおかげで少なくともシャレアは今の絶望的な状況から救われる可能性が出てきた。
リカルドは血筋良く言いなりになる妻と、自身の跡取りがほしい。
シャレアは家と今の窮状を救ってくれる財力がほしい。
お互いに持ちつ持たれつ、実に貴族として相応しい契約結婚だと言えるだろう。
これを逃せば借金塗れのハワード家を助けてくれる家などない。
そもそもどこの家に嫁いだとしても子を産むことを望まれるのは貴族の娘に産まれたからには当然のことである。
「こんな馬鹿にした求婚など冗談ではない、お断りさせていただ……」
「いいえ、叔父様。私はお受けしたいと思います」
感情のままにバルド家の副執事を追い返そうとした叔父の言葉を遮るようにシャレアは二人の間に割り込む。そして静かにドレスの両脇を持ち上げ、片足を引き、膝を曲げる……いわゆる、貴族令嬢のカーテシーをバルド家の副執事へと向けた。
古びた粗末なドレス姿であっても、充分な化粧ができずに素顔のままであっても、その時シャレアの見せたカーテシーは多くの上級貴族を目にしてきた公爵家の副執事すら黙らせるほど、優雅で品と教養に満ちた振る舞いだった
一瞬だけ目を奪われるように瞠目した彼に、シャレアは笑う。
ほんのりと可憐な淡いピンク色の小さな花が、その蕾を開くように。
「どうぞ公爵様へお伝えくださいませ。シャレア・ハワードはあなた様のお慈悲に有り難く縋らせていただきます。ひいては一日も早い契約の締結と履行をお願いいたします、と」
こうしてシャレアの結婚は決まった。
幼い頃から憧れていた、互いに想い合うような温かい婚姻とは真逆の契約結婚であることを承知の上で、家と、そして大切な肉親を守るために。
第一章 窮地を救う代償
「すまない、シャレア……本当に、すまない……こんなことになるなんて、思っていなかったんだ」
バルド家からの使者が帰ったその後、パトリックはすっかり調度品が消えたみすぼらしい応接室の古びたソファに座り込みながら、両手で己の頭を抱え込むように項垂れた。
涙ながらに謝罪を繰り返す叔父の、憔悴しきった細身の身体はぶるぶると震えている。
こんなふうに叔父が詫びながら泣く姿を、シャレアはもう嫌と言うほど見てきた。
そのたびに励まし、慰め、諦めずに一緒に頑張ろうと声をかけ続けてきたけれど、本音を言えばシャレアも疲れてしまった。
突然降って湧いた、こちらをとことん見下した侮辱的な縁談さえ、神からの救いだと感じて飛びついてしまうくらいには疲弊していたのだ。
叔父は不本意な結婚を止めることができないと嘆くけれど、ゴールの見えない暗闇の中をひたすらに手探りで進むような不安で惨めな日々がやっと終わるのだと思えば、屈辱よりも安堵する気持ちの方が遙かに強い。
「どうか泣かないで、叔父様。これで良かったのよ」
その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせるようでもある。
だって仕方がないではないか。
他にこのハワード伯爵家を立て直せる手段など存在しない。
(もうできることは全てしたわ。でも、もう限界だった……それでも領地がまるごと残ってさえいれば、領地運営で何とか回せたかもしれないけれど……)
貴族にとって最大の収入源である所領の内、もっとも税収が多かった主要領地は借金を背負ったその直後に叔父が売却してしまった。金を貸した商人に求められるままに。
残された領地から上がる収入だけでは、借金と利息の支払いをした上で生活することなどどう頑張っても無理だ。主要領地を手放した時点で、ハワード伯爵家は自力で立て直す手段の殆どを失ってしまったのだ。
恐らく商人はそれが目的だったのだろう。せめて売却する前にシャレアに一言でも相談があれば絶対に止めたのに、その隙さえ与えなかったのだから確信犯以外の何だというのか。
全ての原因は叔父だけれど、その叔父に遠慮して家のことに口を出さず任せきりだったシャレアにも責任はある。
まさかこんなことになっていたなんて知らなかった、と言うのはただの言い訳にしかならない。
後を継ぐ者として積極的に財産管理や領地運営に関わっておけば、もっと早くに家の状況に気付くことができたはずなのに……シャレアが事実を知って叔父に代わって財産の確認をした時には全てが遅かった。
それでも二年は保たせた。だが……これ以上は、本当に限界だ。
ふと視線を上げると部屋の隅に残された古い姿見がこちらを向いている。
古びて、どれほど磨いても曇りが取れなかったその鏡面には、まだ十八だというのに、売り物にならないほど古く地味なドレスに身を包んだ、疲れた顔をした自分の姿が映っている。
やつれているのは叔父だけではない、シャレア自身もそうだ。
問題が起こるまでは、毎日手入れを怠ったことのなかった亜麻色の髪は以前のような艶を失い、白魚のようだった手は慣れない家事で荒れている。
元々華奢で細かった身体は健康を不安視するほど薄っぺらくなり、顔色も悪く表情も冴えない。
常に悩み事を抱えているような沈んだ表情をしていて、年頃の若い令嬢らしい華やかな笑顔は消えてしまった。
ただどんなにやつれても、シャレアが持つ美貌と気品が損なわれてはいない。
良く晴れた太陽の日差しを受けて輝くエメラルドの瞳は美しく、髪と同じ色の、少し目を伏せると目元に影を落とすほど長い睫は豊かだ。
鼻筋は綺麗に通り、高すぎることも低すぎることもない。
殆ど手入れをしていなくても充分瑞々しい唇は口付けを乞うように淡く色づいていて、淡いピンク色のバラの花を想像させる。
まだ年若いわりに落ち着いたその雰囲気は自然に身につけられるものではなく、幼い頃からしっかりと高等教育を受けている者のみが得られるものだ。
それもそのはず。シャレアは公爵であるリカルドが求めるほど、この国でも特に古く由緒正しい歴史を誇るハワード伯爵家の一人娘である。
大恋愛の末結ばれた両親の間に生まれた唯一の子として、いずれは婿を得て家を継ぐ予定だった。
十六歳で社交界デビューした当初は多くの縁談が舞い込んできていて、約束された豊かな人生を順調に歩む、そのはずだったのに。
しかし……その順調に回っていたはずの歯車がズレ始めたのは、両親を揃って馬車の事故で亡くした二年前のことだ。
この国での成人は男女共に十八と定められていて、継承権を得ることができるのも成人後となる。その中でも女子は未婚では家督の継承を行うことができず、そのため二年前には未成年だった上に、まだ特定の婚約者もいなかったシャレアは、後見人なくしては家を継ぐことはできなかった。
そのため父の弟である叔父のパトリックがシャレアの後見人として名乗り出てくれたのである。
シャレアが夫を得てこの家を継げるようになるまで。
シャレアにとっては幼い頃から可愛がってくれる、優しくて大好きな叔父様だ。
これまでずっと独身で子もいないパトリックは兄の娘であるシャレアを我が子のように可愛がってくれた。
だからこそ叔父が後見人に名乗りを上げてくれた時に、有り難く受け入れたのである。
だが……シャレアはパトリックに絶望的なほどに領地運営の才能がないことを知らなかった。
もっとも才能があろうとなかろうと、本来はさほど問題ではない。
ハワード家ほどの名門貴族家ならば領地から上がってくる収入だけで充分不自由のない生活を送ることができたし、そもそも貴族は労働を恥とする特別階級の人間だ。
パトリックは余計な色気を出さず現状維持に集中すればそれで良かったのだ。
しかし、パトリックはその余計な色気を出してしまった。彼としてもただ中継ぎの立場で終わることに思うことがあったのかもしれない。
彼なりに財産を殖やして、その上で姪に家督を譲るつもりだったと言われてはシャレアも強く言うことはできず、ことの成り行きを見守るしかなかった。
だが……二年の間に少しずつ失敗が重なり、そのたびに財産を目減りさせ、極めつけは詐欺だ。
パトリックがシャレアの知らぬところで全ての財産の他、借金までしてつぎ込んでいた投資が破綻したのである。
それが世間に知られるやいなや、パトリックが金を借りたところから一斉に返済を求められ、あっという間に首が回らなくなった。
今やハワード家にあるのは莫大な借金ばかりである。
近くこの屋敷は競売に掛けられ、残った領地も売却し二人は一文無しで路頭に迷う未来が待っている。
しかしそれでもまだ借金の返済には足りない。
パトリックやシャレアが必死に働いたとしても一生返し切れる額ではなく、唯一可能性があるとするなら、身売りだ。
若い貴族令嬢、それも未婚の無垢な乙女となれば娼館ではそれ相応に値を付ける者はいる。
そこに、没落したとはいえシャレアを娶れば名門伯爵家の爵位がついてくる。それを目当てに彼女を手に入れようと望む富豪もいる。
皮肉にも、パトリックはもっとも守りたいと願っていた兄の忘れ形見を、己のせいで苦界へと突き落とす寸前だったのだ。
「済まない……本当に、お前にはなんと詫びれば……!」
そう言って叔父は何度も詫びながら涙を零していたけれど、これと言った解決策もなく、ただ泣き続けるパトリックよりもシャレアは少しだけ現実的だ。
自分自身にどれほどの値を付けてもらえるかは判らないけれど、叔父を路頭に迷わせるわけにはいかない。こんなことになっても、シャレアにとって唯一の肉親である。
自分にも責任があると思えば全ての情を捨て去ることはできず、見捨てることもできない。
『あなたにその気があるなら、もっとも高く値を付けてくれるところへ紹介いたしますよ』
と、いやらしく笑ってシャレアに耳打ちしたのは、元凶となった商人自身である。
いくらシャレアが世間知らずの箱入り娘といえど、彼の紹介するところが真っ当な相手ではないことくらい簡単に想像がつく。
けれど金になりそうなものはもうそれしかない。こんなことを考えているなんて、叔父には絶対に言えないけれど。
伯爵家の一人娘として生まれた時から家のために身を捧げ、結婚することは覚悟していた。
まさか結婚すらせず、不特定多数の異性に身を売る人生を送ることは想像していなかった。
いや、売るのが身体だけならばまだマシだと思うような経験をする可能性だって充分ありえる。
死んだ方が良いと思うくらい、人としての尊厳を傷つけられることだって。
それでも……少なくとも自分が身を売ることで借金が清算されて叔父が救われるなら。
バルド公爵家からの使いがやってきたのは、そこまで追い込まれていた時だったのである。
並の令嬢ならばこの縁談条件を屈辱と感じただろう。
だが彼女にとっては降って湧いたような幸運だった。
(どんな条件であろうと構わない。きっと今より絶望的な状況ではないでしょうから)
リカルドがこの身に流れる血筋を求めているならば、可能な限り応じよう。
大人しく息を潜めて暮らせというのならそれでもいい。
もとより窮地を助けてもらう立場で、それ以上のことを望むつもりはない……けれど。
(ああ、でも一つだけお願いしたいことがあるわ……)
こちらから何かを求められる立場ではないと承知しながら、シャレアはただ一つの望みを書き添えて求婚状へ返信した。
嘆き続けるパトリックの嗚咽混じりの声を聞きながら。
そうしながら思い出す……リカルド・ロア・バルド。その名を持つ人と初めて出会った日のことを。


それはシャレアが社交デビューをして間もなくのことだった。
当年四十の壮年の国王、トリスタン一世と共に王宮主催の舞踏会に参加した彼は、一目でただの貴族ではなく王族と知れる威風堂々とした雰囲気を持つ人物だと感じさせた。
年頃は二十代前半ほどか。トリスタン王とは歳の離れた異母弟だと聞いている。
そのせいかあまり王には似ていない。
どちらかというと身体が大きく頑健で、王というよりは戦士といった方がしっくりくるようなトリスタン王とは違って、リカルドは物語に出てくる清廉な騎士といった雰囲気の持ち主だ。
キラキラと甘く優しい言葉で女性を愛する王子(あくまでイメージの話だ)よりは、己の欲を内に秘めながら忠実に、そして寡黙に愛を捧げる騎士そのもの、と話題になっていたことを知っている。
リカルド自身が持つストイックな雰囲気のせいもあるし漆黒の髪と青い瞳を持つ騎士が、不幸な姫君を魔女の許から連れ去り、その足元に跪いて忠誠と共に情熱的な愛を誓う。
そんな年若い令嬢たちが夢に見そうな姿が良く似合う、優雅で、それでいて逞しく男性的な美貌に恵まれた人物だったからだ。
当時令嬢たちの間で流行った、姫君と騎士の恋物語もまた大きく影響していた。
リカルドはその物語の中に出てくる男主人公たる騎士に良く似ているのだ。
なるほど、初めて噂の王弟殿下を目にした時にはシャレアも同じ印象を抱いた。
高潔で、清廉で、細身だが鍛えられていると判るしなやかな体つきも相まって、確かに物語に登場する騎士に雰囲気が良く似ているな、と。
とは言っても、シャレアは物語の登場人物と現実の男性を重ね合わせるほど夢見がちなタイプではないし、どちらかというと現実的なタイプだと思う。
他人に自分の理想を当てはめて期待するよりも、自分自身で考えて判断する方が得手なタイプで、それは間違いなく伯爵家の跡取り娘として育てられた影響が強い。
それでも年頃の娘だ。騎士服や甲冑に身を包み、マントを靡かせて騎乗する姿が良く似合いそうだと思うくらいにはその物語を楽しんでいた。
そして噂の君に憧れを抱くくらいには、普通の平凡な少女だったのである。
しかし、だからといって彼とどうにかなりたいなどと望んだことはない。
リカルドを遠目で見かけることは何度もあったけれど、面と向かって顔を合わせたのは二度、実際に言葉らしい言葉を交わしたのは後にも先にもただ一度だけ。
その初めて対面した場は、とある夏の夜に開かれた舞踏会でのことだ。
まだ両親も健在で、ハワード家もその栄華を誇っていた当時、シャレアは多くの人に囲まれながらも慣れない人付き合いに疲労を覚え、付添人の目を盗んでバルコニーへ逃げたことがある。
幸いにもそのバルコニーには他に人の姿はなく、用意されていたベンチに腰を下ろして、ホッと一息ついた時だ。
「きゃっ!?」
突然バルコニーと室内へ続く廊下を繋ぐガラス扉が開いて、カーテンが大きく揺れた。
その合間から飛び込むように現れた人が、廊下からは見えない死角へと身を寄せたのだ。
あまりにも素早いその動きは、明らかに会場の喧噪から逃れてきただけと思えず……驚きに目を丸くしながらも、シャレアはついしげしげと見つめてしまうのを止められなかった。
その人は、若い男性だった。
スラリとした体躯は一見細身に見えるけれど、先ほどのしなやかで無駄のない動きからそれなりに鍛えていると判る。
少し毛先を遊ばせる形で整えた漆黒の髪はまるで黒鳥の濡れ羽根のごとく、夜空の下でもひときわ艶を帯びて見える。
切れ長の目の色まではさすがに暗くて判らなかったけれど、通った鼻筋も形の良い唇も、男性的な鋭角的な頬から顎の輪郭も全てがこれ以上はないほどに整っている。
歳の頃は二十代前半……シャレアより六つか七つ程度は年上だろうか。
シンプルにも見えるけれど、見る者が見れば一目で上等な生地と手間のかかった腕の立つ職人が施した刺繍、そして要所を質の高い宝石が彩る衣装はそのまま彼の身分の高さを表している。
もっとも衣装のことがなかったとしてもシャレアはすぐにその人物が誰かが判った。
何しろ会場で多くの人の憧れの視線を一身に受けていた、王弟であり若きバルド公爵その人だったから。
その美貌も振る舞いもそして存在感も、全て彼という人間を忘れることはできないほどに強く印象に残している。
「あっ……」
そんなことを考えながら、ハッとした。
自分の不躾な観察が相手に対して非礼になると思い当たったのだ。
案の定、リカルドの表情が硬く険しいのは、シャレアを警戒しているからではないか。
「た、大変失礼を……」
慌てて謝罪と礼を尽くそうとしたが、直後バルコニーに面したガラス扉の向こうから高い女性達の声が聞こえた時に理解した。彼が向けてきた警戒はシャレア個人にというよりは、若い女性に対してのものだと。
というのも彼女たちの声に見るからに目の前の青年の警戒が強くなり、これまで以上にその表情が険しくなったからだ。
「リカルド様! バルド公爵様、どちらへいらっしゃいますの?」
「もう、私たちを置いて行かれるなんて意地悪な方、どうか出ていらしてくださいませ」
良く言えば甘く艶やかに、悪くいえば媚びて粘ついた声は廊下から響いてくる。
リカルドの表情はそれ以上変わることはなかったけれど、名を呼ばれても出て行こうとしないところからして、多分彼女たちとの時間を望んでいないのだろう。
普通の紳士ならこれほど女性に名を呼ばれて無視はしない。本心はどうであれ、何かご用でしょうかと微笑を湛えながら姿を見せるところのはずだ……が。
(ああ、そういえば女性がお嫌いだって……もしかしてこちらに避難してこられたのかしら。だとしたら、きっと私も邪魔になるわね)
彼は廊下の女性達だけでなく、目の前のシャレアにも警戒している。
(いいえ、違う……警戒というよりも……これは嫌悪?)
明るいところでは目が覚めるほど美しい青と噂の瞳が、今は冬の夜の海のように深く暗い色と冷たさでこちらを見ている。
なぜ初対面でこれほど嫌悪されるのかと心が怯えたが、もう一つ彼にまつわる噂話を思い出した。それは社交界にデビューして間もないシャレアの耳にも届くくらい有名な話だ。
『バルド公爵リカルドは女嫌い。そしてそれ以上に愛を知らない冷酷な人物だ』




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