●著:佐木ささめ
●イラスト: なおやみか
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543624
●発売日:2025/4/30
あなたになら……おかしなことをされても構わないのに
侯爵令嬢であるクレメンティーネは両親から疎まれ老子爵の後妻として嫁がされそうになるが、直前で隣国の公爵令息・ジスランとの縁談が舞い込む。しかしジスランは極度の女嫌いで会ってもくれない。そこでクレメンティーネは官吏登用試験を受け、事務官としてジスランの側に仕えることに。クレメンティーネの顔すら知らないジスランは�猊�下の事務官�瓩任△襯�レメンティーネに徐々に惹かれていくが……。
第一章
実家のフロベール公爵家から届いた手紙を見て、ジスラン・フロベールは眉をひそめた。
ここ数日、あまりにも忙しくて公爵邸に戻るのが面倒くさくなり、数日ほど帰宅していない。家族がそのことを案じているのだろうが、わざわざ手紙を出すなど今まで一度もなかったのに。
不思議に思いながら封を開けてみたジスランは、手紙の冒頭を読んだ途端、眉間に盛大な皺が寄っていくのを自覚した。
『おまえの結婚が決まった。お相手は隣国のトラレス王国出身、クレメンティーネ・パジェス侯爵令嬢だ。トラレス王国の宰相閣下のご息女になる。すでに我が家に滞在しているため、一刻も早く婚約を結びたい。早急に帰ってきなさい』
ジスランは無言で手紙をぐしゃぐしゃに丸めた。
――この忙しいときに父上は何を言い出したんだ? 現在の王宮の状況ぐらい、フロベール公爵家なら把握しているだろう?
憤りながら丸めた手紙をゴミ箱へ投げ捨てる。狙いが外れてゴミ箱に入らなかったため、苛立ちがさらに増していった。
現在、リュアール王国の王宮は、来月に控えた第三王子の誕生日の準備で非常に慌ただしい。家に帰る余裕もないのだから、個人的なことでさらに時間を削るなど勘弁してくれと叫びたかった。
――だいたい、私は結婚しないと言ってるだろう。ようやく女がいない環境を手に入れたのに、今さら妻なんて冗談じゃない。
ジスランは自他ともに認める女嫌いだ。自由奔放な姉と、わがままな妹に挟まれた三人兄弟の真ん中として生まれ、少年時代は姉と妹にとことん振り回された。おかげで嫡子だというのに生傷が絶えない日々だった。
それもこれも両親から、『兄弟であっても、淑女には礼節をもって接するのが紳士というものだ』と謎の紳士論を押しつけられたせいだ。
――あいつらのどこが淑女だ。外見はたおやかな美女でも、中身は猛獣だろ。
成長して全寮制の学園に入学したときは、ようやく姉と妹から離れられたと、心の中で嬉し涙を零したものだ。
しかし学園では、フロベール公爵家の嫡男を狙う令嬢たちの争いに巻き込まれ、女の嫌な面をこれでもかと見続けるはめになった。さらに官吏として王宮で働き始めた直後、侍女に睡眠薬を盛られて既成事実を作られそうになる始末。
いつしかジスランは女性というものに幻滅し、完全な女嫌いになった。おかげで二十五歳になった今も婚約者さえいない。
実家の両親は毎日嘆いているが。
フロベール公爵家は百二十年ほど前、王子殿下が臣籍降下した際に興した家門で、二代前の当主のもとには王女殿下が降嫁している。王家の血を引く由緒正しい家柄であり、リュアール王国では最大派閥でもある。
それなのに直系で、現公爵の唯一の息子であるジスランは結婚から逃げ続けていた。後継ぎはどうするつもりだと、家へ帰るたびに親から責められている状況だ。
しかしジスラン本人は、姉か妹の子どもを養子にもらえばいいと考えている。仕事が充実しているのもあって結婚する気は皆無だ。
ジスランは実家からの手紙をすぐに忘れ、積み重なっている書類に目を通すのだった。
◇ ◇ ◇
春とはいえ、まだ朝日が昇ったばかりの肌寒い時刻。
クレメンティーネ・パジェス侯爵令嬢は、フロベール公爵家から借りている護衛と共に屋敷を出た。行き先は貴族街の南にある大聖堂で、日課としている早朝礼拝に参加するためだ。
その日もいつも通り神に祈りを捧げ、司祭の説教を聞き、感謝の献金をして帰宅するつもりだった。しかし顔なじみになった司祭が、初めて話しかけてきた。
「顔色が悪いですね、レディ。悩みがあるならお聞きしますよ。もちろん無理に話さなくても構いませんが」
司祭の端整な顔に、案じるような表情が浮かんでいる。
「そこまで顔に出ていたでしょうか……」
「毎日お会いしていますからね。この身は神に仕える僕ですが、可愛いお嬢さんが憂い顔を見せていたら男は気になるものです」
司祭がいたずらっぽくウインクしてくるから、クレメンティーネは照れ笑いを浮かべる。家族以外に可愛いなんて言われたのは初めてだ。
――聖職者は守秘義務があるから、信徒の告白を口外することはないはずよね。
ちらりと周りを見れば、早朝礼拝に参加した人々はすでにほとんど帰っている。護衛も大聖堂の入り口に控えてもらっているため、祭壇近くにいる自分たちの声は届かないだろう。
思い切って相談してみることにした。
「実はわたくし、隣国のトラレス王国から来た者なのです」
「おや、そうでしたか。綺麗なリュアール語を話されているので気づきませんでした」
「ありがとうございます。それで、この国へは縁談のために参りました。ただ、婚約者となる男性が職場から帰ってこなくて、一ヶ月たっても会えなくて、婚約を結ぶこともできなくて……、これからどうすればいいのか、分からないのです」
今は縁談相手の家――フロベール公爵家で婚約者候補として家政を学んでいる。しかしこのまま縁談が進まなければ、自分はただの居候でしかない。だんだんと己は穀潰しではないかと思い悩むようになった。
フロベール公爵夫妻に対しても心苦しくて申し訳なく、最近のクレメンティーネは暗い表情でうつむいてばかりいる。
今も顔を伏せて唇を引き結んでいたら、怒りを含んだ声が降ってきた。
「わざわざ外国から来た令嬢を一ヶ月も放置するなんて、まったく度し難い。神の雷に打たれて滅んでしまえ」
チッと舌打ちまで聞こえてくるから、聖職者にあるまじき反応に驚いてクレメンティーネが顔を上げる。司祭は人間味を感じさせない冷たい表情をしていたが、目が合った途端に柔らかく微笑んだ。
「そのような薄情な男、捨ててしまいなさいと言いたいところです。破談にするつもりはありませんか?」
「わたくしが決められることではありませんので……」
貴族の結婚は親が決めるものだ。父親に婚姻を命じられた以上、クレメンティーネは故国へ戻ることなどできない。
それにもし帰国したら、別の男へ嫁ぐことになる。
フロベール公爵家との縁談が持ち込まれるまで、大商会を経営する老子爵の後妻になることが決まっていたのだ。老子爵は成人した孫がいる年と聞いていたため、妻というより介護要員としての結婚だろう。
本音ではフロベール公爵令息との結婚の方がずっといい。
しかし彼は仕事にかこつけて帰宅を拒み、宿舎で暮らすようになってしまった。明確な拒絶に、自分と結婚する気はないと嫌でも察せられる。
ため息が漏れそうになるのをグッとこらえたとき、司祭から、「待っていても会えないなら、ご令嬢の方から会いに行かれては?」と言われてクレメンティーネはきょとんとする。
「えっと、でも、お相手の男性は王宮の行政区画で働いている方なので、わたくしでは近づくこともできません」
あそこは内宮と呼ばれる、関係者以外は立ち入り禁止区域だ。中にいる者と会いたいなら、外宮と呼ばれる区域まで来てもらわねばならない。クレメンティーネを拒絶する男性が、わざわざ外宮に出てまで会ってくれるとは思えなかった。
「それなら上級官吏登用試験を受けてみましょう。官吏になって堂々と内宮に入ればいいんですよ」
思いもよらない提案に、クレメンティーネは理解するまで数秒ほどかかった。
「その試験を受けると、王宮の行政区画に入れるのですか?」
「官吏登用試験はいくつかありまして、王宮の行政区画に入りたいだけなら、平民でも受けられる下級官吏登用試験で大丈夫です。しかしあなたの身なりや立ち居振る舞いから、貴族のご令嬢だと察していました。となると縁談相手も貴族でしょう。しかもレディに護衛をつけるとなると、かなりの高位ですよね」
聞き方は疑問形ではあるものの断定の言い方だ。まあフロベール公爵家は最高位の貴族であるから間違いではない。クレメンティーネは素直に頷いた。
「であれば、お相手は上級官吏であると思われます。上級職と確実に接触するには、上級職にならねばなりません」
「なるほど……」
「登用試験は難しいと聞きますが、勉強すること自体があなたにとってプラスになるでしょう。ぜひ頑張っていただきたい」
励ますように微笑む彼の顔が、なんだか今までとは違う印象だった。司祭としての仮面を取り払ったような、素の表情のような……既視感を覚えたのはなぜだろう。
――どこかで見たような?
クレメンティーネが首を傾げたとき、司祭が何かを思い出したような顔つきになった。
「そうそう、大事なことを忘れていました。官吏登用試験は外国人だと受けられません」
「えっ!」
「でもご安心ください。我が国の民と養子縁組をすればいいんです」
国によっては養子縁組で国籍は変わらない場合もあるが、リュアール王国ではきちんとリュアール王国人になるという。その分、養親と養子の身元や背後関係の調査は慎重になるそうだ。
「ここで重要なのは、養子縁組する家は歴史と信頼がある名家にすることです。なぜなら新興貴族や裕福な平民が養親になると、養子縁組の裁可がもらえるまで時間がかかり、なかなか試験を受けられません。けれど名門貴族との縁組みなら円滑に進められ、問題なく試験を受けられますよ」
言われてみれば確かに……とクレメンティーネは納得する。王宮の官吏になれば国の中枢に近づくため、元外国人の身元確認は慎重になるだろう。しかし名誉や体裁を重んじる貴族の家門が養子にするなら、それだけで身元が保証される。
「司祭さま、教えていただきありがとうございます。さっそく相談してみますわ」
「ええ。よい結果を聞かせてください」
「はいっ」
クレメンティーネは淑女の礼をすると、失礼にならない程度の早足で出入り口へ向かい、護衛を連れて去っていく。
その後ろ姿が消えるまで見送った司祭は、「頑張りなさい」と親愛を込めた口調で小さく呟いた。
公爵邸へ戻ったクレメンティーネは、司祭からの助言をまっさきに公爵夫妻へ相談した。夫妻は非常に驚いたうえ、夫人の方が謝ってきた。
「ごめんなさい、クレメンティーネさんにそこまでさせて。うちの馬鹿息子のせいで……」
「いいえ、お会いできないなら会いに行けばいいと気づくのが遅れただけです」
将来の見通しが真っ暗で何も見えなかったのに、今は遠くに出口の光を見つけた気分だった。この機会を逃したくない。
やる気を見せるクレメンティーネに公爵夫人が感動し、協力を約束してくれた。
「クレメンティーネさんは国際儀礼や大陸共通語、世界地理と経済、経営はマスターしているわね」
「はい。ですが独学なので自信がありません」
「大丈夫、おかしなところはなかったわ。淑女のマナーも問題ないし、あとはこの国の歴史と法律、政治学が必要ね。故国と違うところも多いでしょうから、混同しないように覚えましょう」
家庭教師も手配してもらい、毎日、食事と睡眠以外は試験勉強をすることになった。
それから一ヶ月後、公爵閣下は遠縁のヘルム伯爵家とクレメンティーネの養子縁組を成立させた。
これでクレメンティーネはヘルム伯爵令嬢になり、正式なリュアール王国人となった。
「ありがとうございます、公爵様。こんなに早く養子縁組が可能になるとは思いもしませんでした」
どこの国でも、婚姻以外で外国人が貴族の仲間入りをすることに抵抗感があるはず。もっと時間がかかると思っていた。
するとフロベール公爵が気まずそうな顔つきになる。
「まあ、とあるお方に協力してもらったからね」
「とあるお方、ですか?」
「うん。お名前は明かせないんだけどね……」
公爵当主が助力をもらう相手といったら、王族クラスしかいないのではないか。……その辺りは深入りすると怖いので考えないでおく。とにもかくにも、これで試験が受けられる。
それから三ヶ月後、猛勉強と公爵家の方々の協力によって、クレメンティーネは見事合格を果たすのだった。
◇ ◇ ◇
リュアール王国の新人官吏は、研修期間中に希望する四つの部署へ配属されて教育を受ける。とはいえ花形部署は希望者が殺到するため、本人の希望が通らないことも少なくない。
その花形部署の一つである宰相府では、宰相次官であるジスラン・フロベールが部下の報告を聞いて不快そうに眉根を寄せた。
「女性官吏がうちに研修だと? なんで希望を通したんだ。どうせすぐに逃げ出すぞ」
宰相府は国政の心臓部であるが激務だと有名で、女性官吏が研修の希望を出すことはまれだ。
「気概のあるご令嬢なのでは? うちの噂は聞いているでしょうし」
「結婚相手を見つけたいなら、よそへ行けと誰か教えてやれ」
「でしたら次官が教えて差し上げるのが妥当では? ご親戚ですし」
「なに?」
「新人官吏はクレメンティーネ・ヘルム伯爵令嬢です。上級官吏登用試験の成績は三位。女性ではトップになります」
ジスランはその家名に宙を睨む。
「確かにヘルム伯爵家はフロベール公爵家の遠縁だ。しかしクレメンティーネという名前は聞いたことがない」
「ご養女とのことです。出身は隣国トラレスで、もとはパジェス侯爵令嬢だそうで」
「トラレス人? しかも侯爵令嬢が官吏になるってどういうことだ?」
「私に聞かれましても。ご実家に尋ねてみてはいかがでしょうか」
その言葉にジスランは嫌そうな顔になる。政略結婚を決められてからというもの、実家に帰ったことは一度もなかった。帰ったら婚約誓約書にサインをさせられると分かりきっていたので。
今でも実家から手紙が頻繁に届いているものの、封を開けずに突き返している。そのため自分から家族へ連絡を取りにくかった。
――もういいかげん諦めてくれないかな。縁談相手の令嬢も、私が結婚する気がないと察しているだろうに。
ふとそこで記憶に引っかかるものがあった。確か政略結婚の相手は隣国の令嬢ではなかったかと。しかし半年以上も前の破り捨てた手紙の内容など、さっぱり思い出せなかった。
「それで、ヘルム伯爵令嬢を宰相府で受け入れてもよろしいですか?」
「まあ、優秀な人間が増えることは喜ばしいかな。馬鹿な女よりずっとましだ」
「次官……いくら女性が苦手といっても、そういう言い方はいただけませんよ」
「私は女性が苦手なんじゃない。大っ嫌いなんだ」
「次官の女運の悪さには同情しますが、この世のすべての女性が毒婦ではありません」
そう言われるとジスランも反論しにくい。目の前にいる部下の奥方は、ジスランも認める賢夫人で夫婦仲はとてもいい。王妃殿下も王太子妃殿下も民を思う心優しい女性だ。
つまり部下の言うように、自分の女運が悪すぎるのだ。
公爵夫人になって贅沢がしたいご令嬢とか、愛人希望の下位貴族女性とか、顔の綺麗な男を侍らせたい未亡人とか……近づいてくる女性のすべてが性悪というのは、もはや呪われているのかと思うほどだ。
ジスランはこの話を続けたくなかったので、不機嫌そうに部下へ右手を差し出す。
「それよりヘルム嬢の研修評価を見せてくれ」
いくら試験で優秀でも、実務では使い物にならない人間だっている。そう思いながら評価書類を眺めるジスランだったが、「ほう」と感嘆の声を漏らした。
ヘルム伯爵令嬢が研修を修了した部署は二つあり、大法官府訟務調査室、財務府主計室で、どこも教育責任者からの総合評価は最高ランクになっている。
しかも能力評価では、上官や周りの人間を観察して先を予想し、臨機応変に動けるところが素晴らしいとあった。高位貴族にありがちな、己より身分の低い人間へ雑務を押し付けるところもないとのこと。
さらに教育係によるコメントでは、研修後はぜひうちに採用したい、と記されていた。優秀なのは間違いなさそうだ。
現在は軍務府警邏隊の事務局に配属されており、最後の研修先に宰相府を希望している。
ヘルム伯爵令嬢は女性官吏の多くが望む、王太子府や王子殿下が働く部署には興味がないらしい。
王宮には結婚相手を見つけに来ている女性も少なくないため、貴族の子息が集まりやすい王族のそばは人気があるのだ。
「悪くないな。――分かった、ヘルム嬢を受け入れよう。宰相閣下には私から伝えておく。まず君の下で庶務から初めて、仕事の流れを覚えたら私が使ってみる」
……そんな会話を交わした二週間後、件の新人官吏がジスランの執務室にやって来た。
「はじめまして、クレメンティーネ・ヘルムでございます」
ヘルム嬢はやや緊張している様子だが浮ついた印象はなく、ジスランを見ても媚びた態度になることもなく、固い表情のまま事務的な口調で挨拶をした。
やや小柄だが姿勢がいいのでそれほど小さく見えず、端整な容姿の持ち主である。白に近い白金の髪が見事で、癖のないつややかな美しい髪と、くっきりとした紫色の瞳は男の興味を引くだろう。
絶世の美女というわけではないが、理知的で可愛らしい女性だ。
ただ、なんとなく彼女の容貌に既視感を覚えるから不思議だ。誰かを思い出すようで、それが誰だか分からなくて、もどかしい。
ジスランはわざとらしく咳払いして意識を切り替えた。
「宰相次官のジスラン・フロベールだ。我が宰相府は残業も多く淑女が務めるには厳しい環境だが頑張ってほしい。ただ、女性官吏がいないので我々では気が利かないところも多いだろう。もとは隣国のパジェス侯爵令嬢とのことだが、研修がつらいようなら早めに言ってくれ。他部署に振り替える」
「……は、い」
少し震えた返事にヘルム伯爵令嬢の顔をみれば、みるみる蒼ざめていく。……もしかして宰相府の実態を知ったのは今が初めてなのだろうか。
「大丈夫か? 今からでも他部署に変えられるぞ」
「いえ、こちらで勤めさせていただきます」
「そうか。ではまず仕事の流れを覚えてくれ」
「かしこまりました」
深く頭を下げるヘルム伯爵令嬢はすぐに下がっていく。この間、ジスランを見て頬を染めたり声音を変えたり色目を使うこともない。逆に顔色を悪くして倒れそうな様子だ。
――大丈夫だろうか。うちでやっていけるのか?
不安になったけれど、まあ常識的な人のようで助かった。ジスランが心の底からホッとしていたら補佐官が話しかけてくる。
「あの容姿で伯爵令嬢なら男が放っておかないと思いますけど、なんで官吏になったのでしょうね?」
「さあな。それより彼女、誰かに似てないか?」
「誰かとは?」
「それが思い出せないんだよ。あの髪と目の色は我が国では珍しいから、他国の賓客かもしれない」
「うーん、思い出せませんねぇ」
特に重要だと思わなかったので仕事に戻ることにした。積み重なっている書類へ意識を集中すれば、新人官吏のことはすぐに脳内から消えていった。
◇ ◇ ◇
クレメンティーネが宰相府に配属された初日、終業に近づきつつある時刻に宰相秘書官から呼び出された。
「ヘルム伯爵令嬢。宰相閣下がお呼びだ。仕事が終わったら政務室へ来なさい」
「はっ、はい!」
クレメンティーネが焦りながら返事をするのと同時に、周囲にいる事務官たちが驚いた表情になる。
「ヘルム嬢、君、なんかやらかしたのか?」
教育係の事務官に問われて、クレメンティーネは首をひねる。
「今日が初日なので、特に思い当たることはありません」
「だよな。でも閣下が新人を呼び出すって、今までなかったんだけど」
不安そうな顔になる教育係だったが、クレメンティーネは「挨拶に来い」という意味だととらえた。
終業時刻になると急いで書類を片づけ、デスクの上を整頓してから事務官の先輩方に挨拶し、退出する。無礼にならない程度の速さで宰相政務室へ向かうのだが、同じフロアには宰相次官の執務室があるため、ジスランを思い出して悲しい気持ちになった。
――ジスランさま、わたくしのことにまったく気づかなかったわ。公爵閣下が帰宅をうながす手紙を出しても、開封せずに戻されるって聞いていたけど……まさか婚約者候補の名前を忘れるなんて。
ジスランに会いたい一心で官吏登用試験を受けたものの、会えば縁談が進むのではと甘いことを考えていた。どうやら一筋縄ではいかないらしい。
しかもクレメンティーネを見る眼差しは氷のように冷淡て、口調もそっけなかった。
――あんなに綺麗な人に睨まれると、すごく怖い。
初めて会った縁談相手は、ダークブロンドに濃いサファイア色の瞳をもった美しい令息だった。でもかなりの長身で、体型も騎士みたいにガッチリしている人だから、威圧感がすごくて気圧される。そんな相手に温度のない視線を向けられ、内心で震え上がった。
さらに彼がクレメンティーネに告げたセリフは、こちらを気遣う体裁でありながら、「うちがきつかったら出て行ってもいいんだぞ」との本音が隠しきれていなかった。
――あの人、本気で結婚する気がないわよね。たぶんわたくしが縁談相手だと知ったら、宰相府から叩き出されそう。
あそこまで政略結婚を拒否する令息と、なぜ縁談話が持ち上がったのか不思議だ。フロベール公爵夫妻は、結婚を決めてしまえばジスランも諦めて従うと思ったのだろうか。
そんなことを考えていたら宰相政務室に着いた。クレメンティーネは意識を切り替えて背筋を伸ばし、扉をノックして名前を告げる。先ほどの秘書官が応接間に通してくれた。
長椅子に座れば、それほどたたずに恰幅がいい中年の紳士が入ってくる。
「やあ、君がヘルム伯爵令嬢だね」
リュアール王国の宰相、バルビエ公爵その人だ。
クレメンティーネは素早く立ち上がり、淑女の礼の中でも最敬礼となるよう、深く膝を折って頭を下げる。
「はじめてお目にかかります、宰相閣下。クレメンティーネ・ヘルムでございます」
「そんなに固くならないで。座りなさい」
はい、とクレメンティーネは答え、姿勢を崩すことなく宰相の正面に浅く腰を下ろす。相手は穏やかな笑顔の温和そうな方だが、一国の宰相が見た目通りの方であるはずがない。緊張する。
侍従が二人分のお茶を出して退出するが、このとき扉がきっちり閉められたため内心で焦った。未婚女性が男性と密室で二人きりになるのはまずい。
クレメンティーネの顔色の悪さに気づいたのか、宰相が安心させるように微笑んだ。
「大丈夫、内密の話があるから人払いしただけで、二人きりになった記録は残らないよ」
「内密のお話、ですか?」
「そう。トラレス王国で貴族令嬢として生まれた君が、我が国の……リュアール王家の血を引いているなど知られるわけにはいかないからね」
驚愕のあまり心臓が一センチほど本当に跳ね上がった。全身から血の気が引くのを嫌でも感じて、脇下に冷や汗が滲む。
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