●著:小山内 慧夢
●イラスト: 里南とか
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4-8155-4355-6
●発売日:2024/12/27
最高の女性だ。もう手放すことなんてできない
伯爵令嬢のクロエは幼い頃、占い師に王を産む「王胎」だと告げられ、トラブルを避けるため修道院に入れられていた。結婚相手を見つけるまで修道院から出られない彼女は不運を嘆きつつも明るく暮らしていたが、あるときケガをした旅人ヴァルを助けて互いに惹かれ合う。
「俺も好きだ、離したくない」
ついに運命の相手が見つかったと喜ぶクロエだがヴァルの正体は死んだことにされていた王子で……!?
第一章 王胎
(はぁ、なんだかおうちが恋しくなってきちゃった)
掃除の手を休めて、クロエは雑巾で拭いているベンチから窓へ視線を転じた。
窓枠の形に切り取られた空は本日も快晴で、クロエはペールグリーンの瞳を細める。
昨日、久しぶりに家族から手紙が届いたせいで、少し里心が付いたのかもしれない。
両親と弟から、それぞれ十枚程度綴られた手紙は既に小包と呼べる厚さになっており、近況とクロエを心配する言葉がこれでもかと暑苦しいほどに連ねられていた。
特に五歳のときから会っていない弟のエミーディオはもう十五歳で、伯爵である父の後を継ぐべく本格的な勉強をしていると書かれていた。
瑞々しい抱負と共に姉上に会いたいと書かれると、今すぐに掃除を投げ出して会いに行きたくなってしまう。
(そんなこと、できはしないけれど)
クロエはため息と共に礼拝堂をぐるりと見回す。
石造りの礼拝堂は冷たさを感じさせるが、窓から入る陽光がそれを和らげてくれている。
十歳で見習いとして修道院で暮らし始めて十年。
屋敷で暮らしたのと同じだけの年数を、修道院で暮らしたことになる。
人生の半分を労働と祈りに捧げてきたのかと思うと感慨深いが、自ら進んで修道院に来たわけではないクロエは複雑な心境になる。
幼い頃こんな良く晴れた日は、屋敷の庭で寝転がって小さな弟と一緒に昼寝をして、お腹が空いたらお茶やお菓子、食事が望むだけ出てきていた。
今のなんでも自分でやらなければいけない生活とは大違いだ。
それに不満がないとは言えないが、しかしクロエはここにいることで『守られて』いるのだという。
(全然その恩恵を感じることはできないけれど)
ため息をつくと、クロエは床を拭いていた雑巾を年季の入った桶の縁に掛けて持ち上げる。
丈夫だがその分重い桶にもすっかり慣れてしまった。
(伯爵令嬢だというのに、掃除洗濯料理が上手なんて……あと、畑仕事と食料の採集も)
貴族令嬢であれば必要なかったはずのスキルを身に着けて、娘盛りの時期を迎えたクロエはポツリと愚痴を零す。
「……早く結婚したい」
こんなところではそれも無理だけれどと俯くと、耳に掛けた白金の後れ毛がぱらりとひと筋顔に掛かった。
クロエ・ベネヴィートは控えめに言っても美しい顔立ちをしている。
王都で五本の指に入る美人と言われていた、母親の美貌を惜しげなく受け継いだかたちだ。
今は掃除のためにひっつめられているが、手入れをせずとも艶がある白金の髪は緩くウェーブしてたおやかさを演出しているし、憂いを含んだようなペールグリーンの瞳は見えないものをも映しているように神秘的に輝く。
私語もよろしくないと言われている修道院ではおしゃべりも気軽にできないが、愚痴は零しても基本的に真面目なクロエはそこそこうまく立ち回っていると言えるだろう。
恐らく修道院にいなければとっくに良縁に恵まれ、結婚していたと思われる。
名門ベネヴィート伯爵家の令嬢とは、安い名ではないのだ。
「礼拝堂の掃除が終わったので、野草を摘んできます」
「あら、ご苦労さま。近くで野犬を見たって言っていたから、お守りを持って行きなさいね」
厨房に声を掛けてから、クロエはいつものように近くの林に野草の採集に出掛けた。
修道院では基本的に自給自足の生活をしている。
規模が大きなところでは病院や醸造所を擁するところもあるが、クロエが生活しているのは王都とベネヴィート伯爵領のちょうど中間にあるユグミアーヌ領にある田舎の小規模なルサーク修道院だ。
人の出入りが少なく、顔馴染みばかりだ。
(だから十年経っても私が一番下なんだけれど。まあ、正式な誓願をしていない見習いだから仕方ないか)
黙々とサラダにする野草やハーブを摘みながら、クロエは無意識のうちに唇を尖らせる。
見習いから脱したいわけではないが、同じ年頃の娘と話をしたいという欲求が爆発しそうなのだ。
おしゃべりは推奨されなくても消灯後の寝るまでの間とか、同室の友人とコソコソ話しながら眠りにつくなんて、とても楽しそうなのに。
ここでは年上ばかりだから、夜が早くてみんなすぐ眠ってしまうのだ。
バスケットいっぱいまで野草を摘んだクロエは、こんなものかと腰を上げ来た道を戻る。
あと少しで修道院、というところまで来たときに、緩くカーブした道の向こう側で争うような声が聞こえた。
「え、なに……?」
身構えながら様子を窺うと、獣が威嚇する声が聞こえた。
「まさか野犬……?」
出掛ける時に注意を受けた言葉が脳裏によみがえる。
クロエはバスケットに忍ばせたお守り袋を握りしめ、及び腰で怖々近付く。
二人の男が五匹の野犬に襲われていた。
彼らは剣を抜いて追い払おうとしているが、野犬は群れで連携して諦める気配はない。
野生動物は生きるのに躊躇がない。
去年は特に長雨と乾燥が交互に来たせいで、作物の実り具合が芳しくなかった。
人の手が入る修道院の畑もそうなのだから、森や林は言わずもがな。
餌になる小動物も減ったために、こうして人里に近いところまで野犬が下りてきたのだろう。
(だからと言って、人を襲っていいことにはならないわ……!)
クロエはお守りをぎゅっと握りしめると駆け出した。
「こらー! やめなさい!」
突然大声で乱入してきたクロエに驚いたのは野犬ばかりではない。
襲われていた男たちも驚いて一瞬動きを止めた。
そのうちの一人がすぐにクロエに向かって声を張り上げる。
「馬鹿、こっちに来るな! 危険なのがわからないのか!」
切羽詰まった声は恐らくクロエを危険から遠ざけようとしたのだろうが、馬鹿と言われたクロエは心外だと声を荒らげる。
「まあ! 馬鹿とは失礼ね! 助けてあげようと思って駆けつけたのに! さあ息を止めて!」
クロエは握りしめていたお守り袋の紐を引くと、それを野犬に向かって投げつけた。
中身をまき散らしながら、お守り袋は野犬のちょうど真ん中に落ちた。
「ギャン!」
まるで火でも付いたように甲高く鳴き、野犬が転げまわって苦しみ出す。
「今のうちに修道院へ!」
クロエもそう言いながら駆け男たちに近付く。
ここからなら全力で駆けられる距離だと踏んだのだ。
しかし、お守り袋から一番遠いところにいた野犬には効果がなかったようで、一匹が猛然とクロエに向かってきた。
本気になった獣に人間が速さで勝てるわけはない。
言葉を発することもできず、ただ顔の前に手を翳すことしかできず、クロエは身の丈に合わぬ出過ぎたことをしてしまったのだとようやく理解した。
(お守り袋を持っているからって出しゃばってしまった! でも、あのまま知らんぷりできるわけない……っ)
痛みを覚悟して身体を強張らせたクロエだったが、結果として痛みを感じることはなかった。男がクロエの前に手を突き出して、野犬から庇ったのだ。
「……くっ!」
「がるるるる……ッ」
男の腕に牙を突き立てた野犬が唸ると、男は痛みに顔を歪める。
「あ……っ」
男のグレーの瞳の中に炎のような鮮やかな虹彩が現れた。まるで怒りを顕現させたような様子は神々しくもあり、クロエは目が離せなくなる。
うっかり見惚れてしまったクロエの視界にもう一人の男が映る。
彼は手練れのようで、手にした剣を素早く薙ぐと野犬を切り捨てた。
人を襲ったとはいえ、目の前で命が消えるのを見るのは嫌なものだ。口の中に苦いものが広がる。
クロエは心の中で野犬がせめて苦しまずに逝けるように願う。
「大丈夫ですか」
年嵩の男が若い男の噛まれた腕を確認しながら尋ねると、クロエを庇った男が顔を顰めて低く唸る。
「そう見えるか」
大丈夫ではないだろう。
ただ切っただけではない、不衛生な獣の口腔内にはどんな病気が潜んでいるかわからない。
「あの、すぐに手当てを」
自分にも責任があるという自覚があるクロエは、頭の中で治療の手順を考えながら申し出ると、若い男が眉間にしわを寄せた。
「いや、いい。先を急いでいる」
いくら男でも痛いものは痛いはずだ。
男の態度はやせ我慢だと看破したクロエは、重ねて治療を申し出るが男は首を縦に振らない。困ったクロエは年嵩の男に視線を向けるが、彼は無表情を崩さず、なにを考えているか不明。
野生動物から受けた怪我は一刻を争うというのに。
(こうなったら奥の手だわ……っ)
クロエは若い男が逃げないように外套をしっかりと握った。
そして眉間にしわを寄せて目を大きく開ける。
視線を少し下に固定し一点を見つめていると、目の奥の方が潤みだすのを感じた。
「わたしの、せいなので……っ」
喉を絞めて声を震わせると、握った外套から男が僅かに動揺したのが感じられる。クロエはもう一押しだと己の眼球にエールを送った。
すると期待に応えるようにペールグリーンの瞳から一粒涙が零れる。
一つ落ちればこっちのものだとばかりに、涙は幾度も落ちた。
「お願いです、治療を……っ」
「……、わかった。わかったから泣くな」
根負けした若い男が天を仰ぐと、クロエは涙を拭いて弱々しい笑顔を作る。
「はい、ではこちらへ!」
男の怪我をしていないほうの手を引いて修道院の裏口から入る。
二人の男を連れて戻ってきたクロエに他の修道女は驚くが、怪我人なのだと言うとすぐに手当てを手伝ってくれた。
すぐそこにある水場で血を落とすと、牙が刺さったところを流水で念入りに洗う。
「随分手馴れているな」
頭上から降ってくる声に僅かに硬さを感じたクロエは、痛いのだと直感するがそれでも加減してやることはできない。
「申し訳ないですが我慢してください。しっかりと洗い流さないと」
今、傷を抉ってでも洗浄しないと、取り返しのつかないことになる。
クロエの内なる声が聞こえたのか、男は黙った。
その後念入りに消毒をしてから薬を塗り、最後に清潔な包帯を巻く。
「はい、出来ました……あの、危ないところを助けていただいてありがとうございました」
怪我の治療で後回しになってしまったが、自分を庇ってこんな怪我を負ってしまった男へ謝罪と感謝を伝える。
本当は自分が彼らを助けるつもりだったが、立場は逆転してしまった。
申し訳なさが先に立つが、それでも治療が済んだことでようやく表情を緩めたクロエに、若い男は無言で立ち上がった。
「世話になった」
すぐにでも出ていこうとする男の外套に、クロエは再び縋った。
「駄目です! せめて一晩休まないと」
「しかし……」
先を急ぐと言っていたのは本当なのかもしれないが、もし途中で傷が悪化したらそれこそ大変なことになる。
クロエはこれ以上なんと言ったらこの男を留まらせることができるのかわからずに、視線を彷徨わせる。
すると思わぬところから助けが入った。
同行者の年嵩の男が「せっかくだからここで一晩休もうぜ」と言ったのだ。
「なにを……」
「今から歩いても今日中には宿場には着かねえ。うまい具合に宿が見つかるとも限らねえなら、ここで一晩世話になったほうが利口ってもんだ」
年嵩の男は随分と旅慣れているらしい。
クロエはその尻馬に乗ることにする。
「そうですよ! ここなら温かい食事だって準備できます! 上等ではないけれど足を伸ばして休めるベッドも、あたたかい毛布も……っ」
必死に引き止めるクロエに根負けしたのか、男は大きなため息をつくと肩の力を抜いた。
「そこまで言うのなら、世話になる」
クロエは安堵の息をつくと、部屋の準備に奔走した。
難儀をしている旅人や、やむにやまれぬ事情のある人を受け入れることもある修道院ではすぐに準備が調う。そのためにクロエは日頃から予備の毛布を日干ししたりしているのだ。
ただ、奇妙なのは男たちを隣り合った一人部屋に案内した際、年嵩の男から「二人部屋はないのか」と聞かれたことだ。
クロエは一人ずつゆっくり休めるようにわざと一人部屋にしたため戸惑った。
「ええと、二人部屋だと狭いと思ったのですが……」
「せっかく用意してくれたんだ、ここで構わない。どうせ一晩だ」
若い男がぐったりと肩を落とす。
声にも疲労が混じっているのを感じたクロエは食事を運び、甲斐甲斐しく世話をした。
夜、野犬騒ぎで片付かなかった仕事をやっつけたクロエが静かな廊下を歩いていると、どこからか呻き声が聞こえた。
「え、……気味が悪いわ……」
肩を竦め足早に去ろうとしたクロエだったが、自分がいるのが怪我人を案内した部屋の前だということに気付く。
(もしかして容体が悪化した?)
ゾッと寒気がしてクロエは控えめに扉をノックする。
応答はない。
時間は真夜中だから寝ているのかもしれないと思い耳を澄ますと、また、微かに呻き声がした。
「やっぱり……! 入りますよ!」
声を掛けてから扉を開けると、ベッドに横たわった若い男がひどく汗をかいて魘されていた。
「熱が出たのね! どうして呼ばなかったんですか?」
夜に具合が悪くなったら鳴らすように呼び鈴を渡しておいたのに。
部屋を見回すと手が届かない窓辺に置いてあるのを見つけた。
「呼び鈴に外の風景を見せても傷は良くならないでしょ!」
怒りを言葉にするが、男から返事はない。
妙な苛立ちを覚えたクロエは男の顔に掛かった髪を避けて、額に手を当てて熱の具合を測る。
燃えるように熱かったが、初めてまじまじと男の顔を見て心臓が跳ね上がる。
(わ、わあ……、改めて見ると、こんなに素敵な人だったのね)
野犬に襲われたときに気付かなかったのが不思議なほどだ。
クロエが怪我の手当てをしたり部屋を整えたりしている間、若い男は外套を頑なに脱がなかった。それどころかフードすら外さなかったのだ。
よっぽど気取った男か、恥ずかしがりやなのねと思っていたが、ようやく納得した。
これほどに美しい造作をした男性ならば、顔を隠さなければ女性から思いを寄せられて困るだろうと思ったのだ。
艶やかな黒髪と長いまつ毛。すっと通った鼻筋は嫌味ではないギリギリの高さだ。その下の唇は薄く、今は苦しげに引き結ばれている。
「いけない、見惚れている場合ではないわ!」
クロエは桶に水を汲み、濡らした手巾で額を冷やした。
熱冷ましの薬草を煎じて飲ませると、男は朦朧とした意識でクロエを見て、腰に抱き着いてきた。
「ちょっと、大丈夫ですか?」
「……しんどい。少し、このまま……」
体勢がちょうどいいのか、男は消え入るような声でそう言うと意識を失った。
気絶したのかと焦ったが、寝息が穏やかなところをみると、眠ってしまったのだろう。
「ふう……お薬が効いたのかしら」
首筋に触れるとまだ熱いが、さきほどに比べたら呼吸は随分楽そうになっている。
このままならばすぐに医者を呼ばなくとも大丈夫かとクロエは息をつく。
シャツの背中が汗でしっとりしているのを見て、あとで着替えてもらうときに汗も拭かなければと思う。
(このまま少し様子を見て……飲めるようなら水も飲んでもらおう)
水差しには手を付けなかったのか、寝る前に準備したまま減っている様子はなかった。
一度浮かせた手の置き場がなくて、クロエは男の肩に手を置く。
そしてトントンと赤子を寝かしつけるようにゆっくりと叩いた。
「……い、おい、起きろ」
「はっ!?」
間近で声を掛けられて瞼を開けると、すぐ隣に男の顔があった。
どうして修道院に男が? と悲鳴を上げそうになるが、秀麗な美形に昨日のことを思い出し、なんとか叫び声を回避する。
「あ、具合はどうですか?」
どうやら看病の途中で寝入ってしまったらしいと気付いたクロエは、照れもあってはにかむ。
「……治った」
男はそう言うが、まだ目の際が赤くなっていて、雰囲気がぽやぽやしているように見受けられた。
「どれどれ」
クロエは昨夜意識がない男にしたように、軽率に額に手を当て熱を測る。
「……おいっ」
「あれ、まだ熱がありますね。まだ寝ていてください。朝のお勤めの後で食事を持ってきますから」
立ち上がって伸びをする。座った体勢で項垂れるようにして眠っていたので、首が痛かった。
「待て、もう十分だ」
しかしクロエは聞く耳をもたない、というように耳を塞いで部屋を出た。
修道院の朝は早い。
クロエは寝不足だったが生あくびをかみ殺して自分の仕事を大急ぎで片付けていく。
なるべく早く怪我人に食事を届けたい一心だった。
掃除の最中にフラフラと歩く年嵩の男を見つけた。
年嵩に見えたが、クロエは髭をあたり小ざっぱりとした男は思ったよりも若いと気付く。
「おはようございます。よく眠れました?」
「おはよう。君は眠れなかっただろう?」
男はユルゲンと名乗ると、なぜかにやりと唇を歪めた。
その口振りからどうやら昨夜クロエが看病していたのを知っているようだ。
「クロエです。病人や怪我人の看病をするのは、ここではよくあることですから」
寝不足は否定せずそう微笑むと、ユルゲンは目を細める。
「奴は熱があって使い物にならなかっただろう?」
ユルゲンの言葉にはなにやら含みを感じたが、その正体はわからない。クロエは僅かに眉を顰めて首を傾げた。
「誰しも体調が優れない時はあります。使い物になるとかならないとか、旅の相棒に対して随分冷たいのですね」
昨夜の苦しげな彼の様子を思い出すと胸が痛む。
自分が出しゃばらなければ彼は野犬に噛まれることもなかったかもしれないし、熱に浮かされることもなかったと思うと申し訳なくなる。
「いや、あれはあいつが……まあ、いいか。とにかく助かった。俺たち二人でも野犬の群れは厄介だった。あの袋の中身はなんだ?」
顎に手を当てて覗き込むように顔を近付ける。背が高いのでそのようにするのだろうが、男性に免疫がないクロエはぎくりとして身を引く。
「あ、あれは動物が嫌がる臭いのする粉の詰め合わせです。よろしければお分けしますよ」
「助かる。無用な争いは避けたいからな」
ユルゲンは口角を上げると腕を組んだ。顔の位置が遠ざかり、彼との距離が開いてクロエはホッとする。
「もうすぐ朝食の時刻ですがどうされます? 食堂でとっていただいてもいいですし、部屋に運ぶこともできます」
「では食堂で。あいつには部屋に運んでやってくれるか」
そのつもりだったクロエは快諾して、会釈でユルゲンと別れた。
(そういえばあの人の名前を聞いていなかったわ)
食事を持って行ったときに聞こうと心に決め、クロエは残りの掃除を丁寧且つ迅速に終えた。
食事を乗せたトレイをもって男の部屋を訪れると、彼は大人しくベッドに入っていた。
やはり身体が本調子ではないのだと自覚があるのだろう。
クロエと目が合うとじろりと睨んできた。
「改めておはようございます。一応ミルク粥にしてみたんですが、食べられそうですか?」
「出された食事に文句を言うほど落ちぶれてはいない」
「ふふっ」
素直な性格ではないかもしれないが、クロエはこの男のことが嫌いではないと感じていた。
自分が怪我をしてまで他人を助けてくれたのだから、根は善良に違いない。
トレイを受け取って静かに食べ始める男に、名前を尋ねる。
「わたしはクロエ。あなたは?」
「……ヴァル」
男――ヴァルはぼそりと一言だけ口にすると、食事を続ける。
無愛想にされているのになぜか少しも不快ではない。
どことなく野良猫を餌付けしているような気持ちになる。
クロエは不思議に思いながらも、ヴァルが食事をしている間にベッドのシーツと毛布を交換した。
「じゃあヴァル、食事が終わったら身体を拭きましょう。着替えはあります? なければこちらで準備しますが……」
「ごほっ」
急に噎せたヴァルは数度咳き込むと、「自分でできる」とぶっきらぼうに答える。
「遠慮しなくてもいいのに。怪我をしているんだから片手じゃ大変よ。熱のせいで汗をかいて気持ち悪いだろうし、わたしは慣れているから」
「……」
指摘されたヴァルは少しの間葛藤していたが、やがて小さく息をついてシャツを脱いだ。
どうやら嫌なことと天秤にかけて、気持ち悪さのほうが勝ったらしい。
クロエは余計に茶化すことはせず、湯と着替えを準備する。
「……簡単でいいから」
「わかりました。では、背中から……あ」
ヴァルが背中を向けた瞬間、クロエは言葉を失った。
彼の背中には大きな瘢痕と火傷の痕があったのだ。
「醜いものを見せてしまってすまない。やはり気持ち悪いだろう……自分でやるから」
声に淀みはなく、彼の中でもう完結した傷跡なのだろうと推察されるが、クロエにはそれだけで済まされない衝撃だった。
「……あの、もう痛くはないですか?」
古傷は雨の日に疼くというのを聞いたことがある。これほど深く濃く残っている傷ならさぞや痛むだろうと思うと、クロエは悲しくなってしまう。
(だから清拭されるのを嫌がったのね。わたしったら知らないとはいえ無理矢理みたいに……)
「痛くはない」
簡潔にそう答えたヴァルの言葉の外に『憐れみは結構』という気持ちが表れていた。
クロエは唇をキュッと噛みしめると顔を上げる。
「……なら、拭きますね。失礼します!」
湿っぽくならないように努めて明るい声を出すと、背中を拭いていく。
鍛えているのか、細いのに引き締まっているのがよくわかる。
清拭が終わった後で腕の傷口を洗い、薬と包帯を交換する。
膿んだ様子はなく、傷が塞がれば問題なさそうでほっとする。
「大事にならなくてよかった」
「あぁ……ありがとう」
スッキリした表情になったヴァルを見て、クロエは申し訳なさが襲ってきて、頭を下げた。
「本当にごめんなさい。わたしが軽率な行動をしなければ……」
項垂れると、頭の上からため息が聞こえた。
「いや、正直苦戦していたから、あの袋で四匹を無力化してくれたのは助かった。腕だけで済んで御の字だ」
話を聞くとあの五匹の他に八匹ほどを切り捨てたあとだったという。連携して次々と襲ってくる野犬に手を焼いていたと聞きゾッとする。
「ユルゲンさんみたいに強い人がいてもそうなのね……怖いわ」
「おいちょっと待て、なぜユルゲンを知っている」
眉を吊り上げて言葉尻を捕まえるヴァルを、クロエはどうどうと馬を落ち着かせるように両手を動かす。
「興奮し過ぎはよくないわ。さあ、また身体を休めて。怪我を早く治すにはまず休まないと。また後で様子を見に来るから」
「おい……っ」
まだなにか言いたそうなヴァルを無理矢理寝かしつけると、クロエは部屋を出た。
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