●著:佐倉紫
●イラスト: 深山キリ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543648
●発売日:2025/5/30
お願いだから出て行かないでっ、離婚とか言わないでぇえッ!
伯爵令嬢クロエは嫁ぎに来たその日に夫であるアンベール侯爵に「君を愛するのは無理!」と宣言され、そのまま放置されてしまう。
こうなれば離婚して自由を手に入れてやると決意したクロエだったが、三年ぶりに帰還したアンベールは「一生傍にいて、一生謝り続ける」と土下座までしてクロエを引き止め、予想外の溺愛生活がスタート。
気づけば彼の優しさと好意に心も身体も揺れ始めていて――!?
第一章 君を愛するのは無理
「クロエ! クロエー! どこにいるんだい!? さっさと居間に降りてきな!」
今日も今日とて継母デジレの金切り声が響き渡る。
すり切れたドレスにエプロンを着込み、芋の皮むきをしていたクロエは「またか」とうんざりしながら顔を上げた。
かたわらのテーブルで帳簿をつけながらうんうんうなっていた老執事も、まったく同じ面持ちで大きくため息をつく。
「デジレ奥様ときたら、またクロエお嬢様をあのように呼び出して……! お嬢様はこの伯爵家の跡取りであって、使用人ではないというのに!」
真っ赤になって吠える老執事に「しかたないわよ」とエプロンを外しながらクロエが答えた。
「使用人と呼べる人間は今や、あなたのほかには女中が二人しかいないし。あなたの妻である家政婦長はわたしのお父様につきっきりで、もう一人は食材の買い出し中。となれば、お義母様が呼び出せるのはわたししかいないわけだしね」
「それもこれもすべて奥様と、連れ子のレジーヌ様の散財が原因ではありませんか! この爺はもう我慢できません! 今日こそ奥様にガツンと言い聞かせて――」
「それで聞くようなひとじゃないと、五年も一緒に暮らしてわかっているじゃないの」
手を洗ったのち髪をひっつめていた布を取ると、黒髪がふわりと広がる。クロエは背の半ばまで波打つ黒髪を手早く三つ編みにし、くるりと巻いて頭に留めると「じゃ、ちょっと行ってくるわね」と厨房を出た。
「いえ、今日は爺めも一緒に行かせてくださいませ! いいかげんに散財をやめていただかなければ、我が伯爵家は早晩破産になりますゆえ!」
薄くなってきた頭皮までかっかっと真っ赤に怒らせて、老執事も一緒についてくる。
ここ数日、ずっと帳簿とにらめっこし続けていただけに、その怒りは相当のもののようだ。
(本当に散財さえやめてくれれば、お義母様たちともそこそこ平穏に暮らせると思うのだけどね)
ため息をつきつつ、半地下の厨房からこの家の奥方の部屋へと、クロエは階段を上がっていった。
――クロエの生家、エルダーソン伯爵家は、歴史ある由緒正しい家柄である。領地の運営も上手くいっており、貴族の家格を保つのに足る充分な資産も保持していた。
それが、現当主である父がデジレを後妻に迎えてから、少しずつ歯車が狂いだしたのだ。
一番の原因はデジレとその連れ子であるレジーヌの散財癖で、彼女たちは隙あらばドレスでも宝石でも買いあさり、結果、伯爵家はみるみるうちに資産を減らしていったのだ。
もうお金がないとこちらが主張すると、デジレはなんと代々伝わる絵画や銀食器などを売り払おうと画策した。おかげで老執事と大喧嘩になったのはまだ記憶に新しい。
(使用人を極限まで減らして、お義母様やレジーヌが飽きたドレスをこっそり売ったりして、なんとか食いつないでいるけど……本当に、早くどうにかしないといけないわよね)
だがまだ十六歳で、家督を継ぐにはあと二年あるクロエの権限は悲しいほどに小さい。父が健在なら問題なかったかもしれないが、あいにく父はデジレを迎えて半年後くらいに病を発症し、そこからずっと寝たきりになってしまった。
今は目を覚ましている時間も短く、デジレたちのことを相談しようにも、かなり難しい。なにより病床にある父に負担をかけたくない思いで、クロエはここ数年は、跡継ぎというより使用人のように暮らしていたのだ。
そして継母の部屋に入った途端、クロエは思いがけない客人を見つけて大きく息を呑む。
「あなたは、モルガン……!? いつ帰っていたの?」
あんぐりと口を開けて驚くクロエに、モルガンと呼ばれた青年は軽く手を上げて応えた。
「久しぶりだね、クロエ。つい先日、帰国したばかりだよ」
モルガンはクロエが十歳の頃に、父の計らいで婚約した相手だ。父親は成り上がりの男爵だが、やり手の商人でかなりの資産家でもある。モルガン自身も早いうちから投資で儲けていると聞いていた。
とはいえ彼は数年前から隣国に留学していて、来訪も最近はすっかり途絶えていた。
その彼がクロエへの連絡もなしに屋敷にやってきて、それも継母デジレの部屋にいるというのはどういうことだろう……?
「訪問に気づかずにごめんなさい。お茶の用意もできないで――」
「本当にその通りだよ、このグズ! しみったれた地下で洗濯なんかしているからドアベルの音にも気づかなかったんだろう?」
クロエの言葉をさえぎって、デジレがキンキンと耳に響く声で文句を言ってきた。
「あたくしが気がついて、すぐに招き入れられたからよかったものの、そうでなかったらまだ寒い中、大切なお客様を外でお待たせするところだったんだよ!」
キッと目をつり上げて怒鳴るデジレには、四十代半ばとは思えない美貌があるせいか、独特の迫力が備わっている。
気の弱い人間ならすくみ上がりそうな叱責だが、あいにく継母の癇癪に慣れているクロエには効果は非常に弱かった。
「それは申し訳なかったわ。でも、わたしが地下で使用人がやるべき仕事を請け負わなければならなくなったのは、あなたが見境なしにドレスやら宝石やらを買いあさって家計を火の車にしてくださったおかげですからね、お義母様?」
するとデジレはキーッと目をつり上げ、拳をどんっとテーブルに振り下ろした。
「ああもう、いつもいつも癇に障る言い方ばかりする娘だね! そういうところが腹立たしいんだよ!」
「あら奇遇ですね。わたしも、そうやってすぐに怒鳴り散らすヒステリーな女性は大きらいです」
「なぁんですってぇ!?」
平然と返すクロエに、デジレはテーブルをどんどん叩きながらわめいてくる。
すると、デジレの背後に立っていた少女が扇の陰で楽しげに笑った。
「――レジーヌ、あなたもいたのね」
デジレの背後に目をやったクロエが声をかけると、少女は扇をたたんで「ええ、いたわよぉ」とうなずいた。
「本当にお母様とお義姉様ったら、あいかわらずねぇ。お客様の前なんだから、もう少しにこやかに会話したらど〜お?」
「あいかわらずなのはあなたのほうよ。その舌っ足らずな話し方、いいかげんにおやめなさい」
はぁ、とため息をつきつつ、義妹の装いを見たクロエは少しクラクラしてくる。
手入れを怠ったため艶がない黒髪と、気の強さがそのまま出たようなつり目のクロエに対し、レジーヌは母デジレの美貌を余すことなく受け継いだ、人形のように可愛らしい美少女だ。
流行りのドレスもよく似合っている。また無断で新しいドレスを買って! と怒りが募る一方、本当に可愛いわね……と、つい思えてしまうところが、厄介と言えば厄介だ。
「うふふっ、お姉様ったらぁ。それに今はわたしのことよりぃ、モルガン様がどうしていらしゃったのか聞いてみるべきじゃないのぉ?」
それはそうだとうなずいて、クロエはモルガンと向き直る。モルガンはテーブルに置かれていた書類を軽く持ち上げた。
「ではさっそく本題に入るね。クロエ、君はこのエルダーソン伯爵家の跡継ぎ娘だったが」
「ええ」
「今日からその権利は、こちらのレジーヌに移ることになった」
「……は?」
思わず聞き返したクロエは、モルガンの言葉を今一度脳内でくり返し、再度「は?」と言った。
「な、なにを言っているのモルガン。この家の跡継ぎは間違いなくわたしよ? だってお父様と血のつながった子どもは、わたししかいないもの。レジーヌはお義母様の連れ子だから――」
「ふん! そうは言ってもレジーヌのほうが高貴な血筋なのは間違いないよ。この子はさる王族を父に持つ娘だからね!」
クロエの正論などなんの意味もないとばかりに、デジレが高笑いしながら割り込んできた。
「はっ? レジーヌが王族の娘……?」
「そうさ。あたくしの太客が王族だったんだ。その男の娘で間違いないよ」
にんまり笑うデジレは、元高級娼婦だ。身分ある者しか客として入れない高級店で人気を誇っていたということだから、王族に贔屓にされていてもおかしくはない。
が、本人の言葉だけでそれを信じていいものかどうか。
「お、王族のご落胤だというなら、その王族こそレジーヌを引き取るべきではないの?」
「わかっていないねぇ。娼婦が産んだ娘だよ? 仮にその男の家に引き取られたとしても、嫉妬に駆られた正妻が怒り狂って、この子をひどい目に遭わせるかもしれないじゃないか。これだけ美しく可愛い娘ならなおのことだよ」
自分そっくりの娘をうっとりした目で見つめて、デジレは当然のように語る。
あいにくクロエは同情を誘われる性格ではないので、思わず腕組みして目を据わらせた。
「かといって、その娘と一緒に伯爵家にやってきて、散財ばかりしているのもどうなのですか?」
「んま! おまえは可愛いレジーヌが路頭に迷ってもいいと思っているのかい!」
「父親がはっきりしているなら、そちらに援助でもなんでも頼むのが筋だと思うのですが?」
「それができたら苦労しないよ。この子に幸せになってもらうために、あたくしは娼婦から足を洗って伯爵夫人としてまっとうに生きているんだよ? それなのになんて冷たい言い草……!」
「まっとうな伯爵夫人は、その家の血を継いでいない娘を跡継ぎにしようなんて考えません」
クロエはぴしゃりと言いきった。
強気な彼女にやれやれと苦笑しながら、モルガンは手にした書類を軽く叩く。
「君がなんと言おうと、このエルダーソン伯爵家の当主である君の父上は、この書類にサインをした。見てごらん、間違いなく跡継ぎを変更するための公的な届け出の書類だよ」
「……貸して!」
つかつかと歩み寄ったクロエは書類をひったくる。だが署名欄に書かれた父のサインは確かに本物だったし、その隣には当主だけが使える貴族印もしっかり捺してあった。
「うそでしょう……? お父様は本気で跡継ぎをレジーヌにするつもりなの?」
「するつもりもなにも、もうなっているんだよ。届け出は公的機関にしっかり受理された。ちなみにこの書類は控えね」
呆然とするクロエに代わり、猛然と反発したのは老執事だ。
「こんなこと、ありえません……! 旦那様はいったいなにをお考えか! 病床にある旦那様に代わり、この家のことを一番に考えてきたのはクロエお嬢様だというのに!」
「案外それが目に余ったんじゃない? まだ十六歳のくせに、なにをしゃかりきになっているのかと」
「当主夫人であるこのあたくしを、ないがしろにした罰ですよ」
肩をすくめるモルガンの隣で、デジレが当然だとばかりにふんっと鼻を鳴らした。
老執事はより真っ赤になって「ありえません!」と怒鳴る。
「この家の跡継ぎはクロエお嬢様です! 王族を父に持つからなんだというのですか! 連れ子としてやってきたあなたに、伝統あるエルダーソン伯爵家を継ぐ権利はありませんよ、レジーヌ様!」
名指しされたレジーヌだが、気分を害すどころかより楽しそうににっこり笑った。
「そうは言っても決定したのはお義父様だしぃ。文句があるならお義父様に言えばよくなぁい?」
「そもそも病床にある旦那様にどうやってサインさせたのですか! はっ、まさか……あなた方、旦那様の筆跡を真似て偽のサインをして、金庫から貴族印を盗んで勝手に判を捺したのでは……!?」
老執事の言葉にクロエもハッとその可能性に思い当たる。だがモルガンもデジレも、レジーヌでさえ「言うと思った」とでも言いたげな顔をするばかりだ。
「あいにくと本当にお義父様がサインなさったのよ。この書類を作ったのも、それにモルガンをお義姉様じゃなくわたしの婚約者に変更するのも、ぜーんぶ、お義父様の考えよ」
「はっ……!?」
新たな事実まで追加されて、クロエも老執事も大きく目を瞠った。
「ちょっと待って、モルガンの婚約者がレジーヌに変更……!?」
目を白黒させるクロエたちに「当然だよね」とモルガンはうなずいた。
「僕はこの家の当主に婿入りする前提でクロエの婚約者になっていたからね。当主が変更になるなら、当然、僕が結婚する相手も新当主、つまりはレジーヌに変更だ」
「というわけでぇ、お義姉様はもうこの家に必要ないんですよぉ」
贈ってもらったばかりとおぼしき婚約指輪を見せつけながら、レジーヌがにんまり笑った。
あまりのことに口をあんぐり開けたまま閉められないクロエに代わり、真っ赤から真っ青に顔色を変えた老執事が「ありえない……」とのろのろ後退する。
「……ありえない、ありえません! 旦那様に直接確認を取ってまいります……!」
老執事は転げるように部屋を出て、あわてて隣の部屋へと走って行った。
「無駄なことをするものだ。老人というのは頭が固くていけないね。新しいことをすぐに受け入れられない」
「……老人じゃなくても、わたしも受け入れられないわよ。跡継ぎが変更で、あなたも簡単に婚約者を乗り換えるなんて」
クロエはきつく咎める視線をモルガンに送った。
「わたしとの婚約を破棄して、即座に妹に乗り換えるなんて。外聞がいい話ではないわ」
「そうは言っても、この家の当主が跡継ぎを変更したんだからしかたないじゃない。それに僕はレジーヌのことが好きだよ。融通が利かない頑固者の君と違ってね、クロエ」
にっこり笑うモルガンを、クロエはますますにらみつける。
「あら、婚約者でなくなった途端にわたしをこき下ろすのね、モルガン」
「君だって僕のことなんて好きでもなんでもなかっただろう?」
「夫婦になるからには仲良くしようと思っていたわよ」
実際、遊び人の気質があるモルガンのことは少し苦手だったが、父が決めた相手ならば大切にしようと思っていた。誕生日や記念日にはカードやプレゼントを贈っていたし、季節ごとに手紙も書いて歩み寄ろうと努力していた。
(モルガンのほうからは、そういった交流は一切なかったけど)
そう考えると、やはり不誠実なのはモルガンのほうだ。
この際だから文句をぶちまけてやろうかと思ったが、それより先に顔色を土気色にまで悪くした老執事が帰ってきた。
「だ、旦那様がちょうどお目覚めになっていて……クロエお嬢様に、この手紙を、と」
「手紙?」
老執事が差し出した手紙には、なんと名門セイブリッジ公爵家の貴族印が捺されていた。
「セイブリッジ公爵家の方が、どうしてうちに手紙を……っ?」
目を丸くするクロエに、老執事は震える声で告げた。
「ク、クロエお嬢様に関しましては……その手紙に書かれた家に嫁ぐように、と旦那様の仰せです」
「えっ」
手紙から顔を上げたクロエは、老執事がぽろぽろ涙をこぼしているのにぎょっとした。
「ど、どうしたの爺――」
「だ、旦那様は、お嬢様にこの家を出ろと仰せでした。この家はモルガン様とレジーヌ様に任せると。クロエお嬢様は――公爵夫人が紹介するこの家に嫁げと、はっきりそうおっしゃっておりました!」
大声で叫びながら、自分が一番それを信じたくないと思っているのだろう。老執事はわっと泣き崩れ「どうしてクロエお嬢様がこんな目に……!」と叫んだ。
怒りっぽいとはいえ、普段は名家の執事長らしくシャキッとしている老執事の変貌ぶりに、クロエは呆然と立ちつくす。
そんな彼女に「そういうことだから」と無情に告げたのは継母デジレだ。
「あんたはもう用済みだよ、クロエ。旦那様がそうおっしゃったんだ。すぐに荷物をまとめて出ていきな!」
「あ、荷物ならもぉまとまっているわよぉ」
レジーヌが指さした先には、確かにクロエの旅行鞄が置かれていた。
「とりあえず部屋にあったものを全部突っ込んでおいたわぁ。さっさと出ていってね、お義姉様ぁ」
「安心して。次の街まで僕の家の馬車を貸してあげるから」
モルガンがパチンと指を弾くと、いったいいつからそこにいたのか、開けっぱなしになっていた扉の向こうから屈強な男が二人入ってきて、クロエの両腕をがしっと掴まえた。
「は、はっ? ちょ、ちょっと待ちなさいよ! せめてお父様に挨拶を――!」
「必要ないってぇ。お義父様も何度も起こしちゃかわいそうよぉ」
「そうそう。ほら、さっさとお行き!」
「ク、クロエお嬢様〜!」
老執事があわてて追いすがるが、男たちの力は強く、クロエはあれよあれよと連れ出される。
玄関前に止められていた馬車に乱暴に押し込まれ、ついでに鞄も放り込まれた。
ようやく身を起こしたときには、すでに馬車は走り出していた。
「お、お嬢様ぁああ!」
老執事がほうほうの体で追いかけてくるが、馬車の速度が速くてとても追いつけない。
突然すぎる展開にクロエも気持ちが追いつかない。だがこのままでは爺が怪我をしてしまう!
クロエは大急ぎで窓を開けて叫んだ。
「わたしは大丈夫だから、あなたは家のことをお願い! ……というか、伯爵家の財産が尽きる前に、見限ってくれていいからね――!」
「そ、そんなこと、できるわけ……っ」
はぁはぁと追いかけながらも老執事が叫び返してくる。
クロエは構わず家を出ろと叫ぶが、馬車が乱暴に辻を曲がったために座席に倒れ込んでしまう。
あわてて身を起こしたときには老執事の姿も伯爵家の屋敷も見えなくなっていて、クロエは窓枠を握ったまま、しばし動けなくなってしまった。
* *
「――で、セイブリッジ公爵夫人の手紙にあった、グレアン侯爵領にやってきたわけだけど」
鞄を抱え、辻馬車を降りたクロエは、ヘロヘロになりながら近くのベンチに腰を下ろした。
モルガンの馬車は猛スピードで疾走したのち、エルダーソン伯爵領を出た途端にクロエをぺいっと下ろして、さっさと帰ってしまった。
屋敷に戻ったところで、どうせまた追い出されるのが関の山だ。それならばセイブリッジ公爵家の手紙を持って、ここに書かれた場所に向かって助けを仰いだほうがいい。
そう結論を出したクロエは馬車を乗り継いで五日、なんとか王国のはるか西、グレアン侯爵領へと到着したのである。
公爵家からの手紙を今一度広げて、クロエは何度も読んだ文面を今一度指でなぞった。
「『グレアン侯爵が花嫁を探しているので、クロエ・エルダーソンには是非彼に嫁いでほしい』とのことだけど……グレアン侯爵ってどういう方かしら?」
父が病に伏せって以降、家のことに忙殺されていたクロエは、社交界の事情に非常に疎い。デジレやレジーヌは毎日のように新しいドレスを着て、どこそこの舞踏会に出かけていたが。
「結局こういうことになったのなら、『レジーヌに最高の結婚相手を見つけるためよ』なんて言って出かけまくっていたお義母様を、身体を張ってでも止めておくべきだったわ」
結婚相手がモルガンになるなら、わざわざ社交の場に繰り出す必要はなかったはずなのだから。
「モルガンもモルガンよ。帰国するなり、お父様の決定だからと、あっさり婚約者を乗り換えちゃって」
まぁ彼の目的は、婿入りして伯爵家を継ぐことだっただろうから無理はないが。
(跡継ぎが娘の場合、結婚すれば当主の座は婿に引き継がれるのが通例だからね。はーっ……そう、わかっていても腹が立つ!)
だが一番不可解なのは、クロエになんの相談もなしに跡継ぎを変更した父のことだ。
(寝たきりとは言え、目覚めているときは頭がはっきりしていたお父様のことだから、なんらかの理由があってこうしたのだと思うけれど……せめてその理由を聞きたかったな)
……考えたところで、もうどうしようもない。ひとまずグレアン侯爵の屋敷へ急ぐべきか。
「この時間に出発すれば昼過ぎには到着できるはずだわ」
クロエは鞄を手に、ようやく立ち上がった。
そこからも乗合馬車で移動していったが……不思議なことに、乗合馬車の横を何台もの馬車が疾走していくのが見える。方向からして、領主の屋敷へと向かっているようだが……。
(火急の報せかなにかにしても、数が多くない? なにが起こっているのかしら?)
とにかく「道を空けろ!」と怒鳴りながら走ってくる馬車が多くて、そのたびに乗合馬車は脇に避けて停まったり、速度を緩めたりすることを強いられた。
そのため屋敷がある街に到着できた頃には午後のお茶の時間も過ぎていた。客たちがぶつくさ言いながら降りるのを聞きながら、クロエは「さて、どうしよう」と沈みそうな太陽を見て眉をひそめる。
「はじめてのお宅を訪問するにはちょっと遅い時間よね。でも宿を取るのもなぁ……。んもう、せっかくなら充分な路銀も鞄に放り込んでくればよかったのに」
伯爵領から侯爵領までそれなりに距離があるためか、ないよりマシ程度の路銀が鞄には一応は入っていた。だが本当に『ないよりマシ』程度の金額なので、ここまでの宿は最安の狭苦しいところしか取れなかった。部屋がないときは、朝になるまで動かない乗合馬車の中で休むことすらあったのだ。
それでなくても日中はずっと移動だったので、いいかげんに清潔で広い寝台でぐっすり眠りたい。
「というか、わたしはグレアン侯爵家に、お嫁に行くのよね?」
公爵夫人の手紙にははっきりと「グレアン侯爵と結婚するように」と書かれているし。
「それならきっと花嫁が過ごす部屋があるはずよ。それでなくても客室の一つや二つあるでしょう、きっと」
そうであってほしいと願いながら、クロエは街の奥にあるという領主の屋敷を目指して歩きはじめる。
街に入ったのだから屋敷もすぐだろうと思ったが、街のひとによれば領主の住まいは一番奥で、そこそこ離れているらしい。ようやく到着したときにはなんと日暮れ前になってしまっていた。
「ろ、路銀をケチらずに、辻馬車でも拾えばよかった……!」
全身汗だくになってぜいぜいと喘ぎながら、クロエはドレスの裾をたくし上げて必死に門までの道を歩く。恐ろしいことに目的地は丘の上にあって、道はきつめの上り坂だった。
ぜいぜい言いながら登るあいだ、突進するのかという勢いで入ってくる馬車に何度か轢かれそうになって、クロエは「ひえっ」と道の脇に飛びのく。
「というか! いったい何台の馬車が入ってくる、の、よ、ぉ……」
大声で文句を言ったクロエだが、顔を上げた瞬間に飛び込んできた建物に思わず言葉をなくした。
そこにあったのは、屋敷などというチンケなものではない。
「お、お城……」
目の前にそびえ立っていたのは、山を背後にそびえ立つ、立派な城館だったのである。
(ち、地方の領主は屋敷ではなく、城を持つ者も多いとは聞くけれど)
それは城を維持管理できるだけの、立派な資産を有する者のみの特権であって。
「まさか、このお城の城主がわたしの結婚相手なの……?」
そうだとしたら、あまりに格が違いすぎると思うのだが。
だが立ちつくしているあいだにも馬車が疾走してきて、クロエはあわてて脇に避ける。
「と、とにかく、ここからまた街に戻るのも大変だし、行くだけ行くしかないわ」
ほとんど自分に言い聞かせるようにつぶやいて、クロエは覚悟を決めて足を踏み出した。
門に近づくにつれ、停まっている馬車の数も多くなる。門の中に入りきらず、外で待つ馬車は、互いの御者が「邪魔だ!」「そっちこそ避けろよ!」などと罵り合っていた。
その隙間を縫って門をくぐり抜ければ、こちらも馬車でいっぱいだ。馬車は玄関前のアプローチに左から入って右に出ていくものだから、門の右手には出口を向く馬車が、左手には城を向く馬車が山ほど連なっていた。
「これだけの馬車が入ってくるなんて、本当になにがあったの……?」
城館内で異変が起きているのだろうか? それにしては街のほうは平穏だった。
再び馬車のあいだをすり抜けて玄関にたどりついたクロエは、開け放たれたままの扉のノッカーを鳴らすべきか迷う。
なにせ広々とした玄関ホールには多くの人間がひしめいていて、なにやら大声で話し合っているのだ。ノッカーを鳴らしたところで使用人まで音が届くかどうか。
だが、男ばかりひしめく中でドレスを着たクロエは目立ったのだろう。正面の大階段を降りてきた老齢の使用人がこちらに気づいて、小走りにまっすぐ向かってきた。
「物々しい状況で申し訳ありません、お嬢様。どちらからのご訪問でしょうか?」
「あ、えっと、セイブリッジ公爵家の奥様の紹介でこちらにやってきたのですが……」
公爵家の印が入った手紙を差し出すと、使用人はハッと息を呑んで手紙とクロエを見比べた。
「ということは、あなたが当家に嫁いでくださるエルダーソン伯爵家のご令嬢ですね? セイブリッジ公爵夫人からお話はかねがね……」
胸に手を当て頭を下げてくる使用人を見て、クロエはほっと息をつく。ひとまず結婚の話は通っているようだ。
だが口元を緩めるクロエと対照的に、老使用人はわずかに顔を曇らせる。
「大変申し訳ないことですが、ご覧の通り非常に立て込んでおりまして。すぐにご当主様に報告いたしますが――」
そのときだ。バタバタとたくさんの足音が聞こえて、使用人が下りてきた大階段の上から、大勢の人間が一気にわっと下りてきた。
彼らは口々にああだこうだと叫ぶように言っていて、蜂の巣を突いたような騒々しさである。
「ですから! すぐに走るべきは王都ではなく北方です! 皆様そちらに向かっていて……」
「だが王都を空けるわけにはいかないだろう! 女王派が一人もいないとなると――」
「そちらにはすでに将軍が向かっている!」
「とはいえ救援をどうにかしないと王女様が……っ」
断片的に聞こえる言葉だけでも、なにやら不穏なことが起きている様子だ。
だがぎゃあぎゃあとわめく人々に対し、階段を下りてくる集団のちょうど真ん中にいる青年が「はい、いったん全員だ・ま・る!!」と怒鳴っていた。
「君はひとまず王都にて情報収集! 護衛にそっちの私兵団をつけて! 君は南に飛んで女王派の若手二人に連絡を! 僕は北へ行く! あと君は東に、君はちょっと国境を越えての依頼を――」
次々に指示しながら、走るのと変わらない速さで玄関を出て行こうとする一団に、クロエの前にいた老使用人が大あわてで「お待ちください!」と声をかけた。
「はいはい、フリッツどうかした!?」
「旦那様、花嫁様がご到着されています! ほら、セイブリッジ公爵夫人のご紹介の!」
使用人は腹の底から声を張り上げるが、果たして相手がその内容が聞き取れたかどうか。使用人の言葉を待たずに、「本部はどこに置きますか!?」「伝令はどちらに!」などと、また青年を囲む人々がわめきだしたからだ。
中央の青年は「あぁああ……!」とうめきながら薄い茶色の髪を掻き回し、また周囲の人々を指さしながら指示をはじめる。
「こっちの本部は隣の領地との境のヨヅヅの街に! 伝令はちょうど出払っているから伝言を! あと花嫁の君は――」
青年がくるっとクロエのほうを向いて指を差してくる。明るい緑色の瞳とバチッと目が合って、クロエは思わずどきりとした。
だが彼女が挨拶する間もなく彼らはどんどん歩いて行く。大勢の声が飛び交い足音もうるさい中、青年はクロエを見つめて――。
「ええと、君を愛するのは無理!!」
と大声で叫んだ。
え、とクロエも使用人も口を開ける中、青年はさらになにかを言ったようだが「とにかくお急ぎくださいグレアン侯爵!」「王女様のもとへ!」という周囲の声にかき消される。
そして雪崩を打つように玄関から出て行った青年は正面の馬車に乗り込むなり、怒濤の勢いで街への道を疾走していった。
五十人はいた人間が互いに「邪魔だ!」「うちが先だ!」と言い合いながら、馬車に乗って出て行くのをクロエはただただ呆然と見送る。
ひしめいていた馬車がすべて捌けると、あとには土埃とたくさんの足跡、散らばった書類などが残されていた。
「……あ、あの、エルダーソン家のお嬢様……」
クロエと同じく呆然としていた老使用人がそろそろと声をかけてくる。
その声でハッと我に返ったクロエは、何度かまばたきしたのち、低い声でつぶやいた。
「ええと……あの茶色の髪の若様が、グレアン侯爵様だったかしら」
「は、はい、当家の主人でございます……」
「あの方、わたしのことを『愛するのは無理』っておっしゃっていたわよね」
「そそそそれはっ、そのっ! き、聞き間違いかと存じますが……!」
どっと汗を吹き出しながら必死に言い募る使用人だが、その挙動から、彼の主人が間違いなくそう言ったことへの確信を、悲しいことに得てしまう。
(愛するのは無理、ですって?)
……まぁ、突然決まった結婚だし、今日までお互いに顔も知らなかった相手同士だ。あいだに名門公爵家の奥方が入っていたとしても、不本意な結婚なのは間違いない。
だが、そんなものはお互い様だろう。それよりも、会って早々、そんな無礼なことを言い捨てて出て行く、その神経が信じられない!
(なんだか急いでいたみたいだけど、こちらも一人で乗合馬車を乗り継いで、よぉおおおやくここまで到着したのよ? ねぎらいの一言くらい、かけてくれてもよくないかしら!?)
愛するのは無理だから、そんな一言をかけることすら、もったいないと思ったとか?
(……だぁああああ、腹が立つー!)
――どいつもこいつも、ひとを馬鹿にして!
人間、あんまり雑に扱われると我慢の糸がプツッと切れるものらしい。あっという間に沸騰した怒りはそのまま、表向きは冷静に、クロエは低い声でつぶやいた。
「いいわ、そっちがその気なら、こっちもしおらしくしている必要はないものね」
「……お、お嬢様? いかがなさいましたか……?」
クロエの雰囲気が変化したことを察して、使用人がおそるおそる尋ねてくる。
振り返ったクロエは、にっこりと底知れない笑顔を浮かべた。
「ひとまず荷物を置かせていただける? 街をずっと歩いてきたから疲れてしまって」
「……は、はい、もちろんでございます! すぐに奥様のお部屋にご案内いたしますゆえ……!」
使用人があたふたと大階段へ案内するのに付いていきながら、クロエは笑顔の下でどす黒い怒りをごうごう燃やした。
(愛されなくって結構よ! わたしもあなたを愛さないし!)
ついでに婚約も結婚も二度と御免だ。お互いに相手を愛する気も尊重する気もないのなら――
(一人で自立して生きるのみ――!)
かくなる上は離婚だ、離婚! そのための基盤をしっかり整えていってやる……!
もうこれ以上、自分の人生を他人に振り回されたくはない。
固く決意したクロエは表面上はにこにこしながら、腹の底でひたすらやる気を燃え上がらせていたのであった。
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