●著:朱里 雀
●イラスト:吉崎ヤスミ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543761
●発売日:2025/11/28
魅了魔法が効きすぎた⁉ 氷の公爵の熱烈アプローチがとまりません!
伯爵令嬢アネモネは美貌で男を惑わす悪女と名高いが実は『悪女』を仕事にして、依頼人の令嬢がろくでもない婚約者と円満に別れられるよう手助けをしていた。
だがある日、氷の公爵ヴィクトルに助けられ「俺は君を愛している。結婚してほしい」と突然の求婚を受ける。
目的を疑いながらも強引に甘く距離を詰められ、翻弄されながらも惹かれていくアネモネだが、彼の目的が別にあると知ってしまい!?
プロローグ
「マリーヤ・リヴェロ。お前との婚約を破棄するっ! お前は最低最悪の女だ。お前がどれほど悪辣な女か、この僕が知らないとでも思ったか! 普段は賢ぶっているくせに、僕の最愛の人に嫉妬し、下劣な嫌がらせをするような女め! 僕はお前と婚約破棄をし、このアネモネとっ!」
「触らないで頂戴」
始まったばかりの舞踏会で、婚約破棄を高らかに宣言しはじめた男に肩を抱かれ、アネモネは振り払った。
アネモネ・ラファイラ伯爵令嬢は、この国を代表する稀代の悪女である。
その数々の醜聞とは裏腹に、どこまでも透明感のある艷やかな黒髪に、人形のように整った真っ白なかんばせ。見た者を魅了するアメジストのようにきらめく瞳。
豊満な胸の谷間は見せつけるために開かれ、その下には砂時計のように引き締まった腰がある。
どこをとっても隙がなく、爪の先まで美しい完成された美貌と肢体で、ときに高飛車に、ときに甘え上手に、たくさんの男たちを跪かせてきた。
そして今、新たな男を破滅に追いやろうと赤い唇を愉悦に歪めた。
最新の被害者、隣にいるヴィンス侯爵家の嫡男、ルシアンが信じられないものを見るような目をしている。
そりゃあそうだ、先ほどまでルシアンさまぁ、あのマリーヤって女が酷いの。わたくしがルシアン様に愛されているからって睨んでくるのよぉ。と、甘え縋ってきていた女が豹変したのだから。
実にくだらない男だった。この男の好みの女は、すごいすごいと褒めてくれるすべてが自分より下で、胸が大きくて馬鹿な女。
この男の好みの女を演じていた期間は短かったが、どっと疲れた。だが、それもようやく終わり。
「あ、アネモネ? ここここ婚約破棄すれば、ぼ、ぼくの妻になるはずでは?」
目を見開き、震える声で批判され、アネモネは艶めく黒髪をゆったりとうしろにはらった。
そうしてルシアンの目を見て、掛けていた魅了魔法を解除する。
「何の話かしら? 婚約者のいる男性と昵懇にはなれないとあなたの愛の告白とやらを断った覚えはあるけれど、婚約破棄をすればあなたの女になると言った覚えなどなくってよ。いやね、あなたの勘違いだわ」
真っ当なことを言っているにもかかわらず、隣の男と同じくアネモネにも批判的な視線が集中する。
当然だ。アネモネが原因で公の場で婚約を破棄したり、妻との離婚を宣言したりする男は、ルシアンが初めてではない。
社交界の毒花。
それがアネモネについたあだ名だ。次々と婚約者のいる男や妻子のいる男たちを夢中にさせ、その仲を破壊する。そして夢中にさせるだけさせて、塵のように棄て破滅させるのだ。
だが、アネモネは知っていた。この場にいるほとんどが、アネモネに批判的なふりをしながら他人の破滅を楽しんでいることを。
でなければ、そもそも誰もアネモネを舞踏会に呼ばないはずだ。
それにもかかわらず、アネモネが沢山の舞踏会に招待されているのは、事件を起こせば、話題になるし、余興代わりにもなる。
貴族としての品格がない、娼婦のようだとアネモネを批判しながらも、結局、皆、他人の不幸を安全な場所から見学することが大好きなのだ。
勿論、しっかりした倫理観を持ち、アネモネに冷めた視線を送り、招待してこない人もいる。
この舞踏会の主催者もまた厳格な人で、本来ならそちら側のはずである。
「それにしてもあなた、ここがどこかわかっているの? バートラン公爵邸での舞踏会よ。無作法にもほどがあるわ。手を握らせたこともないような人と親しいと勘違いされるのはごめんよ」
アネモネは手をひらひらと振って嘲笑った。実際、この男の相手をしている間、金のためとはいえ、かなり不快な思いをした。
いつもアネモネに騙された馬鹿な男を棄てるたび思うが、この瞬間ほど楽しいものはない。
「さようなら、どこの誰だったか忘れた方。それと、えっと、マリーヤさん、だったかしら? 婚約者を盗ってしまったみたいでごめんなさいね。わたくしそんなつもりはなかったんだけど。殿方って美しいわたくしを見るとすぐ見境をなくしてしまうみたいなの。美しいって、ほんと、罪ね」
それだけ言うと、アネモネはたった今婚約を破棄されたマリーヤに向け、勝ち誇った表情を作った。
「………………」
マリーヤは何も言わず、辛うじて扇で口元は隠しているが、目を爛々と輝かせている。
その姿は、まるで彼女自体がキラキラと光っているかのようで、つまり、ものすごく嬉しそうなのだ。
(うーん、困ったわね。打ち合わせ通り、せめて悲しむふりくらいしてもらわないといけないのに)
歓喜の表情のマリーヤに人目が集まらぬようにもう一騒ぎを起こそうかと考えたときだった。
「こ、この女っ!」
ルシアンが怒りにまかせ、アネモネめがけて手近にあったなみなみとワインが入ったグラスを向けてきたのだ。
(かけられる……!)
一瞬、アネモネは自分の『力』を使ってもう一度魅了しようかと思ったが、すぐに思い直した。
ここは頭からかけられて大恥をかかされ、悪女がいい気味だと笑われた方が都合がいい。
人々の視線はこれでマリーヤではなく、アネモネに集まる上、ワインをかけられた程度のことでアネモネのこの完璧な美しさが薄れることなどないからだ。
むしろ濡れたわたくしの妖艶さを見せつけてくれるわ! と、正面から受けて立とうとした。
「えっ?」
頭からかぶると決めたにもかかわらず反射的に目を閉じようとしてしまったアネモネは、その瞬きの間に視界の端、誰かの影が映った気がした。
びしゃ、とワインがかかる音がしたが濡れた感覚はしなかった。
ゆっくりと目を開けると、アネモネの前に別の男が立っていた。
盾になった男の背がずいぶんと高いからだろう。アネモネは欠片も濡れていない。
(なんで?)
自分を庇ってくれたその男には見覚えがあった。そう、知ってはいる人物だ。でも、ありえない。
彼がまた助けてくれただなんてそんなことあるわけがない。
目に映る光景を思考が否定したが、景色は変わらなかった。
「ヴィクトル・バートラン公爵」
誰かがそう、呟いた。この舞踏会の主催者、ヴィクトル・バートランその人が、アネモネを庇って、頭からワインをかけられていたのだ。
ヴィクトル・バートラン。国で最も裕福な領地を持つ公爵でありながら、軍人としても活躍しており、華やかなだけの宮廷人とは一線を画す、国の英雄。
黄金の髪に青い瞳の彼は、見た目だけならば優美で優雅な美青年だ。
だが、不機嫌そうに寄せられた眉と、常に人を寄せ付けないその態度は近寄りがたく、氷の公爵という渾名が付いているのは彼の血統魔法のせいだけではないだろう。
そんな男がほとんど接点のない悪女をワインをかぶってまで庇う、ことが本当にあるのだろうか。
公爵という地位に誇りを持った人だと思っていたのに。
自分は今、夢を見ているのか。それとも、ただの似ているだけの男に庇われたのか。
だが、血のように赤い液体が、髪に沿って、肩に、筋肉質な広い背中にたれていく、その後ろ姿を見間違うわけがないとも思う。
「どうして?」
アネモネは思わずそう呟くとヴィクトルが振り向いた。
濡れた前髪を片手でかき上げたその様は、こんなときなのに、何故かアネモネの目にあまりにも扇情的で、それでいて、まるでアネモネを捕食しようと物陰から狙っていた肉食獣がついにその姿を現したかのように映った。
ドクドク、ドクドク、と己の心臓の鼓動が聞こえてくる。
「待たせてしまってすまない、アネモネ。無事か?」
「……なんのこと?」
気遣わしげな表情と言葉に、アネモネは思わず目をそらした。
心中は大混乱状態に陥っている。待たせたって何だ、彼を待ったことなどない。
確かにバートラン公爵家からの招待を受けてこの舞踏会にはいるが個人的な約束などしていない。
それにそもそも、アネモネがワインを掛けられても当然の状況だったというのに何故、被害者として庇われたのか。疑問でいっぱいだったがアネモネは表情に出すわけにはいかなかった。
(私は悪女、私は社交界の毒花。私は毒婦)
自分に言い聞かせながらアネモネは腹に力を入れ、ゆっくりと、ゆったりと、艶然と微笑み返した。どう微笑めば美しいか、自分が一番よく知っている。
そう、アネモネはいつだって美しいのだ。そうでなければならない。
「あら、わたくしの盾になって下ったのね。でも、待たせただなんておかしなことを仰るのね。あなたと何かをお約束した覚えはないわ」
何故か微かに目をすがめたヴィクトルの顎に伝っているワインを、常に美しく整えている爪の乗った指先でそっと拭う。
「でも、そうね……。水も滴るいい男ってよく聞く言葉だけど、初めて本物を見たわ。わたくしのものにしたくなっちゃう」
うふふ、と笑って見せ、礼も言わないのかと、再び一気に舞踏会中の反感をかっさらう。今、この場の主役はヴィクトルではない、この悪女、アネモネ・ラファイラだ。
だが、アネモネが場を支配していたのは一瞬のことだった。
「俺は既に君のものだよ」
そこには、世間の誰もが彼に抱いている印象である冷徹な男の姿はなかった。
まるで生涯の恋人に会ったかのように優しく微笑んでいるのだ。
たった一人の愛しい人のためだけにあるかのようなその眼差しは演技とは思えず、まるで嘘がないような気がしてしまい、もうわけがわからなかったが、アネモネはなんとか余裕のあるふりを続けた。
「こ、公爵様って、案外お茶目な方だったのね。知らなかったわ」
「それならば、これから俺のことを沢山、知ってくれればいい」
剣を握ることが多いはずの無骨な手が、アネモネの繊手を勝手に握り見つめてきた。
(働き過ぎて乱心でもしているのかしら?)
明らかにおかしな状況にアネモネはいっそ、ヴィクトルの労働環境を心配した。
病気で表に出てくることが減った王を支え、無能で好戦的な王子を牽制しなければならない立場の彼は、それは大変だろう。一日中働いて、休む時間も、睡眠時間も足りていないのかもしれない。
疲れているのねと納得している間に、ヴィクトルがアネモネの手を取ったまま片膝をワインで濡れた床に着けた。
あまりの状況に、シン、と辺りが静まりかえった。
氷の公爵の信じられないその姿に、自分の鼓動が激しくなっていく音が耳にまで届いてくる。
「俺は君を愛している。結婚してほしい」
「………………はぁ?」
ここまで必死に悪女として振る舞っていたアネモネは、ついに間の抜けた反応をしてしまったのだった。
第一章
ドクドク、と胸の奥で心臓が騒がしい。
アネモネは誰かの膝の上に向かい合って座らされ、逞しい肩に顔を乗せていた。
心臓は高鳴り、緊張しているのに、どこか安心もする。
顔を上げると、誰か、いや、ヴィクトルが、アネモネに向かって微笑んだ。優しい表情なのに、その瞳は情熱に濡れており、彼が欲情していることをまざまざと伝えてくる。
ふわふわとした頭で疑問は湧いてくるのだが、彼の手が頬に伸び、撫でられると思考は霧散する。
温かい掌が、優しく触れてきて柔らかな心地がした。
首に下りてきた手がくすぐったくて、思わず肩が跳ね、アネモネはぎゅっと目を閉じた。
胸元に頬を寄せられ胸にキスを落とされる。服はなぜか脱がされていて、下着姿だった。
「恥ずかしい……そんなに見ないで……」
「アネモネは、俺のだろう?」
低い声で囁かれ、唇と唇がそっと合わさる。舌が差し込まれ、優しく絡め取られていく。
舌を絡めたキスは気持ちいいけれど、苦手だ。
最近ようやく、鼻で呼吸することは覚えたが、キスに夢中になってしまい、どうにもうまくできず、すぐに酸欠になってしまう。ヴィクトルもわかっているのだろう、すぐに離れていってしまった。
ヴィクトルの唇がぬらぬらと混ざり合った唾液で濡れている。絡め取るような男の色気を纏った蠱惑的な姿に、背筋がぞくりと震えていると、喉で笑われてしまった。
「ヴィーのいじわる」
拗ねたような、甘えたような声を出して、かわいがられたくて上目遣いで見上げる。
ゴクリ、とヴィクトルがつばを呑む音がした。
ふいに、静かになったヴィクトルの唇が、指先が、性急に身体のあちこちに触れてきて、体の奥が熱くなっていき、なんだかもどかしい。
「んっ、あっ! だ、だめ、待って!」
「いやだった?」
低い声がして彼の動きが止まった。それで、嫌なのではなく恥ずかしくて気持ちよくて訳がわからなくなっているのだと、口を開こうとしたとき。
――パチリ、と目が覚めた。
いつもの天井、白い簡素なベッド。冷えたシーツの感触に、あれが夢だったと理解する。
息はまだ少し上がっていて、頬に触れると強い酒を飲んだときのように熱くて、むずむずと疼くような感覚が胸の奥からした。
(な、なんて夢を見ていたの、わたくし……)
「お嬢様、ようやくお目覚めですか?」
すぐ横には見慣れたアネモネの侍女であるメイがいた。
一つにぴしっとまとめた髪に、お仕着せを一分の隙もなく着ている完璧だが地味な侍女。アネモネが唯一忌憚なく話せる相手だ。
彼女の顔を見ているうちに、じょじょに意識と現実がなじんでくる。
(なんでなんでなんで?)
驚くほど鮮烈な淫夢だった。
欲求不満、というやつだろうか。いやいや、元々そういった欲は薄い、はず。
それならば、あの男の事が好きになってしまった、とか? いや、それはない。むしろ嫌いなはず。
今まで言い寄ってきた男の中で一番顔と地位がいい男だったから印象が強くて、そのせいで夢にまで勝手に出張ってきただけだ、多分。
それがこう、色々あって混乱していたのもあり、たまたま変な夢になってしまっただけで……。
(そう、それだけよ、それだけ)
体がほてっているので、アネモネは手で自分を扇ぎながら一人納得した。
普段通り悪女に騙された馬鹿な男を貶めるはずだった昨日の舞踏会で、ヴィクトルの突然の求婚を受けた後、アネモネは返事もせずにすぐに帰った。
いや、帰ったは語弊がある。全力で走って逃げたのだ。悪女なのに。
彼はいったい何を考えているのだろう。
どちらにせよ、このままでは『商売』の邪魔になることは確かだ。
「それにしても常に規則正しいお嬢様が寝坊だなんて珍しいですね。魘されていましたよ」
「気づいていたなら起こしてよ!」
「スミマセン、ウツクシイネガオニミホレテイマシタ」
「……なら、仕方がないわね」
少々嘘くさい言葉だが、そう言われてしまうと納得するしかない。
「それで、悪夢でもみたのですか」
「え、ええ。そうなの」
まさか淫夢で喘いでいたとは言えず、慌ててうんうんと頷いた。
「可憐なわたくしを死体が追いかけてくる夢よ。かつて誑かした男達が次々と動く死体に変化して、お前も死体になれ――! ってね」
アネモネは身振り手振りをつけながら口から出任せを言った。
「ずいぶん変な夢を見ましたね。まあ、夢なんか変なものですが。とはいえ、夢は現実と繋がっているとも言いますし。やはり……今の仕事が心に悪い影響を与えているのでは?」
(夢が現実と、繋がっている……。つまりあの夢は……、わたくしがあの男を意識しているから?)
ないないないない、そんなわけがない。あんな腹の立つ男、嫌いだ。
アネモネの美貌をより引き立たせるため、常に地味な格好をするよう命じてあるメイが大きな眼鏡の下で眉を心配そうにすがめている。
「平気よ。最後には全員わたくしの魅力にひれ伏させて、完全勝利で終わったもの」
「それならいいのですが。怖い夢を見るだなんて、アネモネ様も人間だったんですね」
「何だと思ってたのよ」
「そうですね、悪しき闇の魔女とか?」
アネモネはその言葉にぎくり、心臓が跳ねた。なぜなら本当に闇魔女だからだ。
「……ふっ、面白い冗談ね」
大昔、まだ魔物が世界を我が物顔で跋扈し、人間を蹂躙していたころ。
後に初代王となる勇者は仲間を引き連れ、魔物と戦った。
勇者は後の妻となる光魔法の使い手である聖女を筆頭に、光と闇の魔法を操る仲間たちとともに、あるときは魔物を封じ、あるときは操り、あるときは屠り、ついには強力な魔物を生み出す瘴気の地を浄化した。
そうして、魔物はこの地からはほぼ消え、たまに各地に残る瘴気の沼から生まれてしまっても、人海戦術で倒せるほど弱い魔物しか生まれなくなり、人々は平和な暮らしを手に入れた。
旅の間で恋に落ちた勇者と聖女は結婚し、彼らが住む土地が王都となり、仲間達は貴族となって、国の礎を築いた。
いつしか、時代が進むにつれ血は混ざっていき、誰でも少量の魔力で簡単に使える魔石や魔方陣の開発が進み、魔法は特別なものではなくなった。
今では魔法は誰もが使える日常生活に基づくものとなったが、かつて勇者と共に戦った仲間を祖先とする貴族には、やはりその家特有の特別な血統魔法を持っている者も少なくない。
アネモネは貴族令嬢だ。
しかも、建国時に活躍したとされる旧家中の旧家の直系子孫でもある。
つまり血統魔法を使う才能があったのだ。世界一の美男子と自他共に称していた父から引き継いだ夜の力を使う闇魔法の一種、魅了魔法だ。
アネモネの使う魅了魔法は、目を合わせた者が少しでも使い手に好意を抱いていれば、好意を増幅し魅了する。なんだか気になる人程度から、すべてのことが手に付かなくなるほどにまで。
まさに美しいアネモネのためにある魔法である。
悪評まみれのアネモネではあるが、美しいものに人は好意を抱くようにできている。
つまり目さえ合えばこちらのもの。
だが、魅了魔法のことは誰にも、それこそこのメイにも、言っていない。
夜の力を源とする闇魔法使いが悪しきものとして、かつて聖女を輩出した光の神殿から迫害され、触発された市民の暴動により殺害されたのは、そこまで古い歴史ではない。
ラファイラ伯爵家の魅了魔法は、効果はあれど目に見えないものであるため、人々を疑心暗鬼にさせやすい。
それを理由に、闇魔法の家系であることを元々隠匿していたため、迫害されずに今日まで残ることができた。
そのラファイラ伯爵家も、現伯爵の叔父は結婚すらしておらず、前伯爵の子で義娘のアネモネは悪女で有名なため結婚などできそうにもなく、妹のシャルロットも死んでおり、いよいよ終わりのときが近づいているが。
「どうぞ、白湯と鏡です」
「ありがとう」
アネモネは白湯を口に含み、気を取り直した。
悪女、アネモネ・ラファイラ伯爵令嬢の朝は白湯と鏡で始まる。
まずは白湯を一杯飲み、その日の肌の調子を確認し、むくみを抑えるマッサージをする。
「ああ、わたくしは今日も完璧に美しいわ」
「よっ、悪女!」
鏡に見惚れながらそう言うと、メイが無表情で褒めてきたがアネモネは気にせず、両手で髪をゆったりとはらった。
「ああ、どうしてこんなに美しく生まれてしまったのかしら」
「よっ、生命の神秘!」
「わたくしを沢山の人に見せてあげるべきよね、それがこうして美しく生まれた者の定め」
「よっ、生ける芸術品!」
「おーほっほっほ」
アネモネが自己肯定感を上げに上げ終わると、今日も阿呆な主人に付き合わされてやれやれとばかりにメイが部屋を出て行った。
メイは呆れているが、朝の自画自賛は父の代から続く大事な習慣である。
父も毎朝、鏡の前で『二児の父でも絶世の美男子、それは僕!』と、呆れ顔の母の横でよくやっていた。
かけ声をくれる分、無言で塵を見る目を向けていた母よりメイの方が優しい。
軽く準備運動をし、狭いラファイラ伯爵邸を一周。
勿論、日に焼けないよう深々とつばの広い帽子をかぶりながら。
速くは走らない。目的は体を鍛えることではなく、美貌を保つことだ。美しくなければ使えない魔法なのだから、自分の美を日々追究している。
亡き父の教えだ。父もつばの広い帽子をかぶって走っていた。母に塵を見るような目を向けられながら。
というより、母は常に父を塵を見る目で見ていた。出逢ったころからそうらしい。あれで恋愛結婚だったので不思議だ。
軽く汗をかいた体を清潔にし、薔薇の化粧水で全身をくまなく潤す。その後、ようやく質素な朝食を食べる。
これがアネモネの朝の習慣だった。
「ほんと――――――――にありがとうございました。こちら、約束のお金です」
アネモネとメイが住んでいるラファイラ伯爵家のタウンハウスを訪ねてきたリヴェロ伯爵一家が、家族揃って深々と頭を下げた。
伯爵に、伯爵夫人、昨夜アネモネに婚約者を奪われたばかりの伯爵令嬢のマリーヤに、まだ成人前であろう伯爵令息。一家そろい踏みである。
ラファイラ伯爵家の屋敷に彼らが入ってくるところを見た者がいれば家族で抗議しに行ったのだと思うだろう。
だが、談話室にいる伯爵一家は長年の憂いが解消され、和気藹々とした雰囲気だ。
「こちらこそ報酬をありがとう。リヴェロ伯爵」
アネモネは男たちを骨抜きにすると言われる蠱惑的な笑みを浮かべ、受け取った報酬を後ろにいるメイに渡した。
「なに、娘の将来を思えば安いものです」
「良いお父様ですこと。羨ましいわ」
本心からの言葉だ。
娘思いの父親なのだろう。これで娘は自由だ良かった良かったなんて素晴らしい世界と家族で頷き、今にも歌い出しそうなくらい喜び合っている。
「本当にありがとうございました。アネモネ様に密かに声をかけていただいたときはこんなに上手くあの最低馬鹿男と婚約破棄ができるだなんて思ってもいませんでした」
「口が悪いわよ、マリーヤ」
伯爵夫人は娘を叱りながらもにっこにこで、マリーヤ自身も幸せそうだ。
そう、アネモネがマリーヤの婚約者を奪ったのは仕事だ。今回は、婚約を向こう有責で破棄したいというリヴェロ伯爵家からの依頼だったのだ。
アネモネの商売は破談と離婚の請負人。
依頼者のろくでもない婚約者や夫を、この顔と魔法で誘惑して依頼人に非が出ないよう向こうから破談や離婚に導く。
アネモネの力と美貌を生かしたうってつけの仕事だった。
依頼してくるのは皆、追いつめられた女性たち。勿論商売だから報酬はいただいているが、結果として彼女たちが自由を手にするのなら、悪くない仕事だと思っていた。
現に初めて会ったときの、自分よりも愚かな婚約者にないがしろにされ、浮気され、馬鹿にされ、打ちひしがれていた彼女の姿はどこにもない。
悪い評判で埋め尽くされた稀代の悪女に舞踏会の片隅で声をかけられ、はじめは戸惑い、警戒していたマリーヤだったが、アネモネが不幸な女性達からその原因、つまり男を奪うことを生業にしていることを伝えると目を輝かせた。
そうして翌日には父親が手付金とともに秘密裏に会いに来て、契約と相成ったのだ。まさか本人やその使いではなく父伯爵が来るとは思っていなかったのでアネモネは少々驚いた。
「まったく亡き祖父もくだらない奴と姉を婚約させたものですよ」
「本当に最低だったわ。私の可愛い娘を馬鹿にしてばっかりで」
息子の言葉に、うんうんと伯爵夫人が頷いている。
「とはいえ、うちは新興貴族であちらの方が旧く家格も上。婚約破棄できず困っていたところを、娘に疵を負わせることなく向こう有責で破棄できました。本当に、本当にありがとうございました」
リヴェロ伯爵がそう言うと、再び一家揃って頭を下げられ、アネモネはいいえ、と首を横に振った。
普通ならば、婚約者を別の女に盗られたとなると、奪われた令嬢も何か落ち度があったのではないかと恥をかく。だが、こと悪女アネモネに男を盗られたとなると話は変わるのだ。
かつて妹を虐め、恋人との仲を壊し、挙げ句の果てには自殺までさせ、さらにはいろいろな男たちと浮き名を流す悪評まみれのアネモネに奪われるようなくだらない男と婚約していた不運な令嬢、という立場になれ、完全な被害者として疵はないことになる。
「わたくしも商売でしていることですわ。過度な感謝は結構でしてよ」
金額が少し多いです、とメイが後ろから耳打ちしてきた。
「伯爵、当初の提示額と違っているようですけれど」
ああ、お気になさらず、と伯爵がにこやかに手を横に振った。
「どうぞお受け取りください。こんなに早く娘が自由になれたんです。その分、色をつけさせていただきました」
確かにこの依頼を受けたのはつい最近のことだった。つまり、それだけ簡単にマリーヤの婚約者、ルシアンは籠絡できたということでもある。
そもそも自分より賢く勤勉なマリーヤにルシアンは酷い劣等感を抱いていた。そこを奮起して努力すれば良いものを彼女を貶めることで憂さを晴らしていたのだ。
だから、ちょっと魅了魔法を流し込み、奴の好みの馬鹿な女になりきって褒めそやせば、実に簡単だった。
「まあ、ありがとう。遠慮なくちょうだいいたしますわね。それではこれで契約は終わりになります。前にも申し上げましたが、このことはくれぐれも他言無用ですわ」
「勿論です。アネモネ嬢がほかのご令嬢やご夫人を助ける邪魔をすることはないとお約束します」
うんうんと一家が揃って頷いている。練習したわけでもないだろうに頷く角度から何から何まで見事に揃っている。本当に仲の良い家族なのだ。
「ふふ、ありがとう。でも別に慈善事業ではありませんわ。あくまでお商売、ですもの」
「あの! アネモネ様はどうしてこのようなことをなさっているのですか?」
キラキラと尊敬の目を向けてきたリヴェロ伯爵令息にアネモネは微笑みかけた。
「このわたくしが気になるの、ぼうや」
「は、はい、気になります。だって、あなたは姉を助けてくれた優しい人だ。妹を自殺に追い込んだなんて酷い噂、嘘ですよね?」
「こら、失礼なことを!」
アネモネが一瞬真顔になると伯爵が慌てて息子を叱りつけた。余計な質問をしてきた正直な少年の唇に、アネモネは笑みを作って、指先を触れるか触れないところで止めた。
「今はわたくしのことより、あなたのことが知りたいわ。……ねえ、あなたの秘めた欲望をわたくしに教えて」
目を細めて見つめると、いともたやすく見つめ返してきたので、魅了魔法を少量流し込む。
まだ若すぎるリヴェロ伯爵令息にアネモネは存在するだけで毒だ。陶然としながら、簡単に口を開いた。
「ぼぼぼ、ぼくは……余裕のあるふりをして実は全く経験がない年上のお姉さんに、顔を真っ赤にしながら、言葉だけは慣れた感じで誘われたいですっ!」
発覚したリヴェロ伯爵令息の性癖にアネモネはちょっと戸惑った。
「あ、うん、なるほど」
(この若さでなかなか業が深いわね、父親譲りかしら)
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