●著:佐木ささめ
●イラスト:針野シロ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543778
●発売日:2025/11/28
世代をまたぐ因縁の香り事件に巻き込まれたヒロインたちの運命は⁉
ある令嬢が人を惑わす"ベルティーユの妖精"なる薬を使い五人の貴公子を洗脳した事件から20年余り。
被害者の一人の娘レティシアは、夜会で"呪われ公爵"のリュカと出会い、惹かれ合って婚約する。
彼も関係者の息子で、再び出回りだした薬の謎を追っていた。
ある日ベルティーユの妖精を使われ酩酊状態になったレティシアは助けてくれたリュカに抱かれる。想いを確かめあう二人だが事件は終わっておらず……。
第一章
その日の夜、ディクシエ王国の王城にあるダントリク小宮殿では、盛大な舞踏会が開かれていた。
主催者が王家なので盛大になるのは当然だが、招待客たちの熱意と意欲はいつにもまして激しい。彼らの視線のほとんどが王太子へ向けられている。
それというのも十八歳の誕生日を迎えて成人した彼は、いまだに婚約者が決まっていないのだ。結婚適齢期の令嬢とその親たちは、王太子の目に留まるのを夢見て意欲に燃えている。
今年二十歳になるレティシア・ド・ピエルネ侯爵令嬢も、父親のピエルネ侯爵に夜会への参加を命じられた。しかしレティシアも父親も、目的は王太子ではない。
――うーん、なかなかいい殿方っていないわね。わたくしの条件ってそんなに厳しいかしら?
レティシアは父親から、「政略結婚を強制しない代わりに婿を見つけてこい」と言われている。次代のピエルネ侯爵にふさわしい男を探せということだ。
しかしレティシアの目的は違う。
領地で執務をする母親の補佐をしたいので、いずれはピエルネ領へ戻るつもりだ。そのため田舎で領地運営に励んでくれる殿方を探したい。
とはいえ王家の舞踏会に参加できる貴族は伯爵家以上の高位貴族ばかりで、プライドが高い彼らは田舎に引っ込むことをよしとしない。王都で華やかな暮らしをお望みで、レティシアの婚約者探しは難航していた。
――大貴族だって領地は田舎でしょうに。うちは領都なら王都に負けないぐらい栄えているのよ。一度ぐらいその目で見れば気に入るかもしれないのに。
心の中でぶつぶつと文句を垂らしていたら、背後から声をかけられた。
「美しいご令嬢。お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
振り向くと自分より少し年上らしき男性が笑顔で立っている。穏やかそうな印象で、高位貴族にありがちな上から目線な態度もない。
感じのよさそうな方だわ、と期待で胸を躍らせるレティシアは、とびきりの笑顔で淑女の礼をした。
「お声がけをありがとうございます。わたくしはピエルネ侯爵家の長女、レティシア・ド・ピエルネでございます」
「おお、ピエルネ侯爵令嬢だったとは! 私はゴセック伯爵家の三男でバジル・ド・ゴセックと申します。今までピエルネ侯爵令嬢を社交界でお見かけすることはありませんでしたが、留学でもされていたのですか?」
「それもありますが、普段は領地で母の補佐をしているのです。母が引退した暁には、わたくしが領地を繁栄させようと思っていますの」
「素晴らしいことですね。ですが、これほど美しいご令嬢が領地で暮らすなどもったいない限りです。あなたさまでしたら社交界に咲く大輪の花となりましょう」
「いえ、王都での社交は異母弟に任せて、わたくしは領地運営に専念するつもりですわ」
そう告げた途端、令息の顔から表情が抜け落ちた。
「え……、おとうと、ですか?」
「はい。まだ四歳で、とてもかわいい異母弟なのです」
父親そっくりの顔をしているのに本人と違って愛らしく、明るい性格で異母姉のレティシアを慕ってくれる人懐っこい子だ。しかも賢いので、ピエルネ侯爵家はぜひ異母弟に継いでほしい。
「えっと、ピエルネ侯爵家に令息がいらっしゃるとは初めて聞きました。……家督は弟君が継がれるのでしょうか?」
「もちろんですわ」
笑顔で頷けば、ゴセック伯爵令息は急によそよそしい態度になって、「申し訳ありません、知人を見つけましたので……」と言い訳を告げて去っていった。
――わたくしが跡取り娘じゃないと知って離れていく令息、これで何人目かしら。
ディクシエ王国における爵位の継承は長男が優先されるものの、令嬢しか生まれなかった場合は長女が跡取り娘になる。そして次男以下の家督を継げない者は、結婚して家から出るといきなり平民になってしまう。貴族を一定数以上、増やさないための措置だ。
地主階級として領地の管理に従事する者も多いが、爵位がないので身分は平民だ。それが嫌で独身のまま実家に残り続ける者も少なくない。
実家に従属爵位があれば、それを父親から譲り受けて分家を興すこともできる。それか王城で文官や武官として活躍すれば、国王に認められて叙爵される道もある。しかし従属爵位を持たない家は多く、王城で出世する者は多くない。やはり手っ取り早いのは爵位継承者と婚姻することだ。
令嬢は嫡男を、令息は跡取り娘を求めている。
ピエルネ侯爵家には長い間、レティシア一人しか生まれていなかった。そのため社交界では、「ピエルネ侯爵令嬢といえば跡取り娘」と認識されている。しかしレティシアは領地で暮らすつもりなので社交をする気はなく、従って爵位も必要ない。家督は異母弟に継いでもらう腹積もりだ。
――伯爵家の三男坊なら、わたくし的にちょうどよかったのに残念だわ。別に平民になってもジェントリとして暮らせるから、裕福な生活は保障するのに。やっぱり平民になることが受け入れられないのね。
身分社会であるディクシエ王国において、貴族に生まれながら貴族でなくなることは、自身の存在を認められない……自己認識の喪失と同義なのだろう。
――はあ、ちょっと疲れたかも。
レティシアは男たちから期待のこもった視線を受け止め、さらにその視線が落胆するのを見続け、精神的な疲労を感じつつあった。
夜会はデビュタントのときしか参加したことがないのもあって、慣れない社交に肉体も疲れている。
さらに飲み慣れないアルコールを摂取したせいか少し足元がふらつく。庭園に出て風に当たることにした。
ダントリク小宮殿の庭園は、あちこちにガス灯が設置されていて夜だというのに明るい。
――月のない夜とは思えない明るさね。領都にもガス灯は普及させたいわ。
誰もいないガゼボの椅子に座ってガス灯を眺めていたら、やがて複数人の男性の声が近づいてきた。
『レティシア、人けのない場所で護衛もつけずに異性と会っては駄目よ』
王都へ出発する際、母親から何度も繰り返し注意されている。貴族男性ほど高慢で危険な生き物はいないと。
レティシアは身を屈めて音を立てないようガゼボから離れ、太い樹木の陰に隠れた。
「――なあ、めぼしい令嬢っていたか?」
「そうだなぁ、ピエルネ侯爵家の令嬢は美しかったな」
「でもあの子、弟がいるって言ってたらしいぞ。恋人にするならいいけど、結婚はしたくないなぁ」
なんと自分のことを話していた。レティシアは驚きながらも、そっと木の陰から顔をのぞかせる。ガゼボには自分より年下らしき令息が三人いた。
「でもさ、ピエルネ侯爵家に男子っていたか?」
「聞いたことないよな」
レティシアは自分に関わる話を盗み聞く形になってしまい、はしたないうえ居心地が悪くなってくる。だがここで動くと音で居場所がバレそうだから動くに動けない。
――ごめんなさい。盗み聞きするつもりじゃなかったのです。
心の中で令息たちに謝っていたら、一人の男が声を潜めた。
「なあ、これはうちの母親から聞いた噂なんだけど、ピエルネ家にいる男児って侯爵が愛人に産ませた婚外子で、しかも認知されてないそうだ」
「えっ、それだと爵位継承権は与えられないよな」
「ああ。ピエルネ侯爵令嬢は跡取り娘のままのはずだ」
「つまりあの子をものにすれば、侯爵閣下になれるってことだな」
「空いている部屋に連れ込めば早いな」
ぎょっと目を剥くレティシアはその場で硬直し、数拍の間を空けて全身が震え出した。
――この方たち、何を考えているの? わたくしを襲うって堂々と言っていることになるのに。
身の危険を感じたレティシアは、青ざめながら助けを求めて視線を周囲に向ける。王城の敷地内なので衛兵が巡回しているはずだが、兵士の姿は見当たらなかった。
――どうしよう、このままここで隠れていても疲れるだけだし。足音を立てないように歩けば見つからないかしら。
介添人のもとへ戻ろうと、抜き足差し足でガゼボから距離を取ろうとする。しかし運が悪いことに小枝を踏んでしまい、パキッと音を立ててしまった。
「誰だ!?」
令息の甲高い声に、レティシアはスカートを持ち上げて駆け出す。背後から、「あれってピエルネ侯爵令嬢じゃないか!?」とか、「やばい、聞かれたかも!?」とか、慌てふためく声が聞こえてくる。しかも乱れた複数の足音が追いかけてきた。
――うそっ、追ってきたわ!
暗がりに引きずり込まれたら冗談では済まないことになる。レティシアは半泣きになりながら小宮殿に飛び込もうとした。
直後、建物と庭園をつなぐ大扉から背の高いシルエットが現れる。
「きゃあっ!」
「――おっと」
硬い胸板にぶつかってレティシアがよろめいたのを、相手が両肩をつかんで支えてくれた。
「大丈夫ですか、レディ。おけがは?」
落ち着いた低い声にこちらを案じる印象があった。男性の声なのに怖いと思わず、レティシアはぶつけた鼻を押さえながら視線を上へ向ける。
直後に息を呑んだ。
――わあ、すてきな方。
男たちに追われている恐怖を吹っ飛ばして見とれてしまう。目の前にいる彼は眉目秀麗な貴公子で、赤金の髪が照明の光で金色にも赤色にも見えて神秘的なまでに美しい。しかも深みのある海の色の瞳がきらめいているようで、目が離せない。親しくもない相手を凝視するのはマナー違反なのに見入ってしまう。
「あの、レディ?」
レティシアにまじまじと見つめられた紳士が、困った顔つきになって気まずそうな声を漏らす。
このとき後ろから、「いたぞ!」との声が響いてレティシアは身をすくめ、怯えた表情を浮かべた。その様子に紳士は眉をひそめ、レティシアの背後へ険しい視線を向ける。
「――げっ、呪われ公爵!?」
三人の令息たちがレティシアたちから離れた位置で足を止める。呪われ公爵と呼ばれた紳士が、レティシアを令息たちから守るように背中へ隠した。
「君たち、複数で淑女を追いかけ回すなど紳士の風上にも置けない愚行だぞ。恥を知りなさい」
「そんな、だって……」
「その、俺たち、彼女と話したいだけで……」
「誤解があるようですが、俺たちは彼女と親交を深めたいだけで……」
おどおどと言い訳を漏らす三人を一瞥して、紳士がレティシアに顔だけ振り返る。
「と、彼らは言っているが?」
「迷惑です。話したくもないし、二度と顔を見たくもありません!」
ぴしゃりと言い切れば、三人が口々に罵声を上げる。けれど紳士ににらまれて口を閉じた。
「もう行きなさい。このことは私の胸にしまっておく。――だが同じことを繰り返したときは、君たちの家に今日のことを報告するだろう」
真っ青になった三人は、ほうほうの体で逃げていく。彼らの姿が消えてから紳士が振り返った。
レティシアは王族に拝謁するときと同じように膝を深く曲げ、頭を下げる。
「助かりました。本当にありがとうございます。――改めまして、ピエルネ侯爵家の長女でレティシア・ド・ピエルネと申します」
呪われ公爵だなんてひどい呼び方をされていたが、おかげで彼が公爵閣下であると分かった。
公爵家は貴族社会で最上位の家門になる。我が国では王族と婚姻を結ぶのは公爵家になるため、彼は王家の血を引く準王族ともいえる貴人だ。
「ピエルネ侯爵家のご令嬢か、楽にしてくれ。夜会でお会いするのは初めてだろうか」
「はい。わたくしは領地で暮らしていたので、王都に出てきたのはデビュタント以来です」
そうか、と呟く彼は紳士の礼を取る。
「初めまして、私はリュカ・ド・ブルダリアス公爵当主だ」
領地で何度も聞いていた家名に、レティシアは目を見開いて瞳を輝かせる。
「まあ、では公爵さまがジュリーさまのご子息なのですね!」
「えっ」
「わたくしの母はジュリーさまの幼なじみなのです」
「ピエルネ侯爵夫人と、母が?」
レティシアの母の実家と、リュカの母の実家は領地が隣り合っていた。二人の母親たちは物心ついた頃からの親友で、レティシアの母はジュリーとの思い出話を娘にたびたび語っていた。
そのことを聞いたリュカは複雑そうな表情になる。
「そうか、母にそのような方がいらしたとは……」
「わたくしの母は結婚してからずっと領地で暮らしていますが、ジュリーさまへお手紙を出し続けていたのです。でもいつしか返事が途切れて、交流も途絶えてしまったと言っていました。あの、ジュリーさまはお元気でしょうか?」
そこでリュカが困ったように視線をそらしたため、彼の私生活へ無神経に踏み込んだことを悟ってすぐさま頭を下げる。
「申し訳ありません。出過ぎたことを伺いました」
「いや、そうじゃない。……私は母と話したことがほとんどなくてね」
「えっ」
「だから母とピエルネ侯爵夫人が幼なじみだって、今初めて知ったぐらいだ。……母はずっと体調が思わしくないため、屋敷で療養している」
「そうだったのですか」
ほとんど話すことがない親子関係とはどのようなものか……と小さく悩んだけれど、これ以上の干渉は無神経だ。
「そろそろ会場に戻ろうか。君の姿が見えなくて、ご家族が心配されているのではないか?」
「家族は来ていませんわ。いつも伯母にシャペロンをお願いしておりますの。でも、わたくしのことを案じていると思います」
伯母は母方の伯父の妻なので血のつながりはないが、息子しか生まれなかったせいかレティシアを娘のようにかわいがってくれる。
「では戻ろうか。……ああ、だが」
リュカがエスコートのために肘を差し出してくれたが、すぐに迷うようなそぶりを見せる。
「どうかされましたか?」
「私は社交界で�犲�われ公爵�瓩噺討个譴討い襦�私と親交があると思われたら、君の評判にも悪影響を与えてしまうだろう」
「公爵さまは呪われているように見えませんわ。それにわたくしにとって公爵さまは光そのものです。助けてくださった恩人ですもの」
「光? 私が?」
意表を突かれたのかリュカは目を丸くして、すぐに視線をさまよわせながら動揺している。
――この方、なんだかかわいらしいわ。
領地に引っ込んでいるレティシアにとって、高位貴族の男性は父親と伯父ぐらいしか知らない。伯父はともかく、父親は高圧的でプライドの高い典型的な貴族男性であり、今日の夜会でも似たような殿方がとても多くて、うんざりしていた。
極めつけに三人もの令息に追いかけられて、貴族男性にほとほと幻滅したところだ。
だからリュカのような物腰が柔らかい、紳士の中の紳士といえる貴公子は新鮮だった。
「公爵さま、二人で会場へ戻るのにエスコートがないと、わたくしは公爵さまに蔑ろにされる、その程度の令嬢だと思われるかもしれません。ここは助けると思ってエスコートしてくださいませんか?」
ちょっとこじつけっぽいが、そう告げるとリュカはうなずいて肘を差し出してくれた。
これほどすてきな紳士にエスコートしてもらえるなんて夢みたいで、心がフワフワして落ち着かない。しかもこの方、どの角度から見ても格好いい。
浮かれるレティシアは調子に乗ってリュカへ甘えてしまう。
「公爵さま、ボールルームに戻ったらわたくしと踊ってくださいませんか? まだ誰とも踊っていませんの」
「それは構わないが……いや、やめておいた方がいい。私と踊ったら婚約者が心配するだろう」
「わたくしに婚約者はいません。今夜は結婚相手を探しに来たのです」
「その結婚相手が誰もいなくなるぞ」
「うーん、もともと結婚するつもりがなかったので、それはそれで構わないと言いますか」
「結婚するつもりがない? 侯爵令嬢が?」
リュカがものすごく驚いているけれど、それはそうだろう。貴族女性で生涯独身の令嬢などほとんどいない。貴族の婚姻は家門の繁栄のために結ばれるものなので、たとえ結婚相手が父親より年上の老人だとしても、家のためなら嫁ぐのが義務だ。
「はい。ずっと領地で生きるつもりでしたが、やはり父から結婚相手を見つけろと命じられまして」
「ピエルネ侯爵は家門にふさわしい婚約者を探さなかったのか?」
「ええ、まあ」
レティシアが曖昧にほほ笑んだため、事情があると察したのかリュカは話を変えてくれた。
「君のような魅力的な淑女に誘われて断るなんて、紳士の面汚しと言われても言い返せないが、やはりダンスはやめておこう。すまない」
ちょうどボールルームの入り口に戻ってきたので、リュカがレティシアからそっと離れた。そして手の甲に触れるだけのキスをして去っていく。
――リュカさま、本当にすてき。美男子のうえ紳士だなんて、物語に出てくる王子さまや騎士さまみたい。
あんな方が婚約者だったらうれしいのに、とレティシアは頬を染める。とはいえ公爵家の当主なら、とっくの昔に結婚しているだろう。
そう思ったとき、年配の女性が慌てた様子でこちらに近づいてきた。
「レティシア! どこへ行っていたの、心配したのよ」
「申し訳ありません、伯母さま。庭園で涼んでいました」
顔をしかめる伯母が素早く姪の全身を確認する。乱れたところはない姿に安堵の息を吐き出した。
「王城の庭園なら安全でしょうけど、若い娘が一人で散策しては駄目よ」
はい、とレティシアは殊勝な態度でうなずいておく。伯母は口うるさいけれど、姪を想っての行動だとレティシアも分かっているので。
その伯母はリュカが去っていった方角を一瞥すると、小声で話しかけてくる。
「今、エスコートしてくださった殿方って、ブルダリアス公爵閣下よね?」
「あら、よく分かりましたわね」
「そりゃあ、あの髪色はめずらしいもの」
赤毛の貴族は数が少ないうえ、あれほど美しい赤金の髪を持つ者はリュカぐらいだという。
「なるほど。それで遠目でも気づかれたのですね」
「それよりもレティシア、なぜ公爵閣下にエスコートしていただいたの? 何かあったの?」
正直に令息たちの件を話せば、伯母は卒倒するだろう。そこで、「迷子になったところ、たまたま居合わせた公爵さまに送ってもらいました」と告げておく。
「そう……、それぐらいならお礼をする必要はないわね。今後は公爵閣下の視界に入らないよう気をつけなさい」
「なぜです?」
「あなたは知らないでしょうけれど、彼は呪われ公爵と呼ばれている不吉な方なの。あの方と親交があるって思われたら、あなたの社交に支障が出るじゃない」
レティシアは、リュカがダンスの誘いを断った理由をよく理解した。同時に、あのような素晴らしい紳士に悪評が付きまとっているなど許しがたいと思う。
「伯母さま、わたくしは貴族の方々と親交を結ぶために夜会へ来ているのですよね? でしたら公爵閣下という尊いお方と知り合えるなんて、幸運なことではありませんか」
グッと言葉に詰まる伯母だったが、すぐさま「ブルダリアス公爵は別よ」と反論する。
伯母いわく、リュカには正気を失った母親がいるという。彼女はもう十年以上屋敷にこもり、奇声を上げたり屋敷を徘徊したりと常軌を逸していると語った。
「閣下がいまだに独身なのも、母親を恐れて婚約者候補の令嬢たちが逃げたからよ。もしあなたが閣下と親しくしたら、婚約者に望まれてしまうかもしれないわ」
リュカが独り身であることにも驚いたが、それ以上に衝撃的なことを聞いてレティシアは伯母にずいっと迫る。
「リュカさまのお母さまはジュリーさまじゃないですか! なぜそのような大事をわたくしの母に言わなかったのです!」
伯母が、しまったと言いたげに両手で口を押える。
「伯母さまなら、母とジュリーさまが幼なじみの親友であるとご存じですよね。いえ、それより伯父さまです。どうして母に内緒にしていたのですか」
レティシアの母親の実家、カディオ伯爵家を継いだのは母の兄だ。彼だって子どもの頃からジュリーとの親交があったはずなのに。
「……仕方ないのよ。ジュリーさまは正気を失ったままと言われているし、ご子息は呪われ公爵だなんて呼ばれているし……。わたくしたちだって公爵家と縁ができたらうれしいけれど、閣下のように呪われたらと思えば恐ろしくてお近づきになれないわ。社交界の評判も気になるし……」
「伯母さま、なぜリュカさまは呪われ公爵なんて呼ばれているのです?」
「レティシア、公爵閣下をお名前で呼んではいけません」
「分かっています、身内以外の方がいる場では呼びません。それよりも理由を教えてくださいませ」
言いたくないのか伯母が視線をそらす。そこでレティシアは視線が向けられた先に移動して伯母と目を合わせた。ぎょっとする伯母が再び視線をそらすけれど、またもやレティシアが動いて目を合わせる。
そんな攻防を繰り返していたら伯母が切れた。
「子どもっぽいことをしないの!」
「だって教えてくださらないのですもの。わたくしとお母さまは領地に引きこもっていたから、王都での出来事は本当に何も分からないのです」
絶対に諦めないとの意思を滲ませて伯母を見つめれば、根負けしたように彼女はため息を零した。
「もう、あなたって子は……。とりあえず座りましょう」
ボールルームに戻って、隅にある空いた椅子に腰を下ろす。伯母は周囲を見回し、聞き耳を立てている人がいないことを確認してから声を潜めた。
「前置きが長くなるけど、ベルティーユ事件は知っているわよね?」
「当然です。お父さまの娘ですから」
今から二十余年前、男爵令嬢が人を惑わす香水�爛戰襯謄�ーユの妖精�瓩鮖箸辰童淇佑竜�公子を洗脳した。その五人の中には当時の王太子と、リュカの父親である前ブルダリアス公爵、そしてレティシアの父親、ピエルネ侯爵が含まれていた。
当時も今も、淑女が複数の令息と親交を深めるのは品がないと言われている。しかも令息たちは全て婚約者がいたため、彼らの行動は貴族社会から非難された。それでも男爵令嬢と令息たちが引き離されなかったのは、やはり五人の中に王太子がいたせいだろう。
やがて男爵令嬢は王太子を選んで婚姻し、王太子妃となった。
だというのに彼女は妃になってからも他の四人の貴公子を集め、お茶会を開いては洗脳を続けていたという。
それから一年後、香水を使い切ったことで王太子と貴公子たちの洗脳が解け、騒然となった。
王太子妃は王族を欺いた罪で投獄のうえ処刑、実家は取り潰し。
王太子は詐欺師を妃にした責任を問われ、断種のうえ臣籍降下。翌年に病で亡くなっている。
王族と高位貴族を巻き込んだこの大事件は、香水の名前から�爛戰襯謄�ーユ事件�瓩噺討个譴拭9畤紊箸い辰討睨稾瑤琉貅錣如�元王太子妃がどこから入手したか現在でも不明だ。
ベルティーユ事件については、レティシアも母のアレクシアから聞かされている。なにしろアレクシアは、婚約者を元王太子妃に奪われた被害者なので。
――お母さま、本当はお父さまと婚約破棄したかったのよね。できなかったからこそ、わたくしが生まれたのだけど。
母と父は子どもの頃から婚約を結んでおり、仲のいい婚約者同士だったという。しかし父がベルティーユの妖精に惑わされて男爵令嬢に浮気し、婚約者を蔑ろにし続け、冷淡な態度を崩さず虐げたことで、アレクシアは完全に愛情を失ったという。
それでも婚約の破棄はできなかった。当時のピエルネ侯爵夫妻――亡くなったレティシアの祖父母が婚約破棄を許さなかったために。
アレクシアの実家となるカディオ伯爵家では、ピエルネ侯爵家の権勢に勝てず、アレクシアは愛想を尽かした婚約者と泣く泣く結婚したのだった。
――かわいそう、お母さま。それなのにわたくしをかわいがってくださるなんて、聖母かもしれない。
「でもベルティーユ事件って、お父さまも被害者ですよね」
「あなたは当時を知らないからそんなことを言えるのよ。あなたの父親……ピエルネ侯爵のアレクシアへの仕打ちは、本当にひどいものだったわ」
「そうらしいですね」
何しろ妻が妊娠したら王都邸の別館へ追いやって、出産時にも王太子妃のお茶会へ参加し、生まれた娘を見ようともせず名づけさえ放棄したというから、アレクシアの怒りと恨みも当然だろう。
ベルティーユの妖精による洗脳が解けた後、ピエルネ侯爵は妻へ床に額づいて平謝りしたそうだが、アレクシアは決して許さず娘を連れて領地に引っ込み、今もタウンハウスに近寄ろうとしない。
だからこそ伯父のカディオ伯爵は、いまだにピエルネ侯爵を毛嫌いしており、伯母も同様だった。
「それで、ベルティーユ事件とリュカさまが呪われ公爵と呼ばれることに、どのような関係があるのですか?」
「ジュリーさまもアレクシアと同じで、浮気された婚約者と結婚したのは知っている?」
「はい、母が酔っ払ったときに話していました」
「あの子ったら……まあいいわ。ジュリーさまだけど、彼女は前ブルダリアス公爵に見初められて婚約したのに、ベルティーユの妖精のせいで冷遇されて、ご結婚されても夫君には見向きもされなくて、公爵家に居場所はなかったそうよ」
「お母さまと似たような感じですね」
ジュリーもまた実家は伯爵家で、公爵家に逆らうほどの力はなく婚約破棄できなかったという。
「ひどいですね。そんな男と結婚しなくてはいけないなんて。……あっ、もしかしてジュリーさまが正気を失っているのは、夫君のことが原因ですか?」
「それもあるでしょうけど、正確には違うわ。結婚して五年ぐらいの間に、前ブルダリアス公爵とそのご両親が立て続けに事故死されたの」
「え! つまりジュリーさまのご夫君と、義理のご両親がですか?」
そこで恐ろしい想像を思い浮かべ、レティシアは悲鳴を喉の奥で押し殺した。
「おっ、伯母さま、まさかっ、ジュリーさまが、その、三人をひそかに……」
「それはないわ。彼らが亡くなるたびにジュリーさまも取り調べを受けたけど、完璧なアリバイがあったそうなの。ちょうど王都を出ていたり、王宮で複数人と会っていたりとか」
「それもまた、すごい偶然というか、運がいいというか……」
「出来過ぎよね。だから憲兵局はジュリーさまを徹底的に調べたらしいけど、完全に無実だそうよ」
レティシアはホッと胸を撫で下ろした。憲兵局の調査は執拗で確実というから、ジュリーは犯人ではないのだろう。
「でも三人もの貴族が連続で亡くなったでしょう? しかも全員が事故死だから、彼女を疑う者が消えなくて……。そういう感覚って肌で感じるじゃない。ジュリーさまは心を病んで屋敷の奥に閉じこもられてしまったのよ」
そして公爵家の人間が次々に不幸に見舞われる状況から、いつしかブルダリアス公爵家は呪われていると囁かれるようになった。それだけでなく、わずか五歳で公爵位を継承したリュカまで呪われ公爵と呼ばれるようになったという。
「なんてひどい! 五歳の子どもを中傷するなんて!」
「静かにしなさい……!」
伯母が人差し指を唇につけて周りを見回す。幸いなことに夜会も終盤に差しかかっているせいで、招待客の多くはアルコールが回っておりレティシアたちに注目する者は誰もいない。
「だって伯母さま、あんまりじゃない。ジュリーさまもリュカさまもかわいそうだわ。お母さまがこのことを知っていれば、お二人を支えようと考えたはずよ」
「だから言わなかったのよ。いいこと? ベルティーユ事件のせいでピエルネ侯爵家は社交界での地位を大きく落としたわ。今では派閥の勢いも失っている」
それというのも現国王のエミリアン二世は、ベルティーユの妖精とベルティーユ事件を激しく憎んでいる。彼は事件が起きた当時、先代国王の第二王子で臣籍降下する予定だったが、兄の王太子が廃嫡されたため繰り上がりで立太子された。
その頃はベルティーユ事件のせいで王家の求心力が低下したうえ、第二王子の支持者と前王太子の支持者が勢力争いを起こしていた。さらに第二王子の婚約者となる令嬢が、王太子妃の座を狙う家門に襲われそうになったり、と山のような問題が起きて散々な目に遭っている。
それゆえにベルティーユ事件を起こした貴公子たちを嫌悪し、彼らを国政から締め出した。
そのためピエルネ侯爵は代替わりするまで要職に就けない。権力を握りたい家門からは見向きもされていない状況で、ピエルネ家は孤立していた。
「ブルダリアス家とピエルネ家が親しくしたら、誰もがベルティーユ事件を思い出すわ。もう二十年も前の話なのに、あなたは肩身の狭い思いをするでしょう。結婚相手なんて見つからなくなるわ」
そう言われると反論する根拠がないレティシアは黙るしかなかった。そして気づくものがある。
――リュカさまがお母さまとほとんど話したことがないとおっしゃっていたのは、ジュリーさまのお心の問題があったのね。
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