●著:小山内慧夢
●イラスト:なおやみか
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543952
●発売日:2026/8/28
愛する夫と引き裂かれた新妻は至高の秘密を胸に抱いて――!?
元子爵令嬢ファロウは聖騎士アヴィールに嫁ぎ、溺愛されていた。だが邪神討伐で彼が瀕死の重傷を負い、聖女である王女が秘術により同衾して彼を救ったと知らされる。
王家から離縁を迫られ、彼が目覚める前に身を引く形になったファロウ。愛するアヴィールの子どもを身ごもっていた彼女は、家族にも知らせず静かな村で愛娘と暮らしはじめるも、アヴィールは彼女を探し出し──!?
第一章 邪神討伐
「今夜もきっと、お帰りは遅いわよね」
よく磨かれた窓ガラスに手を当てると、ひんやりとした夜の空気をガラス越しに感じた。
ファロゥ・ミランは夜の闇に溶けてしまいそうな濃い茶色の髪を凝視し、異質なほど青い瞳に射返されため息をつく。
聖騎士であるアヴィール・ミランを夫に持つファロゥの『夜』の始まりは遅い。
訓練や事務処理、会議で夫の帰宅が遅いからである。
それまでにファロゥは家宰と共に家のことを取り仕切り、苦手な社交に勤しみ、食事をして湯浴みをしてもゆっくりと自分の時間を持つことができている。
(……まあ、それもアヴィール様次第なのだけれど)
早く帰宅したり、仕事が非番だったりするときはすべての予定をキャンセルして夫婦の時間となってしまうこともよくある。
しがない子爵家の娘として生を受けたファロゥは、急に降って湧いた見合いで名門ミラン家のアヴィールと結婚した。
ファロゥはなぜか出逢った時からアヴィールに溺愛されている。
周囲が引くほどファロゥを想い、彼女のためならなんでもすると言って憚らず、職を辞して側にいると宣言したほど愛妻家(?)で、新婚時は、王城のお偉方が『なんとかアヴィールを仕事に来させてくれ』と頭を下げに来たほどである。
騎士団長と一緒に大司教にまで頼まれてしまっては、ファロゥは拒否することができなかった。
ゆえにファロゥは『毎日仕事に勤しむアヴィール様素敵!』とか『アヴィール様が立派な聖騎士であられてわたしも鼻が高いですわ』と夫の意識を仕事に向けさせる言葉を日々口にしなくてはならなかった。
それ自体は自分が思っていることを口に出すだけなので問題はないのだが、それによってアヴィールの気分が異様に高揚してしまい、場合によっては仕事が手に付かなくなってしまうという問題を孕んでいる。
夫を称えつつ、過剰に興奮させないようにする匙加減が非常に難しい。
ファロゥはため息をついて夜空を見上げる。
濃い藍色の空には女神がおわす月宮殿が見えていた。
日によって見え方を変える月宮殿は、現在細く銀鈎のような姿をしている。
このドラント国は月の女神を信仰しており、その女神の代弁者として聖女が存在する。
現在はドラント国王女のルーチェが聖女の資格を有し、彼女の強い月聖力は人々に女神の素晴らしさを伝えていた。
そんな聖女の盾となり剣となるのが聖騎士であるアヴィールだ。
歴代の聖騎士の中でもアヴィールは最も強いと言われており、一時は聖女の夫候補として名を挙げられていた。
聖騎士が聖女の伴侶となることはよくあることだが、しかしそれを固辞してまでアヴィールはファロゥを選んだ。
分不相応だと断ろうとしたファロゥを目力と果てのない愛情表現で黙らせたのである。
アヴィールの妻であることに苦労はあるが幸せでもあり、おおむね満足しているが、どうしても納得できないこともある。
「どうしてわたしなのかしら……」
「それは君が君だからだ! 愛する我が妻ファロゥ!」
寝室の扉が激しい音とともに開け放たれた。
物思いに耽っていたファロゥは驚きのあまり短い悲鳴をあげる。
「ひゃ!? ア、アヴィール様?」
ぼんやりしていて出迎えを疎かにしてしまったと焦っていると、考えを読んだようにアヴィールが笑う。
「無防備な君の姿を見たくてこっそり帰ってきたのだが、君が不穏なことを口にするものだから我慢できなかった」
スタスタと速足でファロゥがいる窓際までくると、オロオロしているファロゥの手を掴んだ。
「君はまだ私の愛を疑っているのか」
「あ、いいえ……そういうわけでは」
銀鈎の少ない月光でもキラキラと輝く金の髪に目を奪われていると、美しくも強い光を放つ緑の瞳と視線が絡む。
生命の息吹を感じるようなアヴィールの瞳は、冷たく冴えるファロゥの青い瞳とは対極にあるように感じられる。
妙な居た堪れなさを感じて視線を逸らそうとすると「逸らすな」と言われた。
「な……」
どうしていつも先読みをするようなことを言うのかと尋ねようとしたが、その唇がアヴィールのそれによって塞がれる。
「あ、むぅ……っ、ふ、ぁ……っ、アヴィ、……っ」
名を呼ぶのを妨害するように舌が絡められ、強く吸われるとファロゥは身体が光の粒になって霧散してしまう心地になる。
「ファロゥ、私は君を愛している――君だけを愛しているんだ」
密かに囁くとアヴィールは再び唇を重ね、思うさまファロゥを貪る。
アヴィールの舌技はどこがどうなっているのかファロゥにはわからない。
どこもかしこもビリビリと刺激され、甘く蕩かされてしまう。
自分で立っていられなくなり、アヴィールのシャツにしがみついてなんとか身体を支えると、腰に手が回された。
「……いい香りがする。風呂上がりのファロゥは格別だ」
「匂いなんて」
嗅がないでほしいと言葉尻を濁すが、アヴィールはどこ吹く風だ。
「ファロゥのすべてが私に力を与えてくれる……わかるだろう?」
そう言ってアヴィールは腰に回した手に力を籠める。
そうすると押し付けられた腰がアヴィールの隠し切れない昂りを伝え、ファロゥは顔を真っ赤にする。
いくら夫婦でも、このようにあけすけに欲望を晒されることにはいつまで経っても慣れない。
「あ、アヴィール様……」
ファロゥが生唾を呑むと、静かな寝室に予想以上にその音が響いて緊張していることを自覚させられる。
「ふふ……、いつまで経っても初心な気持ちでいる我が妻よ。今夜もたっぷり愛させてくれ」
今度は軽く唇を合わせられ、ファロゥはぎこちなく頷くことしかできなかった。
アヴィールは服を脱ぐのが速い。
まるで躊躇いというものを感じさせない。
一度尋ねたことがあったが、彼は『騎士団などの大所帯かつ男所帯では誰もそんなことを気にしない』からだと説明した。
しかしファロゥは違うと思っている。
(アヴィール様は身体に自信があるから、躊躇なく脱げるのだわ)
鍛え抜かれた騎士の身体というものは、芸術品のように美しい。
乏しい月明りでも、まるで光を発するようにアヴィールの裸体は浮き上がって見える。
それが眩しくてファロゥはいつも目を覆うか、きつく閉じるかしてしまう。
しかし。
「ファロゥ、こっちを見て。これから君を抱く男をしっかりと見るんだ」
アヴィールはそれを許してくれない。
視線すら自由にならず、恐る恐る瞼を押し上げたファロゥはそろそろと視線をアヴィールに向ける。
途端に目に入ったのは、天を突かんばかりに雄々しく立ち上がるアヴィールの男根だ。
それを見た瞬間、ファロゥは自分の下腹部がキュンと鳴いたのがわかった。
「……っ」
毎夜のように抱かれ刻みつけられた快楽を欲しがって、勝手に身体が疼いてしまうのだ。
「さあ、おいでファロゥ。服を脱がせてあげよう」
いかにも親切そうな声に導かれ、ファロゥは覚束ない足取りでベッドまで歩いた。
アヴィールは、脱がしながらゆっくりと交わるのが好きらしく、ファロゥはいつも翻弄されてしまう。
湯も使いゆったりとしたネグリジェとガウンを身に纏っているのだから、すぐにはだけることができるのにそれをしないのは、『そういうシチュエーション』が好きだからに違いない。
(せ、性癖……っていうことなの?)
覆い被さるような姿勢で首筋や耳に口付けを落としながら、ガウンの襟元をずらすアヴィールは合わせ目から手を差し入れファロゥの豊かな乳房を揉みしだく。
「あぁ……っ」
来るとわかっている刺激にも具に反応してしまう淫らな身体が恥ずかしく、ファロゥは唇を噛む。
どこもかしこも美しいアヴィールに、淫らな妻だと呆れられたくないのだ。
しかしそんな慎ましい妻を見て、アヴィールは不満があるように眉を顰める。
「ファロゥ、唇を噛んでは駄目だ。血が出てしまうだろう?」
「で、でも……唇を閉じないと……」
淫らな声が出てしまう、とは口に出せずファロゥは押し黙る。
強く噤もうとしてうっかり突き出てしまった唇に、アヴィールは愛おしそうに自らのそれを重ねた。
「ああもう、我が妻は可愛いが過ぎる。いっそ食べてしまいたい」
「た、食べるって……きゃ!」
アヴィールはファロゥのガウンの襟を大きく左右に割り開くと、薄いネグリジェの上から乳房に甘噛みをする。
歯を立てているわけではないので痛くはないが、むず痒くてファロゥは腰をくねらせる。
「こら、大人しく食べられていなさい」
「だって……、あんっ」
白く柔らかいところを吸ったり舐めたり甘噛みしたりと、好き勝手するくせに肝心のところに触れないアヴィールの意地悪さに、ファロゥは不満を募らせる。
(わざと避けている……)
愛撫によって胸の尖りがツンと上を向いて震えている。
ネグリジェを押し上げて主張しているそれが目に入らないわけないのに、アヴィールはそれに触れない。
「アヴィール様……」
はしたない願いを口にしそうになったファロゥは、ギリギリのところで思い留まり唇を噛む。
しかしそれをじっと見られていたことに気付き、身体を強張らせる。
「あっ……」
「唇を噛んでは駄目だと言っただろう? 私の妻に傷をつけることは、たとえ君であっても許しがたいな」
そう言うとアヴィールはファロゥの唇をフニフニと触ったあと、口の中に指先を潜り込ませた。
「ふぁ、あ、あふ……っ」
「さあ、指を『私』だと思って愛撫して」
アヴィールの声音は柔らかかったが有無を言わせない強さがある。
ファロゥはそろそろとアヴィールの指に舌を這わせた。
彼女の夫の手は、美しく手入れされている。
それは美意識が高いからではなく、妻のためである。
「君の身体に入れるものだ。綺麗にして当然だろう?」
指が綺麗だと褒めたときにそう言われ、意味が分からず小首を傾げたファロゥはしばらく考えたあと、言葉の意味が分かって顔を真っ赤にした。
これから新床だというタイミングで聞くにはあまりに刺激的で生々しく、場繋ぎのために口にしたことでとんでもない蛇を出してしまったと後悔したことを思い出す。
「なに? なにを考えているの?」
心ここにあらずのまま一心に指を舐めていると口を開かされ口蓋を擽られた。
「ふぁ、あっふ……、あ、ひーうさ、あ……」
噛んではいけないと舌足らずな言葉になったが、アヴィールはファロゥよりもファロゥのことを知っているように目を細める。
「そうだね、私のことを考えているんだよね……わかるよ、ファロゥ」
アヴィールの優しい声に心の澱が溶けたような心地になったファロゥも緊張の糸を緩めた。
そのとき腰の緊張感が緩和され、アヴィールの右手がファロゥのガウンの腰紐を解いたのがわかった。
「あっ」
乳嘴に刺激を与えられないうちに本格的な交わりの予感が過り、ファロゥは身を捩る。
すでにファロゥの下腹部は誤魔化しようがないほどに濡れていて、それを指摘されたくないという気持ちが働いたのだ。
だが、一介の貴族令嬢だったファロゥが騎士畑を渡り歩いてきたアヴィールに敵うわけがない。
手繰り寄せられたネグリジェの裾から侵入したアヴィールの手は意外とむっちりとしたふとももを愛おしそうに撫でる。
「私のことを想って、ここを濡らしたの? 可愛いね」
図星を指されてまた顔に熱が集まるのがわかった。
ファロゥはぎこちなく舌を動かしながら意図的に視線を逸らし足を開く。
早く、触れてほしかったのだ。
「アヴィール様……、わ、わたし……っ」
いくら夜を重ねても、自分から触れてほしいと口にするのは勇気がいる。
意地が悪いときはファロゥがおねだりするまで触れてくれないときもあるが、今夜はそうでないらしく、アヴィールは軽く頷いて手を上に滑らせる。
少しかさついた大きな手のひらがファロゥの鼠径部に触れ、そして動きを止めた。
「――ファロゥ、きみ……」
大きく喉仏が上下して言葉を探したアヴィールに、ファロゥは視線を泳がせる。
ファロゥは下着をつけていなかった。
「……だって、すぐ脱いでしまうじゃないですか」
言うが早いかアヴィールはファロゥの膝を大きく開かせた。
「きゃあ!」
あまりに性急な動きに声をあげたファロゥは頭を起こして夫を見た。
しかしアヴィールではなく、彼の雄槍と目が合った。
いや、そこに目はないので正確ではないが、それでもファロゥは目が合ったような気がした。
「ファロゥは私を煽るのが上手だ。このアヴィール・ミラン、その期待に全力で報いようじゃないか」
「あ、いえ! そこまでしていただかなくても……っ、あ、ああー!」
散々焦らされていた乳嘴を口に含まれファロゥが悶えると、アヴィールはその隙をつくようにあわいに指を這わせる。
すっかり濡れそぼつ襞を擽り、指先がぬくりと潜り込むとファロゥの細腰が浮く。
「ふぁ、あ、あふ……っ、どっちもなんて……っ」
敏感になった乳嘴を吸われる感覚と、蜜洞を擽る指の感覚はファロゥを混乱させるのに充分だ。
身体の中を快楽が暴れまわり息を荒らげると、アヴィールが胸から顔をあげ唇を舐めた。
「まあ、そう言わず私に身を任せなさい」
色気が滲む夫の表情に、ファロゥは息を呑んだ。
ファロゥとて初心なばかりではない。
長くはないが短くもない結婚生活の中で、アヴィールの愛につむじまでどっぷりと浸かった生活をしているのだ。
指を迎え入れた隘路は刺激を受けるたびに収縮するが、蕩けてもっと太く大きいものを受け入れる準備が整いつつある。
「あぁ、ほらここ……君はここが好きだろう?」
指の腹で押されると腰がわななき、好きだ、その通りだと子宮が鳴く。
「あっ、あぁ……っ、好きです……、アヴィール様ぁ、好き……っ」
腰を揺らしてもっともっとと強請る愛妻に、アヴィールは機嫌よさそうに口角をあげた。
「ふふ、素直だね。私も大好きだよ、ファロゥ。でも、もっと好きなところがあるだろう?」
アヴィールは涼しげな視線の奥に隠し切れない欲を孕んでいる。
それがすべて真っ直ぐ自分に向けられていることを、ファロゥは肌で感じた。
「ええ、ええ……! 奥に欲しいの……っ、アヴィール様のが欲しいの……っ」
さきほどからビクビクと震え、先端から涎を流している屹立が欲しくて仕方がない。
些か性急にアヴィールの指が引き抜かれ、蜜洞が寂しさに収縮すると、熱く情欲にまみれた剛直が蕩け切ったあわいにあてがわれた。
「もっと君をトロトロにしてからと思っていたけれど、大丈夫そうだね」
くぷくぷと浅瀬で遊ぶように馴染ませると、ゆっくりと腰を進める。
「あ、あぁ……っ、アヴィール様……っ」
感じ入ったような艶声に名を呼ばれて、アヴィールはゆっくりと抽送を始めた。
ぐちゅぐちゅと蜜をかき混ぜるような音と、皮膚を叩く打擲音、そしてファロゥの甘く喘ぐ声が寝室に満ちる。
「ファロゥ、……ファロゥ! ああ、愛している、君だけをずっと……っ!」
「アヴィール、さま……っ、わたしも、わたしも……っ」
打ち付ける腰の速度が上がり、ファロゥは必死にアヴィールにしがみつく。
もっと深く繋がりたいとファロゥの脚がアヴィールの腰に絡みつくと、息をつめたアヴィールが隘路の最奥を突いた。
奥を捏ねるようにされたファロゥは堪えきれずに極まる。
「ひぁっ、ああ――っ、あ……う、ん、あぁ……っ」
隘路がぎゅううう、と陽物を食い締め、アヴィールが奥歯を噛みしめ腰を押し付けた。
「う、く……っ」
限界まで耐えていた欲望が解放され、ファロゥの隘路を白く満たしていく。
びゅくびゅくと数回迸りを感じたファロゥは事後の浮遊感の中に、どこか確信めいたものが混じっているのを夢うつつで感じていた。
事後、交わった姿のままベッドで抱き合っていると、遠慮がちに扉がノックされた。
「旦那様、奥様……起きていらっしゃいますか」
執事の声に苛立ったように舌打ちをしたアヴィールだったが、ファロゥが宥めるように手を撫でると機嫌を直してガウンを手に取る。
「どうした」
返答があったことにほっとしたらしい執事は一呼吸おいてから「騎士団から緊急の呼び出しだとのことです」と告げる。
扉越しにも緊張が伝わり、ファロゥも眉を顰め慌ててガウンを羽織った。
「アヴィール様……」
聖騎士であるアヴィールが呼び出されるということは、ただ事ではない事態が起きたということを意味する。
アヴィールに危険があるのではないかと思ったファロゥがベッドから下りて寄り添うと、力強く肩を抱かれた。
「大丈夫、そんなに心配することはない。私はアヴィール・ミランだぞ?」
幼子をあやすように肩を叩かれたファロゥは、夫を安心させるためになんとか苦心して口角を上げ、夫を見送った。
その後まんじりともせず夜が明けると、アヴィールが呼び出された理由がわかった。
「じゃ、邪神……ですか?」
驚きの声を上げたファロゥに、義父であるベニート・ミラン侯爵は重々しく頷く。
息子であるアヴィールの夜中の出動を知って情報を集めようとした矢先、王城からの呼び出しで説明を受けたという。
「そうだ。恐れ多くも月の女神の恩恵を拒否した、北の禍森の邪神の封印に異常が見られ、人が襲われたらしい」
悪しきものを封印する禍森は東西南北に存在するが、その中でも北の禍森は最も凶悪な邪神が封印されているといわれている。
そのことは、ドラント国の者ならば幼いころから繰り返し教えられることだ。
「で、でも……アヴィール様は大丈夫なのですよね?」
夫を信じていないわけではないが、改めて『邪神』と言われると、そのおどろおどろした雰囲気に圧倒されてしまい、ファロゥは弱気になる。
「当然だ。ドラント国の聖騎士は邪神なんぞ、ものともせぬ。それに今回は王女殿下……聖女様が同行されるそうだ。恐らく邪神を封印ではなく消滅させるおつもりなのだろう。安心して帰りを待つといい」
義父の力強い肯定はファロゥの不安を取り除いてくれた。
しかし、待つのは辛かった。
北の禍森までは通常片道三週間ほどかかるらしい。
今回は聖女同行ということで、さらに日数がかかる可能性がある。
そこからサクッと邪神を討伐できればいいが、そう安直に考えることはできないだろう。
討伐に一週間は見積もるとしてそこからまたさらに三週間費やしてようやくの帰還となる。
アヴィールたちが討伐に出て一月が過ぎ、二月が過ぎようかというころファロゥ宛に王城から召喚状が届いた。
「至急、しかも極秘って……どういうことかしら」
「使者殿が待っておられます。奥様、お早くお支度を」
そう家宰に促されファロゥは目を剥く。
これでは連行と変わらない。
それほどまでに至急なのだと思うと、背筋がひやりとする。
(まさか、アヴィール様になにかあったのでは……、いえ、そんなことはないわ)
震えそうになる手をぎゅっと握り、ファロゥは最低限失礼のないよう身嗜みを整え使者の馬車に乗り込んだ。
その際使者として遣わされてきた伯爵夫人が妙に不憫そうな視線を寄越したことが不吉に思えて仕方がなく、失礼とは承知していたがファロゥはずっと窓の外を睨んでいた。
王城に到着すると通された部屋にはすでに義両親が待っていた。
「お義父様、お義母様!」
これまでの不安な気持ちが一斉に吹き出し、涙腺が緩みそうになる。
「ファロゥさん、落ち着いて」
そう言って肩を抱いた義母の顔色も悪い。
自分だけが不安なのではないと気付いたファロゥは、ぐっと目に力を入れ奥歯を噛みしめる。
(わたしはアヴィール様の妻なのだから、情けない姿は晒せない……っ)
自分に言い聞かせながら、王族の到着を待つ。
しばらくして現れた国王は王妃と大司教、そして騎士団長を従えていた。
この国の意思決定でもするかのような面々に緊張が高まる。
「急に呼び出してすまないな、楽にしてくれ」
国王は自らも座りながら着席を促す。
(楽にって……どう考えても楽にできるわけないメンツなのですが……)
それどころか不安はどんどん積み重なり、ファロゥは耐え難い緊張に叫び出したくなっていた。
『どうして呼ばれたのですか? アヴィール様はご無事なのですか?』
そう国王を問い詰めたい衝動をなんとか抑える。
それはミラン家一同の総意であるらしく、無言の圧を感じてか国王が口を開く。
「――聖女並びに聖騎士たちの邪神討伐の件だが」
突然核心を突く国王の言葉にファロゥの肩が大きく震えた。
(お願い、不吉なことを仰らないで……!)
切実な祈りが女神に届いたのか、国王は「討伐は成ったと報告が来た」と告げた。
「で、では……!」
ミラン侯爵が喜びの滲む声で尋ねる。
もしかしたら帰還の時期を知らせるために呼び出されたのかという希望が胸に灯る。
だが、国王は無慈悲な言葉を紡ぐ。
「しかし討伐の際にアヴィール卿が瀕死の怪我を負い、それを聖女……我が娘ルーチェが『聖女の癒し』を使い治療したとのことだ」
瀕死、のところで気絶しそうになったファロゥだったが、すぐに治療されたと聞きなんとか意識を繋ぐ。
「あ、ああ……、アヴィール様は、生きて……いらっしゃる?」
国王への直問は無礼にあたるが、そこまで考えが及ばなかった。
ファロゥのギリギリの気持ちを理解してくれたのか、国王はゆっくりと頷き「聖騎士は生きておる」と断言した。
「ああ……! ありがとうございます! 女神様……!」
ファロゥは緊張の糸と共に涙腺が切れて泣き出してしまう。
(よかった! 生きている、アヴィール様は戻ってくる……!)
この喜びを分かち合おうと涙に濡れた顔を上げ、義両親を見たファロゥは息を止めた。
なぜか義両親の顔は青褪め、汗をかいているのだ。
「お義父様、お義母様……? どうされたのですか? あ、もしかして怪我や後遺症などを気にしているのですか? 大丈夫です、なにがあってもわたしがアヴィール様をお支えします……」
一生苦楽を共にすると誓った妻なのだからと言おうとしたが、ミラン侯爵に遮られる。
「陛下、ルーチェ王女殿下が『聖女の癒し』を……使われたというのは本当ですか」
必死に動揺を隠しなんとか口にした、という義父の態度にファロゥは眉を顰めた。
一般に『聖女の癒し』というのはその名の通り、聖女が女神の月聖力を用いて傷や病をいやす秘儀であると伝わっている。
むやみやたらに使えるものではないらしいが、瀕死の傷を負ったアヴィールに使ってくれたというのならありがたいことだ。
感謝こそすれ、そのような怖い顔で国王に確認をするようなことではないような気がしたのだ。
「――左様。ゆえにその方らをここに呼んだのだ。アヴィール・ミランの妻ファロゥよ、アヴィールと離縁してくれるな?」
感情の揺らぎがない国王の言葉を、ファロゥはすぐに理解することができなかった。
「え……?」
思わず漏れた声は、相手が国王であることが抜け落ちてしまった、純粋な疑問の音だった。
「陛下、今ここでそれを決めるのは、あまりにも……」
侯爵が苦しそうに言葉を絞り出すが、国王は繰り返す。
「しかしアヴィールには妻と離婚しルーチェを娶ってもらわねばならぬ。我が国は重婚を許していないのでな」
確かにドラント国は女神のように妻を一途に愛すことを至上としているため、たとえ王族であろうと公的に妾を持つことは推奨されていない。
しかしその裏で離婚や再婚は許されているのは、人の心の揺らぎを許容した女神の慈悲であると捉えられている。
「直接告げられたのは、陛下のお慈悲ですよ」
大司教は気遣いながらも国王の言葉を肯定するようなことを言った。
なにがなんだかわからないファロゥは、目眩を感じて頭を押さえた。
「り、離縁……わたしと、アヴィール様が……?」
口にした言葉があまりにも現実感に乏しくて、ファロゥの視界が回転し、端の方から帳が落ちる。
「ファロゥさん!?」
隣に座っていた義母の焦ったような声が遠ざかっていくのを聞きながら、ファロゥは意識を手放した。
次にファロゥが瞼を開けたとき、豪奢な天蓋の裏の見事な彫刻が目に入った。
どうやらやたらと豪華なふかふかのベッドに寝かされているようだと気付いたファロゥは、ゆっくり瞬きをする。
すぐに義母が気付いて声を掛けてきた。
「ファロゥさん、気が付いたのね」
「お義母様……」
義母の顔には心配の表情が張り付き、目が真っ赤に充血している。
上体を起こそうとしたファロゥを支えてくれ、労わるように背を撫でた。
「突然のことでびっくりしてしまったわよね、当然だわ」
親身になってファロゥに寄り添ってくれているものの、どこか距離を感じる。
(どうしてかしら。腫れ物に触るような……)
そう考えてさきほどまでのことを鮮明に思い出した。
「あっ、御前……陛下の御前だったのに……っ」
無礼にも引見中に気を失うなんてと立ち上がろうとすると、義母がベッドに押し留めるように肩を押す。
「大丈夫よ、陛下はもう退室されたわ」
「そもそも陛下は可否を訊ねたわけではないのだろう」
少し離れたところに座っていたミラン侯爵が口を開く。
その声音は常よりも低く、彼が怒っているのだと知れる。
「あ、すみません。陛下の御前でとんだ失態を……」
反射的に謝罪をするが、侯爵は首を振る。
「違う、ファロゥは悪くない……君は『聖女の癒し』を知らないのだろう。だから陛下の言ったことがよくわからなかった」
そうだろう、と念を押され言い返そうとしたファロゥだったが、言葉を飲み込む。
確かにあのときの義両親は様子が変だった。
ファロゥの知る『聖女の癒し』とは、聖女が持つ月聖力で病人や怪我人を癒すものだ。
そう簡単にできない秘術だということは知っている。
(もしかして……わたしが知らない秘密があるの?)
顔を上げると義父が頷いた。
「『聖女の癒し』というのは、聖女の身体を覆っている女神の恩恵すべてをもって癒す秘儀……つまり互いに一糸まとわぬ姿で深く交わり、月聖力を分け与える行為のことだ」
「えっ?」
(今なにか、とてつもなく卑猥な言葉が聞こえた気がしたのですが……?)
聞き間違いかと思ったが、義母も神妙な顔をしていることから義父が場にそぐわない冗談を口にしたわけではないとわかった。
「え、だって……それってもう……」
もうセックスじゃないですか、と言いかけたがファロゥはなんとか言葉を飲み込んだ。
義両親と話す話題としては最も適当ではないうちの一つだろう。
「――そうだ。今代の聖女ルーチェ様は未婚の王族であられる。このことが公になればこの先どんな問題が起きるか……わかるだろう」
確かに未婚に関して貞淑純潔を重んじるこの国において、人助けとはいえ結婚前に性行為があったとなればまともな婚姻は望めないに違いない。
もしそれを許容する相手がいたとしても、聖女が負わなければならない不利益は大きいだろう。
となれば原因となった相手に責任を求めることは当然の帰結。
「……だから陛下はわたしとアヴィール様を離縁させて、聖女様と結婚させる、と?」
そして、それは可否の確認ではなく――決定事項なのだ。
「こんなことは到底容認できるものではない。だが」
侯爵は葛藤をなんとか飲み込もうとしている。
ファロゥにも、その苦悩は伝わる。
金銭で解決できるのであれば、いくらでも払う覚悟を持っていた。
しかし消えゆく命と聖女の純潔、どちらも取り返しのつかない、そして不可逆性の事象を今からどうにかすることは月の女神の力をもってしても不可能。
(確かに、可否を問うような問題ではないのね……)
この問題を正しく理解したファロゥは、心が折れるのを感じ、強く唇を噛みしめた。
その瞬間『唇を噛んではいけないよ』とアヴィールに言われた気がして泣きそうになる。
邪神討伐に行く直前の閨で愛されたことを思い出す。
これからはその思い出を胸に抱いて生きていかねばならない。
「でも、わたし……もう逢えないとしても、アヴィール様が生きてくださっていた方がずっとずっといいと思います……っ、死んでしまうよりずっといい……!」
愛しているから。
愛された証があるから。
そう言うとファロゥは耐え切れず、大粒の涙をぼろぼろと零した。
「ファロゥ、すまない。この通りだ」
義父は深く頭を下げる。
息子の妻に対する深すぎる愛情を知っている彼としても、苦渋の決断なのだろう。
すぐ隣で声を殺して泣く義母の声を聞いていると自分もまた泣けてきて、ファロゥは嗚咽が漏れないように奥歯を噛みしめた。
命の危険がなくなったとはいえアヴィールはすぐに帰還できる状態ではないそうで、その隙にファロゥはミラン家から去り、修道院に行くことにした。
義両親は止めたが、もしもアヴィールが王都に帰還した時、まだファロゥがその辺をうろうろしていたら彼が罪悪感を覚えるかもしれないし、と断る。
だが本当はアヴィールに疎ましがられたくなかったのが本音だ。
それに聖女ルーチェとの仲睦まじいところを見たくない。
(だって、聖女様はとても美しくて女性らしくて……)
聖女の婿候補に挙がっていたアヴィールが、どうして自分を妻に望んだのかよくわからないままのファロゥは、アヴィールが『やっぱり聖女のほうがよかった』と思うことに耐えられそうにない。
豊かに輝く金の髪に、大きく魅力的な瞳、そして冬の冷たい北風すら春風に変えてしまうような慈悲深い微笑みは、女であるファロゥですらポ〜っとなってしまうのだ。
正常な男であるアヴィールが好きにならないわけがない。
「でも、挨拶くらい……あの子だってあなたが嫌いでこうなったわけじゃないのだし」
義母はなんとか引き留めようとするが、ファロゥは眉を下げ固辞する。
「お義母様、わたしが耐えられそうにないのです。本当にすみません」
不義理を何度も謝罪し、ファロゥは旅立った。
離縁にあたり、ファロゥはミラン侯爵家と王家からそれぞれ多額の見舞金を受け取った。
手切れ金とは言えず『見舞金』とした当たり苦しさが見て取れたが、それくらい苦々しい気持ちがあってもおあいこだろう。
馬車の振動に身を任せたファロゥは、ゆっくりと流れる景色をぼんやりと眺めた。
王都のあちこちにはアヴィールとの思い出が染みついている。
「……駄目ね、感情的になっているわ」
離縁の話が出てからというもの、ファロゥは目眩や疲労感、嘔吐に悩まされた。
精神的なものだろうと考え医者にはかからなかったが、もし今後も続くようなら診察してもらったほうがいいのかもしれない。
「これからは、一人なのだし……」
何気なく呟いた言葉に胸を締め付けられて、ファロゥはまた緩みそうになった涙腺を引き締めるように目の縁に力を籠める。
しかし、もう泣いてもいいんじゃないの? という気持ちになり、一人きりの馬車の中で子どものように声をあげて泣いた。
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