●著:逢矢沙希
●イラスト:なおやみか
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543709
●発売日:2025/8/29
没落令嬢のジョブチェンジ、初恋の騎士様と主従関係に?!
伯爵令嬢リアナは家の没落と兄の罪によってすべてを失い、路地裏で倒れていたところをかつての想い人である侯爵家の三男・ベレスに救われた。行くあての無いリアナは侯爵家でメイドとして働き始め、ベレスとの距離も徐々に縮まっていくが、叔母に『犯罪者の身内』と罵られ出て行くよう命じられる。悩むリアナだったが「ずっと好きだったんだ」というベレスの告白に熱く絆され抱きしめ合うと……。
序章
大陸の北西に存在するエクトニア王国、ノックハート侯爵家にはわけありの侍女がいる。
ホワイトブロンドの長い髪と、ブルートパーズの瞳を持つ、たいそう美しく清楚な娘は人の目を引き、その教養の高さや物腰の柔らかさでさらに人を魅了する。
初めは侯爵家のハウスメイドから。
そしてその働きが認められ、今は侯爵家の若き当主であるベレスの専属侍女だ。
「失礼いたします、旦那様。お茶をお持ちいたしました」
ワゴンに茶器とお湯を乗せて当主の執務室へとやってきた彼女は、慣れた手つきでお茶を淹れるとカップに注ぐ。
立ち上る豊潤な香りと、宝石のような瑞々しい色合いを生み出している茶と同じ、優しい茶色の髪と瞳を持つ主人のベレスは、それを見て穏やかに目元を細めると、低く笑った。
「? ……どうかなさいましたか?」
何か間違ったことをしただろうかと小首を傾げるリアナに、ベレスは笑いながら緩く首を横に振った。
「いいや、何でもない。ただ、随分慣れたなと思ってね。ここに来たばかりのころのあなたは、カップは倒すわ、お湯は零すわ、お茶の葉はばらまくわでやっと淹れたお茶はとても趣のある味わいだったなと」
とたん、リアナの白い肌が真っ赤に染まる。
「そ、その節は大変失礼を……!」
「すまない、意地が悪かったな。ただ懐かしいと思っただけなんだ。ありがとう、リアナ」
一言礼を言って淹れたばかりのお茶を口に運ぶベレスの口調は実に気安く親しみに満ちている。
彼は誰に対しても似たような態度を取る人だが、リアナに対しては特にその傾向が強い……気がする。
特別扱いなんてたいそうなものではないが、彼が自分に他の使用人に対するより少しだけ多く気遣ってくれていることは、リアナ自身が判っていた。
「さて、一息ついたところで仕事の続きをしようか。リアナ、悪いが手伝ってもらえるか?」
「もちろんです。いつも申し上げていますが、ベレス様は私にお願いをなさる必要などございません。
どうぞ命じてください、私はあなたのお役に立てることが嬉しいのです」
「俺をあまり甘やかさないでくれ。でないとあなたの厚意に乗っかって、そのうちとんでもないこと
を命じるようになるかもしれないぞ」
「ベレス様の仰る、とんでもないことがどんなことなのか、興味があります」
素直にそう思って口にすると、なぜかここでベレスがその顔をうっすらと赤くする。
「ベレス様?」
不思議に思って、控えめに彼の様子を窺おうとしたが、それよりも目の前に書類の束を突き出される方が先だった。
「この書類の確認を頼めるか? 何度計算しても数字の出所が判らない」
「はい、承知しました」
「あと、それが終わってからで良いが、領地にいる母上から、今王都で流行っているレースを見繕って送ってくれと頼まれている。俺はそういうのはよく判らないから、選んでおいてほしい。新しいドレスに使いたいそうなんだ」
「かしこまりました。レースだけでなく、手袋やリボンなど合わせやすい小物もご一緒に探した方が良いですか?」
「そうしてくれ。あなたの選んだものなら間違いなく母上も喜ぶだろう」
「光栄です」
「あと、使用人たちに配る夏の報奨品の手配も頼む。予算内なら皆が望む物を選んで良い」
「ありがとうございます。すでに皆様より希望は伺っていますので、候補を絞ってご報告いたします」
リアナの仕事は多岐に亘る。
侍女として求められる仕事から、その範囲を超えるものまで様々で、侍女と言うより秘書と言った方が正しいのかもしれない。
しかしそれらの要望に応えることができるのは、彼女が身に付けている教養とたゆまぬ努力が発揮されたからだ。
幼いころからどこに嫁いでも問題ないように、一般的な教養はもちろん、領地運営や帳簿管理、経済について学び、短い間とはいえ実際に直接領地運営に携わっていた経験もある。
メイドや侍女の仕事はこの家に来てから、徹底的な訓練を経て覚えた。
いくら素養があったとはいえ、僅か二年ほどで追い抜かされるなんて立つ瀬がないと、かつてのメイド仲間に冗談交じりに嘆かれたが、それもこれも皆が親切に指導し、判らないことや失敗を嫌な顔一つせずにフォローしてくれた結果だ。
まだまだ未熟な点は多いが、良い主人と良い仲間達に恵まれて、リアナの日々は充実している。
けれど……彼女の人生が全て順風満帆だったわけではない。
それどころか彼女ほど大きな挫折を味わった娘は少なくないだろう。
家族を、財産を。身分を、そして家を。
全てを失った。
我が身一つで世の中に放り出された彼女が今こうして己の能力を発揮し、生き生きと充実した日々を送ることができているのは、ひとえに彼女を保護してくれたベレスのおかげ。
そして何も持たない彼女を温かく受け入れてくれた、ノックハート侯爵家の人々のおかげ。
そんな今の生活に感謝しながら、それでもリアナは自分の過去を忘れることはない。
伯爵令嬢として生まれ、そして家族と過ごした日々と大切な思い出。
そして、全てを失った日と、その出来事を。
第一章 全てを失った日
リアナ・コンスタンシアは社交界ではホワイトレースと呼ばれる麗しき伯爵令嬢だった。
ホワイトレースとはオルレアという小さな白い花の異名だが、幾つも連なって咲くその姿がまるで可憐なレースのようだと好まれて、そのように呼ばれるようになったと聞いている。
リアナがその花の異名で呼ばれるようになったきっかけは、デビューの際に、
「レディ・リアナはまるでホワイトレースのように清楚で可憐なご令嬢ね」
と王妃直々に口にしたその言葉が一躍社交界中に広まったことが始まりだ。
王妃自ら『ホワイトレースのような清楚で可憐な花』と祝福されたリアナの下にはデビュー直後から多くの縁談が舞い込んだ。
それこそコンスタンシア伯爵夫妻が誇らしげに胸を張り、あちらこちらで娘自慢を繰り広げるほどには、彼女の名は有名だった。
またリアナは王妃の賛辞に相応しい容姿の持ち主でもあった。
ホワイトブロンドの髪と、白い肌にブルートパーズの瞳。
当時はまだ十五歳で若い娘らしい初々しさと愛らしさを併せ持っていた。
小柄で華奢な身体付きながら、胸元や腰は充分柔らかな女性らしいラインを描き、青年達の結婚相手として不足はない。
人々は言う。
このままあと二、三年も成長すればさぞ清楚な美女に育つだろうと。
そして、せめてあと五年早く生まれていたら、王太子妃の座だって狙えたかもしれないと、そんな噂が囁かれるくらいに。
おそらく、そのころがリアナにとって一番幸せな時期だった。
両親は健在で家も名門貴族として盤石であり、財産も充分だ。
幼いころから少しでも条件の良い縁談相手を見つけるために、どこへ嫁いでも苦労しないようにと、一般的な淑女教育だけでなく多岐に亘る英才教育を受け辛く思うことも多かったけれど、それだけ両親に期待されているのだと思えば頑張れた。
ご褒美に、季節の新鮮なフルーツを使ったデザートが週に一度食べられる。
そんな細やかな楽しみとともに、リアナの毎日は平穏に過ぎていたのだ。
幸いなことに、リアナは両親にとって扱いやすい、優秀な娘であったらしい。
真面目に学び、親の言うことを良く聞き、逆に余計なことはしない。
反面、両親が頭を抱えていたのは長子である兄、ヘンドリックの方だっただろう。
跡取り息子だけあって両親の兄に対する期待はリアナ以上に強かったが、ヘンドリックにはその期待が息苦しかったようで、たびたび小さな問題を起こしてはその尻拭いをさせられていた。
しかしそれでもいずれは落ち着くだろう。
男が若いうちに少し羽目を外すことはままあることだ、と両親が苦笑交じりに言っていたし、兄も両親に、
「自分の役目を忘れたことはない。今だけだと思って大目に見てください」
と、そんなことを言っていた。
……正直、どこへ行くのにも必ず家や親族の目が光っていたリアナからすれば不公平だと思うこともあったけれど、自分は女で兄は男。
多少のことは目を瞑ってもらえる男とは違って、ちょっとしたことですぐに醜聞になってしまう女の方が慎重に育てられるのは仕方ない。
それにお調子者でも問題児であっても、ヘンドリックはリアナに対して優しい兄だった。
ちょっとした不平不満や疑問に目を瞑れば、兄妹仲は決して悪くはなかったから、きっと両親の言うようにいずれ落ち着くのだろうと思っていたのだ。
気に掛かることと言えばこの程度で、あとは順調そのものだ。
王妃から直々に目を掛けてもらい、華々しいデビューを飾ることもできた。
将来に対する不安なんて抱いたことはなかったし、いずれ親の勧める男性と結婚して家庭を作る、それが自分の役目だと信じて疑わなかった。
そんなリアナの生活に、ほんの少しの変化が訪れたのは社交デビューして間もなくのころだった。
「教会のチャリティバザーですか?」
「ええ、そうよ。お友達のノックハート侯爵夫人に誘われたの。教会には親のいない子ども達が身を寄せる孤児院が蚤の市に合わせてバザーを開くことは知っているでしょう?」
そのバザーで売るものは子ども達が作った菓子や雑貨の他、貴族が社会貢献と慈善活動の一環で寄付したものが主となる。
今回母を誘ったノックハート侯爵夫人のエイドナはそういった慈善活動に熱心な人だと、リアナも聞いたことがある。
そのノックハート侯爵夫人と母は、リアナが社交デビューする少し前から親しくなって交流が始まったそうだ。
「慈善活動は貴族の義務として我が家も毎年教会に寄付はしていたけれど、直接バザーには参加した
ことがないって話したら是非どうかって。リアナ、あなたも参加してみない?」
孤児院への慰問はリアナも何度か出向いて、お菓子を渡したり絵本を読んであげたりしたことはある。
もちろん年に何度かバザーが開かれていることも知っていて、売り物の小物を手作りして寄付した
りはしていたけれど、実際に参加したことはなかった。
興味はあったが、蚤の市には多くの人が集まる。貴族ばかりの社交界と違って色々な人が立ち寄るため、治安が悪くなることもあると父が許してくれなかったからだ。
「ですがお父様が……」
「この時期のバザーにノックハート侯爵夫人が毎年欠かさず参加していると言ったら、駄目とは言えないわよ。それにあなたもいずれお嫁に行った先で、慈善活動を求められることもあるでしょう。良い経験になるのではない?」
「はい、そういうことでしたら喜んで」
将来がどうかは別にして、正直バザーには興味があったので、一も二もなく肯いた。
そしてそのチャリティバザーで、ノックハート侯爵家の三男、ベレスと出会ったのである。
「初めまして。ノックハート侯爵家三男、ベレスと申します。お会いできて光栄です」
そう言って挨拶をした彼は、淑女の手の甲に口付けを落とす貴族風の仕草ではなく、右の拳を左胸に押し当てる騎士の礼をした。
それは同時に彼が騎士であることを証明している。
貴族青年といえば社交界で出会う、線の細いいかにもな印象のイメージが強かったけれど、ベレスはそうではなかった。
他の貴族青年とは明らかに違う、騎士らしい鍛えられたしっかりとした体格だ。
背は高く、肌も日に焼けている。
全体的に均整の取れたスラッとした肢体の持ち主で私服に身を包んでいてもよく判る精悍な顔立ちの青年だった。
騎士というと禁欲的でストイックだったり、あるいは厳格で規則に厳しいイメージが強く、どこか近寄りがたい印象を抱いていた。
ベレス自身からもそんな雰囲気は確かに感じるのだが、その顔に浮かべている表情は柔らかく、とても剣を振り回して戦う職業の人には見えない。
母であるエイドナに連れてこられたのだと答えた彼は、リアナと目が合うと少しぎこちなくも穏やかに微笑んでくれて、騎士に偏見を抱いているリアナの母も悪い印象は抱かなかったらしい。
「上の息子さんお二人とはまた印象が違うのね。どちらかというとライエ様やハルト様はエイドナに似ていると思っていたけれど……ベレス様は侯爵様に良く似ているわ」
確かにノックハート侯爵も、目の前の青年と良く似た深い茶色の髪と、同じく優しい茶色の瞳を持っている。
もっとも雰囲気はベレスの方が柔らかく感じるけれど。
「そうでしょう? この子が一番、エスターの若いころに似ていると言われるの」
そう言ってノックハート侯爵夫人、エイドナは笑った。
エスターとはそのエイドナの夫である侯爵その人の名だ。
「まあ……では、ベレス様も将来侯爵様のように深みのある素敵な男性になられるのですね」
リアナがそう言うと、侯爵夫人とベレスは互いに顔を見合わせて照れくさそうに笑ってこう言った。
「父は尊敬する武人です。そうであると良いのですが」
現在は引退しているが、ノックハート侯爵自身も騎士として幾度となく国の危機を守った武人である。
まだ社交経験の浅いリアナは、両親とともに二度ほど挨拶をしたことがあるだけだったが、やはり貴族では珍しいくらい鍛えられた大きな身体をした人で、黙って立っていると独特の威圧感に圧倒される。
けれどいざ対面してみると言葉数こそ少ないものの静かなしゃべり口調と声で、まだ年若いリアナを怯えさせないように配慮してくれている姿から、威厳のある見かけより優しい人なのだなと思ったことをはっきりと覚えている。
ノックハート侯爵家の子息で二人の兄達とは社交界で挨拶をしているが、今回初めて会うベレスは確かに、三人の中で一番よく侯爵に似ていた。
「私たちはバザーのお手伝いをするけれど、レディ・リアナはバザーも蚤の市も初めてでしょう?
少し見て回ってみたらどうかしら。ベレス、エスコートさせていただきなさい」
「そうね、せっかくだからリアナ、お言葉に甘えてご一緒していただいたらどう?」
確かにバザーには興味があるが、エイドナと母のいきなりの提案にびっくりした。
それに突然言われてもベレスも困るのではないだろうか。
そんな思いでベレスを見れば、彼もちょうどこちらに目を向けたところだったようで、まともに視線がぶつかった。
とたんリアナの胸の鼓動が跳ね上がり、頬が熱くなる。
「あの、私は……」
妙に狼狽えてしどろもどろになってしまったリアナだったが、ベレスの方はというと実に落ち着いた仕草と声音で、年上の男性らしい余裕のある笑みを浮かべてくる。
「そうですね。レディ・リアナさえよろしければ」
強引過ぎず、さりとて遠慮しすぎず。
そんなふうに誘われては嫌とは言えず、また言う理由もない。
「では……どうぞよろしくお願いいたします……」
エスコートは貴族社会では当たり前のことで、既に何度も経験していることなのにやけに緊張してしまうのはベレスが初対面だからだろうか。
差し出された腕におずおずと手を掛けるとベレスのエスコートを受けて共に他の出店を見て回った。
リアナの速度に合わせてゆっくりと歩きながら交わしたベレスとの会話は、緊張していたリアナの気持ちをすぐに和らげてくれた。
彼の話はどれも社交界で見聞きするようなこととは違っていて、純粋に楽しい。
「ベレス様はお幾つのころから騎士を目指されたのですか?」
「うんと子どものころからですね。俺は、いえ、私は……」
公的な場で自身の呼称は男女いずれも「私」が一般的だが、もちろんプライベートでは違う人も多い。どうやらベレスも公私では使い分けているようだ。
それまで余裕のある穏やかな口調だった彼が、うっかり素が出てしまって慌てて言い直す姿がやけに微笑ましく感じたのはなぜだろう。
「ここは社交界ではありませんから、どうぞ、お話しになりやすいお言葉で大丈夫です」
リアナがそう告げると、ベレスは気恥ずかしそうに髪を掻き上げる。
その手が大きい。
リアナの知る兄や貴族の青年たちよりも筋張って節々が太くなった指は、優雅に淑女の手を取ってダンスに誘うよりも武器を握ることに慣れた手だ。
「そう言っていただけると助かります。なにぶん、職業柄レディのお相手は不慣れで……無作法なこともあるかと思いますが目を瞑っていただけるとありがたいです」
「無作法だなんて……充分洗練されたエスコートだと思います」
「他のレディ達もあなたと同じように仰ってくれれば良いのですが……ええと、そうですね。俺が騎士を目指したのは子どものころで、八歳のときには既に他家に見習いに入っていました」
「そんなに前から……」
今でこそ名誉称号として騎士の位を得る者もいるそうだが、本格的に騎士を目指すならばまだ幼いころから訓練が始まる。
「俺は三男ですので、このままいけば受け継げる爵位や財産はありません。自分の力で身を立てる必要がありますので。とは言っても、最近はもっぱら警備にかり出されることが多いのですが」
「お城での警備ですか? お城の外ですか、内側?」
「城の内と外、両方ありますし要人の護衛も多いですよ。城だと、行事や夜会などでは大体どこかの警備に配属されています。ですのでリアナ嬢の姿も、実は何度か見かけたことがあります」
「まあ、全然気付きませんでした……次にお城の催しに参加するときには探してみますね。もちろんお仕事の邪魔はしませんわ」
「光栄です」
そんな会話から始まって、二人で店を回りながら言葉を交わしているうちにすっかりと打ち解けることができた。
ベレスは男性特有の大きな声を出すこともなければ、自慢話に明け暮れることもない。
リアナの問いに答えられることは答えてくれるし、判らないことは素直に判らないと言う。
「これは何に使うのですか? 随分と鼻が長くて耳が大きい動物ですが……置物かしら?」
「鼻の先と背中に穴が空いていて、中は空洞ですね。ポット……?」
「でも背中の蓋がありませんよ?」
使い方の判らない鼻の長い動物の陶器製品を手に、二人でこれは何か、どう使うのか、なんてひっくり返しながら眺めていると、店主が笑いながら答えを教えてくれた。
「それは花瓶。鼻に一輪刺しにしてもいいし、背中に背負わせてもいい。ここからもっと南の森の辺りに住んでいる、象という動物をモチーフにしているらしい。この花瓶は小さいが、実物は普通の馬の何倍も大きいそうだよ」
「馬の何倍も? よその国ではそんなに大きな動物がいるのですね」
感心しつつも、陶器の象はリアナの両手に収まるほど小さい。
しげしげと眺める彼女に、こそっとベレスが囁くように言った。
「でも、この鼻に花を刺すんですよね? 少し間抜けじゃありませんか」
確かに鼻の先端に花を刺す一輪挿し。
想像すると間抜けと言うより純粋に可愛らしくて、瞬間小さく吹き出すように笑ってしまった。
「ベレス様ったら。間抜けだなんて、そんなことありません。背中にも花を生けたらとても可愛いと思います」
「リアナ嬢はこういうのが好きなんですか?」
「はい。動物は全部好きです、特に可愛らしいものは心が和むので」
じゃあ、とベレスが懐からコインを取り出したのはそのときだ。
「これをくれ」
そして店主にそのコインを渡す。
びっくりしたのはリアナの方だ。
「ベレス様、私はそんなつもりでは……!」
「どうぞ受け取ってください。贈り物というには不相応ですが、お近づきの印に。それにエスコートをしておいて、あなたを手ぶらで帰したと母に知られてはやかましく叱られます。母の説教は長いんですよ」
助けると思って、受け取ってください。
そう言って、ベレスはまた笑う。
母がやかましいと言うけれど、それが自分を遠慮させない建前であることはリアナにも判る。
贈り物というと、もっと洒落たアクセサリーだったり花束だったりあるいは菓子だったりをイメージするけれど、鼻の長い動物の奇妙な花瓶なんてもらったのは初めてだ。
でもどんな高価で華やかな贈り物より、リアナにはこのちょっと変わった花瓶が嬉しかった。
自分でも、不思議に思うほどに。
「では、お言葉に甘えて……ありがとうございます」
その後母に呼び戻されてしまったので、ベレスのエスコートは終わってしまったが、もう少し時間
があれば、と思ったのは初めての経験だった。
それくらい、彼とともにいる時間が心地よかったのだと気付いたのは屋敷へと帰り着き、もらった
花瓶に花を挿して窓辺に飾った後のことだ。
それから城での催し物や行事に参加する際には彼の姿を探すようになった。
担当する場所はその時々で変わるようで、いつも見つけられるわけではなかったが、上手く見つけることができると宝物を見つけたような気持ちになった。
本当は声をかけて話をしたかったけれど、任務中の彼にそんなことはできない。
それでも目が合うと、目元を緩めてはにかむように微笑んでくれる彼の反応に確かに幸せを感じていた。
他のどんな素敵な貴族子息を相手にしても感じたことのない気持ちに名前をつけてしまう勇気がなくて知らない振りをしていたけれど……きっとリアナは自分でも無自覚の内に彼に惹かれていたのだろう。
また話がしたい。
でもむやみに声を掛けることはできないし、だからといって会う約束を交わせるほどの仲じゃない。
どうすればその機会を得られるのだろう。
何とも焦れったい想いを抱きながらその機会をひたすら待ち続けるしかなかったリアナだったから、その後、突然降って湧いた縁談は彼女を大いに戸惑わせることになった。
縁談。そう、ノックハート侯爵家からの縁談だ。
しかし、その相手はベレスではない。
縁談相手はベレスの上の兄である侯爵家の長子、ライエだったのだ。
「……ライエ様と、お見合い、ですか?」
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