●著:当麻咲来
●イラスト: 蜂不二子
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543600
●発売日:2025/3/28
貴女を妻にしようと決めた。運命だと思ったんだ
雨を降らす力を持つレイニーは両親を亡くし、その能力を見込んだ侯爵家に引き取られるが、能力を失ったことで冷遇され厄介払い同然に辺境伯のジークヴァルドに嫁ぐ事となった。彼の恐ろしい噂ばかり聞かされ不安を感じるレイニーだが、いざ会ってみるとジークヴァルドは「貴女の夫になるんだ。名前で呼んでくれ」と一途に甘くレイニーの身も心も愛してくれた。幸せな生活を送るうち、再び雨を降らす事ができるようになったレイニーだったが、その話を聞きつけた侯爵が彼女を再び王都に呼び戻そうとして!?
プロローグ
風がざわめいている。強まっていく風は湿った空気を孕んでいて、もう少し経つと嵐になりそうだ。なんだか胸がざわざわとしている。ほらまた……雨の子が、生まれてくる。
(早く、外に出たい。ここは……空気が淀んでいるもの)
レイニーはカスラーダ侯爵の身内向けの報告会に呼ばれ、謁見室の一番後ろの端に立ち、すぐ横にある窓から外の景色を見ていた。外気は直接触れていなくても、レイニーにこれからの空模様を伝えて来る。
今は窓から明るい日差しが差し込んでいるが、後小一時間も経たないうちに天気は急変し、大粒の雨が降り出すだろう。
「最後に。……レイニー」
養父であるカスラーダ侯爵から突然名を呼ばれ、レイニーはハッとして慌てて視線を前に戻す。彼女の前や横にずらりと並んでいるのはカスラーダ侯爵の一門の者達だ。
その中には、レイニーも含め何人か侯爵に引き取られた養子達がいる。そして幼い頃は非凡だったのに、今は平凡に成り下がった彼女は、普段は侯爵から名前を呼ばれることもない。普段ならこの場にいなくても気づかれないほど矮小な存在なのに……。
だがそんなレイニーの紫色の目に鋭い視線を向けた侯爵は、彼女と目が合ったのを確認してから言葉を続けた。
「お前はウィルヘルムに嫁ぐことになるだろう」
「……え?」
思わず驚きの声が漏れた。周りからいくつもの視線が、一番末席にいた彼女に向かう。
「あの……私の、嫁ぎ先、ですか?」
なんとか侯爵の発した言葉の尻尾を捕まえて、そう尋ね返す。このまま一生、この屋敷で飼い殺しにされるのだと疑っていなかったのに。
(……結婚?)
「ああ、お前はウィルヘルム辺境伯当主の元に嫁ぐことになる。急ぎ準備を整えるといい」
侯爵の言葉に、驚いたように部屋にいた人々は騒めく。
(ウィルヘルム辺境伯?)
その名前は世情に疎いレイニーですら聞いたことがあった。ウィルヘルム領は、レイニーが住むフェアウエザー王国の王都から遠く離れた北の国境地域にある。厳しく険しいウィルヘルム山脈に阻まれ、王都との連絡すら困難な未開の土地だという。その上……。
「ウィルヘルム辺境伯当主が相手とは……」
「未開の蛮族やら盗賊やらとの血なまぐさい闘争を、日々繰り返しているという恐ろしい男か」
あからさまに馬鹿にしたような空気が漂うのは、カスラーダ侯爵の土地が肥沃で豊かだからこそだ。裕福な有力貴族の一門達からの、辺境の貧しい土地に対する驕りだろう。
「一応、うちの領地の端と隣接しているとはいえ、あそこは……」
「ああ、山を越えたら別世界だからな……」
好き勝手に噂話をしている人々の言葉を止めるように、目立ちたがり屋の一人の女性の拍手が響く。
「おめでとうございます。……アメフラシ、いえレイニー嬢にはふさわしい嫁ぎ先かもしれませんね」
拍手と共に一際大きな声を上げたのは、レイニーと同様、養女として侯爵に引き取られたドリスだ。普段からレイニーを馬鹿にして嫌がらせをする筆頭だ。彼女はことあるごとに、後ろで控えているレイニーを表に引っ張り出しては、笑い者にしようとするのだ。アメフラシとわざわざ呼ぶのは、雨を降らせるという醜い海の生き物に準えて、レイニーにぴったりだと彼女が付けたあだ名だ。養子達の中では、彼女のせいでレイニーの別名としてその名が浸透している。
「ふふふ。きっと、アメフラシ令嬢の名のとおり、辺境に雨を降らせることができれば、辺境の民に感謝されるでしょう」
その場を主導する彼女の言葉に同調するように、くすくすと嘲笑するような笑いが広がる。
「確かにね。雨が降らせることができれば、ね」
「たった一度も、レイニーが雨を降らせるのを、見たことないが……」
「可哀想に。雨を降らせられなければ、血に飢えた辺境伯にズタボロにされて捨てられてしまうかもしれないなあ」
室内に嘲り笑う声が広がっていく。人々の悪意が拡散すると共に、鼻を突くのはすえたような嫌な匂いだ。昔から存在しないはずの匂いに鼻の利くレイニーは、その腐りきった匂いに吐き気がこみあげる。だがあちこちから聞こえるドリスの言葉に同調するような声が上がった中、もう一人の養女がぽつりと呟いた。
「でもまあ、どんなド田舎でも、辺境伯夫人になれるのなら悪くないかもね」
そう言いながら、ため息を吐き出したのはイブリンだ。美人で社交界の花と称えられている彼女は、レイニーのような『利用価値のない養子』ではない。
(いつもはドリスが何を言っても、黙って聞き流しているくせに……)
レイニーがそう思った瞬間、ざわざわとした雰囲気を切り捨てるような冷徹な声が響いた。
「ウィルヘルムとしては、お前の『慈雨の乙女』としての能力を望んでいるかもしれないな。まあ……皆もよくわかっていると思うが、余計なことは一切外では口走らないように。レイニーは、せいぜい、辺境伯が望んだら雨を降らせられるように準備をしておくことだ。お前は教会が認定した聖女、『慈雨の乙女』なのだからな」
レイニーが今、雨を降らせられないということは、侯爵の身内のみが知っている公然の秘密だ。だがその事実は辺境伯には知らされていないのかもしれない。その事実の重さにじわりと不安を感じる。
(雨なんて、もうずっと降らせられていないと、養父様だってよく御存じなのに……)
だが侯爵の言うことに逆らうことなどできない。そして報告会は侯爵の締めの言葉で終わり、レイニーは何も言葉にできないまま、侯爵の謁見室を出ていった。
侯爵が住む王都のタウンハウスの母屋から、レイニー達養子が生活している離れの家までは、庭を抜けていく方が近い。レイニーは一人、侯爵邸の丹精された庭を歩いている。
「『慈雨の乙女』……だなんて」
レイニーが生まれたアルクス子爵家には、昔から特別な能力を持つ子供が時折誕生すると言われていて、そうした子供達はたいがい紫色の瞳を持っていた。そしてアメジスト色の瞳のレイニーも、特別な能力を授かっていた。
そんな彼女が四歳になった時、希有な能力を持つ娘として、教会からレイニーが賜った二つ名が『慈雨の乙女』であった。彼女は幼少期から神に祈れば雨雲を呼び、雨を降らせることができたのだ。
(でも今はそんな力、とっくに消えてしまったけれど……)
今も彼女の鋭い鼻は、雨の匂いを嗅ぎ取るし、いつ雨が降るかも正確にわかる。けれど幼い頃のように、雨を降らせることはずっとできていない。カスラーダ侯爵は、雨を降らせる能力を買って、両親を失った彼女を養女として引き取った。だがこの家に来てから彼女の祈りで雨は一粒たりとも降ることはなく、期待外れの結果に終わっている。
ふと彼女の心の中に、彼女が幸せだった頃の光景が広がる。
『レイニー、ありがとう』
『レイニーが雨を降らせてくれたから、領地のみんなが喜んでいるよ』
『ありがとう。レイニーお嬢様!』
降り注ぐ雨に、手を空に掲げて、くるくると踊るように回って喜びの声を上げる人々。領地は小さく貧しかったけれど、小さな『慈雨の乙女』をみんな愛してくれていた。
幼い頃のレイニーは、心からの愛を注いで育ててくれた温かい手と、優しい声にいつも囲まれていた。それを思い出すたびに、愛に包まれた幸せだった気持ちに胸が熱くなる。
(どんな貧しい土地だって構わない。こんな冷たい人間達に囲まれているより……)
彼女のことを、侯爵の身内達は「雨を降らせられない『アメフラシ』」と呼んで馬鹿にしていた。けれど雨を降らせられるという理由で、辺境伯が彼女を受け入れると言ったのなら……。
彼女が首を横に振ってため息をつく。勝手に期待されてそれができなくてうんざりした顔をされる。そんな過去は幾度も経験してきた。
だが不平を言いたくても、両親を亡くしたレイニーを引き取ったのは侯爵で、養女といえど父親は娘の嫁ぎ先を決める権利を持っているのだから、何かを言ったとしても無視されるだけだろう。
(辺境伯は、北の僻地に住む蛮族達の首をかたっぱしから落として、城壁に飾っていると聞いたわ)
蛮族と戦う彼らもまた蛮族なのだと噂されている。そんな恐ろしい人のところに嫁いで、しかも望まれた能力が使い物にならないと知られたら。
ゾワリと背筋が震えた。どうしようもない運命に翻弄されて、逃げることもできない。
(きっと……大丈夫よ。たとえ命を奪われたとしても、お父様とお母様のいるところに行くだけ。神様の下に行くまでは、やれることをやるしかないもの)
辛い時にはいつもそう自分に言い聞かせて慰めている。だが不安な気持ちのまま、ずっと下を向いて歩いていたからだろう。いつ踏まれてもおかしくない道の真ん中に、小さな青い花が咲いていることに気づいた。
健気で素朴で、けれど冬の晴れた空のような、美しい青色の花だ。地面にべたりと張り付くように咲いていて、葉っぱは白っぽくて少し肉厚だった。名もなき野花だろうが、このあたりではあまり見かけたことがない。
「こんなところで咲いていたら、誰かに踏まれちゃう……」
周辺では庭師がよく作業をしている。今までよくぞ踏み潰されていなかったと思うほどだ。なんとか花を花壇に移し替えようと考えて、何も道具がないのでスカートをたくしあげるとしゃがみ込み、仕方なく手で掘り始めた。
「これ……かなり根が深いのかな……。雨が降り出す前に、植え替えないと……」
地上に現れているのは、か弱そうな小さな花と葉なのだが、意外にも根が深く張っているらしく、ちょっと指先で周りの土を掻いたくらいでは、掘り起こせなさそうだ。レイニーは少し思案する。
(今日は一張羅のドレスを着ているからよごしたくはないな……)
侯爵邸での報告会にだけ身に着けるドレス姿の自分を見下ろしてから、ポーチからハンカチを地面に敷いて膝をつく。
「よし、これでいける」
そうして本格的に土を掘り返そうとする。
「……何をしている?」
だがその瞬間、レイニーの頭の上に日影ができた。レイニーは小さくかけられた声に、咄嗟に上を向いて声の主を確認する。
「――ひっ」
その姿を見た途端、びっくりして思わず小さく悲鳴を出してしまった。上から覗き込んでいたのは、銀髪にぼうぼうの髭。一見恐ろしげな容貌だが、目だけは緑色で優しい印象だった。
(誰だろう? 見たことがない人だ)
新しい庭師だろうか。そう考えて慌てて愛想よく見えるように笑顔を浮かべて見せた。
「こ、こんにちは」
「それをどうしようと?」
挨拶すら返さず、無愛想に尋ねてくるのはまるで熊のように大きな体躯の男性だ。だが素っ気ない言葉遣いのわりに落ち着いた話しぶりで、清涼感のある深く耳馴染みのよい声をしていた。レイニーは花を手で囲うようにしながら、上を向いて答えた。
「こんなところに咲いていたら、誰かに踏まれてしまうと思って。どこか別の場所に植え替えようと考えたのです」
彼女の言葉に、男は小さく頷いた。
「……俺が代わりにやろう。その花は根が深くて、簡単には掘り起こせない」
そう言うと彼女の代わりに彼はその場に座り込んだ。持っていた小刀を器用に使って、大きな体を縮め、意外なほど繊細な手つきで根を傷つけないように丁寧に周辺を掘り起こし、花を救い出す。最初は庭師か何かと思っていたが、改めて見ると彼が騎士らしい装束をしていることに気づく。腕まくりした前腕の筋肉の筋が綺麗に走って、男が騎士など体を使う職業であることを裏付けていた。
(もしかして、侯爵邸を訪ねてきたお客様かしら)
レイニーがそう思って見ていると、彼は青い花を根ごと大きな手のひらに載せて立ち上がり、周りを見渡す。
(お、大きい……)
改めて隣に立って並ぶと小柄なレイニーに比べ、彼は見たこともないくらい大柄の男性だった。標準的な体格のレイニーの頭は彼の胸の下あたりだ。
(やっぱりこの人、熊みたい……それなのにこんな小さな植物に優しいのね)
無骨で大柄な男性が、大切そうに手のひらに置いている花を見て、その落差にほっこりとする。
「ああ、あの木の下がいい」
彼が向かったのは葉の茂った大木だ。そして彼はゆっくりと木の根元まで歩いていき、踏まれにくそうな場所に花を植え始める。レイニーも咄嗟に彼の後を追って、彼が青い花の花びら一つ落とさず、まるで庭師のように丁寧に植えつけていくのをじっと見ていた。
「これでよし」
満足げに言うと彼は立ち上がる。だが一瞬汚れた自分の手を見て、しまった、とばかりに眉を下げた。
「あ、あの……」
これから誰かを訪ねるのなら、手が土まみれでは困るのかもしれない。咄嗟に先ほど膝に敷いていたハンカチを取り出す。少し土ぼこりはついているけれど払ったら綺麗になった。レイニーはハンカチを彼に差し出した。
「手を拭く程度には使えると思います……」
彼女がハンカチを渡すと彼は一瞬躊躇ったが、レイニーに再び目顔で促され、そっと土で汚れた指先をそのハンカチで拭った。
「ありがとう。これから交渉事があって侯爵邸に向かうところだったので助かった。後で返しに行くので、名前を教えてもらえないか?」
紳士的に尋ねられた言葉に、彼女は首を横に振る。
「そのハンカチ、もう何度も洗濯して古びているので、捨ててください」
「だが……」
彼がそう答えた瞬間、彼の顔を見上げていたレイニーの頬に、雨が当たる。
「もう雨が降ってきましたね。あっという間に大粒の雨になりますよ。濡れる前に行った方がいいです。それでは……失礼します」
レイニーは踵を返し自分の部屋を目指す。そんな彼女の背中を、ハンカチを握りしめたその男性がじっと見つめていたことなど、知るよしもなかった。
第一章 辺境への輿入れ
翌日、レイニーはいつも通り早朝から台所にいた。
「レイニー、さっさと芋の皮、剥いていって。時間がないんだから」
「はい。わかりました」
レイニーは短く答えると洗い場にある芋の山の前に行き、泥だらけの芋を洗い、一つずつ剥いていく。この後調理、配膳とあって、彼女が食事にありつけるのは多分昼前になるだろう。
侯爵の養子が集まる離れの家には、五十人ほどの人間が住んでいる。そして家の中では階級ごとに立場が分かれていた。レイニーは出身こそ貴族階級であるものの、侯爵の役に立つ存在ではない。自然と平民達と共に下働きをさせられるようになり、上位者の養子達に使役される日々だ。
「まったく、アメフラシはいつも仕事が遅いね」
芋を必死に剥いていると、後ろを通りかかった使用人の女から嫌味を言われる。
「貴族の生まれのくせに、なんの役にも立てなくて、侯爵から見捨てられた娘だからね……」
「うちら平民達の方が、よほど役に立っているくらいだよ。ほら、さっさと芋を剥き終わったら、次は今日使うグラスを磨くんだよ」
「はい」
下働きの中でも古くからいる者達の権力は強い。若く後ろ楯がないレイニーは貴族出身だというのに権力を持たないことで、余計に下働きの者達からきつく当たられ、毎日、朝日が昇る前から働かされている。そして今日も朝食の時間になると、十人ほどの『侯爵様のお役に立つ』養子達が待っているダイニングルームに給仕のために向かった。
だがその日は様子がいつもと違った。普段離れの家に来ることのない侯爵本邸の侍女長ニーナが、何故かダイニングルームを見張るように仁王立ちしていたのだ。
「今までは『侯爵様のお役に立てないのが申し訳ない』と、レイニー嬢本人の希望で下働きのようなことをされていた、と聞いています」
本来なら貴族令嬢として一緒に食事をとるはずのレイニーがいないことをごまかすために誰かがそう言ったのだろうか。ニーナは室内にいた貴族達と、同じく給仕している人間達をじろりと睨んだ。
「ですがこのたび、レイニー嬢はウィルヘルム辺境伯当主に嫁ぐことが決まりました。一ヶ月後にはウィルヘルム領へ出立される予定です。準備で忙しくなりますので、今後一切そういった用事はレイニー嬢に頼まないこと。レイニー嬢もお引き受けにならないように」
レイニーまでニーナのその冷たい視線に自然と背筋をピッと伸ばしていた。
「わかりました」
「それからレイニー嬢は朝食をすませた後、お屋敷の執務室に来るように、との侯爵様のご命令です」
続く言葉に、なんだか面倒なことになったとレイニーは思う。いつもとは違う緊張した空気の中、他の養子達は、ニーナに指摘されない程度のマナーにあった声量と内容で、意地悪く会話を始めた。
「レイニーは大変だな。慣れない辺境に嫁に行くなんて心配だよ」
「始終蛮族が襲ってくるのだろう? 捕まったら人には言えないような大変な目に遭うらしいぞ」
「そもそもウィルヘルム自体があまりにも嫁の来手がなくて、あちこちから女を攫ってきたって話だ。『強奪婚』とかいう風習が残っているんだったか?」
「ああ、相手の家に勝手に決闘を申し込んで、勝ったらそこの娘を無理矢理に娶るとか言う奴だろう? まあさすがに野蛮だと、今は廃れた風習らしいが……」
面白い冗談だと思っているのだろうか、普段はレイニーを無視していたくせに、結婚が決まった途端、ニヤニヤと笑いながらわざわざ話しかけてくる養子達に、なんとも言えない気持ちになる。
(こんなところで朝食を食べたって気持ち悪くなるだけ)
「ごちそうさまでした……」
早々に食事を終えて立ち上がる。食後は侯爵の元に行く準備をしないといけないらしい。レイニーはこっそりとため息をついた。
***
侯爵邸ではほんの数分だけ侯爵と面会した。その際にレイニーの『雨を降らせる能力』が今使えないことについて、誰にも言わないように念を押された。
(もしかして、辺境伯に私が聖女だって言って縁談を進めたのかしら……)
レイニーの父の跡を継いでアルクス子爵になった叔父は残念ながらあまり領地運営がうまい方ではない。だからカスラーダからの支援がなければレイニーの故郷の人達は、困窮することになる。父の遺した故郷の人々のことを思えば、レイニーは何も言えず、ぎゅっと口を噤むことしかできなかった。
そして出立までの間は、レイニーにとって忙しい日々となった。
仮にも侯爵家から辺境伯爵家に嫁に出すと言うことで、彼女の部屋は本邸に移され、改めて貴族女性としてのふさわしい行いができるよう、詰め込み教育が行われることになったからだ。
「……まったくレイニーは緊張感が足りないわ。ただ貴族録に書いてある家系図、暗記するだけよ?」
今レイニーに最新の社交に関する情報を教えてくれているのは、イブリンだ。彼女は他の養子達と違って、レイニーに嫌味を言ったり意地悪をしてきたりしたことはないので、彼女が教師役と聞いて少しだけホッとした。だが……。
(こんな文字だけ見せられても……一度には覚えきれないわ)
なんの下知識もない状態で見る、ただ家系図に並んでいるだけの名前は単なる記号みたいだ。文字だけを目で追い続けて、すべてを頭に入れるのは正直骨が折れる。けれどその貴族録で、一つだけレイニーにとってとても興味深い名前があった。
(ジークヴァルド・ウィルヘルム……)
それはウィルヘルム伯爵家の当主の名前で、レイニーの夫となる男性の名前だ。年は三十歳、と書いてあり、レイニーよりは十歳年上だとわかった。
誰もが『ウィルヘルム辺境伯』としか言わず、彼の名前を教えてくれなかったから、レイニーは貴族の名前と家系図が載っている貴族録で初めて夫の名前を知ったのだ。
(それと、ジークヴァルド様のお父様は既に亡くなっているけれど、お母様はご存命なのね……)
家系図を辿るとヒルデガルド、という名前が彼の上に書かれている。
(私の義理の母になられる方は、どんな方なのかしら……)
レイニーにとっての母は死に別れてしまった実母だけだ。そして教会から『慈雨の乙女』などとたいそうな名前をつけられたせいで、強欲なカスラーダ侯爵に拾われたのに、この屋敷に来てから一滴の雨すら降らせられないレイニーは、『雨を降らせることができないアメフラシ』として、名義上の家族達からは嘲りの対象だった。
特に意地悪を率先して行うドリスはレイニーの結婚が決まってからは、他の養子達を巻き込み、わざわざ彼女の前でウィルヘルムの悪い噂話ばかりをしている。そしてその内容にショックを受けるレイニーを見て楽しそうに笑うのだ。それをイブリンだけが白けた顔をして見つめている。
(正直、あの家で養子達の間にいるより、居辛いけれど侯爵本邸に移動して良かったくらい)
イブリンは侯爵直々に命じられ、淡々とした態度で「物覚えが悪い」「真剣味が足りない」と言いながらも彼女の持つ知識を教えてくれた。ダンスや礼儀作法については実家でも基本的な教育を受けていたので、実践的に使えるように再教育され、後は輿入れのために用意する衣装の採寸や準備をしている間に、あっという間に侯爵邸を発つ日が来た。
出立当日。レイニーは侍女長ニーナによって準備された荷物と共に馬車に乗った。同行者は馬車の御者と、ウィルヘルムに向かう途中にあるカスラーダに戻る予定の年老いた侍女が一人。周りで護衛をするのは、レイニーをウィルヘルムまで送り届ける命令を受けた騎士が二人だけだ。
(十年住んでいても、誰とも温かい関係なんて築けなかった……)
だが逆に考えれば、この場所に未練なんて一つもない。
「侯爵様より、妻として辺境伯爵様にしっかりお仕えするように、と」
出立直前にニーナに声をかけられてレイニーが頷くと、侍女長は会釈をしてその場を御者に譲り、御者はきちんと馬車の扉を閉めた。結局レイニーは誰からも別れの言葉すらもらえず、馬車はゆっくりと走り出した。
(こうして旅に出るのは二度目だわ。最初は病弱だったお母様を追うように、お父様まで流行り病で亡くなってこの家に引き取られた時……)
『慈雨の乙女』であるレイニーが旅立つと知って、アルクスの人達は涙を流して馬車が見えなくなるまで手を振って見送ってくれた。その光景を思い浮かべ切ない気持ちになる。
馬車が動き出してほどなく、年老いた侍女ケリーがうつらうつらと居眠りをするのを横目で見ながら、レイニーは自然と自分が幼い頃に旅立ったアルクスでの日々を思い出していた。
レイニーは今から二十年前に、アルクス子爵家に誕生した。アルクスは南部の穀倉地帯にある小さな領地だ。若き領主であった父と病弱な母は、一人娘であったレイニーを大変に可愛がっていた。
「レイニーは特別な子だからね……」
レイニーは髪の毛の色こそ平凡な茶色であったが、彼女の瞳の色は希少な紫色をしており、アルクスに時折生まれると言われている聖女の血筋を感じさせる少女だった。だから母はそんなことを言っていたのだろう。そしてその特別な能力が発現したのは、彼女が四歳になった夏のある日のことだ。
その日、レイニーが昼ごはんだと父を呼びに屋敷の当主の執務室に向かうと、父はいつも座っている執務机の前ではなく、ソファーに座り浮かない顔をしていた。
「お父さま、どうしたの? どこか痛いの?」
すると父は気弱な笑みを浮かべて、そっとレイニーの頭を撫でる。
「雨がなかなか降らなくてね……二年続きの不作の後の日照りにみんな困っているんだ。どうしたものかな、と思ってね」
父は幼い娘に言ったところでどうにかなる問題ではないとわかっていただろう。それでも彼は自身が今不安に思っていることを、ごまかさず娘に話してくれた。
「だったら、雨がふるように神さまにおねがいするよ。レイニーがおいのり、してあげる」
そう突如言い出したレイニーは父の手を引いて立ち上がり、その手を引いて駆けだした。
「一体どうしたんだ?」
「レイニーどうしたの?」
驚く父を引っ張って外に走り出すと、伏せがちだった母までガウンを羽織って廊下に出てくる。驚いた顔の両親の手を左右に握り、レイニーは楽しげに笑うと屋敷の外に飛び出した。
「みんな、お外にあつまれ〜」
レイニーの声が響き渡ると、近くの畑で仕事をしていた人や、教会の神父まで集まってきた。
「今から、レイニーが雨をふらせるね」
そう言葉にした瞬間、小さな体にぶわっと熱が集まった。乾き切った土から雨の匂いが立ち上ってくる。レイニーは体の中から溢れてくる何かを放出するように、手を大きく開いて空に向けた。
「神さまぁ! みんな雨がふらなくてこまっているんだって。おねがい、雨をふらせて」
集まった大人達は、可愛い令嬢が何を言い始めたのかと、呆然としている。
天に掲げられた、幼い子の両手がゆらゆらと風に揺れた。
「――雨の風が、くるよ!」
レイニーの声と共に、突風がぶわりと彼女を中心に巻き起こり、それは一斉に空に向かっていく。
「な、何が起こっているんだ?」
状況を確認しようと近づいて来た神父が、巻き起こる風に逆らうように帽子をぎゅっと手で押さえレイニーを見た。彼女を中心に発生した風は、あたり一帯に広がり強風となって吹き荒れる。その風の渦の中心で幼子は両足を地面につけて、成長する穀物のようにしっかりと立っていた。レイニーの母が青い目を目一杯見開いている。瞬間、彼女の綺麗な金色の髪がふわっと持ち上がった。
「レイニー、いったい……」
これはなんだ、というように父が呆然とした声を上げる。次の瞬間、太陽の光が陰り、西の空にモクモクとした黒い雲が湧き上がってくる。
「……雨、ふるよ!」
弾むようなレイニーの声が響く。次の瞬間、レイニーの声に応えるかのように、ぽつり、と何か冷たいものが、空を見上げていた人々の頬に触れた。
「……雨だ」
誰かがそう呟いた途端、それは一気に空から落ちてきた。大粒の雨粒が、乾ききった土を黒く染めていく。あたりに雨の匂いが立ちこめて、空からの恵みをごくごくと飲み干すようだ。
(あぁ、みんな嬉しそう。土も、作物も、木もみんなみんな、嬉しそう!)
レイニーの幼い心にその純粋な喜びが染みこんでくる。
「レイニー……お前が雨を呼んだのか?」
呆然としつつも父が彼女を抱き上げる。父の腕に抱かれて、雨の匂いと、喜ぶみんなから溢れてくる幸せな匂いが交わり合うのを感じて、レイニーはすごく自分を誇らしく思ったのだった。
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