●著:マチバリ
●イラスト:氷堂れん
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543686
●発売日:2025/7/30
身代わりの花嫁は愛を知らない公爵の破滅エンドを回避したい
伯爵令嬢のアイリーンは、前世読んだ小説の世界に転生していて、妹の縁談相手が実家までも破滅に巻き込む悪党公爵のクロードであることに気づく。破滅ルートを回避すべく、妹の身代わりのつもりでクロードに嫁いだアイリーンだったが、「この身が尽きるまで傍にいてほしい」と情熱的に愛を囁かれ予想もしなかった溺愛生活が始まる。しかし、クロードを悪の道へと陥れる計画は着々と進んでいて……。
プロローグ
「俺の愛しいアイリーン。どうかこの身が尽きるまで傍にいてほしい」
クロードに覆い被されたアイリーンは、その言葉に思い切り目を丸くした。
夢でも見ているのかと何度か瞬いてみるが、視界を占めるのはずっと目に毒なほど美しいクロードの顔だ。
愛を囁いているとは思えないほどに静かな表情をしているが、その瞳はわずかにとろりと蕩けている気がする。
「あ、あのクロード様?」
「クロード、と。今日から私たちは夫婦なのですから」
「ええっとぉ」
確かに今日、アイリーンとクロードは神の御前で結婚承諾書にサインをした。
すでに承諾書は貴族院に提出されているだろうから、二人は正式に夫婦といえよう。
だが、アイリーンは混乱していた。
クロードがこれほどまでの情熱を自分に向けているとは露とも思っていなかったからだ。
頭の中を疑問符でいっぱいにして動けなくなってしまったアイリーンに、クロードがゆっくりと体重をかけてくる。
気が付いた時にはたくましい身体にすっぽりと抱きしめられてしまっていた。
「アイリーン」
「んぅ」
耳朶を撫でる熱っぽい声に、思わず上擦った声がこぼれてしまう。
背中と腰に回った大きな手のひらが、薄いネグリジェの上からアイリーンの身体を撫でていく。
クロードの吐息が首筋をくすぐる。密着した身体の熱さに、溶けてしまいそうだった。
彼の腰が太腿のあたりでもどかしげに揺れていた。
布越しに感じるずっしりとした質量の硬い何かに、ごくりと喉が鳴る。
「ああ、君はどこもかしこも柔らかい」
心の底から幸せそうなその声を聞きながら、アイリーンはどうしてこうなったのだろうかと今日に至るまでの日々を思い出していた。
一章 お見合い相手は未来の悪党公爵
夕食のデザートが運ばれてきたタイミングで、はぁ、と重たい溜息を吐いたのはファニファ伯爵家の当主である父だった。
アイリーンは、手に持っていたスプーンをテーブルに置いて父の方へ顔を向けた。
「どうしたのお父様。このデザートはお嫌いだった? 大好きなリベリーのムースよ?」
初夏にしかとれないリベリーをふんだんに使ったムースは絶品で大好物だったはずなのにと、フォークを置いてアイリーンが声をかければ、父はちらりとこちらを見てもう一度溜息を吐いた。
「お前の婚約者のことだ」
ああ、と思わず声をあげそうになるがアイリーンは淑女らしい笑みを浮かべてそれをこらえる。
「お前を一番に想ってくれる相手がいればいいのだが」
どこかしょんぼりとしている父の姿に、アイリーンは苦笑いを浮かべる。
西大陸の中央に位置するグランセンス。
このファニファ家は、グランセンスの食料庫と呼ばれるほどに広大な農地を持つ家だ。王都から馬車を乗り継いで三日ほどかかる郊外に領地を持つ田舎貴族ではあるが、資産は潤沢であることから生活はとても豊かだ。
アイリーンはそのファニファ家の長女として生を受けた。
母は早くに病で亡くなり、今は父と妹のカレンの三人で暮らしている。
蜂蜜色の髪に水色の瞳をしたアイリーンは十九歳の花盛りだ。
肉が付きにくいくせに背ばかりが伸びた身体と、つんとした目元のせいで気が強そうという印象を人に与えがちだが、実際は年齢通りのどこにでもいる女の子だと自分では思っている。
嫡子のいないファニファ家はアイリーンが跡取りとなり、それを支える婿を迎えなければならない。
候補となった男性は何人もいるものの、これといった決め手がなく相手探しは難航していた。理由は単純。
このグランセンスでは女性は小柄であればあるほどかわいいという風潮があるからだ。
思わず守ってあげたくなるような小動物めいた女の子がとにかく人気なのだ。
悲しいかなアイリーンの見た目はその真逆。
裕福な家の入り婿になれると意気込んできた男性たちは皆、アイリーンを見るなりあからさまに落胆していた。
取り繕った笑みが一瞬で崩れる瞬間をこれまで何度見てきたことだろう。
細身で背が高い上、気の強そうな顔立ち。婿入りしても尻に敷かれてしまうのではないかと警戒され、その場でやんわりと断られてしまう。
「いいのよお父様。こういうことは縁だし、気長に考えましょう」
むしろ正直に断ってくれたお見合い相手たちのことをアイリーンは評価していた。
好みではないのにお金目当てで婿入りされても、いずれは拗れるだろう。
(まあ中には私に対して失礼な態度を取ってお父様たちにたたき出された人もいるけれどね)
「しかしなぁ」
アイリーンの言葉に納得していないらしい父の瞳には、労りの色が宿っている。
「お姉様はこんなに素敵な方なのに」
向かいの席に座ったカレンまでがバラ色の頬をふくらませていた。
かわいい妹のカレンは十七歳。
明るい栗色の髪に大きくこぼれそうな瞳。小柄な体型でありながら、その胸元はふんわりと膨らんでいる。まさにこの国の男性が理想とする姿だ。
つい先日迎えたデビュタントでは、何人もの男性にダンスを申し込まれていたが、恥ずかしがり屋のカレンは誰の誘いにも乗らず、従兄弟のアレクシスとだけ踊っていた。
「いいのよ気にしないで。お相手が決まらないってことは神様がまだ待ちなさいと言っている証拠なのよ」
そう言ってなだめれば父とカレンは顔を見合わせる。
「本当にお前は不思議な子だ。お前くらいの年頃の娘は、もっと焦っているぞ」
「お姉様って時々、うんと年上に見えるわ」
「あ、あはは」
二人の言葉にアイリーンは乾いた笑いをこぼす。
「落ち着いているのはいいことだが、あまり時間をかけてはカレンの結婚にも差し障りが出てくる。そのことは忘れないように」
「はい」
素直に頷けば、父は満足気に頷いてくれた。
カレンも自分の結婚についての話題が出たせいか、神妙な表情になっている。
そんな二人を見比べながら、アイリーンはひっそりと溜息をこぼしたのだった。
実は、アイリーンには前世の記憶があった。
まったく別の世界にある日本という国で愛理という女性として二十数年生きた記憶だ。
両親を事故で早くに亡くした愛理は、親戚をたらい回しにされながら育った。
どこにいっても異分子で、家族として扱われることはなかった。
最後に辿り着いたのは血が繋がっているとは言いがたいほどの遠い縁者の家で、そこには愛理と年の近い兄妹がいた。
彼らは最初は愛理に親切だったが、愛理が学校に通うようになるとその態度は一変した。少しでも愛理の成績がよかったり、教師から褒められると目の敵にされ、様々な嫌がらせをされるようになった。
最悪だったのは兄からいやらしい目を向けられるようになった時のことだ。着替えを覗かれたり、すれ違い様に身体を触られたり。我慢できずに養父に助けを訴えようとしたが、狡猾な彼は先んじて「愛理に誘惑された」と訴えたのだ。
それからの日々は地獄としかいいようがなかった。身体が無事だったのは奇跡だろう。
成人して、ようやく彼らの庇護下から抜け一人暮らしができるようになった時、はじめて心から安堵したことは転生した今でもはっきり覚えている。
まともに学べず手に職もなかったし、人と関わるのが怖くて仕事以外では滅多に外に出ることがなかった愛理の楽しみは、ネット小説を読むことだった。
ここではない別世界を舞台にした華やかな物語は愛理の心を癒やしてくれた。
もし次に生まれるならば、こんな世界がいい。
そんな、子どもが星に願うような幼稚な夢が叶ってしまうなど、愛理は想像もしていなかった。
愛理の死はあっけないものだった。
風邪を拗らせ寝込んでそのまま孤独に、という新聞に載ることもない地味な終わり。
前世を思い出したのは、ある春の日、庭で遊んでいる最中に足を滑らし思い切り転んで頭を打った瞬間だ。
アイリーンとして生きた八年の記憶もそのままだったので頭の中は大混乱。
痛いやらびっくりしたやらでわんわん泣いて、家族や使用人を困らせてしまった。
頭痛に悩まされ、なんとか記憶と現状に折り合いをつけることができたのはそれから三日ほど経ってからだった。
「まさか生まれ変わるなんて……不思議」
鏡に映る自分を見つめながら、アイリーンはしみじみと呟いた。
明るい蜂蜜色の髪と、猫のような水色の瞳。整ってはいるが、かわいいというよりも、気が強そうという印象を人に抱かせそうな顔をしている。
「どうせならもっとヒロインのような顔がよかったんだけど」
ぺたぺたと自分の顔を触りながらアイリーンは独りごちた。
「でも、本当なのね」
鏡の前から一歩さがり全身を眺めてみる。
春の若葉のような明るい色合いのドレスに身を包んだアイリーンは、まるでお人形さんのようだ。
愛理が繰り返し読んだ西洋風の世界に出てくる登場人物そのもの。
「すごい。かわいい」
嬉しくなってくるりと回れば、スカートが花のようにふわりと広がる。
どうやら記憶はあっても感情は八歳のアイリーンに引きずられているらしく、前世の死であったり生まれ変わりという現象に混乱していた頭がすぐに楽しさでいっぱいになっていった。
(せっかく生まれ変わったんだから、今度は人生を楽しく生きたいわ)
ファニファ家はたいへんなお金持ちでお屋敷はとんでもなく大きい。
使用人もたくさんいるが、この屋敷に住んでいるのはアイリーンと当主である父だけ。
父は仕事が忙しく、滅多に顔を合わせることはない。
母を亡くしているアイリーンは乳母や家庭教師によって育てられたも同然だった。
彼らはみんなアイリーンに親切だったが、家族とは呼べない線引きを感じた。
仕方がないことだが、正直寂しかった。
衣食住は十分過ぎるほど恵まれていたし、父はちゃんとアイリーンを可愛がってくれる。
でもそれでは前世から積み重なった孤独感は埋められない。
せめて弟か妹がいたら、一緒に遊べたのに。
そんな願いが叶ったのは、アイリーンが記憶を取り戻して半年ほど経ったある日のことだ。
「アイリーン。驚かないで聞いて欲しい。彼女はお前の妹だ。名前をカレンという」
めずらしく早い時間に帰ってきた父が腕に抱いていたのは、小さな女の子だった。
明るい茶色の髪にぱっちりとした目元をした彼女は、まるで拾われたばかりの子犬のように震えていた。
「妹? お父様、妹って言った?」
「ああ」
気まずそうに目線を逸らす父の仕草に、アイリーンはぴんときた。
見た限りカレンという少女はアイリーンより少し年下だ。
恐らくアイリーンの母が死んだ後に関係をもった女性との間に生まれた子どもなのだろう。
出自を疑いたいところだが、カレンは父によく似ているため親子関係があるのは間違いない気がする。
粗末な服を着ていることから貧しい暮らしをしていたのはすぐにわかった。
きっと彼女の母は身分の低い女性なのだろう。
(なるほど、異母妹というやつね。貴族にはよくある設定だわ)
前世でたくわえた物語の記憶を使って様々な想像をしていると、父はカレンを床に下ろしそっとその背中を押してアイリーンに近づけた。
「アイリーン。どうか、カレンと仲良くしてあげてくれ。お前と同じで、母を亡くした子なんだ」
母という言葉にカレンの大きな瞳がうるりと濡れた。
泣かないようにと小さな唇をきゅっと引き結ぶ姿は、胸が苦しくなるほどにいじらしくて可愛らしい。
アイリーンはたまらずカレンの小さな手をきゅっと包み込んだ。
「私はアイリーンよ。今日から私のことはお姉様とお呼びなさい!」
その言葉に、今にも泣きそうだったカレンが目を見開く。
「えっと」
「さ、早く」
「お、お姉様」
どこか舌っ足らずに呼びかけられて、アイリーンは思わず身もだえしそうになった。
「お父様、カレンの部屋は私の隣よ。いいわよね」
「あ、ああ」
状況を飲み込めていない父が頷いたのを確かめると、アイリーンはカレンと手を繋ぐ。
ずっと欲しかった妹。しかもこんなかわいい子。
生まれ変わりに引き続き、お願いを叶えてくれてありがとう神様と心の中で喝采をあげながらアイリーンはにこりと笑みを浮かべた。
「おいでカレン。お屋敷を案内してあげるわ」
その日からアイリーンの日々は一変した。
朝はカレンを起こしに行き、一緒に朝食をとり、机を並べて学び、庭を駆け回って遊んだ。
最初は遠慮がちだったカレンだったが、惜しみなく愛情を注いでくるアイリーンにすぐに懐いてくれた。
あっという間に一緒に生まれ育ったように寄り添い、共に笑うことができる仲になった。
父も娘たちの様子が気になるのか、以前よりも屋敷にいることが増え、関わる機会が多くなってきた。
この機会を逃すまいとアイリーンは積極的に父に声をかけ、三人の時間を作り出すようにした。
努力が実を結び、仕事人間だったのが嘘のように娘との時間を大切にする子煩悩な父になってくれた。
優しい父とかわいい妹という最愛の家族を手に入れて、アイリーンはとても幸せだった。
それまでの孤独が嘘のように満たされた日々は楽しく、前世の孤独のことなどすっかり吹き飛んでしまった。
この世界で生きていく決意をしたアイリーンは父の仕事を手伝いながら、行き場のない子どもたちや家族に恵まれなかった女性たちの支援をする仕組みを立ち上げた。
完全に無償の支援ではなく、農作業などの労働力となることと引き換えだが、仮の住まいを与えたり、日々の食事を賄うようにしたのだ。また、今は手持ちがなくても将来的な返済さえ約束してくれれば本格的な勉強をしたり職人の元で学んで将来に生かせるような制度も作った。
アイリーンは自らそういった人々に交ざり一緒に手を動かし、辛い目に遭って逃げてきた女性や子どもたちと直接言葉を交わし交流を深め、彼らの立ち直りを手伝った。
前世の自分と同じような目に遭う子どもや女性が一人でも減らせたらいいという、独善的な行いではあったが、やりがいもあり、とても充実した日々だった。
最初は施しが過ぎるとあまりいい顔をされなかった制度だが、今ではかなりの数の人たちがきちんと返済をしてくれている。
その制度を聞きつけ移住してくる人は多く、年々人口は増え続けている。
家族仲も良く暮らしは平穏そのもの。十分過ぎるほどに恵まれていたが、まさかこの年になって結婚という壁にぶち当たるとは思っていなかった。
(前世でも恋愛とは無縁の人生だったし、そういう宿命なのかも)
悲しくはあるが仕方がない。
貴族の結婚は契約結婚だ。愛情はなくとも誠実な夫であってくれる人が婿入りしてくれればいい。
カレンの結婚に影響が出るのはアイリーンも望んでいない。
この世界では女性は十八歳ともなれば大半が結婚なり婚約を済ませている。
遅くとも二十歳までに結婚するのが普通のことだ。
姉であるアイリーンが片付かなければ、父もカレンの結婚相手探しに本腰を入れられないだろう。
(カレンには愛し愛される相手と結婚してほしいもの)
大切な家族には幸せになって欲しい。
そう、心から願っていたのに。
(まさかこんなことになるなんて)
真新しいピンク色のドレスに身を包んだアイリーンは停まった馬車の窓から見上げるほどに大きなお屋敷を見つめ、ひっそりと溜息をこぼす。
領地から馬車で数日かけてやってきたここは、王都にある高位貴族しか住めない住宅街。
その中でもひときわ大きな屋敷がアイリーンの目的地だ。
夏らしい明るく澄み渡った青空によく映える白い壁のお屋敷は、まるで絵本に出てくるお城のように美しい。
こんな状況でなければ、訪問できたことをきっと心から喜べたことだろう。
「ようこそコリン公爵家へ」
そういって出迎えてくれたのはどこか神経質そうな顔をした執事だ。
彼は不躾にもアイリーンをじろじろと見たあと、怪
訝そうな表情を浮かべた。
「恐れ入りますが、あなたがファニファ家の……?」
「ええ。私はアイリーン・ファニファ。ファニファ伯爵家の長女です」
堂々と告げれば執事はわずかに眉をひそめた。
何か言いたげに口を動かしたのが見えたが、貴族相手にあれこれ言うことはできないと察したのか
ぐっと唇を引き結ぶ。
「かしこまりました。どうぞこちらに」
(よかった)
表情は出さなかったが、アイリーンは内心ほっとしていた。
(せっかくここまできたのに追い返されては元も子もないわ)
さすが公爵家というべき豪華な内装と、長く広い廊下の窓から見える美しい庭に感心しきりのアイリーンが通されたのは、大きな窓のある応接間だった。
明るい室内はどこか殺風景で、部屋に控えている使用人たちの表情もどこか硬い。
(案内されたときから感じていたけど、なんだか重い空気ね)
ファニファ家では使用人たちも家族同様に過ごしているからか、余計にそう感じてしまうのかもしれない。
最初の執事の態度しかり、にこりともしない使用人と静かすぎる屋敷は酷く冷たく感じた。
自分で決めたこととはいえ大丈夫だろうかと急に落ち着かない気持ちになっていると、応接室のドアがノックされる。
「はい」
返事をすると、少しの間を置いてドアが開いた。
(わ……)
中に入ってきたのは、背の高い男性だった。
短く整えられた黒髪に鍛えられているのがわかる体躯。切れ長の目は左右均等で、顔は小さいのに鼻筋は男性らしくすっと通っており、薄いが形のよい唇はきりりと引き結ばれている。
息をするのを忘れてしまうほどに美しい造形に、アイリーンは思わず見蕩れてしまう。
(信じられない。少し若いけれど、本物だわ)
心臓をどきどきと高鳴らせながら立ち上がれば、男性が低く心地よい声で話しかけてきた。
「お待たせしました。コリン家の当主、クロード・コリンです」
滑らかで聞き取りやすい口調。
上品な見た目と相まって、まるで舞台のワンシーンのようだと錯覚してしまう。
「はじめましてクロード様。この度はお会いする機会をいただき、誠にありがとうございます」
静かに頭を下げれば、クロードはわずかに片眉をあげる。
「……君が、カレン・ファニファ?」
どこか戸惑いの入り交じった問いかけに、アイリーンは苦笑いを浮かべたくなった。
「いいえ。私の名はアイリーン・ファニファです。本来の公爵様の見合相手である、妹のカレンに代わり参りました」
「アイリーン……?」
美しい眉がわずかに寄せられる。
その変化にアイリーンは少しだけ胸が痛むのを感じたが、そんな感傷に浸っている暇はないと背筋を伸ばした。
「さようでございます」
「だが、伯父上は、今日の見合いにくるのはカレン殿だと」
「最初はそういう話でしたが事情がありまして」
さてどこから話したものとかと考えながら、アイリーンは数週間前のことを思い出していた。
「お父様、今、なんとおっしゃいました?」
「カレンに縁談が来た」
夏の気配が近づいてきたある日。
仕事から帰ってきた父に呼ばれて訪れた執務室で、アイリーンとカレンは想像もしていなかった言
葉を告げられた。
それはカレンへの縁談話だ。
縁談そのものは何の問題もない。
カレンの年齢やその可愛らしさを考えれば、毎日のように釣書が届いてもおかしくないと思っている。
「その後です。お相手の名前が、何ですって?」
「コリン公爵家当主、クロード殿だ」
父の口から聞かされた名前に、アイリーンは息を呑む。
頭の中に雷鳴が鳴り響き、前世の記憶のひとつが鮮やかに蘇ってきた。
(クロード・コリン! それって『薔薇乙女の純涙』の悪役の名前じゃない!)
『薔薇乙女の純涙』それはアイリーンが前世で読んでいた小説のタイトルだ。
バラのように美しいと評判の伯爵令嬢が王子様と恋に落ちるも、ライバルの令嬢や王子の命を狙う刺客の思惑に翻弄されるラブロマンス。
物語自体は王道だったが作品の評価は高く、前世のアイリーンも大好きだった。
中でも記憶に残っているのが、悪役であるクロードの存在。
長く伸ばした黒髪に黒い服という、さながら闇の王のような出で立ちと、息を呑むほどの美しい顔。
自らの派閥を盤石なものにするために王子の命を狙う残酷さと優秀な頭脳で、主人公たちを何度も苦しめるのだ。
冷酷な悪党である彼のやり方に愛理は何度「ひどい」と叫んだかわからない。
(偶然? でも確か、クロードの妻って大農園の娘だった、わよね)
ひとつ思い出したことで芋づる式に記憶が蘇ってくる。
薔薇乙女の作中に国の名前は出てこなかったが、西大陸というワードは目にした記憶がある。そしてクロードの妻はカレンという女性で、彼女の実家は大陸一の農産地という記述もあった。
(そんな、まさか)
偶然だと思いたいが、あまりにも情報が記憶と符合しすぎている。
「どうしたんだアイリーン」
「い、いえ。お相手が公爵様というのに驚いて」
「まあそうだろうな。私も驚いているよ」
父は純粋にそう思っているのだろう。ファニファ家は裕福だが、公爵家から縁談が舞い込むほどの家柄とは言えないのだから。
「カレンはどう思う」
「ええと」
父に問いかけられたカレンは、普段は見せない暗い顔をして俯いてしまった。
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