●著:クレイン
●イラスト: ウエハラ蜂
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543525
●発売日:2024/11/29
次にお前を失ったらもう正気ではいられない
世界を救うため犠牲になった聖女の生まれ変わりであるトゥーリは、今世こそ天寿をまっとうすべく、前世でのことを隠して生活していた。
しかし、魔王の復活を察知したことで「世界を救ってもらうために」かつて仲間だった竜の侯爵・オリヴェルに会いに行く。
侍女として屋敷に潜り込むことに成功したトゥーリだったが、当のオリヴェルは愛していた聖女を見捨てた国に愛想がつきたと魔王討伐に動く様子はない。だが、トゥーリがかつて愛した聖女の生まれ変わりであると知ると拗れた愛と劣情が膨らんで気持ちが抑えられなくなり……!?
プロローグ 聖女は今
『――異世界からやってきた聖女様と神に選ばれし勇者様たちの活躍により、見事魔王は倒されました。お城へと凱旋した勇者様は、彼の無事を祈り、その帰りを待っていた王女様と結婚。やがてはこの国の王様となりました。そして役目を終えた聖女様は、皆に惜しまれつつも元の世界へとお帰りになりました。こうしてこの世界に平和が戻ったのでした』
そして小さな木の枠の中に幕が下りた瞬間、子供たちが目を輝かせて歓声をあげ、小さな手を叩いた。
その様子を、ハイハイおめでたいですね、と私は白けながら見やる。
ここはオティラという町の外れにある、修道院に併設された小さな孤児院である。
私はそこで育ち巣立った者の義務として、休日になると子供たちの世話の手伝いに来ていた。
すると篤志の方々がやってきて、子供たちのために人形劇を披露したのだ。
誰もが一度は聞いたことのある、世界を救った勇者達の冒険譚。
子供たちが大好きなこの御伽話は、実際にあった出来事が元となっている。
今からおよそ百年前。世界に突如として魔王が現れ、人々を苦しめ始めた。
数えきれぬほどの人々が魔物に襲われ命を落とし、大地には嘆きが満ちたという。
するとそんな人間たちを憐れんだのか、神によって導かれし勇者とその仲間たちが現れた。
そして異世界から召喚された聖女とともに、見事魔王を倒したのだ。
魔王を倒した勇者はお姫様と結婚して王様となり、聖女は元の世界に帰って、めでたしめでたしの大団円。
――なんとも都合の良いことだと、私は思わず舌打ちしそうになるのを必死に堪えた。
「聖女様、どうして元の世界に帰っちゃったんだろう。そのままみんなと仲良く暮らせば良かったのにね」
人形劇を観ていた一人の子供が、ポツリとそんなことを言った。
すると修道女の一人が、その子を優しい声で嗜める。
「きっと聖女様にも、元の世界に家族がいて、友達がいて、恋人がいたのよ」
「……そっか。そうだよねえ。それなら仕方ないね」
「…………」
私は思わず拳を握りしめていた。そう、帰りたかった。でも帰れなかった。
聖女は最初からそのことを、己を召喚したこの国の王に宣告されていた。
異世界からの召喚は、一方通行であると。来ることはできても、帰ることはできないのだと。
それなのに後世に伝わる御伽話では、聖女は無事元の世界に戻ったことになっている。
つまり歴史は、事実は、誰かの都合によって、捻じ曲げられたということだ。
何故そんなことが私にわかるのかといえば、答えは明確である。
――だって、私がその聖女だから。
まあ正しくは、聖女というのは私の前世のことだ。
私には、地球という別の星にある日本という国で生まれ育ち、聖女として突如この世界に召喚され、当然の如く魔王と戦わされたという、とんでもない前世がある。
そして先ほどの人形劇の通り、勇者たちとともに苦難の末、無事魔王を討伐した。
その偉業にパーティー全員が満身創痍ながらも、泣いて抱き合って互いの健闘を称えつつ喜び合って。
さあ、勝利の凱旋だと。私もやっとこれから普通の女の子として生きるんだと思っていたところで。
突然魔王城が崩壊し始めたのだ。おそらく城自体が、魔王の一部だったのだろう。
魔王が滅ぼされたことで城を構築していた魔力が失われ、当然のごとく崩れ始めたのだ。
『私が城を支えるから、みんな逃げて……!』
私は心を許し、信頼していた勇者パーティーのみんなを脱出させるため、その場に留まり結界を張って崩壊しつつある魔王城を支え続けた。
そして彼らが無事逃げたのを確認したのちに力尽き、そのまま魔王城の瓦礫に押し潰されて短い人生を終えたのだ。
つまり聖女は結局、死ぬまで元の世界に戻ることができなかったのだ。
まあ、そこまではいい。悲しくて寂しくて辛くて痛かったけれど。後悔などなかったし、大好きなみんなを助けられたと、いい死に様だったなと、満足であったくらいだ。
それなのに何故か地球ではなく召喚された世界で、前世の記憶を保持したまま生まれ変わり、物心ついた後に聞かされた勇者パーティーの顛末に、私は衝撃を受けた。
『――君を愛してる。これは真実の愛だ。この旅が終わったら、僕と結婚してくれないか?』
魔王との決戦前夜。私にそう愛を乞うていた勇者様は、なんと王都へ帰還した後、すぐにこの国の王女とスピード結婚を果たしていた。
歴史書を紐解くに、多分私の死から一ヶ月も経っていなかったと思われる。
生涯においてラブラブだったと伝えられる勇者と王女様夫婦。お子様も十人ほどおられたそうな。
そして二人の恋物語はこの国の誰もが知るラブロマンスとなった。幸せそうで何よりである。
だがそれを知った私の気持ちとしては、『はあ?』である。
いやいや勇者様。いくら何でも、立ち直りが早すぎやしないか。
一応、愛する女が自分を救うために犠牲になって、ぷちっと潰されて死んだはずなんですけど。
一生私を想って泣き暮らせとまでは言わないが、せめて一年くらいは喪に服せや、と思ってしまうのも致し方ないと思う。
だってこれではあまりにも、死んだ私が可哀想ではないか。
しかもどうやら勇者と王女は、魔王討伐に旅立つ前からの恋仲であったらしい。
身分違いの恋だったらしく、魔王討伐の恩賞として結婚が許されたのだとか。もう意味がわからない。
一方で勇者と聖女が恋仲だった、などという逸話は後世に一切残されていなかった。
旅の間、ずっと勇者が私に言い寄っていたことを、パーティー全員が知っていたはずなのに。
あれ? もしかして浮気相手だったのは、私の方?
王女様との身分違いの恋に破れ、身近なところにいた私でいいかってオチ?
今更ながら、そんな悲惨な事実に気付いてしまった。本当に私、可哀想過ぎないか?
勇者にとって王女を手に入れた以上、死んだ聖女に愛を捧げていたこと自体が黒歴史となってしまったのだろう。
だからおそらくは意図的に、その事実を消したのだ。
はたして勇者の言う『真実の愛』とはなんだったのか。薄っぺらいにもほどがある。
そしてそんな彼の言葉に浮かれていた自分も、思い出す度に恥ずかしくて痛々しくて居た堪れない。
うっかり聖女様と勇者様の、完璧なるハッピーエンドなんぞを夢見てしまった。
きっと地球にいた頃から恋愛経験皆無だったせいだ。彼の甘い言葉をいとも簡単に本気にしてしまった。
確かに勇者であるヨアキムは格好良くて、話上手で気配りも神で、一緒にいてとても楽しかったけれど。
今にして思えば、私は恋に恋をしていた気がしないでもない。まあ、負け惜しみかもしれないが。
地球には帰れないからこそ、当時の私はここにいるわかりやすい理由が欲しかったのではないだろうか。
―――たとえば、愛する人のため、とか。
私は愚かにも、己の命を賭けてその想いに殉じた。そしてそれは、報われることはなかった。
なんせ彼らは私の『死』すらも、無かったことにしてしまったのだ。
自分たちの魔王討伐の偉業を、その軌跡を、完全無欠なものとするために、私の『死』は不要だったのだろう。
そうして私は自分の世界に帰ったことになり、彼らのために命さえも擲った愚かな女は、この世界に存在すらしなくなった。
死人に口なしとは、まさにこのことである。どれほど尊厳を踏み躙られようと、名誉を汚されようと、死んでしまった私には、もうどうすることもできないのだ。
結局私のかつての人生は、己の意思とは関わりなく異世界から呼び出され、聖女として良いように使われて魔王と戦わされた挙句、うっかりその場のノリで正義感に駆られて自らその命を散らした上に、その存在すらも改竄されたという血も涙も無い話であった。
ハッピーなのはこの世界だけで、私にとってはなんの救いもへったくれもない話。
ただ彼らにとって誤算だったのは、うっかり私が聖女の記憶を持ったまま、この世界に再び生まれてしまったことだろう。
そして私は、己の死後に自分という存在がどういう扱いを受けたかという、本来なら知るはずのないことを知ってしまった。
子供の頃にその勇者たちの幸せな後日談を聞いて、私がどんな思いをしたかお分かりいただけるだろうか。
――え? もしかして私、ただの死に損だったの……? である。
私が死んだ後も、みんな幸せだったのね! 良かった! なんて、とてもではないが思えなかった。
結局全てを失ったのは、私だけだった。そして最期の献身さえも、なかったことにされた。
正直恨み言を言ってやりたい気持ちでいっぱいだが、残念なことに勇者の魔王討伐はすでに百年以上も前のことであり、当時の人たちはもうそのほとんどが墓の下だ。
すでに歴史に組み込まれてしまった過去の出来事を、今さらどうすることもできない。
さらに与えられた新しい人生は、のっけから貧乏で育てられないからと生まれてすぐに親に捨てられるというハードモードスタートであった。
赤子の頃から前世の記憶があった私は、正直『またか』と思った。
地球でも赤ん坊の頃に母親に捨てられて、結局母方の祖父母の家で育ったのだ。
不出来な娘が産み捨てていった父親もわからない孫娘を、渋々義務的に引き取った厳格な祖父母は、毎日私を見ては迷惑そうにため息を吐いた。
おかげで私は、常に人の顔色を窺いながら生きる癖がついた。
周囲の機嫌を損ねないよう、相手の望むことを察して、自ら前もって動くような。
馬鹿みたいに早い門限を守り、勉強をし、家事の手伝いも進んでやる手のかからない良い子。
くれぐれも奔放な母のようにはならないように。祖父母の迷惑にならないように。
この世界に召喚された当時、就活生だった私はなかなか就職先が見つからず、私に早く出て行ってほしい祖父母はいつも不機嫌で、どこにも居場所がない状況だった。
だから聖女だなんだとこの世界に呼び出された時、私はそれほどの衝撃を受けなかった。
友人はいても、家族はいないに等しかったから、身軽だったこともある。
だからこの世界に召喚され、『聖女様』と皆に崇め奉られた時。
己の居場所が見つかった気がして脳内麻薬が一気に分泌され、私は歓喜と幸福感に包まれた。
ああ、やはり自分は選ばれた人間であり、特別な存在だったのだと。
痛々しくもそう思い込んでしまったのだ。
そして聖女としての役割を与えられたことに、私は無駄にやる気を出してしまった。
今思えばそれは自分の存在意義を他人に求め、必要とされることに喜び、自ら搾取されにいってしまうという、私のような自己肯定感の低い人間が陥りがちな駄目な思考だった。
世界を救う聖女なのだと言われてしまえば、自分の事情の全てが瑣末なことに感じた。
そのせいで私は自分の命と引き換えに、みんなを助けるなんて道を選んでしまったのだろう。
そしてせっかく生まれ変わったというのに、またしても天涯孤独である。
つくづく私は『家族』という存在に縁がないらしい。
我が身を省みずに世界を救ったんだから、来世はお姫様とか貴族のお嬢様とか絶世の美女とかに生まれ変わらせてくれたっていいと思う。
それすら烏滸がましいというのなら、せめて太い実家が欲しかった。この世界の神は、無情である。
結局孤児院で育った私は、十四歳になったところでそこを追い出された。
この世界は社会福祉も倫理観も地球よりずっと未熟で、人の命の価値はずっと軽く、親は子供を容易く捨ててしまう。
だから孤児院は、いつも定員いっぱいなのだ。
よって一人で生きていける年齢になったら自ら出ていくのが、孤児院の決まりだった。
なんせ後ろがたくさん控えている。十四歳なんて日本じゃまだ全然子供の扱いだが、ここでは十分大人として扱われる。
一人でも多くの子供を救おうとするならば、今いる子供たちをできるだけ早く一人立ちさせなければならない。それは仕方のないことだ。
そうして孤児院を出た私は、わずかばかり神力を持っているという理由で、この町の唯一の診療所で働き始めた。
どうやら今もなお使えるこの神力は、前世聖女だった頃の名残らしい。
ちなみに実は大神官を超える膨大な神力を保持しており、欠損まで治せる再生魔法をも使えるのだが、それについてはひた隠しにしている。
理由はもちろん、もう誰からも利用されたくないからだ。
強い神力を持つ子供達は王都の大神殿に集められ、神の名の下に結婚も許されず、生涯において滅私奉公を強いられることになる。
それこそまた聖女なんてことになったら、神殿に閉じ込められて死ぬまで無給で他人の治療に当たらせられるのだろう。
この世界の人たちはそのことを名誉だと思っているようだけれど、地球での記憶を持つ私としては死んでもごめんだと思う。
だってそもそも私にも、神に対する信仰心がないのだから。
悪いが私は与えられた過酷な環境を、神によって与えられた試練だなんてありがたく思えるほど、被虐的な性質をしていない。
つまり神力の使い手ながらも、私は完全なる無宗教である。
しかし生まれ変わって現状を知るに、前世魔王討伐の旅から生きて帰ってきたとしても、私の身は神殿預かりになって、豊富な神力源としてこの世界の人々にいいように使われていたような気がする。
結局勇者は王女と結婚することになって、私は神殿に閉じ込められて、その人生を、その神力を、ただ消費され続けていたのではないだろうか。
そう思えばあの時死んだことは、絶望が少なくすんでむしろ良かったのかもしれない。
それにしても神に恨みしかないのに、神力だけはやたらと豊富って一体どういうことだろうか。
神力に信仰心は関係ないのだとしたら、大神殿で日々せっせと神に祈っている人たちがあまりにも報われない。なにやら哀れになってしまう。
まあ、神力があるおかげで薄給ながらも職につけて食うには困っていないので、それだけは神様に感謝だけれど。
とにかく今世における私の目標は、願いは、ただ一つである。
――今度こそ、天寿をまっとうしたい……!
自分自身を大切にして生きたい。できれば結婚して子供を産んで緩やかに老いて、そして老衰で死にたい。
目指せ人生百年計画……! なんてことを真剣に考えていたら、小さな手が私のワンピースの裾を引いた。
「……トゥーリお姉ちゃんは、勇者様が嫌いなの?」
私の顔を見上げてどこか寂しそうに聞いてくるのは、私と同じく親に捨てられこの孤児院で引き取られたソニアだ。
栗毛のふわふわした髪と、可愛らしい丸い顔が、天使みたいだと私は常々思っている。
勇者が嫌いと問われれば、もちろん大嫌いである。前世の恨みは一生モノだ。
どうやら私が難しい顔をしていたために、ソニアはそのことに気付いてしまったようだ。
この国の人々は、この世界を魔王から救ってくれた勇者パーティーを信奉し、敬愛している。
彼らに対し嫌悪を募らせている人間など、おそらく私だけではなかろうか。
だがどんな事情があるにせよ、子供達が楽しんでいる中でそれに水を差すように嫌悪感を表に出すなんて、成人した身なのに恥ずかしいことだ。
なんと言い訳をしようかと考えつつ、ソニアの前にしゃがみ込み、目線を合わせ微笑んだところで。
「――っ!」
ズキン、と強い頭痛と悪寒が私を襲った。それからとある方向への、酷い嫌悪も。
「――う、うそでしょ……?」
私は思わず呻いた。かつてこの世界に来た時から、魔王討伐のその瞬間まで、ずっとこの感覚に苦しめられていたから知っている。
どろりとした甘い闇の気配。――つまりは。
―――魔王が、復活した……?
勇者パーティーは、神に選ばれし者たちによって構成されていた。
パーティーメンバーは皆、今私が感じたように、魔王の気配を知ることができた。
そしてこの感覚こそが、神に選ばれし者である証拠であったのだ。
――ふざけないで……っ!!
私は思わず心の中で、この世界の神に毒吐いた。
どうやら私は、またしても神に選ばれし聖女であるらしい。
今世こそ平穏な人生を生きようと思っていたのに、また魔王と戦えと、神は私に求めているのだ。
冗談ではない。もう二度とごめんだ。なぜ私に優しくないこの世界のために、たった一つしかないこの命を擲たねばならないのか。
私はもう、誰かのために生きるのも、誰かに利用されるのも、まっぴらなのだ。
――だったらこんな世界、いっそ滅びてしまったって別に構わない……はずで。
「トゥーリお姉ちゃん、本当にどうしたの?」
ソニアがまた私のワンピースの裾を引いて、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
本当に心配してくれているのだろう。大きな榛色の目がうるうると涙を浮かべている。
私は知っていた。魔王が、魔物が、人間に対しどれほど無慈悲であるかを。
魔物達によって滅ぼされた村を、街を、あの時いくつも見たのだから。
しかも捕らえるのが容易く身が柔らかくて栄養価が高いからと、魔族はあえて幼い子供たちから狙った。
そのあまりの残虐さに、平和な日本で生まれ育った私は、何度も胃の中のものを吐き出すはめになった。
私が世界の滅びを受け入れて何もしなければ、あの光景がまた繰り返されることになる。
それは本当に、私が望むことなのか。
「トゥーリ? どうしたの? 顔色が悪いわ……」
修道女の一人が、私を心配し駆け寄ってくる。私と一緒にこの孤児院で育った同い年のイルマだ。
子供好きな彼女はこの修道院に残り、修道女となって孤児たちの世話をする道を選んだ。
もし魔王が人間たちに攻撃を始めたら、まず犠牲になるのは、間違いなくここにいる子供たちだろう。
孤児なんてきっと、最初に見捨てられてしまう。今だって街の人々は、この子たちを社会のお荷物だと思っているのだから。
「――ああ! もう! 本当に最悪だ……!」
なんで私なんだ。他の人だっていいじゃないか。私だって本当は、守られる側にいたいのに。
――ああ、でも、それでも。
私はふらりと立ち上がると、胸の中の空気を全て吐き出すような、大きく深いため息を吐いた。
「ソニア、イルマ、ごめん。私、急用ができちゃった」
「え? いきなり……? 一体どうしたの?」
まだ発生したばかりだからだろう。魔王の気配は、かつてと比べて非常に微弱だ。
つまり今なら、前回よりも簡単に討伐できるはずだ。
魔王がこれ以上に強大な存在になって、また新たな聖女を異世界から呼ぼうなんて、愚かな思考に人々がなる前に。
――私がこっそりと、魔王を倒してしまえばいい。
「私、ちょっと旅に出てくるわ」
「ええ! トゥーリ、本当にどうしたの!」
「しばらくこの町には帰らないかもしれないけど、心配しないで」
かつての私が共に旅した勇者パーティーのメンバーは、すでにそのほとんどが墓の下だ。
だがその中でたったひとりだけ、生き残りがいる。
彼が未だに生き永らえているのは、彼が人間ではないからだ。
その名をオリヴェル・シュルヤヴァーラ。
世界一の魔法使いで、そして――最後の『竜』の生き残りだ。
竜の寿命は長い。大体人間の三倍ほどの年月を彼らは生きる。だからオリヴェルはまだ生きている。
そして彼はいまや、シュルヤヴァーラ侯爵閣下である。
魔王討伐の恩賞にと、オリヴェルはこの国で最も魔王城に近く、魔物が多く生息しこれまで放置されていた土地を、侯爵の地位と共に国王に与えられた。
明らかに嫌がらせで要らぬ荒野を押し付けられたのだろうに、オリヴェルはそれを嘲笑うかのように、この百年でその地を国内有数の裕福な土地へと発展させた。
まあ、負けず嫌いで性格が悪いから、きっと嫌いな人間たちへの当てつけのために頑張ったんだろう。
そもそもオリヴェルは人間ではないから、私たちとは感覚が違う。
金も権力も、彼にとってはなんの価値もない。
だからこそいっそ清廉潔白に、そして無慈悲に領地の発展に力を尽くせたのだろう。
もはや勇者パーティーのことは大嫌いだが、私は今もオリヴェルのことだけは嫌いではなかった。
なんせ魔王との戦いの時、彼は私を庇い、深い傷を負ったのだ。
もちろんその傷は私が癒やしたものの、傷ついた精神までは癒やすことができない。
あの時彼は意識を失ったまま、戦士のペトリに背負われていた。
よってオリヴェルは、私が死んだ時のことを知らないのだ。
『すまない。ありがとう。君のことは忘れない』
そう言って皆が私をその場に置いて、躊躇いなく立ち去っていった時のことを、知らないのだ。
だからオリヴェルだけは、責める理由がなかった。
もし意識があったなら、彼だけは私を置いていかなかったのではないか、なんて妄想してしまうこともある。
まあ、今となってはもう確かめようがないことだけれど。
おそらくオリヴェルも生きている以上、私と同じように神に選ばれし者として、この魔王復活の兆しを感じているのではないだろうか。
そして魔王討伐に乗り出すはずである。その時に私もこっそり連れて行って貰えばいい。
なんせ私は今や一介の治療師に過ぎず、魔王の気配の元まで行くための旅費もなければ、戦闘能力もない。
聖女だった前世も神力による穢れの浄化、治療、防御結界の展開ができるだけで、攻撃に使える技は何も持っていなかった。
だから魔王を倒すには、どうしても私以外に攻撃担当が必要なのだ。
まあ、私たち以外にも今回新たに選ばれし勇者がいるのかもしれないけど、誰かはわからないし名乗り出てくれるかどうかもわからないから。
今私が頼れるのは必然的に、まだ生存しているかつての仲間のオリヴェルしかいない。
――なんとしても、オリヴェルに会いにいかなくちゃ。
ただの平民の分際で、侯爵閣下に会う方法は思いつかないけれど。
その手段についてはとりあえず現地に行ってから、おいおい考えるとして。
私はすぐにめちゃくちゃ怒られ引き止められつつも、住み込みで働いていた診療所を辞めた。
『お前のような孤児を雇ってやったのに! この恩知らずめ!!』
などと所長に怒鳴られた時は、身が竦んだ。
確かにここのところの外来はほとんど私一人で対応させられていたから、いなくなったら困るんだろうなとは思うが。
これまで五年近く真面目に働いてきた従業員に対して、よくぞそこまで罵れるものだなあ、と私は遠い目をした。
恫喝しても退職の意志を変えない私に、所長は最終的に賃金を倍に上げてもいいとまで言って追い縋ってきたが、もちろん断った。
この賃金では生活が苦しいと、これまでどんなに私が訴えても、その全てを黙殺してきたくせに。
しようと思えば倍にだってできたんじゃないかと、余計に呆れてしまっただけだ。
そんなに私のことが必要だったのなら、最初からもっと大切にしてくれればよかったのに。
結局人間なんてこれが本質なのだ。自分の都合の良いように、人を利用してばかり。
本当にこの世界を、人間を、救う価値があるのかと、私は一瞬疑問に思ってしまった。
これはいけないとソニアとイルマの笑顔を思い出して、なんとか自分の気持ちを立て直す。
一部を全てと思い込むのは、過ちの始まりだ。少なくとも善きものだってこの世界にはあるはずだ。
辞めるなら今すぐ出て行けと言われたので、私は早々に荷物を纏め始めた。
孤児だった私の持ち物など微々たるもので、せいぜい服の数着と細々とした日用品くらいのものだ。
それらはあっという間に大きめの鞄ひとつに綺麗に収まってしまった。
オリヴェルのいるシュルヤヴァーラ侯爵領の領都アイリスは、ここから馬車で十日ほどの場所にあるらしい。
かつて魔王城があった場所に程近い場所にあるそこは、今や王都に次ぐこの国の第二の都市となっており、隣町から直通の乗合馬車が出ているようだ。
今でこそ馬車で十日ほどで行けるが、前世の私たちがそこへ向かうためには多くの魔物や魔族、ダンジョンをなんとかしなければならなかった。とにかく魔王により、世界が滅亡寸前だったのだ。
だから少し移動しては、その場所にいる魔物たちを駆逐して民を助け、また少し移動してまたそこに蔓延っている魔物たちを駆逐して……をひたすら毎日繰り返しており、一つの場所に何日も足止めを食らうことも日常茶飯事で。
魔王城に辿り着くまでは、昨今の数十倍の時間がかかった。
だが道が整備された上に平和な今ならば、その馬車に乗れればたったの十日で、元魔王城のお膝元であるオリヴェルの元へ行くことができる。
住み込みだからと色々と理由をつけられ差っ引かれた診療所の給金は少なく、私の貯金は微々たるもので、その全てをはたいても、ぎりぎり片道の旅費しかない。
正直なところ何もかもが心許ないが、それでも私は行かなくてはいけない。
鞄を肩にかけると、私は診療所を出て、隣町へと向かって歩き出す。
生まれ変わってから初めての冒険に、私の心は僅かに高揚していた。
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