●著:逢矢沙希
●イラスト:氷堂れん
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543808
●発売日:2026/1/30
乙女ゲームの当て馬ルートを外れたら、一途すぎる旦那様と結ばれました!?
侯爵令嬢アリアは王太子への恋心から道を踏み外しそうになったが、侯爵キースクリフに止められ前世の記憶を思い出す。自分は破滅するモブでキースクリフはそんな自分の復讐の為に謀反を起こす悪役だった。
アリアは破滅を避ける為に王太子から身を引くが何故か絡まれ始める。そんな時キースクリフから契約結婚を提案される。「俺と結婚しないか」突然の提案に戸惑いつつも夫婦となり迎えた初夜は想像より熱く……!?
序章
その時の私は、自分ではない誰かに思考も身体も乗っ取られたかのように、我を忘れ、怒りの制御ができなくなっていた。
コツリ、と石畳を踏む自分の足音とごくりと息を呑む音がやけに耳に付く。
目の前に近づく寂れた酒場を見つけて足が止まるけれど、躊躇いなど強烈な憎悪と怒りの前ではほんの僅かな足止めにしかならない。
(あの女さえいなくなってしまえば、きっと殿下だって私のことを見てくれるようになるはずよ、そう、あの女さえ……)
私は自由にできるありったけの金貨を詰めた袋の存在を服の上から確認したあと、立ち止まった足を再び酒場に向けて踏み出した。
突然、肩を掴まれ後ろに引っ張られたのはそのときだった。
咄嗟に悲鳴を上げようとした私の口をまた別の手が塞いで、そのままずるずると引きずられる。
目前にあった酒場がどんどん遠くなる。
やがて見えない場所にまで連れ込まれた私が、拘束する腕をどうにか振りほどいて振り返ったとき、目に飛び込んだのは見事な赤毛と、純度の高い宝石のような青い瞳だった。
見覚えのある顔に、私がどうして、と呟くより早く、その人物の鋭い声が響く。
「こんな場所で何のつもりだ、レディ・アリア! あの酒場がどんな場所か知らずにここまで来たわけではないだろう。自分が何をしようとしているのか判っているのか!」
頭ごなしに叱りつけられて、一瞬驚いたもののすぐに私は強い苛立ちのまま、感情的に反論した。
「なっ……何のつもりか、なんてこちらが聞きたいわ。突然現れて私の邪魔をしないで!」
「邪魔をするに決まっているだろう! あなたは怒りのままに誰かを傷つけるような人ではなかったはずだ、頼むから落ち着いて、冷静になってくれ!」
強い怒りに支配されている私は、目の前の男を突き飛ばして逃れようとしたけれど、そんな私を彼が壁に縫い付けるように強引に押さえつけてくる。
「離して! 離してったら……! 私の邪魔をしないで!!」
無我夢中で抵抗する私からは、もはや淑女の嗜みなどどこかへ消えてしまった。
目の前の男が腹立たしかった。
けれどそれ以上にどれほど想いを寄せても、私ではなくあの女に甘い眼差しと言葉を与える殿下が恨めしかった。
なによりも、あの女が憎かった。
私の愛しい殿下に近づき、見え透いた媚びを売り彼の腕に縋りつき、私に勝ち誇った眼差しを向けたあの女が、心底忌々しかった。
この世の汚いことなど何も知りませんと言わんばかりに無邪気を装うあの女のすべてが。
毎日、あの女の破滅を神に祈った。
だけど私は判っている。
そんなこと、いくら願ったところで叶わない。
神様は何もしてくれない。
それならいっそ、私があの女の顔を引き裂いてその身を汚してしまえば……!!
「アリア!」
真っ黒な感情に心の中のすべてを塗りつぶされて、意識が地の底へ沈みそうになる。
その時、私の名を呼ぶ切実なほど悲痛な声に、沈みかけていた意識が浮上した。
何、とその声に反応してほんの僅か目を上げたのと、私の口が塞がれるのとは殆ど同時だった。
「んっ……んぅ……っ!?」
大きく目を見開くけれど、近すぎて焦点が合わず、殆ど何も見えない。
「んんっ、んーっ!!」
これまで以上に大きくもがこうとしても、腕だけでなく身体ごとすべて動きを封じるように抱え込まれ、さらには背を路地裏の壁に押さえつけられて敵わない。
足を振り上げようとしてもたっぷりとしたドレスの生地が纏わり付き、なおかつその生地を壁に膝で縫い付けるようにされては、もはや大きな身動きは不可能だった。
できることと言えば懸命に唇を引き結んで頭を振ることだけれど、どんなに首を左右に振ろうとしてもやはり満足に動けず、僅かに逃れてもすぐに追ってきて、飽きることなく口が塞がれ続ける。
知らないうちに呼吸を止めていたようで、どんどん息が苦しくなって、頭がぼうっとしてきた。
(……何……? これはなに……? どういう、状況なの……?)
驚きのせいか、困惑のせいか、あるいは酸欠のせいか。
先程まで私の胸の内を占めていたどす黒い感情はいつの間にか鳴りを潜め、次第にもがく身体の力が抜けてくる。
(私は、いったい、何を……)
そう考えたときだった。
すうっと一筋の光が差し込んできたかのように私の頭の中にとある記憶が蘇り、それは一気に広がっていく。
ぼやけ、霞んでいた思考が晴れていく中、呆然とした私の思考を占めるのは遠い昔の思い出だ。
ここではない場所、ここではない時、そして私であって私ではない、だけどやっぱり私でしかない女性の人生。
そしてその女性が夢中になっていた架空の世界の恋物語。
だけど今、その架空の世界であったはずの物語の中に私がいる。
(ああ、これは……前世の私の記憶だわ……)
そう自覚したとき、もう完全に私の身体からは力が抜けていた。
それが伝わったのだろうか。私を押さえ込んでいた拘束も解かれて、男性がそうっと様子を窺ってくる。
すると突然、背後で、ガンッと何かを蹴る音が響いた。
いきなり響いた乱暴な音にびくっと肩を揺らし、反射的に目の前の赤毛の男性に縋ってしまう。
その反応で私が怯えていると思ったのだろうか。
先程よりも優しく、どこか遠慮がちに抱き寄せられた。
「大丈夫だ、このままじっとしていろ」
低く囁く声が耳朶に触れ……とたん、自分の顔が頬から耳にかけて一気に熱を持った。
急にバクバクと脈打つ激しい鼓動が気になる。
この音は私の鼓動?
それとも胸に耳を寄せるように縋っている、相手の鼓動?
「なんだよ、こんなところでいちゃつきやがって! まったく昼日中から気楽で良いご身分だなあ!」
揶揄とも怒声とも言える粗野な声に、また私の肩がびくっと震えてしまう。
するとまた宥めるように軽く背を叩かれて……なんだか小さな子どもになってしまったみたいだ。
どうして私は今、こんなことになっているのだろう。
混乱はしたままだが、でも少しずつ落ち着きを取り戻すと、周囲の様子が目に入るようになってきた。
そうだ、ここは一見華やかな王都の中でも日の当たらない、特に治安が悪いとされる貧困街に近い路地裏だ。
ここではお金さえ積めば非合法な薬や商品を手に入れることができるし、さらには暗殺依頼や暴行の依頼をすることもできるという……。
ゾッと頭から血の気が引いた。
こんな恐ろしい場所で、私は一体何をしようとしていたの?
目に見えてガタガタと震え出した私の様子に異変を覚えたのか、その人は抱擁を解き、青ざめた私の顔を改めて覗き込んできた。
自然と俯いてしまった顔を上げればきっと、そこには宝石のような青い瞳があるのだろう。
でも今の私は、その顔を見上げることはできなかった。
「……アリア嬢?」
つい先程は噛みつかんばかりの勢いで食ってかかり、暴れていたくせに、今は嘘のように身を小さく竦めて震えている私に、心配そうな声がかかる。
けれど今私たちがいる場所ではゆっくり話ができる状況ではないと判断したのだろう。
「大通りに戻るぞ。いいな?」
問われて、私はかろうじて小さく肯いた。
後は彼に肩を抱かれたまま、支えられるようにフラフラと歩き出した。
再び彼が口を開いたのは、裏路地から多くの人々が行き来する大通りへ無事に辿り着いたときだ。
「大丈夫か? ……悪かった、切羽詰まっていたとはいえあんな……」
「……いいえ、グランノヴァ侯爵様は何も悪くありません」
その言葉に、私は彼、キースクリフ・グランノヴァ侯爵の顔を見上げて、かすかに首を振る。
「むしろ……申し訳ございません。止めてくださって……ありがとうございます……」
噛みしめるように口にした。
「アリア嬢?」
「……色々と、ご説明しなくてはならないことがあると承知しておりますが……少し混乱しておりまして、今日のところは失礼してよろしいでしょうか。……もちろん、まっすぐ屋敷へ帰るとお約束しますから」
俯いたまま目を合わせることなく、弱々しい声で呟く私の様子から何かを感じたのだろう。
きっと聞きたいことは山ほどあるだろうに、彼は数秒沈黙した後で、こう言った。
「判った。では、オルベール侯爵邸まで送ろう」
「いいえ、大丈夫です。その通りの広場に、御者を待たせています」
「ならそこまで送る。いいな?」
どちらかというと他人に興味を示さず、いつも淡々としている印象が強い彼にしては珍しく食い下がってきた。不思議に思いつつも、けれど私はその申し出を断ることはしなかった。
口調こそぶっきらぼうでも、彼が真実、私を心配してくれている気持ちは判ったし、さっきから私の両足は細かく震えていて、このままだと数歩歩いただけで派手に転んでしまいそうだったので、恥を忍んで肯いた。
「……ありがとうございます」
彼の手を借り、なんとかゆっくりと馬車の許まで戻った私は、深々と彼に頭を下げた。
そして車内へ乗り込むと、ぐったりと身を預けるように座席に座り込んでしまう。
動き出した馬車の窓から外を見やれば、赤い髪に青い瞳が印象的な若き侯爵がこちらを見送っていた。
その姿は馬車が遠ざかっても、私から見えなくなるまでずっと同じ場所にあり続けた。
第一章 やられ役のモブ令嬢、前世の記憶を取り戻す
「ヘレナ。ごめんなさい、別のお茶を淹れてくれる?」
せっかく淹れたお茶を出すなり、別のものに淹れ直せと要求され、私の側付の侍女であるヘレナは一瞬戸惑った顔をした。
けれどすぐに、
「承知いたしました」
短く答えて、今度はまったく違う種類のお茶を淹れてくれる。その手際は素晴らしくよい。
「手間を掛けさせて悪いわね」
「いいえ。それより、先程のお茶はお好みに合わなくなりましたか?」
このところ、お茶と言えば先程出されたものばかり飲んでいた。
だからヘレナも疑問を抱かずに用意してくれていたのだけれど……なんだか急に口に合わなくなってしまった気がする。
良い香りだと思っていた匂いも甘すぎるし、甘酸っぱい味わいもやたらくどく感じてしまう。
昨日は気のせいかと思ったけれど今日もう一度口にしてみると、やっぱり美味しくない。
「そうね……好みが変わったみたい」
これも前世の記憶を思い出した影響だろうかと首を傾げる。
「アリアお嬢様。お手紙が届いております」
そこへ執事が一通の手紙を持ってきて、お茶の話題は終わる。
「ありがとう」
その手紙の差出人は予想が付く。
きっと昨日、私から送ったものの返信だ。
受け取って裏を返すと、やはり想像したとおりの人からのものだった。
シンプルだが上等な真っ白の封筒に押された封蝋。その特徴的な鷲の印章はグランノヴァ侯爵家の家紋だ。
家の紋章をそっくりそのまま使用できるのは当主であるキースクリフ・グランノヴァ侯爵のみ。
つまり一昨日裏路地で私の凶行を事前に食い止めてくれた恩人であり、私の初めてのキスを奪った相手だ。
その若き侯爵は燃えるような赤い髪と、上質なサファイアのように深く鮮やかな青い瞳を持つ冷ややかな美貌の持ち主で、細面で切れ長の目は睨まれると鋭利なナイフを突きつけられているような迫力がある。
我がオルベール家と同格の古くから国を支える侯爵家であり、当主自らが腕の立つ騎士で、また王の秘書長官でもあるという文武両道の素晴らしい肩書きを持ちながら、しかし人付き合いを好まない、孤高の侯爵様だ。
とまあ説明が長いけれど、別に私がそう表現したわけじゃない。
ゲームのプロフィール欄に、大体こんなことが書いてあったのよ。
そう、ゲーム。
前世で私が夢中になってハマっていた乙女ゲームの登場キャラ。
その乙女ゲームの登場キャラがどうして現実の人間のように存在しているのかというと、答えは一つしかない。
つまり、私もその登場人物の一人に転生してしまったということだ。
いや、もうこういうのはラノベや漫画で山のように読みあさっていたので、記憶が蘇った私にはお馴染みの展開とも言えるのだけれど、でもだからってすんなり納得するかというとそうじゃない。
幼いころからその記憶に馴染んでいたのならまだしも、十八年普通に侯爵令嬢として生きてきたのよ。
ある日いきなり「ここは前世で遊んだ乙女ゲームの中!」と思い出したところで、冗談でしょうとしか思えない。
しかも自分がその乙女ゲームに登場する、ほとんどのイベントの途中で破滅するやられ役のモブ令嬢となればなおさらだわ。
いくら前世でその手のものが大好物だったとはいえ、ゲームは娯楽の一つとして割り切って楽しんでいた。
夢と現実の区別がつかない子どもだったわけじゃない。
前世の私は社会に出て、自分の力で生活する大人だったのだもの。
ゲームの中に転生なんてそんな非現実的なことが起こるはずがないことくらい、ちゃんと承知していたわ。
記憶が蘇ったから判る。
あれから屋敷に帰った後、改めて自分の部屋の姿見で確認した姿は、紛れもなくゲームに出てくるアリア・オルベールその人だった。
豊かな金髪とオレンジ色の瞳にメリハリのある女性らしい身体。
縦ロールではないけれど、膝の辺りまである長い髪を緩やかに波打たせた華やかな美人さん。
少しつり目気味の目元が意地悪な雰囲気を醸し出していて、ゲームで登場するときはいつも気持ち胸を反らし気味な立ち絵だったっけ。
自分でちょこざいな罠を仕掛けた挙げ句に失敗し、言い逃れをしようにも証拠がありすぎてゲーム中盤で修道院行きという報復を受ける、ダメダメすぎて一周回って愛すべきやられキャラ。
せめて転生するなら最後まで活躍する悪役令嬢じゃない?
とまあ、それは置いておいて。
死因は思い出せないがどうやら前世での私は何らかの理由で亡くなってしまったみたいだ。
長患いをした記憶はないから、きっと偶発的な事故か何かで命を落としたんじゃないかなとは思う。
まあ前世では両親はすでに他界していたし、身内らしい身内もなく、独身で、お付き合いしていた恋人もいなかったから、いまさら未練はない。
唯一心残りと言えば同じ趣味で親しくしていた友人たちに何の挨拶もできなかったことだけれど……きっと彼女たちも時間が経てば私のことなんて忘れるでしょう。
そう思えば前の私の人生は少しばかり寂しいものだったのかもしれないけれど、もう終わったことよ。
「それよりも大事なのは今のことよね……」
曖昧な記憶だが、ゲームに関することは好きだったので比較的良く覚えている。
正式なゲームタイトルは思い出せないのだけれど、五人ほどの攻略対象となる男性と、主人公であるヒロインが、ライバルとのトラブルや事件を解決し、やがては選んだ攻略対象の一人と結ばれる、という定番のお話。
ゲームでの私は主にメインヒーローである王太子、アークロイド殿下に恋をして、幼いころから努力に努力を重ねて王太子妃に相応しい教養を身に付けてきた侯爵令嬢だ。
しかしはっきり言ってゲームの中での私は大分鬱陶しい存在だった。
何しろ王太子殿下の行く先々に現れてはしつこくアピールし、舞踏会では外堀を埋めて殿下がダンスをしなければならない状況に追い込んだり、殿下に近づく他の令嬢たちを威嚇したり、滲み出る小物感が半端なかったから。
せっかく努力を重ねて王太子妃に相応しい教養を重ねてきたのならそれを大事にすれば良いのに、自ら価値を下げるなんて、もったいないの一言に尽きる。
対する主人公はデフォルト名がモニカ・レンドバーグ。
男爵家の庶子で、母親とともに市井で暮らしていた彼女が母の死とともに男爵である父に引き取られ、貴族令嬢としての新たな人生を送るという設定。
モニカは、もちろんヒロインらしく髪の色はピンクで、瞳の色も同じピンク色の綿菓子みたいに可愛い女の子だ。
小柄な身体で(でも胸のボリュームだけは立派)くるくると動き回り、コロコロと表情がよく変わる、明朗快活な性格。
貴族令嬢としては決して褒められない言動も多いけれど、それがすました令嬢たちばかりを目にしてきた攻略対象たちからは「おもしれぇ女」認定されて恋が芽生え、愛を育んでいくという、大変判りやすいストーリー展開だ。
そして、そんな乙女ゲームに出てくるキャラではあるが『キースクリフ』は攻略対象ではない。
むしろその逆で、ラスボス、いわゆる悪役として登場することになる。
では彼は悪人なのか?
いいえ、違う。
彼は最初から悪人だったのではなく、とある出来事をきっかけにして闇堕ちするのだ。
そしてその闇堕ちに大きく関わっているのが、私。
なぜか?
「…………」
そこまで考えて、すでに何度目か判らない羞恥に襲われ、言葉にできない衝動を逃そうと、傍らにあったクッションを強く抱き締めた。
「だめ……もう、本気で無理、死んじゃう……!」
そのままソファに横倒しになった、そのとき。
「……あの、お嬢様? 大丈夫でしょうか?」
恐る恐るといった様子で掛けられた声にハッとした。
しまった、今は一人でいるわけではなく、まだそこにヘレナがいたのだった。
見ればとても焦り、青ざめた顔をしている。
「えっ、あ……だ、大丈夫よ」
気まずさを覚えながら、日本人特有の曖昧な笑みで誤魔化そうとしたけれど、ヘレナの動揺はそれでは収まらなかった。
「どうしましょう……死んでしまいそうなほど具合が悪くていらっしゃるなんて! い、今すぐお医者様を呼んで参ります、どうかお気を確かに……! ああ、すぐに奥様や旦那様にもお知らせしないと……!」
「待って待って待って待って!!」
私が「死んじゃう」と余計なことを口走ったがために、それを真に受けたみたいだ。
それでなくとも先日は外出から帰ってくるなり部屋に閉じこもって、思い詰めた顔をしていたものだからなおさら、最悪のことを考えてしまったらしい。
おかげでオロオロと狼狽えながらも慌てて部屋を出て行くヘレナを、急いで止めなくてはならなかった。
「違うの、ヘレナ、たとえ、そう、もののたとえだから!」
「で、ですが、お嬢様、死んじゃうって……!」
「本当に死んじゃうわけじゃないの、ただそれくらい恥ずかしいことが……い、いいえ、そうじゃなくて! 軽はずみに不謹慎なことを言ってごめんなさい、だからお医者様もお父様やお母様も呼ばなくていいから!」
……私がキースクリフからの手紙に目を通すには、それから十分ほどの時間が必要だった。
どうにかヘレナを宥め、誤解を解き、封筒を見れば、羞恥に悶えながら握り締めてしまったみたいで上等な封筒や便せんにすっかり皺がついてしまっていた。
何とも気まずい気分でその皺を指で伸ばしてから、封蝋を割って開いた手紙には予想したとおり、私からの訪問を許す内容だった。
その翌日、私はヘレナを伴ってグランノヴァ侯爵邸へと向かうことになった。
キースクリフは自ら足を運んでも良いと手紙に書いてくれていたけれど、私が彼の許へ向かうのは謝罪のためだ。
詫びる相手に足労を願うわけにもいかない。
誠意を見せるためにもこちらから手土産の一つも持参して頭を下げ、そしてお礼もしないと。
謝罪も礼もあの場で告げたのだから充分だろうって?
確かにちょっとしたことならあれで充分で、後でお礼状を出せばいい。
でもあのときのことは、ちょっとしたことでは済まない。
まさしく私はキースクリフにこれからの人生を救われたことになるのだ。
「アリア・オルベール侯爵令嬢でいらっしゃいますね。グランノヴァ侯爵家へようこそお越しくださいました。旦那様の許へご案内させていただきます」
グランノヴァ侯爵邸では、すでに私の来訪予定が使用人に知らされていたのか、すぐに正門が開かれ、さらに向かった屋敷の正面玄関前では執事と複数のメイドたちが私の到着を出迎えてくれた。
一糸乱れぬ統率した動きから、使用人教育のレベルの高さがわかる。
初めて侯爵邸に来たけれど、さすがと言うべきだろうか。
どこもかしこも丁寧に手を入れられた屋敷に、調度品も派手ではないけれど質の良さや格式の高さを察することができる。
置いてある花瓶一つとっても、博物館に保管されていてもおかしくないレベルの物が幾つもあって、さすがはグランノヴァ侯爵家、と感心してしまうくらいだ。
まあ日本人の前世を思い出した今は単純に感心しているだけでなく、それほど高価な物があちこちにある屋敷を掃除するメイドたちに少し同情してしまう気持ちもあるけれど。
私だったら絶対に近づきたくない。
あの花瓶にも、あっちの花瓶にも、むこうの花瓶にも。
「旦那様。オルベール侯爵令嬢がお越しになりました」
「通せ」
案内されたのは応接室だろうか。
大きく重厚な両開きの扉の先では、これまた落ち着きのある深い飴色の革張りのソファにキースクリフが座っていて、私が足を踏み入れるのと同時に立ち上がるとこちらへ歩み寄ってくる。
その彼に恭しい仕草でカーテシーを向けた。
「ごきげんよう、グランノヴァ侯爵様。本日は訪問をお許しいただき誠にありがとうございます」
するとキースクリフも軽く会釈し、私が軽く差し出した手を取るとその指先に実に優雅な仕草で唇を寄せる。
「ようこそ。レディ・アリア」
……これまで当たり前のように受けてきた淑女への挨拶なのに、妙に気恥ずかしく感じるのは、やっぱりシャイな日本人の記憶が混じっているせいかしら。
それともキースクリフ相手だから、ちょっと緊張してしまうのかしら。
彼は手を取ったまま私をソファへ案内し、自分はその向かいの席へと移動する。
ほんの少しの距離だけれど、レディをエスコートする紳士として非常に洗練された仕草だ。
これまで彼とは何度も顔を合わせてきたけれど、当然ながら一対一でこんな交流を持ったことはない。
というよりもこれまで私は彼がほんの少しだけ苦手だった。
昔、もっと幼いときに出会ったころはそれほどでもなく、むしろ好意的に感じていたはずなのに、大人になるにつれてなんとなくとっつきにくいというか、雰囲気が冷たいというか……そんな印象が強くなって、自然と距離を取るようになってしまった。
王太子のアークロイド殿下がとても朗らかな方だから、余計に近くにいるキースクリフの冷ややかさが目立って感じたのかもしれない。
それにここ数ヶ月は特に顔を合わせるたび皮肉めいた苦言を呈されることが多くて、なんでそんなことをこの人に言われなければならないのと、反発心を抱く方が多かったと思う。
だけど今なら判る。
この数ヶ月、私はどうかしていた。
これまでに身に付けてきた教養やマナーなんて全部忘れたみたいに振る舞って、感情的になって……危うくゲームと同じように断罪される寸前だったのだ。
「好みのお茶はあるか? あいにくとこの屋敷に女性が訪問することは滅多になく、好みや最近の流行がよく判らない。いくつか用意したから、好みを伝えてくれ」
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