●著:まつりか
●イラスト: 針野シロ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN: 978-4815543594
●発売日:2025/2/28
孤独から救ってくれたあの日から、ずっと想い続けてた。
子爵令嬢クレアは、自分が小説の世界に転生し、弟と紹介
された美形の少年アベルが実は王妃から逃げていたこの国
の第二王子であり、物語のラスボスになる存在だと気づく。
彼が内戦を起こす未来を回避する為、彼の孤独を癒やし捕
まらないよう隣国へ留学を進めた、その七年後。「他の誰
にも渡したくない」成長して帰ってきた彼の深い執着と愛
は何故かクレアに注がれ、告白と同時に押し倒されて―!?
第一章
「失礼」
ふと後ろから掛けられた声に振り返る。
自邸(やしき)の渡り廊下に立っていたのは、見知らぬ男性だった。
「どちらさまですか?」
私の質問に、父と同い年くらいに見える男性はにこりと微笑(ほほえ)む。
平日の昼下がり、ちょうど使用人達が慌ただしく働いている時間ということもあり、周囲に人気はない。
――誰かの訪問があるとは聞いていなかったわ。
突然の訪問者を訝(いぶか)しんでいれば、相手は薄っすらと口端を吊(つ)り上(あ)げた。
「お嬢さんは、マディス子爵家のクレア嬢かな?」
自分の名前を呼ばれて、思わず目を見開く。
私の名前を知っているということは、父の知り合いだろうか。
ふと相手の身なりを確認すれば、その袖口には王城勤めの証(あかし)であるカフスボタンが光っていた。
「もしかして、父をお探しですか?」
「ああ、そうなんだ。少し迷ってしまってね。庭園を一回りしてきたよ」
「父は書斎にいると思います。この渡り廊下を渡って、右に曲がった突き当たりの部屋です」
「ありがとう。親切なお嬢さん」
お礼を口にした男性は、私の横をすり抜けて行くのかと思ったが、不意に足を止めた。
こちらを振り返る気配に顔を上げれば、男性はじっとこちらを見つめている。
「お嬢さん、もう一つだけお尋ねしたいことがあるんだが」
その声を耳にした瞬間、ふと妙な違和感を抱いた。
相手の声が二重に聞こえ、こちらを見下ろす相手の姿がぐにゃりと歪(ゆが)むような感覚に目を瞬く。
驚きに硬直していれば、男性の口元がゆっくりと動いた。
「最近、この邸(やしき)に変わったことはなかったかい?」
その質問に、なぜかうっすらと肌が粟立(あわだ)った。
理解のできない自分の反応に動揺しながらも、相手に悟られてはいけないような気がして、笑顔を張り付ける。
「……変わったことですか?」
聞き返した私を見て、相手はまるで何かを探るようにその目を細めた。
「そう。例えば、お嬢さんくらいの年頃の少年が、ここを訪ねて来たりしなかったかな?」
その質問に、どくんと心臓が跳ねる。
「金色の髪に、青い大きな目をした男の子なんだが」
その特徴を耳にした瞬間、ふと見慣れない景色が脳裏に浮かんだ。
荒廃した街並みに、瓦礫(がれき)に囲まれた建物。
武装した集団の中心には、薄汚れた襤褸(ぼろ)布で身を包んだ青年が立っている。
青年が纏(まと)う襤褸布の下からは、癖の強い金色の髪と切れ長の青の瞳が覗(のぞ)いていた。
会ったこともない人物、身に覚えもない記憶なのに、なぜか私は確かに『彼』を知っていた。
――そんな、まさか。
信じられない状況に頭の中は混乱しながらも、今ここで彼の存在を口にしてはいけないことだけは理解できる。
緊張に喉がカラカラになりながらも、渇いた口からなんとか声を絞り出した。
「……知りません」
私の答えに男性は小さく頷(うなず)くと、張り付けたような笑顔をこちらに向ける。
「変なことを聞いて、すまなかったね」
そう口にすると、男性は何事もなかったかのように廊下の向こうへと姿を消した。
その足音が聞こえなくなった瞬間、私は居ても立ってもいられなくなり一目散に走り出す。
廊下を抜けて慌ただしく階段を登り、派手な音を立てて自室の扉を開くと、ちゃんと鍵がかかっていることを確認して、どさりとソファに倒れ込んだ。
全身で息をしながら天井を見上げ、ばくばくと鳴(な)り止(や)まない胸元を押さえつけて、ぽつりと独り言を漏らす。
「嘘(うそ)でしょ?」
自分でも理解しがたい状況に両手で顔を覆いつつも、こんがらがった思考を整理しはじめた。
先程、突然蘇(よみがえ)った記憶。
それは私が、この世界に生まれる前――前世を生きた記憶だった。
前世の私は、ここではない世界を生きた一般的な社会人女性だった。
寝食を忘れて没頭するほど読書が好きだった私は、休日のたびに好きな本を買(か)い漁(あさ)っては読(よ)み耽(ふけ)っていたことを覚えている。
ある日、とあるファンタジー小説の続きが気になって読み続けてしまい、窓の外から差し込んできた朝日に目を細めたのが最後の記憶だ。
きっと私の前世は、そのとき最期を迎えたのだと思う。
蘇った記憶の言葉を使っていいなら、私はこの世界に『転生』したのだろう。
ディアロス王国の下級貴族であるマディス子爵家に生まれた私――クレア・マディスは先月十二歳の誕生日を迎えたばかりだ。
ごくごく平凡な貴族令嬢として育てられてきたが、前世の記憶が蘇った瞬間、これまで身を置いていた環境が、急にファンタジー小説のように感じてしまう。
貴族にドレスに舞踏会にと一昔前の西洋風な世界観ながらも、入浴の習慣や豊かな食文化が根付いているこの世界には強い既視感があった。
――ここって『ディアロスの英雄』の舞台よね?
『ディアロスの英雄』とは、前世の私が死ぬ間際に読んでいたファンタジー小説であり、ディアロス王国の第一王子ライアスが自分の国を取り戻す成長物語だった。
物語の世界に転生だなんて俄(にわか)に信じがたい話だが、前世の記憶と今世の状況があまりに一致している現状から、これが偶然だとは到底思えない。
自分自身の転生を確信した瞬間、私は別の意味で頭を抱えた。
「なんで『ディアロスの英雄』なのよ……」
溜(た)め息(いき)を溢(こぼ)しながら、前世の自分の部屋の本棚を思い浮かべる。
「同じファンタジー小説なら、もっと平和な日常ものとか恋愛ものだってあったじゃない!」
異世界料理を楽しむスローライフものや、悪役令嬢が周りを振り回すラブコメものを始め、平和な物語だってたくさんあったはずだ。
それなのにどうして、よりによって血生臭い『ディアロスの英雄』なのか。
やりきれない思いに唇を噛(か)む。
「このままだと、確実に内戦に巻き込まれるわ」
天井を見上げて独り言を溢(こぼ)しつつ、額に手を当てる。
もしこの世界が『ディアロスの英雄』の舞台ならば、遠くない未来にこの国は内戦状態に陥るだろう。
物語の終盤、主人公ライアスが帰国した直後に内戦が起こり、ライアスはそれを鎮圧するために剣を取る。
苦戦を強いられた主人公は、有力貴族の協力を得て反転攻勢に出て、反乱軍を蹴散らし、ようやく敵の本拠地に辿(たど)りつく。その主人公の前に、反乱軍のリーダーである襤褸布に身を包んだ一人の青年が姿を現すのだ。
頭から被っていた布を脱いだ青年の顔を見て、主人公は目を瞠(みは)る。
そこに立っていたのは――。
「第二王子のアベル・ディアロス」
ようやく追いつめた反乱軍を率いていたリーダー『ディアロスの英雄』のラスボスは、主人公の腹違いの弟である第二王子だった。
月明かりに照らされた金色の髪は、土埃(つちぼこり)にまみれながらもキラキラと煌(きら)めき、切れ長の薄青の瞳は真(ま)っ直(す)ぐに相手を見据える。
驚く主人公を前に、第二王子アベル・ディアロスは、その顔を歪めて笑った。
『久しぶり、兄さん』
久々に再開した弟の変貌ぶりにたじろぎながらも、主人公はようやく第二王子の置かれていた状況を知る。
母親を殺され、誰一人味方のいない王城で長年虐げられていたこと。
逃げ出そうとしても何度も捕えられ、見せしめにされていたこと。
食事を抜かれ、鞭(むち)で打たれ、生きる意味を見失ったこと。
そして、全てを諦め絶望し、この国の全てを滅ぼしてしまおうと内戦を企てていたこと。
第二王子はこれまでの身の上を語り、「最期に会えて良かった」と言い残すと、隠し持っていた短剣で自身の喉を切り裂いた。
必死に伸ばした主人公の手は届くことなく、第二王子は地面に崩れ落ちる。
駆け寄った主人公に抱き上げられながらも、広がる血溜(だ)まりの中で第二王子が息絶えていくシーンが、強く印象に残っていた。
――第二王子が内戦を起こした最初の原因は、王妃だったのよね。
そもそも『ディアロスの英雄』の最初の悪役は、ラスボスの第二王子ではなく王妃だった。
彼女は自分の息子である第三王子を王位につかせるために様々な策略を巡らせていた。
主人公である第一王子は王妃に命を狙われ、留学という名目でなんとか隣国に逃げ延び、力を付けて帰国したのちに王妃に制裁を下して王位を掴(つか)む。
しかし第一王子とは違い、自国に取り残されてしまった第二王子は、側室であった母親を殺されたのち、執拗(しつよう)に命を狙われ続けることになってしまった。
王城で孤立し虐げられ、追い詰められて全てに絶望した彼が、復讐(ふくしゅう)を決意してしまう気持ちも十分にわかる。王妃が罰せられた後も彼の憎しみは消えず内戦を起こしてしまったのだろう。
――兄弟のどちらも、王妃の被害者であることに違いはないのに。
兄弟同士がボタンを掛け違えてしまったことですれ違い、殺し合うことになってしまった悲しい結末に、多くの読者が同情の声を寄せていたことを覚えている。
だがしかし、それは物語の場合の話であり、現実となった今の状況では同情なんてしている場合ではなかった。
――内戦が起こることがわかっているのなら回避しなきゃ!
内戦が起こるのは主人公が二十歳のときであり、第一王子は現在十三歳。
つまり、残された時間はあと七年ということになる。
七年の間に周囲を説得して、せめて身内だけでも隣国に逃れることができないだろうかと考えてみるものの、情に厚く、なにより領民を大切に思っている父が領地を放棄するとは考えにくかった。
それに、私自身にも身内以外に失いたくない人は多くいる。
その全員を隣国に逃れさせるというのは土台無理な話だろう。
――国を離れるのは現実的じゃないわね。
一時的な避難という方法については、一旦頭の隅に追いやる。
そうはいっても、このまま内戦が起こるのを手をこまねいて待っているわけにはいかない。
再び溜め息を溢すと、前髪をくしゃりと掻(か)き上げた。
自分自身を含めて今世の家族の命にも関わってくるかもしれないのだから、前世の知識でもなんでも利用して、どうにかできないかと頭を働かせる。
「内戦から逃げることが難しいのなら、そもそも内戦が起こらないようにすることはできないかしら」
ぽつりと呟(つぶや)いてみれば、案外これしか方法がないのではという気になってくる。
大好きだった『ディアロスの英雄』のストーリーを改変することは心苦しいが、背に腹は代えられない。
考えをまとめるために情報を書き出してみようと机に向かえば、ふと近くの鏡台に自分の姿が映った。
腰まで伸びた真っ直ぐな茶色の髪に、自国では一般的な翠(みどり)の瞳。
十二歳らしく幼さが残る可愛(かわい)らしい見た目だとは思うのだが、残念ながら貴族令嬢としては平凡な部類の容姿だった。
「どうせ転生するなら、絶世の美女に生まれ変わってみたかったわ」
そんな軽口を言いながら肩を竦(すく)める。
マディス子爵家のクレアという存在は、『ディアロスの英雄』には一度も登場しなかった人物だ。
物語の性質上、内戦中に主要登場人物があっけなく死を迎えることはないだろうが、名前も容姿も出てこなかったモブ令嬢の場合はどうだろうか。
――何かの拍子に、あっさり死にそうよね。
一度内戦が起こってしまえば、反乱軍の攻撃に巻き込まれたり倒壊した建物の下敷きになったりと、いくらでも死因を想像できてしまう。
実際『ディアロスの英雄』の本文にも、内戦の凄惨さを描写する中に、多くの死人や怪我人(けがにん)が出たことは記されていた。
――何もしなければ、物語に殺されそうだわ。
十分にありえる未来を想像して、背筋がぞっと寒くなる。
主要登場人物に縁のないモブ令嬢に何ができるのかと思いつつも、自分が生き残るためには、できることを考えるしかないだろう。
首を振って嫌な想像を吹き飛ばすと、机について現状を書き出し始めた。
「ええと、内戦が起こるのが七年後。首謀者は第二王子のアベル・ディアロスで……。うーん、内戦を起こさないようにするには、第二王子の情報が必要よね」
腕を組んで、何かヒントはないかと前世の記憶を辿る。
内戦が起こらないようにするならば、首謀者となる第二王子に働きかける以外の方法はないだろう。
「反乱を起こさないように、第二王子を説得してみるとか?」
口から零(こぼ)れた言葉を吟味してみるものの、その無謀さに乾いた笑いが漏れる。
――現実的じゃないわね。
子爵令嬢である私に、第二王子との接点があるはずがない。
一介の子爵令嬢が第二王子に接触できるとすれば、舞踏会やお茶会で偶然会えるかどうかだが、ここ数年の公式行事に参加している姿を見たことはない。
そもそも貴族の頂点である王族と、下級貴族との間には、容易に超えることのできない大きな隔たりがあった。
小説の中でも第二王子の身の上については、ほとんど触れられていなかったために、彼に接触するために、どう行動したらいいのか見当もつかない。
――ヒントになるとしたら、最期に身の上を語ったあのシーンくらいかしら。
主人公を前にして、第二王子が語った生々しい過去を思い返してみる。
『母上が殺されてから、僕は奴隷のような扱いだったよ』
『唯一僕を逃がそうとしてくれた侍女は、逃げ延びた先から連れ帰らされた僕の目の前で、嬲(なぶ)り殺された』
『僕を匿(かくま)ったばかりに、母上の親族まで殺されてしまったんだ』
『それからは地獄の始まりだったよ。ことあるごとに鞭で打たれるようになって、その姿を見世物として晒(さら)されていたんだ。いい笑いものだったよ』
凄惨な第二王子の身の上話に眉根を寄せながら、ふと動きを止める。
逃げ延びた先から連れ帰らされたということは、一瞬でも王城の外にいた期間があったということではないだろうか。
その逃げ延びた先というのは、第二王子を匿って殺されてしまったという母親の親戚筋に違いない。
側妃であった第二王子の母親は侯爵家出身であり、彼を匿った親族も恐らく貴族家のはずだ。
いつ頃の出来事だったかは明言していなかったが、短い期間でも城外にいた時期があることは間違いないだろう。
――王城にいるうちは接触のしようもないんだから、これしかないわ。
再び机に向き直ると、ペンをとる。
「第二王子が匿われたのは母親の親戚筋で、城外に逃げ出せたのは恐らくその一回だけね」
たった一回の機会を逃さずに、第二王子と接触しようとするのもなかなか無謀な試みだとは思う。
もしかしたら既に連れ戻されている可能性もあるが、何事もやってみなくてははじまらない。
今は内戦を阻止するため、なんとかして第二王子と接触しなくてはならなかった。
国内の貴族をしらみつぶしに、となるとかなりの数になってしまうが、第二王子の母親の親戚筋に限定すれば、絞り込むこともできそうな気がしてくる。
――幸い第二王子の親戚筋なら、うちのマディス子爵家もその一つだし、お父様に聞けば何かわかるかも。
そこまで考えて、はたと我に返った。
何度か瞬(まばた)きを繰り返した後、ゆっくりとその手を額に当てる。
先程前世の記憶を取り戻した衝撃で、すっかり頭の中から抜け落ちていた出来事が蘇ってくる。
『クレア、実は君には弟がいたんだよ』
先日父から告げられたのは、そんな一言だった。
突然の呼び出しを受けて父の書斎に向かえば、父の側にはほっそりとした少年が立っていた。
『クレアの一歳年下だが、名前はアデル。身体が弱くて、これまで王都から離れた遠いところで静養していたんだ』
父が喋(しゃべ)っている間、少年はどこかぼんやりと床を見つめていた。
『ようやく元気になったから、これからは王都で一緒に暮らそうと思っている』
父に背中を押された少年は、つんのめりながらも一歩前に出る。
どこかおぼつかない足取りの彼に向かって、にこりと微笑みかけた。
『はじめまして、クレアよ』
弟だという少年は、私の挨拶にその青い瞳をちらりとこちらに向けたものの、小さく頷くだけだった。
――せっかく綺麗(きれい)な顔立ちをしているんだから、笑ったらもっとかわいいのに。
そんなことを考えながら、反応の薄い弟を見守っていた。
あのときは恥ずかしがっているのかと思っていたが、今日で既に一週間。
未(いま)だに彼は、家族団欒(だん らん)の時間に顔を出していない。
父からまだ体調が万全でないと聞いていたから深く考えていなかったが、ようやく再会した家族と親交を深めることなく自室に籠もり、食事の時間にすら出てこないという状況はさすがに違和感があった。
私の一つ下だという十一歳で、髪の毛は茶色がかっていたものの瞳は澄んだ青色、アデルという名前も第二王子と酷似している。
あまりにもできすぎた偶然ではないだろうか。
髪の色なんてその場だけならなんとでも誤魔化(ごまか)せるし、なんといっても我がマディス子爵家は、第二王子の母親と曾祖父(そうそふ)が共通しているという親戚筋だ。
「……多分、間違いないわよね」
言っては悪いが、そもそも親子揃(そろ)って平凡な顔立ちの我が子爵家に、あんな美少年が生まれるのは不自然な気がする。
父が用意しただろう偽名も、明らかに彼の本名に似通っていた。
――お父様も少しは誤魔化す努力をしてほしいわ。
肩を竦(すく)めつつも、相変わらず正直すぎる父の性質に苦笑を漏らすしかない。
同時に、先程渡り廊下で話した男性の声が蘇った。
『最近、この邸に変わったことはなかったかい?』
『そう。例えば、お嬢さんくらいの年頃の少年が訪ねて来たりしなかったかな?』
あの質問は、第二王子の存在を探っていたのだろう。
わざわざ父ではなく私に声を掛けたのも、事情を知らない私が、ついうっかり情報を漏らすことを期待していたのかもしれない。
「あの人、王妃の手先だったんだわ」
あのとき、もしうっかり『弟』のことを話してしまっていたら、第二王子の存在を勘付かれて王城に連れ戻されてしまっていたのだろうか。
そして私たち一家は、第二王子を匿ったとして……。
その先を想像して、ぞっと背筋が凍った。
――内戦どころか、第二王子が見つかった時点で殺されちゃうじゃない!?
王妃の手先がすぐ目と鼻の先まで迫っていることに、言い表せない危機感に襲われて慌てて立ち上がる。
――とにかく会ってみるしかない!
勢いよく扉へ向かうと、部屋の外へと飛び出した。
廊下を走りながら、小説の内容を思い出す。
第二王子は死を選ぶ直前、自身の気持ちを切々と語っていた。
自分を置いて隣国に行ってしまった兄への恨み言や、誰も助けてくれない王城での辛い日々。
そして母親を殺した王妃が、のうのうとのさばるこの国が許せなかったと涙ながらに訴えていた。
その場面を読んで一番に感じたのは、兄弟二人がすれ違ってしまったことに対するやりきれなさだった。
もし主人公が国内に留(とど)まって第二王子と意思疎通をしていたら、もしくは第二王子も隣国に留学していたら、二人の未来は違ったものになっていたかもしれない。
悪いのは王妃に違いないのに、兄弟で殺し合うのはあまりに悲しすぎる結末だ。
そう考えて、ハッと顔を上げる。
――そうか、第二王子も隣国に留学すればいいんだわ。
第二王子が隣国に逃れてしまえば、王妃だってそう簡単に連れ戻せない。
隣国には第一王子がいるのだから、二人のすれ違いも回避できるだろう。
第二王子の身の回りの環境だって、王城にいるより遥(はる)かに良くなるはずだ。
「そうよ、そうすればいいじゃない!」
視界が開けた心地で、思わず声を上げる。
第二王子の隣国留学を実現させるには、まず私達マディス子爵家の人間を信じてもらうことが先決だ。
信頼関係のない状態で隣国留学を勧めたとして、彼にとって私は、突然現れた弟を疎ましく思って厄介払いをしようとする意地悪な姉でしかないだろう。
――まずは第二王子の信頼を得なくちゃ。
私は味方なのだと安心してもらいたい。
そして復讐に囚(とら)われてしまわないように、外の世界にあるたくさんのものに触れてもらおう。
例えば植物であったり料理であったり、どんなものでもかまわないから、彼が心から興味を持てるものを見つけられればいい。
――とにかく、今のままじゃだめだわ。
部屋に引きこもった状態では、母親を亡くした悲しみと王妃に対する憎しみから抜け出せなくなってしまう。
誰も信じられず孤独感に苛(さいな)まれたままでは、復讐の芽が出るのも時間の問題だ。
――王妃の手先に見つかる前に、先手を打たなくちゃ。
目的の部屋の前に着いた私は、肩で息をしながら大きな扉を見上げる。
――まずは、コミュニケーションを取ろう!
心の内で決意すると、コンコンと扉を叩(たた)く。
「……誰?」
一拍置いた後、部屋の中からか細い声が聞こえた。
「私、クレアよ」
名前を名乗った瞬間、扉の向こうから慌てるような物音が響く。
考えてみれば、一週間なんの興味も示さず放置していた姉が突然訪ねてくるなんて、何か裏があるのではないかと不安にさせてしまうかもしれない。
「驚かせてしまったならごめんなさい。せっかくいい天気だから、一緒に庭園にでも行かないかと思ったの」
相手が聞き取れるように、ゆっくりと語りかける。
「お父様からアデルは体調が万全でないと聞いたけれど、部屋にこもりっきりだと心配だわ」
「だ、大丈夫」
その声は、扉のすぐ向こうから聞こえた。
扉が開く気配はないが、一枚を隔てた向こう側に彼がいるのは間違いようだ。
「大丈夫なの? 体調は悪くない?」
「……うん」
ちゃんと返事があることに安心する。
――これなら、もう少し踏み込んでも問題ないかしら。
気合いを入れるようにぐっと拳を握ると、扉の向こうの彼に笑顔を向けた。
「もしよかったら、アデルの元気な顔を見せてくれないかしら。ずっと姿を見ていないから心配だわ」
私の提案に、返答が途絶える。
扉の向こうでごそごそと動くような音はするものの応答のない様子に、踏み込み過ぎただろうかと内心反省していれば、カチャリと鍵が開く音が響いた。
驚きに目を瞠(みは)っていると、ゆっくりと開いた扉の隙間から少年が顔を覗かせる。
初めて出会ったとき同様にほっそりとした少年は、茶色がかった前髪の奥からこちらを見上げていた。
「……これで、いい?」
ぼそりと聞こえた声にハッと我に返ると、にっこりと笑みを浮かべる。
「ええ、アデルの元気な顔を見られて安心したわ」
実際、肌艶は良いとは言えないものの、出会った日よりも顔色は良さそうに見える。
ただ少し気になったのは、その髪色が前回よりもまだらに見えることだ。
――やっぱり、貴族のお忍び用の染髪料を使ってるんだわ。
前世の染髪料とは違って、この世界の髪染め方法は絵の具を髪に吹きかけるような、その場しのぎのものでしかない。
目の前の少年が第二王子であることはおそらく間違いないだろうとは思っているが、それでも確かな証が欲しかった。
どうしたものかと逡巡(しゅんじゅん)していたとき、ふと彼の頭に紙屑(かみ くず)のようなものがついていることに気付く。
「あら、アデル。髪に何かがついているわ」
何の気なしに相手の髪に手を伸ばした瞬間、パシッと手を弾かれた。
驚きに目を見開けば、向かいには私以上に驚いた様子の少年が、今にも溢(あふ)れそうなほど瞳に涙を溜(た)めていた。
「ご、ごめんなさ……触ら、ないで」
身体を震わせながら首を横に振る少年の様子に、ぎゅっと心が締め付けられる。
これまで王城で一体どんな扱いを受けてきたのだろうかと、やりきれない思いで顔を俯(うつむ)ければ、彼が動いたために床に落ちたものが目に映った。
彼の頭から落ちたらしきものは、やはり千切れた紙切れだったが、白いはずの紙の一部が、彼の髪の色に染まっていた。
先程その紙切れがついていたあたりの髪を見てみれば、そこにはうっすらと輝く黄金色が覗いている。
彼が第二王子であると確信するには、それだけで十分だった。
ゆっくりと身を屈(かが)めると、床に落ちた紙切れを拾い上げる。
茶色く染まったそれを見た彼は、明らかに顔色を青褪(あおざ)めさせた。
「アデルは、髪の色を変えているのね」
私の言葉に、彼は焦るように視線を泳がせた。
「……子爵――父上が、その髪色は目立つからって染料をくださったんだ」
「そうだったの」
お父様も一応、彼の身バレ対策は考えていたらしい。
しかし、すぐに落ちてしまう染料で一時的に髪を染めるだけでは、根本的な解決にはならないだろう。
水に弱い染料は入浴や急な雨でも簡単に落ちてしまうし、そんな危険と隣り合わせでは、彼も外出から遠ざかってしまうに違いない。
それに――。
手を伸ばして、本来の色が見えている部分に触れた。
「せっかく美しい金色の髪なのに、もったいないわ」
触れただけで、手にはうっすらと茶色の染料が付く。
前世でもカラーリング直後はしっかりケアをしないといけなかったのに、今世の絵の具のような染料を度々使用していれば、彼の美しい髪だってすぐに痛んでしまうだろう。
染料の付着した指先を見つめていれば、向かいの彼が小さく首を横に振った。
「僕が見つかったら、皆が危険な目に遭ってしまうから」
その言葉に、つい首を傾(かし)げる。
「危険?」
「……僕は、自分の見た目を隠さなきゃいけないんだ」
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