●著:すずね凜
●イラスト:敷城こなつ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543877
●発売日:2026/4/30
堅物騎士団長はバージン・ママとベビーを最強の愛で守ります!
没落伯爵令嬢カロリーヌは、姉の遺児で国王の隠し子であるエドモンを一人で育てていた。そんな彼女の下へ現れたのは、王命で母子の護衛を任された美貌の騎士団長オリヴィエだった。子供と引き離されたくなくて姉を装うカロリーヌだったが、誠実な彼と惹かれ合い、二人は結ばれる。
「私はあなたたちを一生かけて守る」
しかし王からエドモンを正式な王子として城に迎えると命令が下されて──!?
序章
夜は深く、月だけが煌々と地上を照らしていた。
空気は暖かく静謐だった。
その家は、村外れのうっそうとした森の中にひっそりと建っていた。どの部屋も灯りを落として、真っ暗である。
一階の子供部屋では、四歳になる息子のエドモンがこんこんと眠っていた。
ただ、二階の寝室には蝋燭の明かりがほんのり灯っていた。
中央のベッドに、男と娘が向かい合って座っている。
男はシャツ一枚、娘は薄物の寝巻き姿だ。
男のほうは、長身でがっちりとした身体つきだ。歳の頃は三十代前半か。全身の筋肉が鋼のように固く引き締まって、武人であることがひと目でわかる。艶やかな短髪の黒髪に、切れ長の青い目、彫りの深い男らしい美貌である。
一方の娘は、今日、二十歳の誕生日を迎えたばかりである。だが訳があって、オリヴィエには二十二歳と偽っていた。
さらさらとした長い金髪に、琥珀色の瞳のぱっちりした目、すんなりとした鼻梁、ぷっくりとした愛らしい唇、人形のように整った面立ちだ。透けるように肌の色が白く、ほっそりとしているがごつごつしたところはない。小ぶりだが形のいい乳房、腰はきゅっと締まり、尻はすべすべしてまろやかで柔らかそうだ。
男が低い声でささやく。背骨に響くようなバリトンだ。
「カロリーヌ、あなたを愛している。君とエドモンを、この世で一番愛している」
カロリーヌと呼ばれた娘は、ほんのり頬を染めた。そして、かすかに震える声で答える。
「私も……オリヴィエ様を愛しています」
オリヴィエがかすかに笑みを浮かべた。笑うと、目尻にくしゃっと笑い皺が寄り、整いすぎて少し近寄りがたい美貌がとても親しみやすいものに変わる。
息子のエドモンと遊んでくれている時は、いつも彼はこんなふうに笑っている。
カロリーヌは、初めてオリヴィエのこの笑顔を見た時に、一瞬で恋に落ちてしまったのだ。
オリヴィエの右手が差し伸べられ、カロリーヌの頬にそっと触れてきた。
彼の手は大きくて無骨で、剣だこが幾重にもできている。オリヴィエは伯爵の位を持っているが、長年王立騎士団長を務め、実戦に何度も参加してきたという。一般の貴族のように手入れが行き届いてすべすべした手より、カロリーヌはこの手のほうがずっと素敵だと思っていた。
(この手が、私とエドモンを守ってくれているんだわ……)
その手がカロリーヌの顔を包み込み、仰向かせた。
カロリーヌは息を詰めて目を閉じる。
オリヴィエの息遣いが接近してきた。
唇が重なる。
「ん……」
この人と、今から結ばれるのだ――。
心臓が甘くときめく一方で、カロリーヌの胸の奥で一抹の不安が頭をもたげていた。
(どうしよう――初体験だってバレてしまったら……)
オリヴィエはカロリーヌを経産婦だと信じ込んでいる。
だが、カロリーヌには男性経験がなかったのだ。
エドモンは自分が産んだ子どもではない。だが、我が子同様に慈しみ育ててきた。
エドモンがいたから、こうしてオリヴィエと出会えたのだ。
オリヴィエを騙しているという罪悪感が、ひしひしと込み上げてくる。
(でも、彼を愛している。この人に、すべてを捧げたい……)
オリヴィエを心から求める気持ちに、もう逆らえない。これから起こること、その後に起こるかもしれないこと――すべてを受け入れよう、決意した。
カロリーヌはそっと目を閉じ、オリヴィエに身を任せた。
第一章 美貌の騎士団長との出会い
「エドモン、エドモン、村までお買い物に行くわよ」
裏庭で洗濯物を干し終わったカロリーヌ・ポワレーは、前庭に出て息子の名を呼んだ。
艶やかな金髪を無造作にうなじで束ね、お人形のように整った顔には化粧気がまったくない。着ているドレスは飾り気がなく簡素で、動きやすいだけが取り柄の代物だ。
「エドモン、どこにいるの?」
カロリーヌはもう一度呼ぶ。しかし、返事はなかった。
狭い前庭には、つい今し方までエドモンが遊んでいた痕跡がある。ボールや兵隊さんの人形などが地面に散らばっていた。
「もう……ちゃんと片付けてって、いつも言っているのに」
カロリーヌは腰を屈めて、散らばっているおもちゃを片付けようとした。
すると、どこからかエドモンの忍び笑いが聞こえてきた。カロリーヌはピンときた。
エドモンは、かくれんぼをしてカロリーヌを驚かすのが好きなのだ。
背筋を伸ばすと、庭の中をゆっくり歩き回る。わざとらしく心配そうな声色を使う。
「ほんとうに、どこに行ってしまったのかしら。困ったわね」
かたん、と納屋の背後でかすかな音がした。
「背中に羽が生えて、飛んでいってしまったのかしら? エドモンはお空にいるのかしら?」
言いながら、ゆっくりと納屋の方へ近づく。くすくすと笑いが聞こえてくる。
カロリーヌは納屋の前で立ち止まり、悲しそうな声を作る。
「それとも、もぐらさんに土の下に連れて行かれてしまったのかしら? そんなことになったら、お母様は悲しいわ。泣いてしまう」
カロリーヌはその場にしゃがみ込み、顔を両手で覆ってしくしくと泣く真似をした。
すると納屋の背後から、ぱっとエドモンが飛び出していた。
洗いざらしの半袖のシャツに半ズボン、裸足の足に古びた革靴を履いている。着ているものは簡素だが、色白で金髪の巻毛にぱっちりした琥珀色の目にぷっくりした赤い唇。カロリーヌにそっくりの美しい子だ。
「ぼくはここだよ! お母さま!」
エドモンがカロリーヌの首に抱きつく。
「なかないで、なかないで、お母さま」
エドモンの方が、今にも泣きそうだ。
カロリーヌはさっと両手を顔から離し、にっこりする。
「捕まえた!」
エドモンをぎゅっと抱きしめる。
エドモンがきゃあっと可愛い悲鳴を上げた。カロリーヌはエドモンのふっくらした頬に、口づけの雨を降らせた。
「さあ、もう離さないわよ」
「くすぐったい、くすぐったいよぉ、お母さま」
エドモンがきゃあきゃあ笑う。
カロリーヌはエドモンの金髪の巻き毛に顔を埋め、深呼吸した。
幼い子どもからは、ひなたの匂いがする。
(なんて幸せな匂いなのかしら……)
カロリーヌはひとしきりエドモンと戯れあってから、息子の小さな手を握って立ち上がった。
「さあ、お買い物に行きましょう」
「はあい」
エドモンが元気よく返事をした。
二人は手を取り合って、狭い街道を通って村に向かった。二人の住む家は村から少し外れた郊外の森の中に、ひっそりと建っている。村までは、歩いて半刻ほどかかるのだ。
「ああ、いいお天気ね」
カロリーヌは青空を見上げた。
季節は五月の始め。
大陸の諸国の中でも、このギルバス王国は小国ながら肥沃な土地に穏やかな気候に恵まれている。雨季が来る前のこの季節は、一年でも一番爽やかで過ごしやすい。
「お母さま、おうたをうたって」
エドモンにせがまれ、カロリーヌはゆっくりと童歌を口ずさむ。
「きつねさんは月曜日にお買い物にいきました
あなぐまさんは火曜日におうちをお掃除しました
うさぎさんは水曜日に草刈りをしました
りすさんは木曜日に花摘みにいきました
しかさんは金曜日にきのこ狩りにいきました
土曜日に、みんなでパーティーをしました
そして日曜日は――」
歌いながらカロリーヌはエドモンに目配せする。
「なにもなし!」
エドモンとカロリーヌは、最後のフレーズを声を合わせて歌った。
「なにもなし、なにもなし!」
エドモンがころころと笑い転げる。
カロリーヌも釣られて声を上げて笑った。
(ほんとうに、子どもってすぐ泣いてよく笑う。なんて感情が豊かなのかしら)
歌を歌っているうちに、村の入り口に辿り着いた。
カロリーヌとエドモンは、村の中央にある市場に向かった。
小さな市場だが、果物や野菜、肉やパン、蝋燭や石鹸などの日用品がとりどりに売られている。
カロリーヌはパンや野菜など必要なものを購入し、肉屋にちらりと目をやったが、そのまま素通りした。母子の生活は、カロリーヌの仕立て物仕事の給金でまかなっている。母子二人で暮らしていけるだけの収入はあるが、あまり贅沢は出来ないのだ。お肉を食べるのは週末だけと決めている。普段は鶏小屋で飼っている鶏が産む卵で、栄養を補っていた。
お店をきょろきょろとのぞいていたエドモンは、駄菓子屋の前でぴたりと立ち止まる。
「お母さま、お母さま、キャンディーがほしいよお」
エドモンは、色鮮やかな棒付きキャンディーの入った瓶を指差した。
「甘いものは、歯が悪くなるからだめよ」
言い聞かせようとしたが、エドモンはふくれっつらになる。
「でも、たべたいもん」
「おうちに帰ったら、ニンジンのケーキを焼いてあげるから」
「うーん」
裏庭の畑で採れるニンジンのケーキは、エドモンの大好物だ。でも、子どもは砂糖をうんと使ったとびきり甘いキャンディーに目がないのだ。だが、首都のお菓子工場から運ばれてきたキャンディーは、とても高額だ。
カロリーヌは値段を見て、小さくため息をついた。この値段なら、お肉を買いたいくらいだ。
「さあ、もう帰りましょう」
促したが、
「やだ」
と、エドモンはしょんぼりと足元の小石を蹴っている。
いつもエドモンには我慢を強いている。新しいおもちゃはめったに買ってあげられないし、絵本は教会からいただいた古本、着ている服は、カロリーヌの着古したドレスを仕立て直したものばかり。住んでいる家は狭い古家で、あちこち雨漏りはするし隙間風が常に吹き込む。
(ほんとうなら、ポワレー伯爵家の跡継ぎとして、何不自由ない暮らしを送れたはずなのに――いえ、もしかしたら王子として……)
カロリーヌは、胸がぎゅっと痛んだ。こっそりと、エプロンのポケットの中の財布をのぞいた。
(今月は、いつもより多く仕立て物を受ければいいわ)
カロリーヌはしゃがみ込み、エドモンの顔を見て言った。
「では、一本だけね」
エドモンの顔がぱっと明るくなる。
「いいの?」
カロリーヌはうなずく。
「エドモンは、いつもお母様のお手伝いをいっぱいしてくれるから。ご褒美よ」
エドモンがわあいと声を上げる。
「うん、ぼく、もっとおてつだい、するよ」
エドモンは背伸びして、店先のキャンディーの入った瓶を穴が開くほど見つめた。
「どれにしよう。いちご、オレンジ、あおりんご、レモン、ぶとう――」
真剣に迷っている横顔は、ほんとうに愛らしい。
さんざん迷ってから、エドモンはいちご味のキャンディーを選んだ。
カロリーヌは店主に代金を支払い、エドモンに棒付きキャンディーを手渡した。
「おうちに帰ってから、食べるのよ」
「はあい」
受け取ったエドモンは、満面の笑みになった。
買い物を終え、二人は手を繋いで市場を後にした。
エドモンはキャンディーを太陽にかざし、目を細める。
「お母さま、キラキラしてる。ほうせきみたいだね」
「ほんとうね、ルビーみたいね」
「食べるのがもったいないや」
「じゃあ、お母様が食べちゃおうかな」
「だめだめ!」
「ふふ、嘘よ、嘘」
「もうっ――でも、はんぶんこしてもいいよ」
「あら嬉しい。優しい子ね、エドモンは」
母子は楽しげに会話しながら、帰路についた。
市場では、店主たちが噂話をしていた。
「あの若い母親と息子、なにか訳ありだよな」
「すごい美人だし、なんたって品がある。きっと貴族の娘かなんかじゃないか?」
「四年くらい前に、ふらりと赤ん坊を連れてこの村にやってきて、それ以来、森の家で二人暮らしらしいぜ」
そこへ、彼らに一人の男が声をかけてきた。
「ちょっと、たずねたいことがあるのだが」
店主たちは目を丸くしてその男を見た。
王家に仕える者の印である青い騎士の制服を着た、黒髪に青い目の背の高い美丈夫だった。
――その数日後のことであった。
昼食を終え、カロリーヌとエドモンは前庭でボール投げをして遊んでいた。
ボールはカロリーヌの手作りだ。仕事で余った端切れを縫い合わせて綿を詰めた簡単なものだが、エドモンはこのボールがとても気に入っていた。
「そうら、いくわよー」
カロリーヌはエドモンが受け取りやすいように、ボールを優しく放る。
「とったぁ」
ボールを両手で受け取ったエドモンは、自慢そうに頭の上にボールを掲げて見せる。その誇らしげな顔が、とても可愛い。
「上手、上手」
カロリーヌが褒めると、
「お母さま、もっととおくになげてよ。ぼく、とれるから」
と、エドモンはボールを投げ返した。顔を紅潮させて鼻息を荒くする。
「わかったわ、そらっ」
カロリーヌは腕に力を込めてボールを投げた。
「あっ」
目測を誤って、ボールはエドモンの頭の遥か上を越え、前庭の垣根の向こうに飛んでしまった。
「ごめんなさい、エドモン」
「へいき。ぼく、とってくる」
エドモンは庭の低い門扉を開け、外に出ていった。
カロリーヌはしばらく待っていたが、なかなかエドモンが戻ってこない。少し心配になる。
「エドモン?」
庭から家の前の小道に出た。
カロリーヌはハッと息を呑む。
小道の向こうに、青い軍服姿の黒髪の背の高い男性が立っていた。腰には剣を下げていた。彼の足元には転がったボールがあった。
エドモンは立ち止まって、物珍しそうにその男性を見上げている。
男性は跪くと、ボールを拾った。彼はエドモンにボールを差し出しながら、声をかける。
「君のボールかい? 坊や、名前は?」
エドモンはとことこと男に近づき、ボールを受け取った。エドモンは人見知りをしないたちだった。
「おじさん、ありがとう。ぼく、エドモン――エドモン・ポワレー」
と、はきはきと答えた。
「エドモン・ポワレーか」
男が口の中で息子の名前をつぶやいた。
その様子を見ていたカロリーヌは、なぜか胸騒ぎがした。
「エドモン、いらっしゃい」
鋭い声で呼ぶと、エドモンと男が同時にカロリーヌの方を振り向いた。
「お母さま」
エドモンは小走りで戻ってくる。男はその後ろからゆったりとした足取りで付いてきた。
カロリーヌは素早く、エドモンを自分の背中に隠すようにした。
目の前に男が立つ。小柄なカロリーヌが見上げるほど背が高い。
目も覚めるような美男子だった。歳の頃は三十歳前後か。短めの黒髪、涼やかな青い目、彫りの深い苦味走った美貌。彼はまっすぐカロリーヌに視線を合わせた。
彼と目が合った瞬間、カロリーヌは心臓がドキンと跳ね上がった。
脈動が速まり、彼から目を逸らすことができない。
男は丁寧な口調で切り出した。
「失礼ながら、貴女はポワレー伯爵家のご令嬢ですか?」
低く艶っぽい声に背中がざわっと震えたが、次の瞬間、この男は自分のほんとうの身分を知っている、とカロリーヌは我に返った。
疑い深い顔で男を見た。冷ややかな声で答える。
「なぜそんなことを聞くのですか?」
すると男は恭しく告げた。
「あなたとご子息を探しておりました」
それから彼は、頭を下げた。
「失礼しました。私はオリヴィエ・ド・ブロイと申します。王立騎士団の第二師団団長です」
「王立騎士団――では、首都から?」
カロリーヌはますます嫌な予感がした。
オリヴィエは美しい所作で、その場に跪いた。淑女に対する最敬礼である。
「王命により、あなたとご子息の護衛を承りました」
「王命……ですって!?」
思わず聞き返す。
ゆっくりとオリヴィエは顔を上げた。
「ご子息は国王の落とし胤ですね?」
「っ――」
カロリーヌは表情を固くした。目を背けて、小声で返す。
「……人違いです」
するとオリヴィエの目がすうっと細まった。
「調べはついているのです」
「―― !」
先ほどからカロリーヌの背後に隠れるようにして、二人のやりとりを見ていたエドモンが、ひょいっと顔をのぞかせる。
「お母さま、このせのたかいおじさんは、だれ?」
オリヴィエは素早く柔和な表情に戻った。彼は穏やかな口調でエドモンに言う。
「私は今日から、あなたを守る騎士になるんだよ」
「きし? わるものとたたかう、きし?」
エドモンは無邪気に聞き返した。
「そうとも。わるものは、みんな退治してあげるよ」
オリヴィエはおもむろに立ち上がった。
そして、右手を顔の高さに持ち上げると、パチン、と指を鳴らした。
直後、背後の木陰に潜んでいたらしい十数人の男たちが、音もなく姿を現した。全員が、青い騎士の服装をしていた。
騎士たちは、素早くオリヴィエの後ろに整列する。
オリヴィエは革のブーツの踵をきっちりと揃えると、直立不動になった。
「王命により、我ら、王立第二騎士団があなたたち二人をお守りします」
エドモンがわあっと歓声を上げた。
「すごい! きし、いっぱいだ。かっこいいなぁ」
無邪気にはしゃぐエドモンを、カロリーヌはそっと引き寄せる。そして、震える声で言い返した。
「違います――私たちは……」
するとオリヴィエがにわかに険しい表情になった。彼は一歩前に出ると、カロリーヌの耳に顔を寄せ、彼女にだけ聞こえる声でささやいた。
「私はずっと、あなたたちの行方を捜していた。王命にはそむけない。騒ぎを起こしたくなかったら、大人しく王命に従いなさい」
地を這うような恐ろしげな口調だった。
カロリーヌは声もなくその場に立ち尽くした。
これより一年前のことである。
第二騎士団団長のオリヴィエ・ド・ブロイ伯爵は、緊急だとレオン国王に呼び出されていた。
王城の謁見の間に通されたオリヴィエは、玉座から少し離れ跪きこうべを垂れ、レオン国王の入室を待った。
ほどなく、衣擦れの音がして、レオン国王が座する気配がした。重々しい声がする。
「伯爵、顔を上げよ」
オリヴィエはゆっくりと頭をもたげた。
レオン国王とは、先の閲兵式以来の対面であった。少し顔色が悪いようであった。
当年四十五歳のレオン国王は、男盛りの美丈夫である。数年前までは、まだまだ国内外の情勢は乱れ、各国との戦も頻繁に行われていた。しかし、現国王の安定した統治下で、今ではギルバス王国の民たちは平和で豊かに暮らしている。
だが昨年あたりから、近隣のサンドリナ王国の軍隊が頻繁に南の国境線に現れ、ギルバス王国の国境警備隊と小競り合いを繰り返している。南の国境線のギルバス国領側には、鉱物が潤沢に産出する鉱山が無数にあった。この辺りの土地は、サンドリナ王国とそれぞれ折半で統治していたが、現サンドリナ国王は野心が強い男であった。彼は国家拡大を狙い、 ギルバス国側の鉱山も欲しがっているのだ。
そのために、隙あらば侵略しようと謀んでいる。国情はまだ油断のならない状況である。
また、レオン国王の家族事情はあまり思わしくなかった。
五歳年下の王妃マリアンヌは政略結婚で遠い異国の地からこの国に嫁いできた。国王夫妻の間には、才気煥発の第一王子とおっとりした第二王子が生まれていた。
だが、将来を期待されていた第一王子は、数年前に流行病で亡くなってしまった。
その頃から、国王夫妻の間には、気持ちのすれ違いが生じ始めたという。最近では、二人は寝室を分け、食事も別々に摂りろくに会話もないらしい。
また、残された第二王子ギヨームは、なにかと出来の良かった兄王子と比べられ、次第にひねくれ反抗的になっていった。現在十六歳になっているギヨーム王子は、王位後継者としての学びを怠り、狩猟や舞踏会にうつつをぬかしている。王子のお付きの者たちは、陰で『不肖の王子』と呼びならわしていた。
王家のこのような内情は、ごく一部の臣下や国王が信頼する部下にしか知らされていなかった。オリヴィエはそのうちの一人であった。
十五歳の時に王立騎士団に入ったオリヴィエは、それ以来王室のために励み、とんとん拍子に昇格した。三十歳になった現在は、自団を率いて南の国境警備の任務にあたり、常にサンドリナ軍を撤退させ、多大な功績をあげている。サンドリナ国軍も、オリヴィエには一目置いていた。
寡黙だが文武両道で忠義に篤いオリヴィエは、レオン国王からも絶大な信頼を得ていたのだ。
「これから話すことは、私と貴殿だけの内密にしてほしい――もう少し近くへ」
レオン国王は声をひそめた。
「はっ」
オリヴィエは膝立ちで玉座の前に進んだ。
「貴殿に、ある娘とその子どもを探しだし、護衛してほしいのだ」
「娘と、子どもですか?」
オリヴィエは怪訝な顔になる。
レオン国王は、軽く咳払いしてから続けた。
「実は――三年前、この城に勤めていた侍女がいた。その――私はその夜はいささか酔っていてな。その――娘と一夜の過ちを犯してしまったらしい」
「なるほど――」
オリヴィエは短く答えた。国王が侍女に手を出して、妊娠させたということである。レオン国王は恐妻家で知られていて、浮いた話はほとんどなかったので、少し意外であった。
「なぜ、三年も経ってと思うだろうが。今回、その娘の友人だった侍女が城を去る時に、他の侍女に娘が懐妊していたと漏らしたことで、発覚したのだ。子どもを宿していたとは、私も知らなかった」
「――では、その娘と御落胤を探し出し、護衛するということですね?」
レオン国王はほっと息を吐いた。
「貴殿は余計な詮索をしないので、ほんとうに信頼できる。落とし子といえど、我が子であることには変わりはない。養育費は存分に払う。そう娘に伝えよ。子どもをつつがなく育てるように、とな」
「承知しました――で、その娘の名前はわかりますか?」
レオン国王は、少し懐かしそうな眼差しをした。
「カロリーヌ・ポワレーという。当時は十八歳だったと思う。金髪に琥珀色の瞳を持つ、働き者でたおやかな美人だった。友人の侍女の話では、どうやら伯爵家の身分を隠し、平民と偽って侍女の仕事をしていたらしい」
「わかりました。陛下のご命令とあれば、私は必ずやその娘と御子を探し出し、命に代えてもお守りいたします」
オリヴィエはきっぱりと答えた。
レオン国王は頼もしげにオリヴィエを見遣った。
「その子は、いずれ王城で引き取ることになるかもしれぬから、重々大事にな」
それからレオン国王は、声を潜めた。
「頼んだぞ、伯爵。この件、くれぐれも、王妃にはばれないように」
「はっ、お任せください」
オリヴィエはそう言って胸を張った。
とはいうものの内心では、
(要するに、陛下の浮気相手と隠し子を探し出して、守れということか。王命とはいえ、あまり気の乗らない仕事だな)
と、ぼやいていたのである。
生来が生真面目で清廉なオリヴィエにとって、相手が国王といえど不貞をはたらいた女性に対して、あまりいい感情は持てなかったのだ。だが王命となれば話は別である。任務は完璧にこなそうと、決意していた。
その後、オリヴィエは騎士団の部下たちを引き連れ、カロリーヌ・ポワレーという娘の行方を追った。
ポワレー伯爵家は零落し、首都郊外に朽ち果てた屋敷があったが、もはやそこに住む人は誰もいなかった。ただし、近隣を調べたところ、数年前にはそこに一人の令嬢が住んでいたこと、屋敷から赤子の泣き声が聞こえたということがわかった。おそらく、カロリーヌ・ポワレーは屋敷で出産し、赤子を連れて出奔したのだろう。
オリヴィエたちは、一年かけてカロリーヌ・ポワレーの足跡を追い続け、ついに国境に近い鄙びた村外れでひっそりと暮らしていることを突き止めたのだ。
かくして、カロリーヌとオリヴィエは邂逅したのである。
「大人しく王命に従いなさい」
威嚇するようなオリヴィエの声色に、カロリーヌは顔色を変えて竦み上がった。
すると、ふいにエドモンが一歩踏み出し、カロリーヌの前に立ち塞がった。
「きし、お母さまをいじめるなっ」
エドモンは色白の頬を真っ赤にし、両手を広げて憤然と言い放った。幼な子ながら、母の異変に気がついたのだ。
オリヴィエは目を細めてエドモンを見下ろした。その眼差しは柔らかい。
「とても勇気がある子だ」
彼は感心したようにつぶやき、カロリーヌに視線を戻した。
「陛下があなたたちの生活を援助いたします。この地でご子息を健やかに育てよとの命令です」
「援助……健やかに……」
カロリーヌにはその言葉が胸に響いた。
正直、生活は食べていくだけで精いっぱいだ。
今の暮らしのままでは、先々エドモンに高等教育を受けさせることは難しいかもしれない。
(エドモンは、立派な大人に育て上げたい)
それはカロリーヌの切なる願いだった。そのためなら、どんなことも我慢できる。
カロリーヌは息を軽く吐いた。
「私とエドモンは、ここで生活を続けてもいいということですね?」
オリヴィエがうなずいた。
「無論です。我々がこの地に居住し、あなた方お二人を護衛いたします」
カロリーヌは、オリヴィエと背後に控える騎士団員たちを見遣った。
オリヴィエを筆頭に、どの騎士たちも鍛え上げられ精悍な顔つきをしている。先ほどのオリヴィエの命令に、一糸乱れぬ動きで従った様子を見ても、優秀な騎士の集まりであるとわかる。
(この人たちが守ってくれるのなら――安心かもしれないわ)
カロリーヌは意を決し、まっすぐにオリヴィエに顔を向けた。
「わかりました。王命に従います」
カロリーヌの返事に、オリヴィエは安堵したように笑みを浮かべた。
「わかってくださったか。では、我々は一旦引き上げ、居を構える場所を探し、またここへ戻ります」
彼はくるりと部下たちに振り返った。
「この辺りに、拠点を構える。ダニエル班は、村の旅籠屋に預けてある馬を連れてこい。マルク班は、ひと目に立たないように天幕を張れる場所を、急ぎ探せ。報告は一時間後だ」
「はっ」
「承知」
騎士たちはさっとふた手に別れ、踵を返して姿を消した。部下たちの行方を見届けてから、オリヴィエがおもむろに振り返った。
「突然のことで、さぞ驚かれたことでしょうが、理性的に応対してくれて助かりました」
先ほど恐ろしい声でカロリーヌを恫喝した人とは思えない、品のある礼節に富んだ態度だった。カロリーヌの胸がドキンと甘く疼いた。
「いえ――息子のためですから」
「そんなにお若いのに、母一人子一人で、大変でしたね」
「いいえ、エドモンがいればどんなことも平気です」
カロリーヌの真摯な言葉に、オリヴィエは感に堪えないような顔になった。
二人は一瞬、言葉もなく見つめ合っていた。
二人の会話をきょとんとして聞いていたエドモンが、自分の話題だとわかったのか、はしゃいだ声を出す。
「ぼくが? ぼくが、いれば、へいきなの?」
カロリーヌははっとして我に返る。
「そうよ、エドモン。さあ、お家にはいりましょう。手を洗って、お部屋でキャンディーを食べなさい」
「はあい、きしさん、さようなら」
エドモンはオリヴィエに向かって手を振りながら、家の中へ入っていった。
「では、私は家の周囲を見回ってきます。後ほど――」
オリヴィエはそう言い置き、大股で歩み去った。
そのがっちりとした背中を見送りながら、カロリーヌはまだ動悸がおさまらなかった。
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