●著:秋桜ヒロロ
●イラスト:なま
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543914
●発売日:2026/6/30
罰ゲームから始まった、可哀想で愚かな私の恋人ごっこ
騎士団の下働きをする男爵令嬢のエレナは、王子様のように美しく凜々しい騎士団長アルヴァンに、長らく片想いしていた。
立場が違いすぎると諦めかけていたところを突然彼に求婚されるが、直後に騎士団の賭けの罰で嘘の告白が流行っていると知り、エレナは意地悪な気持ちがありつつも求婚に承諾する。
「大切にするよ」
困ると思ったアルヴァンは喜びに顔を輝かせ、戸惑う彼女を抱きしめて──!?
プロローグ
その出会いは、恋愛小説のプロローグとしては、完璧だった。
燃えさかり、崩れゆく馬車。
路上に引きずり出され、震え上がる両親。
私たちの前には鉈のような刃物を持った屈強な大男が数人おり、その背後には兵士の亡骸が折り重なっていた。
――十年前の冬、私たち家族は山賊に襲われた。
親戚の結婚式に参列した帰り、初雪が降った日のことだった。
唐突に振り下ろされた暴力の前に、当時十二歳の私は、両親の腕の中でただただ身を強張らせることしかできず、また両親も神に祈ることしかできなかった。
私たちの荷物を調べた山賊たちは、金目のものが見つからなかったからだろう、どこか不満げだった。
その憂さを晴らすためか、それとも売って多少の金を得ようと思ったのか、彼らは両親に私を渡すように迫った。
もちろん、両親は必死に抵抗した。
殴られても蹴られても、私を離しはしなかった。
けれど、やっぱり暴力の前にはどうすることもできず、私は両親から引き剥がされ、山賊に捕まってしまったのだ。
私は泣きながら、必死に手足をばたつかせた。
怖かった。本当に怖かった。
その時の私は幼かったけれど、こんな奴らに捕まってしまった後の自分を想像できないほど子供でもなかった。けれども、男たちにはそんなの抵抗にもならなかったようで、私を軽々と持ち上げ、その場を去ろうとした。
そんな私を救ってくれたのは、人の形をした奇跡だった。
その時だった。
ひゅん、と風切音がして、遅れて「ぐあ」とカエルがつぶれたような声がする。
声のした方を見れば、胸に矢が刺さっている山賊が、前のめりに倒れるところだった。
男の身体が地面に叩きつけられると同時に、地響きのような男たちの咆哮がその場に木霊する。
明らかに狼狽える山賊たち。
近づいてくる、ガチャガチャと鳴り響く金属音。
気がつけば、山賊たちは鈍い灰銀色の鎧を纏う騎士達によって包囲されていた。
私を抱えた山賊は怯えた表情になり、私を連れたままその場から逃げようとする。
しかし、それは叶わなかった。
すぐそばでした肉を切り裂く音。
ころりと落ちる頭。
降り注ぐ血の雨。
支えをなくした、私の身体――――……
そんな地面に叩きつけられそうになっている私を、抱きとめてくれた人がいた。
「すまない。助けにくるのが遅くなった」
最初に聞こえたのは、やさしい声だった。
続けて飛び込んできたのは、サファイアのような綺麗な瞳と、金糸を思わせるつややかなブロンド。整った顔立ちに優しげな口元をもつ彼は、まるで物語の中の王子様のようだった。
彼は私と目が合うと、微笑んでから立ち上がる。そうして、周りの喧騒を全く気にもとめていないようにゆっくりと、私を両親のところまで運んでくれた。
「間に合ってよかった」
私を両親に引き渡し、彼はそう言って私の頭を優しく撫でてくれた。
そうして、瞬き一つで戦う男の顔になり、山賊を一網打尽にしようと仲間たちの元へ駆けていった。
今思い返しても、彼との出会いは恋愛小説のプロローグとしては、完璧だった。
自身のピンチを助けてくれた、金髪碧眼の王子様。――いや、騎士様。
完璧じゃなかったのは、私がお姫様ではなく、没落した男爵家の令嬢だったところだろう。けれど、そのシチュエーションは私が恋に落ちるのには充分すぎる威力を持っていて、私はあっという間に叶うはずのない初恋へと転げ落ちていったのだ。
――そう、これは叶わない初恋のはずだった。
「エレナ、君のことが好きだ。僕と結婚してくれないか?」
私の目の前には、たった十年間で一介の騎士から騎士団長にまで上り詰めた彼――アルヴァン・レーヴァントがいた。
彼は、男爵令嬢から使用人に転げ落ちてしまった私の前で、誰もがとろけてしまいそうな程の甘ったるい声で愛を囁いてくる。
「他の誰の隣にも立ってほしくない。僕だけの君になってほしい」
「えっと……」
その言葉に私が喜びではなく、困惑の声を出してしまったのは、そこがベンチの上で、彼が私のことを押し倒していたからだ。
しかも、潤んだ視線と火照った頬、香ってくる匂いから判断するに、彼はかなり酔っている。これでもかというほど酔っている。
「エレナ?」
清廉潔白などこまでも完璧な騎士団長様だったはずの彼が、目をとろんとさせて、こちらに迫ってくる。
(なんで、こんな事になってしまったのだろう……)
私は、彼の手の熱さにうろたえながら、数時間前のことを思い出していた。
第一章
ノクシア王国王宮の隣にそびえ立つ、もう一つの城――第二騎士団本部。
そこで働く、エレナ・ルシェールの毎日は忙しい。
「エレナ、こっちのシーツもリネン室に運んで!」
「こっちの籠のもよろしく!」
「わかりました!」
王宮内で王族たちの身辺警護を中心に活動している第一騎士団に比べ、第二騎士団は外遊先の王族の護衛に加え、王都の警備を一手に担っている。そのため団員数は多く、更に第二騎士団本部は兵舎を兼ねているので、エレナたちの忙しさはなおさらだ。
今日だって、朝はまだ日が昇らぬうちに起きて、身支度を整えた後すぐに朝食の準備に入り、焼き上がったばかりのパンを並べ、スープをよそい、皿を拭いた。
そうしていると騎士達が起きてくるので、そのまま朝食を配膳し、騎士たちが朝食を終えてから自分たちの朝食。あまりゆっくりとした時間が取れないので急いで食べて、その後は廊下や階段、談話室の掃除。それが終わったらシャツやシーツなどの大量の洗濯物と格闘し、その後は――……とまあ、こんな感じに羅列するのが億劫になるほどには忙しい。
そんな毎日の中で、エレナの唯一の心の潤いは彼だった。
「次っ!」
鞭の音のような張りのいい声が聞こえて、エレナは両手いっぱいのシーツを抱えたまま、声がした方向を見た。
エレナの視線の先には訓練中の騎士たちがいる。彼らがまるく囲っている中心で複数人と剣を交えているのは、この第二騎士団の若き団長、アルヴァン・レーヴァントだ。
金糸のような髪をなびかせつつ、彼は一斉に切りかかってきた三人の新米騎士たちを木剣で軽くいなしていく。
姿勢を低くしたまま大きく振りかぶってきた一人を避けて、それと同時に懐に入り、胴に一発。
前のめりに倒れてきたその兵士を押し返し、同じ方向から斬りかかってきた二人目にぶつける。
二人目がたたらを踏んでいる間に背後から襲いかかってきた三人目の剣を華麗に避けて、横から腕と頭に一発ずつ剣を入れる。
最後に一人目を抱えて尻餅をついている二人目の首に剣を突きつけて試合終了だ。
汗の一つもかくことなく彼はそこまでやってのけると、再び「次!」と騎士たちに声を張った。
「アルヴァン団長、今日も絶好調だな」
「俺なんか、そもそもまともに剣を構えさせてももらえなかったぜ」
「まじで、親の七光りだって言ってたのどこのどいつだよ」
アルヴァンの身のこなしを見つつ、騎士たちはそうぼやいていた。
ため息をつきつつ眺めているが、その目には尊敬の輝きが見え隠れする。
エレナも、新米兵士たちの相手をするアルヴァンを見ながら、ほおっと息をついた。
そうして自然と赤くなった頬を隠すように、彼女は洗いたてのシーツの中に顔を埋める。
(今日もかっこいい……)
そう、エレナはアルヴァンに恋をしていた。
アルヴァンとの出会いは十年前。
山賊に襲われ、攫われかけていたところを、彼に助けてもらったのが最初だった。
エレナの身体をしっかりと抱きとめる力強い腕に、鼓膜を揺さぶる低くて優しい声。
こちらを見下ろす慈愛に満ちた微笑みに、頭を撫でてくれる大きな手。
それらすべてが、エレナに『恋をしない』という選択肢を与えてくれなかった。
当時、エレナは十二歳、アルヴァンは十七歳。アルヴァンはまだ平の騎士で、エレナは男爵家の令嬢だった。
その時の身分だけみれば、まだ実のない恋ではなかった。
(だけど今は――)
「エレナ! 早くシーツ持ってきて」
「わ、わかりました!」
二人の距離は、もう随分と離れてしまっていた。
エレナの父親が事業に失敗して、とんでもない額の借金を抱えたのは、十年前。アルヴァンに出会ってすぐのことだった。土地も屋敷もほとんど手放し、ルシェール家は爵位だけが残った名ばかり男爵家に成り果ててしまった。
本当ならそこから貧困生活が始まるはずだったのだが、かつて父が王宮勤めをしていたことや騎士団との取引で縁を持っていたことから、当時の騎士団長のはからいにより「娘ひとりならこちらで引き取ろう」という話になり、エレナだけは騎士団本部に預けられることになったのである。
そこからずっと、エレナはここで働いている。
使用人に落ちてしまった名ばかりの男爵令嬢に、第二騎士団の騎士団長。
それだけでも届かぬ恋なのに――
「結局、アルヴァン団長がレーヴァント侯爵家を継ぐって話になったのよね?」
「まあ、継ぐ予定だった長男が亡くなったんだから、そういう話になるわよね」
「やだぁ、寂しい!」
最近、彼が侯爵家の跡を取ることも決定したらしい。それに伴って領主としての勉強のために騎士団長の職もあと二、三年ほどでやめてしまうというのだ。噂では、妖精とも呼ばれるリオノーラ・ベルシュタイン侯爵令嬢との縁談まで持ち上がっているらしい。
ベルシュタイン家は国の五指に入る大貴族で、リオノーラは王都でも知らぬ者のいない存在だ。
(もう、手が届かないどころの騒ぎじゃないわね)
こんなの、手を伸ばすことでさえも罪になるような距離感だ。
だから、エレナはこの恋を諦めていた。
胸にある熱い感情は秘めつつ、彼が騎士団にいる間はできるだけそばにいようと思っていた。
青天の霹靂が起きたのは、その夜のことだ。
(あれは、アルヴァン団長?)
エレナが彼を見つけたのは、夜風に当たろうと使用人宿舎から出て、外を散歩しているときだった。第二騎士団本部では使用人が生活で使う場と騎士団員が生活に使う場は離れているのだが、その二つの場を繋げる橋の上に彼はいた。
アルヴァンは橋の中央あたりに置いてあるベンチに腰掛けていた。
身体を前のめりに折り曲げ、ぐったりと地面を見つめている様は、どこか落ち込んでいるようにも見える。
エレナはしばらく迷ったあと、恐る恐る彼に近寄り、そっと声をかけた。
「アルヴァン団長?」
その声に反応するようにアルヴァンの肩がビクリと跳ねた。彼はゆるゆると顔を上げる。そうして、エレナを見留めて、大きく目を見開いた。
「エレナ?」
「団長、大丈夫ですか?」
まるで信じられないものを見るような目で見つめられ、エレナは困惑した。けれど、どうしてそんな目で見つめてくるのかを聞く前に、彼女はあることに気がついてしまう。
「もしかして、お酒を飲まれてますか?」
「あぁ、すこしだけ、な」
本人はそう言っているが、アルヴァンの赤らんだ顔はとても『少しお酒を飲んだだけ』には見えなかった。よく見れば首の据わっていない赤子のように頭がくらくらと動いているし、聞き取れないほどではないが呂律も上手く回っていない。隣に座れば、お酒独特のツンとした匂いも鼻についた。
(そういえば、今日飲み会をするとか言ってたっけ?)
エレナは昼間に聞いた騎士団員の話を思い出す。
春になり、第二騎士団にもたくさんの新米騎士が入ってきた。
今日はその歓迎会をするとかなんとかで、夕食を抜く騎士も多かったのだ。
(団長はあんまり飲み会とかには行かないと思っていたけれど……)
新人の歓迎会は別なのかもしれない。
そして、思った以上に飲みすぎてしまい、夜風に当たりつつ酔いを覚ましていたと考えれば、彼がこんなところにいる理由も納得がいく。
(それにしても、結構酔ってるわね)
エレナはアルヴァンを覗き込みながら、そんなふうに思う。
アルヴァンに限って、歓迎会ではしゃぎすぎた、わけはないだろうが、雰囲気に流されるようにしていつも以上に飲んでしまった可能性はあるし、飲む量はそこまででも仕事で身体が疲れており、お酒の回りがいつもより良かったということは十分考えられる。
(どちらにせよ、このままにはしておけないわよね)
場合によっては、部屋まで運んだほうがいいかもしれない。見たところ意識はしっかりしているが、だからといって部屋まで歩けるかどうかはわからないからだ。
エレナはそう判断してベンチから腰を浮かせた。
「ちょっと待っていてくださいね。いま水を持ってきますから。それを飲んだら――」
「待ってくれ!」
いきなり腕を引かれ、エレナはもう一度ベンチに座らされた。
「え。あの……」
「僕は、君に会いに来たんだ」
その突然の言葉に、エレナは「へ?」と目を瞬かせた。
言葉の意味を測りかねていると、エレナの腕を握っていたアルヴァンの手が、手首へと下りてくる。そうして、なぜかしっかりとエレナの手を握った。
「ちょ、ま、えっ!?」
「僕は君に――」
手のひらに感じたアルヴァンの熱すぎるほどの体温に、エレナは思わず身を引いた。しかし、それと同時に手まで引いてしまい、アルヴァンの身体はエレナの方に傾く。お酒のせいでぐらついていた彼の身体は、いとも簡単にこちらの方に倒れ込んできた。
「――っ!」
そうして気がついたときには、エレナはアルヴァンに押し倒されてしまっていた。
「あ……」
アルヴァンの背後に月が見える。
きらきらと輝くそれが、心臓の音に合わせて、じわ、じわ、じわ、と滲む。
なにがどうなっているのかわからない。わかるのは、目の前に大好きな人が――十年もの間片想いしてきた人がいるという事実だけだった。
エレナの大好きな人は、彼女の目の前でゆっくりと柔らかそうな唇を開く。
「エレナ、君のことが好きだ。僕と結婚してくれないか?」
「………………へ?」
聞き違いだと思った。
けれど、続けて聞こえてきた言葉が、エレナの考えを否定する。
「他の誰の隣にも立ってほしくない。僕だけの君になってほしい」
「えっと、それは、その、プロポーズのように聞こえてしまうんですが」
「プロポーズだからな」
どうして……?
最初に浮かんだ感想がそれだった。
だって、これまでそんな素振り少しもなかった。今日だって仕事で顔を合わせたけれど、たしかに微笑んでくれたり、軽く話しかけてくれたりもしたけれど。彼の言葉や笑顔の中になにか特別な感情を感じることなんてまったくなかった。
そんな彼がどうして、エレナにプロポーズをしてくるのだろうか。
エレナはそんな困惑のまま、口を開く。
「なんで、いきなりそんな……」
「僕じゃダメだろうか? 君の夫になる資格はないか?」
どこか泣きそうな目でそう迫られて、エレナはさらに混乱した。
お酒によって潤んだ青色の瞳が、月の光を反射してきらきらと輝いている。
(ヤバイヤバイヤバイヤバイ! 目が、焼ける!)
あまりの美しさに目の奥が痛くなってくるような気がするのに、お酒によってぐずぐずになった整った顔立ちから目が離せない。
酔って距離感がわからなくなっているのか、気がついたら唇に吐息が当たるほどに二人の距離は近くなっていた。
(どうしよう……)
もう心臓の鼓動しか聞こえない――
「エレナ?」
「す、少し考えさせてください!」
気がつけば、エレナはアルヴァンのことを押し返し、そう叫んでしまっていた。
◆◇◆
『夢にまで見た』なんて表現があるけれど、
言うなればそれは『夢に見るのもおこがましいほどの夢』だった。
近づいてくる形の良い唇に、こちらを見つめる潤んだ瞳。
月に照らされたさらさらのブロンドはまるでこの世のものではないかのようで、耳に触れる声は蜂蜜よりも甘やかだった。
『エレナ、君のことが好きだ。僕と結婚してくれないか?』
いま思い出しても、血が沸騰してしまう。頬が熱くなるのが止められない。
憧れていた人に、ずっと大好きだった人に、求められたのが嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて……。
なのに、エレナが出した答えは――
『少し考えさせてください!』
「なんで、あんなこと言っちゃったかな」
そんな後悔とともに、エレナは目覚めた。
布団からはい出ると、身体が重く、頭も少し痛かった。これはどう考えても、寝不足である。
エレナ的には、一応寝たつもりではあったのだが、どうやら頭はずっとアルヴァンのことを考えていたらしい。
(まあ、それもそうか……)
これまで全く脈がないと思っていた片想いの相手に、いきなり『好きだ』と伝えられただけでなく、キスまでされそうになったのだ。
そんなのもう、考えるなという方が無理な話である。
「はあ……」
エレナはベッドの上で膝を抱えつつ、一つ息をついた。
そうしているうちに、じわじわとアルヴァンから告白されたという事実がこみ上げてきて、頬が紅潮するとともに、唇がむずむずと歪んだ。
(嬉しい……)
やっぱりそれが正直な気持ちだった。
昨日は混乱して『少し考えさせてください』なんて、もったいつけたような返事をしてしまったが、エレナの答えなんて最初から決まっている。そんなもの、当然『イエス』しかない。
(どうやって返事をしよう。どこかで二人っきりで話せるかな……)
そんなことを考えつつ、エレナは窓の外を見た。
そして、大きく目を見開き、息を止める。
「ちょっ――!」
そこにあったのは、太陽だった。いつもはもっと下の方にあるはずのそれが、なぜかいまは高い位置にある。慌てて時計を見れば、いつも起きる時間を一時間も過ぎていた。
「ち、遅刻っ!」
エレナはベッドからはね起きると、慌てて身支度をするのだった。
「本当にすみませんでした」
いつもより一時間遅れで仕事に就いたエレナは、青い顔でそう深々と頭を下げた。
場所は厨房。もう朝食の配膳も終わり、騎士たちはみな大食堂で食事をしていた。
彼女の目の前に居るのは使用人頭のマリアで、彼女は朗らかに笑いながらエレナの肩を大きな手でばしばしと叩く。
「まあ、気にしなさんな。誰にだって寝坊の一回や二回はあるもんだよ」
「でも……」
「そもそも、私たちの仕事はエレナちゃんの本業じゃないんだしね」
そう、エレナは正確にいえば使用人ではなかった。
一応は男爵令嬢であるエレナの役職は『団長室付きの雑務係』だ。団長室の書類運びやお茶出し、来客対応の手伝いをこなすのが本来の役割である。とはいえ、騎士団長には専用の書記官がついているので団長室での仕事は量は少なく、来客もあまりない。そのためエレナは、万年人不足の洗濯場や厨房を毎日手伝っているのである。
騎士団本部の家政を取り仕切るマリアに慰められ、エレナは「ありがとうございます」と深く頭を下げた。ありがたいやら申し訳ないやらで胸がいっぱいになっていると、彼女の脇を二人の使用人が通り過ぎた。
「いいわよね。お貴族様は気楽で」
「一人だけ個室を与えられてるから、寝坊なんてするんじゃないのかしら」
「確かに!」
通り過ぎざまにわざと聞こえるようにそう陰口を叩かれ、エレナは思わず視線を下げた。そんな彼女の様子に、マリアが怒声を響かせる。
「こら、アンタたち! 人の悪口言ってる暇があったらちゃんと自分の仕事をしな!」
その声に二人は跳び上がり、あっという間に逃げていってしまった。
そんな二人の背中を眺めていると、マリアがどこか申し訳なさそうな声を出した。
「ごめんね、新人にあんなこと言わせちゃって。別の係と兼任しているから、エレナちゃんは私たちよりずっと仕事が多いのにね?」
「いえ、大丈夫です。言われていることももっともなので」
「でもねえ……」
「私、談話室の掃除、行ってきますね」
「ちょ、アンタ、朝食は?」
マリアが止めるのも聞かず、エレナはそのまま逃げるように厨房をあとにした。
そのまま訓練場の脇を通り、談話室へ向かう。
「はあ……」
唇から自然にため息がこぼれた。
(やっちゃったな……)
エレナのことをやっかむ人間は少なからずいる。
やっている仕事は使用人と変わらないのに、一人だけ個室が与えられていたり、名目上ではあるものの『団長室付きの雑務係』という、いかにも特別扱いじみた肩書きを持っていたりするからだ。しかも、名ばかりとはいえ今でも男爵令嬢で、団長の私室や執務室にも出入りできる立場でもある。そうした小さな差異の積み重ねが、彼女の周囲にじわじわと嫉妬や反感を生んでいた。
エレナはだからこそ、そんな場所で自分の居場所を作ろうと、人より多い仕事をこなし、できるだけ休まず、遅刻もせずにしてきたのである。
(でも、今日はあんまり落ち込んでないかも)
理由はやっぱり、昨日のアルヴァンからの告白だった。
昨日の事を思い出すだけで、顔がかっと熱くなり、足元がふわふわとおぼつかなくなる。
(いつから、そんな風に思ってくださっていたんだろう)
普段の彼の様子を思い出しても、いつからなのかは全くわからなかった。言葉を交わすことは少なからずあるが、昨日までのアルヴァンはいつもどおり穏やかで優しくて、だけど特別変わったことはなかったはずである。
「なあ、聞いたか?」
その声がエレナの耳に飛び込んできたのは、談話室に入る直前だった。
なんとなく気になり振り返れば、そこには朝食を食べたばかりだろう騎士団員が三人並んで歩いている。
盗み聞きなどするつもりはなかったのだが、彼らはエレナの存在に気が付いていないようで、そのままの声の大きさで会話を始めた。
「昨日の飲み会で、あいつらまたしょうもない賭けをやってたらしいぞ」
「あー、あれだろ? 飲み比べで負けた方が、嘘で女の子にプロポーズするやつ」
「知ってる、知ってる。膝をついて『好きです、結婚してください!』って言うやつだろ?」
エレナが身を隠してしまったのは、彼女の中に『まさか』が浮かんでしまったからだ。昨日、飲み会、プロポーズ……と来たら、思い出すのは一つしかない。
柱の陰で息を潜めながら、エレナは耳だけをそっと騎士たちの方へ向けた。
「最近、騎士団内で流行ってるよなー」
「ま、うちの女騎士どもはみーんなわかってるから、その場でバッサリと切って終わりだけどな」
「あ、でも、昨晩の賭けの罰の相手は、下働きの女の子だったらしいぞ?」
「まじか。それはさすがに悪ふざけが過ぎてるだろ」
「しかも、昨日は団長までその賭けに参加してさ」
瞬間、呼吸が止まった。
心臓が嫌な音を立てる。冷や汗が止まらない。
それと同時に思い出したのは、昨夜のアルヴァンの台詞だった。
『エレナ、君のことが好きだ。僕と結婚してくれないか?』
(そっ、か……)
エレナはその場にしゃがみこみ、膝を抱えた。
膝に埋めた唇から、喉元まで何かがせり上がった何かが言葉となって溢れた。
「賭け、だったんだ」
その声は自分で聞いていても、涙が滲んでいた。
どうしてもっと早く気がつかなかったのだろうか。
清廉潔白で真面目な団長が、あんな風に泥酔した状態で女性にプロポーズするなんて、普通に考えたらありえないのに。
そもそもエレナとアルヴァンの関係で、いきなりそんな夢みたいなこと、起こるはずがなかったのに。
(あんなに酔ってたのも、賭けに参加したからだったんだな)
目尻にじわりとなにかが浮かんでくる。
エレナはそれが流れる前に抱えた膝にぐりぐりと目元をこすりつけた。
「なんであんな言葉、真に受けちゃったかなあ……」
そんなふうにつぶやきながら、エレナは自分の馬鹿さ加減に嫌気が差していた。
その日のエレナは、心ここにあらずといった感じで過ごしていた。もちろん仕事はきちんとこなしていたが、朝のショックからはやっぱり立ち直れないでいたのだ。
考えれば考えるほど、アルヴァンのプロポーズが嘘だと証明されていくような気がする。それと同時に、一瞬でも喜んだ自分が愚かで情けなくて、苦しくなった。
(団長の眼中にないとは思ってたけど、まさかここまでナイとは思わなかったな……)
戯れに傷つけていい程度の女だと思われているのが、悲しいやら悔しいやらで、胸がぎゅっとなる。
正直、これまでのイメージからアルヴァンがそんなことをする人だとは思っていなかったが、それでも『アルヴァンがエレナに本気で告白した』と考えるよりは、よほど現実的だと思ってしまった。
(そもそも、団長にはリオノーラ様っていう縁談相手がいるじゃない……)
数時間前までは有頂天で忘れていたが、アルヴァンにはもう決まった人がいる。そのことにようやく思い至り、エレナはまた自分のことが一つ嫌いになった。
「はあ……」
「エレナ、なんか元気ないわね」
ため息が聞こえていたのか、それとも単にエレナの様子が気になったのか、同年代で仲良くしている同僚のモニカがそう声をかけてくれた。
エレナは食器をふいていた手を止めて、「うん。まあね」と頷く。
いつもならここで「そう? そんなことないわよ」なんて強がってみせるのだが、今日はその強がりも見せられなかった。
そんなエレナの変化に気がついたのだろう、モニカはこちらをのぞき込みながら心配そうな声を出す。
「大丈夫? なにかあったの?」
「その、もう終わったことだから」
「終わったこと?」
「まあ、うん。大丈夫、数日経てばいつもどおりに戻ると思うから」
エレナはそう言いつつ無理やり唇の端を引き上げた。傷ついていることは隠せなくても、これ以上心配をかけるわけにはいかないと思ったのだ。
それに、もうきっとアルヴァンはプロポーズのことを蒸し返してきたりはしないだろう。プロポーズすることが賭けの罰だったのなら、彼はもうそれは終えているし、ここからエレナに答えを聞いてくるなんて面倒なこともしてこないと思ったからだ。
(私がここで『イエス』なんて答えたら、団長だって困るものね)
未来の侯爵様が、こんなことで本当に結婚するわけにはいかないだろう。
戯れに傷つけてもいいと思っているぐらいに、好きでもない女なんかと。
それならば、まだゆっくりと傷を癒せる。
エレナはそう考えていた。
「エレナはいるか?」
その声が厨房に響いた瞬間、エレナは身体を硬直させた。
なぜならエレナは、その声の主をよく知っていたからだ。
エレナが恐る恐る振り返れば、そこには案の定、アルヴァンがいる。
入口に立っている彼はエレナを探しているようで、きょろきょろと厨房の中を見渡していた。
その様子に、エレナは身体を小さくさせた。
さすがに今は会いたくない。お願いだから、あと数日は声をかけないでほしかった。
けれど、そんな願いがアルヴァンに届くはずもなく、彼はエレナを見つけると、一直線にこちらまで歩いてきた。そして彼女の前で足を止める。
「えっと、な、なんでしょうか……?」
「エレナ、少し話したいことがある。仕事が終わってからでいいから私の執務室に来てくれないか?」
「その、それは今日でなくてはいけませんか?」
「できるだけ今日がいいんだが、もしかして何か用事があるか?」
「いえ、その。用事は何もないんですが……」
「何もないなら、その、だめか?」
「……わかり、ました」
エレナは視線を逸らしながら、頷いた。
本当は断りたい気持ちでいっぱいだったが、こんなに堂々とみんなの前で執務室に来るように言われて断れるはずもない。なんてったって、相手はこの騎士団本部で一番偉い、騎士団長様だ。命令という形は取っていないが、こんなものほとんど命令と変わらない。
(できるだけ昨日のことには触れず、さっさと用事を済ませて帰るしかないわよね)
そんな風に思いながらエレナは仕事を終え、彼の執務室に顔を出したのだが――。
「昨晩のことだが、その、覚えているだろうか?」
いきなりそう殴られた。
エレナは思わぬ攻撃にたじろぎつつ、「あ、はい、一応……」とか細い声を出した。
視線は自然と床の方を向き、胸の前で組んだ手のひらにはぎゅっと力がこもった。
(もしかして、まだなにかあるのかな)
プロポーズだけでは飽き足らず、まさかネタバラシまでやるのだろうか。
たしかにそこまでしなければ『お遊び』だと知らない女性は勘違いしてしまうだろう。数時間前のエレナのように。
(だけど、それは……)
エレナの精神状態にはあまりにも酷だった。
改めて「あれは嘘だったんだ」「遊びで仕方なくやらされたんだ」なんて聞いたら、正直ちょっと泣いてしまう自信がある。「なんでそんなこと言ったんですか」とアルヴァンを責めてしまう可能性だってある。
(そんなこと、したくない)
これはすべて自分が悪いのだ。アルヴァンがエレナを求めることなどあるはずがないのに、少し考えれば嘘だと分かるはずなのに、あまりの嬉しさに考えることも疑うことも放棄してしまい、身分不相応に彼の言葉をそのまま信じてしまった。
つまり、愚かなエレナが悪いのだ。
だけどいま、嘘でした、をされると、そんな理性的な自分よりも、きっと苦しくて悲しかった感情的な自分のほうが勝ってしまいそうな気がする。
謝ってほしくて暴力的な言葉を投げつけてしまいそうな気がするのだ。
「そのことなんだが、その……」
言い淀むアルヴァンを前に、エレナは自分の口を塞ぐようにぎゅっと唇を引き結んだ。言葉も涙も零れ出てしまわないように、息を止める。
しかし、その後のアルヴァンがとった行動は、エレナの予想しないものだった。
「本当に済まなかった! あんな泥酔状態でプロポーズするつもりはなかったんだ!」
「へ?」
「色々あって、焦ってたんだ。もしよかったら、やり直しをさせてくれないだろうか?」
(やり直し!?)
いきなり頭を下げられて、思いもよらぬ懇願をされた。
エレナがその事実に混乱をしている間に、彼はその場で膝をつく。
そうして、エレナの手を掬い上げるようにして取った。
「エレナ。君の真面目で一生懸命なところが好きだ。いつも前向きで、誰かのためだと思ったら自分のことを平気で後回しにしてしまうところが好きだ。屈託なく笑う顔も、周りを明るくする楽しそうな声も、周りを元気づけるその優しい性格も全部好きだ」
「あの……」
「エレナ、本当に君のことが好きだ。どうか私と結婚してくれないだろうか?」
真摯な目がエレナを貫いた。
一瞬、世界の音が遠のいて、息が詰まる。灯りに照らされたアルヴァンの顔は、お酒など飲んでいないはずなのに昨晩の時のようにほんのりと赤いような気がした。
(完璧だ……)
さらさらと音が聞こえてきそうなほどのブロンドも、まっすぐな青い瞳も、エレナの名を紡ぐその唇も、全部が全部、あまりにも完璧だった。
完璧な王子様だった。
完璧で、完璧で、完璧すぎて、エレナはまたうっかりと信じてしまいそうになってしまった。
エレナは慌てて、ぶんぶんと首を横に振る。
そうすると、先ほどまでのキラキラとした世界は消え去り、急に現実がせまってくる。
(きっと、昨日のじゃ、みんな納得しなかったんだろうな……)
プロポーズをもう一度やるということは、そういうことだろう。あんな泥酔状態で、勢いに任せた言葉など、彼の『罰』にならなかったのかもしれない。
ついでに言うならこの感じ、きっと答えを求められている。
(今朝の騎士様たちは、『女騎士様たちはみんな断ってる』って言ってたし、そこまでやってようやく、終わり、なんだろうな……)
それならちゃんと断らないと、とエレナは自分の中で言葉を探す。
けれど、なかなかそう簡単に言葉は見つかってくれなかった。それもそうだろう、エレナの人生の中で、アルヴァンからのプロポーズを断るなんて選択肢、想像もしていなかったのだから。
(もし、私がここで『よろしくお願いします』と頭を下げたら、どうするつもりなんだろう)
アルヴァンは驚くだろうか。それとも困ってしまうだろうか。
彼のことだからきっと、あからさまに嫌な顔はしないでいてくれると思うが、もしかすると目を逸らされるぐらいのことはされるかもしれない。
(もしかしたら、お詫びにデートぐらいはしてもらえるかも)
彼の罪悪感につけ込んでお願いしたら一回ぐらいは叶うかもしれない。
(それも、いいかもしれないな)
どうせこの後、騎士団の中で笑いものになるのだから、そのぐらいの見返りはあってもいいだろう。
プロポーズを本気にしたイタイ女と言われたって、本当のことなのだから痛くも痒くもない。
(この初恋を終わらせるのにも、いい機会よね)
「エレナ?」
返事をしないエレナのことが心配になったのか、アルヴァンはこちらをのぞきこんでくる。
エレナは自分の手を掬い上げるようにしている彼の手を、両手で包みこんだ。
そして、深呼吸。
「あの、不束者ですが、よろしくお願いします」
か細い声でなんとかそういい、エレナは彼の顔を見た。
案の定アルヴァンは、ぽかんとしている。それは、まるで――というか、まさしく、エレナの答えなど想像できなかったというような顔だった。
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