●著:御厨 翠
●イラスト:氷堂れん
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543907
●発売日:2026/6/30
無類の読書好き令嬢ですが、皇太子殿下の秘書官になりまして!?
浮気され一方的に婚約破棄された侯爵令嬢アンジェリカは夜会にて元婚約者に再び愚弄されかけた。
「私の大切な女性に、何をしているんだ?」
その時、留学帰りの皇太子クラウディオに庇われ、彼は彼女を自分の婚約者だと言う。
一時的な方便かと思いきや国王夫妻にも話を通し熱心に求婚してくる。自分にはムリだと躊躇する彼女にお試しの秘書官として政務を手伝うよう、彼から直接に提案されて!?
プロローグ
皇宮大広間に流れる美しい音楽の中、祝宴に集った貴族の笑い声が響き渡る。
大理石の床に映るシャンデリアの光は、夜空に輝く星々のごとく煌めいていたが、アンジェリカはひとり、その喧噪に取り残されたように佇んでいた。
(……やっぱり、来るべきじゃなかったかもしれないわ)
胸の奥でそう呟きながら、壁際を選んで歩いていく。
皇太子の帰還パーティとあり、会場にいる皆は華やかに装っている。
だが、アンジェリカの選んだドレスは、淡いクリーム色に近い薄桃のような色合いだ。華美な装飾は避け、胸元には小さな真珠がひとつだけ添えられている。
化粧も薄く、頬にほんのりと血色を添える程度に施した。�犲�分を主張しない�瓩海箸鯊莪譴冒�んだ装いだった。
移動するたびに、柔らかな癖のある蜂蜜色の髪が揺れる。背中の半ばまで流れるその色合いは瞳と同じ色で、美しい艶を放っていた。
本来であれば、華やかな場にふさわしく着飾り、皇太子の帰還を祝っていたはずだ。
けれど今は、目立つこと自体を避けたかった。
二年前。婚約者の浮気が発覚し、一方的に婚約破棄を告げられたためだ。あの日以来、噂話の的になり、『惨めな令嬢』という不名誉なレッテルを貼られている。
それ以降、社交場からは遠ざかり、今日も欠席するつもりだった。
『皇太子殿下が、留学先から三年ぶりに帰還される祝いの席だ。顔だけでも出してほしい』
そう長兄から頼まれなければ、書庫にこもり読書に耽っていただろう。
(それでも今日だけは来ると決めたのだから、毅然としていなければ)
「アンジェリカ、ここにいたのか」
「お兄様……!」
声をかけられて振り向けば、長兄のヴァルターが歩み寄ってきたところだった。
身内の穏やかな微笑みに安堵し、アンジェリカはわずかに表情を緩める。
「申し訳ありません。社交場からは遠ざかっていたので、人の多い場所は緊張してしまって」
「そうだろうと思っていた。父上はどうした? エスコートしてくださったのだろう?」
「挨拶に来る方々の対応をされていらっしゃいます。お忙しそうなので、わたくしは席を外させていただいたのです」
今日この場には、父・ギラウトのエスコートで参加していたが、侯爵家の当主であり外務大臣を務める父は、ひっきりなしに各家から挨拶を求められていた。多忙の父を独占するわけにもいかず、アンジェリカは自ら距離を取ったのだ。
その説明にヴァルターは小さく息を吐き、ひとつに結んだ金色の長髪をくしゃりとかき混ぜた。
「おまえに肩身の狭い思いをさせるのは本意じゃない。でも、我が家としても参加しないわけにいかないからね。……それに殿下も、おまえと会うのを楽しみにされていたよ」
「それは……光栄ですね」
アンジェリカは微笑を作り、兄の話を静かに受け流す。
ヴァルターは皇太子の学友であり、幼い頃からの付き合いがある。主君と臣下という関係を超え、彼らは今も友人に近い距離で接している。
ふたりの間でアンジェリカの話題が上がるのは不思議ではない。けれど、『楽しみにしている』という言葉をそのまま受け取るほど無邪気ではいられなかった。
「……後ほど、お父様と一緒に殿下にご挨拶に伺いますね」
「ああ、そうだね。僕も同席するから安心していいよ」
その言葉には、余計な負担をかけまいとする配慮が滲んでいた。
父も、ヴァルターも、次兄のアルマンも、皆、亡き母の代わりにアンジェリカを大切にしてくれている。その優しさに救われている一方で、社交の場に長く留まることへの疲労もまた、消えることはなかった。
「お兄様には感謝しています。まだもう少し、甘えさせていただけますか?」
「少しといわず、いくらでも構わないさ。僕たち家族は、皆、おまえの味方だからね」
優しい兄の言葉に頷いたときだった。
楽団の演奏が一段落し、大広間の空気が変化した。人々のざわめきが波のように広がっていき、視線が一斉に入口へと吸い寄せられる。
「クラウディオ・シュヴァイガー皇太子殿下のご入場です!」
(あ……)
儀仗兵が扉を押し開いた瞬間、会場が静まり返った。
皆の視線をその身に浴びるのは、この国の皇太子・クラウディオ・シュヴァイガーだ。
留学先から帰還したばかりの次代の皇帝は、息を呑むほど端整な顔立ちをしていた。
皇族特有の銀髪は、細い光の糸を束ねたように滑らかで、丁寧に整えられた前髪が額にかかるたびに淡く煌めく。
深い湖を思わせる碧眼は、向けられた者の心を一瞬で捉えてしまう。
礼服は、彼の均整の取れた体躯を際立たせる。肩から胸元にかけて施された銀糸の刺繍は帝国の紋章の鷲を模した紋様で、まるで彼自身がこの国そのものを象徴しているかのようだった。
研ぎ澄まされた空気を纏い、場を支配する存在感がある。
(……以前よりもずっと、素敵になられているわ)
皇太子はお忍びと称し、何度も屋敷を訪れた。まだ彼と兄が学生だったころの話だ。
初めて会ったとき、幼かったアンジェリカは挨拶に失敗してしまった。父や兄以外の男性を前に緊張し、家名を言えず固まってしまったのだ。
けれどクラウディオは、『可愛いお出迎えありがとう』と笑ってくれた。
宝石のごとき碧眼を細めて微笑むその姿に見蕩れ、余計に言葉を失ったことを、今では懐かしく思い出す。
「しばらく挨拶は無理そうだ。もう人に囲まれている」
兄の視線の先には、クラウディオを中心に人だかりができていた。彼は嫌な顔ひとつせず、にこやかに貴族らの挨拶を受けている。
――だが。その中で一瞬だけ、クラウディオの視線が止まった。
(……え?)
ほんの一瞬。けれど、確かにクラウディオの碧眼は自分を捉えていた。その目はまるで、群衆の中からアンジェリカを探していたかのように。
しかし彼は何事もなかったように視線を外し、ふたたび周囲に応じている。
(気のせい、よね)
クラウディオが留学してからは、文すら交わしていない。そもそも、気軽に話せるような相手ではないのだ。ヴァルターの妹でなければ、顔すら覚えられていないだろう。
心の中でそう結論づけたとき、兄が申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「悪い、アンジェリカ。少し外す」
「ええ、お兄様。わたくしのことはお気になさらず」
挨拶を求める他の貴族に声をかけられ、ヴァルターは離れていった。
ひとりになったアンジェリカは、安堵と緊張の狭間でふたたび壁際に身を寄せる。
煌びやかなシャンデリアの下、談笑する人々の輪から外れると、自分が場違いだと感じてしまう。卑屈になっているわけではなく、客観的な事実だ。
同年代の貴族令嬢の多くは、すでに婚約者を持っている。学園を終えれば花嫁修業へ移り、やがて結婚へと進むのが当然の流れだ。
婚約しない者は、修道院に入るか皇宮で働くか、場合によっては、親子ほど年の離れた相手に嫁ぐことさえある。だからこそ、皆が必死なのだ。
(まあ、わたしには関係のない話ね)
二年前、派手に婚約破棄されたアンジェリカに、近づいてくる男性はいない。
だが、そのほうが気楽でいい。もう傷つくのはこりごりだ。
そう自分に言い聞かせ、少しだけ肩の力を抜いたときだった。
「奇遇だな、アンジェリカ嬢」
聞き覚えのある、けれど二度と聞きたくなかった声が鼓膜を叩いた。
(……っ)
心臓が、嫌な音を立てて跳ねる。
ゆっくりと振り返ると、そこには酷く薄っぺらい笑みを浮かべた男が立っていた。
かつての婚約者、リヒャルト・ダイン侯爵令息。その腕には、派手なドレスの令嬢が寄り添い、値踏みするような視線をアンジェリカへ向けている。
「……ご無沙汰しております、ダイン侯爵令息」
アンジェリカは震えそうになる声を必死に押し隠し、完璧な貴婦人の礼をとった。それでも、気を抜けば逃げ出してしまいそうになる。
「社交場には顔を出さないと思っていたが。相変わらず地味だな、アンジェリカ嬢」
アンジェリカのドレスを一瞥したリヒャルトが、鼻で笑った。
パーティに参加している女性たちは、確かに華やかに着飾っている。金糸の刺繍も、宝石の輝きも、視線を奪うほど色彩豊かなドレスだ。
それに比べれば――そう言いたいのだろう。
アンジェリカは装飾を最低限に抑えている。髪と瞳に合わせた亜麻色の生地も、デコルテを飾る紅玉も、上品で精緻な施しがされている稀少なもので、過剰に主張しないだけだ。
ただ、リヒャルトにはそう見えないのだ。
彼の腕にしがみつく令嬢も、クスクスと笑い声を上げている。
「リヒャルト様、そのような言い方はお可哀想ですわ」
「優しいな、エリザは。だが、事実だろう? 書物が好きなだけの変わった女……取り柄は爵位だけの面白みのない令嬢だ」
リヒャルトの言葉に、周囲の貴族たちの注目が集まり始める。好奇や、同情、嘲笑混じりの様々な視線が、アンジェリカの全身にまとわりつく。
(……もうやめて)
二年前の出来事が想起され、胸が締め付けられるように苦しくなった。
彼が今の婚約者を選んだあの日、大勢の貴族が集うパーティで婚約破棄が宣言された。しかもそれは、アンジェリカとリヒャルトの婚約披露の場だった。
彼はつらつらと婚約破棄の理由を述べていたが、要するに、『自分にふさわしくない』――ただそれだけだった。地味でかわいげのない女など必要なかったのだ。
祝福に集まった皆は眉を顰めながらも、降って湧いた醜聞を楽しんでいた。
ひそひそと囁く周囲の声が、余計にアンジェリカの心を深く傷つけた。
――それから逃げるように社交界から距離を置き、やがて皇宮書庫に居場所を見つけた。
書物は嘘をつかないし、裏切らない。知識の海に身を沈めることで、ようやく呼吸ができた。
その後、縁あって皇宮書庫に司書として勤めるようになった。
二年かけて、ようやく傷が癒えた。そのはずだった。
(それでも……まだ、あのときから動けていないの……?)
アンジェリカは拳を強く握りしめ、溢れそうになる感情を必死に堪える。
侯爵令嬢としての矜持だけで、その場に立っていたとき。
「――私の大切な女性に、何をしているんだ?」
低く澄んだ声が、大広間の空気を切り裂いた。
驚いて顔を上げると、先ほどまで貴族に囲まれていたはずのクラウディオが歩み寄ってくるところだった。
銀の髪が照明を受けて淡く光り、碧眼は冷ややかにリヒャルトとエリザを射抜いている。
「……こ、皇太子殿下……!」
一瞬にして青ざめたリヒャルトの声が裏返る。彼に寄り添っていたエリザも顔を強張らせ、腕を離して後ずさった。
アンジェリカの前へと進み出たクラウディオは、躊躇なくその肩を抱き寄せる。
(……ど、どうして……殿下が?)
理解が追いつかない。ただ、彼の腕の中にいるという事実だけが、異様なほど鮮明だった。
クラウディオはアンジェリカに微笑みかけると、次にリヒャルトとエリザに視線を向けた。
ただその場にいるだけで、貴族たちの輪が静かに崩れていく。誰もが一歩、また一歩と距離を取っていた。
「きみは、彼女が私の大切な女性だと知ったうえで、そのような無礼を働いているのか?」
「ま、まさか……! 誤解です!」
リヒャルトが必死の形相で弁明するも、クラウディオは笑みを湛えたまま首を振る。すべてを見透かすような皇太子の瞳に、先ほどまで余裕を浮かべていた男の顔は見る影もなかった。
「わ、私はただ……皇太子殿下の帰還パーティに出席するには、地味ではないかと……!」
「え、ええ! そうですわ! 親切心で……!」
婚約者を擁護しようと、エリザも慌てて言葉を重ねる。しかしクラウディオは、理解できないというようにふたりを睥睨した。
「どのような教育を受ければ、そのような振る舞いができるのか興味深いな。そこの令嬢に、私は発言を許していないが?」
ひゅっ、と、エリザの喉が音を立てた。場の空気が凍りつく中、クラウディオはゆっくりと視線を巡らせ、ダイン侯爵をその目に捉えた。
「祝いの場でも、さすがに看過できない。そうは思わないか? ダイン侯爵」
「も、申し訳ございません、殿下……! どうかご容赦を……っ」
慌てふためき息子の元へ駆けつけた侯爵は、跪き、床に額を擦りつける勢いで叫んだ。だが、クラウディオは眉ひとつ動かすことなく言い放つ。
「アンジェリカ・ライムバッハー侯爵令嬢は、すでに私の婚約者だ。彼女への無礼は、ひいては皇家に弓を引く行為だと心得よ」
(えっ、婚約者……!?)
アンジェリカは耳を疑った。その言葉が自分に向けられているという現実を理解できない。
「皇太子殿下、ライムバッハー令嬢、ご婚約おめでとうございます!」
誰かが叫んだ。
痛いくらいの沈黙を保っていた会場からは、次の瞬間堰を切ったようにどよめきが広がった。
「おめでとうございます!」
「なんとお似合いのふたりでしょう……!」
混乱と祝福が入り混じる中、クラウディオは周囲を見渡すと、誰もが見蕩れる笑みを浮かべた。
「ありがとう。このような形での発表になったが、祝福の声を嬉しく思う」
皇太子の婚約発表という慶事を前に、それまで繰り広げられていた会話のことなど、もはや誰も気に留めていなかった。
「ダイン侯爵。貴卿には、後ほど詳しく話を聞こう」
その言葉に侯爵は深々と頭を垂れ、リヒャルトとエリザは完全に血の気が引いている。
「さて、アンジェリカ嬢。少し騒がしくなってしまったことだし、別の場所で話をしようか」
クラウディオは混乱する周囲をよそに、アンジェリカの肩に置いた手を離さず歩き出す。彼の手は、逃がさないと言うように導きながら、それでいて驚くほど優しく支えてくれた。
(いったいどういうことなの……?)
困惑と緊張、そして驚きで、頭が真っ白になったアンジェリカは、彼に身を任せることしかできなかった。
第一章 殿下の婚約者(候補)兼、秘書官に任命されました
大陸随一の広大な領土を治めるシュヴァイガー帝国は、皇帝シュヴァイガー十三世の治世のもと、揺るぎない安定を享受していた。
皇都の中心にそびえる皇城は、大国にふさわしい威容を誇り、その壮麗さは訪れる者すべてを圧倒する。
華やかな城内の奥深く、人々の目から遠ざけられるようにして、皇宮書庫は佇んでいる。
天井へ届くほど高くそびえる書架が光を遮り、室内は昼間であっても薄闇に沈んでいた。わずかに開かれた天窓から差し込む陽光が、空気に漂う埃を照らし、光の筋となって揺れている。
古文書の匂いと革装丁の深い香りが混ざり合い、独特の静けさを漂わせる書庫の中、アンジェリカは革表紙の年代記を胸元に抱き、細い通路を一歩ずつ進んでいた。
(今日は、この棚の再整理ね)
司書として働き始めて二年が経つ。最初は『婚約破棄された令嬢が逃げ込んだ』などと陰口を叩かれたこともあったが、今ではその仕事ぶりを疑う者はいない。
古い紙とインクの香りに包まれる書庫は、アンジェリカにとって何よりも心安らぐ場所だった。
書物は、過去を記し、真実を残す文字の群れだ。裏切りも感情の揺らぎもなく、静かに世界を築き上げている。
けれど、このところは違う。手に取った資料の文字が、ほとんど頭に入ってこない。
(……あの夜のことを、どうしても思い出してしまうわ)
数日前の祝宴で、アンジェリカは一躍時の人となった。それも、二年前のような醜聞ではない。皇太子・クラウディオの婚約者としてだ。
彼に抱き寄せられた体温と衝撃的な宣言は、記憶に焼き付いている。
『アンジェリカ・ライムバッハー侯爵令嬢は、私の婚約者だ。彼女への無礼は、ひいては皇家に弓を引く行為だと心得よ』
その後、混乱の中で彼に連れ出された先はバルコニーだった。
人々の視線から解放され、月明かりの下でようやく息を整えると、アンジェリカは震える声で問いかける。
『……どうして、あのようなことをおっしゃったのですか?』
『あれ以上、きみを傷つけさせるわけにいかなかった』
迷いのない、凛とした声だった。アンジェリカは思わず聞き返す。
『わたくしのために……ですか?』
『他に誰がいる? あの男に何を言われていたのか、全部は聞こえなかった。けれど、きみの顔を見れば充分だ』
クラウディオは優しい眼差しでアンジェリカを見つめ、自身の眉間を指さした。
『きみは泣きそうになると、眉間に力を入れるんだ。昔もそうだった』
『昔……?』
『ライムバッハーの屋敷に遊びに行っていたころのことだ。初めて会ったときも、泣きそうになっていただろう?』
『それは……幼いころのことで……』
『私には、きみが必死に我慢しているように見えた』
真っ直ぐに見つめられ、胸の奥がじんわりと熱くなる。けれど、あまりにも現実離れした展開に、納得しきれないのも事実だ。
『殿下のお気遣いには感謝します。ですが、わたくしを守るためだけに「婚約者」とまでおっしゃるなんて、あまりに代償が大きすぎます』
『方便と言えば方便だ。けれど、嘘ではない』
(嘘ではない?)
「それは、どういう……」
核心に触れようとしたそのとき、
『殿下! アンジェリカ……!』
血相を変えた兄・ヴァルターの声が響き、バルコニーの扉が開いた。
結局、『詳細は後日、家族を交えて正式に話し合う』という形でその場は収まったのだった。
「――はぁ。お父様もお兄様も、あの日からずっと落ち着かない様子だし……」
深くため息をつき、手元の書物を棚に戻そうと手を伸ばす。すると、背後から艶のある低音が聞こえてきた。
「そんなにため息をついていては、せっかくの良書が湿気てしまいそうだ」
「っ!?」
その声が落ちた瞬間、空気が変わった。
この場所には似つかわしくない高貴な響きに、弾かれたように顔を上げる。
そこには、護衛も連れず、ひとり書棚の間に立つクラウディオの姿があった。
「で、殿下! なぜこちらに?」
「きみに会いに来た」
薄暗い書庫に、あまりにも不釣り合いな存在だ。思わず持っていた書物を落としかけると、とっさに彼が支えてくれた。
「大丈夫か?」
「は、はい……」
クラウディオは儀礼服ではなく、軽装ながらも気品を損なわない装いだった。深い藍色の上衣は身体にほどよく沿う仕立てで、肩や袖口に細かな刺繍が施されている。控えめな立ち襟のデザインは、彼の端正な横顔を際立たせていた。
「司書としての姿は初めて見たが、制服が似合っているな」
「……ありがとうございます。そう言っていただけて光栄です」
皇宮書庫の司書に支給されているのは紺色の制服で、『知識と忠誠を象徴する皇宮司書の伝統色』とされている。
膝下丈のスカートは書架の間でも動きやすいよう設計され、袖口には帝国の紋章である鷲が金糸で刺繍されていた。
蜂蜜色の髪を後ろで束ね、実用性を優先した姿は、褒められるとむず痒い。
「わたくしに何かご用でしょうか」
そう取り繕うと、彼は一瞬だけ表情を改めた。
「父上と母上の都合がついた。今から会ってほしい」
「えっ……今、ですか?」
「こちらの都合で申し訳ないが、公務の合間でようやく時間が取れた」
「ですが、わたくしはこのような服装ですし、両陛下にお目通りするには失礼ではないでしょうか」
「非公式の場だから気にする必要はない。それに、制服も立派な正装だ」
その声音から、冗談ではないことがすぐに分かった。
あまりに急な展開に、アンジェリカの思考は追いつかない。皇帝と皇妃への謁見など、本来であれば事前の調整なくして成立しないはずだ。
しかしクラウディオは、アンジェリカの動揺を軽く受け流した。
「父上も母上も、きみに会いたくて仕方がないらしい。ライムバッハー侯爵とヴァルター、それにアルマンにも急遽同席してもらうことになった」
そのひと言に、アンジェリカの胸が大きく跳ねた。
間違いなく、先の騒動についての話し合いだ。
彼の発言は、あくまでアンジェリカを守るための方便に過ぎない。それなのに、話がどんどん大きくなっている。
(陛下や妃殿下も、さぞ驚かれたに違いないわ)
皇太子の婚約者ともなれば、彼ひとりの意思だけで決定できるものではない。それは、クラウディオも充分理解しているだろう。
まして自分は、彼の婚約者にふさわしい人間ではない。皇太子妃など、あまりにも身に余る。
(……きちんと説明しなければ。このまま曖昧にしてはいけないわ)
願わくば、この皇宮書庫でずっと働かせてもらいたい。皇帝と皇妃には、自分の気持ちをきちんと伝え、謝罪しようと心に決める。
「かしこまりました。伺わせていただきます」
「ありがとう。では、行こうか」
「……はい」
差し出された手におずおずと触れた瞬間、わずかに体温が伝わってどきりとする。
動揺を悟られないよう背筋を正し、彼のエスコートで書庫を出た。
幸いなことに、廊下に人の気配はなかった。安堵の息を漏らすと、クラウディオが小さく笑う。
「大丈夫だ。秘密の通路で向かうから、人の目は気にしなくていい」
「秘密の通路……ですか?」
「ああ。皇族と限られた者だけが知る道だ。有事や、お忍びで城を出る際に使われる」
淡々と語るその声に、特別なことをしているという緊張感はない。
クラウディオは会話をしながらも、迷いもせずあちこちの扉を開けて廊下を進んだ。まるでこの城全体が、その手の内にあるかのようだ。彼がいなければ、確実に迷子になってしまうだろう。
「……なんだか迷路のようですね」
「城にはこの手の仕掛けがいろいろある。きみのいる書庫も、立ち入り禁止の場所があるだろう?」
「はい。皇室の方々の私的な記録が残されていると聞いています」
書庫の一角には、厳重に閉ざされた扉がある。通称、『開かずの間』と呼ばれる部屋で、その鍵は皇家の人間が管理し、ほかの人間は入ることができないのだと教わっている。
「私的な記録といえば聞こえはいいが、かつての皇帝や皇妃の日記や書簡が保管されているだけだ。それよりも重要なのは、禁書の存在だろうな。こちらのほうが、きみも興味がありそうだ」
意味ありげにアンジェリカを見遣ったクラウディオは、口角を引き上げた。
「他国から渡ってきた哲学書や天文学書、政治論を記した書物がある。当時の文化や思想を知る貴重な資料だよ。時の皇帝が『一般に流通させるには危険な書物』だと判断して、皇族のみしか閲覧できないようにしたのが、今も続いているというわけだ」
「それは、歴史書にも匹敵する稀少な品ですね……!」
つい強く反応を示すと、彼がふと歩みを止めた。
「きみが望むなら、自由に閲覧できるように取り計らおう」
「えっ……」
「私の婚約者であれば、その程度の権限は当然だ」
逃げ道を塞ぐような笑みで言い放つと、クラウディオが前方を指し示す。
「さあ、こちらだ」
しばらく進み、方向感覚を失いかけてきたころ、ようやく目的地に到着した。
案内されたのは、皇宮の中でも一際格式高い部屋だった。限られた者しか入室を許されない、皇族の私的な謁見の間だ。
「アンジェリカ嬢をお連れしました」
クラウディオはそう告げると、自ら重厚な扉を開いた。
室内に広がっていたのは、華美な装飾こそ抑えられているものの、精緻に整えられた空間だった。大窓から差し込む光が部屋を満たしているにもかかわらず、足を踏み入れた瞬間から空気が一段と重くなる。
そこにはすでに、アンジェリカの父、ギラウト・ライムバッハー侯爵と、長兄ヴァルター、そして、騎士団に所属している次兄アルマンが、かつてないほど緊張した面持ちで座っていた。
彼らの正面に座すふたりが、扉の開く音にゆるやかに視線を巡らせる。
「来たか」
「わざわざ足を運んでもらって申し訳なかったわね」
穏やかでありながら有無を言わせぬ威厳を纏った男性は、この国の頂点に立つ皇帝シュヴァイガー十三世。その隣で優雅に微笑むのは、皇妃ヘレーナだった。
帝国を統べる皇族が揃うと、それだけで厳かな気持ちになる。
普段であれば、これほど近しい距離で皇帝や皇妃と謁見することはない。
あまりの圧力に足がすくみそうになったアンジェリカだが、隣に立つクラウディオがさりげなく背に手を添えて支えてくれた。
「そう緊張しないでいい。ここにいるのは、皆きみを案じている者ばかりだ」
「は、はい……」
安心させるように微笑みかけられると、不思議と足が前に出た。
彼に促されて隣に腰を下ろす。
重厚な沈黙が流れる中、顎に蓄えた髭を撫でた皇帝が、おもむろに話を切り出した。
「まず、ライムバッハー侯爵、そしてアンジェリカ嬢。息子の無作法を詫びよう。あのような公の場で根回しもなしに婚約を宣言するなど、いささか先走りが過ぎた」
皇帝が謝罪の言葉を口にするなど、本来あり得ないことだった。
ヴァルターとアルマンが息を呑み、父も目を見開いた。
「……と、おっしゃいますと、陛下はすでにご存知だったのですか?」
皇帝は皇妃と顔を見合わせ、苦笑を零す。
「留学先から戻るなり、クラウディオに相談されたのだ。アンジェリカ嬢との婚約をな」
「わたくしたちも驚いたけれど、息子の決意は固かったのよ」
皇妃は慈愛に満ちた笑みをアンジェリカに向け、「ただ」と続ける。
「ライムバッハー侯爵家の気持ちも、アンジェリカ嬢自身の気持ちも聞いていないままでは進められないと思っているわ。だから、今日はこの場を設けたのよ」
(やはり……あれは正式な話ではないのだわ)
あの夜のクラウディオの言葉は、あくまで場を収めるための方便に過ぎない。そう伝えようとした矢先、それを遮るように彼が口を開いた。
「これは、単なる感情論だけじゃありません」
クラウディオは表情を崩さぬまま一同を見渡し、滔々と語り始める。
「まず、外交を担うライムバッハー侯爵家と皇室がより強固に結びつくことは、今後の通商条約において多大なメリットを生む。それに加え、アンジェリカ嬢の慎ましく聡明な気質は、次期皇帝の伴侶として理想的でしょう」
政略としての利点を理路整然と並べるその声に、父も兄たちも言葉を失う。隙のない理屈でありながら、その裏にある意思が如実に浮かび上がっていた。
「……とはいえ、これはあくまで表向きの利点にすぎません」
クラウディオは淡々とした口調のまま、視線だけをアンジェリカの父へと向けた。
「ライムバッハー侯爵家は代々、帝国の外交を支えてきた名門。その家の令嬢が皇室に入ることは、国内外に対して『帝国の安定と継続性』を示す強い象徴となります。とりわけ、近年の北方情勢を鑑みれば、皇室と侯爵家の結びつきは、帝国の求心力を高めるうえで極めて有効です」
ヴァルターとアルマンが、無言で目を見交わす。
それは政治家の論理であり、逃げ場のない現実である。
「そして何より、アンジェリカ嬢は宮廷書庫で実務に携わっている。帝国の歴史と制度を�狠亮鵜瓩箸靴討世韻任覆�、�牘人儉瓩箸靴突�解している者はそう多くない。皇太子妃として必要な素養を、すでに自然と身につけていると言っていい。これは、教育で補えるものではない」
皇帝が頷き、皇妃も穏やかな眼差しをアンジェリカに向けている。クラウディオは続けた。
「もちろん、これは強制ではない。侯爵家の意向を無視して婚約を進めるような真似は、私も望んでいない。だが――」
そこで初めて、クラウディオはアンジェリカへと視線を移した。
「私は、アンジェリカ嬢が皇室に入ることが、帝国にとっても、侯爵家にとっても、そして……彼女自身にとっても、決して不利益にはならないと確信している。むしろ、互いにとって最良の選択となり得る。侯爵ならば、その意味はお分かりでしょう」
その声音はあくまで理性的で、感情を排している。しかしその眼差しだけは、隠しようのない熱情がこめられていた。
アンジェリカはその視線に耐えきれず、わずかに目を伏せた。すると、しばし沈黙していた父が重い口を開いた。
「……殿下のお考えは理解いたしました。皇室と我が家門の結びつきの利点を考えれば、臣下としてお受けするのが正しい判断でしょう。だが私は、父としてそれを良しとは思いません」
ギラウトは、侯爵としてではなく父としての感情だと前置きしたうえで続けた。
「アンジェリカは、一度深い傷を負っている。無理強いはしたくない。最終的な判断は、本人に任せたいと考えております」
視線が一斉にアンジェリカに集まる。
次期皇帝の婚姻という重大な決断が、自分の意思に委ねられている――その事実は、アンジェリカにはあまりにも重く感じられた。
だが、自分の選択を尊重してくれているからこそ、逃げてはいけないとも思う。何よりクラウディオは、アンジェリカなら皇太子妃を務められると信じているのだ。
その信頼に応えたい。
そう自身に言い聞かせるように、震えそうになる指先を膝の上でそっと組み隠し、意を決して口を開いた。
「……殿下。身に余る光栄ではございますが、わたくしはお受けできません」
そのときに――ほんの一瞬だけ、彼の呼吸が止まったように見えた。
アンジェリカは言葉を選びながら、自身の考えを口にする。
「ご存知の通り、わたくしは一度、婚約を破棄された身です。社交界では『惨めな令嬢』といまだに噂されており、殿下の隣に立つには相応しくありません。それに、わたくしは皇太子妃としての教育も受けておりませんので」
理屈としては正しいはずだ。それでも胸の奥は、かすかに軋んでいる。まるで、自分の言葉が自分自身を否定しているようで。
しかしクラウディオは、アンジェリカの発言に微塵も揺らがなかった。
「そんなことは、たいした問題じゃない。でも、きみが臆病になる理由もよくわかる」
彼はアンジェリカの目を見据え、わずかに唇の端を上げた。
「きみがそこまで不安だと言うのなら、提案がある」
「提案……ですか?」
「ああ。いきなり婚約者として振る舞うのが難しいのであれば、まずは�犧�約者候補�瓩箸靴董∋笋里修个砲い討曚靴ぁ6軌蕕�必要なら、私の秘書官となって政務を手伝ってくれればいい。そうすれば、私が直接教えることができる」
あまりにも現実的で、逃げ道のない提案だった。
「一緒に過ごしたうえで、それでも私の隣が苦痛だと言うなら、そのときはこの話は白紙に戻すと約束する。これならどうだ?」
「殿下、それは……」
秘書官とは、皇太子の最も近くで政務を補佐する役職だ。社交すら得意ではない自分に務まるとは思えない。ましてや政治の世界など、未知の領域だ。
「逃げ場は作った。――だが、きみを手放すつもりはない」
クラウディオの声音は静かだったが、そこに込められた意志は揺るぎなかった。
これ以上の譲歩はない。――彼の想いが言葉より雄弁に伝わってくる。
抗いがたい圧力と、それよりも強い情熱を感じ、アンジェリカは息を詰める。
皇宮書庫で、大好きな本に囲まれて静かに働く。それが望んでいた平穏な日常だった。
けれど、あの日クラウディオに救い出された瞬間から、止まっていた時間が動き始めたことを、どこかで感じていたのかもしれない。
(もう、逃げたくない)
アンジェリカは震える指先をぎゅっと握りしめ、まっすぐにクラウディオを見つめ返した。
「……わかりました。そのご提案、お受けいたします」
一呼吸置くと、一同を順に見渡してから、はっきりと告げる。
「わたくし、アンジェリカ・ライムバッハーは、クラウディオ殿下の�犧�約者候補�瓩箸靴董宗修修靴董↓猗觸餞鵜瓩箸靴董∪真汗唇佞�仕えいたします」
アンジェリカの宣言を聞いた瞬間、クラウディオがわずかに安堵したように息をつく。それと同時、皇帝と皇妃の顔に喜びの色が広がった。
「おお、受けてくれるか! アンジェリカ嬢のような聡明な娘が息子の隣にいてくれるなら、これほど心強いことはない」
「嬉しいわ、アンジェリカ嬢。あなたのその真面目さなら、きっと素晴らしい妃……いえ、秘書官になれるでしょうね」
ふたりの温かい歓迎とは対照的に、ギラウトやヴァルター、アルマンは、複雑そうな面持ちで視線を交わす。
「アンジェリカ……本当にいいのか? 秘書官となれば、これまで以上に厳しい視線にさらされることになるぞ」
「僕たちは、おまえに幸せになってほしいんだ」
父と長兄がそう言うと、アルマンもまた大きく頷く。
「無理をして殿下の言葉に従っているんじゃないか? 俺はもう、おまえが悲しむところを見たくない。もしもまた泣くような目に遭ったら、その輩を八つ裂きにしてやる覚悟だ」
拳を握るアルマンの様子に、ヴァルターがそっと肩を叩く。
騎士団の副団長の任に就くアルマンは、二年前の婚約破棄のとき、相手の家に怒鳴り込みに行く勢いだった。父とヴァルターが必死に宥めてその場は収めたものの、今もなおリヒャルトとは意図的に顔を合わせないよう取り計らわれている。
家族たちの言葉には、一度傷ついたアンジェリカを二度と苦しませたくないという切実な願いが込められていた。
アンジェリカは彼らの方へ向き直り、穏やかに微笑む。
「お父様、お兄様。ご心配をおかけして申し訳ありません。でも、これは殿下に命じられたわけではなく、わたくし自身の意思です。逃げてばかりでは、一生『惨めな令嬢』のままですから。自分を変える機会を、殿下がくださったのです」
決然とした声に、部屋の空気がわずかに引き締まる。やがてギラウトが小さく息を吐いた。
「……おまえがそう決めたのなら、私たちは全力で支えるだけだ」
「ああ。もし辛くなったら、僕やアルマンに真っ先に言うんだよ。……殿下、妹を泣かせたら、親友といえど容赦はいたしませんよ」
ヴァルターが棘のある笑みをクラウディオに向けると、彼は不敵に唇の端を上げた。
「肝に銘じておこう。――これからよろしく、アンジェリカ嬢」
周囲の視線を意に介さぬまま、彼にそっと手を握られる。その瞳には、獲物を決して逃さないという静かな決意が滲んでいる。
気づいてしまうと、アンジェリカはもうクラウディオから目を逸らすことはできなかった。
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