●著:すずね凜
●イラスト:針野シロ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543693
●発売日:2025/7/30
有能補佐官が美貌の王太子の愛され契約妻に!?
王太子ルドヴィックを密かに慕いつつも長年補佐官として支え続けた伯爵令嬢ヴァレンティーナは、突然、彼から王位を弟に譲るために契約結婚をしてほしいと求婚される。「あなたを本当の妻として大切に扱う、神に誓う」そう宣言され甘く蕩けるような初夜を迎えた二人はその後、辺境の地に追いやられるが協力して統治し幸せに暮らしていた。しかし、そんな二人に国王と弟王子急逝の知らせが届き!?
序章
その日の午後、ヨハンソン王国の首都にある王城での出来事である。
ヴァレンティーナは、上司であり第一王子のルドヴィックの書斎に呼び出されていた。
「殿下、ヴァレンティーナです。急ぎの御用向きですか?」
ノックをして部屋に入ると、ルドヴィックは書斎机の後ろの窓に向かってこちらに背中を向けて立っていた。
すらりと上背があり、金糸で王家の紋様の刺繍をほどこされた濃紺のジュストコールがよく似合い、白いトラウザーズが長い脚を包み込んでいる。
「ああ来たか、一等補佐官殿」
艶めいたコントラバスの声と共に、彼はゆっくりと振り返った。
サラサラした金髪に吸い込まれるような青い瞳、知的な額、高い鼻梁、男らしい鋭角的な頬の線、引き締まった口元――完璧な白皙の美貌の持ち主である。ヴァレンティーナは彼に仕えて五年になるが、これほど整った容姿の男性を未だ他に見たことがなかった。
容姿端麗なだけではない。ルドヴィックはここ数年、病で伏せがちの国王陛下と五歳年下の第二王子アルベルトを支え、国内外の政務に携わり、精力的に活動してきた。
国王陛下には二つ年下の実弟ベルマン侯爵がいたのだが、彼はなぜか二十五年前に王位継承権を捨て、国を出てしまっていた。そのまま行方知れずである。今やこの国を支えているのは。ルドヴィックであった。
才気煥発で弁もたつルドヴィックは、臣下たちの信頼も厚い。ただ、なぜか国王陛下はずっとルドヴィックに対して冷淡な態度で、第二王子ばかりを優遇していた。その理由はわからず、親子でも馬が合わないこともあるのだろう、としか思えなかった。いずれにせよ、一等王室補佐官として常に彼の傍で仕えてきたヴァレンティーナは、時期国王の後継者にふさわしいのはルドヴィックしかいない
と信じていたのだ。
ルドヴィックはうつむき加減に話し出す。
「話というのは他でもない。私は明日、二十五歳の誕生日を迎える」
「はい。城内でもお祝いの準備に余念がありません」
「二十五歳になる前に――」
ふいにルドヴィックが顔を上げる。彼はまっすぐにヴァレンティーナを見据えてきた。
「あなたと結婚したい。今すぐに」
「ええっ!?」
ヴァレンティーナは目を丸くする。
まさに青天の霹靂であった。聞き間違いか、と思う。
「え、いえ、ええと……殿下、その、よく聞き取れませんでした。もう一度――」
「ヴァレンティーナ・ホバチェック・アンデル伯爵令嬢、私はあなたと結婚したい」
ルドヴィックはきっぱりと繰り返した。
「け、結婚……?」
ヴァレンティーナは呆然とルドヴィックを見遣った。
これは悪い冗談か?
時期国王の資格を持つ第一王子が、一介の王室補佐官に求婚しているのだ。
十四歳から五年間、ルドヴィックの補佐官としてヴァレンティーナは誠心誠意務めてきた。
二人はぴったりと息が合い、最高のパートナーだと自他共に認めていた。だが、それはあくまで仕事上でのことだ。ヴァレンティーナは密かな自分の恋心を、決して表に出すことはしないように努力していた。無論、ルドヴィックが自分を異性として見ているようなそぶりは、まったく感じなかった。
それなのに、突然のプロポーズとは――。
ヴァレンティーナは頭にかあっと血が上り、足元がふわふわと浮くような錯覚に陥った。
(これは夢だわ――ずっと殿下に密かに想いを寄せてきたから、私の願望を夢で見ているだけなのよ)
心臓がドキドキ高鳴る。そっと頬に手を寄せ、抓ってみた。
「い、痛い……っ」
現実であった。
いつもなら、時々見せるヴァレンティーナの無防備な仕草に忍び笑いを漏らすルドヴィックであるが、今は思い詰めたような表情で見つめてくる。
「ヴァレンティーナ。あなたにしか、頼めないことだ。私の話を聞いてくれるか?」
深い事情があるようだ。ヴァレンティーナは素早く一等補佐官の顔に戻った。
「お伺いします、殿下」
ルドヴィックはうなずき、おもむろに話し始めた。
「ヨハンソン王家の規範では、王子は二十五歳になると、正式に王位後継者の資格を得ることになっている。それは知っているな?」
「はい。王家規範第十条の条項二に、その旨が記載されております」
「さすが、有能な私の補佐官だ。そこでだ――」
ふ、とルドヴィックの表情に影が差した。
「私はとある事情から、王位継承権を放棄したい。次期国王は弟のアルベルトに任せたいと思っている」
「えっ? まさかそんな――」
ヴァレンティーナは思わず反論してしまう。
「殿下こそ次期国王に相応しいと、私も臣下たちも皆、信じておりました。殿下だって、これまで国政に力を注いでこられたではないですか!? なぜですか? なぜ王位継承を放棄したりなさるのですか!? とある事情とはなんですか!?」
畳み掛けるヴァレンティーナを、ルドヴィックは右手を上げて押し留めた。
「それは故あって言えない。だが私の意志は固い」
「……」
ルドヴィックの口調に思い詰めたような悲哀を感じ、ヴァレンティーナは声を失う。
「でも……それでなぜ私と結婚などと……あっ!」
ヴァレンティーナはやっとルドヴィックの真意に気がついた。
「王家規範第十五条の王家の結婚についての条項三、ですね!?」
「さすがだな、私の補佐官は」
ルドヴィックは我が意を得たりとばかりにうなずいた。
「王家の結婚条項三、曰く、『外国人と結婚した王族は王位を継ぐことはできない』」
「だから、私を……」
ヴァレンティーナはちらりと窓ガラスに映る自分の姿を見遣った。
ヨハンソン王国の人間は、金髪碧眼で身長が高い。
しかしヴァレンティーナは、艶やかな黒髪に黒い目、小柄で、滑らかな象牙色の肌――ヴァレンティーナは今は亡きベチュカ王国の民であった。祖国を失って、難民としてヨハンソン王国に流れてきた異国人なのである。
(ああ、そういうことなのね……)
ヴァレンティーナはやっと腑に落ちた。
異国人のヴァレンティーナと結婚したら、ルドヴィックは自動的に王継承権を失うことになる。
「その通りだ。このような無体なことを頼めるのはあなたしかいない。理不尽であるとはわかっている。だが、伏して頼む」
ルドヴィックはやにわにヴァレンティーナの前に跪くと、彼女の両手を握り思い詰めた目で見上げてくる。彼の手は驚くほど熱かった。
「アルベルトが王位継承権を得る五年後までの、契約結婚でいい。晴れてアルベルトが次期国王の権利を得たら、離婚してかまわない。仕事だと割り切ってはくれまいか?」
これまでのルドヴィックは、いつでも自信に溢れ華々しく周囲を牽引してきた。初めて見せる縋るような視線に心臓が甘くきゅんと疼く。王位継承権を放棄するとは、よほど重大な事情なのだ。
ヴァレンティーナは恋するルドヴィックのためなら、なんでもしてあげたいとずっと思っていた。
彼が王位に就いてやがて王妃を娶ることになっても、一生独身で彼に仕える覚悟をしていたのだ。
たとえ愛のない契約結婚だとしても、ルドヴィックのそばにいて彼の支えになれるなら、この身を捧げてもかまわない。
「殿下、どうかお立ちください」
ヴァレンティーナはそっとルドヴィックの手を握り返した。
「深いご事情があるのですね。わかりました。私は一等補佐官として、殿下のためならなんでも致し
ましょう」
パッとルドヴィックの顔が明るくなる。
「では――?」
ヴァレンティーナはこくんとうなずいた。
「この結婚、お受けします」
「ああヴァレンティーナ! 感謝する!」
ルドヴィックはヴァレンティーナの両手の甲に、繰り返し口づけした。温かい唇の感触に、ヴァレンティーナは全身の血がかあっと燃え上がるような気がした。
ルドヴィックは手を握ったまま、ゆっくりと立ち上がった。
「では、今すぐに城の聖堂へ赴こう。ローアン司祭様がおられるはずだ。婚姻の誓約を交わそう」
「え、い、今すぐ?」
戸惑うヴァレンティーナに、ルドヴィックはにやりと笑いかけた。
「無論だ。善は急げだ」
『善は急げ』は、行動力のあるルドヴィックの口癖である。その表情は、いつもの自信満々のルドヴィックであった。
第一章 契約結婚で偽りの花嫁になりました
今から十五年前、大陸の南にベチュカ王国という小国があった。そこの民は、黒髪に黒い目、象牙色の肌を持つ人種であった。小国ながら国は平和に繁栄していた。
ヴァレンティーナ・ホバチェックは、ベチュカ王国の伯爵家の一人娘だった。父のホバチェック伯爵は、外交官として有能な人物で各国で活躍していた。優しい両親の愛情のもと、ヴァレンティーナは四歳になるまでは何不自由なく暮らしていた。
しかしベチュカ王国は、突如、攻め込んできたゴンジャロフ帝国に侵略されてしまう。
祖国は滅亡し、戦火の中一人生き延びたヴァレンティーナは、戦災孤児としてヨハンソン王国に流れ着く。国の施設で暮らしていたヴァレンティーナは、子どものいなかった篤志家のアンデル伯爵家に引き取られ、養女となった。養親たちはヴァレンティーナを大切に育ててくれ、高等教育を受けさせてくれた。養親の期待に応えるべく、ヴァレンティーナは懸命に学業に励んだ。ひときわ抜きん出た才があったヴァレンティーナは、どんどん飛び級をし、わずか十二歳にして国立大学を卒業した。
その優秀さを認められ、異国人ながら異例で、王城から王妃付きの女官を命じられたのである。
ただ、金髪碧眼が多いこの国では、烏の濡れ羽色のような黒髪や黒曜石色の瞳や象牙色の肌は、公の場では大いに目立った。そこでヴァレンティーナは、常に髪をスカーフで覆い、襟が詰まって手首まで袖のあるドレスを着て、容姿の違いを隠すことにした。
王妃は美しく穏やかな人で、女官たちにも優しかった。だが身体が弱く病気がちで、ベッドに伏していることが多かった。それなのになぜか、夫である国王陛下も二人の王子も、一度も王妃を見舞いに訪れることがなかった。
他の女官たちの噂では、国王陛下は王妃を嫌っていて、王子たちにも王妃を見舞うことを固く禁じているというのだ。ヴァレンティーナはそんな王妃が不憫でならず、心を込めて仕えていた。
読書家だったヴァレンティーナは、王妃の代筆と朗読係を命じられていた。
十四歳の誕生日を迎えようという頃だ。
ベッドに横になっている王妃の所望で、ヨハンソン王国の歴史書を読み上げていた。と、ふいに、ベッド際の窓がコツコツと叩かれた。
「曲者!?」
ヴァレンティーナは不審者かと思い、さっと立ち上がり、懐に隠し持っていた護身用のナイフを取り出そうとした。身を挺しても王妃を守るのが、女官の務めだ。すると王妃がか細い声で告げた。
「ヴァレンティーナ、窓を開けてあげて。きっと、ルドヴィックだわ」
「は、はい」
ヴァレンティーナは慌てて観音開きになっている窓の鍵を外した。すると、ベランダからひらりと、一人の青年が飛び込んできたのだ。同時に甘い花の香りがした。
年の頃は二十歳前後か。艶やかな金髪に澄んだ青い目、すらりとした肢体の目も覚めるような美青年だった。手には色とりどりのフリージアの花束を持っている。
「母上」
青年は軽やかに床に飛び降りた。
第一王子ルドヴィックであった。ヴァレンティーナが彼に会うのは、初めてのことだった。
慌てて部屋の隅に下り、頭を低くした。
「ルドヴィック、ここには来てはいけないと、陛下からきつく言われているでしょう?」
王妃は小声でたしなめた。ルドヴィックはつんと顎を逸らす。
「息子が母に会いにくるのが、なぜいけないんですか?」
彼は花束を王妃に差し出した。
「母上の大好きなフリージアの花を摘んできました」
「まあ、嬉しいこと」
王妃の青白い頬に、かすかに赤みがさした。彼女が起きようとした。
ヴァレンティーナは素早く進み出て、王妃が身を起こすのを手伝い、背中にクッションをあてがった。
「ありがとう、ヴァレンティーナ」
王妃は礼を言って、ルドヴィックから花束を受け取った。鼻を近づけ香りを嗅いだ王妃は、か細い声でつぶやく。
「良い香りだわ」
ルドヴィックはベッドの脇に跪き、王妃の顔を気遣わしげに覗き込む。
「母上、早くお元気になってください」
ヴァレンティーナは母子水入らずを邪魔せぬよう、足音を忍ばせて花瓶を取りに部屋を後にした。
花瓶に水を入れて部屋に戻ると、王妃は仰向けになって眠ってしまっていた。胸の上に花束が載っている。その寝顔を、ルドヴィックが憂い顔で見下ろしていた。
「失礼します」
ヴァレンティーナは声をひそめ、花束を手に取ると持ってきた花瓶に活け、ベッドの側の小卓の上に載せた。ルドヴィックはじっとヴァレンティーナの一連の動きを見ていた。彼はおもむろに声をかけてきた。
「君だね。その若さで大学を主席で卒業して、母上付きの女官になった少女というのは」
「はい、ヴァレンティーナ・ホバチェック・アンデルと申します」
ヴァレンティーナは恭しく頭を下げた。
「頭を上げてくれ、ヴァレンティーナ」
「は、はい」
顔を上げると、こちらを凝視しているルドヴィックと目線が合う。吸い込まれそうな深い蒼瞳に、ドキマギしてしまう。相手が年端のいかぬ少女だということで気を許したのか、ルドヴィックは吶々と話し出した。
「母上は、ひどくお身体が悪い。だが、私は父上からここに来てはいけないと厳命されている。理由はわからない。父上は、母上だけではなく、私のことも好いていないのだ」
「そ、そのような……」
ヴァレンティーナは返答に詰まる。だが、ルドヴィックの口調があまりに悲しそうなので、無礼を顧みず言葉を紡いでしまった。
「私は戦災孤児で、養親の元で育ちましたが、とても愛情を注いでもらいました。国王陛下だって、きっと王子殿下に愛情をお持ちに違いありません」
ルドヴィックは目を瞠る。
「君はとても優しいね。そして、とても賢い」
「恐れ多いです」
ルドヴィックの気持ちのこもった言葉に、心臓がドキドキして顔が赤くなるのを感じた。
ルドヴィックが少し顔を近づけて、さらに声をひそめた。
「どうか、母上のことをよろしく頼む。私の代わりに、しっかりとお世話をして上げてくれ」
「もちろんです。誠心誠意、お仕えします」
「頼もしいね」
ルドヴィックがにっこりした。彼は花瓶から一本の黄色いフリージアを抜くと、一礼してヴァレンティーナに差し出した。とてもスマートで優美な仕草であった。
「これを君に。エキゾチックな雰囲気の君には、黄色い花がとてもよく似合う」
ヴァレンティーナはさらに脈動が速まってしまう。
「あ、ありがとうございます……!」
震える手でフリージアを受け取った。
「いつ来られるかわからないけれど、必ずまた会おう、ヴァレンティーナ」ルドヴィックは王妃の寝顔を一瞥してから、窓を開けて身を乗り出した。ヴァレンティーナは急いでベランダに出た。あっと思う間も無く、彼はベランダから近くの樹木に飛び移り、身軽な動作で木を伝って姿を消してしまった。
「殿下――」
ヴァレンティーナはルドヴィックを見送りながら、手にしていた黄色いフリージアの匂いをそっと嗅ぐ。ほんのり甘い匂いは、ヴァレンティーナの胸をきゅんと締め付けた。
それが――二人の初めての出会いであり、ヴァレンティーナの初恋だった。
だが、その日を境にするように、王妃の容体はみるみる悪くなっていったのである。
王妃付きの女官たちは、昼夜交代で王妃の看病をした。ヴァレンティーナは身にこたえる深夜の当番を率先して引き受け、甲斐甲斐しく王妃の世話をした。しかし、日に日に王妃はやつれ衰えていった。
ある晩である。
王妃の枕辺でついうつらうつらしていたヴァレンティーナは、消え入りそうな王妃の声で起こされた。
「ヴァレンティーナ――」
ヴァレンティーナはぱっと顔を上げた。
「はいっ、王妃様、お水ですか?」
「お願い、今すぐ、ルドヴィックを呼んでちょうだい――」
「殿下をですか? では殿下付きの侍従を呼んで――」
「いいえ、いいえ、あなたに頼みたいの――誰にも知られないように、ルドヴィックを――」
王妃は懇願するように、痩せた手でヴァレンティーナの手を力なく握る。その手は、死人のように冷たかった。ヴァレンティーナは心臓が縮み上がった。
王妃は途切れ途切れに言う。
「ルドヴィックの部屋は、西棟にあるわ――燭台を持って、廊下を出て西の角の窓から、大きく何回も回してちょうだい――ルドヴィックへの合図と、前から二人で決めてあったの――」
「わかりました!」
ヴァレンティーナは燭台を手にすると、足音を忍ばせて王妃の部屋を出た。深夜のため、待機している女官や侍従たちはうたた寝している。薄暗い廊下に出て、西の角まで走った。
そこの窓の前に立ち、西棟に向かって大きく燭台を回した。ルドヴィックが熟睡していて、この合図に気が付かなかったらどうすればいいのだろうと、混乱と焦りでいっぱいだった。だが、数回回していると、西棟の一画の窓にぽっと灯りが点った。そこがルドヴィックの部屋なのだろう。
「ああ――気が付かれた……」
ヴァレンティーナはほっと大きく息を吐き、素早く王妃の部屋に戻った。
「王妃様、殿下が気が付かれました。すぐにおいでになりますよ」
王妃の手を握って温めるように擦りながら、励ますように声をかける。ほどなく、枕辺の窓ガラスが鋭くノックされた。ヴァレンティーナは急いで窓の鍵を外した。
冷たい夜風と共に、ルドヴィックが飛び込んできた。寝巻きのガウン姿で、顔色は真っ青である。
彼はベッドに駆け寄り、王妃を呼んだ。
「母上!」
王妃は弱々しいが、はっきりとした声で言った。
「ヴァレンティーナ、王子と二人だけで話がしたいの。どうか、席を外しておくれ――」
「はい、ドアの外で見張っています」
ヴァレンティーナは急いで部屋を出て、扉の前でたたずんだ。部屋の中から、ぼそぼそと会話する声が漏れてくる。時折、王妃の啜り泣きも聞こえる。ヴァレンティーナは不安な胸を抱えて立ち尽くしていた。
ふいに、内側から扉がそっと開く。
「ヴァレンティーナ」
ルドヴィックが低い声で呼びかけた。彼の顔は紙のように色を失っていた。眼は虚ろで、唇が震えている。彼は嗚咽を堪えるような震え声で言った。
「母上は、今、息を引き取られた――」
「え――!? そ、そんな……!」
悲哀と衝撃で、ヴァレンティーナはその場で頽れそうになった。ルドヴィックが咄嗟に腕を掴んで
引き立たせる。彼はぐっと顔を寄せてきて、地を這うような恐ろしげな声を出した。
「私はここにいなかった。お前が母上の死を看取ったのだ。いいな? 今夜ここで私と母上が会ったことは、二人だけの秘密だ」
さっきまで光を失っていたルドヴィックの青い目が、厳しく見据えてきた。あまりに真剣な顔で、ヴァレンティーナは射すくめられたように全身が硬直し、息もできなかった。ただこくこくとうなずくのみだ。
「わ、わかりました……」
「よし。私がいなくなってから、人を呼ぶんだ」
ルドヴィックはヴァレンティーナの腕を放すと、くるりと踵を返し、開いた窓から外へ姿を消した。
ヴァレンティーナはがたがた震えながらベッドに近づき、王妃の息を確かめた。呼吸はなく、脈も止まっている。王妃の落ちくぼんた眼は二度と開かなかった。
「――ああ、ほんとうにお亡くなりに……!」
どっと涙が溢れてくる。そのまま王妃に取り縋って泣きたかったが、ルドヴィックとの約束を思い出し、涙を拭いながら扉口に向う。扉を開き、深呼吸すると悲鳴のような声を上げた。
「誰か、誰かあ! 王妃様が――!」
その後のことは、悪い夢でも見ているようだった。王妃付きの女官と侍従たちは右往左往し、呼び込まれた医師が正式に王妃の死を告げた。城内は悲嘆に騒然となった。
だが訃報を知らされた国王陛下はただ一言、
「そうか」
と、答えたきりだったという。
朝には国王陛下から王妃崩御の布告が出された。王妃の遺体は王家の墓所に運ばれて埋葬されることとなった。荘厳な葬式が執り行われたが、国王陛下は最期まで王妃の顔を見ようとはしなかった。
ルドヴィックも第二王子のアルベルトも、王妃の遺体に別れを告げることを許されなかったのだ。そして慣例なら、王妃の墓碑は歴代の国王夫妻の眠る一角に置かれるのだが、なぜか王妃だけは少し離れた場所に葬られた。
それは国王陛下の意思であった。彼はその理由を頑なに語らなかったのである。
ひと月後には、王妃付きの女官や侍従たちは、別の職場に異動となった。
ただひとり、異国人であるヴァレンティーナだけは、新たな仕事を与えられなかった。
実家に戻るしかない。
だが一昨年、実家の養親の間には男の子が生まれていた。待望の実の子供である。養親のヴァレンティーナに対する愛情に変わりはないとはいえ、実家に帰るのは気後れする。
ヴァレンティーナは王妃の死の悲しみと先行きの不安に苛まれながら、のろのろと自室で荷物をまとめていた。元々慎ましい性格のヴァレンティーナには、私物と言えるものはあまりなかった。トランクひとつに荷物をまとめ、最後にいつも持ち歩いている赤い革の手帳を開く。その日の王妃の体調や食事の量、仕事の段取りなどをメモするための手帳だった。一番最後のページに、押し花が挟まれてある。ルドヴィックにもらった黄色いフリージアを、大事に押し花にしてとってあったのだ。そっと花に触れてみる。
(さようなら王妃様、さようなら王子殿下、さようなら、私の初恋――)
ぱたんと手帳を閉じ、侍従を呼んでトランクを運んでもらおうとした時だ。
戸口に人影がさした。ノックもせずに入ってきた人物がいる。ぎくりとしたが、それは見覚えのあるすらりとした青年の姿だった。
「あ……殿下」
喪服を着たルドヴィックは前より少し痩せていたが、精悍さが増したように見えた。慌てて最敬礼をしようとすると、彼は素早く声を発した。低く少し掠れた声は王妃の死の悲しみのせいか、哀愁を帯びている。
「礼など無用。あなたは、実家に帰ると聞いたが?」
「はい、私は異国人ですし、元々異例の抜擢でしたから」
「帰らなくていい。私があなたを雇う」
「えっ?」
聞き間違いかと、目をぱちぱちさせていると、ルドヴィックの青白い頬にわずかに赤みがさした。
「あなたはその年で、とても賢く機転がきき、大胆なところもある。私の命令通り、母上をきちんと看取ってくれた。きっとこれから、あなたはもっと有能な人間になるだろう。だから、私付きの女官になれ。いや、女官ではない、補佐官か秘書の役職を与えよう」
「え、え、え、私、ですか?」
王子付きの補佐官など、身分が高くなおかつ優れた才を持つ者しかなれない。信じられない展開に、しどろもどろになってしまう。
「それに――」
ルドヴィックがぐいっと顔を寄せてきた。美麗な顔が間近にあって、ヴァレンティーナは息が詰まりそうになる。
「あなたと私の間には、秘密がある。だから、側に置いておきたい」
「――」
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