●著:月宮アリス
●イラスト:鈴ノ助
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543754
●発売日:2025/10/30
一夜限りの夢のような時間で彼の子を宿してしまって!?
工房で働きながら一人で息子パトリックを育てているナンシーはある日、美しい金髪の男性が訪ねてきたことに動揺する。はたしてその人物とは、パトリックの父親でありかつての上司である騎士団長、ユウェイルだった。
「その子供……やはりあの時、きみと私は――」。一夜限りの契りを結び、子を授かったものの身分の違いから黙って姿を消した過去を持つナンシーは改めてユウェイルを拒絶するが……。
プロローグ
カラン、カラン、カラン――
鐘の音と同時に、まるでぴんと張られた糸が弛緩するようにふわりと空気が緩んだ。
陶磁器工房オールシェの終業時間を知らせるそれに、同僚の誰かが「ああ〜、今日も終わったぁ〜」と明るい声を出した。
ナンシーはキリのいいところで筆を置いた。
両腕を持ち上げ伸びをする同僚につられるように、ナンシーも同じ動作をして首を左右に倒した。
今日も一日よく働いた。胸の中で労い、仕事道具の片付けに取りかかる。
先ほどまで使用していた筆や絵の具入れ、水入れなど洗うナンシーの耳に同僚たちの雑談が入ってくる。同じ作業部屋で働いているのは全員女性だ。年齢は十代から四十代までと幅広い。
「そういえばさ、オールトン子爵のところにまた客人が訪れているらしいよ」
「そんなの、しょっちゅうじゃない」
「この間、蓋馬車を走らせているところを見たんだよね。まだ若い男性だった」
「へえ、どんな人。格好いい?」
「金髪だったのと、まだ若そうってことしか分からなかったなあ。仕立てのいいフロックコートを着て、帽子被ってた」
「なになに、あんたは金髪男が好みってわけ?」
「そういうわけじゃないけどさ〜」
オールトン子爵は、ナンシーが住まうノーザストル王国のトレンサムの街を含めたエクシャール地方に多くの土地を持つ貴族である。この街はオールトン子爵の投資によって目覚ましい発展を遂げたため、住民にとっては神様のような存在でもある。
現在二十三歳のナンシーよりも五歳年下の同僚女性がきらきらした声で話す内容には思い当たる節があった。
(前の休息日のことよね。パトリックを連れてピクニックに行った帰りに、それっぽい無蓋馬車を見かけたわ)
パトリックとは、ナンシーの息子である。ピクニックの帰り道に、二頭立ての無蓋馬車が走っているのを遠目に見かけた。作りのしっかりした車体で、男性二人が乗車していたのを覚えている。
記憶に留まっていたのは、そのうちの一人の髪が金色だったからだ。
陽の光を浴びてきらりと輝く様が息子のパトリックと同じだったのだ。そこから一人の男性を連想させてしまい胸の奥が切なく戦慄いた。
(いけない、いけない。感傷的になってしまったわ……)
ふう、と息を吐いて、胸の中に湧き起こった思いを追い払う。
そんなナンシーを尻目に同僚たちは会話を続ける。
「子爵様の客人ってことは貴族だろう? わたしたちみたいな労働者には目もくれやしないよ」
そんな風に釘を刺したのは、四十を超えた女性だ。貴族と労働者の間には埋められない階級差があることを思い出させるような声音だった。
「まだ貴族って決まったわけじゃないじゃない。新しい商談相手かも」
「だとしても同じだよ」
そんな台詞を背中で受け止めたナンシーはエプロンと両腕の布カバーを外して、自分の作業台の椅
子の背もたれに掛けたのち部屋をあとにした。外は橙色に包まれていた。一週間前の同じ時間よりも影が長くなっている気がする。
頬を撫でる風に秋の冷たさが孕むようになるのも時間の問題だ。
勤め先であるオールシェの敷地を出たところで「ナンシー、待って」と呼ばれた。
「一緒に迎えに行こう」
「もちろんよ」
こげ茶色の髪を後ろで一つにまとめた彼女はブリジット・ホークといい、部署は違うけれど同じオールシェで働く同僚である。私生活では下宿屋を営むロジャー夫妻の住まいに間借りをする下宿仲間でもある。
歩きながら今日一日の感想や食堂のメニューが昨日と同じだったこと、同僚から仕入れた噂話などを話す。そうしてたどり着いた先は、オールシェの近くに建つ教会だ。
教会の横道を抜け、奥に建つ三角屋根の建物の扉を開けて「こんにちは〜」と挨拶をする。
「おかえりなさい。ジュベルさん。ホークさん」
女性職員が子供たちを連れてきてくれた。
「ただいま。パトリック。いい子にしていた?」
「いーこ。ぼく、いーこ、だったよ」
「そっかぁ。偉かったねえ」
ナンシーはその場にしゃがみ込み、ふわふわの金色の髪をわしゃわしゃと撫でまわした。
するとパトリックが嬉しそうにきゃらきゃらと笑った。
ああ、今日も息子が全力で可愛いい。癒しの時間である。
二歳と六か月になるパトリックは日中オールトン子爵家が設立したこの託児所で過ごしているのだ。
隣ではやはりブリジットが娘のチェリーと同じような会話をしている。
ただしチェリーはもうすぐ六歳になるため、自分たち親子よりもしっかりした会話だけれど。
「じゃあ、ジュベルさん、ホークさん。また明日」
職員に見送られたナンシーはパトリックと手を繋ぎ、外に出た。
親子でとりとめのない話をしながら帰路を歩く。愛すべき平和な日常である。
一人でパトリックを産む決意をした当時は想像もつかなかった。あの頃は子育てや生活の不安で押しつぶされそうだった。泣きそうになる自分を懸命に叱咤した。これは自分で選んだ道なのだと。
でも今は、恵まれた職場と住環境でパトリックを育てることができている。息子には姉のように慕うチェリーがいて、自分にも頼りになる人たちが多くいる。
「家まで競争!」
下宿先まであと少しという通りに入った途端、チェリーがブリジットから手を離し駆け出した。
「待って」
つられたようにパトリックがナンシーの手を離す。
「あ、こら。チェリー!」
「パトリック、止まりなさい!」
二人の母親も制止の声を出しながら走り始める。街の中心から少しばかり外れた住宅地で馬車の行き交いも少なくなるとはいえ、何が起こるか分からない。
ブリジットが後ろからチェリーの両肩に手を置いたのとほぼ同時にナンシーもパトリックを捕まえることに成功した。
「あんたねえ! パトリックが真似するでしょうが」
「ねえ、ママ。誰かいるー!」
母親の説教をほぼ無視する形でチェリーが前方へ向けて指さした。
長方形の建物が立ち並ぶプラウ通りの、とある番地の正面に一人の男性が佇んでいた。
「誰かのお客さんかしら」
「……そうかもしれないわね」
随分と身なりのいい恰好をした男性だった。背筋を伸ばした立ち姿は美しく品を感じさせる。
この辺りに立ち並ぶのは三階建ての長屋作りと呼ばれる集合住宅で、住まうのは労働者階級の人間ばかり。この界隈で、あのような姿はひどく目につく。
夕日に照らされた髪がきらりと輝いた。明るい髪色だ。金髪だろうか。
チェリーの子供特有の高い声と大人たちの会話に気がついたのか、男性がこちらへ顔を向けた。
(似ている……あの人に)
ドキリと心臓が大きく跳ねた。
まさか。そんなはずない。他人の空似だ。そう言い聞かせた。
「あら、こっちに来るみたい」
「――っ!」
ブリジットの声に反応できずに、ナンシーはその場で凍りついた。
どうして、彼がここにいるの――。
似ているだけの人ならよかった。そうであってほしかった。
どうしよう。再会なんて考えてもいなかった。向こうはこちらに気付いている? もしかしたらまだ気付いていないかもしれない。俯いてブリジットの陰に隠れてやり過ごせば――。
男性が口を開いた。
「ナンシー!」
覚えている声と同じだった。
目の前に男性がやって来る。腕を伸ばせば触れられるほどの距離だ。
「ナンシー……。本当にきみだ。本物だ……。やっと、やっと見つけた」
男性は感極まったように泣き笑いの顔になった。その声が、表情が、伝えてくる。彼がどれほどナンシーを探していたのかを。
でも、分からない。一体、どうして。自分を探す理由が彼にあるとは思えなかった。
硬直するナンシーの目の前で、男性の目線が斜め下へと注がれた。
「ママ?」とこちらを見上げる息子、パトリックへ。
己と同じ金の髪を有する幼児をじっと見つめたのち、彼は確信じみた声を出した。
「その子供……やはり、あの時……きみと私は――」
「違いますっ!!」
ナンシーは反射的に彼の言葉を遮った。
拒絶する声に、男性は苦しそうに顔を歪めたのち、再びパトリックへと視線を戻した。
(だめ。見ないで!)
パトリックと彼は似ているのだ。そのことに彼が気付いてしまったら。
この子は、わたしの血はどこに行ったのかな? と首を傾げるくらい父親の血が濃く表れているのだ。そう、ナンシーの前に現れた金髪の男性に――。
嫌、やめて! そう叫びたいのに喉がカラカラに渇いて何の言葉も出てこない。
自分との血の繋がりを確信したかのように男性は真っ直ぐにナンシーに視線を定めた。
「違わない。この子は、私ときみの子供だ。計算も合うはずだ」
「ちが――」
それでも否定しようとするナンシーに「違わない!」と発した男性が腕を伸ばした。
硬い胸に頬が押しつけられる。抱き寄せられたナンシーは、懐かしい気配に胸の奥がざわめくのを自覚した。
逃げなければ。彼を困らせないためにナンシーは故郷を離れ、ノーザストル王国へ渡ってきたのだ
から。懐かしさに震える心を打ち据え、大きく身じろいだ。
「お願い……離して。ユウェイル様……」
「嫌だ。やっと、やっと見つけたんだ。もうきみを離さない。ナンシー」
その意思を体現するかのようにユウェイルはナンシーを抱きしめる腕に力を込めた。
第一章
ナンシーがパトリックの父親、ユウェイルと出会ったのは故郷であるベラーク王国でのことだった。
「姉さん。王立騎士団の事務方の仕事って興味ある?」
全ては、弟のこの一言から始まった。
一歳年下の弟、カミーユがそんなことを言ってきたのはナンシーがまだ十七歳のことだった。
ナンシーが生を受けたのは、ベラークでも由緒ある、ジュベル男爵家。
しかし、ジュベル男爵家には、管理する土地がなかった。
変わりゆく時流にうまく乗ることができずに債務が積み重なり、祖父の代に手放したからだ。
だが、幸いにも王都の小さな邸宅は手元に残すことができた。
父は官僚として政府機関に勤めており、一家は貴族にしては慎ましやかな生活を送っていた。
世間でいうところの上中流階級としての生活を送ることはできるが、貴族の体面を保つために執事を雇ったり、馬車を所有したりすることは難しい。そのような財政状況だった。
「どうしたのよ。藪から棒に」
「姉さん、前に働きに出てみたいけど宮殿の女官や侍女は気後れするって、言っていたじゃないか」
「そんなことも言ったかもしれないわね。結婚相手を探すにも、馬車も持っていない我が家だもの。
社交の場に向かうのも気後れしちゃうのよね。かといってお母様のお手伝いと慈善事業ばかりというのも、変わり映えしないし」
「玉の輿なら僕が何とかするから一人で気負わなくていいよ。一応これでもジュベル男爵家の跡取りなんだし。高位貴族の、訳アリのご令嬢ならたんまりと持参金をつけてくれると思うんだよね」
今日も今日とて明るい顔と声で計算高いことをさらりと言ってのける弟である。
高位貴族に恩を着せるべく最初から訳アリなご令嬢を狙う気満々なのは、いかがなものだろうか。
大体、訳アリのご令嬢が、ほいほいその辺に転がっているはずないと思うのだが。
「別に手放した土地を買い戻さなくたっていいじゃない。今のままでも十分食べていけるのだし」
「元の土地を買い戻そうなんて考えていないよ。ただ、侯爵以上の家に恩を売っておけば、あとあと僕の出世に役立つだろうなって。結婚は有効なカードだよね」
「……」
明るく爽やかな顔と声でさらりと腹黒い心の内を吐き出す弟に、ナンシーは何も言えなくなる。
できればもっと純粋な心を抱き続けてほしかった。いつからこうなった。思わず乾いた目線を送ってしまう。
「それよりも今は姉さんのこと。僕の先輩が今、騎士団に所属していてさ。この間会った時に話を聞いたんだよ」
なんでも騎士団では近年女性事務員の採用を行うようになったのだそうだ。宮殿で働く女官たちの、王族女性の公務の準備を行う過程で発生するこまごまとした雑務の処理の丁寧さを聞きつけた騎士団の上層部が、うちでも取り入れてみようと制度を整えたのだそうだ。
「とはいっても、人事局は事務員の採用に時間をかけたくないらしくて、幅広く募集はしていないんだって。貴族の縁者もしくは騎士団関係者の紹介状を介した採用が中心なんだとか」
彼らの推薦をもらえる身の上、即ち身元保証になるというわけだ。
「うちの場合、父さんは曲がりなりにも男爵位を所持しているわけだし? 身元の件はクリアしている。あとは姉さんのやる気次第」
社交デビューしたものの、その華やかな世界に圧倒されて引け目を感じまくった挙句に「わたしみたいな何の旨味もない家の娘と縁付きたいなんて奇特な紳士、いないわよね。生きる手段はいくらあっても構わないもの。働くことも考えてみようかしら」などとグチグチいう姉に対し、カミーユはお節介を発揮したらしい。
ベラーク王国では、貴族の家に生まれた娘が十六から十七の年になると、宮殿からその年最初の舞踏会の招待状が届く。国王夫妻に拝謁を賜ることで、貴族社会の仲間入りを認められることになるのだ。
一応貴族の末席にいるジュベル男爵の娘、ナンシーのもとにも、この招待状が届いた。
両親は娘が惨めな思いをしないようにドレスや靴、手袋などを新調してくれた。
さらに当日、曾祖母の時代に誂えたというパリュールの中から、首飾りと耳飾りを選んでつけても
らった。男爵家に残された数少ない財産だった。
あいにくと現在、ジュベル男爵家は馬車を所有しておらず、両親は毎年貸し馬車商会に予約を入れて馬車の貸し出しを受けていたのだが、デビューする娘のことを考え、二軒隣のダングローヴ男爵家
に同乗させてもらえるよう頼んでくれた。夫人同士、普段から慈善活動で交流を持っているのだ。
そのように準備を重ねて挑んだ宮殿舞踏会と、国王夫妻への拝謁の日。
ナンシーは、絢爛豪華な宮殿の様子に圧倒された。同じ日にデビューする貴族の家の娘たちの並々ならぬ気合の入り方と、美しいドレスや宝飾品にも。
折しも今年は、名だたる名家のご令嬢たちのデビューと重なっており、ナンシーは彼女たちの堂々とした立ち居振る舞いに、格の違いをまざまざと見せつけられた。漂う品格も、優雅な身のこなしも。
何もかもが自分とは違う。
一応、自分だって男爵家の娘として相応の教育を受けてきたという気持ちがあった。友人作りも兼ねて、十四歳の年から二年間、女子寄宿舎に在籍させてもらった。
けれども、そういう次元の話ではなかった。高位貴族の家に生まれた彼女たちは、背負っているものが違うのだ。
初めて出会う大貴族のご令嬢たちが持つオーラに圧倒され、さらに初めて踏み入れた大人の世界の象徴である舞踏会の煌びやかな雰囲気にも呑まれてしまったナンシーは、同じ家格の友人同士で固まって舞踏会の時間を潰した。
「わたしたちって結局父親と、親戚の男性としか踊っていないわよね」「歌劇の一幕のような出会いなんて、結局ないのよ」「現実なんてこんなものよねえ」などと慰め合う娘たちを見かねたのか、もしくは世話心に火がついたのか、母の友人が年若い紳士たちを紹介してくれた。
親族の男性以外との初めてのダンスは、胸がドキドキしっぱなしで、それに気を取られ、会話どころではなかった。笑顔を保っていたかもあやしい。
それでも一度踊ったことで肩から力が抜けたのか、徐々にダンスに誘われるようになり、舞踏会を楽しいと思えるようになっていた。
もしかしたら、素敵な出会いがあるかもしれない。ダンスで火照った体を冷やすために果実水を飲みながらそんな夢想に胸をときめかせていると、先ほど一曲踊った黒髪の紳士に話しかけられた。
どうしようと思うものの、悪い気はしない。笑顔が素敵だと思ったのだ。
会話して互いのことを知っていって、何度か社交の場で声をかけあい、そのうち私的な手紙を交わすようになり、将来についての話がそれとなく出るようになる。ナンシーの属する階級では、そうやって将来の相手を男女共に見極めていくのだという。
両親や親族から見合い相手を薦められることもよくあるが、できれば舞踏会などの社交の場で、いい人に出会いたい。
もしかしたらこれがその出会いなのかもしれない。などとふわりとした思いに駆られていると、同じ年頃の娘が一人近付き、話しかけてきた。
「あなた、ダングローヴ男爵家の馬車に同乗させてもらってきたジュベル男爵の娘さんなのでしょう。
そろそろ帰り支度をした方がいいのではないかしら。ダングローヴ男爵は、いつも早い時間に帰宅されますのよ」と。
それを聞いた黒髪の紳士は「え、きみの家、馬車も持っていないのかい?」と言った。
同時にナンシーを軽んじるような気配がうっすら滲み出ていた。
初めての舞踏会という場所に神経が鋭敏になっていたからこそ気付いてしまった彼の反応に胸をずきりとさせたナンシーは「わたし……一度、両親のもとに戻ります」と言うだけで精一杯だった。
ちなみにダングローヴ男爵は早い時間の帰宅を考えてはいなかった。あれは黒髪の紳士を取られまいとした、あの娘なりの牽制だったのだろう。
あとになってそう思い至ったが、舞踏会の洗礼としては強烈だった。男女間の会話も、女性同士の
牽制も、何もかもが未経験だったのだから。
結果としてナンシーの胸には、あの夜の記憶が小さな棘となって残り続けることとなった。
あの舞踏会の夜、初めて知ったのだ。馬車を所有できない家の娘は上流階級社会では侮りの対象になり得るのだと。
(あれ以来、社交場で男性と知り合うことに臆病になってしまったのよね……)
もっと強かで上昇志向な性格であれば、それを逆手に取り男性の同情を引いて玉の輿を狙うやり方もあるのだろうが、誰かと競争し優良物件を狙うなどナンシーには無理な話だ。
だって、初参加の舞踏会で受けた牽制に負けてしまったのだから。
「どうする? 興味があるなら、騎士団の人事局に話を持っていってくれるよう先輩に連絡するよ」
カミーユなりにナンシーのような貴族の娘でも体面を保ちつつ働ける職場について考えてくれたのだろう。
何かの折にうっかり「華やかな貴族社会にはあまり馴染めないのよね。それよりも働いた方が現実
的かも。自由に使えるお金も増えるし」などという胸の内を漏らしたことがあった。
そもそも上流階級の女性は慈善活動は行うものの、外に出て働くことはしない。
宮殿への出仕などの名誉職はともかくとして、家庭教師などの職に就くことは、その家の財政状況の悪化を外に知らせる行為として歓迎されない。
それでも近年は女性が外に出ることを声高に非難する風潮が薄れてきた。騎士団が女性事務員の採用を始めたのもその表れであろう。
(いい縁があれば結婚したいけれど、このまま二年、三年と縁に恵まれなかったら困ってしまうわよね。その時に働き口を探すよりも、同時進行しておいた方がリスクは少ないかもしれないわ)
堅実的な思考を頭に浮かべたナンシーはカミーユに向けて口を開いた。
「せっかくあなたが持ってきてくれた話だもの。前向きに頑張ってみるわ」
この話を聞いた母は「我が家は食べることには困っていないのだし。世間を見てみたいのであれば、慈善活動に参加する日を増やすのじゃだめなの?」と少々困惑した声で尋ねてきた。
やはり母の世代ではこのような感覚が強いのだろう。
頭が柔らかかったのは父の方だった。
「宮殿に勤めている女性と同じようなものだろう。今の王立騎士団のトップはロアンレンヌ公爵家のご嫡男で、その評判は宮殿にも伝え聞こえてくる」と明るい声で言った。
さらには、男性が多い環境を心配する妻に向けて「我が家は文系だが、ナンシーが騎士の家系と縁を繋いでくれるかもしれないぞ」とも説得してくれた。
別にそこまで考えてはいなかったのだが「そうねえ。そういう縁が繋がる可能性もあるかもしれないわねえ」と母が頷いたため、黙っておいた。
父が書いてくれた紹介状はカミーユの先輩を通して騎士団の人事局へ送られることになった。
その後、一度の面接を経たナンシーは見事事務職の採用をもぎ取った。
ちなみに採用面接では「今の騎士団長についてどう考えているか」「騎士団長へ何か伝えたいことはあるか」など、やたらと現在の王立騎士団をまとめるロアンレンヌ騎士団長について尋ねられたのが印象的だった。
彼について知っていることといえば名門公爵家の嫡男であることと、現在二十代後半だということくらい。おかげで面接中、内心冷や汗をかいたくらいだ。面接に向けて父と疑似面接試験を行っていたのに。ちっとも出番がなかった。
ロアンレンヌ騎士団長関連の質問がなぜ多かったのか、採用後に知ることとなった。
「今の王立騎士団長っていったら、あのロアンレンヌ公爵家の御曹司じゃない。さらにあの麗しい容姿ときたら! 社交場よりも騎士団の中にもぐり込んだ方が結婚まで最短距離を取れるんじゃないかって考える貴族のご令嬢たちが引きも切らないのよ。ナンシーの前の職員もそんな感じだったわねえ。結局、団長にお近づきになろうとして、拒絶&説教されて、その翌日から来なくなったわ」
あっけらかんとした口調で内情を語って聞かせてくれたのはニコル・ポワソンという先輩だ。
ナンシーが配属された第一師団付き事務局に所属する一歳年上の彼女は、業務のことから騎士団の人間関係まで様々なことを教えてくれた。
「だから、ロアンレンヌ騎士団長について、しつこいくらいに質問されたのですね」
「うまく質問を躱す希望者もいるだろうけど、人事局のお偉方もいい加減見極めに慣れてきたと思うし。晴れて採用になってよかったわね」
要するに面接時の質問にうまく答えられなかったことが採用の決め手になったらしい。
下手にロアンレンヌ騎士団長について調べなくてよかったと心の底から安堵した。
そうして始まった騎士団の勤めは、これまで一応良家の娘として育てられてきたナンシーにとって初めて尽くしであった。
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