●著:華藤りえ
●イラスト:SHABON
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4-8155-2014-4
●発売日:2018/10/25
理解しろ。これが恋人の距離だ
母の借金で住む家を追い出された最上萌音は、大企業の御曹司、一柳隼人の偽の恋人として雇われることに。彼の恋人に相応しくなるべく教育される萌音だが、親密な雰囲気がないと隼人に指摘され、彼から直接レッスンをされることになってしまう。「こういう時ぐらいは名前で呼んでくれ」艶っぽい雰囲気の隼人に優しく抱かれて変わっていく身体。契約だけの関係と思い切ろうとするが、時折見せる彼の優しさや孤独に惹きつけられ!?
「お待ちなさい、隼人! わたくしは認めませんからね!」
切羽詰まった様子に、つい声のした方を見てしまう。
すると、キャバクラやホストクラブが多いビルの路地裏で、母と同じ年頃の女性が、背の高い男の腕にすがっていた。
「認める、認めないの話じゃない」
しっかりした肩幅。薄暗がりでもよく目立つ、モデルのように均整の取れた肢体。
普段なら、面倒ごとを避けようと足早に過ぎ去るところだが、少し離れた萌音まで届く男の美声に魅了され、立ち止まる。
通りがかったタクシーのヘッドライトが、男の顔を映しだす。
ぱっと見にもわかるほど整った、額から顎へのライン。
やや伏せがちな目は鋭く、端で少し切れ上がっているのが野性的だ。
逆に、鼻梁から唇にかけての線は細く、整った顔に得も言われぬ上品さを添えている。
なにより、雨に濡れて一筋、二筋とかかる黒髪が艶めかしい。
着ているスーツは、ファッションにうとい萌音でもわかるほど高価なもので、シルクらしき真紅のネクタイと白いシャツは、闇の中で淡くほのめいていた。
吸い込まれるように男を見ていると、ネクタイピンが本物の黄金の輝きを放った。
袖から覗く時計も高級そうで、男の財力を匂わせる。
迫力のある男の美貌と、路地裏には場違いな装いに気を呑まれていたが、続いた台詞に神経を逆撫でされる。
「俺に結婚する気がないのは承知してたはずだ。騒ぎにするぐらいなら、金で片を付けろ。それぐらいできるだろう」
萌音は思わず顔をしかめていた。
男の華やかな服装や顔のよさが、一瞬で嫌悪感を刺激する要素に変わる。
自信と余裕のある態度、高額そうなアクセサリーから察するに、男は高級店の売れっ子ホストに違いない。
たちどころに、男にすがる中年女性の顔が母に見えてきた。
無難なダークカラーのスーツに、後れ毛一つなく髪を纏めた女性は真面目そうで、クラブの雇われママである母とはまるで違うのに。
母――男に依存する病気を発症したタイプと同類に見えた。
(いい気にさせて金づるにしていたくせに、財布の底が見えたから、最後の搾取をしようと、手練手管で煽っている訳?)
男への嫌悪を心中で吐き出す。
頭では、それがホストの仕事だとわかっている。のめり込む女性も悪い。
けれど見過ごすには、あまりにもタイミングがマズすぎた。
駆けだして二人の元へ踏み込む。女性の腕に思いっきりすがりつき、萌音は大声を上げた。
「やめて! お母さん! もうこれ以上、こんなバカで軽薄な男にお金を使わないで!」
言い争っていた二人の視線が萌音に注がれる。だが、構うものか。
大きく息継ぎをし、嘘をまくしたてていく。
「借金なんかして! 高校に入ったばかりの弟に働けって言うのっ! 生活だって、もう、一週間も卵かけごはんだけじゃない! 愛してるとか言う男に騙されてる場合なのッ!」
金目当ての男ならドン引きそうな設定を、思いつく端から述べる。
弟はいないけれど、この手の台詞は、母との喧嘩で熟知済みだ。
「貴方だって!」
びしっと、指をホストであろう男に突きつける。
「母がなにをどうごまかして、見栄を張ったかわからないけれど、ウチにはお金がないの! 保険だって解約しているし、税金も滞納しまくり。ガス、水道も止まってるんだから!」
男が目をみはり、口を開けている。そんな間抜けな表情をしても格好いい。
素敵と思うより、外見を餌に、どれほど女性からお金を搾取したのかと腹が立ってしまう。
三十秒か、あるいは一分か。
上がっていた萌音の息が落ち着いた頃、男が口を数度開閉させ、最後にニヤリと笑った。
「ほう。……初耳だな、西条。お前、いつから娘と息子がいた。おまけに借金に税金滞納だと? 我が社の役員報酬はそんなに貧弱か」
予想だにしていなかった内容に、今度は萌音が目を大きくした。
真っ白な頭に、役員報酬という単語だけが浮かんでいる。
「まったくもって身に覚えがございません。社長。報酬についての不満も当然ございませんし、隼人――いえ、社長と違って、結婚の事実も皆無です」
「だから、俺も結婚した覚えはない。……法的かつ書類上の茶番について、この状況で突くか」
隼人と呼ばれた男性は、張り付いていた髪ごと額から頭を撫でつける。
「えっ……と? 社長、役員報酬って……? まさか、ホストじゃ、ない」
恐る恐る両者を見る。
すると顔をしかめた男――隼人とは逆に、西条と呼ばれた女性が笑いをこらえる。
しかし顔を背けてみせても、彼女の身体は細かくゆれていて、失敗も明らかだ。
「この俺を、一柳隼人を捕まえてホストだと? その上に西条のヒモ扱いか」
小馬鹿にした口調だが、声がさっきよりずっと低い。
誤解なのはわかったが、ごめんなさいと謝って終わる雰囲気ではなさそうだ。
(厄日だ――絶対に厄日だ)
金なし、家なしでも最低なのに、厄介ごとに自分から頭を突っ込んでしまった。
真っ青になって萌音が身を震わせた刹那。鋭い光が弾け、まぶしさについ手をかざす。
なにが起こったか理解できずにいると、ぐいと腕を引っ張られて隼人の背中に庇われた。
なおも、光――フラッシュは数度弾け、露骨な舌打ちが降りかかる。
「西条!」
吠えるように隼人が声を荒らげた。
途端、西条が靴の高いヒールをものともせず、路地裏から光めがけて駆けだした。
「な……なに? なにが、どう……え?」
萌音の手首を痛いほど掴んで、隼人が西条とは逆の方向に走りだす。
引っ張られ、足をもつれさせていると、また舌打ちされ、隼人は突然立ち止まる。
彼の背中に顔をぶつけ、鼻の痛みに顔をしかめているうちに、振り向いた隼人が萌音の腰を掴み、荷物のように肩に担ぎ上げた。
「ひ、きゃあああっ! やだ! やだ! なんですか!」
「うるさい。黙れ。――くそ、馬鹿女。お前のせいだ。絶対に責任を取らせるからな」
路地裏から通りに出る。
人の注目を浴びるが、慣れているのか余裕がないのか、隼人は歩行者天国になっている中を、恐ろしい速度で抜ける。
そして最初に目に付いたタクシーに萌音を押し込み、隣へ乗り込んできた。
これが、萌音と隼人の、最悪にして最善の出会いだった。
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