●著:山野辺りり
●イラスト: 深山キリ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543433
●発売日:2024/6/28
貴女が簡単に堕ちる人ではなくl、嬉しいです
若くして病没し、読みかけの恋愛小説のヒロインに転生したことに気付いたマルグリットは推しの第一王子ラウルと結ばれたいと願うも、病気がちな身体では夢のまた夢。しかし、せめて思い出だけでもと参加した仮面舞踏会でラウルに見初められ愛される。
「今夜キミに会えるなんて思わなかった」。
甘い一夜の記憶を胸に田舎での療養生活を始める彼女だが、お腹には2人の愛の証が宿っていて――!?
セレスティアの朝は、香しく貴重な茶の芳香で始まる……のではなく、草臭い溝色をした薬湯から始まる。
「さ、お嬢様。お飲みになってくださいませ」
「……いや、これ何度も言っているけれど、人が飲んでいい色をしていない」
「以前は文句などおっしゃらなかったのに、この数日どうされたのですか? とにかく残さず飲んでくださいませ。お嬢様の身体のために特別配合したものですから。病弱なお嬢様には欠かせない品です」
メイドから強引に渡されたカップを渋々受け取り、セレスティアは深々と嘆息した。
朝と呼ぶには昼近くの時間。豪奢なベッドは、一人寝には広すぎる。
着心地がいい夜着はフリルやレースがふんだんに使われていて愛らしいが、今日も昼間の服への着替えは求められないらしい。
つまり、セレスティアには外出どころかこの部屋を出る予定もないということだ。
――また一日中寝て過ごすのか……
それにどうせいくら抵抗したところで、このメイドは諦めてくれない。
こちらが大人しく、見るからにヤバい液体を飲み干すまで、寝室を出ていかないはずだ。
だとしたらセレスティアにできるのは、無駄な押し問答をせず、とっとと毒薬じみたものを飲むことだけだった。
――それに、ああだこうだと言い合う体力が、正直ない。しかもこの世のものとは思えないほど不味いけど、これを飲むと多少は身体が楽になるのも事実だ。
えげつない味ではあるが、薬としての効果も高いのだろう。
セレスティアは痩せ細った手で、カップを握り直し、覚悟を決めて一気に呷った。
「……ぉえ……っ」
「ご立派です、お嬢様」
やはり今日も極上に苦くて不味い。一向に慣れる気配も改善される兆しもない最悪な味だ。
良薬は口に苦しとは言うものの、ものには限度がある。
一歩間違えれば、このパンチ力がある味のせいで体調を更に悪化させかねないのでは……などとセレスティアが考えていると。
「セレスティア、今日もきちんと薬を飲みましたね。偉いです。ご褒美に、これをどうぞ」
目も眩むような美形の男が寝室に入ってきた。
そして優雅な所作でこちらに砂糖菓子を寄越す。あまりにも自然な流れで口に入れられたものだから、セレスティアはつい従順に菓子を口内で転がしてしまった。
砂糖がほろりと崩れ、溶けてゆく。濃厚な甘みがじゅわっと広がった。
――甘……っ、薬の苦みは消えたけど、味が混じって後味が地獄。そして私は甘いものが苦手なのに。
「今朝は少し、顔色がいいですね」
男が身につけた上着は黒を基調にした地味なものだが、仕立てがいいのは一目瞭然だった。それを嫌味なく着こなしている。
襟元に飾られた煌めく石は宝石だろうか。あの大きさや細工は、並の男が飾っていたら、本人が負けかねないのでは。そう感じるほど見事で、深い色味が目を惹いた。
だがそれさえも男を引き立てる道具でしかない。
男性的な造形の美形は、一歩間違えれば猛々しさが勝ってしまう。けれど彼に限って言うなら、絶妙なバランスで成り立っていた。
聡明さが滲み、高貴な気配を漂わせている。人を寄せ付けない高潔な雰囲気も、彼を孤高の魅力で彩っていた。
――腹立たしいくらい、圧倒的美形だな……今日も。網膜が痛いわ。
うんざりする気持ちを隠し、セレスティアは平静を装った。
どうせ騒ぎ立てたところで、医者を呼ばれて終わりだ。下手をしたら『ご病気の影響で』『興奮を鎮めなくては』と言われ、強い薬を処方されて眠らされてしまう恐れがある。
実際、過去に何度かそうやって強制的にベッドの住人と化せられた。
――同じ過ちを犯してなるものか。ここは極力問題を起こさず、情報収集が最優先だ。
そのために言動には細心の注意を払う必要がある。
いずれこの状況から逃げ出すためにも。
「セレスティア、……僕のことが分かりますよね?」
男が不安げにこちらを見遣る。美しい双眸には、探る色が揺れていた。
その瞳に映るのは、線の細い美しい女性。銀色に近い淡い金の髪を長く伸ばし、菫色の目が神秘的だ。
儚げで今にも消え失せてしまいそう。
そんなセレスティアの記憶が『また』曖昧になっていないか恐ろしくて仕方ないらしい。それともいっそおかしくなってくれれば手間が省けるとでも計算しているのか。
セレスティアを排除したい男にしてみれば、いったいどちらの答えを期待しているのだろう。
考えても分からないが――相手の意のままになってやるものかという矜持で、セレスティアは己を奮い立たせた。
「ええ、勿論です。ユーリ。私の大事な弟を忘れるはずがありません」
優雅な微笑みは、身体に残る癖も同然。セレスティアは『いつも通り』に穏やかに瞬いた。
「……それはよかった。安心しました」
どこか複雑な声音で呟き、彼は苦痛の滲む表情を浮かべた。ホッとしたようであり、落胆したようでもある。
その真意は不明。
ただしセレスティアは内心『残念だったな。私がまだ生きていて』と悪態を吐いた。
「とにかく、無理はしないでください。身体に負担をかけてはいけません。さ、もう横になってください」
ユーリに促され、再びセレスティアはベッドに横たわった。
一日のほぼ全てをこの上で過ごさねばならない身としては、心の底から気が滅入る。
とは言え、ただ上体を起こし薬を飲んだだけで、この脆弱な身体は疲労感を訴えているのだから、どうしようもなかった。
――……行動を起こすには、時期尚早。今はとにかく体力をつけることを優先させなくちゃ……
それまでは、大人しくしている他ない。
ウッカリ殺されてしまわぬよう、警戒心を漲らせ――かつそれをユーリに勘付かせてはならないのだ。
――私は必ず生きて帰る。元の世界へ……! 目的のためなら、他人を演じるくらい何でもない。
もはや何度目かも分からない決意を胸に、セレスティアは休息を取るべく目を閉じた。
「……少し眠ります」
「ええ、ゆっくり休んでください。お休みなさい、セレスティア」
こちらの髪をさらりと梳いた指が離れてゆく。仄かに肌を擦った感触が、不思議と残る。
どこか、名残惜しさを訴えていると感じたのは、ただの思い過ごしに決まっていた。
「では失礼いたします、お嬢様。何かあれば、すぐにお呼びください」
「ええ」
ユーリとメイドの気配が室内から消えた後、セレスティアはそっと瞼を押し上げた。
中世ヨーロッパの城のような部屋は、絢爛豪華だ。
優美な曲線を描くチェストに、その上に並べられた煌びやかな燭台と時計。
天井からはクリスタルと思しきシャンデリアが下がっている。
革張りのスツールの前には、どこぞのお姫様が使っていそうなドレッサー。
もっとも自分はそういった場所など実際には訪れたことがないけれど。たぶん、こういうものだというイメージそのものだった。
セレスティア――否、高橋実里は忌々しく口元を歪める。
「……お嬢様って言われる度に、似合わな過ぎてゾクゾクするな……」
おそらく可愛い夜着や素敵な部屋を、大半の女性は好きだと思われた。いわば、憧れのお姫様生活だ。
だがしかし。
実里にはどれも全く興味が持てないどころか、煩わしさしかなかった。
――あああ。ヒラヒラして動き難い寝間着だなっ、それに部屋の内装が煌びやかで目がチカチカする。本音は今すぐここから脱出したい。でも……生き残るためには我慢しないと。
仮にここを飛び出しても、それで全て解決とはなるまい。それ以前に屋敷の外まで自力で歩いて行ける体力があるかどうかも怪しかった。
故に、こうして不本意ながら実里はタイミングを窺っている。セレスティアという見も知らぬ人間を演じながら。
――はぁ……本当にどうしてこんなことになったんだっけ……
思い返すのは人生が激変した日。あの日までは、ごく普通の日常だった。
日本に暮らす、特別なことなんて一つもないただの成人女性。
それが何故、現在『セレスティア』と呼ばれ、お城めいた一室で暮らしているのか。
誰かに話しても到底信じてもらえない事実を、実里は改めて思い返した。
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