●著:小出みき
●イラスト:天路ゆうつづ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4-8155-4090-6
●発売日:2022/7/29
もっと悦くしてあげるよ
伯爵令嬢エイヴリルは、帝国から長年帰国しない王太子アリスターに嫁ぐも、彼の顔も知らぬまま離婚する羽目に。悪女との噂を立てられて実家にも居場所がなく、婚活での仮面舞踏会で、危ういところを帝国貴族のフェルマー伯爵に助けられる。「私の心はきみのものだ。天地と我が命にかけて誓う」彼は悪評を信じずエイヴリルを熱愛し求婚してくるが、その正体は密かに帰国していたアリスターで!?
「きゃっ……」
背後で悲鳴が上がると同時に、後ろに伸ばした手にがくんと重みが加わる。躓いたミルドレッドに引きずられる格好で、エイヴリルは草地に転がった。みるみる男たちが近づいてくる。
なんとか起き上がろうともがくエイヴリルの肩を、人攫いが背後から強引に押さえつけた、そのとき。
「貴様ら何をしている!?」
憤怒の怒号と馬の嘶きが同時に響いた。
「ヤバい、ずらかれ!」
誰かが叫び、背中への圧力がふっと消える。
倒れ伏したエイヴリルの頬骨に蹄が大地を蹴る振動が響いた。衝撃でふらふらする頭をもたげると、空を掻く馬の脚が視界いっぱいに広がった。
(踏み潰されるっ……)
反射的にぎゅっと目を瞑る。
次の瞬間、力強い腕にしっかりと支えられていた。
「無事か!?」
切迫した声に驚いて目を開けると、蒼い瞳がエイヴリルを覗き込んでいた。
「……フェルマー伯爵……?」
「怪我は!?」
「あ……大丈夫、です……たぶん……」
身を起こすと、同じように倒れているミルドレッドの傍らにかがみ込む黒髪の男性が見えた。
彼はミルドレッドの背を支えながら、白絹のストッキングに包まれた足首を慎重に探っている。
「捻挫したようです」
振り向いた男性の顔を見て、エイヴリルはハッとした。黒公爵──シュヴァイガー公爵フリッツだ。
視線が遇うと彼は礼儀正しく会釈した。動揺しつつ会釈を返し、ミルドレッドの側に這い寄る。
「大丈夫?」
「痛いわ、すごく……」
半泣きでミルドレッドは顔をしかめた。
「骨が折れたのかしら」
「いや、骨折はないと思いますよ。しかし早く手当てをしたほうがいい。僕が送っていきますから、そちらはあなたがお願いします」
てきぱき言うと、フリッツはミルドレッドを鞍に乗せ、その後ろにひょいと飛び乗った。
手綱を握りながら彼はまじめくさった顔で言った。
「もう逃げたとは思いますが、ゴロツキどもが何か手がかりを残していないか調べてもらえませんか? あのような不逞の輩が王都近郊をうろつくのを放置するわけにはいきません」
「あ? ……ああ、そうだな」
面食らったように目を瞬き、フェルマー伯爵が頷く。
「そちらのご婦人は責任を持ってあなたが送ってさしあげてくださいね。ではお先に」
フリッツは帽子の縁を摘まんでエイヴリルに向かって会釈すると、馬の腹にかかとを当てた。
走り出した馬の上からミルドレッドが焦って手を振る。慌てて手を振り返したエイヴリルは、気がつけばフェルマー伯爵とふたりきりで丘の中腹に取り残されていた。
「……怪我は」
ややあって、堅苦しい口調で伯爵が尋ねた。
「大丈夫です」
「本当に?」
エイヴリルは両方の足首を順番に回してみて頷いた。
「なんともありません」
「よかった。それじゃ……少々調べてみるか」
彼はおとなしく待っている馬に歩み寄り、手綱を引いて連れてきた。
「ご婦人用の鞍ではないが、乗れるかな」
「ええ……はい、大丈夫だと思います」
彼の手を借りて鞍に横座りになると、伯爵は鞍の後部を掴んでひらりと跨がった。
体温が近くなってドキッとする。
軽く腹にかかとを当てると、馬はおとなしく歩きだした。ふだん乗っている馬とは視線の高さが全然違った。手入れの行き届いた立派な体躯をしているし、軍馬かもしれない。
「確か、こっちに逃げていったな」
伯爵は呟き、常歩で馬を進めた。
少し上ると丘の頂上に出て、反対側の斜面が見える。そちらにも道があるが、街道と違って石畳は敷かれていない。
斜面を下り、草道に出て彼はじっと地面を見つめた。
「轍の跡がある。まだ新しい。馬車で来たんだな」
「そういえば、馬車に乗せろとかなんとか怒鳴っていた気がします」
エイヴリルは溜め息をついた。
「まさかこんなところに人攫いが出るなんて……。この辺は王都の住民がよくピクニックに来る場所なんですよ」
「日が暮れてからならともかく、真っ昼間にあのような輩が出没するとは……。たまたま女ふたりでいるのを見かけて、よからぬ考えを抱いたのか」
「そうですね。わたしたちがいたのは下から見えづらい場所でしたし」
伯爵はしばし考え、尋ねた。
「ピクニックに来ることは、前から決まっていたのか?」
「いいえ。今朝ミルドレッドが訪ねてきて誘われたんです」
「ふむ……。やはり、たまたま見かけて……ということか。しかし単なる出来心とも思えん」
エイヴリルは眉根を寄せた。
男たちは手慣れた様子だった。『上玉』とか『高く売れそうだ』とか、こともなげに口にしていた。常習犯に違いない。
とんでもないピクニックになってしまったが、フェルマー伯爵と再会できたのが嬉しくて、エイヴリルはドキドキしながら尋ねた。
「あの、伯爵様はどうしてここに……?」
「ああ……。フリッツの遠乗りに付き合って、たまたま通りがかったんだ」
「そうでしたか。助かりました。本当に伯爵様には助けられてばかりですわね」
(ちょっとわざとらしかったかしら……)
そわそわしていると彼がいきなり決然とした声を上げた。
「いや、本当のことを言おう。きみを尾行てきたのだ」
呆気に取られて見返すと、彼の白皙の面にさっと朱が走った。
「その……また会いたいと言っておきながら、仕事が立て込んで間が空いてしまい……。訪問する前に手紙を書いたほうが礼儀に適うだろうかと思案していた。日課の乗馬をしながらフリッツに相談すると、そんなまどろっこしいことをしなくても自分が紹介してやるとか言い出して」
ひとり決めしてさっさと走り出した彼を慌てて追いかけると、ちょうど玄関前に止まった馬車にエイヴリルが乗り込むのが見えて後をつけることにしたのだと言う。
「うまくすれば偶然を装って会えるかもしれない、と。すまん。優柔不断で呆れられてしまうな」
「そんなこと! お立場上、目立つことは避けたいでしょうし、忘れられたわけじゃなくてよかったです」
「忘れてなどいない。きみのことが気になって仕事に集中できず、フリッツに怒られたくらいだ」
(そんなにもわたしのことを……?)
エイヴリルは熱くなる頬にそっと手を当てた。
「郊外に向かっているからピクニックか何かだろうと見当はついたが、オクリーヴ伯爵令嬢が一緒だったので……あまりすぐに邪魔をしても悪いかと思って、頃合いを見計らって上ってきた。そうしたら悲鳴が聞こえて」
彼は深い溜め息をついた。
「間に合って本当によかった。──それにしても、この国はいったいどうなってるんだ。妙な薬が出回ってるかと思えば、昼日中から人攫いまで」
「す、すみません」
「何故きみが謝る?」
「わたしもシェフィールド王国の民なので……。でも、悪いことばかりではないと思います! これだけでこの国はダメだと報告しないでください。いいところもたくさんありますから」
懸命に訴えるとフェルマー伯爵はきまり悪そうな顔になった。
「……わかってる。拙速な報告をするつもりはない」
彼は気を取り直して手綱を握った。
「少し走ろうか。怖かったら掴まって」
「大丈夫です。これでも乗馬は得意なんですよ。領地にいた頃は毎日のように馬で走り回っていました」
「そうか。それじゃ次は一緒に遠乗りに出かけよう」
「是非!」
彼は笑って馬の腹を軽く蹴った。
よく訓練された馬はかなり速度を上げても安定した走りを見せた。
得意とはいえ横乗りだとそこまで速度を上げられないが、今は伯爵が後ろにいるのでいざとなれば支えてもらえる。
乗る前に彼が長さを調整してくれた鐙に左足を入れ、右足は鞍の前の部分に引っ掛けて、さらに手でも掴まって姿勢を安定させた。
ちょっと行儀は悪いがドレスで脚は隠れるから目立たない。
しばらく走ると感心したように伯爵が言った。
「本当に上手なんだな。ひとりで乗るのと変わらないくらいだし、馬も走りやすそうだ」
「柵だって飛び越えられるわ」
「横乗りで?」
「横乗りで!」
自信満々に言い切ると、彼は声を上げて笑った。
それはもうスカッとしたとでもいうような、晴れ晴れとした笑い声だった。
思う存分走り回り、速度を落として馬を休ませる。
「いい馬ね。──ありがとう、楽しかったわ」
優しく首を叩くと馬は答えるようにブルルと鼻を鳴らした。エイヴリルは空を見上げて深呼吸した。
「ああ、久々にすっきりした気分」
伯爵がじっと見つめていることに気づき、エイヴリルは頬を染めた。
「な、なんですか?」
「いや。生き生きとした表情が、すごく素敵だと思って」
ますます頬が熱くなって目が泳いでしまう。
「そ、そう……?」
「仮面舞踏会の翌朝、食堂に入ってきたきみは、まっすぐに私を見た。なんというか、あの瞬間──」
彼は言葉を切り、もどかしそうに身じろぎした。
「……悔しいな。うまく言葉にできない」
「あのときは、その、恥ずかしくて……。朝なのに夜会服だったし……」
「それでも気品に満ちていた」
「自分を奮い立たせていただけですわ」
「そこに打たれた。恥ずかしくても、逃げ出さずに立ち向かおうとする気概に感嘆した」
こんなに褒められたのは初めてで、どぎまぎしてしまう。
「そんな、大げさです……」
「大げさじゃない。本心からそう思ったんだ」
微笑んだ伯爵がそっと身体を傾けた。エイヴリルは避けなかった。
優しく唇が重なり、あたたかな感触に甘く胸がときめく。
名残惜しそうに唇を離して彼は囁いた。
「きみが好きだ」
飾らない言葉に頬が熱くなる。
「わ、わたしも……好きです……」
肩を抱かれ、おずおずと彼の胸にもたれる。
いつのまにか馬は立ち止まって勝手に草を食んでいたが、ふたりはそれにも気付かず、うっとりと抱き合っていた。
「……まったく、馬鹿だな私は」
「え。何故……?」
「今までずっと、きみを知らずにいた」
エイヴリルはとまどって彼を見た。
「それは……別の国にいたんですもの。仕方がありませんわ」
彼は複雑そうな顔で吐息をついた。
「……そう、だな。そろそろ戻ろうか」
エイヴリルは黙って頷いた。もっとふたりで過ごしたかったけれど、また機会はあるはず。
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