●著:犬咲
●イラスト:敷城こなつ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543921
●発売日:2026/7/30
お飾り妻から始まったのに、気づけば愛妻扱いされていて……!?
「この国の令嬢の中で君は一番無害で地味でこれといった取り柄がない」と、お顔が眩しい王弟マルスから求婚されたルディア。姪の王女が彼に熱を上げ政略結婚を嫌がるのを、諦めさせるために結婚したいというのだ。
お飾りの妻になる覚悟で嫁いだ彼女だが、互いの傍は意外に心地よく、子供を作るためだけだった閨も日に日に甘くなる。気づけば、彼は周囲も驚くほどの、愛妻家に変貌していて――!?
プロローグ 残念な求婚
ルディアは平凡な娘だ。
裕福でも貧しくもない、そこそこ代を重ねているものの社交界内でたいした力を持つわけでもない、平凡な伯爵家の平穏に愛しあう、平凡な両親の二番目の子として、十八年前に生まれた。
誰もが見惚れるほどの美貌もなく、類まれなる肉体美の持ち主でもない。
ふんわりと波打つ、ミルクをたっぷり入れた紅茶めいた、やわらかな色合いの髪と若葉色の瞳。
華やかでもないが地味でもない、野の花のような素朴な愛らしさを感じる顔立ちに、高くも低くも、細くも太くもない、それなりの凹凸はあるものの、これといって特徴のない身体。
際立って賢いわけでもなく、運動神経もそこそこ。
すべてのものに慈愛を向けるほどの聖人めいたやさしさや、一切の不正を憎む強い正義感の持ち主でもない。
できる限り人にはやさしくありたいし、嘘もあんまりつきたくないわ――程度の善良な人間ならば、誰もが持ちあわせているような倫理感があるだけだ。
何をとっても平凡でそれなり。
この国の「普通の娘」はどんなものかと問われたら、ルディアを見せれば「ああ、こんな感じか」と納得してもらえるような、圧倒的な凡庸さ。
ルディアを知る者に彼女の評価を問うたなら、「特にこれといった特徴はないかしら」「普通に良いお嬢さんだと思いますけれど」と無難に答えるだろう。
彼女は「無害な凡人」だと。
それは彼女、ルディア自身もわかっていたし、それで満足していた。
自分にみあった相手に嫁ぎ、父と母のような平凡だが幸せな家庭を築きたい。
そう願っていたし、そうなると信じていた。
国一番の平凡な令嬢として、穏やかな人生が続くと思っていたのだ。
春風と共にやってきた、国一番の絶世の美男子から電撃求婚されるその瞬間までは。
* * *
――お顔がまぶしい……!
麗らかな春の午後、突然屋敷を訪れたマルスと応接間で顔を合わせたそのとき、最初にルディアはそう思った。
マルス・テネラプラ、御年二十六歳。
テネラプラ王国の国王フェリクスのただ一人の弟であり、広大なる所領を誇る、ベネヴォール公爵家の若き当主。
優美な左手の小指には、その証である紋章入りの金のシグネットリングが輝いている。
気難しく社交嫌いなことで知られ、めったに表舞台に顔を出すことはない。
芸術を愛し、まだ見ぬ傑作との出会いを求めて、諸国を渡り歩いては、気まぐれにフラリと帰ってくる。
そんな彼についた呼び名はふたつ。ひとつが「芸術家気取りの道楽貴族」。
そして、もうひとつが……。
――さすがは「王家の秘宝」、これほど美しい男性が実在するのね!
秀麗な額に、粗野でも弱々しくもない、ほどよく凛々しげな眉、スッと通った鼻梁。
けぶるように長く重たげな淡い金の睫毛、半ば伏せられた切れ長の目は、名のある彫刻家がこれぞというバランスで引いたような二重の線と、下目蓋の描く絶妙な曲線が見惚れるほどに美しい。
その中に収まった瞳の色は、吸いこまれそうなセルリアンブルー。
生きた宝石と呼ばれるモルフォチョウの翅めいた鮮やかさと、希少な天然のブルートパーズを思わせる澄んだ輝きを感じさせる。
形の良い唇はやや薄め、唇の端がわずかに上がっていて、冷ややかながらどこか誘っているようで、妖しく官能をくすぐられる。
伸ばしたまま結びもせず、無造作に垂らした淡い金の髪は、ともすればだらしなく見えそうだが、彼の場合は違う。
サラサラと流れる絹糸のごとく艶やかな髪が、額縁のように彼の美貌を引き立て、どこか退廃的な色香を醸しだしている。
羽織っただけの空色の上着に、襟元のはだけたドレスシャツ。
それから、上着と同色のベストにトラウザーズという気崩した装いも、生来の気品のせいか、だらしなさよりも「美しさの形のひとつ」と感じさせる。
――これは……秘されるのもわかるわ。むしろ、秘されて正解ね。
惜しみなくこの顔を見せびらかされては、暴力的なまでの美しさに目を焼かれ、脳裏に焼きついて悩める人々が大量に出てしまうことだろう。
ルディアもしばらくは、この残像が目蓋の裏から離れず、夢に見てしまいそうだ。
――なるべく直視しないように気を付けましょう。
睫毛を伏せながら若葉色のドレスの裾を払って、ふたつ並んだ肘掛け椅子に、父であるコリスコン伯爵と並んで腰を下ろす。
父の方もマルスを直視しないようにか、視線を微妙に下げているあたり親子だ。
遊学中の兄がここにいたならば、きっと同じように斜め下を見つめていたことだろう。
そのようなことを思いつつ、応接テーブルを挟んでマルスと向かいあったところで、長椅子の上で、長い脚を優雅に組んだ彼が口をひらいた。
「……前ぶれもなしにすまないな」
響きの良い声で謝罪をのべつつも、口調は気だるげで、その表情にも態度にも悪びれた様子はない。
マルスは理解しているのだ。
この程度の非礼を働いたところで、ルディアたちが彼を咎めることはないと。
この国で国王に次ぐ強大な地位と権力を持つ彼に、堂々と物申せるのは、彼の兄であるフェリクスくらいだろう。
「いえ……それで、本日はどのようなご用件でしょうか?」
「ルディア嬢を私の妻として貰い受けたい」
「……はい!?」
遠慮がちに父が問いかけて、サラリと返ってきた言葉に、父とルディアは目をみひらき、そろって驚愕の声を上げる。
「先ほど兄上に頼まれたのだ。早急に身を固めてほしいとな」
億劫そうに眉をひそめて、マルスはそう続けた。
「先ほど、でございますか?」
「そうだ。姪のプリムラが私に懸想をして、兄を困らせていることは知っているな?」
「それは……噂としては耳にしております」
国王の最初の子、今年十八歳になるプリムラ王女が、幼い時分よりマルスを恋い慕っていることは周知の事実だ。
けれど、当のマルスにその気がなく、むしろ迷惑がっていることも、また皆が知っている。
「……噂ではない」
どのように答えたものかと困ったように父が曖昧に頷くと、マルスはいっそう眉間の皺を深めて、溜め息をひとつこぼしてから語りはじめた。
「幼い頃のプリムラは病弱で、叔父として案じ、あれこれ世話を焼いていた。それが良くなかったのだろう。私に無駄な幻想を抱いていて、すっかり健康になった後も、自分は私にとって特別な存在だと思いこみ、私と結ばれる運命なのだと言い張っているのだ」
マルスのことを「ミステリアスだけれど、私にだけはやさしく笑ってくれる美貌のお兄様」と思いこみ、憧れと初恋をこじらせてしまっているのだという。
「縁談の話が出るたびに泣いて嫌がり、兄上も渋々ながらに許してきた。だが、今回ばかりはそうもいかない」
「と、おっしゃいますと……?」
「隣国の第二王子との縁談が持ち上がっている」
「ああ、それは……お断りするわけにはまいりませんね」
隣国とは友好条約を結んだばかりで、今が一番大切な時期だ。
二国間の関係を深めるための、友好の証としての縁談なのだろう。一介の令嬢のルディアでさえ、それくらいはわかる。
王女であるプリムラならば、なおさらその重みも大切さもわかっているだろうに……。
「……プリムラ殿下は、嫌がってらっしゃるのですね」
「そうだ。嫌だと言ってきかない。特に顔が嫌だと」
「顔? 特に悪くは……むしろ整ってらしたような気がするのですが……?」
父がルディアに同意を求めるように視線を向けてきて、ルディアは「はい」と同意を示す。
隣国の第二王子ならば、一度だけ、父と共に交流式典で目にしたことがあるが、決して容貌は悪くなかったはずだ。
「気品がおありで、穏やかそうに整った顔立ちをしてらしたかと……思うのですが」
そろって首を傾げる父とルディアに、世にも麗しい顔をしかめてマルスは頷く。
「ああ。穏やかで誠実な人柄が出ている、実に良い顔だと私は思うが、気に入らないらしい。私ほど美しくはないから嫌だそうだ」
「そんな無茶な……!」
マルスは「王家の秘宝」に例えられるほどの稀代の美男子なのだ。
彼ほど美しい男など、そうそういるはずがない。
――でも、いないからこそ焦がれてやまないのでしょうね。
ルディアが眉を下げたところで、マルスは盛大な溜め息をひとつこぼして、「そういうわけで」とルディアに視線を向けた。
「プリムラが私を諦められるよう、誰でもいいから早急に妻の座を埋めるよう頼まれ、兄上のために、こうして君に求婚をしにきたというわけだ」
「さようでございますか……あの、ですが、どうして私なのでしょうか?」
視線を合わせているだけでも、どんどん心拍数が上がっていくようで、まぶしすぎる美貌を直視せぬよう、半ば目を伏せながら尋ねると、彼はためらうことなく答えた。
「君が一番都合がよかったからだ」
「……はい?」
「元々、結婚するのならば毒にも薬にもならない、社交界で力のない、平凡で目立たぬ家から娶ろうと思い、ぼんやりとだが君が最適だろうと思っていた」
唖然となるルディアに、憮然とした表情でマルスは続ける。
「君ほど平凡な娘はいない。それなりに善良で、それなりに賢く、それなりに分を弁えている。君をあえて憎む者もいなければ、熱狂的に慕う者もいないだろう。この国の令嬢の中で、君は一番無害で地味で、これといった取り柄がない。そこがいいと思ったから、君を選んだ」
次々と投げかけられる言葉は褒められているというよりも、こき下ろされているようで、ルディアは思わず父と顔を見合わせる。
――こんなに失礼で、残念な求婚ってあるものなの……?
そう感じたのは父も同じだったようだ。
いつもおっとりのんびり、怒ったところも声を荒らげたところも見たことがないが、今、マルスを見つめる若葉色の目には、非難の色が浮かんでいる。
それを感じ取ったのだろう。
マルスはバツが悪そうに眉をひそめて、言いわけのようにつけ足した。
「バカにしているように聞こえるかもしれないが、私は真剣だ。真剣に考え抜いた上で、ルディアを選んだのだ」
「真剣に?」
「そうだ」
しっかりと頷く彼は、相変わらず気だるそうだが、まなざしは確かに真剣な色を帯びていた。
冗談ではなく、本当に熟慮の上でルディアを選んだのだ。
以前から候補を絞っていたというのも、きっと嘘ではないのだろう。
彼は国王に頼まれてすぐ、まっすぐにここに来たのだから。
――どうして、私なのかしら?
先ほど彼に投げかけた疑問を、あらためて自分で考えてみる。
――平凡だからこそ選ばれたということよね?
無害で地味で、社交界でも目立たず、毒にも薬にもならない家の、それなりに弁えた娘。
そう数え上げて、あ、と思い当たる。
毒にも薬にもならないというのは、誰にとってなのか。
マルスにとってという意味も、もちろんあるだろう。けれど、それ以上に彼が気にしているのは、たぶん……。
「陛下のお邪魔にならないため、でございますか?」
ここまでのマルスの言葉を振り返ってみると、度々、彼は兄である国王のことを慮っていた。
求婚に来たのも、「兄上のため」だと言っていた。
現国王には二人の王子がいるが、最初の王子が生まれたのは、ほんの六年前だ。
王妃の忘れ形見である二番目の王子は、すくすくと育っているものの、まだ四歳。
彼らが生まれるまでは、王位継承権を持たない病弱なプリムラ王女、ただ一人の御子だった。
そのため、マルスが「道楽貴族」として知れ渡るまでは、彼を「王に!」と望む声も大きかったと聞いている。
次代の王に、という意味だけでなく、当代の王であるフェリクスを押しのけてでも、彼を玉座に、と願う声が。
――元々、マルス様はとても優秀だったそうだから……。
自由な気風のマルスにとって、きっと、それが煩わしかったのだろう。
「ただでさえ力のあるマルス殿下が、力のある家と縁付けば、うるさく言ってきたり、おかしな期待をかける者が出てくるでしょう。ですから、あえて私を選んだ……そういうことでしょうか?」
兄である国王への配慮と、自分の安穏のために。
それならば、納得できなくもない。
静かに尋ねるルディアに、マルスは意外そうに目をまたたかせてから、ゆっくりと口元をほころばせて頷いた。
「……そうだ。察しが良くて助かる」
破壊的なほど麗しい笑みに、うぐ、と呻きがこぼれそうになるのを――隣の父はこらえきれずにこぼしていたが――ルディアは胸を押さえてこらえる。
「……ありがとうございます」
「そこまでわかっているのなら、承知してくれるな?」
「え、ええ……」
「ひとまず妻の座を埋めるため、名簿上だけのお飾りの妻になるだろうが、見返りは充分に与えるつもりだ。いいな、ルディア?」
尋ねる口調はやわらかだが、深まる笑顔の圧と威力は多大なるもので……。
「……はい、謹んでお受けいたします」
「そうか、ありがとう。よろしく頼む」
満足そうにほころぶ美貌に、いっそう鼓動が跳ねる。
これから夫婦として、この美しい尊顔と向きあうことになるのだ。
そう思えば、心臓が持つだろうかと恐ろしいような楽しみなような心地になりつつ、ルディアは、「こちらこそ、よろしくお願いいたします」と応えた。
第一章 普通がいいです……!
突然の求婚から、わずか七日後。
ルディアは王宮内に建つ王室礼拝堂で、マルスと共に婚礼に臨んでいた。
代々の王族が日々の祈りを捧げてきた礼拝堂は、こぢんまりとしながらも、すべてが品よく美しく整っている。
――もっとも、この中で一番美しいのは、マルス殿下でしょうけれど……。
幾何学模様の床にまっすぐに伸びた深紅の絨毯、その先に置かれた祭壇の前。
薔薇窓を通して降り注ぐ、七色にきらめく春の陽ざしを浴びるマルスと向きあいながら、ルディアはそんなことを考えていた。
金糸の刺繍と縁取りをあしらった純白の外套を羽織った正装姿の彼は、直視するのもはばかられるほどに、まばゆく美しい。
初めて会ったときは座っていたからわからなかったが、隣に立ってみると、彼は思った以上に背が高く、均整の取れた長身に、壮麗な婚礼装束が恐ろしいほど似合っている。
信徒席に座す国王に招かれた貴族たちも、感嘆の息をつきながら花婿をながめていた。
婚儀を執り行う司祭でさえも、一度だけだが、彼に見惚れて言葉を失う瞬間があったほどで……。
花嫁であるルディアも純白の絹のドレスをまとい、精一杯に飾り立てていたものの、ルディア自身も含めて、誰も気にとめてはいなかっただろう。
この結婚が、「プリムラにマルスを諦めさせるための便宜上のもの」だということは、招待客には伝えられていたから。
ちなみに、当のプリムラには婚礼が終わった後に知らされるそうで、今日は招かれていない。
だから、皆、ルディアのことは、マルスの隣に置かれた添えもの程度に思っているはずだ。
ルディアの両親――「妻として名義をお貸しするだけでも充分だろうから、嫌になったら逃げておいで」と言ってくれた――と、国王を除いて。
「……ルディア嬢、巻きこんですまなかったな」
婚礼を終えて、マルスの住まうベネヴォール公爵邸へと向かうため、馬車に乗る間際。
マルスと同じ色彩を持つフェリクスは、国王として詫びた後。マルスとは違う精悍な顔立ちをフッとゆるめ、兄の顔になって言った。
「どうか、マルスを……弟をよろしく頼む」と。
それはただの社交辞令的な決まり文句ではなく、祈りめいた響きを帯びているように、ルディアの耳には響いた。
――私はただのお飾りの妻だと、知ってらっしゃるはずなのに……。
戸惑いながらも、国王の言葉にこめられた、兄としてマルスを想う感情は温かく心地好いもので、できる限り、頑張ってみようと思える気がした。
元々、貴族の結婚は家のためにするもので、絆や愛情は嫁いでから育てていくものだ。だから。
「……はい。精一杯、努めさせていただきます!」
ルディアは、国王の想いを引き受けるように、ニコリと微笑んで頷いた。
* * *
急ごしらえの婚礼を済ませて、迎えた初夜。
正門から玄関まで、歩いてでは辿りつくまでに日が暮れてしまいそうな広大な敷地に建つ、瀟洒な館の奥まった一室。
夫婦のための寝室で、ルディアは落ち着かない心地で立ちつくしていた。
シュミーズの上に羽織ったガウンをそっとかきあわせ、そわりと室内を見渡す。
――ものがいっぱいね……おかげで気がまぎれるけれど。
置かれている家具はどれも見るからに上等で上質な品ばかりで、色調も材質も調和がとれている。
主張が強いのは、マルスが集めたらしきコレクションの数々だ。
深い緋色の壁には、金の額で縁取られた風景画や静物画、不思議な仮面やタペストリー、乾いた謎の草が飾られ、暖炉のマントルピースや床に置かれた台座の上には、大小様々な壺や彫像、謎の人形、棒が刺さった石盤や瓶に入った砂が並んでいる。
――まるで美術館……いえ、ヴンダーカンマーのようだわ。
多彩というべきか博愛的というべきか、とにかく好きなものを好きなだけ、集められるだけ集めたという感じだ。
――これがマルス殿下の好きなもの……共通点がよくわからないわね。
絵画は皆、特段珍しい題材でもなく、日常的な風景や品を描いたもので、仮面は形こそ奇抜だが、なんに使うのかわからない。
タペストリーも草花もこれといった特徴はなく、壺や胸像も美しくはあるものの、正直に言うと、ルディアの家に置いてあるような手頃な品と何が違うのかわからない。
――でも、どれも諸国を巡って買い求めるほどの逸品なのよね……?
首を傾げつつながめていると、浴室から出てきた寝衣姿のマルスが足をとめ、フッと溜め息めいた笑みをこぼした。
「ごちゃごちゃして、ガラクタ置き場のようだろう?」
「えっ、いえ! 芸術は難しいなと思って見ていただけですわ!」
「無理はするな。君に理解してもらおうとは思わない」
慌てるルディアにそっけなく返した後、マルスはつかつかと寝台に向かい、ドサリと横たわった。
「今日は久しぶりに人が多いところに出て疲れた。寝よう、ルディア」
「は、はいっ」
億劫そうに手招かれたルディアは慌てて駆け寄り、ガウンを脱いで彼の隣に横たわる。
「……失礼いたします」
緊張に声が上ずるのを感じながら、深い緋色の天蓋を見上げて、騒ぐ鼓動を抑えるようにギュッと胸の上で手を組む。
――これ、本当に寝てしまっていいものなの……?
眠れるかどうかは別として、まがりなりにも夫婦の初夜だ。
そういうことを、いたさないのだろうか。
いや、まがりというよりも紛いなのだから、いたさなくても当然なのかもしれない。
「……そう硬くなるな」
「え?」
「これ以上の無理は強いない」
そろりと首を巡らせて見ると、マルスは気のない様子で天蓋を見上げていた。
「……名義を埋めてくれただけでも充分だ。望まぬ結婚を強いた自覚はある。今後は私に迷惑をかけない限り、好きに過ごしていい」
熱のない、淡々とした声音で彼は続ける。
「死にたいほど嫌気がさしたり、好いた相手ができたなら言ってくれ。早急に離縁できるよう努める。とはいえ、できればプリムラが無事に嫁いで、最初の子を授かるくらいまでは、婚姻を継続したいところだが……」
「……最初の子を」
「ああ、だが数年単位でかかるだろうからな。無理にとは言わない。ひとまず、プリムラが嫁ぐまで、妻でいてくれればそれでいい。君が望むのなら、白い結婚でもかまわない。離縁の際には、きちんとそう証言しよう」
どこか投げやりに告げられて、ルディアはパチパチと目をまたたかせる。
――そんなに私に都合がよくていいのかしら?
確かに強引と言えば強引だったかもしれないが、あの求婚の後、彼が提示してくれたコリスコン家への支援内容は破格のものだった。
おかげで父の代はもちろん、遊学中の兄や、その孫子の代までも安泰だろう。
見せられた誠意には応えたい。
――陛下にも、「精一杯努める」とお約束したことだし……。
たとえ数年後には離縁することになるとしても、それまでにルディアにできることは、できるだけ、すべてしておきたい。
「……マルス殿下は、御子をお望みではないのですか?」
「え?」
「私は望まぬ結婚を強いられたとは思っておりません。納得して嫁いでまいりました。父や兄や民のため、この身を役立てられるのは幸せなことだと思っております。そして妻となったからには、殿下のお役に立ちたいとも……」
マルスの方こそ国のため、兄である国王のために必要に駆られてした結婚だ。
この結婚が期間限定のものであることを、ルディアよりも彼の方が望んでいるだろう。
いずれ離縁する相手との間に子供など不要だというのなら、望まれない子を、無理にもうける必要はない。
でも、もしも必要だというのなら……。
「家の支援をしていただくのですから、私にできることは、すべてさせていただきたいです」
ニコリと笑って告げると、マルスはゆっくりとこちらに顔を向けて、ルディアの真意を探るように見つめてくる。
――うう、お顔がいい。
薄暗くてよかったと思いながら、視線をそらさず見つめ返していると、やがて彼は再び天井に視線を向けてポツリと答えた。
「私の子など、いなくともきっと困らない。兄上の子かその次の子が跡を継いでくれる。だが……」
「だが?」
「私の子が継いだ方が、きっと兄上は喜ぶだろう。兄上は、おやさしいから」
そう呟く横顔には、兄のやさしさを嬉しく思うというよりも、それが苦しいというような、複雑な感情が滲んでいた。
――陛下は心から、マルス殿下を弟として大切に想ってらっしゃるようなのに……。
どうして想われている当人は、こんなにも辛そうなのだろう。
わからなかったが、その理由を尋ねては、不躾に心に踏みこんではいけない気がして、ルディアは無邪気な女のふりをして、いっそう笑みを深めて告げる。
「では、そういたしましょう!」
「そうだな……」
小さく答えた彼がゆっくりと身を起こし、ギシリと寝台を軋ませて、ルディアの顔の横に手をつく。
サラサラと流れた金の髪が帳のように下りてきて、頬をくすぐった。
そうして、彼はルディアを組み敷くと、窓から差しこむ月光を背に受け、ほとんど翳っていても、なお麗しい顔を微かにほころばせて……。
「……君もやさしいな、ルディア」
ほのかに甘さを含んだ声音で囁くと、そっと身をかがめて口付けてきた。
迫りくる絶世の美貌に、ルディアは、ひゃあぁ、と心の中で情けない叫びを上げて、ギュッと目蓋を閉じる。
婚礼のときもベールを上げられた瞬間、同じように目をつむっていたが、そのときと同じく軽く唇がふれあって離れたところで、ふ、と彼が小さく笑みをこぼした。
「だから、そう硬くなるなというのに」
「そう言われましても、お顔がまぶしすぎてっ」
「見たくないと?」
「いえっ、そんな! ただその、慣れないもので、美の過剰摂取のあまり心臓が急激にドキドキしてしまいまして……防衛本能で目蓋が閉じてしまうのです!」
しどろもどろに返すと、またひとつマルスが笑う気配がした。
「そうか。防衛本能ならばしかたがないな。まあ、美人は三日で慣れるそうだから、おいおい慣れてくれ」
「はいっ、精進いたします……!」
普通の美人で三日かかるのならば、絶世レベルのマルスに慣れるのに、いったい何カ月かかることやら。
そう思いつつ頷いたそばから、ひたりと左の頬に冷たい指がふれて、ひゃ、とまたしても情けない声がこぼれてしまう。
「それで、ルディア」
「はいっ」
「初めてだろうからな。君の希望に応えよう」
「……希望?」
「ああ。どんな風に抱かれたい?」
なんのだろうと首を傾げかけて、サラリと返ってきた言葉に鼓動が跳ね上がる。
「ど、どんな風と言われましても……」
両親もルディアも、これほど急に嫁ぐつもりなどなかったので、「そういったことは縁談が決まったら、おいおい学べばいいだろう」とのんびりかまえていた。
だから、ルディアの頭の中にある閨の光景は、ふんわりぼんやりしている。
――もっと真面目に閨について学んでおけばよかったわ!
そうやって尋ねるほど、色々な抱かれ方があるということなのだろう。
――殿下のお好きなように……というのも失礼よね?
せっかくこうして慮ってくれているのだ。何かリクエストを出すべきだろう。
グルグルと考えて、結局、ルディアの口からこぼれたのは面白みも何もない答えだった。
「普通がいいです……!」
「……普通か、わかった」
小さく彼が笑う気配がして、今度は右の頬に指がふれ、両の手のひらで包みこまれる。
そのまま目蓋越しに注がれる視線に、そろりと薄目をひらいたところで、小さく息を呑む。
睫毛がふれそうなほど近くに、輝くセルリアンブルーの瞳があった。
「……普通の夫婦ならば、まずは何度も口付けを交わすものだろう?」
気だるげながら少しの甘さと悪戯っけを含んだ囁きに、彼の手に包まれたルディアの頬がホワリと熱を持つ。
その頬を指先でくすぐるように撫でられて、目を合わせたまま口付けられ、そっと離れてまた頬を撫でられる。
そうしてジッと見つめてから、目元をゆるませてまた口付けられ、ルディアは忙しなく目をまたたかせながら、バクバクと鼓動が速まるのを感じていた。
――ふ、普通の夫婦って、こんなに見つめあいながらするものなの?
薄暗くて何よりだが、それでも、段々と暗さに目が慣れてきて、どんどん世にも麗しき尊顔がハッキリしてきてしまう。
「っ、あの、ごめんなさい! 目を、閉じてもよろしいですか?」
何度目かの口付けでドキドキに耐え切れずに謝ると、鮮やかな目がみひらいて、それから、キュッと笑みの形に細まった。
「……ああ、かまわない」
「ありが――んっ」
ホッとして目をつむりながら口にした礼の言葉を言い切る前に、再び唇を奪われて、ひらいた隙間から熱い舌が潜りこんでくるのに、ルディアは心の中でまたしても情けない悲鳴を上げる。
――ああぁ、舌、舌がっ、にゅるって……!
うろたえて強ばる舌を搦めとられ、口内で響く水音と未知の刺激に震えが走った。
「ん、ふ……っ、ん」
頬に添えられていたうちの右手はいつの間にか、耳をかすめてうなじへと回り、しっかりと捕らえられて、口内をやさしく貪られる。
絡む舌がこすれるたび、子猫の喉をかくように上顎をくすぐられるたび、ぞわぞわというのかゾクゾクというのか、頭の裏側に響くような甘ったるい感覚が走り、ん、と喉が鳴った。
――うう、どうして? 毎日使っている場所なのに……!
味わうような舌の動きは似ていても、食べものがふれるのとはまったく違う。
煽られるのは食欲ではなく甘い官能。
口付けが深まるほどに鼓動が高まり、飢えたように呼吸が乱れていく。
やがて、口付けがほどけて、ぴちゅりと音を立てて濡れた舌が離れたときには、すっかりルディアの息は上がっていた。
「ぁ、でん、か――ん」
上ずった呼びかけを彼は口付けで遮り、ふ、と笑って囁いた。
「普通の夫婦らしくするのならば、殿下はなしにしよう」
「なし……では、なんとお呼びすれば?」
「そうだな。普通の夫婦ならば、愛称で呼びあうものだろう。君はディアで……私はなんだろうな」
確かにマルスの愛称はパッとは思い浮かばない。
「そうですわね……私がディアならば、ルース、ではいかがでしょうか?」
「ルース……裸石か。悪くはないな」
小さく呟いた彼が、ルース、ともう一度確かめるようにくり返してから、頬をゆるめる。
「では、以後、そう呼んでくれ。敬称も要らぬからな、ディア」
マルスは楽しげに笑いながら、もう一度ルディアに口付けた後、シュミーズの肩にふれて誘うように尋ねる。
「さて、続きといきたいところだが……これは普通はどちらから脱がすものなのだろうな。上げるか、下げるか」
「わ、わかりませんわ……っ」
「そうか、では……そうだな、脱がせながら愛でられるよう、下にしておこう」
そう囁くと彼はシュミーズの襟ぐりに指を忍びこませ、くすぐったさにルディアが吐息をこぼしたところで、ずるりと引き下ろした。
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