●著:春瀬湖子
●イラスト:森原八鹿
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543976
●発売日:2026/9/30
荒んだ領地を立て直すために婿を取ったら有能な上に相性抜群だった件
お人よしの両親のせいで領地の存続が危ういため、一時的に爵位を継ごうとする伯爵令嬢イエッタ。未婚の令嬢という点に難色を示す国王と宰相に焦れて、宰相の息子ヴェルクを婿にくれと言ったら、監視役兼婿として受け入れられることに。
やってきた彼はイケメンで有能。領地経営を手伝うのなら見返りを示せと言うヴェルクに「じゃあ、おっぱい揉む?」と口走ったら、俄然その気になってしまい!?
序章 まさかまさかの没落の危機!?
カイゼル伯爵家は決して裕福ではないけれど貧乏というほどではなく、私は穏やかな両親と少し年の離れた可愛い弟と仲良く暮らしていた。
今はもう亡くなってしまったが、祖母がカイゼルの領地を治めていた頃からの貯蓄もあったし、大好きな祖母に連れられて行った領地の湖の景色は本当に美しく、この領地の中で大好きな場所のひとつだった。
祖母の代わりに父が領主となってからは貯蓄こそ減ったが、それでも盆地ゆえに農作物も安定した生産ができている。
七歳下の弟は、領地をよりよくするための勉強がしたいと隣国の全寮制の学園へと進学し、まだ十二歳だというのに日々勉学に励んでいた。
また、領民との関係だってうまくいっている。
多少お人好しすぎる両親のことが懸念点というくらいの、ごくごく平凡で幸せな家。そんな伯爵家の長女として生を受けた私、イエッタ・カイゼルは、将来弟の治めるカイゼルの領地でのんびりスローライフをしようなんて、その時までは思っていたのだ。
「……え、隣の領地にまた支援? ウチにそんな余裕あった?」
「うん、そうなんだ。なんでもクラーセンでは冷害が酷かった影響が出てるらしくて……」
「れ、冷害!? ウチにはそんな被害出てないわよ!? しかも三年連続じゃない!」
「大変だよねぇ、可哀想に」
(いやいやいや、あり得ないでしょ!)
これは人助けだよ、とどこか誇らしげに笑う父に血の気が引く。
「隣の領地よ、カイゼルの領地と離れてないけど!? 絶対騙されてるから!」
「局地的な冷害だったのかなぁ」
私の指摘に不思議そうな顔をした父は、それでも、と再び口を開いた。そしてどこか言い聞かせるように私の瞳をじっと見つめる。
「だけどもしこれが本当で、領民が飢えたら大変じゃないか。貸したお金はいつか返ってくるよ、何よりこれでみんなが救われるんだ」
「そうよ、イエッタ。お父さんは人助けをしたの」
(いやいやいや、何回目なの!?)
ほのぼのとした雰囲気を漂わせながら、笑い合う両親にゾッとする。確かに局地的に冷害が出ることがないとは言わない。言わないけれど、確かめもせずカイゼルの備蓄を当たり前のように減らしていくなんてあり得ない。
ウチがものすごく裕福で余裕のある領地だったら話は変わったのだろうが、平々凡々なこの領地は決して他者を無条件に援助し続けられるほどの蓄えはないのだ。
「帳簿、帳簿を見なきゃ……」
「おぉ、イエッタも経営に興味があるのかい? ウチの子供たちは優秀だなぁ」
(嬉しそうにしてる場合じゃないから、お父様ッ)
にこにこと笑顔を浮かべる父に内心文句を言い、慌てて帳簿を確認する。
カイゼル伯爵家を継ぐのは男児である弟だが、七歳年の離れている弟が成人するまで少しでもサポートしようと一通りの経営は私も学んでいた。そのお陰で、この両親の行き当たりばったりなお人よし領地経営に一層不安を覚える。
(ま、まずいわ)
ブルブルと震えながら過去の帳簿も確認すると、今年に入ってすでに支援は四回目。これでは穏やかな両親、ではなくカモにされている両親ではないか。
しかも今回の支援で我が領の備蓄をすべて使ったらしく、収支はプラマイゼロ、むしろマイナスになりそうだ。このままでは次年度に国へ納める税金は支払えない。ギリギリまで節約し、次年度をなんとかやり過ごしても、父がこのままでは再来年にはもっと大きな収支のマイナスが出てしまう。
マイナス収支の先に待っているのは、当然だが領地を治める能力なしの烙印だ。
(このままじゃ弟のレフィが帰ってくるまでに没落しちゃう……!)
まだ幼い弟が早々に留学を決めたのは、成人してすぐにこのお人好しすぎる父から爵位を継ぎ、この没落との綱渡り状態を解消したかったからかもしれないと今更ながらに理解する。
(ごめんね、お姉ちゃん、両親の雰囲気に流されて危機感が足りなかったかも)
この両親に任せていては弟が戻ってくる頃にはもう没落してカイゼル伯爵家はないだろう。今更気づいたその事実、だが、まだ間に合う。
「私が今すぐカイゼル伯爵家を継ぐわ」
(レフィが爵位を継ぐまで、私がこの領地を守らなきゃ!)
意を決し、私は両親へそんな宣言をしたのだった。
第一章 手際がいいのは最初から
弟のレフィが正式に爵位を継ぐまで、私が爵位を継ぎカイゼルの家と領地を守る。
そう決意し、両親へその宣言をしたまでは順調だった。むしろマイペースな両親は、突然爵位を継ぎたいと言い出した私に対し、呑気にも娘の成長だと喜んだくらいである。
――だが、まさかここで躓くとは!
「まだカイゼル伯爵は若く健康だ。いますぐ爵位を、それも令嬢が継ぐ必要性はないと感じるが?」
(必要性があるから申請を出してんのよ! この頭でっかち!)
苛立ちをどうにか押し殺し、神妙な顔を取り繕う私の前に座っているのはこの国の陛下だ。その横には宰相も控えている。まさかそれほど大きくないカイゼルの爵位譲渡問題に、陛下まで立ち会ってもらうなんていささか大げさにも思えるが、爵位の譲渡には陛下の承認がいるのだから仕方ない。
「まだ令嬢には婚約者もいないだろう。それなのにいきなり爵位を継ぐのは……」
陛下が戸惑ったように、自身の隣に立つ宰相へと視線を投げる。宰相はというと、私が提出した申請書へと目を通していた。
「条件としてはすべて満たしております」
話が進まないことに思わず口を挟むと、宰相が生意気だと私を咎めるように申請書をパシンと指先で弾き、ジロリと睨んでくる。さすが宰相、という威圧に一瞬怯みかけるが、ここで負けては弟が戻るまでの間に没落だ。私はゴクリと唾を呑み、深呼吸をして宰相の方へと視線を向けた。
代々宰相として国に仕えるペイルマン侯爵家。陛下の右腕として長年仕えるこの方が頷きさえすれば、きっと陛下は承認してくださるはず。ちゃんと家督を継げる人物だと認めてもらえるよう、ここで冷静さを欠くわけにはいかない。
「女性の爵位継承は認められております。それに私は現伯爵の実子で血筋も問題なく、また爵位を継ぐのに結婚の有無は関係なかったはずですが」
「生半可な覚悟で継げるものではない。爵位を継げば当然だがそれ相応の責任が課せられるのだ、陛下の気遣いだとわからないのか?」
「気遣いだとおっしゃるのなら、提出した申請書を承認ください。覚悟もないのにここまで単身で乗り込みなどしないでしょう」
「婚期が遅れると、女性はなかなか相手が見つかりづらくなっていくと思うが?」
(まだ言うか!)
淡々と言い合いをする私と宰相の間で陛下が視線を彷徨わせる。
確かに特別重要な立地でもなく、領地としても大きくない。政治的に使えるような特産品もないカイゼルの領地の事情など、陛下は知らなくて当然だ。
書類上では今までも問題なく領地は治められており、重税を課すようなこともしていないため領民からの嘆願書なども出ていないはず。そして当主を引退するには父はまだ若すぎるというのもわかる。
(でもそれだと、あと数年で没落なのよ!)
領地が問題なく回っているように見えるのはあくまでも書類上だけで、改めて帳簿を確認すると祖母が残してくれた貯蓄は底をついていた。
現状は豊作だった年の備蓄を行き当たりばったりで吐き出すという、綱渡り経営である。
他の領地にさえ援助しなければ、もしくは援助の回数か量を減らせば、盆地ゆえに安定した気候を保てる我が領が食糧不足になるなどの問題も起こらず、次年度の税金もちゃんと国へ納められるだろう。父が問題なだけで。
(このまま父に任せていたら、来年の税金は払えないわ)
領民に足りない税を多く払わせるのは絶対避けたい。
だがこんな我が家の事情は、陛下と同じくやり手のペイルマン宰相であっても知らないだろう。
今まで目立った問題を起こしたことのないカイゼルの領地に、まさか没落の危機が訪れているとは考えていないはず。そうなれば、現状私の訴えは未婚で成人したての小娘が遊び半分で領地経営に興味を持っただけ。
一度爵位を継承すれば先代へ権利を戻すことはできない。実弟が留学中なのも未成年だということも提出した書類には記載があるので、今継げば最低あと六年は私が当主を務めなければならないということを理解しての心配なのだろう。
(六年後の私は二十五歳、確かに結婚適齢期を過ぎているものね)
婚約者がいれば話は変わるのだろうが、さすがに領地経営と結婚相手探しを同時にするのは厳しい。もし私が結婚したいと考えを変えた時、領地への対応が疎かになることを懸念する気持ちは痛いほどわかる。わかるが、ここで負けるわけにはいかないのだ。
(結婚、せめて私に結婚相手がいれば!)
誰でもいい。未婚で、婚約もしていなくて、ついでに弟への爵位継承がいつになるかも正式に決まっていないため、相手は爵位を継ぐ予定のない次男か三男。もしくは我が領のように当主が健在で、まだまだ爵位を継ぐ予定のない令息。
必死に考えを巡らせ、脳内でそんな都合のいい相手を思い浮かべる。
「爵位を継ぐにしても、結婚相手を見つけてからでいいのではないか?」
(それだと遅いのよ)
諭すようにそう言われるが当然頷くわけにはいかない。
しかし必死に誰かいないかを考えてみても、ちょうどいい相手は思いつかなかった。
黙り込む私を催促するように陛下が咳払いをし、それを合図に宰相が捲っていた書類を閉じて腕に抱える。ダメだ、このままだと却下を宣言されてこの話が終わってしまう!
(本当に誰もいないの!? この際愛ある結婚じゃなくていいから! 私がちゃんと当主として仕事をこなせるか監視する目的の結婚でもいいから!)
そこまで考え、ハッとする。そうだ、本当の夫婦のように愛を育む必要などないのだ。
「では、これにてこの話は――」
「私が結婚していればいいんですよね!?」
勢いよく顔を上げた私がふたりの方を見上げる。完全に話を畳もうとしていた宰相は、まだ粘ろうとする私へ少し呆れた表情を浮かべつつももう一度向き直ってくれた。そんな宰相へ、私は真剣な視線を送る。
「私に、息子さんをください!」
しんと静まり返った部屋に、私の声だけが反響していた。
(ペイルマン侯爵家は子息がふたり! しかも婚約者はふたりともいなかったはずよ)
宰相という立場がある侯爵の子息たちの結婚相手は慎重に吟味される。結婚という縁ひとつで派閥に偏りが出てしまうからだ。だがそれは、今の私には都合がいい。
「私が結婚していないことも懸念点のひとつなんですよね? ならば私の結婚相手として、ペイルマン侯爵家のご子息をください。もちろん長男を、なんて言いません」
(さすがに次期侯爵を指名したら、私が玉の輿狙っているみたいだものね)
ペイルマン侯爵家の長男は次期宰相に指名されるのでは、と噂されるほど優秀な人物で、すでに王城の官僚としても働き始めているという。
対して次男の噂はあまり聞かないが、次男が優秀かどうかはどちらでもよかった。
(宰相の息子、その肩書だけでいいもの)
「私がちゃんと領地を守れるのかが心配なら、監視役としてご子息を派遣してください。私を好きなだけ見張っていただいて結構です。ご自身の息子なら、気兼ねなくなんでも聞けますよね?」
「一体何を」
「それにカイゼルは領地も小さく、伯爵位ではありますが影響力の少ない平々凡々な貴族です」
突然の申し出に宰相だけではなく陛下も唖然とする。そんな彼らに私は追い打ちとばかりに口を開いた。
「だからこそ我が家と縁続きになっても、派閥の偏りに影響が出ることはないでしょう」
「つまり次男のヴェルクを、伯爵となる君の婿によこせということか?」
「明け透けに言えばそうです。あ、ですが私は弟が成人したタイミングで伯爵位を譲るつもりでおりますので、婚姻期間はその間だけでも構いません」
「ふむ、爵位はその期間で必ず譲るということで間違いないのかな?」
(どうしてそこを気にするのかしら)
それほどまでに女性が当主であることに不満を持っているのかと内心苛立った私だが、ふとペイルマン侯爵家の当主は目の前にいる宰相本人ではなく、彼の妻だったと思い出す。そしてここまで遠回しにやめるよう説得されていた理由を察した。
(あー、自分の奥様と私を比べてるんだわ)
侯爵家の当主をしながら息子ふたりを育て、宰相である自分を支える優秀な妻をそばで見ている彼だからこそ、突然爵位を継ぎたいと実績もなく、婚約者もいない小娘が乗り込んできたことに不安を覚えたのだろう。
「ご安心ください、弟は立派な当主となるべく爵位を継ぐため隣国まで留学をしております。そのため、私が当主を務めるのは弟が戻ってくるまで。ご子息にご負担を強いるのもその期間のみです」
「なるほど」
「それに、もし私の領地経営に問題が発生した場合、すぐに管理状況を確認できる方が都合がいいのではないでしょうか?」
「それはまぁ……、確かにそうだが」
「ご子息の結婚も、私という防波堤があれば変な派閥に狙われることもないでしょう」
ここぞとばかりに言葉を重ねる。そのお陰か、それとも爵位継承があくまでも弟が戻ってくるまでの期間限定と聞き安心したのか、最終的には一度顔合わせをし、次男であるヴェルクが了承するならばという条件でこの結婚が成立したのだった。
◇◇◇
それから三日。
カイゼル伯爵家の応接室で私と対面するのは、ペイルマン侯爵家の次男であるヴェルクだ。約束通り顔合わせに来た彼は淡い金の髪を輝かせ、ルビーのような真っ赤な瞳をにんまりと細めてこちらを眺めている。口元には人好きのする笑みを浮かべ、整った顔は令嬢たちが騒ぎそうなものだった。だが、どこか軽薄そうに見えるのはなぜなのか。
「本日はご足労おかけし申し訳ありません。早速ではありますが、結婚の合意書へ私側はもうサインを済ませてますので、了承いただけるならサインをお願い致します」
説明をしながら事前に準備していた書類を彼の前へと差し出す。王城へ呼び出されたあとすぐに準備しておいて本当に良かった。
(まさかこの速度で会いに来られるとは思っていなかったもの)
奇襲かと思うほど迅速な対応に、残念ながら家の中まで取り繕う余裕がなかったことを悔やむ。だが、まだなんとか踏みとどまっているお陰で目も当てられないほどみすぼらしいという状況ではなかったことにホッとした。
内心焦っている私とは対照に、ヴェルク本人はにっこりと笑顔を浮かべ出された紅茶に口をつけている。
どこか楽し気な様子だが、それと同時に私を品定めするような瞳に思わず息を呑んだ。
彼自身が私に興味を持っていないことはその視線からも明白である。それでもここにやって来たのは、きっと宰相から言いつけられたからに違いない。
(もし断られたら、ここで目標が潰えるわね)
夢のスローライフという目標どころか家ごと潰えてしまう。
せめて彼に気に入ってもらえるような目を引く容姿であればよかったのに、と思いつつ父譲りの平凡な緑の瞳と母に似た焦げ茶のストレートな髪は、残念ながらどちらかといえば地味な部類だ。いや、もし私の見た目が多少整っていたところで、彼の方が美しそうではあるけれど。
「なんか、熱烈なプロポーズしてくれたんだって?」
くすりと笑いながらそんなことを言われ、口の端がピクリとひきつる。
「別にプロポーズってわけじゃ……」
「えー? 息子さんを私にください! って父上と陛下の前で宣言したって聞いたけど。しかも俺をご指名で」
(指名とかしてないわよ、長男じゃなくて構わないって言っただけなんだから)
まぁ逆に言えばそれは次男を指名したと言えなくはないか、と考え直し、反射的に出かけた文句をグッと抑えてなんとか口角を上げる。ムスッとしていては、うまくいく交渉もうまくいかない。
「……期間限定で構いません。弟がカイゼル領を継ぐまでの代理を務める期間だけ婚姻を継続していただければそれ以上は求めません」
「あ、敬語やめてー? 俺たち夫婦になるかもなんだし」
私の話を無視し、笑顔で小首を傾げるヴェルクに今度は目元が痙攣したかのように引きつるが、苛立ちを表に出してはまずい。私はここぞとばかりに満面の笑みで両手を可愛らしくパチンと叩いた。
「ぜひ夫婦になっていただきたいです! それにヴェルク様としても、伯爵家で過ごすのんびりとした生活は悪くないはずですよ。お家的にも結婚相手は当たり障りのない我が家はピッタリですし、六年間は拘束してしまう形にはなりますが、婚姻中も離縁後もヴェルク様には自由にしていただければと思っていますっ!」
「敬語ー」
渾身のかわいこぶりっこを一言で流したヴェルクがあまりにも憎らしく見えて舌打ちしそうになったが、それだけはなんとか堪え、私は目の前に座る彼へジトッとした視線を向けた。
「……とにかく頷いてくれない? そっちだって次男で爵位は継がないんだし、私との結婚は悪くないと思うわよ。もちろん爵位を譲渡したあとは離縁してもらってもいいし。どうせその顔ならいろんな令嬢に追い回されてるんでしょ? でも侯爵家の立ち位置的に結婚相手はかなり慎重にならなきゃいけない問題なんだから、私はいい壁になると思うけど」
「へぇ、それが素なんだ」
「悪い?」
「いや、なんか男らしくて嫌いじゃないけどね」
(令嬢に男らしいって、全然褒め言葉じゃないんだけど)
だが彼の中で好感度が上がったのならなんでもいいか、と思い直し、こういう考えがそう言われる所以かと思わず目を細める。
「とにかく六年間は結婚相手に悩まされなくてもいいのはかなりのメリットじゃないかしら。六年もあれば情勢も変わるかもしれないし、政治的に選べなかった令嬢と秘密の恋とか楽しむのもいいと思うわよ」
「というかそもそもなんだけどさ、なんで離縁前提?」
「え」
不思議そうに問われ、目を見開く。なんでと言われても、これは監視を兼ねた結婚だからだ。他意はない。
「政略結婚なんだから、愛がなくて当然じゃない。私がこの結婚に求めているのは爵位を継ぐ条件に既婚であることを求められたからだもの。目的を達成したあとは自由にしていいと思うのは当然じゃない?」
「でもさ、離縁しちゃうとイエッタ嬢がかなり損じゃない? 死別ではない離縁なんて婚約破棄以上の醜聞だと思うけどな」
「死別ではない……って、つまり私に貴方を殺せと?」
「全く言ってないけど。大丈夫? 敬語外したらどんどん素どころか雑な面が出まくってるけど」
「敬語外してって言ったのはそっちよ」
「敬語を外してであって、仮面を外してじゃなかったんだけどなぁ」
少し考え込む素振りをし、突然あははとヴェルクが笑い出す。そしてスッと目を細め口元に手を当てた。
「政略結婚って元々こんなもんだよね。それなのに君が提示するのは俺に対してのメリットばかりだけど――、離縁の醜聞を覚悟してまでどうしても今継ぎたい理由って、なにがあるのかな?」
じっと私へと向けられる視線が冷たく感じ、じわりと冷や汗が滲む。
一瞬で纏う空気が張り詰めたのを感じ、ごくりと唾を呑んだ。
(さすが宰相閣下の息子ってことね)
長男ばかり噂の的になっていたが、やはりその血筋は本物ということなのだろう。
宰相に対してもわざわざ『監視役』という役割を提示したせいで、逆にそこから何かあると気づかれたのかもしれない。
「夫婦になるなら、後出しはダメだよねぇ?」
「夫婦になってからこそ伝えられる事情もあるんじゃないかしら」
「ふぅん。まぁ、それはそうか」
あっさりと引いてくれたことに安堵しつつ、僅かに居心地の悪さを感じる。
(没落問題に巻き込んでるのよね、騙し討ちすぎて詐欺で訴えられたりしないかしら)
ふとそんな不安が頭を過り、経済的に余裕がないことだけでも伝えておくべきかと迷っていると、ヴェルクが机に準備していたペンを握る。そして躊躇うことなく結婚合意書にサインをした。
てっきりもっと粘られるかと思っていたので、渡された書類に思わず目を瞬かせていると、クスリと小さくヴェルクが笑みを溢す。
「これで俺たちは運命共同体だ。で、どんな問題を抱えてる?」
「後悔しない?」
「そこは後悔させない、とか言ってほしいとこだけど。まぁ、部外者状態の俺に家の内情を伝えられないってのはその通りだしね。あとなんか面白そうだから乗ってあげる」
(何にも面白い要素はなかったはずだけど)
一体どの会話に面白さを感じ取ったのかはわからないが、結果的に合意してくれたのならこっちのものである。私はふぅ、と小さく深呼吸をしてから口を開いた。
「ヴェルク様って、帳簿は読める?」
「ん? 読めるよ」
(まぁ、宰相を担う一家だものね。帳簿くらい読めるか)
聞きようによっては失礼な発言だったが、ヴェルクは気にならなかったらしい。もしかしたら私と同じで細かいことはあまり気にしないタイプなのかもしれない。
「じゃあ、これを」
相手が誠意を見せてくれたのだから、私側が出し惜しみするのはおかしいだろう。
そう考え、思い切って我が家の直近の帳簿をヴェルクへ渡すと、少し不思議そうな顔をしながらパラリと捲る。そして思い切り吹き出した。
「あー、なーるほどね? ふぅん、あはは、確かにこれはあの執着と粘りになるか」
「この件が表沙汰になったら、どうなることか……」
「シンプルに没落だよねぇ」
クックッと笑みを溢しつつ、あっさりとそう断言する。はじき出されたその結論に、私も小さく頷き同意を示した。
「領地が赤字になれば商人も寄りつかなくなるわ。利益の出ない相手と商売を続ける理由なんてないし、取引先がなくなれば収益は回収できない。それどころか売るはずだった作物や加工品は在庫として積み上がるだけ。現金にできなきゃ、国への税金が支払えないわ」
「税金が払えなきゃ、そう遠くない未来に屋敷が差し押さえられ、領地も返納され王家の管轄になるねぇ」
「そうなのよ! このままじゃ弟が戻ってくるまでに没落……あぁあ、農作物で直接納税ができれば!」
「まぁ、そういう交渉もなしではないけど――」
ヴェルクがじぃっと見ていた帳簿を閉じ、机へと置く。
「だからこその期間限定、ねぇ。実際に弟クンが戻ってきた時、その地位をそんなにあっさりと手放す理由はなんだろうと思っていたんだけど……。確かに、その座に執着がないならあの言葉たちは真実だったってことだ」
「当たり前でしょ。こんなめんどうな仕事、本当だったらしたくないんだから!」
「そのわりには必死だったみたいだけど?」
「なによ、そこまでじゃないわよ。まぁ、弟は可愛いし、この地は……私の育った地でもあるからね。両親のことも嫌いじゃないのよ、むしろ人としては尊敬できるわ」
(当主でいるには、少しばかりずる賢さが足りないだけ)
善人が誰にとっても善人とは限らない。父のその善意は私たち家族と領地にとっては毒で間違いないのだ。
そしてそんな父のような善人ばかりではないのも、この世の理だろう。
(ヴェルク様が私にとっての善人であるといいけれど)
領地の現状を知ったからこそ、彼がこれからどう行動するのかは注意が必要だ。今からの彼は、夫であり私の監視役になるのだから。
「だからまぁ、娘として。巻き込んで悪いんだけど、これは私がやるしかないから仕方なくよ」
「それにしては鬼気迫る武神のようだった、って聞いたけどね」
(どんなよ!?)
宰相と陛下にはあの日の私がそのように見えていたのかと思わずげんなりする。
なかなか不名誉な称号ではあるが、それでもなんとかカイゼルの領地は首の皮一枚繋がりそうで同時に心から安心はした。
あとは私が頑張るだけだ。
「というわけで、申し訳ないんだけどお金がなくて大々的なお披露目はできないの。書類上だけの結婚でいいかしら」
「婚約式も結婚式もなしってこと?」
「帳簿見たでしょ。それに離縁するってわかってるのに大々的なお披露目をしてもねぇ。ドレス代ももったいないし」
婚約期間をすっ飛ばして婚姻合意書にサインをしてもらったのだ。今から婚約者としてお披露目するのもおかしいし、だからといって大々的な結婚式をする余裕はカイゼルの領地にはない。
侯爵家にとっても、監視役としてという側面ありの結婚なのだからわざわざ他の家に知らしめる必要もないだろう。
「それだけど、なんでイエッタ嬢はそんなに離縁したいんだ?」
「私っていうよりヴェルク様の方じゃない? 正直その見た目なら選び放題じゃない。私みたいな地味な伯爵令嬢より、もっと釣り合う令嬢はいくらでもいるでしょう?」
「思ったより俺の見た目の評価が高いようで」
「いいものはいいと評価するタイプなの」
そう言い切り、目の前に置いた紅茶を一口啜る。すっかり冷めてしまってはいたが、第一段階をクリアした安堵感からかいつもより美味しく感じ――
「へぇ。でも俺、離縁する気はないんだよねぇ」
というヴェルクの言葉に思い切り紅茶を吹き出した。もったいない。
「ど、ど、どうして!?」
「そもそも離縁にあんまりメリットを感じなかったし。情勢が変わっていることに賭けて好きな人を作るより、イエッタ嬢を好きになる方が健全じゃない?」
「いや……それはまぁ、そうかもしれないけど」
動揺したまま机に置かれた帳簿とヴェルクを見比べる。
(帳簿も読める、宰相一家の次男。一時的でも女当主の婿として身を置くことを了承してくれる相手、か)
確かにこれだけの好条件だ。私としても、このまま婚姻を継続してくれる方がありがたい。
「わかったわ。離縁をしなかった場合、付き合わせたお詫びにちゃんとヴェルク様にもスローライフを約束する」
「スローライフねぇ」
「何よ、文句ある? スローライフは最高よ、ゆったりお昼寝しながら気ままに過ごすの」
「できるといいけどね?」
少し含みを持たせたような言い方に疑問を覚える。だが、まずはこの没落の危機を乗り越えなければスローライフどころではないかと思い直した。
「その未来のために結婚したんだから、やるのよ」
「うん。頑張ってね」
「……え?」
完全に他人事な発言にポカンと口を開く。
「手伝う気はない感じ?」
「手伝うことは提示された条件になかったでしょ? 俺に提示された条件は、監視役として結婚することだけじゃなかったっけ」
「で、でも離縁しないなら没落しないよう協力するべきじゃない? ヴェルク様だって困るでしょう」
「俺は困らないよ。没落したら、その報告を父上にしつつ実家に帰るだけだし」
(こ、コノヤロウ!)
平然とそんなことを言われ、苛立ちを覚える。けれど言っていることは正論だ。
(でも、こうなったら手伝ってほしいわよね)
表向き我が家の帳簿は、備蓄を涸らしたとはいえまだマイナスにはなっていない。
だが、現金化ができないせいで納税もできず、新たな何かを購入することもできず、お金を作ろうとしても売るべき備蓄が空。それゆえに遠くない未来の没落に足を踏み入れてしまった。
その状況を、帳簿を軽く見ただけでヴェルクは断言した。彼が宰相一家の次男であるということを除いても、判断能力と未来を見通す力が彼本人にあるのだろう。
(私はお父様の性格と今までの流れを見てたからそれがわかったけど、ヴェルク様は直近の帳簿しか見ていないもの)
長男の評判に隠れてしまっているようだが、彼がかなり優秀なのは間違いない。そして優秀な人材と知ってしまったなら、是が非でも協力してほしいと思うのは当然の流れだった。
「手伝うメリット、俺にないよねぇ。それとも何か手伝えばご褒美でももらえるのかな?」
「メリット……ご褒美……」
領地経営を学びはしたが、それでも弟の補佐をできればという程度。父よりはうまくやる自信があるが、だからといって弟が戻るまでに領地を立て直し潤せるかと考えれば、私だけでは力不足かもしれない。そんな不安の、足りない部分を補ってくれるかもしれない人材なのだ。
離縁しないならその能力を借りられると思ったのだが、さすがにその考えが甘すぎたらしい。力を借りたいのなら、彼に利益を提示しなければ。
(何か、ヴェルク様を頷かせるメリットってないかしら)
資産はペイルマン侯爵家の方が圧倒的に多い。将来のスローライフだって、我が家じゃなくとも次男の彼なら兄が継いだ家でどうとでもできる。
カイゼルの領地で採れるものが珍しい鉱石なら、その希少性で釣れたかもしれないが、我が領の特産品は珍しくもない農作物だ。
(我が家にあって侯爵家にはないもの……はないから、私にあって、彼にないもの……)
私が持っていて、ヴェルクが持っていないものは何だ。何か、何か――
ぐるぐると脳内に答えの出ない悩みが駆け巡る。答えが見つからない焦りと、今何か言わなければ、という状況が私を血迷わせたのだろうか。
「あ、じゃあ、おっぱい揉む?」
「……は?」
「え?」
(な、何を言ってるの、私!)
完全に今口にすべきではない単語が自分の口から飛び出し、一気に顔が熱くなった。
「ちがっ、間違えたの、その、ヴェルクになくて私にあるのってこの膨らみくらいかなって思いついちゃった結果、口が滑ったというか」
「うはっ、あはっ、あはは! あー、焦りすぎて呼び捨てになってるし」
「ヴ、ヴェルク様! に! 膨らみはないから!」
「いや、全然呼び捨てでいいよ。ふはっ、結婚するんだし俺もイエッタって呼ぼうかな」
「とにかく今のはその、間違いなの。持っているものと持っていないものを考えてたら口が滑っただけなの!」
ヒィヒィと息も絶え絶えになりながら笑い続けるヴェルクに私は冷や汗が止まらない。やらかした。もう完全にやらかした。
「あー、確かに俺にその膨らみはないもんな?」
笑いすぎて涙まで出たのか、自身の目尻を指先で拭いながら彼の視線が私の胸の膨らみの方へ下がる。その視線の動きを察知し、私は両腕で守るように腕を交差させた。
「さ、最低!」
「えー? いやいや、ここで俺を変態扱いするのはさすがに酷くない? 提案したのイエッタだよねぇ?」
「そ、それはそうなんだけど……」
完全にバカなことを口走ったと後悔で頭を抱えたくなっていると、どうしてか対面に座っていたヴェルクが私の隣へと座り直した。
「体で籠絡するってことだ?」
「だからその、他! 他のを考えるから! 時間をちょうだい!?」
「時間がなかったから俺をくれって言ったんじゃなかったっけ。そもそも俺、イエッタの正当な夫だしねぇ」
「待――、んっ」
突然唇が塞がれ、思わず目を見開く。
完全に悪ノリしたヴェルクに口づけられていると気づき、私の体が硬直した。
「あれ。口づけも初めてだった?」
「なっ、なっ」
「あ、俺も初めてだから安心してー? 俺の見た目で寄ってきてるのかハニートラップ仕掛けられてるのか見極めるのが面倒で、近寄ってくる令嬢は全員無視してたんだよね」
(それはそれでどうなのよ)
思わず内心文句を言う。口に出さなかったのは、再び口が彼の唇で塞がれたからだった。
「やっ、んんっ」
「イエッタの口の中めちゃくちゃ熱いな」
ふっと彼の吐息が頬に触れ、すぐにまた唇が重ねられる。唇の隙間をなぞるようにヴェルクの舌先が触れ、開けてほしいというようにつつかれた。
けれど、口づけなんてしたことがないせいでどうすればいいかわからず戸惑ってしまう。なんとか目は閉じたものの、口を開けた後はどうすればいいのか、呼吸の仕方だってわからないのだ。
「体、ガチガチだな」
「そんなの当たり前で――ひゃっ!」
ひとり言のようにヴェルクがそんな言葉を呟いたと思ったら、彼の手のひらが私の胸をそっと覆う。そのままむにゅりと服の上から揉み込まれた。
「あっ、んうっ」
初めて誰かに触れられるという感覚に驚き思わず声を上げると、その隙を狙ったようにヴェルクの舌が口腔内へと入ってくる。
歯列をなぞられ、窄めた舌先で上顎をくすぐられたと思ったら、どうすればいいかわからず奥に引っ込めたまま固まっていた私の舌に触れた。
「はは、こっちもガチガチなんだ。あんな提案してきたのに」
(だからそれは間違いなのに!)
抗議しようとしてもすぐにヴェルクが角度を変えて口づけるせいで何も言えない。結局私の文句は口の中に消えるだけだった。
「舌、伸ばせる?」
「ん、こう……?」
「そう。上手」
クスッと彼が笑った気配がしたと思ったら、伸ばした舌が彼の舌に絡められる。
くちゅりと小さな水音を溢しながら舌先が擦り合わされ、根本から扱くように動かされるとゾクゾクとした快感にピクリと肩が跳ねた。
「この先行投資って、どこまでもらっていいの?」
「ひぁっ!?」
やわやわと軽く揉む程度だったヴェルクの手が、乳房を握るように力強く動き小さな叫び声を上げる。服の上からだというのに先端があるあたりを何度も彼の手のひらが蠢き、乳房を持ち上げるように揉まれるとじぃんと先端が反応した。
(こんなの、知らないのに)
むにむにと私の胸を揉みしだきながらヴェルクがじっと私を見つめる。その視線から逃れたくて思わず顔を背けると、顔を近づけたヴェルクが私の耳たぶをガジガジと甘噛みした。
「止めないと、まだいいって思っちゃうけど?」
「んっ、あっ、きゃっ!」
ぬるりと耳穴に舌が入れられた瞬間、ぐっとドレスの胸元が引き下ろされる。
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