●著:白ヶ音雪
●イラスト:白崎小夜
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4-8155-4088-3
●発売日:2022/6/30
ようやく、君を抱ける
没落令嬢のレイラは、初恋の資産家軍人シルヴェストルからの救いの手を取り契約結婚するも、初夜すら済まさない仮面夫婦のまま3年が経った。そっけない夫に離婚も間近かと予想するレイラだが、彼は暴漢に襲われ、怪我が元で彼女と出会ってからの記憶を失ってしまう。「俺の妻は可愛いな。もっと、可愛がってやりたくなる」記憶喪失になった途端に、彼は甘い言葉でレイラを口説き溺愛し始め!?

「──レイラ」
突然名を呼ばれ、不自然なほどに身体を揺らしてしまった。
どうしよう。彼の顔が見られない。けれど名を呼ばれたのに返事をしないなんて、この状況に動揺していることを自ら示すようなものではないか。
「顔を上げてくれ、レイラ」
あからさまな警戒に対し、シルヴェストルはまるで気の立った子猫を相手にするかのような甘い声で話しかけてくる。
(あ……だめだわ)
絶対に、ただ話をしにきたような雰囲気ではない。色っぽいその呼びかけは、あからさまに『夜』の気配を纏っていた。
気付けば俯いた顔の先に、部屋履きを履いた彼の足があった。
すぐ目の前に彼がいる。それでも顔を上げられず俯いていると、唐突に足が床から浮いた。
驚いて顔を上げれば、熱を持った赤い目がレイラをまっすぐに見下ろしている。
彼に抱きかかえられたのだと、遅れて気付いた。
「ようやく俺を見てくれた。……可愛い」
「あの、あの、あ、え……っ。な、な、なに……っ」
意味をなさない言葉を羅列している間にも、シルヴェストルはレイラを横抱きにしたまま、確かな意志を持ってどこかへ歩き続けていた。
目を白黒とさせながら彼の向かう先を見定めた瞬間、頭が真っ白になる。
──寝室。
結婚してから一度もふたりで使ったことのない夫婦専用の寝室の扉が開け放たれ、レイラはその上にそっと仰向けに下ろされた。
紺の生地に銀糸の織が見事な天蓋布が視界に広がり、ガウンを脱ぎながら覆い被さってくるシルヴェストルによって、すぐに見えなくなってしまう。
「……ようやく、君を抱ける」
その言葉は簡潔で直截的だったが、未だに状況についていけていないレイラの脳は、それが止めとばかりにすっかり凍り付いた。
妻が思考停止状態で呆けていることに気付いているのかいないのか。シルヴェストルはどこか切羽詰まったような、熱に浮かされたような顔でレイラを見つめている。
「朝からずっと、想像していたんだ。君は寝台でどんな甘い声を上げるのだろう、どんな風に乱れてくれるのだろうと──。以前の俺は君の全てを知っていたのだと考えるだけで、自分で自分に嫉妬したほどだ」
「そっ、ん……!?」
──朝から外でそんな不埒な想像をなさってたんですか!? あのお散歩中に?
その言葉は声になることなく、シルヴェストルが作り出す甘やかな空気に呑まれてしまう。
「こんな可愛らしい格好をして、俺を待っていてくれたのだな……」
「ちが……っ。これはただ、アンヘリーナが用意したものを着ただけで……っ。あの、シルヴェストルさま、待っ……」
同じ寝室、同じ寝台。そして同じ人間のはずなのに、扉の手前に立ったまま手ひどく新妻を拒んだ男とは別人のようなシルヴェストル──。
このままでは駄目だと頭ではわかっているのに、常より赤味を増したように見える瞳で熱っぽく見つめられるだけで、もう駄目だ。使い物にならないほど、思考がぐずぐずに溶けてしまう。
「ん、っ……」
気付けば唇と唇が触れ合っていた。
角度を変え、何度か啄むように甘噛みし、それからシルヴェストルの舌は容易にレイラの唇を割り開く。
温かく湿ったものが口の中に侵入してくる感触は、レイラにとって未知の体験だ。
好きな人と深い口づけを交わすなんて夢みたいな出来事が、今、自分の身に起こっていることが信じられない。
他人の身体の一部を受け入れているのに少しも不快ではなく、むしろ頭の芯がじんと痺れ、酒を飲んだ時のようなふわふわとした感覚だった。
恋愛小説の主人公たちは大抵、口づけをされた場面では『情熱的な求めに応える』という風に描かれているが、何をどうやって『応える』のかもレイラにはわからない。
(もっと、アンヘリーナに詳しく聞いておくんだったわ)
執筆に当たって幾度かアンヘリーナに助言を求めたことがあるのだが、あまりに生々しい内容は恥ずかしすぎるからと、表現を控えめにしてもらったことを今更後悔する。
今のレイラにできるのは、せいぜい鼻で息をする程度のことだ。
「……レイラ。……可愛い、レイラ」
口づけの合間に、ごく親密な距離で囁くように名を呼ばれ、それに反応するかのごとく下腹部がずくりと疼く。
なんとか呼吸を整えようとするのに、シルヴェストルはそれを許してくれない。唇が腫れぼったくなるほど沢山の口づけを交わし、やがて熱い吐息が首筋を撫で、胸元に到達する。
「シルヴェストルさま、やぁ……」
世の中にこんな説得力のない『嫌』があるだろうか。
自分でも呆れるほどに、甘えた声だった。本気で抵抗したつもりだったのに、己の唇に裏切られるなんて。
恨みがましいことを考えている間に、シルヴェストルが胸元に顔を寄せたまま、上目遣いに訴えてくる。
「�爛轡襯凜´瓩澄7�には愛称で呼んでほしい」
「シ、シルヴァ……?」
呼ぶつもりはなかったのに、そんな願い事をされたのは初めてで、つい戸惑いが呟きとなって零れてしまった。
その瞬間の彼のとろけるような笑みと言ったら、最上の酒を口にしても、これほど嬉しそうな顔はしないだろうと思えるほどだ。
ただ愛称を呼ばれただけで、人はこれほどまでに喜びを見せるものなのか。
しかし、悠長に夫の愛しげな眼差しに気を取られている場合ではなかった。
シルヴェストルはレイラの動きが止まったのを幸いにと、着々と寝衣を脱がせにかかり始めたのだ。
フリルやレースで可愛らしく飾られてはいるが、たったふたつの紐で前を留めているだけの寝衣は、妻を裸に剥こうという固い意志を持った夫の前ではあまりに心許ない。
しゅるりと紐が解けるなり、寝衣はレイラの素肌を隠す役割をあっさりと放棄した。
「きゃ……っ! あ、あの……、いけません、こんな……」
シルヴェストルの眼前にやすやすと裸の胸を晒してしまい、咄嗟に両腕で覆い隠す。
こんなことになるなら、肌着も身に着けておけばよかった。
どうせそれもすぐに脱がされてしまうとわかってはいるが、多少の時間稼ぎにはなっただろうに。
「なぜ隠すんだ? 愛しい人」
「な、なぜって……」
そんなの、恥ずかしいからに決まっているではないか。
当然のことを真面目な顔で聞いてくるシルヴェストルに、羞恥のあまり潤んだ目を向ければ、なぜか楽しそうに喉を鳴らしている。
「君を組み敷いていると、自分が無垢な乙女を貪るけだもののように思えてくる」
冗談めかした口調だったが、その眼差しの奥には熱い炎が燃え滾り、じりじりとレイラの肌を焦がすようだ。言葉はなくとも、彼が今、自分という存在を心の底から渇望していることが伝わってくる。
(シルヴェストルさまが、わたしを……)
頭の奥がじんと痺れ、胸の奥が甘くとろけて、もうレイラは冷静な思考を保てなかった。
ずっと長い間、シルヴェストルとこうなりたいと思っていた。そして彼は今初めて、自分という存在を求めてくれている。
それなのに、抵抗する必要が一体どこにあるというのだろう。
(……触れて欲しい)
レイラの身体から、ふっと力が抜けた。その隙を見計らって、シルヴェストルが熱い掌を寝衣の中に侵入させてくる。
「んっ……」
下着を着けていない胸に直に触れられ、レイラはびくりと背をしならせた。
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