●著:藍井恵
●イラスト: 天路ゆうつづ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543495
●発売日:2024/9/30
まだ、さっきの熱が残っている
伯爵令嬢リディは人が嘘をついたとき花が見える力を持っていた。ある事情から社交界に出ず引きこもって農地管理の業務に専心していた彼女だが、兄姉に迫られて渋々自邸でのパーティに出た際、王弟で公爵のローランに気に入られてしまう。
国中の令嬢たちの憧れの的であるローランは、いつも女性に囲まれ、いつも嘘の花を散らしている「嘘つき公爵」。けれどリディを可愛いという彼の言葉には嘘の花が現れず--!?
プロローグ
ドワイヤン伯爵家の次女、リディには、ほかの人には見えない花が見える。
その花は、誰かが言葉を発したとき、その人の近くに舞い落ちる。しょっちゅう花を出す人もいれば、全く出さない人もいた。
幼いころ、この花が、自分以外の人にも見えているものだと思って、周りの人に『あの花はなんという名前なの』とか『きれいな花ね』などと言っていたのだが、いつも、花などどこにもないと気味悪がられて終わった。
この花はリディにしか見えない。
幼いながらも徐々に、その事実を受け止め、見て見ぬふりをするようになっていった。
その花が、人が嘘をついたときにだけ現れることに気づいたのは、いつのころだろうか。
そう。誰かが嘘をつくと花が散る――。
あれはリディが六歳のころ、嘘の花が見えるのが自分だけの能力だと自覚したあとのことだ。
王宮の庭園で、王太子の十六歳の誕生日を祝う、六歳以上の貴族の子女を招いたパーティーが開かれた。王太子はその年、社交界デビューして大人の仲間入りをしたので、リディが招かれたのはこれが最初で最後となる。
子どもたちのパーティーとはいえ、母親が付き添いとして参加しており、夫人たちはテーブルに着いて、主催者である王妃を中心に歓談していた。
そこは、今まで見たどこよりも嘘の花で満ちていて、リディはそら恐ろしくなり、人のいない庭のほうへと足を踏み入れる。
すると、大きな木の下に、金髪の男の子が立っていた。彼はリディを認めるやいなや、木の洞に入れていた手を素早く取り出す。
――今、何か隠していた?
「そこに何があるの?」
リディが問うと、彼が神妙な顔をしてこう言ってくる。
「蛇の巣だよ。毒があるから近づかないほうがいい」
リディは、一瞬ギョッとして後退ったが、彼の周りに、ひらひらと青い花が舞ったので、すぐに嘘とわかる。
――何か見られたくないものがあるんだわ。
そう思ったが、リディとて、パーティー会場から離れたところにいる不審者である。道に迷ったふりをすることにした。
「あの〜、ほかの子どもたちは皆、どこにいるんでしょう?」
「連れていってあげるよ」
彼が笑んだ。嘘くさい笑みだ。
連れていかれた先には、もこもこと緑をつけた大木があり、その下に広げられた敷物では、何十人もの子どもたちが王太子を囲んでお菓子を食べながらおしゃべりに興じている。
さしずめ、子どもたちだけのピクニックといったところだろうか。
女の子のほうが多く、とりわけ王太子の近くは、彼と歳の近い女の子たちでぎゅうぎゅうだった。
敷物に座る子どもたちを見渡すと、端っこのほうに、八歳の姉、オフェリーが同年代の女の子たちと集まって座っている。
敷物は子どもたちでいっぱいで入る隙がない。さっきの金髪の男の子はどうするつもりかと振り返ったら、いつの間にかいなくなっていた。
仕方ないのでリディは、少し離れた芝生の上に座って見物することにした。
王太子が立ち上がって皆に、こう告げる。
「今日はおもしろい余興を用意した。鉱物の当てっこクイズだ」
「まあ。当てられるかしら。楽しみですわ」
「さすが殿下、私たちが喜ぶことをよくわかっていらっしゃいます」
王太子を囲む女の子たちが口々にそんなことを言って場を盛り上げると、噴水のように花々が噴き出した。リディが一度にこんなにたくさんの花を見るのは初めてだ。
つまり、年長の女の子たちはクイズになど、これっぽっちも興味がない。
――�爐�姉様�瓩箸發覆襪函�大人みたいに嘘だらけになるのね。
それともこの王宮という場所が、人に嘘をつかせるのだろうか。
侍従がトレイを手に、王太子の横でかしずく。トレイがテーブルの替わりだ。
トレイには白い布が掛けられていて、その上に色とりどりの石が並んでいた。
「研磨すれば宝石になる鉱物ばかりだ。当てた者には進呈してやる」
すると、周りの女の子たちが、きゃあきゃあと盛り上がる。
王太子が鉱物を手に取ろうと、トレイに手を伸ばしたが、その手が止まった。
「減っているじゃないか! 三つもなくなっているぞ!」
王太子が怒声を上げたので、侍従たちがおろおろし始める。
「ずっとあそこのテーブルに置いていたのですが……」
「ちゃんと見張らないか!」
王太子の怒声に、リディはビクッと怯えた。
――さっき、あの子が木の洞に隠したの……もしかして?
王太子が、忌々しそうにこう告げる。
「つまり、この中に、俺にいやがらせをしたやつがいるってことだ」
ほかの子どもたちも震えあがっていた。
そのとき、さっきの金髪の少年が立ち上がった。いつの間にか、敷物に座っていたようだ。
彼は大胆にも王太子に向かって、こんなことをしれっと言ってのける。
「さっき、カラスを見かけたので、もしやカラスの仕業ではありませんか?」
そのとき、彼の周りにぱらぱらと青い花が散った。
つまり、鉱物を持っていったのはカラスではなく、彼だ――。
――この人、すっごく悪い人だわ。
ほかの子や侍従も、そういえばカラスを見たと口々に言い始め、王太子が腑に落ちたような顔になる。
「そういえば、カラスは求愛行動で光る物を贈ると聞いたことがある。見事に透明感のある原石ばかり選んでいるな」
王太子が小さく笑ったので、皆が安堵の表情になった。
「僕が、カラスの巣を探してきます」
あの男の子の周りに再び青い花が舞う。彼は探す気など、全くないのだ。
「俺は王太子だから、ここで皆を楽しませてやらないといけない。頼んだぞ」
「はい!」
「僕もお手伝いさせてください」
男の子たちが次々と立ち上がって、彼とともに消えていった。
彼らがいなくなると、王太子が「我が国の騎士たちは令嬢想いだな。私たちは楽しむことにしよう」と、満面の笑みを浮かべた。
皆、王太子は博識だとか優しいとか誉めそやしているが、花がどさどさ降っている。さっきの王太子の怒りを目の当たりにして、腫れ物を扱うようになっていた。
王太子は人の心が全くわかっていないと、リディは子ども心に思う。
やがてパーティーがお開きになると、リディはどうしてもあの木が気になり、見にいくことにした。すると、あの金髪の男の子がいて、リディに微笑みかけてくる。
「ここの蛇は追いやったから、もう大丈夫だよ」
またもや青い花が散った。
つまり、ここにあった鉱物はもう他所に移したので、中を見られても問題なくなったということだ。
――いたずらっ子は、こらしめてやらないと!
「あなたが王太子殿下を怒らせたから、あのあとも、みんなパーティーを楽しめなかったわ」
彼が、幼い子に向けるような、にっこりとした笑みを浮かべた。
「怒らせるどころか、場の雰囲気をよくしただろう? カラスの巣から、きらきらした石を二個も取り返したんだよ」
――こういうの、知ってるわ。お兄様が『やらせ』って言っているのを聞いたことがあるもの。
「誰も怒られてほしくないから、このこと、私、黙っているわ。でも、どうせつくなら、人が幸せになるような嘘をついてよ」
「人が幸せに?」
「そうよ。ときどきいるわ。人を楽しい気持ちにしたくて嘘をつく人」
「人を楽しませるため?」
「ええ。お兄様はよくお祖母様を喜ばせるために、自分はみんなから尊敬されている、こんなふうに褒められたって嘘をついているわ。そのたびに、お祖母様はとっても幸せそうなお顔をなさるの」
「人気者じゃないんだ」
彼の声は笑いを含んでいた。
――しまった。どうしてお兄様の言っていることが嘘だとわかったか聞かれるとまずいわ。
今までこんなことが何度もあって、大抵、リディがほら吹きだと思われて終わった。
「え、えっと、そう……だって、お兄様は、ただのお調子者だもの!」
彼が笑い出した。今までと違い、屈託のない笑みだ。
――こんなふうに笑えるのね。
「そうだね。嘘は人を幸せにするために使ったほうがいい。君の言う通りだ」
こんなにあっけなく年下の女の子に同意してくれるとは思ってもいなかったので、リディは拍子抜けしてしまう。
「リディ、リディ」
母の心配げな声が聞こえてきて、リディは慌てて「さようなら」と告げ、踵を返す。
この日の王宮での体験は、社交界は嘘にまみれた怖いところだとリディの潜在意識に刻まれ、彼女が成長したのちも消えることはなかった。
第一章 人たらし王弟と引きこもり令嬢
ドワイヤン伯爵家の次女リディは、机に向かって手計算をしているとき、そこはかとない幸せを感じる。算数の答えはひとつだ。そこに嘘はない。
計算が終わり、リディは手を掲げて伸びをする。
リディ提案の乾燥対策を施した五つの農園の収穫量が、平均して前年比一一二%という結果を叩き出していた。
うまく行っているような気がしていたが、数字は正直だ。リディのやり方が間違っていないと教えてくれた。
リディは十八歳の令嬢である。
普通なら、社交界で結婚相手を物色している年頃だが、リディは普通ではなかった。彼女の望みといったら、結婚せずにこの家で農地管理の業務をこなして生涯、穏やかに過ごすことである。
この部屋は本来、身だしなみを整えるための部屋なのだが、リディはここを�狃餾忰瓩般召鼎院�鏡台の替わりに執務机を置いて悦に浸っている。
ここがリディの仕事場であり、世間からの隠れ家なのだ。
そのとき、猫のエスポアが執務机にジャンプしてきて、リディの資料の上で寝そべった。エスポアは彼女の相棒で、仕事の邪魔をするのが日課だ。
「仕方ないわね」
リディは引き出しから、猫のおもちゃを取り出す。
紐の先に色とりどりの鳥の羽根をつけたものだ。
リディが羽根部分を宙に浮かせると、エスポアが飛びついた。爪を引っかけて、ぶら下がっている。こうすると胴体がやたらと長細くなっておもしろい。
エスポアと遊んでいると、ノック音が聞こえてきて、エスポアがどこかに逃げていってしまった。
「俺だ」と、いう声と同時に扉が開き、兄ジェラルドがずかずかと書斎に入ってくる。
ジェラルドは、瞳こそリディと同じ緑色だが、鳶色の髪をしたリディとは異なり、髪は金髪、長い睫毛がくるりんとカールした派手な顔立ちだ。
「また数字をこねくり回していたのか?」
非難めいた言葉を聞いて、ひどいと思う人もいるかもしれないが、リディは、むしろこの兄をすがすがしく思っている。彼は思っていること全てを口に出すので嘘がない。
「ええ。私にはこんな取柄しかありませんので」
ジェラルドが、満面の笑みを浮かべた。
「そんなことはない。俺の妹だけあって、今日も美しいよ、リディ」
こんなことを言っても、花びらひとつ飛ばないので、彼は正真正銘の�犒伺麓��瓩任△襦�
そのとき、庭のほうから笑い声が聞こえてくる。
今、庭でパーティーが開かれているのに、主催者である兄が、なぜここにいるのか。
いやな予感しかしない。
「さっきから楽しそうな声がお庭のほうから聞こえていますわ。早くお戻りになったほうがよろしいのではありませんか」
そう言って、リディは再び机上の書類に目を落とす。
「楽しそうだってリディも思っているってことだな? なら来いよ」
驚いてリディは顔を上げた。
「ええ!? 私が社交界に出ないことは、お父様お母様も認めてくださっていますわよ?」
「父上も母上も、おまえの我儘を聞きすぎだよ。一八歳にもなった令嬢が社交界に顔を出さないものだから、不細工だとか、妹を使用人扱いしているとか、いやな噂が立っていてね。リディは可愛い引きこもりだって皆に見せてやろうと思って」
――私は見世物ですか。
そのとき、兄の背後に姉のオフェリーが現れた。
姉は艶やかなドレスを身に纏い、結い上げた金髪に、色とりどりの宝石を輝かせているが、顔立ちが派手なので、装飾に負けないどころか、装飾が引き立て役になり下がっている。
オフェリーが、ジェラルドの横で歩を止めた。
――まぶしいです!
この光り輝くふたりが、リディの実の兄姉だなんて信じられない。
実際、ふたりは、社交界でも華のある兄妹として有名で、公侯伯子男の爵位だと三番目の伯爵に過ぎないのに、社交術ではトップオブトップとして、日々、水を得た魚のように社交界を華麗に回遊している。
オフェリーが兄に加勢してきた。
「お兄様のおっしゃる通りよ。私が妹をいじめているという噂も立っているらしいの。私のドレスを貸してあげるから、自邸のパーティーぐらい、一度、顔を出してみなさいよ」
リディは、姉の、乳房が半分はみ出している胸もとを見やる。
「私、お姉様のようなドレスは似合わないと思うんです」
「大丈夫。胸は詰めればなんとかなるわ」
オフェリーがウインクして答えてきた。
――派手すぎるって意味だったのですが……確かに胸がぶかぶかになりそうです。
リディが自身の胸に目を落としたとき、ノック音とほぼ同時に扉が開く音がした。侍女の様子からして母親の登場である。
「ふたりとも、パーティー会場に主催者がいないって、どういうこと?」
母が現れたので、これでようやく兄姉は諦めてくれるだろう。
「母上、リディを誘いに来たんです。いくら引っ込み思案でも、自分の邸のパーティーにも顔を出さないなんて、おかしいでしょう?」
兄がもっともらしいことを言って母の説得に入る。
「どうしてまた当日になって? リディにはドレスもないわ」
――お母様、その調子です。
リディが心の中でエールを送ったところで、オフェリーが眉をひそめた。
「お母様、ご存じですの? リディが虐待されているという噂が立っているんですよ」
母がショックを受けた様子で口に手を当てた。
「……確かに……ドレスも与えられず、自邸のパーティーさえ出してもらえないとしたら……軟禁されていると思われても仕方がないわ」
「人に見せられないような娘だなんて思われたら、リディがかわいそうでしょう?」
ジェラルドの言葉を聞いて、母が急に目を見開いた。祈るように手と手を組み合わせる。
「すっごくかわいそう!」
兄は母の操縦術をよくわかっている。母は、子どもたちを深く愛しているのだ。
「うちのリディがいかに可愛いか、見せつけるがいいわ」
母が鼻息荒くそう告げたことで、リディは姉の化粧部屋へと連れていかれる。オフェリーはドレスとアクセサリーを選ぶと、あとは侍女に任せ、パーティーへと戻っていった。
「このドレス、オフェリー様が十七歳のころに着ていらしたのですが、可愛らしくてぴったりですわ」
と、姉の侍女にうれしそうに言われた日には、リディとしては迷惑をかけないよう、じっと着せ替え人形になるしかない。
普段、白のブラウスに無地のスカートという家庭教師みたいな恰好をしているというのに、侍女たちにコルセットで腰を絞めつけられ、ピンク色という自分にそぐわない色のドレスを着せられる。
リディがよれよれと力なく庭に出ると、ジェラルドが腕を左右に広げて飛んできた。
「ほら、やっぱり俺の妹は可愛い。あんな噂は全部払拭してやる!」
ジェラルドがリディを連れて庭の中央のほうへ歩いていくと、人気者の彼が女性を連れてきたということで、皆の視線がふたりに集中する。
そこに、オフェリーまで合流してきた。
――きらびやかな一家の落ちこぼれとして公開処刑される日が来ようとは……。
「まずは、俺の上官を紹介しよう」
兄は近衛歩兵連隊に所属している中尉だ。
「上官というと連隊長様でいらっしゃいますか?」
「いやもっと上、元帥閣下だよ。まさかうちのガーデンパーティーごときにいらしてくださるとは思ってもいなかった。閣下にご挨拶できるなんて光栄なことだよ」
「そんな……いきなりハードルが高すぎます」
「いや、きっと元帥閣下を見たら、リディも社交界に出たくなるからちょうどいい。国王陛下が独身のときだって、女性人気は閣下のほうが上だったんだから」
オフェリーが、こくこく頷いている。
「閣下は絶対、私目当てだと思うのよね。雑魚で手を打たずに、待っていた甲斐があったわ〜」
――これだから陽の化身たちは困りものです。
「人によって何を楽しいと思うかは違います。私は、ここにいるより、書斎で収穫量の前年比を計算しているほうが楽しいんです」
オフェリーが吐きそうな表情を浮かべたあと扇で顔を隠した。
「それを楽しいと思えるのがすごいわ」
「それって、オレの一番苦手な分野だから、正直、リディにはずっと家にいてもらうほうが助かるんだよな。でも、やっぱり、みんなにリディのことを知ってもらいたいからさ」
兄姉とそんな会話をしつつ、周りを見渡すと、少し離れたところで、湧き水のように嘘の花が次々と生まれているところがあった。
――差し詰め、花の噴水といったところでしょうか。
近づくにつれ、その花の渦の中心に、黒い軍服姿の長身の男性がいることがわかった。彼は、女性たちに囲まれており、黄金のモールと金髪が陽の光を受けて輝いている。
「アニエスは、お菓子作りが上手なんだね」
張りのある低い声が聞こえた瞬間、彼の周りに、鮮烈な青い花が舞った。
――サファイアの中でも最も美しい青といわれる、コーンフラワーブルー!
リディが宙を舞う花を美しいと思ったのは、これが初めてかもしれない。
――嘘の花を美しいと思うなんて、どうかしています。
そのとき、彼がこちらのほうを向いた。
美しいのは花だけではなかった。
意志の強そうな瞳は、まさにコーンフラワーブルーで、鼻筋は通り、整った形の唇は少し口角が上がっていて、優雅な印象を受ける。背が高く、その上品な佇まいには、周りの誰をも魅了する力があった。
――こんなにきれいな人間、初めて見ました。
そう思った瞬間、兄ジェラルドに肘で小突かれる。
「ほら。俺が言った通りだったろう? リディでさえ、公爵閣下を見たら、吸い寄せられるように近づいていくんだから」
「公爵閣下? さっきは元帥閣下と呼んでいらっしゃいましたけど……」
「ああ。フォートレル公爵は、我が国の軍を率いていらっしゃって元帥でもあられるんだよ」
――この方が、フォートレル公爵閣下なのですね。
社交界に疎い彼女だって知っている。フォートレル公爵といえば、聖人と名高い王弟である。
――その聖人が嘘にまみれているなんて、誰も思ってもいないでしょうね。
リディは公爵に観察の目を向ける。
よくよく見たら、口角を引き上げているだけで、その笑みには心が感じられなかった。物腰柔らかで温厚という噂は、彼が嘘によって作り上げた虚飾なのではないだろうか。
「リディ、ご挨拶は?」
兄のジェラルドに耳打ちされ、自分が挨拶する番になっていることに気づき、リディは慌てて膝を曲げて腰を落とす。正式な挨拶をするのは久々だった。
「フォートレル公爵閣下、お初にお目にかかれて光栄です。ドワイヤン伯爵家のリディと申します。以後お見知りおきのほど、どうぞよろしくお願い申し上げます」
――もう会うこともないでしょうけどね。
「初めまして、リディ。心ここにあらず、といったところかな?」
再び花が散った。一体この言葉のどこに嘘が潜んでいるというのだろう。リディが花に気を取られていると、代わりにジェラルドが答える。
「実はリディが社交場に出たのは今日が初めてなんです。自分の邸だというのに、とても緊張しているようでして……閣下、失礼いたしました」
嘘の花に見惚れていたとも言えず、リディは「あの……そうなのです……緊張しておりまして」と、つぶやくことしかできなかった。
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