●著:奏多
●イラスト:御子柴リョウ
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543662
●発売日:2025/6/30
俺の元へ来い。これ以上無いくらい、甘やかしてやるから
ブラック企業に勤めるノアはある夜、異世界に転移してしまう。そこは以前彼女がゲームでスライムになり仲間と魔王を倒した世界だった。魔王復活の兆しがあると王に頼まれたノアは、引き籠もっている英雄ブラッドを呼びにいく。彼は居なくなったノアをずっと探して荒んだ生活をしていた。「会いたかった、俺の可愛いスライム」ノアの本質を見抜いたブラッドは彼女を抱きしめ猛烈に求愛してきて――!?
プロローグ
アルガルド大陸の北方にある国、オーディニア。
岩で囲まれたその国の南には、立ち入り禁止の森がある。
そこには七年前に英雄に封じられた魔王の瘴気がいまだ残り、人も動物も狂わせるという。
そんな禁忌の森の中に、二十三歳になる男爵令嬢が迷い込んでいた。
ほのかに薄紅色がかった月光の如き銀髪。
温かみがある薄茶色の瞳。
目鼻立ちは楚々として整っているが、着ている濃赤色のドレスはどこか古めかしいデザインで、田舎臭さが漂っている。
「絶体絶命……」
青ざめて呟く彼女――ノア=ランバードは、窮地に立たされていた。
一本道に立つ彼女が進むことができるのは、前か後ろかしかない。
しかし――。
前方を塞ぐのは、ノアの背丈のゆうに五倍はある、熊にも似た巨大な獣だ。
凶悪な真紅の目を持ち、大きく裂けた口からは、びっしりとした牙が覗いている。
後方に立つのは、血に染まった大剣を手にした、黒いフードを被った巨躯の男。
黒炎のような凶々しいオーラをまとい、フードからは赤く光る目しか見えない。
「これ……どっちに進んでも、無事に通り抜けられる気がしないんだけれど」
ノアは途方に暮れた顔で、夜空を見上げた。
空に浮かんでいるのは、毒々しい血色に染まった満月――。
「話には聞いていたけれど、ここまで影響が出るなんて……。甘く見すぎていたわ」
瘴気が色濃く残るこの不浄な森では、赤い月が現れる数日の夜間、月に反応して瘴気が活発化し、凶暴化した魔物の形をとることがあるらしい。
しかし元凶の魔王は封印されているし、必ずしも魔物が出現するわけではないと聞いていた。用事を早く済ませて明るいうちに帰れば大丈夫だと思っていたのだ。
ところが、森に入ると木々の枝が勝手に伸びて迷路となり、完全に方向感覚を狂わされて森を彷徨う羽目となった。そして気づけば赤い月が浮かぶ夜空の下、二体の魔物に挟み撃ちをされている。
ノアにはこの場を切り抜けられる戦闘力も、逃げ足の速さもない。
必死に念じたところでこの状況は変わらず、このままどちらに進んでも、生きたままの惨劇が始まるだろう。
それに――。
(もしここでわたしの残骸でも見つかれば、お義父様とお義母様は立ち直れなくなる。それくらいなら、生きてまた会えるわずかな可能性に賭けるしかない)
ノアは、潔くその場に座ると両手を合わせた。
「お義父様、お義母様。一ヶ月あまりお世話になりました。わたしはこれより、この�猝切鯡喚瓩�ら目覚めます。また戻れるように頑張りますので、どうかお元気で」
ノアは恩人たちに別れを告げながら、今までのことに思いを馳せた。
ノアは本名を小須来乃亜と言う。
日本のブラック企業に勤める、入社半年の社畜OLだった。
初めて取れた有給休暇の前夜、ビールとつまみを買おうとコンビニに入った瞬間、突然目映い光に包まれ――悪臭漂う泥沼で溺れていたのだ。
足になにかが絡んで痛みが走り、パニックになってそのまま意識を失ったのだが、目が覚めると、見知らぬ夫妻が顔を覗き込んでいた。
――よかったわ、目が覚めたのね。
女性は紺色のドレスをまとい、プラチナブロンドの髪を結い上げている。
――きみは沼で溺れていたんだ。たまたま妻と乗っていた馬車が、近くを通っていたから気づくことができた。なかなか目覚めないから、心配したぞ。
金色の短髪と髭が目を引く男性は、腰まである長丈のウェストコートを着て、首元と袖にレースのある白いブラウスを着ている。
昔の西洋貴族のような衣装を着た夫婦は、四十代あたり。
物腰が上品で、流暢な日本語を話しているものの、どう見ても日本人ではない。
室内の内装も、西洋骨董品揃いで、まるで本当の貴族のお屋敷のようだ。
ノアは助けてくれたことに感謝の言葉を述べたものの、この状況をどう理解していいかわからず当惑した。
――ゼーレの葉で足の傷は治したけれど、歩けそうかしら?
どんな治療をされたのかイメージがつかないが、夫人に促されて歩いたノアは、自分も濃紫色のドレスを着ていることに気づいて、思わずドレスの裾を摘まんでみる。
――亡き娘のドレスなのよ。とても似合ってるわ、鏡を見て。
涙ぐむ夫人に言われるがまま、姿見に映る自分の姿を見てノアはぎょっとした。
少し童顔な顔の造作はそのままだったが、今まで染めたことがなかった長い髪や眉毛の色が、ピンクがかった銀色に変わっていたからだ。
驚愕したのは、自分の外見に対してだけではなかった。
窓から見える長閑な田舎風景は、ノアが住む日本の都会にはないものだったのだ。
では、ここはどこだ?
――ニホン? 西暦? 知らないわ。ここはオーディニアの東方にある、ランバード男爵家よ。
初めて聞くその国名に、ぽかんとしたままのノアを見て、夫妻が説明してくれた。
ここはオーディニアという王政国で、貴族や騎士、魔法使いや聖女が王に仕えているという。
七年前、百年に一度、姿を現すという魔王によってこの地は荒れたが、神に選ばれた英雄とその仲間たちが魔王を封印し、この国は平和と活気を取り戻したらしい。
ノアの頭の中にすぐ、エンタメ界で流行していた�牋枩こε尚椨瓩箸いγ姥譴�思い浮かんだが、すぐにそれはありえないだろうと否定した。さすがに非現実的すぎる。
だとすれば、ファンタジーなこの世界は――明晰夢に違いない。
明晰夢とは、夢であると自覚しながら見ている夢のことで、ノアは昔からよく見ていた。オールカラーで現実のようにリアルな感覚があり、痛みも感じるし、眠くなったり空腹になったりもする。夢に飽きたら自分で目覚められるし、記憶が維持されているため、次回は前の続きから夢を再開することもできた。
しかし大人になるに従って、心身ともに疲労を感じるようになってしまってからは、普通の夢すら見ないで眠る日々が続いていたが、大きな仕事を終え、初の有給休暇を前にナチュラルハイになった勢いで、また明晰夢を見てしまったのかもしれない。
元々ファンタジーゲームが好きで、小さい頃はドレス姿のお姫様になりたかったノアは、久しぶりの明晰夢の世界が、初の西洋ファンタジーであることに興奮した。
そんな中で、名前とニホンという国名以外の記憶を失っていると勘違いした夫妻は、ノアの境遇に同情し、しばらく男爵家にいたらどうだと提案してきた。
夢というものは、自分の願望から成り立っている。だったら旅行に来た気分で、仕事で疲弊しきった心身を癒しながらこの世界を満喫しようと、ノアは夫妻のありがたい提案を受けたのだった。
夫妻はこの国の生活に早く馴染むようにと、一般常識や貴族のマナーを一から優しく教えてくれ、本当の親のように温かく接してくれた。
夫妻にはファランという名のひとり娘がいたようだが、七年前に隣国に嫁いだ王女の侍女として、輿入れに同行している最中、狼藉者から王女を庇って殺されてしまったという。
そのショックで男爵は隠遁生活を決め、無心に畑で野菜を育てていたらしい。
夫人も寡黙になり、ファランのドレスを抱き締めて塞ぎ込む日々だったとか。
この七年間、夫妻の時間は止まってしまったままで、ファランの名は禁句になっていたと、メイドから教えられたノアは、恩返しのためにも夫妻をどうにか元気づけたいと思い、ひとつ年上のファランのことをお姉様と呼んで、その話を聞きたがった。
両親思いで正義感が強く、王女の侍女を務められるくらい、しっかりとした女性だったファラン。不思議な力があったために王宮に召されたようだが、�爐茲�ぞ死して王女を守り通した�瓠↓犹笋燭舛簔房濂箸慮悗蠅性瓠帖弔噺世┐覆い販泙阿猊弸覆凌瓦亡鵑蠹困ぁ▲離△發泙震椶�腫れるまでおいおいと泣いた。
ノアは父親の顔を知らない。母親は女でいることを選び、恋路に邪魔になるからと簡単にノアを捨てた。愛を知らずに生きてきたノアにとって、死んでもなお、両親にここまで愛されるファランを羨ましく思った。
同時に、思い出話を聞けば聞くほどファランに親近感を覚えたノアが、
――わたしの本当のお姉様だったらよかったのに……。
そんな思慕の情を見せ始めると、その姿に絆されたのか、夫妻もまた変化を見せた。
男爵は誰にも寄りつかせなかった畑で、ノアと一緒にたくさんの野菜を収穫し、夫人はそれらをノアに食べさせたいと、趣味だったという料理をするようになった。
ふたりが笑みを見せ始め、メイドから涙ながらに感謝をされたある日――。
――ノア。記憶も戻らず、行く当てもないのなら、私たちの養女になってずっとここにいないか?
――あなたを、本当の娘にしたいの。
温かな家族と愛が欲しい――子どもの頃から、どれだけ願ってきたことだろう。
いいのだろうか。たとえ夢でも……理想を絵に描いたような、こんなに素敵な両親を持つことは。
ノアは感動に涙してその申し出を受けると、できるだけ長くこの夢にいようと思った。
煌びやかさはない質素な貴族生活だけれど、愛と優しさに溢れている。
笑い声が絶えない幸せな時間をまったりと暮らすのは最高で、あっという間に一ヶ月が過ぎ去ったが、夢が終焉を迎える気配はまるでなかった。
平穏な日々に嵐が訪れたのは、森に来る数時間前のこと。
突然王宮から使いが来たのだ。
拉致同然で城に連れて行かれたノアだったが、通された謁見の間にやってきたのは――くるくるとした金の巻き毛が可愛い、ドレス姿の幼女だった。
五、六歳ぐらいだろうか。
幼女はノアの正面でつま先立ちをして、つぶらな瞳でじっとノアを見上げると、
「すーたん」
ノアを指さして、にっこりと笑って言った。
(す、すーたんってなに?)
反応に困っていると、今度は鎧に着られているような痩せた男が走ってやってきた。
「この部屋には勝手に入ってはならぬと、陛下に言われたではありませぬか!」
「きゃああああ、おじたんに見つかっちゃった」
幼女は喜びの声を上げて走り去り、それを鎧の男がよろよろと追いかける。
突然やって来た嵐は瞬く間に消えてなくなり、しんと静まり返った。
(よくわからないけど……彼らに呼び出されたわけではないことはわかるわ)
しかし、どこかで見たことがあるような幼女と男だと思っていると、国王ウィリアムが現れた。
「突然呼び出して悪かったな」
「とんでもございません」
腰を落として深く頭を垂らすノアに、彼は言った。
「――覚えているか? 七年前、我が国の英雄とともに魔王を倒したことを」
英雄が国を平定した話は夫妻から聞いた。それはオーディニアの民なら誰でも知っている逸話のはずだが、�牾个┐討い襪��瓩箸いι集修法¬�な引っかかりを感じた。
(それだとまるで、わたしも英雄と一緒に魔王を倒したかのよう。そんな事実などないのはわかっているはずなのに、なんでそんなことを……)
あれこれ考えて返事ができなかった彼女に、随分と親しげに声をかけられる。
「ノア。私だよ、ウィルだ。七年前、ブラッドとともに魔王を倒した剣士の」
ブラッドという名前とともに、ウィル――その愛称を持つ剣士には心当たりがあった。
「大聖女のサラ、盾役のガロン、魔道士のアメリ。そしてノアとブラッドと私の六人で、魔王討伐のパーティを組んで旅をしたじゃないか」
そのすべてに記憶がある。ただしそれはノア自身が冒険をしたわけではない。
ノアが大学時代に夢中になってクリアした、RPGゲームでのことだ。
オンラインで繋がった仲間たちとアバターを介して文字で会話し、ラスボスの魔王を倒してエンディングを迎えることができた王道ファンタジーゲームだった。
その仲間のひとりが剣士ウィルであり、七年後の彼が目の前にいる国王だというが。
ゲームでは波打つ金髪を束ね、耽美的な雰囲気がある美青年の設定だったウィル。
剣技では赤薔薇の花弁が舞うエフェクトがかかる、自他ともに認める凄腕の美剣士だったはずだ。
(本物のウィルならきっと……)
大輪の赤薔薇がよく似合う、噎せ返るような色香を放つ美形のはずだ。
ノアは顔を上げ――思わず呟いてしまった。
「あの……ウィルはどちらにいますか?」
国王は疲れた顔で笑った。
「私だよ。あれから七年。国王職も色々大変なんだよ」
輝く頭皮にある、申し訳程度の金の巻き毛。
格調高い服が今にもはちきれそうな、ふくよかすぎる体格。
それとは対照的に、その頬はげっそりと痩けている。
……威厳よりもコメディ色と疲労の色を強く感じる、そんな男性はいるけれど。
(これがウィルなの……?)
そもそもなぜ剣士が国王をしているのか理解に苦しむが、理不尽さこそが夢である証拠。
自分はプレイヤーであってアバターそのものではないとか、色々と言いたいことはあるけれど、
「王子だったなんて初耳だけど、久しぶり……ウィル」
髪色が変わっていた時点で、これはゲームの記憶がねじ込んだ夢だったと、割り切るしかない。
ここは、ゲームクリアしてから七年後のウィルが統治している世界……という設定のようだ。
「積もる話は後にして、まずは城に呼んだ理由を話そう。ブラッドを覚えているな?」
英雄ブラッド――それはゲームの主役であり、ノアが属したパーティのリーダーだ。
ドラゴンを相棒にした魔剣士であり、聖と魔の両方の力を使える、正義感溢れる若者だった。
(ブラッドはパーティーに誘ってくれたわたしの恩人! 彼が親切だったからわたし、最後まで冒険を楽しんで終われたんだわ)
金髪に碧眼という爽やかな正統派イケメンで、誰からも愛される人気の英雄だった。
「ええ、覚えているわ」
ウィルはその答えに満足げに頷くと、急に険しさを見せた顔をして、低めた声で言った。
「今、ブラッドは、ここから西南にある魔の森に棲み、ずっと引きこもった生活をしている。彼を王宮に連れてきてほしいんだ。私たちが赴いても、使いを出しても、私たちを拒むブラッドの力に弾かれ、行き着かない。だけどノアならきっと、ブラッドは受け入れると思う」
かつての仲間に会いたくないなど、なにがあったのだろうか。
「七年前に封印したはずの魔王に復活の兆しがあり、彼にまた英雄として動いてもらいたいんだ」
ウィルが告げたのは、不穏な事態だった。
「これまではサラの……大聖女の力があったからなんとかなっていたが、ちょっと問題が起きてね。そこに今夜からの忌み期だ。赤い月が魔の力を強め、聖なる力を弱める。この忌み期が、魔王の封印に悪影響を及ぼすような気がして、ブラッドの知恵と力を借りたい。ノアを見つけ出すのに時間がかかりすぎて、忌み期間際の頼みになってすまないが、至急魔の森へ行ってほしい」
「魔の森ってどこにあるの? わたし土地勘がない上、剣も魔法も使えなくて……」
「勇猛で兵三十人相当の戦闘力がある国一番の駿馬を貸そう。それで森を駆け抜ければあっという間にブラッドの屋敷に着く。赤い月の影響で森の瘴気は一部、魔物化するかもしれないけど、魔王がまだ封じられているのだからそんなことは稀だろうし、馬と最強の英雄がいるんだ。そもそも赤い月が出る夜間を避ければいいんだし、剣も魔法も使えなくても、簡単に終われるお使いだよ」
ウィルの言葉を聞いていたら、本当に簡単に思えた。
「任務に対する対価はきちんと払う。そうだ、五日以内につれてきてくれたら、きみを庇護してくれている男爵家が一生生活に困らないくらいの報奨金を出すのはどうだ?」
それは願ってもみないこと。不出来なノアを養女にして愛してくれる恩を、形にして返したいと思っていたところだった。
「わかったわ。すぐにでも……明るいうちにブラッドを連れてくる」
ノアはふたつ返事だった。
この時のノアは、ウィルが策士でもあったことを完全に忘れていた。
簡単にできる任務がなぜ、一生生活に困らない報奨金に相当するのかまで、考えが回らなかったのだ。
兵三十人分の戦闘力を持ち、国一番だという駿馬を借り受け、速攻で親孝行するはずが、森の入り口で馬に振り落とされて置き去りにされた。勇猛どころか、兵ひとり分の戦闘力も見せぬ間に消えた駿馬は、逃げ足の方が速い駄馬であることを証明しただけだった。
そして今――出現は稀だと言われた魔物、それも二体も現れ挟み撃ちにされている。
どこが簡単に終われるお使いなのか。
これが普通の夢なら襲われても痛みは感じないだろうが、明晰夢では痛覚は鋭敏だ。
生き地獄にならないためには、数年ぶりの強制覚醒をするしかない。
威勢良く目を閉じて現実世界を強く念じ、
「――いざ、覚醒!」
カッと目を開いた……が、状況は変わらない。
「ど、どうして覚醒できないの? 今まではこれで目が覚めていたのに。もう一度!」
何度やっても結果は同じだった。
しばらくぶりの明晰夢のため、コントロールが利かないのだろうか。
それともまさか――。
(本気で�牋枩こε尚椨瓩靴討靴泙辰燭箸�……)
背筋にぞくりとしたものが走る。
もしここが夢でなければ、ゲームのようなやり直しはできない。
終わるのはこの夢か、それともこの命か。
「ここは夢よ……目が覚められないだけの!」
狼狽えたノアは、パキッと音をたてて小枝を踏んでしまった。
それを合図にして、突如獣と男が獰猛な声を上げ、ノア目がけて駆けてくる。
「まさか……同時進行のホラー展開? 怖い。怖い。そんなのいやああああ」
震え上がったノアは、あまりの恐怖に身体が竦んで足が動かなくなってしまった。
獣が四つん這いの体勢で駆けてくる。
背後からの足音も大きくなっている。
「目覚めろ、目覚めろ……あああ! どうして目覚めないの!?」
ノアが癇癪交じりの悲鳴を上げた直後、目の前に迫った獣が二本足で立ち上がった。
ノアが恐怖に腰を抜かした瞬間だ。
背後から大剣が飛んできて、獣の眉間に突き刺さったのは。
それとほぼ同時に、剣が発火して獣を包み込む。
獣は断末魔の叫び声を上げながら業火に焼かれ、煤になって炎とともに消えた。
それはわずか数秒足らず。
目の前にはもう、獣の痕跡は残っていない。焦げた臭いすらしない。
ただ、大きな剣が地に突き刺さっているだけだ。
(なに、なにが起きたの?)
昔のようにまた明晰夢の展開を変えることができたのかとも思ったが、感覚的に違う気がした。
難易度が高い制御ができるなら、とっくに強制覚醒ができているはずだ。
(だとしたら、獣を倒したのは……)
ゆっくりとした足音が聞こえ、ノアはびくっと身体を震わせた。
もうひとつの恐怖の対象を思い出したからだ。
身を捩るようにして、恐る恐る後ろを見てみると、黒ずくめの男が足を止めてノアを見ている。
フードの下の顔は、目が赤く光っているという以外はなにも見えない。
その手からは大剣が消え、赤い炎のようなものが揺らめいている。
(剣と炎で、助けて……くれたとか?)
赤い月を背に、赤く光る目でノアを見下ろす姿は、死神のように不気味この上ない。
殺伐としすぎて人間味もないし、ありがたい気分にならないのだ。
ふと、ノアは思った。
(もしかして……非力なわたしなど眼中になく、圧倒的な力を持つ獣と男が、勝負をしようとしていたのでは……)
男から痛いくらいの強い視線を感じる。
それは勝手に勝負に割り込んできたノアへの怒りなのか。
(まさか……これから残虐な本編の上演、とか言わないわよね?)
男が獣を倒したからといって、ノアに無害だとは限らない。
ノアが、次の獲物にロックオンされたかもしれないのだ。
弱すぎる獲物で楽しむために、なぶり殺しにされる可能性だってある。
(ど、どうしよう……。全然危機は去っていないじゃない。でも……獣ではないんだし、縄張りを荒らしに来たわけではないということを訴えたら、わかってくれるかも……)
ノアは勇気を振り絞って男に言った。
「あ、あの……わたしは怪しい者ではありません!」
単刀直入に切り出したが、男からは反応がない。
「ひ、人を探しているんです。ブラッドさんという人を!」
すると男がびくっと身体を震わせた。
「ご、ご存じでしたら、お屋敷の方向を指さしていただければ……ひっ」
短い悲鳴とともに言葉を切ったのは、相手のオーラがぶわっと広がったからだ。
それが動揺なのか怒りなのか、ノアの眼力では見定めることはできない。
わかるのは……男は言葉を理解していること、ノアが口下手だということだ。
(考えてみれば、魔物にとってブラッドは天敵よね。わたしわざわざ……地雷を踏んでしまったとか?)
その可能性を強く感じて、ノアは青ざめた。
「あ、自力でなんとかしますので。今すぐ退散します!」
失敗に終わった時には、相手に考える暇を与えず、すぐに逃げた方がいい。
だが逃げるよりも早く、男が質問をしてきた。
「なぜ探している」
ひどく警戒しているような、低い声だった。
(害意などないという、誠意を見せるのよ)
「国王……陛下に言われまして」
「ウィルに?」
(国王を愛称で呼ぶ魔物なんている? もしかして彼は……)
ノアの中に芽生えた疑惑。それが正しいかどうか、ノアは恐る恐る確かめた。
「あの……もしかしてブラッドさん……だったりします?」
男は無言のまま、ゆっくりとノアに歩み寄ってくる。
(こっちに来る前に、そうなのか違うのか返事をしてよ)
全身で感じるのは、びりびりとした威圧感だ。
(ブラッドなの? 違うの? どっちなの!?)
「お前の名は?」
「……ノア」
その瞬間、男は顔を覆っているフードを取った。
ノアの視界の中に、燦々とした陽光の如き煌めきを放つ、長い金髪が広がった。
その顔は魔物のような醜いものではない。
ノアが思わず息を飲むくらい、彫刻のように美しく整った人間の男の顔だった。
彼の放つオーラが闇色から光色へと変わり、神々しさを強めていく。
「ノア!」
感極まったような声で名を呼ばれ、ノアは痛いくらい強く抱きしめられた。
「俺だ。ブラッド=ハーラントだ。もっと顔を見せてくれ」
ブラッドは、ノアの頬を両手で挟んで覗き込んでくる。
「ああ、ノアだ」
その瞳からは妖しい赤色が消え、湖のように澄んだ蒼色が広がっている。
名乗ったのは自分だが、それでなぜウィルのように納得してしまえるのだろう。
同じなのは髪色だけで、まったく違うではないか。
(夢とはいえ、解せぬ……)
あれだけノアの恐怖を煽り立てていたのに、今のブラッドには魔物じみた要素はなかった。
まるで神々しい存在に浄化されたかのようだ。
(これが神に選ばれた英雄ブラッド……の七年後のリアルなの? 血気盛んな爽やかな若者というより、憂いを帯びた大人の男性という感じ)
まじまじと見つめてしまうノアに、ブラッドは切なげに目を細めて言った。
「お前が突然姿を消した七年前、俺から光が消えた。何度お前の名を呼び、この地を駆け回っただろう。神にお前を俺の元に返してくれるように祈っては、お前のいない日々に絶望していたよ」
熱く語る声は、やるせなさに震えていた。
まるで熱愛する恋人に向けての言葉のようにも聞こえるが、ノアのアバターを知っているのだから、仲間への友情としての最上級の言葉だろう。
「ノア。魔王を封印した七年前、城への凱旋中になぜ突然いなくなった? 今までどこにいた?」
(城への凱旋中……? 突然いなくなった?)
心当たりのないことを質問され、ふと思い出したのは、凱旋の場面でエンドロールが出たため、クリアしたゲームを終わらせアンインストールしたこと。
その数日後、ゲームそのものがサービス終了となり、ノアの記憶からも消え去っていた。
(もしかしてそのために、ブラッドは七年間も探し回る羽目になっていたの?)
「……ああ、会えたのだから昔のことなんていい。その髪色も愛らしい顔もそのままなのは、俺に見つけてもらいたかったからか? 今度こそ身も心も結ばれるために令嬢姿に転生し、こんな危険な森に飛び込んで、俺に会いに来てくれたのだな。なんて健気で可愛いんだ。それだけで俺の七年の苦労は報われる!」
感極まった声に、思わず貰い泣きしそうな心地になる。
ああ、思い込みと勘違いって素晴らしい。事実がねじ曲がってこんなにも美談になるとは。
ここまで曲がっていれば、どこから矯正すべきなのかがまったくわからない。
よかったねと、微笑ましくすら思えてくるから不思議だ。
「ああ、ノア……!」
微笑みの意味を勘違いしたブラッドに、ノアは突如引き寄せられて唇を奪われた。
「んんんっ!?」
(キ、キス!?)
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