【10月30日発売】屋根裏暮らしの令嬢ですが、このたび孤高の元帥公爵の溺愛妻になりまして【本体1300円+税】

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●著:奏多
●イラスト:木ノ下きの
●発売元:三交社
●発行元:メディアソフト
●ISBN:978-4815543990
●発売日:2026/10/30


お金のために継母と義姉に売られそうになったところを元帥公爵に助けられ!?


伯爵令嬢ソフィアは義母や義姉に虐げられつつも、薬師の能力を生かし店を持つ夢を追っていた。だが貯めていた開業資金まで奪われ、その身も売られかけた瞬間、元帥公爵シルヴァンが現れる。
「きみを必要としている。俺と来い」
彼は以前、命を救ってくれたソフィアに恋焦がれ探していたのだ。
公爵邸で薬具の能力を活かしお屋敷を改革していく彼女にシルヴァンは翻弄されつつ独占欲を募らせて!?






プロローグ



肥沃な土地に恵まれた、エルドリア王国の北方――。
草木が生い茂る森に囲まれた辺境地に、ローレンス伯爵家はあった。
領主であるローレンス伯が亡くなって半年経つその日、シャンデリアが吊り下げられたエントランスに、驚きの声が上がった。
「――今、なんて仰いましたか、お義母様」
ひとつに束ねた、波打つような長い蜂蜜色の髪。
澄んだ宝石のような青緑色の瞳は数度瞬きをした後、大きく見開いたままだ。
可憐で清楚な顔立ちをした彼女――ソフィア・ローレンスは、半年前になくなったローレンス伯のひとり娘だが、着ている深緑色のドレスはほつれてみすぼらしいもので、草の汁が染み込んだ白いエプロンをつけている。
彼女は薬草が入った籠を抱えており、たった今、森から戻ってきたばかりだった。
「頭の悪い子ね。嫁ぎなさいと言ったの、今すぐ」
そう答えたのは、黒髪を結い上げた……領主代理の未亡人ミレーヌである。
円熟した美貌を持つ、華やかな女性だ。
肉感的な身体の線を強調させた、高級なサテン地で仕立てられた豪華なドレスを着ている彼女は、半年前になくなった父の後妻であり、ソフィアの継母になる。
(嫁ぐって、嫁に行けっていうことよね。なんで今、突然?)
状況が理解できないのは、頭が悪いせいなのだろうか。義母が言うとおりに。
伯爵令嬢として生まれた以上、いつか嫁ぐことは覚悟をしていたが、突然の宣告に素直に応じる気にはなれない。
「嫁ぐとしても、どちらに?」
「ガーラント男爵よ」
ソフィアは、その男爵がどんな人物かはわからなかったが、いい縁談ではなさそうなことは直感でわかった。
そんな時、笑い声が聞こえ、ミレーヌの連れ子でソフィアとひとつ違いの義姉、イザベラが現れた。
母親譲りの妖艶な華やかさを持つが、つり上がり気味の猫目が、少しきつい印象を与える。
艶やかな黒髪が自慢の彼女は、激しい気性を表しているような真紅色のドレスを着ている。
(……お義母様も、お義姉様も……また新しいドレス。またお金を使ったの?)
ソフィアは青緑色の目をわずかに細めた。
「愚鈍な義妹に、このお義姉様が教えてあげるわ。ガーラント男爵は下位貴族でご年配だけど、ありあまるくらいのお金があるの」
そして意気揚々と、こう続けた。
「少しだけ額が広めで後頭部まで風通りが良く、少しだけお腹に幸せを蓄え込まれていて、少しだけカエルに似た顔をなさっているようだから、親しみやすいと思うわ。息をお吐きになるたび、そして汗を拭われるたびに、王都の下水道を凝縮したような豊かな芳香が漂うのだとか。少しだけ特殊な性癖があるらしいけれど、それもまたスパイスになるし、素敵でしょう?」
(お義姉様の目から見ても、お金だけしか取り柄のない最悪男ということね)
いいところがあれば、イザベラ自らが喜んで金持ち貴族に嫁いでいることだろう。
 蔑んだような笑いを見せるイザベラに、ミレーヌも冷ややかに同調する。
「そうよ、ソフィア。しみったれたお前なんかにこんな縁談がくるなんて、奇跡のような話。行き遅れのこんなみすぼらしい娘でも、嫁げば借金の肩代わ……いいえ、困窮を助けてくださるの。親孝行、姉孝行できるのよ」
興奮に上気した顔で得意気に語る義母に、どう突っ込んでいいのかわからない。
(行き遅れって……否定はしないけれど、わたしより年上で未婚のお義姉様はどうなのかしら。まあ、そんなことより……)
ソフィアは冷めた心地で、ミレーヌが言いかけて訂正したことについて尋ねた。
「お父様亡き後、困窮していたことが判明したこの伯爵家は、この半年、薬療院のおかげで立て直せています。お義母様が言いかけられた、�犲擽發慮�代わり�瓩鮹房澆傍瓩瓩燭里蓮△錣燭靴涼里蕕覆ぜ擽發�あったということですか?」
ふたりはぎくりとした顔をする。
「そういえば最近、頻繁にドレスもアクセサリーも新しいものを身につけていましたよね?」
するとふたりは、弁解を始めた。
「や、夜会用よ。薬療院を貴族に宣伝するために必要な経費の一環よ」
「お母様の言う通りよ! わ、私だって接客で『薬療院の聖女』と呼ばれて、遠方遙々私に会いに来る人もいるんだから、身だしなみには気をつけてないといけないの! 葉っぱ遊びが趣味で、薬もどきを作って引きこもっている、あんたと違って!」
(話にならない……)
「な、なによその目! それなら言うけど……あんたが屋根裏部屋に隠していたあのへそくりをさっさと出してくれていたら、他から借金をしないですんだのよ」
「へそくりって……」
「壷に入れていたお金よ」
ソフィアが青ざめる。
それは決して強欲なこのふたりに知られてはいけないものだった。
「まさか、あのお金……!」
すると勝ち誇ったかのようにしてイザベラが言った。
「さっき、お母様のドレスを作ってきたの。お母様のお誕生日の贈り物として。親孝行をするのが、子どもとして当然の使い道じゃないかしら」
「自分で使えばいいのに。なんて思いやりのある子なのかしら……」
ミレーヌが、得意顔のイザベラを抱き締めている。
(冗談じゃない。わたしが、どんな思いをして貯めてきたお金だと思っているの)
籠を持つソフィアの手が、怒りに震える。
「あと少しで……出店料が貯まったのに」
お金にがめついふたりに知られぬよう、本当にこつこつとため続けていた金だった。
ソフィアの呟きを耳聡く聞きつけ、イザベラが馬鹿にする。
「出店? 下働きしか能がないあんたが店を持とうとしていたの? 雑草店でも?」
イザベラは嘲笑いながら、草が山に積まれた籠に目を向ける。
「これらは雑草ではない。薬草よ!」
亡き母が植えて育てていた、貴重な薬草なのだ。
「薬草かどうかなんて、薬師でもないあんたにわかるわけないじゃない。それとも薬療院で薬もどきを作って、薬療院が評判になったからといって、薬師にでもなった気分でいたの? わかってる? 薬師って、薬草の知識も調薬のスキルも魔力も必要なのよ。生まれつき優秀な、選ばれた人間しかなれないの。地味で平凡なあんたのどこに、薬師の能力が?」
イザベラは悪意ある笑いを見せる。
「薬療院が評判になったのは、あんたの調薬効果ではなく、『薬療院の聖女』と呼ばれる、優秀な私が作った薬だから間違いないと皆が信じて、治ったような気がしていただけよ。薬師の能力もない、ただの雑草好きの葉っぱマニアが作った薬なんて効果ないでしょう。草まみれになりたくないから葉っぱ好きのあんたを調薬係にしてあげただけなのに、調子に乗って自惚れないでくれる?」
「……っ」
――ソフィア、あなたをひとり残してしまう、愚かな母を許して。
不意に、亡き母の声が蘇った。
――あなたにはお母様が教えた薬草の知識がある。調薬の腕がある。そして……あなたにしかない、特殊な錬成能力がある。
(お母様……)
十年前、メイドだったミレーヌとその連れ子のイザベラが、主人である父を唆し、ソフィアたち母子を屋根裏部屋に追いやった。
屋根裏部屋の寒さとベッドの硬さが祟って母が亡くなると、ミレーヌは後妻となり、イザベラが唯一の伯爵令嬢のように扱われ、ソフィアは屋根裏部屋の灰かぶりとして、下働きを強いられてきた。父の助けは�狃擦泙い猟鷆´甍奮旭貔擇覆�、ソフィアは父への愛を捨てた。
父は半年前に亡くなったが、品性も情も財産も失っていた。
ミレーヌたちの浪費癖のために伯爵家は困窮し、破産寸前だったのだ。
――この領地には雑草が腐るほどあるんだから、元手がかからない葉っぱを薬にして売るのはどう? 領地の西方にある古ぼけた小屋を改修して、治療薬の店を開くのよ。ソフィアは�狒陲爐靴蠅�趣味の葉っぱマニア�瓩覆鵑世�ら、煎じ薬くらい作れるでしょう?
伯爵家という権威を失いたくないイザベラの提案で、薬療院と名付けた店で薬を作った。伯爵家の立て直しに協力していたのは、自分の店を持つという夢を実現する近道になると思ったからだ。
調薬の腕を磨き、薬の体験者からの感想を聞けることは貴重だ。
店を持つには、商人ギルドに登録料代わりに出店料を前払いする必要があった。
その金を確保するために、隣町に赴いて貴重な薬草を売ったり、こっそりと試作していた未来の商品を売ったりしていた。これからは、薬に必要な薬草摘みという口実で家を空けられる。
この家を出て早く自立したい――そのために出店準備をすすめてきたのだ。
それがまもなく実現するというところで、勝手に金を使われてしまったとは。
今までどんなに理不尽な目に遭っても、必ず夢を実現してやるんだとの強い意志で乗り切った。
しかし今、夢を叶えるために、また一からやり直そうという前向きな気分になれなかった。
夢に手が届く一歩手前で、希望が打ち砕かれたのは、あまりにもショックすぎたのだ。
――ソフィア、自分の力を信じて、強く生きなさい。
――どんな時も笑顔でいて。笑顔はあなたを幸せにしてくれるから。
(お母様。わたし……笑えません。泣いてしまいそうです)
ソフィアは胸にぶら下げていた、彼女の瞳と同じ青緑色の石を下げたペンダントを握りしめ、必死に涙を堪える。その石は母が大事にしていた形見だった。
絶望感に浸っている中で、屋敷の外から漏れ聞こえる音が大きくなった。
悲嘆に暮れるソフィアの気持ちを推し量れないイザベラが、興奮した声を出した。
「あれは馬の音ね、かなりの数のようだわ。男爵様がご自慢の悪趣味な……いいえ、とても趣味のよい�爐�ぼちゃの形をした金の馬車�瓩之泙┐砲�たのよ。思ったより早かったわね、お母様」
「大所帯で迎えに来るっていうことは、大歓迎をしているということよ。ふふ、よかったわねぇ、ソフィア。これからは奴れ……いえ男爵夫人として、私やイザベラにたっぷりと仕送りするのよ。子どもの務めとして」
薬療院が評判になって、伯爵家の財政が立ち直ってきたから、またふたりの浪費癖が再発したのだろう。しかし思った以上に借金が膨らんでしまい、返済の肩代わりを男爵に頼んだのだ。
ソフィアはふたりの浪費の対価に男爵に奴隷として売られ、ふたりはソフィアを担保に、自由になるお金をさらにこれからも引き出すつもりだ。
(わたしは……わたしが生まれた意味は、なに……?)
「さあ、扉を開けて、男爵様を歓迎するのよ!」
興奮した声を出したミレーヌとイザベラが、外界とを繋ぐ重厚な木製の扉の前に立つと、軋んだ音をたてて扉を左右に開いた。
落ちかけた夕陽の赤い光が一気にエントランスへ射し込む中、聞こえていた馬蹄の響きが大地を震わせるほど大きくなった。
馬に乗り、丘の道を埋め尽くしてやってくるのは百名を超える、王軍の兵士たち。
深紅の大きな旗が、風に激しくはためいていた。
(な、なにごと……!?)
そんな物々しい光景を見ることになろうなど、誰もが予想していなかった。
先頭の漆黒の軍馬は、他の馬よりも一回り大きく、まるで魔獣のように堂々と歩を進めている。
その上に跨るのは、銀灰色に艶めく髪を持つ大柄な男だ。
白い軍服に金銀の煌びやかな飾り緒や、軍功を示す勲章をつけ、真紅のマントを翻している。
その顔はまだ見えないが、遠目でも凄まじい威圧感を放っていることがわかる。
(お金だけしか取り柄のない最悪な男爵様……ではないわよね)
――少しだけ額が広めで後頭部まで風通りが良く、少しだけお腹に幸せを蓄え込まれていて、少しだけカエルに似た顔をなさっているようだから、親しみやすいと思うわ。
この距離からでも、別人であることは明白だ。
(だったら……やって来たのは誰?)
次第に、先頭の旗の模様がはっきりと見えてくる。
中央にあるのは銀糸で刺繍された、牙を剥いた狼。
その頭上には王冠が輝き、その胸には公爵位を示す黄金の紋章が描かれていた。
王冠は、王族であることの証。
そんな旗を持つことが許されているのは、この王国で知らぬ者などいない――「獰猛な銀狼」の異名を持つ元帥公爵のみ。
「あの旗……黒仮面のネージュヴァルト公……?」
「ここを戦場と間違えているとか……? でも鎧は着ていないし、あれは元帥閣下の正装よね……」
ありえない人物の登場に、ミレーヌとイザベラは互いに顔を見合わせ絶句した。
シルヴァン・ネージュヴァルト公爵――。
ソフィアも知る、他国の侵略から自国を幾度も守り抜いた無敵の王軍元帥だ。
敵に対しては冷酷無比であり、その威圧感だけで敵の馬は怯えて、乗っていた兵を振り落として逃げてしまうほどだと聞いている。
歳はソフィアと十は離れていないはずだ。
彼の父が王弟のため、現王太子の従兄になる。
幼い頃から頭脳明晰で剣術にも長けていたと聞くが、ある戦で顔に深手を負い、醜い傷が大きく残ったらしい。あまりに惨い傷が彼の美貌を損なわせたことで周囲から厭われ、彼はそれから十数年、黒い仮面をつけ続けて人と距離を置いている。が、戦争になれば王と国と民を守るべく、どこにいても駿馬に乗って戦場に駆けつけ、戦の先頭に立つと言われている。
(敵味方関係なく、黒仮面姿がまるで死神のようで不気味だと、恐れられていた方よね。それがどうして軍を率いて、伯爵家に?)
ソフィアは思わず継母たちを見た。
彼女たちが大きな犯罪に手を出して、元帥自らが逮捕をしに来たのだろうか。
エントランスまであと数十歩というところで馬が足を止めると、これからどうなるんだろうという切迫した恐怖と混乱にソフィアの視界がぼやけて揺れる。
(黒仮面がないように思えるのは、元帥閣下だと思いたくないからかも。うう……このまま知らないふりをして、屋根裏部屋に引っ込んでいてもいいかしら。今なら……)
そんなことを思っていた時だ。
先頭の馬上から、深みのある声が響いた。
「俺は王軍の元帥、シルヴァン・ネージュヴァルト。ソフィア・ローレンスはいるか」
(わ、わたし!?)
名指しされては、もう逃げられない。
ソフィアの心臓がけたたましく鳴り響いて、身体が震えた。
ときめきとはほど遠い、底冷えするような純粋な戦慄によるものだ。
(わからないけど……堂々としていよう。悪いことはなにもしていないのだから)
「ソフィアはわたしです」
気丈な声を出したつもりが、不安と緊張に大きく震えてしまった。
力が抜けそうになる足を必死に動かし、固まったままの義母と義姉の横を通り抜けると、大きな軍馬の前に立つ。
そしてドレスの裾を摘まんで深々と頭を下げ、この場ではおよそ似つかわしくない……優雅で上品な貴族令嬢の挨拶をしてみせた。
「……ソフィアか?」
向けられたのは、低くて深い声だった。そこから感情は読み取れない。
「さ、さようでございます、元帥閣下」
すると馬から降りた音がした。
「顔を上げてくれ」
その声音が意外に優しく思えて、躊躇いながらもソフィアは顔を上げ、元帥公爵と目を合わせた。
野生動物のような鋭さがある、琥珀色の瞳。
心の底まで見透かされ捕食されそうな危機感を覚えながらも、力強さの影にどこか寂しさを感じて、吸い込まれそうになる。
(お顔に仮面が……ない……)
ソフィアの目の前にいるのは、傷ひとつない滑らかな肌をした美貌の男だ。
野性味に溢れて精悍で、恐ろしく整った顔立ちをしていた。
それがどこか記憶の欠片に引っかかる気がしたが、すぐに気のせいだと思い直す。
雲上人である彼とは初対面なのに、思い出などあるはずがない。
(本当に彼が、醜い傷を隠すために黒仮面をかぶっているという元帥公爵?)
なりすましかとも思ったが、身分を告げる旗を堂々と掲げているのだから、本人なのだろう。
偽者が勝手に王族の旗を掲げて王軍を率いれば、極刑は免れないことを知らぬはずがない。
そもそも王軍が、偽元帥には従わないだろう。
(王軍自体も偽者とか……それだったらあまりに大胆不敵な演芸集団だろうけれど、命をかけてこんな田舎にまで来て、みすぼらしい令嬢相手になにをしたいのか、さっぱりわからない)
色々と考えているソフィアを、元帥を名乗る男はまじまじと見つめてくる。
そして感嘆の声を出した。
「ああ、間違いなく……きみだ」
琥珀色の目が細められ、彼の唇が嬉しそうに弧を描く。
噂とはまるで違う優しげな微笑みを見て、ソフィアの胸が高鳴った。
それは最初のような恐怖で発したものではなかった。
幾多もの屍を見つめ続けてきただろう冷ややかな瞳に、焦がれるような情熱を見たからだ。
(初対面なのに、どうしてそんな懐かしそうな目を……?)
謎めく男の魅惑的な瞳に、つい惹き込まれてしまい……反応が遅れてしまった。
「このシルヴァン・ネージュヴァルト。ローレンス伯爵のご息女、ソフィア・ローレンス嬢に正式な求婚をし、貰い受ける」
ソフィアの前で片膝をつき、片胸に拳を置いて軍人としての忠誠を捧げる元帥シルヴァンに、突如求婚を受けて、ソフィアは震え上がった。
(い、今……なにが起こっているの? わたし……どんな立場なの?)
頭の中でぐるぐると言葉は回るが、身体も喉も動かない。
ただ、とんでもないことが目の前で起こったことだけはわかる。
「お……恐れながら、ネージュヴァルト公」
最初に声を出したのは、ミレーヌだった。
「ソフィアは嫁ぎ先が決まっておりまして、まもなく迎えが……」
ミレーヌが焦りながらも恭しく頭を下げながら言った。
「ガーラント男爵なら、求婚を辞退なされるようだが?」
シルヴァンが促した丘の上には、逃げ帰る馬車があった。
八頭の白馬が引く、遠目でもピカピカと光る金のかぼちゃだ。
(本当に、金のかぼちゃ馬車で来たんだ……。悪趣味……)
しかし辞退されて困るのは、継母たちのようだった。
「辞退だなんて! ソフィアを担保にたくさんドレスを買ったのに、どうやって返済すれば……」
あくまで自分のことしか、頭にない。
「すべてうまくいくはずだったのに、どうしてこんな目に!」
悲鳴のような声を上げてよろめいたミレーヌを、イザベラが慌てて支えながら耳打ちする。
するとミレーヌの顔が途端に輝き、シルヴァンに媚びたような甘えた声をかけた。
「ねぇ、ネージュヴァルト公……。どうしてもソフィアが欲しいと仰るなら、お願いが……。これから家族になるのでしたら、皆で不安要因を解決した方がいいと思いませんこと?」
今度は、初対面のシルヴァンに肩代わりを押しつける気らしい。
(会ったばかりの、しかも元帥公爵様に、なんという厚かましいことを……)
ソフィアは恥ずかしくなり、継母を止めようとしたが、その前にはもうシルヴァンはミレーヌの意図を察していたらしい。
言葉を発するのも厭わしいとでも言うように、シルヴァンがぎろりと睨みつけて威嚇すると、ミレーヌとイザベラはそれ以上は口を開かず、血の気を引かせた顔で萎縮した。
そしてシルヴァンは立ち上がると、悲哀と怒りを交ぜた眼差しでソフィアを見つめた。
「このまま、搾取されるつもりか。きみの人生すべてを」
彼はどこまで知っているのか。
(わたしは……)
ソフィアは拳にした手にぐっと力を込めた。
(わたしは……彼女たちの奴隷ではない)
――強く生きなさい。
不意に母の声が耳に響いた。
――希望を忘れないで。
「俺は、きみを必要としている」
――人生を決めるのは他の誰でもない。ソフィアよ。
「俺と来い」
シルヴァンの手が差し伸べられた。
(わたしも……行きたい)
シルヴァンの強い求めに、ソフィアの心が揺り動く。
抜け出したい。絶望しかないこの家から。
人々から畏怖されるシルヴァンが、どんな理由で自分を求めているのかわからない。
しかし彼に感じていた恐怖や不安が今、なぜか力強い安心感に変わっているのは確かだ。
この先、何が待ち受けているかわからないが、勇気を持って踏み出してみよう。
「元帥閣下に……ついていきます。ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
ついていこう、この方に。
覚悟を決めて、ソフィアは差し出された手を取った。
「よし……!」
シルヴァンの表情が緩み、極上の甘やかな笑みを向けられた。
(なんなの……この笑みは。別人のよう……)
胸の奥が射抜かれたかのような息苦しさと、全身が痺れるような陶酔感に胸がいっぱいになる。
初めての感情の波に戸惑うソフィアは、そのまま手をぐっと引かれ、シルヴァンのマントにくるまれるようにして、彼の腕の中に引き寄せられた。
「それでは……ソフィアを貰い受ける」
凛とした声で宣言された直後、ソフィアはシルヴァンに抱かれたまま、軽々と馬上に乗せられた。
ソフィアの背に逞しい胸板がぴたりと密着し、シルヴァンの左腕が彼女の胴を力強く抱き締める。
その密着具合に思わず身じろぎをしたソフィアだったが、耳元に熱っぽい声で囁かれた。
「動くな、振り落とされるぞ。……俺の腕の中にいろ」
魅惑的な声にぞくっとしたソフィアが素直におとなしくすると、ふっと笑ったシルヴァンは右手で手綱を握り、短いかけ声とともに軽く踵を入れる。
黒い軍馬が力強く嘶いて方向を転換し、勢いよく駆け出した。
ソフィアを蝕み続けた伯爵家から背を向けて。
(さようなら、わたしの……生まれ育った家)
幸せだった頃の父と母と三人の日々の思い出が胸に過る。
しかし感傷に痛む彼女の胸には、後悔や不安以上に、これからの期待に満ちていた。
連れ出したのは初めて会った男だというのに、この人の下なら大丈夫だという不思議な信頼感があったのだ――。



第一章



細い山道を、カタカタと揺れながら箱乗り馬車が走っている。
中で向かい合わせに座っているのは、ふたりの男女。
今し方、軍馬から待機中の馬車に乗り換えたばかりのソフィアとシルヴァンだ。
シルヴァンは重々しい飾緒や勲章のついた上着を横に置き、高級シルクの白いブラウスのボタンを数個外し、男らしい首元を見せている。
大柄なシルヴァンがくつろぐにはこの密室は小さいらしく、どこか居心地悪そうだ。
(わたし、とんでもない人についてきてしまったのかもしれない……)
改めてゆっくりと見るシルヴァンは、現実離れをした美しさがあった。
野性味を孕んだ精悍な顔立ちでありながら、彫刻のごとく整った気品ある美貌は、触れがたいほどに神々しい。
猛々しい戦場を統べる軍神の冷徹さと、王家の血がもたらす高貴さ――それが見事に調和されれば、ここまで目映いものになるのか。さらにブラウスから覗く素肌が、男の色気を強めていた。
獰猛なケダモノだの死神だの、不吉で不穏な異名ばかり聞いていたが、今思えばそれは彼の顔を隠す仮面のイメージが勝手にひとり歩きしたからであって、シルヴァンの資質とはまったく違うと断言できる。
初めは威圧感に圧倒されたが、こうして相対している今、恐怖は感じない。
どこで自分を知り、なぜ迎えに来たのか、なにを求めているのか……聞きたいことは山ほどあるが、その前に――彼を見ていると実に興味深く、つい質問を忘れて観察してしまう。
シルヴァンが時折、不自然な咳払いをしたり、カーテンがついた窓の奥を覗いたりするのは、沈黙に耐えかねてのことらしい。なにを話したらいいのか話題に困っているようなのである。
彼は根っからの軍人で、社交的な場が不得意なのかもしれない。
狭い車内で彼の足がぴくりとも動かないのは、馬車の振動で彼の足がソフィアにぶつからないように気を配っているからのようだ。わずかに触れるだけで、彼の緊張が伝わってくる。軍馬の上ではあれだけ密着していたのに、だ。
大体、身分も立場も格上なのだから、こんな小娘など雑に扱ってもいいはずなのに、彼はソフィアと同じ目線で接しようとしてくれていることがわかった。
しかしそうした応対が慣れていないから、どうすればいいのかわからず戸惑っている――そんな風に見受けられたのだ。
ソフィアにとって感謝しかない恩人で、しかも元帥の公爵に、可愛いという感想を持つのは失礼なことだろうが、シルヴァンの外見とちょっとした仕草の乖離が、彼の人間らしさを引き立てているようで、妙に親近感を覚えて安心してしまう。
ただ、だからといって格上の恩人に、気軽に会話をできるような心安さはまだない。
しかしこのままでいるのも居心地悪いため、覚悟を決めて口を開く。
「あの……」
「あのな」
シルヴァンと同時だった。
「あ、いや……なんだ?」
「いえいえ、元帥閣下からどうぞ」
互いに譲り合い、相手の出方を探りながらまた沈黙。
(いつまで続くの、妙に緊張するこの空気。この居たたまれなさ……)
そんな静寂を破ったのはシルヴァンだった。
小さなため息をついて前髪を掻き上げると、憂いを帯びた琥珀色の瞳をゆっくりソフィアに向ける。
思わずソフィアは姿勢を正して、真剣な顔でシルヴァンの言葉を待ったが……。
「……雨雲が出て来たな」
後に続く言葉はない。
(え、それだけ?)
その驚きが伝わったのか、シルヴァンはバツが悪そうな顔になる。
「俺は……人と話すことが不得手なんだ。職務ならそれなりの対応ができるが、プライベートで……しかもこんなうら若き令嬢と会話する機会はなくて」
ソフィアを失望させたと思ったのだろう。
不甲斐なさを恥じつつ、同時に彼が抑えていた真情が解き放たれたようだ。
「これなら、口先だけで成り上がった金のかぼちゃ馬車の持ち主の方が流行を知り、会話を弾ませることができるだろうと思うと、無性に悔しくなる。俺に社交術が少しでもあれば、きみを安心させて笑顔にさせることができるのに」
「……まあ、そんなことをお考えに?」
(女性など選り取り見取りでしょうに、遊ばれている方ではないのね……)
姿からは想像できない不器用さと、真摯に捉えすぎる生真面目さ。
それがとても好ましく思ったソフィアの顔に、笑みがこぼれる。
「では僭越ながらわたしから閣下に、わたしを笑顔にする秘訣をご伝授してもよろしいでしょうか?」
「もちろんだ」
シルヴァンが身を乗り出すようにして、真剣に耳を傾けてくる。
「他人が口にしている流行のしゃれたお話など、必要ありません。閣下ご自身のお気持ちを聞かせていただけるだけで、十分です」
「俺の気持ち?」
「ええ。だってほら……閣下が会話に悩まれていたということを打ち明けてくださっただけで、わたしの顔、どうなっていますか?」
ソフィアを見るシルヴァンの目が見開く。
彼はようやくそこで気づいたようだ。
すでにソフィアが、先程までとは違う柔らかな笑みを湛えていることに。
「こんなもので……いいのか」
「はい」
破顔すると、シルヴァンはわずかに照れたように目を泳がせた。強張っていた表情が緩んでいるのを見て、ソフィアもまた安堵する。
ふたりの間にある空気が変わったのを感じ、ソフィアは深々と頭を垂らして礼を述べた。
「このたびは助けていただき、本当にありがとうございました。わたしを……あの家から連れ出してくださったこのご恩は、決して忘れません。ちょうどあの時、夢が叶う一歩手前で壊され、その上に借金のカタに嫁がされそうになっていまして……閣下がいらっしゃらなかったら、わたし……」
思い出すと鼻の奥が熱くなる。それを隠してソフィアが質問をした。
「ただ……なぜ閣下が、王軍とともにいらっしゃったのですか? わたし……初めて閣下とお会いしますよね? もしや亡き両親となにか……」






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